2013年の小林政広監督『逢う時は他人 STRANGERS WHEN WE MEET』。
脚本は小林政広、プロデューサーは小林直子、音楽は佐久間順平、挿入歌は「WATARU’S WALTZ」(作曲・演奏:佐久間順平)、撮影は古谷幸一、編集は太田義則、録音は山口満大、整音は福田伸、音響効果は渋谷圭介、制作担当は小林克己、監督助手は中尾広道、撮影助手は米山舞、カラーグレーディングは関谷和久、カラーグレーディング協力は稲川実希。製作はモンキータウンプロダクション。
45分の小品である本作は、第14回全州国際映画祭(韓国)のデジタルプロジェクト「三人三色」の一本として制作された。「三人三色」とは、アジアの気鋭監督三人を選出して共通のテーマで30分以上の作品を制作、オムニバス形式で上映する同映画祭の名物企画である。
今回のテーマは“STRANGER”で、小林の他にチャン・リュル(中国)とエドウィン(インドネシア)が選ばれた。
本作の脚本は、『ある男、ある女』という仮題で『愛の予感 THE REBIRTH』 (2007)の次回作として書かれたが、一度は制作を断念したものである。
なお、この題名はリチャード・クワイン監督『逢うときはいつも他人 STRANGERS WHEN WE MET』(1960)にインスパイアされている。
35mmのフィルム上映にこだわる大阪の小さな映画館の支配人(小林政広)。彼と妻の由希子(中村優子)は、家庭内別居になって三年が経つ。妻は怪我の後遺症で、今も右足を引きずっている。
45分の小品である本作は、第14回全州国際映画祭(韓国)のデジタルプロジェクト「三人三色」の一本として制作された。「三人三色」とは、アジアの気鋭監督三人を選出して共通のテーマで30分以上の作品を制作、オムニバス形式で上映する同映画祭の名物企画である。
今回のテーマは“STRANGER”で、小林の他にチャン・リュル(中国)とエドウィン(インドネシア)が選ばれた。
本作の脚本は、『ある男、ある女』という仮題で『愛の予感 THE REBIRTH』 (2007)の次回作として書かれたが、一度は制作を断念したものである。
なお、この題名はリチャード・クワイン監督『逢うときはいつも他人 STRANGERS WHEN WE MET』(1960)にインスパイアされている。
35mmのフィルム上映にこだわる大阪の小さな映画館の支配人(小林政広)。彼と妻の由希子(中村優子)は、家庭内別居になって三年が経つ。妻は怪我の後遺症で、今も右足を引きずっている。
仕事から帰っても夫婦は言葉を交わすことなく、まるで何かの呪縛のように食卓だけを共にする。ただ、それだけの毎日。
男は、頭の中から何かを追い出そうとするかのように本の頁を繰り、妻は押し潰されそうな心の痛みに耐えかねて、時折一人浴槽に体を浸して嗚咽を漏らす。
男の仕事中の昼休み、映画館の傍にある食堂「吉林」で夫婦は同じ丼物を食べる。二人にとって、食事を共にすることだけが今は絆だった。
そんなある日、携帯に電話が入り、男は不承不承指定された店に出向く。奥の席に座った男(本多菊雄)は、皮肉にも健司の三回忌である今日、交通刑務所から出所してきた。自分が出張中であることを見計らって由希子と健司をドライブに連れ出したこの男は、あろうことか事故を起こした。健司は亡くなり、由希子の足には障害が残った。
「由希子のことを愛していたのか?」と問い質しても、目の前の男は下を向くだけだ。「もう、二度と俺と由希子の前に現れるな」と言い残し、男は席を立った。
男が帰宅すると、由希子は蝋燭を立てたテーブルに料理を用意して夫の帰りを待っていた。その光景に耐えられず、男は再び家を出る。一人残された由希子は肩を震わせ、男は車の中で眠れぬ夜をやり過ごす。
翌日の昼時、いつもの食堂。テーブルを挟んで向き合う夫婦。由希子は、両手を男の前に静かに差し出した。しばし考えた後、男は妻の手の甲に自分の手を重ねた。
三年の歳月を経て、夫婦は互いの体温を確かめ合った…。
社会性の強いシリアスなテーマを扱い、「今」を映画で問うことが多い小林政広。彼の新作は、ちょっと風変わりな45分の短編であった。
新しいサイレント映画を狙って撮ったという本作は、極個人的な問題を抱えた一組の夫婦の「或る贖罪」のような日々を寡黙に描いたもの。
必要最小限の会話も字幕で表現し、音は音楽と街の生活音だけ。後は、登場人物の表情に語らせる。
それを、『ギリギリの女たち』 で見事な演技を披露した中村優子と小林政広自身が、時に切なく、時に痛く、それでいて何ともチャーミングに演じてみせる。
ワンポイントで登場する本多菊雄の出演も嬉しいところだ。
小林は、この痛みを抱えた夫婦の日常を、淡々と定点観測するかのように、けれど突き放すことなく体温を伴い映像で語って行く。それは、ちょっと“ストレンジ”な大人のフェアリーテイルのような趣だ。
一切の過剰さを排した二人の演技は、動きを抑制する分、かえって観る者の心に哀しみの影を落とす。一人無口に家事をする由希子や、機械式駐車場で背中を丸めて車が出て来るのを待つ男の背中といった、積み重ねられる日常の風景の中にさす影として。
もう、お分かりだろう。本作と『愛の予感 THE REBIRTH』は、本質的に同一構造を持った作品である。喪失の痛み、虚無的に耐え忍ぶ日常、再生…。
同じ再生をテーマにした姉妹作の如きこの二作品は、映画の終幕後に待ち受けている現実がまったく正反対の作品でもある。
殺人を犯した娘が帰還すれば新たな苦しみが待ち受ける『愛の予感』、わだかまりを振り切り新たな夫婦関係を築こうと前を向く『逢う時は他人』。
僕は二作とも好きだけれど、人としての温もりと救いを確かに感じ取れる『逢う時は他人』の方にこそ本当の再生を感じる。
その意味で、『逢う時は他人』という小品は『愛の予感』の魂を癒すために小林政広が撮った作品なのかも知れない。
個人的に、僕がひっかかった個所は二つ。由希子の体の動きに合わせてカメラを上下させる前半のシーンと、由希子の嗚咽をあえて音声にする入浴シーン。
この二つの場面は、これで良かったのだろうか?その答えを、僕は今でも出せないでいる。
ただ、それも含めてこの映画の45分は、観る側の人生経験同様、如何様にも解釈していいのかも知れない。
そして、その自由な行間こそが本作の魅力と言えるんじゃないだろうか?
『逢う時は他人』は、自分の中の映画を感じるために用意された静かな45分。
こういう作品を観ると、僕は「小林が撮る、イノセントな大人の恋愛映画を観てみたいな…」と思ってしまうのだ。
誠に愛すべき小品である。
※日本ではまだ未公開の本作レビューを書くことについて、もちろん小林監督ご自身から許可を頂いていることをお断りしておく。