2013年公開の沖田修一監督『横道世之介』。
プロデューサーは西ヶ谷寿一・山崎康史、共同プロデューサーは西宮由貴・宮脇祐介、ラインプロデューサーは金森保、原作は吉田修一「横道世之介」(毎日新聞社 文春文庫刊)、脚本は沖田修一・前田史郎、音楽は高田漣、主題歌はASIAN KUNG-FU GENERATION「今を生きて」(キューンミュージック)、撮影は近藤龍人、照明は藤井勇、録音は矢野正人、美術は安宅紀史、衣裳は纐纈春樹、ヘアメイクは田中マリ子、助監督は海野敦、制作担当は刈屋真、スクリプターは田口良子、編集は佐藤崇、音響効果は斎藤昌利、VFXスーパーバイザーはオダイッセイ。
製作は「横道世之介」製作委員会(日活、博報堂DYメディアパートナーズ、バンダイビジュアル、毎日新聞社、アミューズソフトエンタテインメント、テンカラット、ショウゲート、文藝春秋、ソニー・ミュージクエンタテインメント、テレビ東京、テレビ大阪、BSジャパン、Yahoo!JAPANグループ)、企画・製作幹事は日活、制作プロダクションはキリシマ1945、助成は文化芸術振興費補助金、協力は法政大学、配給・宣伝はショウゲート。
2012年/日本/160分
宣伝コピーは「出会えたことが、うれしくて、可笑しくて、そして、寂しい――。」
時は1980年代、バブル景気華やかなりし頃。長崎県の港町で生まれた横道世之介(高良健吾)は、東京の大学に進学。慣れぬ都会暮らしを始める。引越し先のアパートでは、住人の小暮京子(江口のりこ)に怪しまれる。
製作は「横道世之介」製作委員会(日活、博報堂DYメディアパートナーズ、バンダイビジュアル、毎日新聞社、アミューズソフトエンタテインメント、テンカラット、ショウゲート、文藝春秋、ソニー・ミュージクエンタテインメント、テレビ東京、テレビ大阪、BSジャパン、Yahoo!JAPANグループ)、企画・製作幹事は日活、制作プロダクションはキリシマ1945、助成は文化芸術振興費補助金、協力は法政大学、配給・宣伝はショウゲート。
2012年/日本/160分
宣伝コピーは「出会えたことが、うれしくて、可笑しくて、そして、寂しい――。」
時は1980年代、バブル景気華やかなりし頃。長崎県の港町で生まれた横道世之介(高良健吾)は、東京の大学に進学。慣れぬ都会暮らしを始める。引越し先のアパートでは、住人の小暮京子(江口のりこ)に怪しまれる。
大学の入学式ではいささか軽薄な倉持一平(池松壮亮)と、オリエンテーションでは阿久津唯(朝倉あき)と、世之介は知り合う。大学の先輩には、故郷の知人である川上清志(黒田大輔)がいる。川上はマスコミ志望で、彼の知人にはやはりマスコミ志望の小沢(柄本佑)がいる。
世之介は天真爛漫、大らかな性格で、頼まれると嫌とは言えない。いつもニコニコして、嫌味もないが遠慮もなく、そこが深いのか実は何も考えていないのか今いちつかめない言動だが、誰もが世之介に惹きつけられた。
キャンパスのサークル勧誘で、うやむやのうちに世之介は一平、唯と一緒にサンバサークルに入会してしまう。出逢いは最悪だった唯と一平は、いつしか付き合うようになっていた。
世之介は、教室で知り合ったいつも寡黙で不機嫌そうなイケメン・加藤雄介(綾野剛)と持ち前の強引さで友達になる。
とあるきっかけで知り合った年上のミステリアスな女性・片瀬千春(伊藤歩)に惹かれていた世之介だが、加藤に想いを寄せる戸井睦美(佐津川愛美)が持ちかけたダブルデートに何故か付き合わされ、そこで超がつくほどのお嬢様・与謝野祥子(吉高由里子)と知り合う。
世之介を気に入った祥子は、世之介の上を行く天然の強引さで、世之介のアパートや、友人たちとの海水浴や、果ては長崎の実家にまでやって来てしまう。世之介の両親・洋造(きたろう)と多恵子(余貴美子)もさすがにたまげるが、祥子はどこ吹く風だ。
やがて、世之介も祥子の一途さに惹かれて行くが…。
2時間40分の上映時間はいささか長尺だが、劇場で観ている体感時間はその長さを感じさせない。少なくとも、僕は時計の針を気にすることなく最後まで映画に見入ってしまった。
悪くない映画である。
物語云々の前に、とにかくマニアックにこだわった時代考証が秀逸で目を見張る。80年代に青春時代を過ごした昭和世代には、あまりにリアルな懐かしさにあの頃の自分を想起して赤面・苦笑することだろう。
新宿東口マイ・シティ(現・ルミネエスト)に始まって、道行く人のコスチューム、あられちゃん眼鏡と言われたデカいセル・フレームの黒縁眼鏡、街頭でキャンペーンする垢抜けないチアガールの如きキャンギャル、松田聖子カットの髪型、軽薄なマスコミに憧れるイケてない業界ファッションを真似るマスコミ志望の学生、バブル臭をまき散らすことがステイタスなカリスマ風女性…等々。
いやはや、見事の一言である。それだけでも、観ている者を飽きさせない。
沖田修一の語り口は、イノセントなストーリーテリングとは相反するように何とも技巧的。世之介の学生時代の話は過去の記憶であり、当時の彼と青春の一時期を共に過ごした旧友たちの今の視点から回想される。
あの時から15年が経過した現実を生きる者たちが、自分の人生の深いところでコミットした「横道世之介」という不思議に魅力的だったイノセンスを、ふとした瞬間に思い出す…そんな構成の映画だ。
160分という時間を縦横無尽に使い、沖田はあちこちに人々の人生のピースを散りばめ、それを匠のクロスワードパズルの如く見事な一枚の画に形作って見せる。
各々が滑稽で、ひと癖もふた癖もあり、けれでもそれぞれの人生を不器用に格闘しながら生きている。その横には、いつでもあのお気楽で図々しい横道世之介という男がほがらかに笑っているのだ。
実は、カメラマンになった世之介は、33歳の若さで新大久保駅に転落した乗客を助けようとして命を落としている。あれだけ惹かれ合った祥子とも別の人生を歩んだ後に、である。
それでも、人々の胸に彼は温かなぬくもりとして生き続けている。
唯一の不満は、世之介と祥子の別離に何の言及もされない点である。
あと、どうして世之介がかくも人々を惹きつけてやまないのか、そのことが僕には見えてこない部分があるのだが、まあそれを言うのは野暮というものだろう、きっと。
役者陣は、それぞれにいいが、やはり主演の二人・高良健吾と吉高由里子の魅力に負うところ大である。二人の共演は、蜷川幸雄監督『蛇にピアス』(2008)以来だ。
脇を固める池松壮亮、綾野剛、余貴美子、伊藤歩、その他のキャストもこの物語に華を添える。