2017年4月22日公開、瀬田なつき監督『PARKS パークス』。
企画:本田拓夫/ゼネラルプロデューサー:樋口泰人/プロデューサー:松田広子/ラインプロデューサー:久保田傑/脚本・編集:瀬田なつき/音楽監修:トクマルシューゴ/劇中歌:PARK MUSIC ALL STARS「PARK MUSIC」/エンディングテーマ:相対性理論「弁天様はスピリチュア」/撮影:佐々木靖之/録音:高田伸也/美術:安宅紀史/スタイリスト:高山エリ/ヘア・メイク:有路涼子/助監督:玉澤恭平/制作担当:芳野峻大/協力:東京都西部公園緑地事務所、三鷹フィルムコミッション、武蔵野市フィルムコミッション、一般社団法人武蔵野市観光機構、公益社団法人東京都公園協会、ニューディアー
製作:本田プロモーションBAUS/制作プロダクション:オフィス・シロウズ/配給:boid/宣伝:VALERIA、マーメイドフィルム/宣伝協力:渡辺麻子、栗田豊/助成:文化庁文化芸術振興費助成金
宣伝コピー:「100年目の公園。僕らの物語がここから始まる。」「君と、歌いたい曲がある。」
2017年/日本/カラー/118分/シネマスコープ/5.1ch
本作は、2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターの本田拓夫が「映画館の終りを新しい始まりにしたい」という思いに端を発し、井の頭恩賜公園100年実行委員会100年事業企画として製作された。
こんな物語である。
井の頭公園脇にあるアパートで独り暮らしをしている成蹊大学4年生の吉永純(橋本愛)は、冴えない学生生活を送っている。同棲するはずだった恋人とは別れ、親のコネで就職が決まっているというのに大学からは留年通知が届いていた。
卒業するためには、放置していたゼミの卒論を何とかして単位をもらう以外に手立てがない。ゼミは代返オンリーで一度も授業に出席したことのない純だったが、背に腹は代えられない。彼女は、おずおずと井上教授(佐野史郎)の研究室を訪ねた。
ひとしきり嫌味を言った後、思いの外寛容な井上教授は一週間以内に論文のアウトラインを提出するよう言った。首の皮一枚つながったものの、元より純は卒論のアイデアなど持ち合わせていない。
純は、子役をしていた10年前にグミのCMに出演して話題となった。しかし、それ以降は鳴かず飛ばずでタレント活動もとん挫。10代のころはギターを弾いて作曲にも手を出したが、それもパッとしなかった。
思い起こせば、いつも逃げてばかりで何事に関しても中途半端。イケてない自分の人生に、彼女はずっと悶々としていた。そんな純にとって、モデルやイラストレーターとして活動しながら吉祥寺グッド・ミュージック・フェスティバル(通称「キチフェス」)の運営スタッフもやっている友人の理沙(長尾寧音)は、眩しい存在だ。かつて音楽をやっていたことを知る理沙からキチフェスで歌わないかと声をかけられるものの、純は即座に断ってしまう。
部屋の壁に貼ってあった元カレとのツーショット写真をすべてはがした純。強い風が部屋の中に吹き込んで、開け放った窓からそれらの写真は飛ばされてしまった。
慌ててベランダに出る純。すると、大きなリュックを背負って一枚の写真を手にこちらを見上げている女の子と目が合った。女の子は、パッと明るい表情を見せたかと思うと一切躊躇することなく純のアパートまでやって来て、何度もインターフォンを鳴らしうるさくノックした。
戸惑いながら純が玄関を開けると、女の子は「この人知りませんか?」と色あせてセピア色になった一枚の白黒写真を見せた。その写真には、何十年も前のこのアパートのベランダに立つ一人の若い女性の姿が写っていた。
「知る訳ないでしょう!」と純が答えると、「上がらせてください!」と言って止める純を振り払い女の子が部屋に上がり込んできた。
女の子は、木下ハル(永野芽郁)という名の高校生だった。ハルは、亡くなった父・晋平(森岡龍)の遺品の中から50年前に送られた手紙と数枚の写真を発見。差出人は、かつての晋平の恋人・山口佐知子(石橋静河)。どうやら晋平と佐知子は、仲間と歌を作っていたようだった。
もうすぐ母親が再婚するため、父の記憶が薄れないうちにハルは父のことを小説に書こうと考えてここにやって来たのだという。
ば呆れながらも興味をそそられた純は、ハルと一緒に佐知子を探すことにした。上手くいけば、このことをネタに論文が書けると考えたからだ。
とりあえず、純はハルと一緒にこのアパートを紹介してくれた不動産会社に行ってみた。すると、馴染みの社員(岡部尚)がアパートのオーナーの住所を教えてくれた。早速、二人はオーナーの寺田さん(麻田浩)宅を訪れる。
突然の訪問にもかかわらず、寺田さんは親切に応対してくれた。彼は古い書類や手紙を引っ張り出すと、佐知子の現在の住所を教えてくれた。彼自身、もう長いこと彼女とは連絡を取っていないようだった。
純とハルは、佐知子の家を訪れる。表札には三世代の名前が並び大家族のようだったが、何度インターフォンを押しても誰も出てこなかった。二人が窓から中を覗いていると、一人の青年がやって来る。佐知子の孫、小田倉トキオ(染谷将太)だった。トキオによれば、佐知子は少し前に脳梗塞でこの世を去ったという。
二人はがっかりするものの、トキオは佐知子の遺品の中から一巻のオープンリール・テープを見つける。純の部屋。三人は、ヤフオクで大枚はたいて落札したデッキにテープをかけて再生する。
ノイズの隙間から聞こえてきたのは、50年前の晋平と佐知子の会話と若い二人の歌声だった。
♪君と歌いたい曲がある それはこんな曲で 僕らの物語は この公園から始まる…
そこまでは聴き取れたが、テープの劣化によりその後はノイズ音だけだった。ハルは、どうしてもこの先が聴きたかった。
ここまでの顛末をレポートにまとめ、純は井上教授の研究室を再訪する。教授は、興味深そうに論文を読むと、曲の続きを完成させたらこの論文と合わせて単位をあげようと言った。
そんな訳で、是が非でも純は50年前の曲を完成させなければならなくなった。
ハルもトキオも曲の続きを作ることに意気込むが、そもそもハルはリコーダーを吹ける程度。トキオは音楽スタジオで働いているものの、機材のセッティングやサンプリングはできても楽器演奏はできず、できることと言ったらラップくらいだった。
とりあえず、純はしばらく触っていなかったアコースティック・ギターを引っ張り出して曲作りにトライし始めた。それと並行して、三人は50年前の曲のイメージを膨らませるために、マイクを持って井の頭公園や吉祥寺の町で色んな音を収録して回った。
しかし、なかなか曲のイメージは広がらず、純は悪戦苦闘する。ハルは小説を書き続けていたが、そのうち彼女の中で現在の自分たちと50年前の晋平や佐知子の世界が心情的にシンクロしていく。ハルは、2016年の吉祥寺で過ごしつつ、同時に1966年の吉祥寺で晋平や佐知子と想像の中で交流するようになった。
三人の活動を聞きつけた理沙は、純にキチフェスで歌うように言った。及び腰の純とは正反対に、トキオは大乗り気でバンド・メンバーを探そうと提案する。
子供たちにピアノを教えているキーボード・プレイヤー(谷口雄)、パンク・バンドのベース(池上加奈恵)、本業は大工のドラマー(吉木諒祐)、井の頭公園で演奏していたストリート・ミュージシャンのギター(井手健介)を強引にかき集め、セッションを繰り返して何とか曲は完成する。
しかし、ハルに聴かせると彼女は表情を曇らせた。ハルは、純たちが作った曲の続きが晋平や佐知子の思いから外れていたように思えてならなかったからだ。
純、ハル、トキオの様々な思いが交錯する中、いよいよキチフェス当日を迎えるが…。
井の頭公園100年の歴史、バウスシアター・オーナーの想い、現在・過去・未来、音楽…それこそが、この映画における本質的な主役と言っていいだろう。
移りゆくものと変わらないもの、過去の記憶と将来の夢、町と人。そのテーマは、いつの時代も普遍的だ。
肝となるのは、如何に映画としてその普遍性を魅力的な物語に結実できるかということに尽きる。
この映画を見て、僕が真っ先に思ったのは「何だか、バブル以前の牧歌的で昭和然とした物語みたいだなぁ…」ということだった。
とにかく、そろいもそろって登場人物たちがイノセントで善良なのだ。そこには、弱さや悩みはあっても、根本的な部分で悪意のようなものが微塵も感じられない。それはそれでもちろん悪くないのだが、それでは物語における“現在”の部分が、あまりにもファンタジックに過ぎるのではないか?
一番の問題は、50年前の晋平と佐知子の曲にまつわるドラマ部分があまりに弱いことである。三人を行動に駆り立て映画を疾走させるエンジンたるべきエピソードとしては、どうにも物足りなさを覚えてしまった。
最終的に、物語はまさしくファンタジー的な展開を見せるのだが、それにしてもハルという女の子の行動に共感しづらいのもネックだった。
ただ、冒頭のシーンからスクリーンいっぱいに広がる井の頭公園の壮大な広さと豊かな色彩と季節感。景色だけを切り取ればここが東京都武蔵野市とはにわかに信じられないような空間に、とにかく心奪われる。満開の桜の木々をすり抜け、緩やかな微笑みと共に自転車で疾走する橋本愛の躍動的な姿の魅力的なことと言ったら。
ちょっととぼけた感じで、調子のいい染谷将太の愛すべきキャラクター。まさにこれからの三人と、すでに様々なものを見てきた寺田さんという人物の絶妙なコントラスト。
映画の後半で、これでもかと挿入される演奏シーンのあまりに青春的なたたずまい。
そういったカラフルな映像こそが、この映画の持っている最大の魅力だと思う。やはり、この映画は大きな映画館のスクリーンで、しっかりシネマスコープ・サイズで見るべきである。
景色をメインに据えた映画故に、人物描写が弱いこともまた事実なのだが。
ただ、である。
映画を見終わり、エンドロールが流れ、場内が明るくなった時、僕はすっかり橋本愛のことが好きになっていた。「それで、十分じゃないか…」と思ったりもする。
そんなことも含めて、やはりこの映画は青春的である。
これはあまりに個人的なことだけれど、以前に二年間この公園のすぐそばで仕事に従事した経験を持つ身としては、自分までもがこの映画が提示する物語の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に陥ってしまった。
とにもかくにも、イノセントさに貫かれたあまりに青春的な一本。
よく晴れた穏やか日に、肩ひじ張らず見るには絶好の映画である。
余談ではあるが、映画後半のシーンで染谷将太がハイタッチする女性は和田光沙だろう。