2014年9月14日こまばアゴラ劇場のマチネで、うさぎストライプと木皮成『デジタル』を観劇した。
作・演出:大池容子(うさぎストライプ・青年団)、振付:木皮成、舞台監督・照明:黒太剛亮(黒猿)、音響:角田里枝、舞台美術:伊藤健太(黒猿)、宣伝美術・プランディング:西泰宏(うさぎストライプ・青年団)、製作・ドラマターグ:金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)、制作協力:堤佳奈(アゴラ企画)、芸術監督:平田オリザ、特別協力:中村光彩/小川優江/花明里/阿部将之/若林靖/LICKT-ER/鈴木杏里/早稲田大学演劇研究会
企画制作:うさぎストライプ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、主催:(有)レトル/フォセット・コンシェルジュ
企画制作:うさぎストライプ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、主催:(有)レトル/フォセット・コンシェルジュ
ちょっとだけ未来の日本。リアルに実感するには少し距離のあるところで、いまだ戦争が起こっている。
義肢装具士の仕事をしている亀山(亀山浩史)は、ネイリストのマコ(小瀧万梨子)との結婚には失敗したが、今は職場の後輩・菊池(菊池佳奈南)と付き合っている。
亀山は色覚異常で、彼が見ているモノクロームの世界は他の人々が見ている世界とはちょっと違っているのかも知れなかった。
マコの店のお客に、そじん(李そじん)という女の子がいた。彼女はフリーターで、足には義足を装着している。
現在、亀山は妹のカナコ(坂倉夏奈)と同居しているが、カナコは亀山の幼馴染でジャーナリスト志望だった成(木皮成)がいなくなってからというもの、家から一歩も出なくなった。
カナコは、感情表現にいささか問題を抱えており、彼女の行動は時として亀山を混乱させた。
そんなある日、亀山の幼馴染でパイロットとして世界中を飛び回っている滋(佐藤滋)がやって来る。滋は、少年のまま大人になったような男で、そのハイテンションなノリで亀山を呆れさせる。
祭りの日。亀山は菊池と出かけ、滋はカナコを祭りに連れ出そうとするが…。
僕がうさぎストライプの舞台に足を運んだのは、そもそも大池容子に関心があったからだ。菅乃廣監督『あいときぼうのまち』 を観た時、作品そのものについては色々思うところあって、その詳細は以前レビューに書いた。
キャスティング的には、『太陽にほえろ』世代にはテキサスを演じた勝野洋で、ピンク映画ファンなら里見瑤子といった感じだと思う。僕はその両方に該当するのだけれど、個人的には夏樹陽子と大池容子がとても印象に残った。
しかも、大池容子は井上淳一監督『戦争と一人の女』 にも出ていたようだ。何処に出ていたのだろう?と思っていたら、ご本人から村上淳を石で殴って逃げる女学生役だったと教えて頂いた。
そんな訳で、女優としての彼女に興味を抱いて調べたら、青年団の演出部に籍を置きうさぎストライプ主宰として作・演出を手掛けていることを知った。
それで、彼女がどんな芝居を作っているのか気になって、この芝居を観たのである。こまばアゴラ劇場で初めて会った彼女は、『あきときぼうのまち』で演じていた愛子のイメージからすると、どこか華奢な印象だった。
大池本人のコメントによれば、『デジタル』という芝居は去年一年間うさぎストライプと業務提携していた木皮成を振付に迎えて“人間ピタゴラスイッチ”的なものを目指した60分だそうである。
その意味では、大池容子単独による作劇とはいささか趣を異にする作品なのかも知れない。
こまばアゴラ劇場のコンパクトな舞台には、エッシャーの騙し絵の如く天井にテーブルと椅子が吊るされ、床に蛍光灯が設置されている。
僕にとってうさぎストライプの舞台は初めてだから他の作品と比較できないのだけれど、この『デジタル』では木皮成の振付による役者の肉体性と大池の物語世界を融合することで、新たな劇空間を作ろうとしたのではないか?異種格闘技とまでは言わないが、そこにある種の化学変化を狙ったトライアルなのだと思うし、その意思は観ていても伝わる。
ただ、その試みが上手くいっているかといえば、残念ながら僕にはそう思えなかった。
一番の問題は、劇場の舞台が小さいことである。木皮成の振り付けた動きが、狭い空間の中に押し込められてしまって肉体性を獲得できていないように感じた。
そして、振付を課された役者たちは、自分の動きと科白の双方に意識が分散してしまい、いささかチグハグな演技になっているように思った。特に、他の役者との会話における“間”の取り方。何というか、相手とのタイミングを計っている空気が漂っていたのではないか。
で、『デジタル』の物語について僕が感じたのは、登場人物たちがそれぞれに喪失を背負って生きているということだ。
色覚の喪失、伴侶の喪失、体の一部の喪失、大切な人の喪失、安寧の喪失…等々。誰もが何かを喪失し続ける日常において、主人公の亀山が義肢装具士の職に就いているのは象徴的だろう。
僕が気になったのは、それぞれに人生のピースを失った登場人物たちの造形やエピソードに、どこかデジャヴと浅薄さのようなものが感じられたことである。
それに、ちょっとだけ未来の日本というエクスキューズを付けつつ戦争の臭いと立ち上げようとするには、今の日本はいささかキナ臭過ぎるようにも思う。
もちろん、この舞台を気に入って、木皮成の付けた動きを楽しめた人もたくさんいるだろうし、ひょっとすると『デジタル』で大池が提示した世界観に共鳴するには、僕がちょっとだけ過去の人間なのかもしれない。肉体的にも、感性的にも。
ただ、配布されたフライヤーには「自分以外のひとに世界がどう見えているのかが気になります。演劇が好きなのは、つくっているひとが見ている世界を一緒に見てる気になるからなのかもしれません」と大池は書いている。
彼女の言葉には僕も共感するのだけれど、残念ながら僕が観た日の舞台では大池が見ている世界を一緒に見てる気になれなかったということだ。
ただ、僕は大池容子という若き劇作家が作り出す、他者とコラボレーションしない“より大池純度の高い”芝居を観てみたいと思う。だから、予定されている次回公演『空想科学』にも足を運ぶつもりである。
相性というものはあると思うが、女優としての大池容子から受けたインパクトを思う時、彼女の表現するものの中に何か自分が感じるものがあると思うからだ。
いずれにしても、剥き出しの肉体性と精神性の両方を観客に晒す舞台って、時として残酷で過酷である。
義肢装具士の仕事をしている亀山(亀山浩史)は、ネイリストのマコ(小瀧万梨子)との結婚には失敗したが、今は職場の後輩・菊池(菊池佳奈南)と付き合っている。
亀山は色覚異常で、彼が見ているモノクロームの世界は他の人々が見ている世界とはちょっと違っているのかも知れなかった。
マコの店のお客に、そじん(李そじん)という女の子がいた。彼女はフリーターで、足には義足を装着している。
現在、亀山は妹のカナコ(坂倉夏奈)と同居しているが、カナコは亀山の幼馴染でジャーナリスト志望だった成(木皮成)がいなくなってからというもの、家から一歩も出なくなった。
カナコは、感情表現にいささか問題を抱えており、彼女の行動は時として亀山を混乱させた。
そんなある日、亀山の幼馴染でパイロットとして世界中を飛び回っている滋(佐藤滋)がやって来る。滋は、少年のまま大人になったような男で、そのハイテンションなノリで亀山を呆れさせる。
祭りの日。亀山は菊池と出かけ、滋はカナコを祭りに連れ出そうとするが…。
僕がうさぎストライプの舞台に足を運んだのは、そもそも大池容子に関心があったからだ。菅乃廣監督『あいときぼうのまち』 を観た時、作品そのものについては色々思うところあって、その詳細は以前レビューに書いた。
キャスティング的には、『太陽にほえろ』世代にはテキサスを演じた勝野洋で、ピンク映画ファンなら里見瑤子といった感じだと思う。僕はその両方に該当するのだけれど、個人的には夏樹陽子と大池容子がとても印象に残った。
しかも、大池容子は井上淳一監督『戦争と一人の女』 にも出ていたようだ。何処に出ていたのだろう?と思っていたら、ご本人から村上淳を石で殴って逃げる女学生役だったと教えて頂いた。
そんな訳で、女優としての彼女に興味を抱いて調べたら、青年団の演出部に籍を置きうさぎストライプ主宰として作・演出を手掛けていることを知った。
それで、彼女がどんな芝居を作っているのか気になって、この芝居を観たのである。こまばアゴラ劇場で初めて会った彼女は、『あきときぼうのまち』で演じていた愛子のイメージからすると、どこか華奢な印象だった。
大池本人のコメントによれば、『デジタル』という芝居は去年一年間うさぎストライプと業務提携していた木皮成を振付に迎えて“人間ピタゴラスイッチ”的なものを目指した60分だそうである。
その意味では、大池容子単独による作劇とはいささか趣を異にする作品なのかも知れない。
こまばアゴラ劇場のコンパクトな舞台には、エッシャーの騙し絵の如く天井にテーブルと椅子が吊るされ、床に蛍光灯が設置されている。
僕にとってうさぎストライプの舞台は初めてだから他の作品と比較できないのだけれど、この『デジタル』では木皮成の振付による役者の肉体性と大池の物語世界を融合することで、新たな劇空間を作ろうとしたのではないか?異種格闘技とまでは言わないが、そこにある種の化学変化を狙ったトライアルなのだと思うし、その意思は観ていても伝わる。
ただ、その試みが上手くいっているかといえば、残念ながら僕にはそう思えなかった。
一番の問題は、劇場の舞台が小さいことである。木皮成の振り付けた動きが、狭い空間の中に押し込められてしまって肉体性を獲得できていないように感じた。
そして、振付を課された役者たちは、自分の動きと科白の双方に意識が分散してしまい、いささかチグハグな演技になっているように思った。特に、他の役者との会話における“間”の取り方。何というか、相手とのタイミングを計っている空気が漂っていたのではないか。
で、『デジタル』の物語について僕が感じたのは、登場人物たちがそれぞれに喪失を背負って生きているということだ。
色覚の喪失、伴侶の喪失、体の一部の喪失、大切な人の喪失、安寧の喪失…等々。誰もが何かを喪失し続ける日常において、主人公の亀山が義肢装具士の職に就いているのは象徴的だろう。
僕が気になったのは、それぞれに人生のピースを失った登場人物たちの造形やエピソードに、どこかデジャヴと浅薄さのようなものが感じられたことである。
それに、ちょっとだけ未来の日本というエクスキューズを付けつつ戦争の臭いと立ち上げようとするには、今の日本はいささかキナ臭過ぎるようにも思う。
もちろん、この舞台を気に入って、木皮成の付けた動きを楽しめた人もたくさんいるだろうし、ひょっとすると『デジタル』で大池が提示した世界観に共鳴するには、僕がちょっとだけ過去の人間なのかもしれない。肉体的にも、感性的にも。
ただ、配布されたフライヤーには「自分以外のひとに世界がどう見えているのかが気になります。演劇が好きなのは、つくっているひとが見ている世界を一緒に見てる気になるからなのかもしれません」と大池は書いている。
彼女の言葉には僕も共感するのだけれど、残念ながら僕が観た日の舞台では大池が見ている世界を一緒に見てる気になれなかったということだ。
ただ、僕は大池容子という若き劇作家が作り出す、他者とコラボレーションしない“より大池純度の高い”芝居を観てみたいと思う。だから、予定されている次回公演『空想科学』にも足を運ぶつもりである。
相性というものはあると思うが、女優としての大池容子から受けたインパクトを思う時、彼女の表現するものの中に何か自分が感じるものがあると思うからだ。
いずれにしても、剥き出しの肉体性と精神性の両方を観客に晒す舞台って、時として残酷で過酷である。
だからこそ、劇場に足を運ぶ気になるのだけれど。