監督・脚本・編集:塚田万理奈/撮影:芳賀俊/撮影助手:五十嵐一人/照明:沼田真隆/録音:落合諒磨、加藤誠、坂口光汰、清水由紀子/カラコレ:関谷壮史、芳賀俊/MA:落合諒磨/助監督:鈴木祥/制作応援:塚田健太郎、古畑美貴、朴正一/張り子制作:前田ビバリー/宣伝:東福寺基佳、上田徹、崎山知世
本作は、第10回田辺・弁慶映画祭で弁慶グランプリ、市民賞、映検審査員賞、女優賞(堀春菜)の4冠に輝いている。
こんな物語である。
サラリーマンの父(井上智之)、専業主婦の母(南久松真奈)、予備校生の兄(松井薫平)と4人家族の野田聡子(堀春菜)は、ダンス部に所属するどこにでもいる普通の高校3年生。彼女は、何不自由することもなく高校では部活やダイエット、恋話といった他愛ない話をする友人に囲まれている。
淡々と過ぎて行く生活。波風なく平穏な日々。そんなありふれた生活の中で、聡子は心のどこかに漠然とした不安を感じている。自分のアイデンティティや将来のこと、具体的に何か問題がある訳ではないが、かといって自分の中に確たる何かを見出すこともできない。
いつしか、彼女は自分が空なのではないかという思いに囚われていく。
その違和は、やがて彼女の食生活に現れる。母が作ってくれた弁当や夕食がのどを通らなくなり、その一方でお菓子類を夜のコンビニで買い漁っては隠れて貪ってしまう。いったん満腹になると、すぐトイレに駆け込んでのどに指を突っ込み嘔吐する。その繰り返し。ノートには、食べたものとカロリーを書き込む。
罪悪感や不安に苛まれ、もうやらないと自分に言い聞かせても、次の瞬間にはまたお菓子を食べたくなって財布に手を伸ばしてしまう。それは、まるである種の無間地獄のようだった。
聡子の生活の変化は、じょじょに体つきにも出始める。部活で着替えているとき、友人たちは「あれっ?聡子、痩せた?」と聞いてくるようになった。大人っぽくなったと言われれば、悪い気分ではない。
しかし、家族もやがて彼女の様子がおかしいことに気づき始める。当初は何も言わずに静観していたものの、やがてその変化が深刻であると考えざるを得なくなってくる。
聡子が帰宅すると、いつもは仕事で遅い父親も珍しく家におり、家族4人そろっての夕食となった。兄は相変わらず食欲旺盛でがつがつ食べているが、今夜の食卓はどうも雰囲気がいつもと違っていた。
聡子は、形ばかりに食事を口に運ぶと席に立とうとする。「もういいの?」という母の声にかぶせるように、父は「トイレに吐きに行くのか?」と言った。
何とかとりなそうとする母と、心配と焦りがない交ぜになったように言葉をかけてくる父。父は、病院に行くよう聡子に言った。
やがて、聡子は堰を切ったように家族をなじる言葉を吐いて席を立つと自室にこもってしまう。心配してくれていることも、自分の言ってることが理不尽なのも分かっている。それでも、彼女は家族を傷つける言葉をぶつけずにはいられなかった。そして、そんな自分の態度がさらに聡子自身の心を傷つけて行った。
学校にも行けなくなった聡子は、ただ家に引きこもるしかなかった。やがて、今の自分に耐え切れなくなった聡子は、友人(笠松七海)に電話で助けを求める。母子家庭の友人と彼女の母親は、「いたいだけいてくれていいから」と優しく聡子を迎え入れてくれた。
変に気を遣われるでもなく、聡子は友人の家で暮らすようになる。しばらくすると、聡子は友人と一緒に登校できるようになるが、夜中にこっそりコンビニでお菓子を買い漁って食べる生活を改めることはできなかった。
やがて、再び彼女は学校に行けなくなり、風呂に入るのも億劫になって行く。おまけに、財布の中身が底をつき、友人が寝静まった夜中に金がないかと家探ししてしまう。
もはや、この家にいることもできない。聡子は、母に連絡して家に戻ることにした。苦渋の選択だった。
母は、聡子に対して腫物に触るような感じだった。聡子は、意を決して病院に行くことにした。
雑居ビルにあるクリニックを聡子は訪ねるが、午後の診療時間のはずがクリニックは閉まっていた。仕方なく、聡子がエレベーター横に置かれた椅子に腰を下ろして待っていると、ケバケバしいメイクに派手な服装の見るからに水商売っぽい女性がやって来る。
彼女は、甲高い声で「あれ~、まだ戻ってない。ここの先生、昼休み長いからなぁ」と言うと、聡子の隣に座った。
このエキセントリックな女性は、マキ(林田沙希絵)という名前だった。マキさんは、聡子に対して何ら気を遣うこともなく、あけすけすぎるほどの無防備さで、ざっくばらんに自分がしゃべりたいことをしゃべりまくった。
天真爛漫というにはあまりに突き抜けたキャラクターだったが、マキさんのそんな言動がなぜか聡子を安心させた。聡子は、ずっと心の奥底にため込んでいた本音を、初対面のマキさんに素直に話すことができた。目を潤ませながらぽつりぽつりと言葉を継いでいく聡子をマキさんはギュッと抱きしめてくれた。聡子は、少しだけ自分の心が軽くなるのを感じた。
それからというもの、聡子は時々マキさんと会うようになった。いつでもマキさんの行動はとんでもなくマイペースで、聡子も周囲も困惑させられたし、マキさんの話はいつも一貫していなかった。母親と一緒に旅行すると言ったかと思えば、別の日は自分に母親などいないというように。それでも、彼女といると聡子は救われた気持ちになることができた。
やがて、聡子は少しずつ回復の兆しが見えてきたが、その一方でマキさんとの日々は終わろうとしていた…。
現在25歳の塚田万理奈監督が、三年前の大学時代に陥った自身の摂食障害体験をベースに制作した初長編映画である。見る人のバックボーンによって作品の受け止め方は様々だと思うが、そこに切実な痛みや苦しさを伴うことだけは確かだろう。
絶望や過酷さといった突き放すような語り口の作品ではない。聡子を取り巻く人々には表現の仕方に差異こそあれ、むしろ優しさや温かさが漂っている。どう彼女に接すればいいのか、という戸惑いと共に。
そして、聡子自身がある意味どこにでもいる普通の女の子であるがゆえに、我々の心は掻きむしられる。これは、あなたのそして私の物語かもしれないのだから。
具体的に何かドラマティックなことや事件がある訳でもなく、聡子の日常は淡々と過ぎていく。思春期に誰もが抱く自我や自分の未来を思い描けないことへの悶々とした気持ち、確たるアイデンティティを持てないことへの焦燥、そんな自分を友人たちと比較して募る不安…。
知らず知らずのうちにそういった感情が澱のように心の奥底に堆積して、気がつけば自分のメンタリティーがどんどん歪んでいく。悲鳴を上げて助けを求めたくても、その勇気も出せず、焦燥と苛立ちと自責の念が空回りして、ますます自分自身を傷つけていく。
袋小路に入っていく自分は自覚できるが、そもそも何の袋小路なのかが分からない。分からないから、誰にも相談できない。まさしく、堂々巡りだ。
そんな聡子の内に秘めた苦しみを、塚田は一定の距離感を保って淡々と描いていく。静謐なまでのストイックな演出は、かえって見ている僕の気持ちを聡子の苦しみにシンクロさせていく。
本作で塚田が聡子に向ける目線は、そのまま過去の自分自身に対して向けられてもいるからだろう。ある程度の距離を保つことができなければ、恐らくこの作品を撮り切ることはできなかったのではないかと僕は思う。
だからこそ、聡子が感情を爆発させる夕食のシーンやクリニックの前でマキさんに自分の苦しみを打ち明けるシーンがとても強く胸に迫ってくる。
そして、思うのだ。大きな壁にぶち当たったら、直接と間接とを問わずやはり誰かの(あるいは何かの)力や助けが必要なのだ、と。
できることなら自分の力だけで何とかしたいし、最終的に自分を救い出せるのは自分だけではある。
けれど、その過程には他者とのかかわりが不可欠なのだ。結局のところ、我々は自分で思っているほど強くはないのだ。
言うまでもなく、聡子にとってその誰かはエキセントリックなマキさんである。一見、周囲が引くくらいに自由奔放で、行動が全く読めないマキさん。その何事にも頓着しないように見える突き抜けた彼女のキャラクターが、聡子の冷たく閉ざされてしまった心にある種の温かい震えをもたらす。
その温かさを糸口に、聡子は少しずつ再生に向かい始める。
その一方で、実は聡子よりよほど病状が深刻なマキさんは、いよいよその危うさを加速していく。バスタブでのワンシーンから、左手首に包帯をぐるぐる巻きにして何時間も遅刻して聡子との待ち合わせ場所に笑顔で現れたマキさん。彼女を見て衝撃を受ける聡子の表情。
ある意味、この映画におけるもっとも苛烈で痛みを伴うのが、ここだろう。
そして、映画は一縷の望み(というか、聡子のあるいは塚田監督自身の願い)を幻想的なシーンとして織り込みつつ、聡子のこれからに一筋の光が差し込んで終わる。
ゆえに、苦しい映画ではあるが、見終わった後には不思議に解放された気持ちになれる。
言うまでもなく、この作品の質の高さは、瑞々しくナイーブにリアルな女子高生としての聡子を演じ切った堀春菜の素晴らしさあってこそだろう。映画を見ていると、堀春菜はスクリーンの中で野田聡子の人生を生きているようにしか見えないのだから。
そして、聡子の人生を一瞬の邂逅を果たして、彼女の暗闇に確たるブライトネスをもたらすマキ役を見事に演じた林田沙希絵。映画後半において、物語を前に進めるエンジンたるのはマキの存在である。