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舩橋淳『桜並木の満開の下に』

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2012年の舩橋淳監督『桜並木の満開の下に』


35mmの夢、12inchの楽園


プロデューサーは市山尚三、ライン・プロデューサーは古賀奏一郎、協力プロデューサーは川城和実・油谷昇、脚本は舩橋淳・村越繁、音楽はヤニック・ドゥズインスキー、撮影は古屋幸一、照明は酒井隆英、録音は高木伸也、キャスティングは南谷夢、助監督は近藤有希、衣裳は小磯和代、ヘアメイクは中山芽美、D.I.はLee Jung-Min(CJ POWERCAST)。
製作はバンダイビジュアル・衛星劇場・オフィス北野、企画協力はBIG RIVER FILMS、撮影協力は茨城県日立市・日立シネマ制作サポートプロジェクト、配給は東京テアトル・オフィス北野、配給協力はバンダイビジュアル。
日本/119分/シネマスコープ

宣伝コピーは、「桜の花は、迷いの花」
本作は、舩橋監督にとって4作連続のベルリン国際映画祭出品作品である。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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茨城県日立市にある小さな町工場、木村製作所。そこで佐生栞(臼田あさ美)は、夫の研次(髙橋洋)と共に働いている。研次は有能な技術者で、母子家庭だった栞は研二の親からの反対を押し切る形で結婚した。二人はマイホームを購入し、豊かとは言えないが慎ましい幸せを感じながら生活していた。


35mmの夢、12inchの楽園


そんな栞の幸せは、突然潰えてしまう。研次が出張先の現場で事故に遭い、急逝してしまったのだ。積み上げてあったドラム缶の山を作業車が崩してしまい、研次はその下敷きになった。作業車を運転していたのは、同じ木村製作所から派遣されていた研次の後輩・森工(三浦貴大)だった。

作業現場の元請け会社が誠意の欠片も見せぬまま、研次の葬儀は終わった。ローンが始まったばかりのマイホームを抱え、裁判が嫌だからと夫の慰謝料すら求めぬ栞のことを姉(林田麻里)は心配して時々訪れた。いつも栞は、律儀に研次の分まで食事を用意していた。
研次が亡くなった後も彼の実家の態度は冷たいままで、示談金のほとんども実家が持って行ってしまった。
職場に復帰した栞を、仲のいい翔子(松本まりか)を始め同僚たちは腫れ物に触るような態度で接する。にもかかわらず、職場には派遣先から戻った工も働いていた。工は何度も栞に頭を下げ、「自分にできることなら、何でもします」と金の入った封筒を差し出した。その金をはねつけ、「だったら、ここを辞めて!」と叫ぶ栞に「それだけはできません」と工は下を向いた。
社長の木村信夫(諏訪太朗)にかけあっても、「それはできない」の一点張り。研次の腕が良かったことも相まって、他の同僚たちも工に辛く当たった。しかし、工は何も言わず、ただひたすら仕事に向かうだけだった。


35mmの夢、12inchの楽園

研次の事故が原因なのか、それとも不景気のせいなのか、木村製作所にとって生命線とも言える取引先から関係を断たれ、社長はリストラを断行する。そして、自らも工場を辞して後を中堅のヨシさんこと橘義男(柳憂怜)に託した。
工場を去る時、木村は栞に言った。腕のいい職人がいるからと工を連れて来たのは、実は研次だった。そして、工は研次と共にこの工場を大きくするのだと木村に誓った。にもかかわらず、約束を果たせぬまま自分が工場を辞めることになってしまった、と木村は寂しいそうに言った。
その話を聞いた栞は、工が頑なに工場を辞めない理由を理解した。工がこの職場にこだわるのは、研次と社長に対する強い思いからだったのだ。

ヨシさんの指揮の元、製作所は厳しい経営を何とか続けていた。いつでも納期はギリギリで、しかもいまだ工に反発する者もいる。ただ、実際問題として今この町工場を支えているのは、間違いなく工だった。そのことは、栞にも分かった。
寡黙に一人作業を続ける工の姿に、いつしか栞の心も変化し始める。その変化に戸惑っているのは、他ならぬ栞自身だった。


35mmの夢、12inchの楽園

工の金型が認められて、工場には徐々に新規の仕事が入って来るようになった。いまだ、栞や翔子もこの工場で頑張っている。
その最中、栞の元に研次の実家から数枚の紙幣と書類が送られてくる。籍を抜いてくれというのだ。「財産は、びた一文渡さないってことか」と姉は憤った。
そして、唐突に工がここを辞めて大阪の知り合いの工場に身を寄せることを栞は聞かされる。驚いて真意を正す栞に、工は言った。自分は栞のことが好きになってしまい、これ以上迷惑をかけたくないからだ…と。

工が工場を辞めて挨拶に訪れた日、栞は外回りに出ていた。工が工場を出ると、外で雨に濡れながら栞が立っていた。「送るから」と言って、栞は工をバイクに乗せて走りだした。
互いの気持ちを読み切れぬまま、二人は一夜を共にする。


35mmの夢、12inchの楽園

翌朝、駅に向かう二人のバイクは事故現場に遭遇する。停められたトラック。道に散乱するドラム缶。救急車に担ぎ込まれる怪我人と、泣き叫ぶ家族。
その場から駆け出す栞。慌てて追いかける工。栞は言う。やはり、自分は人の道に外れることはできない…と。「それは、本心ですか?」と工に問われ、栞は「そうよ」と答えて立ち去った。

夜のホーム。工は、その日何本目かの大阪行き電車を見送った。いくら電話しても、栞は携帯に出ない。
その頃、栞は平和通りにある有名な桜並木の下にいた。咲き誇る桜を見上げながら、栞は研次のこと、工のことをもう一度考えていた。


35mmの夢、12inchの楽園

ホームに、また一本列車が入線しようとしていた。一人ベンチに座る工のところに、人影が近づいて来た。「私は、あなたを許すことにします」と言って、栞は工の手を取った。
栞の顔を見ると、工は一人大阪行きの列車に乗った。


35mmの夢、12inchの楽園

小さくなる電車の明かりを、栞はいつまでも見送った。


35mmの夢、12inchの楽園

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「小津安二郎や木下恵介など、日本映画がかつて得意としていた人間の心理を描く劇を撮りたかった」
「時間と共に人の心が変化するという部分を見つめるのが、この映画。そんな部分が面白い。ずっと心理劇をやってみたかった」

…こう語る舩橋淳の最新作である。確かに、本作は夫を失った栞の心の変化と戸惑いをていねいに描いた映画である。
しかし、これが優れた心理劇映画となったかと言えば、僕は首を傾げてしまう。

この映画を観ていて強く思ったのは、「描きたいテーマは明白だけれど、果たしてこれは映画としてどうなんだろう…?」ということだった。
一番の問題は脚本だと思うが、演出にせよ、カット割りにせよ、カメラ・アングルにせよ、「映画的に見えるすべてのもの」が、何やらもっともらしいだけで、真に描くべき映画的奥深さを欠いているのではないか…との苛立ちが募った。

この作品が提示する“時間と共に変化する人の心”は、分かる。しかし、ヒロインの栞にしても工にしても、変化するに至るまでのそもそもの人間としての描写があまりに定型的かつおざなりではないか?

作品のテーマに直結する冒頭のシーン。
桜の木の下で、研次が栞に語る「桜ってさ、潔いイメージあるけど実は迷いの花だと思うんだ」という科白に、本作構成上の仕掛けを強く感じてしまう。この段階で、演出としては大きな問題だと思う。
まず、この科白が取って付けたように唐突だ。しかも「桜=潔さ」というのは、万人のイメージするところでもないような気がする。この科白に僕がイメージしたのは、「同期の桜」だ。
で、案の定、映画の後半に平和通りの桜並木の下で、栞は夫のこの言葉をリフレインして工を許すことにする。冒頭のシーンでこの展開が予想出来てしまうのは、やはりどうかと思う。少なくとも、最初のこの科白が出る過程にナチュラルさは不可欠だと思うのだ。

そして、製作所で働く戸高卓(三浦力)や隅田(小澤雄志)の悪辣な造形があまりにも無意味に類型的なのもどうか。
また、父親に捨てられた栞姉妹の家庭と佐正家との確執には、栞が「平凡で幸せな家庭」を強く望む以外に、一体何の意味があるのか?もう少し、ほかの設定があったのではないか。これでは、まるでチープな昼メロの世界である。心の機微を標榜する作品とは、まるで相容れないだろう。

工の造形は魅力的だと思うが、如何せん彼が栞に恋心を抱くくだりが不自然だし、それを彼女に告白するところも工の人間性を考えれば「告白しないんじゃないだろうか?」との思いが拭えない。
事故のことを悩み、ひとり神経性の胃炎になってしまうような男なのだ。
工を演じる三浦貴大が悪くないだけに、一層観ていてストレスがたまる。

それと比較すれば、まだ栞が夫の死亡事故と工の想いとの間で揺れる方がリアリティを感じる。
現場ではひたすら感情を抑えて演じることを求められた臼田あさ美の沈鬱なストイックさは、いい。逆に言えば、彼女と三浦の役者的魅力で、映画は何とか119分持ち堪えているとも言える。
人物的に一番いいのは、個人的には諏訪太朗演じる木村なのだが。

本作は、映像的な問題も多く抱えている。
まず、あまり必然性があるとも思えない感傷的なオープン・シーンを挿入し過ぎではないか?また、栞が運転するバイクを追いかける映像が、あまりにドキュメンタリー的で違和感を禁じ得ない。
そして、一つのハイライトとも言える日本さくら名所100選にも選ばれた日立市平和通りの桜並木のシーンが、あまりにコマーシャル的な美しいライトアップで、却ってドラマの興を削いではいないか?

僕が本作の白眉だと思うのは、怪我で欠勤した工の家を栞が図面を持って訪ねるシーンである。そこでの彼女と工の母親のやり取りにこそ、人間の心理描写を感じた。
その反面、ラストの夜の駅でのシーンは、いささか過剰に情緒的でまどろこっしいと思う。

「人の心の変化を描いた心理劇」であるならば、まずは人をリアルに描かなければならない。
その根本のところが、何とも弱い一本である。

余談ではあるが、本作を取り立てて「東関東大震災後を舞台にした」と強調する意味があるのだろうか?


沖田修一『横道世之介』

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2013年公開の沖田修一監督『横道世之介』

35mmの夢、12inchの楽園

プロデューサーは西ヶ谷寿一・山崎康史、共同プロデューサーは西宮由貴・宮脇祐介、ラインプロデューサーは金森保、原作は吉田修一「横道世之介」(毎日新聞社 文春文庫刊)、脚本は沖田修一・前田史郎、音楽は高田漣、主題歌はASIAN KUNG-FU GENERATION「今を生きて」(キューンミュージック)、撮影は近藤龍人、照明は藤井勇、録音は矢野正人、美術は安宅紀史、衣裳は纐纈春樹、ヘアメイクは田中マリ子、助監督は海野敦、制作担当は刈屋真、スクリプターは田口良子、編集は佐藤崇、音響効果は斎藤昌利、VFXスーパーバイザーはオダイッセイ。
製作は「横道世之介」製作委員会(日活、博報堂DYメディアパートナーズ、バンダイビジュアル、毎日新聞社、アミューズソフトエンタテインメント、テンカラット、ショウゲート、文藝春秋、ソニー・ミュージクエンタテインメント、テレビ東京、テレビ大阪、BSジャパン、Yahoo!JAPANグループ)、企画・製作幹事は日活、制作プロダクションはキリシマ1945、助成は文化芸術振興費補助金、協力は法政大学、配給・宣伝はショウゲート。
2012年/日本/160分
宣伝コピーは「出会えたことが、うれしくて、可笑しくて、そして、寂しい――。」


時は1980年代、バブル景気華やかなりし頃。長崎県の港町で生まれた横道世之介(高良健吾)は、東京の大学に進学。慣れぬ都会暮らしを始める。引越し先のアパートでは、住人の小暮京子(江口のりこ)に怪しまれる。


35mmの夢、12inchの楽園


大学の入学式ではいささか軽薄な倉持一平(池松壮亮)と、オリエンテーションでは阿久津唯(朝倉あき)と、世之介は知り合う。大学の先輩には、故郷の知人である川上清志(黒田大輔)がいる。川上はマスコミ志望で、彼の知人にはやはりマスコミ志望の小沢(柄本佑)がいる。

35mmの夢、12inchの楽園

世之介は天真爛漫、大らかな性格で、頼まれると嫌とは言えない。いつもニコニコして、嫌味もないが遠慮もなく、そこが深いのか実は何も考えていないのか今いちつかめない言動だが、誰もが世之介に惹きつけられた。
キャンパスのサークル勧誘で、うやむやのうちに世之介は一平、唯と一緒にサンバサークルに入会してしまう。出逢いは最悪だった唯と一平は、いつしか付き合うようになっていた。

世之介は、教室で知り合ったいつも寡黙で不機嫌そうなイケメン・加藤雄介(綾野剛)と持ち前の強引さで友達になる。

35mmの夢、12inchの楽園

とあるきっかけで知り合った年上のミステリアスな女性・片瀬千春(伊藤歩)に惹かれていた世之介だが、加藤に想いを寄せる戸井睦美(佐津川愛美)が持ちかけたダブルデートに何故か付き合わされ、そこで超がつくほどのお嬢様・与謝野祥子(吉高由里子)と知り合う。

35mmの夢、12inchの楽園

世之介を気に入った祥子は、世之介の上を行く天然の強引さで、世之介のアパートや、友人たちとの海水浴や、果ては長崎の実家にまでやって来てしまう。世之介の両親・洋造(きたろう)と多恵子(余貴美子)もさすがにたまげるが、祥子はどこ吹く風だ。
やがて、世之介も祥子の一途さに惹かれて行くが…。

35mmの夢、12inchの楽園


2時間40分の上映時間はいささか長尺だが、劇場で観ている体感時間はその長さを感じさせない。少なくとも、僕は時計の針を気にすることなく最後まで映画に見入ってしまった。
悪くない映画である。

物語云々の前に、とにかくマニアックにこだわった時代考証が秀逸で目を見張る。80年代に青春時代を過ごした昭和世代には、あまりにリアルな懐かしさにあの頃の自分を想起して赤面・苦笑することだろう。

新宿東口マイ・シティ(現・ルミネエスト)に始まって、道行く人のコスチューム、あられちゃん眼鏡と言われたデカいセル・フレームの黒縁眼鏡、街頭でキャンペーンする垢抜けないチアガールの如きキャンギャル、松田聖子カットの髪型、軽薄なマスコミに憧れるイケてない業界ファッションを真似るマスコミ志望の学生、バブル臭をまき散らすことがステイタスなカリスマ風女性…等々。
いやはや、見事の一言である。それだけでも、観ている者を飽きさせない。

沖田修一の語り口は、イノセントなストーリーテリングとは相反するように何とも技巧的。世之介の学生時代の話は過去の記憶であり、当時の彼と青春の一時期を共に過ごした旧友たちの今の視点から回想される。
あの時から15年が経過した現実を生きる者たちが、自分の人生の深いところでコミットした「横道世之介」という不思議に魅力的だったイノセンスを、ふとした瞬間に思い出す…そんな構成の映画だ。
160分という時間を縦横無尽に使い、沖田はあちこちに人々の人生のピースを散りばめ、それを匠のクロスワードパズルの如く見事な一枚の画に形作って見せる。

各々が滑稽で、ひと癖もふた癖もあり、けれでもそれぞれの人生を不器用に格闘しながら生きている。その横には、いつでもあのお気楽で図々しい横道世之介という男がほがらかに笑っているのだ。

実は、カメラマンになった世之介は、33歳の若さで新大久保駅に転落した乗客を助けようとして命を落としている。あれだけ惹かれ合った祥子とも別の人生を歩んだ後に、である。
それでも、人々の胸に彼は温かなぬくもりとして生き続けている。

唯一の不満は、世之介と祥子の別離に何の言及もされない点である。
あと、どうして世之介がかくも人々を惹きつけてやまないのか、そのことが僕には見えてこない部分があるのだが、まあそれを言うのは野暮というものだろう、きっと。

役者陣は、それぞれにいいが、やはり主演の二人・高良健吾吉高由里子の魅力に負うところ大である。二人の共演は、蜷川幸雄監督『蛇にピアス』(2008)以来だ。
脇を固める池松壮亮綾野剛余貴美子伊藤歩、その他のキャストもこの物語に華を添える。

35mmの夢、12inchの楽園

本作は、口にするのがいささか照れ臭い「青春」のビタースイートさを再び喚起してくれる秀作。
あの頃のいささか恰好悪かった自分と再会しながら、堪能したい一本である。

発酵する世界@国立 地球屋(2013.4.27)

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昨夜は、国立地球屋に「発酵する世界」と題されたライブを観に行った。


35mmの夢、12inchの楽園


出演は、石原岳(g)、大友良英(g)、日野繭子(noise)、中村亮(ds)、勝井祐二(vl)、ササキヒデアキ(映像)。
このイベントは、沖縄県東村高江在住のミュージシャン石原岳が、沖縄県本島北部の亜熱帯森林地帯ヤンバルにある高江で行われているヘリパッド建設工事への抗議活動の一環として勝井祐二と共に開催したものである。


ライブは二部に分かれ、出演ミュージシャンの様々な組み合わせで演奏が繰り広げられた。


第一部

1.大友良英+石原岳
まずは、現在NHK連続テレビ小説「あまちゃん」の音楽担当でもある大友と石原のギター演奏からスタート。
二人とも、それぞれに個性の違った音をフリーキーに発する。寄り添うでも交わるでもなく、にもかかわらず独特の音圧で聴く者を圧倒する演奏が清々しい

2.日野繭子+石原岳
日野繭子のノイズ操作と石原のギターの組み合わせが、どういう音響的効果を見せるのか興味深かったのだが、演奏の前半はノイズにギターが埋もれてしまい何となく日野の独奏の印象すら受けた。
後半に入ってようやく石原のギター音が差別化できるようになったから、前半からこの展開であればもっと面白いコラボレーションになったと思う。

3.勝井祐二+中村亮+石原岳
勝井のエレクトリック・ヴァイオリンと中村のドラムス、それに石原のノイジーなギターでどんな音楽が構築されるのか…と楽しみだったのだが、何となく三人の音像がクリアーになっていなかったように思う。
まず、ドラムの音の抜けが良くない。それにメロディーとノイズのバトルと融和にならず、いささかの予定調和的展開を見せてしまったように感じて、個人的にはフラストレイトしてしまった。

第二部

4.日野繭子+大友良英
これも楽しみな組み合わせだったのだが、前半の展開は日野+石原のコラボと同様の印象だった。つまりは、ギターの存在がノイズに埋もれがちということ。中盤から大友のノイジーなギターも音の主張が前に出て来るのだが、それでも音楽的な成果としては物足りない。
個人的に思うのは、日野のノイズと共演する場合あえて同じベクトルのノイズ・ギターばかりを奏でるのでなく、そこにメロディーをあえてぶつける試みがあってもいいのではないか?ということだ。そういう“聴く者の想定”をあえて覆すところにこそ、こういうコラボレーションの意外性があると思うのだ。

5.日野繭子+勝井祐二
日野のノイズと勝井のメロディーをどう融合させるのか?これも楽しみな演奏だった。これまでに日野のライブを3度見ているが、どの演奏も圧倒的なノイズ照射が彼女のマナーだったからだ。
しかし、ここでは勝井の旋律が演奏の核となり、それを日野がストイックなノイズ演奏で浮遊させて行く展開だった。サイレントに始まった演奏は、やがてトランス感を伴ったアンビエント・ノイズへと昇華して行った。
類似性がある訳でもないのだが、勝井のヴァイオリンに僕はイッツ・ア・ビューティフル・デイを思い出した。
願わくば、何処かでこのアンビエント感を突き抜ける暴力的な展開を…と思っていたのだが、そこまでは突き抜けなかった。ライブ終了後に日野さんにそのことを言ったら「そこまでの余裕は、なかったなあ」とのことだった。
でも、彼女の新たな試みは一つの成果を見せたと思う。


35mmの夢、12inchの楽園

5.大友良英+勝井祐二+中村亮
このトリオは、なかなか刺激的な演奏を聴かせてくれた。前半の演奏は、キング・クリムゾン「太陽と戦慄(パートⅡ)」の音像と比する刺激に満ちていた。
ただ、後半に来てその音楽的刺激が薄れて行ったように感じて、残念に思った。


35mmの夢、12inchの楽園

6.全員でのセッション
この日のラストは、フルメンバーによる演奏で。狭いステージではあるが、この5人での演奏は華やかで楽しいものだった。


なかなかに刺激的な試みだし、音的な意義も感じ取れるイベントであった。
ただ、今回のコラボレーションの数々はいわば一期一会的性格があるから、どうしてもいささかの予定調和的収束を感じる個所も散見された気がする。「この人とこの人なら、こういう展開だろうな…」という予想を覆されるような音があまりなかったということである。
多分に、相手との呼吸を読みながらの演奏であったことがその理由だと思うのだが、そこに音的なバトルの如きものが加わるとさらに面白い音楽となったように思う。
その意味では、イケそうでイケない寸止め感が僕にはあった。

なかなかに面白いイベントだし、音にインテリジェンスのあるライブであった。
石原岳の運動共々、より広くアピールする活動となることを望みたい。

ブラッド・バード『レミーのおいしいレストラン』

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2007年のブラッド・バード監督『レミーのおいしいレストラン(Ratatouille)』


35mmの夢、12inchの楽園


製作総指揮はジョン・ラセターとアンドリュー・スタントン、製作はブラッド・ルイス、脚本はブラッド・バード、ストーリー・スーパーバイザーはマーク・アンドリュース、撮影はロバート・アンダーソンとショロン・カラハン、音楽はマイケル・ジアッチーノ、編集はダレン・T・ホームズ。
製作はピクサー・アニメーション・スタジオ、配給はウォルト・ディズニー・スタジオ。
原題の「ラタトゥイユ」は、フランス南部の野菜煮込み料理の名前である。
なお、本作は第80回アカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞している。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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フランスの片田舎。大家族で生活しているネズミの匹レミー(声:パットン・オズワルト)は、他のネズミたちとは異なり鋭敏な味覚と鋭い嗅覚を持っていた。彼は、人間の食べ物を盗み腐った物を拾い食いする仲間たちに疑問を抱いている。
彼は、時折人家に忍び込んでは、料理番組や料理の本を盗み読んで料理の研究に余念がない。レミーにとっての英雄は、5つ星のレストラン「グストー」オーナー・シェフ、グストー(声:ブラッド・ギャレット)だ。「真の情熱さえあれば誰でも名シェフになれる」がモットーのグストーが書いた『誰でも名シェフ』はレミーにとってはバイブルだ。
グストーの言葉に、レミーは「いつか、自分も一流のシェフになりたい…」という叶うはずもない夢を見ている。


35mmの夢、12inchの楽園

しかし、グストーの「誰でも名シェフ」に反感を持ったフランス料理界一の評論家イーゴ(声:ピーター・オトゥール)がグストーの料理を酷評。その結果、「グストー」は4つ星に格下げされ、そのショックからかグストーは急逝してしまう。そして、レストランはさらにひとつ星を失う。
失意のレミーは、ある日棲みかを追われ家族とも離れ離れになってしまう。一人地下の下水道で途方に暮れているレミーの前に、グストーの亡霊が現れる。ゴースト・グストーに誘われて外に出たレミーは、自分が煌びやかなパリのど真ん中にいたことを知る。
ゴースト・グストーは、さらにレミーをかつての自分のレストラン「グストー」へと導いた。


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「グストー」の厨房に潜り込んだレミー。現在の料理長スキナー(声:イアン・ホルム)は儲け第一の傲慢な男で、彼はグストーのブランドを使ってやりたい放題。彼が料理長になってからというもの、いよいよ「グストー」は評論家筋から評価を落としていた。
そんな店に、母親からの紹介状を手にリングイニ(声:ルー・ロマーノ)という気弱そうな青年が職を求めてやって来る。彼の母親はグストーとは恋仲だった人。リングイニは何とかゴミ処理係として職を得る。
要領も悪ければまともに料理もできないリングイニは、ヘマをしてスープを台無しに。見かねたレミーは、スープの入った鍋に手を加えて味を立て直す。その姿を目撃したリングイニは愕然とする。
彼のスープを飲んだ女性料理評論家がその味を絶賛。てっきりリングイニが作ったものと思い込んだスキナー以下料理人たちは、驚きと疑いの目をリングイニに向けた。

35mmの夢、12inchの楽園


これを千載一遇のチャンスと考えたリングイニは、レミーを帽子の中に隠して二人羽織で料理することを思いつく。
彼の作る料理はお客たちの評判となり、「グストー」唯一の女性シェフ・コレット(声:ジャニーン・ガロファロー)はリングイニに好意を抱き始める。
一方、グストーの息子らしいリングイニのお陰で、スキナーはこの店を継ぐ権利が怪しくなり戦々恐々とし始める。


35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

料理の腕が注目を集めコレットとも恋仲になったリングイニは、次第にいい気になって行く。このレストランの権利も、グストーの遺言により彼のものになった。勢い、彼は本当の英雄たるレミーの存在を煙たがる。
二人は仲違し、リングイニの心ない一言でレミーは人間に失望。リングイニを見捨てて姿を隠してしまう。
レミーが消えて途方に暮れるリングイニは、さらなる窮地に立たされる。すこぶる評判がいい「グストー」をイーゴが再訪。自分に料理を出せとリングイニに言った。


35mmの夢、12inchの楽園

厨房でフリーズするリングイニ。シェフたちは、彼の指示を苛々しながら待っている。そこに、レミーが戻って来る。やはり、レミーはこのレストランを見捨てることができなかった。
レミーに気づいたリングイニは、実は自分の出した料理がレミーの作ったものであったことをカミング・アウトする。それを聞いたシェフたちは、厨房から出ていた。コレットも一度は出て行ったが、もう一度店に戻る。
料理人のいない厨房。テーブルには、待ちくたびれたイーゴの姿が。レミーは、仲間のネズミたちと一緒に料理を始める。彼が作った料理をテーブルに運ぶのはリングイニの仕事。店は、ようやく活気を取り戻す。

35mmの夢、12inchの楽園

レミーがイーゴに作ったのは、何と田舎料理ラタトゥイユだった。この意外なチョイスに、イーゴは何も言わず料理を口にした。すると、イーゴは少年時代に母親が作ってくれたラタトゥイユを思い出す。幼少期の郷愁と、洗練の極みたるレミーの逸品。一流の料理評論家は、この料理の価値を瞬時に理解した。
食事を終えたイーゴは、シェフと話したいとリングイニに言った。リングイニは、これは自分が料理したものではないと正直に告白。他の客が帰った後、彼はレミーを紹介した。
何も言わず、イーゴは帰って行った。

翌日、イーゴの評論が掲載された。イーゴは、レミーの料理を絶賛。そして、これまでの自分の評論スタンスにまで言及して、自分のグストーに対する誤った認識を正した。今の「グストー」の厨房を預かる意外なシェフこそ、フランス最高のシェフだと彼は最大の賛辞を送った。
しかし、レミーがネズミであることはすぐに保健所の知るところとなり、「グストー」は営業停止。イーゴも料理評論家としての信用を失意する。
にもかかわらず、イーゴはめげることなくレミーがリングイニやコレットと始めた新しい店に出資。彼は、レミーのフランス一素晴らしい料理に舌鼓を打ちながら、幸せな日々を送っている。
レミーの夢は、今大輪の花を咲かせていた…。

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僕は、基本的にアニメーションを子供のための教材的エンターテインメントたるべきだと考えている。
もちろん、様々なタイプのアニメがあり大人に向けられた尖鋭的な作品も数多ある訳だが、それでもやはりアニメーションという表現メディアは、最良の情操教育ツールであることが理想だという考えをいまだに持っている。

そこには「正しさ」があり、シンプルで豊かな世界観があり、ある種の教育的な啓蒙があるべきだ。
そして、一見分かりやすいドラマツルギーの中に、ある種まっとうな人生哲学のようなものを落し込むべきである、と。
ダークなもの、過酷なだけの物語など、ある程度の年齢が来れば嫌でも対峙しなければならないのだから…。

その意味において、この『レミーのおいしいレストラン』はとても優れた作品である。

ストーリー紹介に詳細を書いてしまったが、物語は至ってシンプル。ただ、思いの外レミーの人生観(というか鼠生観というべきか?)は、含蓄に富んだ気高いものである。それは、ネズミでありながら残飯漁りを嫌い人間の所から食べ物をくすねることをプライドがないと考える点である。味に対する彼の価値観も然り。
そして、作品を支えるテーマの一つ、人間との共存に理想を見る点が本作の正義とも言える。

そこに典型的なヒールのスキナーがいて、理想の象徴であるグストーがいて、レミーとはまた違った意味でのマイノリティであるコレットが配されている。
実は、本作で一人位置付けが難しいのがリングイニ。ある意味、彼は情けなき弱者のカリカチュアな訳だが、結局彼がレミーとの出逢いでどう成長をしたのかが見えてこない。
コレットとリングイニの恋愛は、これもまた一つの定型的ロマンティシズムである。


35mmの夢、12inchの楽園

映像として観た時、本作のアニメーションは個人的にはしんどい部分も少なくない。それは、情報量過多の立体的映像が120分間目まぐるしく展開するからである。
何というか、遊園地のヴァーチャル・アトラクションにずっと乗り続けているようで動体視力がついて行けず、いささか疲れてしまうのだ。

で、僕が強く心揺さぶられたのは、やはり辛辣な権威主義的評論家イーゴの変化である。彼の頑なな心を開く鍵となるのが原題「ラタトゥイユ」であるところが、とても正しいと思う。
イーゴは、幼少期の原風景をレミーの料理に見たことで、自分の評論家としての原初的な志に立ち返ることができたのだろう。権威や力といった贅肉が鎧となる前の、ピュアな自分に再会した…とでも言えばいいか。

僕も、アマチュア評論書きの端くれだから、ラストでイーゴが語る「評論家とは…」のくだりにいたく共鳴してしまった。
ここにはあえて書かないから、興味のある方は是非作品を観てほしいのだけど、自分自身が考える「評論のあるべき姿」をそのままイーゴの口から聞かされた気がして、熱くなってしまった。
イーゴが辿り着いた思いで書いていかなければ、評論なんて何の意味もなさないとさえ僕は思うのだ。

本作は、自分の理想を持つことに疲れつつある人にこそ観て頂きたい。子供はもちろん、大人が観ても強く心に響くものが見つかるはずだ。
公に向けて某かの文章を書いている諸氏に必見なのは、言うまでもないだろう。

小林政広『バッシング』

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2006年公開の小林政広監督『バッシング』

35mmの夢、12inchの楽園 35mmの夢、12inchの楽園

脚本は小林政広、撮影監督は斉藤幸一、編集・仕上げコーディネイトは金子尚樹、助監督は川瀬準也、録音は秋元大輔、効果は横山達夫、チーフ撮影助手は鏡早智、制作進行は板橋和士、ネガ編集は小田島悦子、撮影助手は柴田潤・花村也寸志、編集助手は清野英樹、制作応援は小林克己・武長俊光タイトルは道川昭、タイミングは安斎公一、リレコは福田誠、ロケーション統括は波多野ゆかり、プロダクションデスクは岡村直子、主題歌は林ヒロシ「寒かったころ」、挿入歌は林ヒロシ/アルバム『とりわけ十月の風が』(ミディ)より、撮影機材はナック、フィルムは報映産業(富士フィルム)、スタジオはアップリンク、現像は東映ラボ・テック。
製作はモンキータウンプロダクション、配給はバイオタイド。
2005年/35mm/1,66/カラー/モノラル/82分
宣伝コピーは「ひとりの女性が日本を捨てた――。彼女が彼女であるために。」

35mmの夢、12inchの楽園

ヒロインの高井有子が卜部房子にアテ書きされた本作は、苫小牧をロケ地に1週間で撮影された。
なお、本作は第58回カンヌ国際映画祭コンペティション部門公式出品作品であり、第6回東京フィルメックスにおいて最優秀作品賞(グランプリ)を獲得した。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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海を望む北海道の某町。ラブホテルでベッドメイキングの仕事をしている27歳の高井有子(卜部房子)は、支配人の井出(香川照之)に呼び出されクビを宣告される。事件からはすでに半年が経ったが、いまだ彼女は世間の批判に晒されていた。今回の解雇も、あの事件が原因だった。

やるせない気持ちを抱えてコンビニでおでんを買った有子は、外に出た途端駐車場にいた男三人におでんを踏みつけられた。アパートに帰宅すると、またしても嫌がらせの電話が彼女の「自己責任」を詰問していた。

35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

中東の戦時国に海外ボランティアとして渡った有子は、武装グループに人質として拉致監禁された。幸い彼女は無事解放されて帰国。ところが、日本国内で彼女は激しくバッシングされる。
周囲には常に刺すような視線があり、ネットでは彼女を批判する言葉が溢れ、家には日に何本も嫌がらせの電話が掛かり続けている。一緒に暮らす父・孝司(田中隆三)と継母・典子(大塚寧々)も、常にピリピリしている。

有子は恋人の岩井(加藤隆之)にまで責められて離別し、道で知り合いに会えばあたかも異分子のような扱いを受けた。

35mmの夢、12inchの楽園

世間からのバッシングは有子だけにとどまらず、孝司も上司の植木(本多菊次朗)に呼び出されて30年勤めた工場をあっさり依願退職させられた。
すっかり塞ぎ込んだ孝司は、日中に家で酒を大量に飲んだ後、衝動的にアパートの手すりを越えて身を投げた。

35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

父の自殺が新聞に載ったことで、有子に対する世間の態度は以前にも増して苛烈なものになって行った。
葬儀を終えて疲弊した典子に、自分にも父の遺産を相続する権利はあるだろうと言う有子。その言葉に典子は怒りを爆発させ、何度も有子の頬を叩いた。「あの人を返してよ!」と繰り返す継母の姿を見上げながら、有子の目からも涙が流れた。

35mmの夢、12inchの楽園

有子は航空会社に電話して、またあの国に向かうためのチケットを予約する。そして、彼女は典子に渡航することを告げる。幼少期から何一つ上手くいかず、親友と呼べるような相手もいない。そんな彼女を必要としてくれたのが、あの国だった。
「この国じゃ、みんな怖い顔してる。私も、怖い顔をしてるんだと思う。この国には、私の居場所なんてない」と有子は言った。「意識してなかったけど、私も怖い顔してたのかも…」と典子。もうこの国には戻らないと有子は決めていた。
有子は、不意識に初めて典子のことを「お母さん」と呼んだ。「見送りには行かないから」と言って、典子は餞別を渡した。

35mmの夢、12inchの楽園

夜明けの埠頭、スーツケースを傍らに置いて立つ有子。彼女の心は、あの国へとすでに飛び立っていた…。

35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

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凄い映画である。
先ず作品として非常に優れているし、この時期にあえてこのテーマを扱い、しかもこのストーリーテリングで描き切る。小林政広という稀有な才能の、作家的腹の括り方に畏怖の念すら抱く力作である。

本作を評する前提として、すでに9年が経過し世間的には忘れ去られつつある過去の記憶…かも知れない「あの事件」を覚書的に記しておく。

2003年3月20日に始まったイラク戦争。年内に正規軍同士の戦闘は終結宣言が出されたものの、イラク国内では治安が悪化し戦闘は続いていた。
2004年に入り反米武装勢力の攻撃が激化。そのような国際情勢の中、外務省からの渡航延期勧告を無視する形でイラクに入国した3名の日本人(ボランティア、カメラマン、ジャーナリスト志望の未成年)が4月7日に武装勢力により誘拐される。
犯行グループは自衛隊撤退を要求するが、日本政府はそれを拒否。4月15日に三人は無事解放されたものの、時の首相小泉純一郎始め政府関係者が「自己責任論」を展開して事件当事者を指弾したことから、マスコミ報道が過熱。彼らは世論の激しいバッシングに晒された。

この事件に材を取ってはいるものの、物語自体は言うまでもなくフィクションである。長く続く不況により閉塞感が漂う社会状況の中、あたかも息苦しさと深刻なストレスの矛先の如く展開した激しいバッシング。
様々な見解はあるだろうが、まるでエキセントリックな社会的暴力性に差し出された一種のスケープゴートのようにさえ映る。

これまでにも阻害された社会的マイノリティを描いて来た小林は、この事件をひとつの象徴的出来事として捉えたのだろう。だからこそ映画のタイトルは「バッシング」であり、映画の視点はあくまでも阻害される人々に寄り添っている。

つまるところ、きっかけが何であれ、高井家の人々が晒された激しいバッシングは、明日は「あなた」「私」に牙を剥くかも知れない…それが本作のテーマである。
世の中という曖昧模糊としたイメージの中で、理不尽に容赦なく襲いかかる暴力、その不穏な影はいつでも我々の傍にいて、付け入る隙を窺っているのだ。
この作品が内在している“怖さ”あるいは表現としての力は、この普遍的なテーマに根差しているからこそだろう。

とにかく、自転車を漕ぎ職場のラブホテルに入って行く有子の険しい表情を見ただけで、彼女を取り巻く世界の冷徹な空気が伝わって来る。そして、その張り詰めた息苦しさは一切の弛緩を許さず、むしろさらなる苛烈さを伴って82分間走り抜けて行く。
直接の暴力的な描写があるとすれば、それは有子がコンビニで買ったおでんを男たちに踏みつけられる個所と典子が有子の頬を叩く個所のみだが、むしろ周囲の者たちが言葉によって高井家の人々に与えるダメージの方がよほど残酷だ。
その悪意という名の毒素は、6か月という時間をかけて家族の精神を蝕み続けているのだ。

重要なのは「有子が何をしたのか」ではなく、彼女に向けられる暴力そのものの質である。そして、彼女には傷ついた心を共有する相手もいなければ、逃げ込むべきシェルターすらないという過酷さである。
小林政広の作家としてのストイックな厳しさをよく表しているのが、あえて有子を情緒的に描かず、「駄目だなぁ、有子には強く生きろなんて言ってるのに、自分のことになると全然駄目だ」と孝司に語らせ、典子を継母に設定することである。
父親が自殺した後、いまだ「お母さん」と呼べずにいる典子との関係だけが残るところにも、有子のあまりに深い孤独が描かれているのだ。

たびたび、有子がコンビニにおでんを買いに行くシーンが登場する。彼女はたっぷり汁を入れたコンニャク等の低カロリー具材を注文するが、その姿は「東京電力OL殺人事件」の被害者女性と重なる。東電OL同様、有子は強いストレスにより拒食症を罹患しているということなのではないか。
荒涼とした苫小牧工業地帯の町並みは、そのまま有子の心象風景とシンクロして、その町の中で彼女は追い詰められて行く。彼女にとっては、周囲のみならず家族さえもが自分を攻撃する側なのだ。

映画的ピークのひとつは、もちろん孝司が自殺するところである。昼間から部屋で一人虚ろな目でビールを飲み干し、吸い殻の山を作った後、次の場面は帰宅した有子になる。そして、開け放たれた窓と不吉に揺れるカーテン。
その後につながるのが、住職の読経を聞く喪服の典子と有子。あえて孝司の死体を映さず、親子二人だけの告別式に彼女たちの置かれた状況を仄めかす。自分のドラマツルギーに確信がなければ、なかなかやれない演出だろう。

ただ、実は孝司の最期のシーンに僕は不満を感じた。ライティングの問題があるのかも知れないが、酒と煙草に囲まれたあのシーンのテーブルの上や灰皿が整然とし過ぎてはいないか?
孝司は自暴自棄に酩酊している訳だから、灰皿は燻り室内は煙が充満して、コップには飲みかけのビールが残っていて、テーブルも汚れていて然るべきだと思うのだ。

物語は息も出来ぬような緊張感を強めて行くが、その中で有子が典子を無意識に「お母さん」と呼ぶシーンが出色。そして、有子が海外ボランティアに向かう動機を逃げることなく描くところに、小林の作家的誠実さを見る。
生半可な感傷を拒むようなエンディングもいい。

演じる役者陣は必要最小限に搾り込まれているが、その誰もが「この役にはこの人以外考えられない」と思わせる説得力がある。

本作は、誰の心にも巣食う理不尽な悪意と暴力性を描いた傑作。有子が歩かされるタイトロープは、明日はあなたの人生に張られているのかも知れない。
心底、恐ろしい作品である。

NAADA @恵比寿天窓.switch

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5月14日、恵比寿天窓.switchでNAADAが出演するライヴを観た。
僕がNAADAのライヴを観るのは、これが30回目。前回観たのは3月15日 、場所は新宿SACT!であった。
この会場はNAADAにとって初めての場所である。


35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園


NAADA:RECO(vo)、MATSUBO(ag)


35mmの夢、12inchの楽園

では、この日の感想を。

1.おやすみBaby
新曲。1曲目だからか、演奏云々よりもライブハウスの空間と音響とが若干馴染んでいないように感じた。
音像に中途半端な靄がかかったような浮遊感があった。

2.Good morning
1曲目同様、音のパースペクティヴに違和感がある。何やら、ギターが天井から聞こえて来るような印象で落ち着かない。
そして、肝心の音像は不自然なくらいにクリアーに聴こえるのだが、何故か立体感には乏しい。歌も演奏も悪い訳じゃないのだが、バランスがしっくりこないのだ。

3.RAINBOW
決して悪いライブハウスじゃないのだが、この日のPAとNAADAの音楽性は上手く噛み合っていなかったのじゃないだろうか?
二人編成におけるNAADAの魅力の一つは、オーディエンスのイマジネーションをかき立てるような音楽的行間を持たせた演奏にあると僕は思う。然るに、この日の音像にはそういう余白がとても少ないように感じた。
RECOの声はよく出ているし、音圧にも問題はないのだが、トータルとして音に奥行きがなくフラットなのだ。あと、マツボの奏でるギターにいつもの繊細な表現力が不足しているような気がした。

4.Little Fish
フレンチポップ的でキュートな小品。エフェクターによりギターをループさせた音を交えた演奏を聴かせた。演奏はいいが、曲のキャラクターに比して音の押し出しが強すぎるのではないか。

5. echo
ギターのイントロから、歌い出しのヴォーカル・エコーのかけ方、そしてRECOの声にハッとさせられる。素敵な出だしである。
ただ、途中ギター・プレイが不安定に感じた個所がある。そして、出音のラウドさが曲の良さを相殺してしまう怨めしさがあった。
ラストの静寂な歌は、出色の表現力である。

6. fly
比較的抑え気味のギター・ストロークと歌で入る。全体的にギターのサウンドがジャラついて聴こえた。
僕の好みを言わせて頂ければ、この曲の魅力はスケールの大きさとタイトル通りの飛翔するような奥行きある空間性なのだけど、ここでも音像が平板に感じてしまった。
一番高い音になった時のRECOのボーカルは、とても抜けが良く胸に響いた。

7.愛 希望、海に空
歌い出しの短いフレーズがノン・エコーに聴こえて、簡素に過ぎる印象。ただ、その後は効果的にエコーがかかり、ギターの音色もカラフルさが出ていた。それでも、何故か音楽に身を任せる…というところまで行かない。何故なのだろう?
後半に入って、ギターの音がベシャついた印象を受けた。RECOとマツボのハーモニーの相性は、この日も抜群だった。

8.淡香色の夏空へ
個人的には、この日のベスト・パフォーマンス。ギターの音色、ボーカル、バランスと音像に一体感があって、音のトータリティがしっかり感じられた。RECOの歌も、とてもナチュラルでこの曲の良さがしっかり伝わった。


繰り返しになってしまうのだが、この日の演奏は40分間ずっと音作りが手さぐり状態だったように感じた。そして、スピーカーからアウトプットされる音像が、平板な印象を拭えないままであった。

その意味では、僕の持っているNAADAの良さがなかなか伝わりづらいライヴだったように思う。残念である。
ただ、楽曲のクオリティは今さら言うまでもなく素晴らしいし、それは新曲にも言えることだ。
逆に言えば、彼らの音楽性を受け止めるアウトプットを会場ができるかどうか…の部分に左右されることが、ライヴでは最大の問題である。
何度か書いたことがあるけれど、僕の理想はある程度の広さがある会場でのワンマンである。本当に観たい。
その意味では、今NAADAが出演している会場でベストなのは南青山月見ル君想フだと思う。


35mmの夢、12inchの楽園

さて、次のNAADAライヴは、6月7日(金)の東新宿 真昼の月・夜の太陽で、編成は二人のみ。これまでとは違った冒険を試みるようなので、とても楽しみである。


その後、しばらく彼らはライヴ以外の活動に専念するらしいから、興味のある方は見逃し厳禁である。

戸田幸宏『暗闇から手をのばせ』

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2013年公開の戸田幸宏監督『暗闇から手をのばせ』

35mmの夢、12inchの楽園

プロデューサーは太田隆文・戸田幸宏、脚本は戸田幸宏、撮影ははやしまこと(J.S.C.)、撮影補は道川昭如、照明は吉住荘介、録音は丸池嘉人、挿入歌・主題歌は転校生「きみにまほうをかけました」「爆音ヘッドフォン」(EASEL)、美術は竹内悦子、編集は坂本久美子、整音・音響効果は小牧修二、助監督は下條岳、宣伝映像は城定秀夫、制作担当は白取知子。製作は戸田幸宏事務所、配給・宣伝はSPOTTED PRODUCTIONS、宣伝協力はアムモ96。
宣伝コピーは「かつて、祝福されて生まれて来たはずの君と。」
2013年/日本/68分
戸田幸宏第一回監督作品の本作は、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2013ファンタスティック・オフシアター部門グランプリとシネガー・アワードをW受賞した。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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デリヘル嬢の沙織(小泉麻耶)は、「楽そうだし、体が動かない客だから怖くなさそう」という理由で障害者専門のデリバリー・ヘルス「ハニーリップ」に移る。
表情もなく車の助手席で煙草をふかす彼女に顔をしかめつつ、店長の津田(津田寛治)は日本には18歳以上の在宅身体障害者が348万人いると言った。福祉関係の仕事をしていた津田は、競争相手がほとんどいないこの仕事なら顧客を独占できると踏んだのだ。

35mmの夢、12inchの楽園

彼女の最初のお客は、頭を金髪に染め全身にタトゥーを入れた進行性筋ジストロフィー患者の水谷(管勇毅)。現在34歳の彼は、淡々と自分の人生観を沙織に吐き捨てる。お客の話に戸惑いつつ、彼女は最初の仕事を終えた。

35mmの夢、12inchの楽園

次の客は、饒舌に自分の障害や人生をネタにする先天性多発性関節拘縮症の巨漢・中嶋(ホーキング青山)。彼は、「障害者の俺とあなたは、どっちが可愛そうなのか?」と沙織を挑発するかと思えば、「本番やらせて」と無理難題を言った。

35mmの夢、12inchの楽園

次に向かったのは、オートバイ事故で下半身の機能を失った青年・健司(森山晶之)の家。「シャワーは済ませています。私は、2時間くらい買い物に行って来ますから」と言って家を出て行く母親の裕美子(松浦佐知子)に驚きながら、仕事を始める沙織。しかし、健司はほとんど表情もなく、何もしなくていいという。彼は事故で勃起も射精もできぬ体だったが、現実を受け入れられない裕美子は「若い女性と接して刺激を受ければ…」と沙織を呼んだのだ。
母親の無理解さえもが、健司のことを苦しめていた。「もういいですから。お金は封筒の中に入っています」と言われ、沙織はシャワーを浴びて帰るしかなかった。
初仕事から帰った沙織は、健司の暗い表情が頭から離れなかった。化粧台に向かった彼女は、健司の家の浴室にネックレスを置き忘れたことに気づく。

店長にも断らず、勝手に健司の家を訪れた沙織。すると、健司の部屋には彼のかつての同級生カップルが来ていた。物珍しさと冷やかしで訪れたように見える二人に苛ついた沙織は、自分は健司の恋人だと言って部屋に入ると、二人に毒づいてしまう。
そのことを知って、津田は激怒。「今度やったらただじゃおかない」と沙織を怒鳴り散らした。

障害者たちとの仕事の日々は、沙織に色々なことを思わせる。そんなある日、彼女は指名を受けて、単身シティホテルに向かった。「車椅子の方、すでにお部屋でお待ちですよ」とフロントに言われて、彼女は部屋をノックするが返事はない。ドアを開け、沙織は中に入った。
すると、鬼のような形相をした男(モロ師岡)が沙織の腕をつかんだ。「指名されないと思ったか?探したぞ」と凄むこの男は、かつて沙織が在籍していたデリヘルのお客・小西。
小西は沙織にハマり、大金をつぎ込んだ挙句にストーカーと化した。沙織がハニーリップに移った本当の理由、それがこの男だったのだ。
小西は沙織の手足をガムテープで拘束すると、バスルームに連れて行き水を張ったバスタブに浸けた。

病院のベッドで意識を取り戻す沙織。ホテルの外で待機していた津田が異変に気付き、小西の部屋に押し入って間一髪彼女を助けたのだった。
「今回は、完全に俺のミスだ。でも、ストーカーに付きまとわれてるなら、そう言っといてほしかったよ」と言う津田に、沙織は「店長、私この仕事続けたいです…」と言った。
退院した沙織は、小西の面会に行った。驚く小西に向かって、「私はもう、あなたの事なんて怖くない」と彼女は言った。

35mmの夢、12inchの楽園

「俺と友達になってくれないか…」と言った水谷が亡くなったことを、沙織は妹から聞いた。「帰って下さい、気持ち悪い」と妹は吐き捨てた。
ラブホテルでの仕事を終えて一緒に帰る道すがら、「じゃあ今度はさ、車椅子でカーセックスしよう」と中嶋は笑った。

35mmの夢、12inchの楽園

新興宗教にすがり一心不乱に祈る母親の姿にうんざりした健司は、何も言わずに車椅子で外に出る。自動販売機の前で、沙織は彼に声をかけた。「家出?」と彼女は笑った。

35mmの夢、12inchの楽園

海が見たいと言う健司のために、沙織は停まっているトラックに談判して荷台に乗せてもらう。そして、二人は夜の海に着いた。
二人は、取りとめのない話を続けた。「夜明けを見たら帰ろう」と言った沙織は、ついついうたた寝してしまう。

目を覚ますと、隣に健司の姿がない。ふと前を見ると、健司の車椅子が海に向かっている。そのまま、車椅子は海へと転落した。
慌てて自分も海に飛び込み、健司を助ける沙織。「死なせてくれ!」と叫ぶ健司に、「生きて!私のために」と沙織は懇願した。

健司は、自分と同じ障害者たちが勤務するオフィスで働き始めた。そして、彼は自分で稼いだ金でハニーリップに電話した。
やって来た沙織は、少し逞しくなった健司の表情を見て、微笑んだ…。

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本作は、現在NHKエンタープライズに所属し主にNHKの番組等のディレクターを務める戸田幸宏が、ドキュメンタリーとしての企画が通らなかったものを、自ら取材した内容を基にフィクションとして自主製作したものである。
ストーリーをお読み頂ければ、テレビ・ドキュメンタリーとしても商業映画としてもかなりハードルが高い内容であることをご理解頂けるだろう。
それが、劇場公開にまで漕ぎつけたことを先ずは称えたい。やはり、ゆうばり国際でのグランプリが大きいのだろう。

本作に対しては、観た人によって様々な感想や評価があることだろう。しかし、こういう題材と正面から向き合い、それを自己資金で映画化した戸田監督の志に敬意を表したい。

ただ、商業映画としての公開を視野に入れると、やはりこの辺りのドラマ展開がひとつの限界なんだろうな…という感想はやはり拭い難かった。
どこまでフィクショナイズするのか。何を物語の中心に据えるのか。絶望と希望…。どちらを向いて描いたとしても、一様に回答の出ない題材だからである。

物語を見ると、健司の友人カップルの登場や新興宗教にハマる母親…といった展開は、映画的ステロタイプに映るし、沙織のストーカー小西の描き方も映画の本質的テーマに比するといささか安易に過ぎると思う。
それは、沙織の人間的な変化と成長にも言えることだろう。

指摘すること自体野暮かもしれないが、沙織が健司を海に連れて行ったことで本来なら確実にハニーリップを解雇されるはずだし、そもそも身体障害者を荷台に乗せてくれるトラック運転手がいるとも思えない。
また、どうでもいいことかもしれないが風俗嬢を描いた物語にしては、裸の描き方の「大人の事情的潔さのなさ」も気になる。
個人的には、健司の家で事件を起こした沙織を叱責する津田の言葉にも違和があった。

ただ、それでも本作はやはり観るべき一本に違いない。
小泉麻耶森山晶之の演技もいいが、本作に映画的厚みを加えているのは津田寛治の確かな存在感だと思う。

自主製作映画の持つ力と作り手の熱を感じる力作である。
お勧めしたい。

小林政広『CLOSING TIME』

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1997年11月22日公開の小林政広監督第1作目『CLOSING TIME』

35mmの夢、12inchの楽園

プロデューサーは小林政広、ラインプロデューサーはサトウトシキ、脚本は小林政広、制作協力は佐藤啓子、撮影監督は西久保維宏、音楽は佐久間順平、主題歌はMARI「ホテル」(作詞・作曲:小西康陽)、挿入歌は小島麻由美「パレード」「飾り窓の少女」(作詞・作曲:小島麻由美)、録音は鈴木昭彦、照明は南園智男、編集は金子尚樹(J.S.E.)、助監督は女池充、監督助手は坂本礼・森元修一、撮影助手は鏡早智、照明助手は牛木規博、編集助手は蛭田智子、衣裳(MARI)は黒川昌、メイク(MARA)はMAKOTO、メイク(YUKO)は木下美穂里、タイミングは安斉公一、スクリプターは佐藤由子、タイトルは道川昭、協力は井口奈己・池田しょう子・磯田勉・岩田治樹・岩田正恵・上野俊哉・大久保賢一・岡村直子・岡本諭子・岡本茉由子・小川歌子・おもてとしひこ・加治良介・勝山茂雄・加藤智陽・木澤建夫・木村正人・小岩井聡・佐藤寿保・佐野和宏・島田剛・白石秀憲・瀬々敬久・武井孝一郎・中尾正人・永瀧達治・中野貴雄・延江浩・平尾武夫・古山敏幸・細谷隆弘・真弓信吾・水川忠良・ミッキー。
製作・配給はモンキータンプロダクション、配給協力・宣伝はアルゴ・ピクチャーズとオムロ・ピクチャーズ。
1996年/日本/35mm/81分/カラー、パートモノクロ/アメリカンビスタ

本作冒頭には、「山田宏一氏に心を込めて すべての父と、Mr.TOM WAITSに捧ぐ」とクレジットが入る。
本作は、1997年第8回ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭ヤングファンタスティック部門グランプリ受賞作品である。
撮影はほぼ1週間、製作費1,000万円の自主映画として製作された。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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テレビのシナリオライターをしていた男(深水三章)。それなりに売れていた彼は、コンビニ強盗の巻き添えで最愛の妻と子を失った。
以来、男は書けなくなり、アルコールと女に溺れた自堕落の日々を送っている。行きつけのバーでは、男の姿をいつでもマスター(中原丈雄)が苦々しく睨みつけるが、男はお構いなしだ。

35mmの夢、12inchの楽園

ACT 1 OLD SHOES

アケミ(中野若葉)の部屋を追い出されて、行き場を失った男はかつて自分に気のあったトシコ(石倭裕子=愛川裕子)に再会。彼女の部屋に転がり込む。
いつもの店で飲んでいると、男の元に編集者のクミコ(実相寺吾子)が声をかけて来る。彼女は男のファンだと言い、新聞に連載をしてほしいと熱っぽく訴える。しかし、男は彼女を拒む。「俺は、書けない…」と。
次から次へと女の間を渡り歩いても、男の心の空白は埋まらない。

35mmの夢、12inchの楽園

ACT 2 I HOPE THAT I DON’T FALL IN LOVE WITH YOU

男が夜の公園で酒を煽っていると、赤毛の女が声をかけて来る。「安い酒、飲んでるわね。これ飲みなさいよ」と。レイ(MARI=夏木マリ)のボトルを見て、文句を言いつつ男はラッパ飲みする。
男が歩いていると、レイもその後をついて来る。文無し家なし行くあてなしの二人は、歩き疲れてあるモニュメントの下に座り込む。酒がなくなったと嘆く女に、「俺のは残ってる」とボトルを差し出す男。「あんた、優しいね」と言って、レイは酒を煽った。
調子っぱずれの歌を唄うレイ。「何の曲だ?」と男が尋ねると、「シェルブールの雨傘」だと言う。思いもよらず映画の話になり、二人はそれぞれ映画について熱く語った。
翌朝、男が目を覚ますと女の姿は消えていた。

35mmの夢、12inchの楽園

ACT 3 LONELY

昼間の公園で女(安原麗子)とキスした後、足を踏まれ頬を引っ叩かれて男はフラれる。その姿を、トラ狩り頭にスーツ姿のゲイ・久保(北村康=北村一輝)が興味深そうに見つめていた。
男は久保を追い払おうとするが、久保は男にまとわりついて来る。
久保はトンカツ屋(ベンガル)が捨てた残飯を漁り、空き瓶に残った酒をかき集める。男は、気まぐれにこの風変りなホームレスと行動を共にする。河川敷の夜は、さすがに冷え込む。寒さに震える男に、久保は自分の寝袋を提供した。

35mmの夢、12inchの楽園

久保は、母子感染でエイズに罹っていた。痙攣を起こして卒倒する久保を男は病院に連れて行くが、感染を恐れて久保のことを医者はろくに治療しない。
男は、妻子を失って帰る気のなくなった家があることを告白し、久保と一緒にタクシーに乗り込む。会話の途絶えた久保を見ると、彼は呼吸をしていなかった。

35mmの夢、12inchの楽園

ACT 4 LITTLE TRIP TO HEAVEN

いつものバーで、いつものように最後の客となった男。相変わらず、マスターはしかめ面で男に向き合っている。自分にとっての運命の女を探している風なことを言う男に、「そんな女はいやしない」とマスターは吐き捨てる。現実を見ろ、と。

35mmの夢、12inchの楽園

マスターは、古い写真を取り出すと一瞥した。それは、20年前に別れたままのマスターの運命の女だった。
役者の道を志した青き日々。まだマスターでなかった彼は、ニューヨークで同じ道を志す女と出逢い恋に落ちる。二人が結ばれるのに時間はかからなかったが、ある時女が妊娠した。男に相談せずに、女は子を堕ろした。生活力もないくせに産めと言う男と違い、彼女は現実的だった。
ショックを受けた男はフラットを飛び出し、帰ってみると彼女は姿を消していた。
マスターは、海の見える自分の家に男を連れて行く。二人髭を剃り、朝食のテーブルにつく。二人会話する最中、男が椅子ごと床に倒れる。

35mmの夢、12inchの楽園

壁に張られた一枚の古い写真。モノクロのポートレートの中で、若き日のマスターとレイが微笑んでいた…。

35mmの夢、12inchの楽園

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どんなに優れた作家でも、その処女作は何処か気恥ずかしく、それでいて独特の輝きを放っている。むしろ、優れた作家であればあるほど眩さは特別だ。
そのイノセントな輝きは、何となくビタースイートなこそばゆさを観る者に感じさせる。
小林政広の監督デビュー作も、その例外ではない。

本作は、ずっと監督を夢見て来た彼が40歳にして遂にその夢と対峙した記念すべき作品である。
何の伝手もなく、28歳でトリュフォーの弟子になるべく単身渡仏した小林は、結局トリュフォーに会うことなく1年後に帰国した。
恐らく、この作品に向かった小林の情熱は、28歳の頃から心の何処かにずっと燻っていた蒼き炎なのだろうな…と思う。この映画をご覧になった方なら、僕の書いている言葉の意味をご理解頂けるのではないか。

映画冒頭に流れるクレジットはすべてフランス語で統一され、四章からなるこの作品は、小林のヌーヴェル・ヴァーグに対する愛情と憧憬、そして自分のとっての“映画”をすべて注ぎ込んだ映像と科白で語られて行く。
とりわけ、各章冒頭に置かれた、街の片隅で男と通りすがりの酔っぱらいが織りなす取りとめなき会話に、その雰囲気は顕著である。クールなモノクロームで、不思議な温かさをもって描かれたショート・スケッチの如き映像が魅力的だ。

いささかの気負いさえ漂うスタイリッシュな会話と、気障ギリギリの言葉たち。酒と、女と、幾許の情と別離。そして、誰の心にも仕舞い込まれたどうしようもない人生の痛み。
本作は、かの如き人生のピースをつづれ織りにしたシネ・タペストリーである。
すべてを出し切り、あるいはもう二度と映画を監督することもないかも知れない…その思いで撮られたであろう本作を観ていると、ついつい自分自身の若き日の頑なで、不器用で、不格好な、それでいてトゥー・マッチに想い入れた日々が思い出されて、それがまたどうしようもなく気恥ずかしかったりするのだ。
まったくもって、困ったものである。

「運命の女」的記号である夏木マリはやはり魅力的だが、僕にはクミコ演じる実相寺吾子(実相寺昭雄と原知佐子の娘)がとても魅力的に映った。
そして、映画的ピークは、やはり自分の過去を深水章三に語る中原丈雄で決まりだろう。
ちなみに、公園で男を振る女性は、知ってる人は知っている元・少女隊のレイコである。

本作のタイトルは、言うまでもなくトム・ウェイツが1973年にリリースしたファースト・アルバム『クロージング・タイム』(アサイラム・レコード)から取られている。
そして、各章のタイトルもそれぞれがこのレコードの収録曲のタイトルである。

35mmの夢、12inchの楽園

本作は、いい意味で蒼き熱さを伴った小林政広の初監督作。
硬質な作家性を誇る彼のスタート地点として、記憶されるべき秀作である。お勧めしたい。

35mmの夢、12inchの楽園

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NAADA @東新宿 真昼の月・夜の太陽

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6月7日、東新宿の真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライヴ「太陽のセレナーデ」を観た。
僕がNAADAのライヴを観るのは、これが31回目。前回観たのは5月14日 、場所は恵比寿天窓.switchであった。
今回以降、しばらく彼らのライヴ活動は白紙になっている。

35mmの夢、12inchの楽園


NAADA:RECO(vo)、MATSUBO(ag)

35mmの夢、12inchの楽園 35mmの夢、12inchの楽園

では、この日の感想を。

1.Good afternoon
最少編成の演奏としては、最初の一音目からいつものライヴと明らかに音像が違う。木漏れ日射す森林の朝の如く、広がりのあるギターと深いヴォーカル・エコー。「此処ではない、何処か」で奏でられる幻想的な音楽。
ハッとするような、イントロダクション的小品である。

2.RAINBOW
1曲目の音像をそのままに、シンプルながら厚みのあるアレンジで演奏が展開する。ポップでありながら、巧みにエモーションがコントロールされた落ち着きのある歌がいい。
今回のライヴは、従来は控えめにしか加えなかった音源を二人の生音に大胆に持ち込んだ演奏。聴いていると、彼らが音の構築を熟慮してMACによる音源を作り込んだことが感じられる。厚みのあるハーモニーも実に効果的。
いつもとはテイストの異なる、新しい魅力に溢れたRAINBOWが聴けた。

3.Little Fish
いつもはシャンソン的小品として、サラッとキュートに演奏されることが多い曲。しかし、今回のライヴではかなり斬新な模様替えが施されていた。
深いエコーをかけてワンフレーズ歌った後、かなりメカニカルな音源が被せられる。それは、まるでシャンソンから80’sニュー・ウェーヴへと飛翔するかのような構成である。
これはこれで、悪くないと思う。

4.淡香色の夏空へ
前半、いささかエコーが深すぎる印象を受け、若干曲の輪郭がぼやけているのでは…と感じた。ライヴ全体のメリハリも考慮すれば、より簡素な音作りの方がいいのではないか?と。
ところが、後半の展開では一気に求心力が出て来る。RECOの歌唱に力強さと抜群の説得力があり、ラストに至るまで聴き惚れてしまう。

5.愛 希望、海に空
元来がとても音響的な曲だから、今回のライヴで最も真価を発揮する楽曲である。
この日の演奏は、従来以上に奥行きを感じさせる音作り。過剰と紙一重とも言えるが、RECOのヴォーカルの深さが、楽曲の世界観を破綻させずに支えている。彼女の歌の力をまざまざと感じさせる歌唱である。
ラストで一転して、グッと簡素にするところも秀逸だ。

6.僕らの色
この曲は、どこまでもドラマチックに上がって行く構成なのだが、それをあえて二人編成で演奏。RECOは、初お目見えのバウロン(アイルランドのフレームドラム)を手にしていた。
出だしのイントロが、ギターとバウロンだけなのに音圧を感じさせる。そこに、RECOの迷いなき歌が加わると、見事にこの曲のスケールが表現されていた。揺るぎのない、凛々しいキャラクターが。
いい演奏である。


今回のライヴにあたり、RECOは「音楽的な冒険をする」と宣言していた。それは、「演奏曲のすべてで音源を使用する」という試みだった訳だ。今までにも部分的に音源やエフェクトを加えたライヴはあったが、ここまで徹底して音源を使ったことはなかった。
ただ、NAADAの楽曲的アイデンティティを考えると、実はこのユニットは決してライヴ・プロパー的な音楽キャラクターではない。それは、彼らのCDを聴けば明白である。
曲構成は複雑だし、アレンジやハーモニーに至るまで音を作り込むのが彼ら本来の音楽性だと思うのだ。
最少編成でライヴを行う場合、どうしても演奏する曲によっては表現に限界がある訳で、それを払拭するには音源を大胆に取り込む以外にない。問題は、生音と音源とのバランスである。そこに音像としての違和感を持たせないように、今回マツボが徹底して音を作り込んだのである。
その成果は如実であり、二人編成でかなり理想的な音作りが達成できていたのではないか。
本来的にNAADAというユニットは、保守性と無縁で常に攻めの姿勢を有しているのである。

今回のライヴを個人的に総括すると、新たなる音楽的発見とライヴ演奏としての完成度がしっかりと両立したパフォーマンスだったと思う。
生音と音源の拮抗。そして、音響的な冒険の真ん中にはRECOの歌唱が屹立して、オーディエンスに届いていた。
それこそが、優れたポップス・ユニットの真骨頂であろう。

今後、彼らはしばらくライヴ活動を離れて別ベクトルの方向で音楽を展開すると言う。
この日の演奏の成果を見れば、彼らの次なる進化を期待せずにはおれない。
ファンとしては、楽しみに待ちたいと思う。

城山羊の会『効率の優先』

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6月16日、東京芸術劇場シアターイーストにて、城山羊の会『効率の優先』千秋楽を観た。

35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

作・演出は山内ケンジ、舞台監督は森下紀彦・神永結花、照明は佐藤啓、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵・平野里子、ヘアメイク協力は田中陽、演出助手は岡部たかし、照明操作は溝口由利子、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影はトーキョースタイル、制作助手は平野里子・渡邉美保(E-Pin企画)、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)、提携は東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)、製作は城山羊の会。
協賛はギークピクチュアズ、エンジンフィルム。
協力はシス・カンパニー、吉住モータース、クリオネ、ダックスープ、Grick、TES、TTA、六尺堂、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。


昼下がりのオフィス。ほとんどの社員が昼食に出かけ、残っているのは新婚の秋元(金子岳憲)と神埼(松本まりか)の二人だけ。電話が終わった秋元に、神崎は「部長のこと、どう思います?」と聞く。適当にはぐらかそうとする秋元に、今度は「私、小松課長にセクハラされてるんです」と言う神崎。ギョッとする秋元。
しかし、わらわらと同僚たちが戻って来て、二人の話はうやむやになる。

多忙な企画部のスタッフは、いつも冷徹でシビアな部長(石橋けい)と彼女のコメツキバッタのような小松課長(鈴木浩介)、最近離婚したばかりの田ノ浦(岡部たかし)、ガタイがデカく粗暴な添島(白石直也)、その添島と秘かに付き合っている高橋(吉田綾乃)、最近総務から異動して来た佐々木(松澤匠)、それに秋元と神崎という布陣。
各人が日々の仕事に追いまくられ、部長の指揮の元、何とか業務をこなしている…のだが、佐々木が加わったことでギリギリに保たれていたバランスがおかしな方向に狂い始める。

実は、高橋も佐々木と同じく総務からの転籍組で、彼女は佐々木がストーカーの如く自分を追ってやって来たものと不快に思っている。総務時代の二人の間には、何やらあったようだ。
その高橋のことを、結婚したばかりだというのに秋元は想っている。秋元には、彼女が添島と付き合っていることが憤懣やるかたない。
上司だから…とじっとこらえてはいるが、神崎はどうにも部長のことが生理的に嫌いで、高橋も部長のことをよく思っていない。秋元には「セクハラされてる」と言ったが、その実神崎は小松課長と不倫している。いつまで経っても煮え切らない態度の小松に業を煮やしている神崎だが、小松の妻が二人目を身ごもっていることを彼女はまだ知らない。

トイレに行ったきり戻って来ない高橋を心配して神崎が見に行くと、彼女は貧血を起こして倒れていた。神崎に助けられて戻って来た高橋を、部長は冷ややかな目で迎える。部長にとっては、効率の優先が最重要事項なのだ。
ひたすら謝る高橋とシビアな態度の部長。オフィスには不穏な雰囲気が漂う。元来の部長嫌いから、神崎は聞こえよがしに不平をこぼし、その声はもちろん部長の耳に届く。いよいよ緊張する企画部の面々。
部長は、日ごろから部内に漂う「効率を妨げる」濁った芽を摘み取らねばと考えていた。

そんな不協和音漂う企画部に、専務(岩谷健司)が顔を出して…。


舞台はここから、狂的なスピード感を伴ってエキセントリックでシニカルでブラックな展開に突入する。その毒々しくも可笑し味を含んだ展開こそ、山内演劇の真骨頂と言える。
僕は城山羊の会を『メガネ夫妻のイスタンブール旅行記』(2011)からすべて観ているが、間違いなく本作が最高傑作だろう。
というか、これまでの城山羊の会が創って来た世界観の集大成だとさえ思う。非常に優れた舞台である。

山内ケンジの劇作の特徴は、情緒性の拒絶であると言っていいかもしれない。もちろん、登場人物たちにはそれぞれの感情がある訳だが、誰もが何処か人間的に歪んでいて、まっとうな価値観とはずれたところで生きている。
ただ、当の本人は自分の価値観が歪んでいるなどとは思いもしない。そういう人たちが寄り集まって、閉塞した空間でドラマが展開するから、必然的に物語は風変りで諧謔性に満ちたものになって行く。

山内が作家性に優れているのは、感傷的なドラマツルギーに陥ることなく、のっぴきならない状況や混乱に陥った哀れな人々を容赦なく突き放せるところである。あくまでドライに。
そこに、城山羊の会独特の乾いた笑いが現出するのである。山内演劇には、決してヤワで欺瞞に満ちた優しさなど纏わない。そのヒリヒリし黒さこそが、城山羊の会を観ることの悦びに他ならない。
常識を疑い、カオスと困惑を嗤い、剥き出しの欲望を白日のもとに晒す。シニシズムという言葉が実にしっくりくる舞台なのである。

「生活の糧」である金を稼ぐために集う「会社」というミニマムな世界の中で、愛憎や欲望といった生理的感情とパブリックな場での秩序に折り合いをつけることに破綻を来たしたら、そのコミュニティはどう暴走するのか?
本作が提示するのは、その過激にして劇薬的なテストケースである。

三方を客席が囲むストレス度の高い舞台で、9人の役者たちは、各々の毒を盛大に振り撒いてくれる。正直、彼らの誰とも実生活で関わりたいとは思わないけれど(笑)
その毒を照射されることが、山内演劇の麻薬的魅力なのだ。

城山羊の会の顔とも言える石橋けいはここでも不機嫌なキャラクター全開だし、彼女とぶつかるカウンター・キャラの松本まりか吉田綾乃も十分に持ち味を発揮している。
演出助手も兼任する城山羊の会皆勤賞の岡部たかしは、いつものように飄々とした演技を見せる。何度も客演していて岡部とはいいコンビの岩谷健司も、独特の可笑しみを披露。
その他の男優陣も、それぞれの混沌を走り抜ける。その振り切れ感が、痛快極まりない。

また、城山羊の会といえばエロティシズムも持ち味の一つだが、本作でもエロネタは健在。大ラスでの展開は、ピンク映画にも演技的振り幅を持つ岩谷健司の面目躍如だろう。

とにかく、いま日本の演劇でこれだけコスト・パフォーマンスに優れた舞台にはそうそうお目にかかれない。

舞台という一期一会のライブ空間を共有する喜びに満ちた城山羊の会。見逃すのは、人生の損失というものである。
強くお勧めしたい。

肯定座第1.5回公演『スペインの母A』@池ノ上シネマボカン

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奈賀毬子が旗揚げした劇団肯定座の第1.5回公演『スペインの母A』千秋楽を池ノ上のシネマボカンで観た。何故に1.5かというと、今回は上演時間40分の短編だからである。

35mmの夢、12inchの楽園

作・演出は太田善也(散歩道楽)、チラシ写真は宮坂恵津子、HP制作は斉藤智喜、制作は中田伸也(肯定座)・肯定座制作部、協力はいちカフェ・散歩道楽・スターダストプロモーション・タテヨコ企画・(有)モストミュージック。企画・製作は肯定座。


こんな物語。役名が分からないので、役者名で書きます。

深夜も一時を回り、お客が帰った池ノ上のBar GARIGARI。閉店後の店内に残っているのは、この店を姉とやっている奈賀毬子(肯定座)、菊池美里、渡辺謙好きの久行しのぶ(タテヨコ企画)、福原舞弓。
コンパは期待外れだったと、まったりしゃべっている女たち。当然、話題は男のことだ。四人の中で一番若い舞弓を相手に、妙齢の御婦人たち三人は男の勃起について力説している。
興味深げに聞いていた舞弓は、唐突に「せんずりって、何ですか?」と質問して三人を退かせる。

話題は舞弓個人のことに移り、三人は「彼氏、いるの?」と突っ込み始める。しばし口を濁した後に、舞弓は最近付き合い始めたことを打ち明ける。しかし、些細なことから今はケンカ中だという。
そこから話題は、今夜のコンパにいたハズレ男に移る。中でも、とても濃い顔をした男が一人いて、四人は彼をジロー(ラモ)と名付けた。
当初はガシガシ舞弓にアプローチしていたジローは、相手にされず美里のところに移った。しかも、何と二人は意気投合したようだった。

意外や意外、ジローのことを悪く言わない美里。これは事件だとテンションの上がったしのぶは、「男の気を惹くためには料理だ!」と言って、毬子が止めるのも聞かず店のキッチンに入って行く。どう考えても、しのぶより美里の方が料理上手に決まっているのだ。
ジローと付き合うことを舞弓は頑なに反対する。彼女は自分に付きまとう男が煩わしくて、ジローを美里に差し向けた張本人だった。舞弓は、そのことが引っ掛かっていたのだ。
強硬にジローとのことを反対した後、バツが悪くなったのか舞弓もトイレに席を外す。

二人きりになると、毬子と美里はさっきまでとまったく違った空気を纏う。「今日、うち来る?」「そうだな…」。そして、二人は口づけした。その光景をトイレから出て来た舞弓が見て、言葉を失う。
と、そこに何も知らないしのぶが、得体の知れない料理を作って戻って来る。

彼女は料理を毬子の前に突き出し、毬子は顔を歪めてその料理を食べるのだった…。


僕は、奈賀毬子さんのことをピンク映画で知った。その彼女が旗揚げした劇団・肯定座。その第一回公演『暗礁に乗り上げろ!』(2012)は、観た人の多くが称賛の声を上げていた。ちなみに、作・演出は『スペインの母A』と同様太田義也だ。
僕は、観ることが叶わなかった(知ったのが遅すぎたのだ)から、次の肯定座公演を首を長くして待っていた。

第1.5回公演という微妙な位置付けとなる今回公演。奈賀毬子は、客席と近い距離・安い料金で公演を打ちたいという思いから今回の公演を決めたようである。
そんな訳で、会場は池ノ上シネマボカン(Bar GARIGARI)、公演時間40分。要するに、お店そのものを使ったメタフィクション的ガールズトークを観客に覗き見気分で観劇してもらおう…といった趣向である。
客入れの際には、店内に設えられた小型スクリーンに女優四人で赴いた鎌倉の映像が流されていた。


では、舞台の感想を。

尺40分の小品ということもあるが、個人的には煮え切らず物足りない芝居であった。やはり、念頭に『暗礁に乗り上げろ!』の評判があった…というのもあるにせよ。
いきなり「勃起」だの「せんずり」だのと下ネタで始まって、女優四人が服をたくし上げてお互いのブラを見せ合う(福原舞弓の姿に、ドキドキしてしまった)パンチあるスタートを切った物語は、徐々に失速して行き、まったりとした停滞から、うやむやな終幕を迎える。そんな40分である。

この作品は、本家の散歩道楽でも幾度も公演されて好評を博したもの。僕は観ていないので比較できないが、少なくとも今回公演では何ともシャープさに欠けていたと思う。ショート芝居はスピードや空気の一体感が命だと僕は考えるが、今回公演にはそのどちらもなかった。
それは、舞台進行がまったりしているから…という理由ではなく、見せたいものの焦点がボケていて、観ていて弛緩するということである。40分の体感時間が長い。
女四人の会話劇に、気持ちが入らないのである。

通して観れば、最初の下ネタ談義には何の脈絡もないし、ブラ見せもお客へのサービスでしかない。その後に展開する話からすれば、枕にもならない掴みに過ぎない。40分の尺で冒頭がこれでは、必然的にダレてしまう。
とりわけ、三人の女優がまったりと寝そべりながら気だるげにやり取りする個所の意図が不明であった。
物語としては、舞弓の彼氏話、毬子としのぶのちょっとした軋轢、ジローと美里の関係と来て、レズカップルでツイストする訳だが、毬子と美里の秘められた関係があるのならジローと美里とののろけチックな件は一体なのなのか?という違和感が拭えない。
ブラック・ジョーク的な毒にも昇華されていないように思う。エピソード的には、もっと描くべきことがあるように感じた。
また、女たちのコミカル(を狙った)会話のネタ的くすぐりが弱く、笑えないのも辛かった。ここで乗れれば、舞台の印象無随分と変わったと思うのだが。

女優四人はそれぞれに魅力的だし、中でも福原舞弓の若々しさは買いだけど、舞台としてはどうにも食い足りない。やはり、「あっ!という間の40分」でなければ…。

ただ、肯定座は年内にもう一本公演が予定されている。第二回公演を待ちたいと思う。そちらに期待したい。
もちろん、僕は観に行こうと思っている。

小林政広『愛の予感 THE REBIRTH』

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2007年の小林政広監督『愛の予感 THE REBIRTH』

35mmの夢、12inchの楽園

製作は小林直子、脚本は小林政広、撮影監督は西久保弘一、助監督は川瀬準也、編集は金子尚樹、録音は秋元大輔、整音は横山達夫、照明は南園智男、監督助手は橋場綾子・下田達史・藁科直靖、撮影助手は中村拓、編集助手は張本征治、ネガ編集は小田島悦子・川上ゆき、タイミングは安斎公一、タイトルは道川昭、メイキング撮影は吉川優、主題歌は「愛の予感」(作詞・作曲・唄:小林政広)、リレコはシネマサウンドワークス、現像は東映ラボ・テック/清水伸浩、フィルムは報映産業・FUJI FILM/石井幸一、撮影機材は映像サービス、照明機材はAPX-Ⅱ、支援は文化庁。協力は北上荘、清水鋼鐵(株)、セイコウマート勇払店、グランドホテルニュー王子、苫小牧市、アップリンク、インデックスコア、フィルムクラフト他。製作はモンキータウンプロダクション、配給はバイオタイド。
2007年/日本/カラー/102分/35mm/ビスタサイズ 1:1.85/モノラル

本作はモンキータウンプロダクション10周年作品であり、第60回ロカルノ国際映画祭で1970年の実相寺昭雄監督『無常』以来の金豹賞(グランプリ)を獲得した。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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東京湾岸の高層マンションに暮らす新聞社勤務の順一(小林政広)。ここでの暮らしは妻の夢だったが、その妻は一年間の闘病生活の末に癌で他界した。そして、14歳の愛娘は同級生に刺殺される。原因はネット上でのトラブル。犯人は、川向こうの都営住宅に住む母子家庭の子供だった。
加害者の母である典子(渡辺真起子)も順一もマスコミに追われ、消耗しきっている。インタビュアー(声:中山治美)に向かって、相手の親に会ってお詫びがしたいと懇願する典子と、会う気もなければ許す気もないと言い切る順一。
実家の北海道に帰りたいと漏らす典子。不眠症になり新聞社も辞め、今はすべてを忘れて働きたいという順一。

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一年後。順一は、言葉の通り苫小牧の鉄工所で肉体労働に従事していた。彼は、朝早く起き出して過酷な仕事をした後、無味乾燥な安下宿・北上荘に戻るという生活をただ繰り返していた。
一方の典子もまた、実家である苫小牧に戻って安宿の賄い婦として厨房に立っていた。北上荘という宿の。

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順一は宿で出された食事のおかずには手をつけず、ひたすら玉子かけご飯とみそ汁をかき込むのみ。典子は、戻されたトレイを見ては順一がおかずに手をつけていないことを確認するだけ。二人は同じ場に身を潜める加害者と被害者だが、互いを意識しつつも言葉すら交わさない。
順一の食が細いのと同様に、典子も夜は厨房で残り物の冷や飯とみそ汁を立ったまま流し込み、何もないアパートに戻ってはコンビニで買ったサンドイッチを1つ食べるだけだった。

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同じことを繰り返すだけの生活。一体、何度の昼と夜をやり過ごしたのだろう。そんなある日、順一はいつもとは違った行動に出る。仕事帰りにコンビニでプリペイド携帯を2台買った彼は、こっそり典子の働く厨房にそのうちの1台を残して行った。

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夜、携帯を手に待っている順一。しかし、その携帯が反応することはなく、気づけば自室の前に典子に渡した携帯のパッケージが置いてあった。
激しく動揺した典子は、自分を追って来た順一の顔を平手打ちしてしまう。

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そしてまた、二人は空疎な日常へと戻って行く。しかし、元の無味乾燥な日々に戻るには、二人の心は震え過ぎていた。順一は作業中にぼんやりと溶鉱炉の火を見つめたり、作業場の食堂ではなく車の中で昼食を押し込んだり。
典子もまた、順一への強い意識で自分自身の心を扱いあぐね始める。置き忘れて凍りついたはずの心は、二人の気持ちを余所に再び動き始めてしまったのだ。

今度は典子がコンビニでプリペイド携帯を2台買い、1台を順一の部屋の前に置いた。その時、典子は口紅も買った。

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しかし、順一は携帯をゴミ箱に放り込む。思い直して部屋に戻る順一だが、廊下で清掃婦とすれ違う。今日は、ゴミを回収する日だったのだ。
順一は、その夜の食事を初めて完食。トレイを見た典子も、そのことに気づく。帰宅した典子は携帯を掛けてみるが、もちろん順一が出ることはなかった。

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順一は食事を残さなくなり、典子はコンビニでサンドイッチを2個買ってみる。結局食べたのは1個だったが、前進したのは間違いなかった。

仕事を早引けした順一は、北上荘に向けてハンドルを切る。

「僕は、あなたのことを知っています。あの子が中学二年の時、一度だけ、父兄会でお見かけしたことがあったんです。僕はこの町で、あなたと再会しました。しかも、僕の娘を殺した子の母親として。今の僕は、あなたなしでは、生きられない。でも、あなたと一緒では、生きていく資格がないんです。ならば、僕は、あなたと。ならば、僕は、あなたと…」

まだ夕食には間があり、誰もいない食堂。厨房で向き合う順一と典子。典子は、すぐに目を伏せて背中を向けた。
何も言わずに宿を出る順一を追いかける典子。

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典子は順一の腕を取り、今度はまっすぐに順一の目を見つめた…。

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映画的過剰さを排して、小林流サイレント映画を目指した本作は、静寂に貫かれたあまりにも過酷な物語である。
当初小林が考えたのは、溝口健二の『近松物語』 のような道行き物の現代版であった。そこで出て来たのが、加害者の母と被害者の父との道ならぬ恋情…というタブーであった訳だ。

本作の纏う雰囲気は、構造的に言えば2005年に撮られた『バッシング』 に近い。荒涼とした苫小牧工業地帯をロケ地に選び、タイトロープの如く張り詰めた緊張感を維持して、苛烈さを伴いながらも、ある意味映画は淡々と語られて行く。
違いは、登場人物たちの背負う「生き続けること」の意味である。『バッシング』の有子は逃避することで再生を模索し、本作の順一と典子は許されぬ相手の存在に再生を託そうとする。「あなたなしでは、生きられない。でも、あなたと一緒では、生きていく資格がない」という思いと共に。

あまりにも理不尽で暴力的な喪失感に晒された時、人は言葉も感情も生きようとする気持ちも失う。それでも生き続けるのは単に物理的な理由に過ぎず、荒涼とした心を抱えたまま単調な日々を機械的にやり過ごすだけだ。
そこにあるのは、無機質に無感情に無気力に、ただ時間を消費するという行為だけである。

そう言った強烈な負のスパイラルから脱却するためには、やはり新たな「生きる意味」を見出せるだけのパッションの如きサムシングがなくてはならない。それが、世間的に正しかろうが、間違っていようが。
そう、あまりに大きく開いた心の穴を埋めるには、それくらい大きな代替物がなくては、人は簡単に再生など出来る筈がないのだ。

その意味で、順一と典子という二人は、まさしく合わせ鏡のような存在であり、二人の間にあるのは言葉本来の意味で「ヤマアラシのジレンマ」的な関係性なのである。

冒頭のインタビューに始まり、後は一切の科白が排されて、単調な映像がひたすら繰り返される。
しかし、その無言の日常風景がリフレインされればされるほど、観る者の中に二人の心の痛みが浸食して行く。退屈さは微塵もなく、我々も二人と同様息を潜めて事の成り行きを見守るより他ないのだ。

順一がプリペイド携帯を買って以降、物語は再生に向かって動き始める。しかし、結局のところ、二人が寄り添ったとて得られるのは一時の慰めに過ぎず、典子の娘が出所すれば、新たなる人生の苛烈が待ち受けているのは明白だ。
そのことが分かっているから、二人の仮初の再生が見ていてつらいのである。それでも、二人が生きて行かなければならないとしても。

小林政広自身が順一を演じているが、それはシナリオにほとんど科白がないため、役者にどう演技すればいいのかを伝えるのが難しかったからだそうだ。ならば、順一の行動を分かっている自分が演じればいい…と。小林は、朴訥で傷ついた順一という男を、とても味のある存在感で演じている。
一方の渡辺真起子は、表情をほとんど映されないのだが、身のこなしだけで見事に典子の苦しみを表現してみせる。

35mmの夢、12inchの楽園

個人的な不満は二つ。冒頭のインタビューで「加害者の両親」という言葉が出て来るが、実際には典子は母子家庭だから、(娘の父親が存命だとしても)いささか典子と順一の関係性が伝わりづらかったこと。
そして、物語のキモである、順一と典子が買ったものがプリペイド携帯だったということがとても分かりにくかったこと。
特に後者は、理解できない人も多かったのではないか?

いずれにしても、本作は人の魂の荒涼と、それでも生きて行かなければならないことのしんどさを描いた問題作。
万人が共感できるとは思わないが、自分が生きていることの意味も問いつつ真摯に受け止めるべき一本である。

小林政広『逢う時は他人 STRANGERS WHEN WE MEET』

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2013年の小林政広監督『逢う時は他人 STRANGERS WHEN WE MEET』

What's Entertainment ?

脚本は小林政広、プロデューサーは小林直子、音楽は佐久間順平、挿入歌は「WATARU’S WALTZ」(作曲・演奏:佐久間順平)、撮影は古谷幸一、編集は太田義則、録音は山口満大、整音は福田伸、音響効果は渋谷圭介、制作担当は小林克己、監督助手は中尾広道、撮影助手は米山舞、カラーグレーディングは関谷和久、カラーグレーディング協力は稲川実希。製作はモンキータウンプロダクション。

45分の小品である本作は、第14回全州国際映画祭(韓国)のデジタルプロジェクト「三人三色」の一本として制作された。「三人三色」とは、アジアの気鋭監督三人を選出して共通のテーマで30分以上の作品を制作、オムニバス形式で上映する同映画祭の名物企画である。
今回のテーマは“STRANGER”で、小林の他にチャン・リュル(中国)とエドウィン(インドネシア)が選ばれた。
本作の脚本は、『ある男、ある女』という仮題で『愛の予感 THE REBIRTH』 (2007)の次回作として書かれたが、一度は制作を断念したものである。
なお、この題名はリチャード・クワイン監督『逢うときはいつも他人 STRANGERS WHEN WE MET』(1960)にインスパイアされている。


35mmのフィルム上映にこだわる大阪の小さな映画館の支配人(小林政広)。彼と妻の由希子(中村優子)は、家庭内別居になって三年が経つ。妻は怪我の後遺症で、今も右足を引きずっている。


What's Entertainment ?


仕事から帰っても夫婦は言葉を交わすことなく、まるで何かの呪縛のように食卓だけを共にする。ただ、それだけの毎日。
男は、頭の中から何かを追い出そうとするかのように本の頁を繰り、妻は押し潰されそうな心の痛みに耐えかねて、時折一人浴槽に体を浸して嗚咽を漏らす。
男の仕事中の昼休み、映画館の傍にある食堂「吉林」で夫婦は同じ丼物を食べる。二人にとって、食事を共にすることだけが今は絆だった。

What's Entertainment ? What's Entertainment ?

そんなある日、携帯に電話が入り、男は不承不承指定された店に出向く。奥の席に座った男(本多菊雄)は、皮肉にも健司の三回忌である今日、交通刑務所から出所してきた。自分が出張中であることを見計らって由希子と健司をドライブに連れ出したこの男は、あろうことか事故を起こした。健司は亡くなり、由希子の足には障害が残った。
「由希子のことを愛していたのか?」と問い質しても、目の前の男は下を向くだけだ。「もう、二度と俺と由希子の前に現れるな」と言い残し、男は席を立った。

男が帰宅すると、由希子は蝋燭を立てたテーブルに料理を用意して夫の帰りを待っていた。その光景に耐えられず、男は再び家を出る。一人残された由希子は肩を震わせ、男は車の中で眠れぬ夜をやり過ごす。

What's Entertainment ? What's Entertainment ?

翌日の昼時、いつもの食堂。テーブルを挟んで向き合う夫婦。由希子は、両手を男の前に静かに差し出した。しばし考えた後、男は妻の手の甲に自分の手を重ねた。
三年の歳月を経て、夫婦は互いの体温を確かめ合った…。

What's Entertainment ?


社会性の強いシリアスなテーマを扱い、「今」を映画で問うことが多い小林政広。彼の新作は、ちょっと風変わりな45分の短編であった。

新しいサイレント映画を狙って撮ったという本作は、極個人的な問題を抱えた一組の夫婦の「或る贖罪」のような日々を寡黙に描いたもの。
必要最小限の会話も字幕で表現し、音は音楽と街の生活音だけ。後は、登場人物の表情に語らせる。
それを、『ギリギリの女たち』 で見事な演技を披露した中村優子小林政広自身が、時に切なく、時に痛く、それでいて何ともチャーミングに演じてみせる。
ワンポイントで登場する本多菊雄の出演も嬉しいところだ。

小林は、この痛みを抱えた夫婦の日常を、淡々と定点観測するかのように、けれど突き放すことなく体温を伴い映像で語って行く。それは、ちょっと“ストレンジ”な大人のフェアリーテイルのような趣だ。
一切の過剰さを排した二人の演技は、動きを抑制する分、かえって観る者の心に哀しみの影を落とす。一人無口に家事をする由希子や、機械式駐車場で背中を丸めて車が出て来るのを待つ男の背中といった、積み重ねられる日常の風景の中にさす影として。

もう、お分かりだろう。本作と『愛の予感 THE REBIRTH』は、本質的に同一構造を持った作品である。喪失の痛み、虚無的に耐え忍ぶ日常、再生…。
同じ再生をテーマにした姉妹作の如きこの二作品は、映画の終幕後に待ち受けている現実がまったく正反対の作品でもある。
殺人を犯した娘が帰還すれば新たな苦しみが待ち受ける『愛の予感』、わだかまりを振り切り新たな夫婦関係を築こうと前を向く『逢う時は他人』。
僕は二作とも好きだけれど、人としての温もりと救いを確かに感じ取れる『逢う時は他人』の方にこそ本当の再生を感じる。
その意味で、『逢う時は他人』という小品は『愛の予感』の魂を癒すために小林政広が撮った作品なのかも知れない。

個人的に、僕がひっかかった個所は二つ。由希子の体の動きに合わせてカメラを上下させる前半のシーンと、由希子の嗚咽をあえて音声にする入浴シーン。
この二つの場面は、これで良かったのだろうか?その答えを、僕は今でも出せないでいる。
ただ、それも含めてこの映画の45分は、観る側の人生経験同様、如何様にも解釈していいのかも知れない。
そして、その自由な行間こそが本作の魅力と言えるんじゃないだろうか?

『逢う時は他人』は、自分の中の映画を感じるために用意された静かな45分。
こういう作品を観ると、僕は「小林が撮る、イノセントな大人の恋愛映画を観てみたいな…」と思ってしまうのだ。

誠に愛すべき小品である。

※日本ではまだ未公開の本作レビューを書くことについて、もちろん小林監督ご自身から許可を頂いていることをお断りしておく。

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市井昌秀『箱入り息子の恋』

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2013年の市井昌秀監督『箱入り息子の恋』

What's Entertainment ?

脚本は、市井昌秀、共同脚本は田村孝裕、音楽は高田漣、小説『箱入り息子の恋』(ポプラ社)、主題歌は高田漣feat.細野晴臣「熱の中」(スピードスターレコーズ)、製作総指揮は木下直哉・水口昌彦・齋藤正登、プロデューサーは武部由実子・中林千賀子、撮影は相馬大輔、照明は佐藤浩太、録音は尾崎聡、編集は洲崎千恵子、装飾は松田光畝、助監督は副島宏司、衣裳は高橋さやか、ヘアメイクは内城千栄子、制作担当は齋藤大輔。
製作は『箱入り息子の恋』製作委員会、特別協賛は吉野家・(株)IBJ、制作プロダクションはキノフィルムズ・ブースタープロジェクト、配給はキノフィルムズ、宣伝協力はSKIP。
2013年/日本/アメリカンヴィスタ/5.1ch/117分
宣伝コピーは「恋をすれば傷を負う。いつだって僕らは傷だらけだ。」


某市役所の記録課に勤務する天雫健太郎(星野源)、35歳。冴えないルックスと極度の人見知り故、これまで周囲からずっと蔑まされて来た健太郎は、自分の殻に引きこもるコンプレックスの塊だ。
大学卒業後、13年間ずっと同じ部署に勤務し一日たりとも欠勤したこともない彼は、出世意欲もゼロなら社交性もゼロ。昼は近くの自宅に戻って食事し、定時の5時にはとっとと帰って部屋にこもりバトルゲームに興じる。
「年齢=彼女いない歴」の健太郎にはもちろん女性経験もなく、趣味は貯金とペットのカエルを育てること。結婚願望も彼女を作る意欲も持ち合わせてはいない。

What's Entertainment ?

そんな息子を心配した両親・寿男(平泉成)とフミ(森山良子)は、息子には言わずに代理見合いの会場へと赴く。天雫家のテーブルには誰も興味を示さず、諦めかけた頃に一組の夫婦がやって来る。
会社を経営する今井晃(大杉漣)とその妻・玲子(黒木瞳)だが、会社でも家庭でもワンマン体質で偏見に凝り固まった晃は、健太郎の履歴書を一瞥しただけで興味を失くす。今日の見合いで、晃が最も気に入らなかったのが何の取り柄もなさそうな健太郎だった。
一方の天雫家は、彼らの一人娘・奈穂子(夏帆)の美しさに惹かれる。しかし、健太郎より9歳年下の彼女は8歳の時に視力が著しく低下する病を患い、今では全盲であることを二人はまだ知らない。

What's Entertainment ?

代理見合いから数日、今日も役所を定時退庁した健太郎は突然の雨に傘をさして家路につく。ちょうど同じ頃、玲子と買い物に出た奈穂子は突然の雨に傘もなく雨宿り中。玲子は、慌てて車を取りに行く。
一人雨宿りしている奈穂子を偶然見かけた健太郎は、一度は通り過ぎようとしたものの思い直して奈穂子に傘をさしかけると自分はずぶ濡れで去って行った。
奈穂子のところに戻った玲子は、娘が手にしている傘の柄についた「天雫」のタグに気づき、驚きの表情を浮かべる。
玲子は、夫には告げず独断で天雫家との見合いを決める。大喜びの寿男は、何とか見合いするよう渋る健太郎を説き伏せた。奈穂子の写真を見た健太郎は、内心穏やかではない。
一方の晃は、「こいつだけは、断れと言っただろう!」と妻を叱責するが、いつもは従順な玲子が今回は聞く耳を持たなかった。

やって来た見合いの日。端から健太郎を見下している晃は、見合いの席で完膚なきまでに健太郎のことをこき下ろす。「こんな男に、目の見えない娘の面倒など務まる訳がない」と。あまりの無礼な物言いに、気色ばんだフミは席を立とうとする。狼狽する玲子。
すると、それまで黙っていた健太郎が「奈穂子さんは、どう思っているのですか?」と言った。自分の目のこと云々以前に、まずは気が合うかどうか…と静かに答える奈穂子。
健太郎は、自分がこれまでの人生で周囲からずっと蔑まれて来たことを告白した後、「目の見えない奈穂子さんに見えているものと、あなたに見えているものとは違うと思います」と晃に向かって言った。
その夜、健太郎は自分の部屋の物をぶちまけて悔しさに慟哭した。両親は、そんな息子にかける言葉が見つからない。
こうして、健太郎の人生は、今までの無味乾燥な日常へと戻って行った。

What's Entertainment ?

昼休み。今では自宅で食事することをやめている健太郎の昼は、もっぱら吉野家で牛丼を食べるか買った弁当を公園で食べるかだった。役所を出た彼の目に飛び込んで来たのは、自分のことを待っている奈穂子と玲子の姿。驚く健太郎。
とりあえず、奈穂子と公園にやって来た健太郎は、おずおずと会話を始める。昼はどうしているのかと聞かれて、健太郎は吉野家のことを話す。自分も食べたいと言う奈穂子。健太郎は玲子に断って、奈穂子を吉野家にエスコートした。

What's Entertainment ?

その日から、健太郎と奈穂子はたびたび昼休みに会うようになる。次第に二人の気持ちは近づいて行き、健太郎は遂に奈穂子が好きだと告白する。その言葉に、奈穂子は素直に喜ぶ。
親密になって行く二人を玲子は優しく見守っているが、娘がそんなことになっていることを晃は知らない。

What's Entertainment ?

そんなある日、健太郎と奈穂子の関係を揺るがす大事件が起きる…。


とても良い映画である。

ストーリー紹介をお読み頂ければ分かる通り、本作は観る人のおかれた人生環境(のようなもの)によって大きく左右される作品では、ある。
こういう鬱屈したダメな男に共感或いは肩入れできるか否かによって、印象が大きく違ってくるからだ。
それに、夏帆や彼女演じる盲目の女性に魅力を感じることができなければ、やはり映画の魅力は半減してしまう。

傑作とかいうたぐいの映画ではないし、言ってみればオクテな負け組男と美しい盲目の美女の不器用な恋…という、ある種定番的な恋愛映画である。
ステロタイプの奈穂子の父親や、二人を見守る周囲の人々…といった設定も含め、何度も繰り返し描かれて来た物語と言えるだろう。

それを今、新作としてぶつけて来るところが新鮮だが、健太郎と奈穂子が比較的早い段階で肉体的に結ばれるところに現在の恋愛映画であることを感じさせる。
逆に言えば、そういうベッドシーンをイノセントで美しい映像としてきちんと描写するところにこそ、この映画にとっての現代的なリアリティがあるのだ。

僕はそもそも不器用な恋愛映画が好きで、それは自分のこれまでの恋愛があまりにも不格好なことと無縁ではないのだが、まあそれは別の話題。
アンチ・スタイリッシュな恋愛映画の場合、男女の親密度が深まるまでの過程を如何に描くかが映画的・物語的成否を分けることになる。
本作でのきっかけとなる雨宿りのエピソードは映画的外連味と言えなくもないし、穂のか演じる同僚との関係も定型的だが、ストーリー展開はとてもスマートで温かい。
効果的に使われる吉野家での場面はこの映画におけるひとつのピークである。小道具や伏線の繋ぎ方も悪くない。

そして、前述した健太郎と奈穂子のベッドシーンの不器用な幸福感と美しさは、そのまま恋愛映画を観ることの喜びでもある。シンプルに素晴らしいと思う。

個人的にはいささかの過剰が引っ掛かるし、エンディングに至るまでの個所にもっと映画的なカタルシスが欲しかったようにも思うけれど、それはないものねだりというものだろう。

俳優に目を向けると、やはり星野源夏帆の二人がいい。特に、夏帆の透明感溢れる美しさに心ときめく。

What's Entertainment ?

脇を固める平泉成とこれが15年ぶりの映画出演となる森山良子も堅実な演技を見せるが、やはりここでは黒木瞳の魅力に目が行ってしまう。
大杉漣は、こういう演技と役柄が多くて何だか既視感が伴うけれど(笑)

いずれにしても、イノセントな恋愛映画の良心作としてお勧めしたい一本である。

ナカゴー特別劇場vol.10『アーサー記念公園の一角/牛泥棒』

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7月8日、ムーブ町屋ハイビジョンルームにてナカゴー特別劇場vol.10『アーサー記念公園の一角/牛泥棒』二本立て公演の千秋楽を観た。


What's Entertainment ?

作・演出は鎌田順也、黒子は飯田こうこ、ナレーションはますもとたくや。協力はクロムモリブデン、スターダス・21、青年団、東葛スポーツ、はえぎわ、little giants、KUUMI17、久保明美、戸泉麻衣、森桃子。


What's Entertainment ?


『アーサー記念公園の一角』

学生時代の思い出の場所、アーサー記念公園の一角で夫のキヨシ(小林義典:クロムモリブデン)と共に懐かしい友人と待ち合わせしている新田鶫(川崎麻里子:ナカゴー)。
情緒不安定気味の鶫は、いつまで待っても現れない是枝沙織(川上友里:はえぎわ)に心折れかけている。いくらキヨシがなだめたところで、あまり効果はない。
そこにご近所の主婦・荒川(左近道代)がジョギングで通りかかって、面倒臭く絡んで来るからたまらない。

場所が公園ゆえに子供が遊んでいる訳だが、子供を見ると鶫の様子がますますおかしくなって行く。実は、鶫が台所で包丁を使っていた時に5歳の息子が後ろから抱きつき、驚いた拍子に誤って彼女は息子の小指を切り落としてしまったのだ。
幸い息子の指は繋がったが、鶫はショックでノイローゼ状態になり、彼女が落ち着くまで近所にある夫の実家に息子を預けていた。
そのことがあって以来、鶫は自分のことを母親失格だと責め続けていた。今となっては遠くに住んでいる沙織を呼び出したのも、自分の苦しみを彼女に聞いて欲しかったからだ。

もはや諦めて二人が帰ろうとした時、息を切らせて沙織がやって来る。乗っていた電車が事故で遅延した上に、携帯の電池も切れて連絡できなかったのだという。
数年ぶりの再会に旧交を温める二人。自分の近況を話す中で、鶫は息子のことを告白する。話を聞き終えた沙織は、優しく鶫のことを慰め元気づけた。そして、沙織自身が今直面している驚きの事実を告白した。
そこに、舞い戻って来た荒川が加わって…。


『牛泥棒』

父親が亡くなり、実家で父と二人暮らしをしていた次女・伍代楓(高畑遊:ナカゴー)の元に親戚縁者が集まった。
通夜が終わり、楓は長女・乙葉(森岡望:青年団)の夫・徹(金山寿甲:東葛スポーツ)とビールを飲んで一息ついているところだ。部屋の壁には、かつて父が仕留めた牛の首の剥製が飾ってある。

実はこの二人、かつては付き合っていた時期もあったが結局徹は彼女を捨てて姉の乙葉と結婚した。今でも楓は独り者のままだ。適当に昔話をした後、やって来た徹の甥・光太郎(成瀬正太郎)を引き合いに出して、徹はとんでもないことを言う。「こいつの筆下ろしをしてくれないか」と。
しばし気まずい沈黙が流れ徹は慌てて謝るが、何と楓はオーケーした。徹は金を渡そうとするが、楓は受け取らなかった。

そこに、三女の優(清水葉月)と恋人の信一(北川昇吾)がやって来る。優を一目見た光太郎は驚きを隠せない。伍代家の三女は、何と女優の蒼井優だったのだから。優は、次の映画『フラガール3』について話す。今度の彼女は盲目の難役で、ヌードにもなるという。
プレッシャーでナーバスになっている彼女を信一が激励すると、優は思い余って濃厚なキスを交わす。これには、一同ドン引きだ。
すると、突然光一郎が優に「自分の初体験の相手になって欲しい」と言い出す。楓の手前さすがの徹も凍りつくが、信一は事もなげにいくらで?と切り出し、優は優で「よくあることだから」とサラッと言ってのける。
結局金額は100万とふっかけられて、それを徹と光一郎で50万ずつ折半することで話がつく。

そこに長女の乙葉が戻って来る。酒がなくなり、光太郎が酒屋に買い出しに行くことになる。彼は信一のカローラのキーを受け取り出て行くが、信一がこよなく愛するカローラをぶつけてしまい、血相を変えて戻って来る。
話を聞いた信一はキレて、優とやらせる話もなしだ!と暴れ始める。最初は謝っていた光太郎も逆ギレ。そのうち、一家それぞれが溜めていた憤懣が爆発。明日の告別式を前に、伍代家では大乱闘が始まってしまう。そのどさくさの中、乙葉が牛の剥製を持ち出して…。


2004年に作・演出を手掛ける鎌田順也、三越百合、白石広野を中心に旗揚げしたナカゴーは、20代で構成された若手劇団である。
ハイペースで芝居を打っている彼らは、今後も9月27日から29日までナカゴープレゼンツ マット・デイモンズ『レジェンド・オブ・チェアー』(千駄木ブリックワン)、11月21日から12月8日までナカゴー第11回公演『アムール、愛』(あさくさ劇亭)の公演が決まっている。


What's Entertainment ?

僕は、城山羊の会主宰の山内ケンジがツイッターで彼らの舞台を絶賛しているのを読んで興味を持ち、知人の役者である岩谷健司からも勧められて観に行った。
今年1月に観た昨日の祝賀会公演『冬の短篇』 に出演していて印象に残った清水葉月が客演していたことも、興味を惹いた理由の一つである。

で、初めて彼らの芝居を観て抱いた感想は、「若いなぁ…」というものだった。皮肉でも何でもなく、今のナカゴーは特権ともいえる若い勢いこそが芝居作りの原動力になっているように感じたのだ。
初期衝動を伴った若い疾走感は当然の如く粗削りだし、勢いがある種アナーキーなやけくそパワーの奔流の如く舞台を駆け抜けて行くのもバカバカしさと紙一重ではある。

僕もそこそこいい歳なので、彼らの強引さは時として疲れるし、あまりにもストレートで身も蓋もない下ネタの数々には、若干の苦笑を伴ってしまうのも事実だ。
たとえば、いくら清水葉月蒼井優に似ているからといって(実際に、彼女は蒼井優と雰囲気がそっくりだ)、まんま蒼井優役にしてしまうというのは普通やらないと思う(笑)
スラップスティックと評するには、いささかアマチュア的な泥臭さが目につく訳だ。それは劇中でのくすぐりの部分にも言えることで、笑いの要素が若い劇団にしてはかなり常套句的にベタな感じもする。シニカルにツイストしないのだ。
言ってみれば、芝居好きの仲間が集まって飲みながら「こんなネタやったら、バカバカしくて大笑いだよね」的に盛り上がったものをそのまま芝居として構築しました…というような感じの力業である。

ただ、洗練というものは回を重ねて経験を積むうちに嫌でも身についてしまうものである。問われるのは、どういう洗練に向かうのか…ということである。今の段階では、鎌田順也の作家性がどういう方向に収れんして行くのかは全く読めないが、かつての小劇場ブームから羽ばたいた優れた劇団がそうであったように、彼らもお客と共に成長して行く劇団という感触を持った。
ある程度経験を積んだ演劇関係者が彼らの芝居を観れば、その若さを眩しく感じるかもしれないけれど、やはりナカゴーは同世代のお客と共に進んで行くべき劇団である。

今回観た2本は共に混沌の中で終幕する一幕劇だが、直截的な表現で技巧をこらさず突き進んで行くところに僕は潔さと爽快さを感じた。
浅いと言ってしまえば浅いエピソードではあるが、劇の尺的にも勢いに任せて駆け抜けるから退屈さとは無縁である。「やり過ぎだよなぁ…」と失笑するところはあるにせよ。

演劇的には若さ溢れるにもかかわらず、役者からはあまり溌剌とした若さを感じないところが面白いといえば面白い。
その中にあって、前述した客演の清水葉月の若さは突出していた。彼女の芝居の思い切り良さが、僕はなかなか好きだ。


What's Entertainment ?

いずれにしても、注目すべき若手劇団である。
芝居好きの方は、一度彼らの公演に足を運ぶことをお勧めする。

TRANSPARENTZ「HOWLING!」@秋葉原CLUB GOODMAN

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7月24日、秋葉原CLUB GOODMANにてTRANSPARENTZの初ライブを観た。イベント名は「HOWLING!」で、対バンはKIRIHITOと久土’N’茶谷。

What's Entertainment ?

TRANSPARENTZのメンバーは、山本精一(g)、日野繭子(noise)、HIKO(ds)、isshee(b)。
山本はBOREDOMS、思い出波止場(RUINS波止場含む)、羅針盤、PhewとのMOST、ROVOといった多彩な活動をしていて、僕はスペース・トランス・バンドのROVOがかなり好きである。
2000年5月28日に吉祥寺STAR PINE’S CAFEで行われたスラップ・ハッピーの来日公演で、Phewと共にオープニング・アクトを務めた彼のライブを僕は観ている。
日野繭子は、言わずと知れたピンク映画の元スター女優にして、ノイズ・ミュージシャン。C.C.C.Cでの活動後、現在はDFH-M3という女性ノイズ・ユニットで活動している。
HIKOは、かのハードコア・パンク・バンドGAUZEのメンバー、issheeはBar isshee(渋谷の店はビル取り壊しのため閉店。現在、新店舗探し中)の店長である。

What's Entertainment ?
山本精一

What's Entertainment ?
日野繭子

What's Entertainment ?
HIKO

What's Entertainment ?
isshee

個人的には、音楽的引き出しが無尽蔵の山本精一がどういうノイズを構築するのかに興味を抱いた。
演奏時間は、ほぼ60分一本勝負的なノイズの洪水。音楽的ギミックはほぼ皆無で、思いの外ストレートなフォー・ピースの演奏が展開された。
ステージに向かってセンターに日野繭子、右に山本精一、左がisshee、奥がHIKOという位置での演奏。日野は大きなアクションを伴ってノイズマシンを演奏し、山本とissheeはときおりスクリーミングを伴いつつ淡々と演奏。HIKOは激しく手数の多いドラムで、汗を振り撒きながらの熱演だった。

音的には、日野の繰り出すノイズとHIKOのトライバルなドラムスがメインで、演奏の前半は音の塊をダイレクトにぶつけて来るような印象だった。前半30分の体感時間はあっという間で、肉体的カタルシスを伴う爽快な演奏。
ただ、フロアで聴いていると音の分離が悪く団子状で、(僕の耳が大音響でヤラれているとはいえ)ギターとベースの音がほとんど聞き分けられなかった。ノイズに音の分離を要求する方が野暮だ…という考え方もあるだろうが、ある意味異種格闘技的な面子が「ノイズ」というベクトルで集まった訳だから、新しいノイズのPA的方法論の提示を僕は期待したのだ。
これが初のお披露目でありオーソドックスな展開も悪くないが、このバンドに次の展開があることを期待したいところである。

個人的な不満は、実は後半にあった。45分過ぎくらいから、演奏はラストに向けてシフト・チェンジしたと思うのだが、そこからの演奏展開がいささか引っ張り過ぎのように感じた。僕の好みを言えばシャープにエンディングへとなだれ込むのが理想で、スピーディにメンバーが一人ずつステージ袖にハケて行ってくれると良かったのだが。
そして、メンバーが一度ハケてからもう一度ステージに戻ってアンプの音を切るというのが余計かなと思った。呆気ないくらいに終幕する方がクール…ということだ。
ステージングとしては、一輪の花である日野繭子の存在が凛々しくてとても印象的だった。

いずれにしても、今後も活動を継続して欲しいバンドである。

金子修介『百年の時計』

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2013年5月25日東京公開(2012年10月20日香川にて先行公開)、金子修介監督『百年の時計』

What's Entertainment ?
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プロデューサーは金子雄一、協力プロデューサーは岩本光弘・小松崎友子、アシスタント・プロデューサーは綾田真紀子、脚本は港岳彦、音楽は中村由利子、主題歌はD-51「めぐり逢い」、撮影は釘宮慎治、照明は田辺浩、美術は高橋俊秋、装飾は日野奈津子、編集は田辺賢治、助監督は村上秀晃・島田伊智郎、ポストプロダクションコーディネートは稲村浩(オムニバス・ジャパン)、オンライン編集は五十嵐淳、カラリストは戸倉良、CGIディレクターは辻本貴則、録音アドバイザーは星一郎、音響効果は伊藤克己(スワラ・プロ)、フォリーは赤平直樹、現場録音は庵谷文博、整音は武藤雅人(スリーエス・スタジオ)、衣裳は小海綾美、メイクは吉森香織・松下泉、宣伝美術は田村享昭(タムラデザイン)・猪熊信次(アイノグラフィカ)。
製作はさぬき地産映画製作委員会。製作プロダクションは株式会社ブルー・カウボーイズ。配給は太秦、ブルー・カウボーイズ(香川県)。
2013年/日本/カラー/HD(16:9)DCP/5.1ch/105分

本作は2011年に路線開業100周年を迎えた琴平電気鉄道(ことでん)の創業100周年事業の一環として製作された。


こんな物語である。

香川県高松市美術館の新米学芸員・神高涼香(木南晴夏)は、地元が生んだ世界的前衛芸術家・安藤行人(ミッキー・カーチス)の大回顧展を企画。これまでずっと美術館からのオファーを断って来た安藤が新作製作も含めて了承してくれたことで、涼香は狂喜する。
しかし、現在の安藤は年老いて、気難しさと被害者意識に拍車がかかっている。しかも、体調を崩してしばしば彼は入院していた。今回の回顧展も、娘で安藤のマネージャーを務める美咲(木内晶子)を通してのオファーだった。

安藤の奇行に、涼香も他の美術館スタッフ(宍戸開、金子奈々子)も初日から振り回されるが、安藤の熱烈なファンでもある涼香は、必死で安藤と行動を共にする。


What's Entertainment ?

しかし、安藤は「周囲が自分の名声を利用して金儲けしたいだけだ」と断じ、新作も作らなければ回顧展もやめると言い出すに至って、さすがの涼香も怒りを露わにする。
涼香は、自分が学生時代に教会で体験した安藤のインスタレーションに感激したことを涙ながらに激白。その体験こそ、涼香が芸術と真剣にコミットするきっかけとなったのだ。

涼香は、町工場を経営する邦男(井上順)と切り絵作家の芳江(池内ひろ美)の間に生まれた一人娘。彼女は、大好きな母親の影響で芸術が好きだった。しかし、父親の経営する工場が傾き金策に奔走する最中、元々体の弱かった母親が他界。
芳江亡き後、邦男はタクシー運転手に転職して男手ひとつで涼香を育てたが、母を見殺しにしたとの思いが拭えず涼香は父を許せないままでいた。
そんな涼香の想いを癒し、芸術へと本格的に導いたのが安藤のインスタレーション体験だったのだ。
その体験後、本格的に芸術を学ぶべく美大に進学した彼女は、ニューヨークへの美術留学までして、美術館学芸員になった。
母を喪った経験は彼女を頑なにし、高校時代から付き合うことでん運転手の溝渕健治(鈴木裕樹)に対しても素直になれない。

What's Entertainment ?

さすがの安藤も涼香の迫力に気圧される。安藤は、今の自分に芸術家としてのモチベーションが失われ新作が作れないと苦悩を告白した。
そして、彼は古びた懐中時計を取り出し、地元を離れて芸術家を志した若き日(近江陽一郎)に偶然電車に乗り合わせた女性(中村ゆり)から手渡されたこの時計が自分の原点であると言った。

What's Entertainment ?
What's Entertainment ?

あの時の女性を探し出せれば、自分は芸術家として再生できるかもしれない…と語る安藤の想いに、涼香は安藤と懐中時計のかつての持ち主を探すことにするが…。


冒頭でも触れたとおり、ことでん創業100年記念事業として企画されたオール香川ロケのご当地映画である本作は、かなり特殊な環境の元で撮られた作品である。そもそも、「百年の時計」というタイトル自体が、ことでんが刻んできた歳月の象徴なのだから。
さぬき地産映画製作委員会も香川県政財界によって設立・支援された製作委員会だし、香川県知事・浜田恵造も知事役として登場する。また、高松市長・大西秀人もイベント客の一人として出演している。

まあ、映画誕生のバックボーンは鑑賞する側にとってはどうでもいいことで、問われるべきは言うまでもなくその“質”である。
ハッキリ言って、僕はこの作品を駄目だと思う。過剰なまでの感傷と、押しつけて来るような感動的情緒性も正直苦手だが、そもそも論として登場人物のキャラクターに魅力を感じない。
そして、何と言っても木南晴夏ミッキー・カーチの演技が精彩を欠くのではないか?特に、ミッキー・カーチスは滑舌の悪さも伴って、あまりにも演技が稚拙に過ぎる。彼を観ているだけで、どうにも醒めてしまう。

What's Entertainment ?


その反面、若き日の安藤を描く場面で近江陽一郎中村ゆりに力があるから、尚更ミッキーの演技が気になるのだ。
本作において観るべき個所は、この近江と中村二人の演技と田園の緑の中を走ることでんの美しい映像である。

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物語的にも問題が多い。何故、安藤は懐中時計に関する回想で「見知らぬ女性から渡されたから、持ち主を探してほしい」などと涼香に嘘をつかなければならないのか?
また、涼香の人間像があまりに身勝手で独善的に映り、見ていて違和感を禁じ得ない。まったくと言っていいほど、魅力を感じないのである。
煮え切らない涼香の恋人・溝渕健治も、「草食系男子」と片付けるにはあまりに不甲斐ないキャラクターである。

むしろ、懐中時計の持ち主・氏部由紀乃を探す過程で登場する螢雪次朗や桜木健一、あるいは父親役の井上順や溝渕の同僚・菅原優役の岩田さゆりの方に魅力を感じる。
安藤と氏部の若き日以外にいい場面があるとすれば、それは教会でのインスタレーションのシーンくらいである。

そして、何より僕がダメだったのが映画の後半に描かれることでんを使っての安藤の新作インスタレーション。この場面は、映画のメインのようでいて、実は観客も映画のストーリーさえも置き去りにした時間なのではないだろうか?
この場面における主役は、ことでん自体、或いはことでんが刻んで来た百年の時間そのものである。この場面が映画の一部なのではなく、ことでん百年の歴史にとってこの映画自体がその一部であるかのようにさえ思える。


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それだからなのか、この場面の描き方はあまりにも感傷的過ぎる。そしてその感傷は、最後に用意された安藤と氏部(水野久美)の再会でさらに拍車がかかる。

もちろん、本作に自分の人生を重ねて感動する人も多いだろう。
しかし、あくまでも僕にとっては評価しかねる作品である。

余談ではあるが、劇中に登場する切り絵は金子修介の母親で切り絵作家だった金子静枝の作品であり、涼香の先輩学芸員役・金子奈々子は妻である。
また、地元劇団員の一人として、冨田じゅんが出演している。

常本琢招『蒼白者 A Pale Woman』

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2013年6月8日公開の常本琢招『蒼白者 A Pale Woman』

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エグゼクティブプロデューサーは佐々木孝・岩井正幸・常本琢招、原案は常本琢招、脚本は木田紀生、ラインプロデューサーは菊池正和、撮影は福本淳、照明は木村匡博、音楽は竹内一弘、録音は光地拓郎、美術は宇山隆之、編集はタク・ツネモト、メイクは奥村裕子、助監督は黒川幸則、監督助手は地良太浩之・佐野真規、制作進行は加藤綾佳・中嶋知香。
製作は株式会社ゼンケン・常本家、配給はカプリコンフィルム、配給宣伝は岩井秀世。
宣伝コピーは「弾丸よりも痛い愛」
2012年/HD/カラー/90分
本作は、大阪市の映画制作助成制度「CO2」から権利を得て製作された。撮影期間は、2011年12月24日から2012年1月12日まで。
副題となっている「A Pale Woman」は、クリント・イーストウッド監督の西部劇『ペイルライダー』(1985)から取られている。そして、“pale rider”とは、黙示録「見よ、蒼ざめた馬(pale horse)を。それに乗っている者は“死”だ」からの引用である。


こんな物語である。

キム(キム・コッビ)は、母に代わり韓国で自分を育ててくれた人が亡くなったことを契機に、再び日本に戻る決心をする。最愛の人を闇から救い出すために。

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キムの母親フミ(中川安奈)は、夫亡き後キムを連れて大阪に行くと闇社会のフィクサー平山の後妻となった。表向きは精肉会社を営みつつ、その裏で悪辣にしのぐ平山。
そんな平山の家に、シュウ(西本利久:子役)という男の子が貰われて来る。彼は将来を嘱望されるピアニストの卵で、暴力の匂いたちこめるこの家で、キム(下山天:子役)にとっては優しい兄のような存在だった。まだ幼いキムが、シュウに恋心を抱くのにさほど時間はかからなかった。

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そんなある日、事件が起きる。平山がキムに劣情して襲いかかり、それを止めに入ったシュウは平山と格闘。階段から突き落とされた平山は植物状態となり、シュウは聴力を失ってピアニストとしての将来を断たれた。
そのごたごたでフミはキムを韓国に送り、彼女は平山の事業を引き継いで自分が暗黒社会でしのぐようになる。
彼女の元で若きチンピラ達がのし上がりのために野心を燃やし、シュウ(忍成修吾)は不承不承そのヤクザ稼業の下働きをしていた。しかし、シュウの本当の役目は、フミの若きツバメとして彼女の肉欲を解消することだった。
そんなシュウを自分の愛で救うため、キムは日本に向かったのだ。

破竹の勢いを誇るフミに、同じ闇社会で一大勢力を誇る塚越会長(渡辺護)が手を組まないかと持ちかけるが、フミは彼の申し出を袖にする。子分たちは憤るが、塚越は冷静に次の手段を練ることにした。

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キムはフミやシュウの前に現れて、自分が戻ったことを伝える。頑なに日本語を話さないキムに、フミは娘が腹にイチモツ持っていることを感じ取る。
フミの部下たちは、フミに断りなく表向きはスーパーを経営しつつ裏では地下銀行で荒稼ぎしている在日韓国人の男に目をつける。シュウも巻き込み、彼らは男が不正送金する金を強奪する計画を立てた。

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希望を失い自暴自棄になっているシュウは、気の進まぬ汚い仕事とフミの相手で日々を生き、彼にまとわりつくホステス(宮田亜紀)と気のない付き合いをしている。
そんなシュウのかつての才能を知っている音楽プロデューサー(長宗我部陽子)が彼に復帰を勧めても、それさえ今のシュウには疎ましいだけだった。
そこに、キムが現れて「あなたを救い出す」と宣言し勝手な行動を取り始めたから、シュウの戸惑いはさらに大きくなっていく。

シュウを暗闇から助け出すため、キムは手段を選ばず次々と過激な行動に出る。そして、キムはシュウたちが計画している地下銀行資金強奪計画の仲間にまで入り込むが…。

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本作は、CO2助成の条件「大阪で撮影すること」という規定と常本監督が大阪を舞台にした仕事が多いことから大阪が舞台として選ばれたのだが、大阪特有の猥雑さが作品からも立ち昇っている。
常本が目指したのは、強靭な女性映画と東宝アクションの融合。撮影を進める中で助成金では予算が足りなくなってしまい、自己資金と友人の出資を募って完成に漕ぎ着けたそうである。
キム・コッビも忍成修吾も監督本人の意向によりキャスティングされた。

(たとえば、座頭市やゴジラのような)圧倒的な存在の女性キムがヒロインの「情念の暴力映画」と常本が表現する本作を観た僕の個人的感想を述べさせて頂ければ、いささかストーリーが粗雑なキム・コッビのアイドル映画…ということになる。
大阪の街を奔走するキム・コッビの姿以外には、あまり魅力を感じることができなかったのだ。

暴力シーンが少ないのも闇社会の描き方に厚みがないのも予算を考えれば致し方ないし、そもそものコンセプトとしてヒロインが自分の想いに暴走するある種の実験映画であるというのも理解できる。
それでも、やはりこの作品の根本的な世界観の浅さが物足りない。キムの抱える「シュウへの一途な想い」だけを描いて他をあえて削ぎ落としているのは監督の意志だと思うが、平山の築いた闇の王国やフミの心に巣食う暗く燃える焔と一人娘への愛情、シュウの感情の描き方があまりにぞんざい過ぎるのではないか?

キムの情念にフォーカスして映画を語ることと、彼女の周囲を雑駁にしか描かぬこととはやはり違うと僕は思うのである。
映画としての疾走感はあるが、最大の見せ場である母娘の決闘シーンからラストに訪れる感傷までが、どうにも予定調和的でカタルシスに乏しいのも不満だ。

本作に限らず、近年単館系で上映される(自主製作体制をメインとした)低予算国産映画の多くに、僕は映画としてのミニマムで言い訳めいた雰囲気を感じてしまう。
特段、製作者が公に某かのエクスキューズを展開している訳ではないのだが、作品の端々に「当初からの限界」を嘆息するような匂いを感じるのだ。
これは、何故なんだろう。僕がたまたま観る映画に限ったことなのだろうか?

ヤン・イクチュン監督『息もできない』 (2009)で圧倒的な存在感を示したキム・コッビ、メジャーとマイナーとを越えて精力的に出演する忍成修吾、久しぶりの映画出演となる中川安奈はそれぞれに魅力的だと思う。
ピンク映画界の黒澤明とまで評される渡辺護監督の元気な姿や、長宗我部陽子も嬉しい。
しかし、ストーリー的にはもう少し何とかならなかったのか…と思う。

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本作は、役者陣の魅力に比して映画的には今ひとつ求心力に欠ける一本である。
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