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劇団玉の湯第十三回公演『レイトショウ』@新宿シアターPOO

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2月22日マチネ、新宿シアターPOOで劇団玉の湯第十三回公演『レイトショウ』を観た。




作・演出は武田浩介、照明は三枝淳、宣伝美術は三浦恒夫、舞台監督は石動三六、協力は演激集団INDIGO PLANTS・久保新二。制作は(劇)玉の湯実行委員会。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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昭和52年、ユミという名のストリッパーがひっそり亡くなった。彼女は、数名と飲んだ後一人で劇場に戻ると言って仲間たちと別れた。翌朝、劇場で冷たくなっているユミが発見された。
彼女には、トシアキ(ペロリ:演激集団INDIGO PLANTS)というヒモがいた。トシアキは元々雪国からの出稼ぎだったが、ユミとねんごろになり故郷の妻子を捨てた。ユミは全国を回ったが、いつしか雪国の劇場をコースから外すようになった。
ユミを失ったトシアキは生きる希望すらも失いつつあった。

現在。その日の興行はすべて終わり、静まり返っている劇場。ほとんどの者はすでに帰ったが、まだ残って稽古している踊り子が二人。ベテランのコナカカナコ(齋木亨子)と中堅のサヨ(SATOMI)だ。しばし二人は口を利くこともなく、黙々と自分のペースで動きを確認している。
ところが、些細なやり取りから二人の間に険悪なムードが漂い始める。いまだにサヨは踊っている時の表情が硬く可愛げがないと指摘されて苛立ち、表情豊かに踊るカナコに対して“キラキラばばあ”と悪態をついた。

サヨは、思うように仕事のスケジュールも埋まらず、最近は踊り子としてのモチベーションが下がって来ている。おまけに、売れないミュージシャンの彼氏クラタ(平田浩二:劇団玉の湯)とも喧嘩が絶えず私生活も上手くいっていない。
一方のカナコは、珍しく今日のステージでは何度もとちっていた。それは、客席にかつて同棲していた昔の男の姿があったからだった。男が消息を断って、もう数年が経っていた。カナコは、表情にこそ出さぬが酷く混乱し動揺していた。

揉み合いの末、サヨは手を上げそうになるが、それは思いとどまりカナコを突き飛ばした。すると、何処にいたのか突然男が現れて二人の間に入った。ギョッとする二人を気にすることなく、男は「近頃の若い奴は…」と分かった風に説教を始める。その男は、トシアキだった。
当然の如く、踊り子二人とトシアキの会話は噛み合わない。互いが話す言葉自体、チンプンカンプンなのだ。
ただ、トシアキのぼやきを聞いているうちに、二人はこの男がユミという昔の踊り子のヒモであり、彼女と一緒にかつて全国の劇場を回っていたのだということを理解する。
時代は移ろい全国の劇場が減り続けてはいても、踊り子と男の関係にはさほど変化がないようだ。

「昔は良かった、今のやつらは…」と愚痴るばかりのトシアキに、カナコもサヨも次第に苛立つ。自分たちは自分たちで、身を削って生きているのだ。この男は、過去を美化し自分のことを肯定するばかりだ。そしてその姿は、ある意味自分たちの姿と重なりもした。
そこに、突然別の男が入って来る。ギターを抱えた男は、クラタだった。喧嘩のこともあってサヨはクラタに食ってかかるが、クラタの方は飄々と受け流した。

クラタは、自分と一緒に誰かの出待ちをしている風の男が立っていたと言う。その言葉に、カナコの表情が変わった。間違いなく、それは今日劇場にいた元の恋人だ。
カナコは、昔話を始める。故郷を捨てて東京で男と同棲を始めたカナコは、次第に水商売の仕事にハマって生活も荒れ始めた。荒んだ日々の中、男の方も駄目になって行った。カナコは、あまり感情を外に出さない男に「もう別れる。別れたくなきゃ、これで私のことを刺してみろ」と刃物を出した。男は、逡巡することなくその刃物でカナコを刺した。
メイクで消してはいるが、カナコの体には今でもその時の傷が男の記憶と一緒に刻まれたままだ。

話し終えたカナコをトシアキは屋上に行こうと誘った。二人が出て行くと、残されたサヨとクラタは久しぶりに互いに向き合った。結局のところ、二人は離れることのできぬ似合いのパートナーなのだ。

現代の夜景を見下ろしながら、トシアキは感慨深げだった。カナコは、こんな姿じゃユミさんが悲しがるだろうと諭した。ユミとトシアキは新しい出し物の振付を考えていたが、ユミの突然の死でそれを披露することは叶わなかった。
その話を聞いたカナコは、その踊りを自分にくれないか?と言った。

クラタが、外の様子をうかがって戻って来た。男は、踊るカナコの姿が美しかったことともう彼女の前には現れないことを伝えて欲しいとクラタに言って立ち去ったという。

カナコとトシアキを劇場に残して、サヨとクラタは出て行った。いつしか、雪がちらついていた。

カナコは、ユミが踊るはずだった新作を踊って見せた。バトンは、過去から現在へとしっかり渡された。カナコの踊りを見つつ、トシアキは未来も悪くないと思っていた。
何処か遠くの空から、「わたしはここにいるよ」と語りかけるユミの声が聞こえたような気がした。

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予算の都合もあり、ほとんどセットらしいセットもなく最小限の役者だけで構成された舞台だったが、なかなか悪くない内容だった。
先ず感じたのは、作・演出を担当した武田浩介のストリップに対するとても強い愛情である。それから、昭和という遠くなりし時代への憧憬。
本作は、彼がイメージする「ストリップを巡る男と女の人生模様」とでも言うべきものをストレートにてらいなく、感傷的に描いた物語である。多分にロマンチストなのだろう、武田浩介という人は。

ただ、その思い入れ故に感傷とノスタルジーの比率がやや高過ぎの感があり、全体としてウェットさが前面に出てしまったのは個人的には辛い部分もあった。
前向きな終幕にするのは決して悪くないが、人物造形がある種定型的で“色々あるけど、皆いい人”というまとめ方はちょっと甘いかな…と思う。いささか綺麗ごとのように感じてしまった。

芝居において僕が気になったのは、サヨの喋り方。「~っす」という語尾やそこかしこに挟まれたフレーズが、若いとは言えなくなった世代の人間が“若さ”を意識して書いている(或いは、喋っている)印象が拭えなかった。SATOMIの演技が如何にも科白を言っている感じで、どうにも会話として不自然なのだ。
それから、舞台の見せ場の一つともいえるサヨとカナコの諍い。齋木を突き飛ばすSATOMIの力があまりに弱々しくて、何とも鼻白んだ。相手に対して気を遣い過ぎなのだ。

クラタを演じる平田浩二の喋り方は、硬くて何とも芝居的である。その一方で、演技自体は軽すぎるように思う。
トシアキ役のペロリは独特の存在感を醸していたが、脚本も相俟っていささか演技が情緒的ではなかったか。抑えた芝居は悪くなかったが。

で、やはりこの舞台を締めていたのは主役・カナコを演じた齋木亨子の落ち着いた雰囲気とリアルな語り口、そして時折見せる人生経験豊かな大人の女性の陰りである。彼女の演技が情緒に流れないことで、物語は演歌的過剰さから踏み止まっているのである。



また、齋木もSATOMIも踊り子の経験があり、ステージ上での身のこなしはさすがであった。特に、中盤ソロで踊りを披露するSATOMIの動きは、間違いなくこの舞台の“華”であった。

本作は、ストリップという大人の芸能を切り取った佳作である。
舞台を鑑賞後、実際のストリップを観たいと思った方も結構いるのではないか?

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