おおよそ、トレンディでハイソでセレブリティな街とは無縁な生活を送っている僕にとって、「ギロッポン」なぞは行動範囲の埒外のさらにまた外なんだけど、まあそれでも見に行きますよ。何せ、「これぞ、ポップ・アート!」という作品が一堂に会すのだから。
ちなみに、僕が六本木に赴いたのは、2009年1月16日大貫妙子「A day in the life」コンサートを観にSTB139に行って以来のことだ。
今回の展示は、世界的コレクターであるジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻の所蔵品からポップ・アートを代表する傑作群を集めたものである。ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、クレス・オルデンバーグ、アンディ・ウォーホール、ロイ・リキテンシュタイン、トム・ウェッセルマン、メル・ラモス、ジェイムズ・ローゼンクエストと言った有名作家たちの名作が、所狭しと並べられている様はまさに圧巻の一言。
ウォーホールは、キミコ・パワーズの肖像画を製作しており、もちろん今回の展示でもそのうちの何枚かを見ることができる。
ポップ・アートというのは、現代アートのひとつとして位置づけられるんだろうけど、一般的なイメージとしてある「現代アート=難解」というところから最も遠いところにあるような気がする。
もちろん、今回展示された作品の中にも現代アート的抽象性を纏った作品はあるんだけど、表現に向かう根本的な姿勢に某かの明快さを感じるものが多い。
本当に、“ポップ”な芸術とは良く言ったもので、そのカテゴライズ自体がそもそも「ポップ・アート」なのだよ、と思う。
世間的にポップ・アートのパブリック・イメージと言ったら、やっぱりウォーホールのキャンベル缶やマリリン・モンローのシルクスクリーン、あるいはリキテンシュタインの漫画の一コマを引き伸ばしたような作品…ということになるだろう。
そういえば、開館前の東京都現代美術館がリキテンシュタインの代表作「ヘア・リボンの少女」を6億円で購入した際、「漫画のような絵に税金を使うとは」と問題になった。
ロバート・ラウシェンバーグのコンバインは、現代アート的抽象性に日常生活品をオブジェとして融合させる手法で、色彩的インパクトと共にその尖鋭性を感じる。
ジャスパー・ジョーンズを著名にしたのは如何にもポップ・アート的な星条旗をモチーフにした「旗」だけれど、今回多く展示されている「地図」「標的」「数字」「クロスハッチング」といった色彩パターンそのものの意味性に僕は面白さを感じた。
クレス・オルデンバーグの作品「ジャイアント・ソフト・ドラム・セット」はビジュアルのインパクトもあってとても目立っていたけれど、個人的好みから言えばその習作として描かれたラフ・スケッチの方に心惹かれた。
硬質なものがグニャッとしたヴィジュアルに変換されるのって、僕はすぐダリの「柔らかい時計」を思い出してしまうのだけれど。
トム・ウェッセルマン「グレート・アメリカン・ヌード」の単純な構図とカラフルさを見ていると、アンリ・マティスのポップ・アート的展開と思わざるを得なかった。何と言うのかな、表現することの連綿とした流れとでもいうか。
メル・ラモスが描く女性の肉感性って、昭和の時代のエロ劇画的濃密な芳香が立ち昇るように思うんだけど、そんなことを感じるのってやはり僕だけだろうか?
ジェイムズ・ローゼンクエストは、現代広告的グラフィックのテイストが最も濃厚なように感じた。
アンディ・ウォーホールとロイ・リキテンシュタインについては、今さら何を言えばいいのか…と思うくらい、彼らの代表作が惜しげもなく展示されている。それを実際目にできただけで、満足してしまう。
ウォーホールなら、キャンベル缶、マリリン・モンロー、毛沢東、フラワー。リキテンシュタインなら、鏡の中の少女、私の夢想につきまとうメロディー、ブルーン!…。
僕は音楽オタクなので、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ、バナナ・ジャケット、アンディ・ウォーホール、ファクトリーという一連の流れの中でポップ・アートを知った。
ポップ・アートについて語る時、大量生産・大量消費という文化へのカリカチュア的表現という文脈で紹介されることが多いけれど、僕にとってのポップ・アート的魅力というのは、尖鋭的なグラフィック・デザインとしての表現手法という感じになる。
それは、ロートレックの「ムーラン・ルージュ」ポスターに感じる魅力的磁場と同じベクトルなのかも知れない。
ただ、こういう尖鋭的表現が運動として継続するためには、よき理解者よきパトロンの存在は欠かせない。その意味でも、パワーズ夫妻はポップ・アートの庇護者であるし、だからこそウォーホールが製作した一連の「キミコ・パワーズ」には特別な親密さがあるのだろう。
ひとつ思ったのは、これだけの作品群が整然としたディスプレイで「国立新美術館」という空間に並べられると、それはそれでどことなく違和感のようなものを感じて少し落ち着かないなぁ…ということである。
そういう印象を抱かせるあたりも、ポップ・アートという表現が本質的に有している“ある種の毒性”が今でも十分に機能しているということなのだろう。
もし、あなたがエスタブリッシュな街をお好みでなかったとしても…。