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小林政広『歩く、人』
2001年の小林政広監督『歩く、人』。
プロデュース・脚本は小林政広、撮影は北信康、照明は木村匡博、録音は瀬谷満、音響効果は福島行朗、編集・ホストプロダクションプロデューサーは金子尚樹、アシスタントプロデューサーは上野俊哉、ラインプロデューサーは南博之、助監督は森元修一・丹野雅仁・塚本敬、制作は波多野ゆかり、音楽はサン・サーンス「動物たちの謝肉祭」より・櫟原龍也・中澤寛、テーマ曲「水族館」演奏アレンジ:佐久間順平、撮影助手は馬場元、照明助手は三善章誉、照明協力は新保健次・番長(古村勝)、制作助手は橋場綾子・榎原由紀枝・斉藤大和、録音助手は永口靖、編集助手は蛭田智子、ネガ編集は門司康子・神田純子、タイミングは安斎公一、タイトルは道川昭、メイキングは山野邊毅、スチールは岡村直子、
製作はモンキータウンプロダクション、配給はオフィスサンマルサン・モンキータウンプロダクション。
2001年/35mm/102分/カラー/アメリカンビスタ
本作は、第54回カンヌ国際映画祭“ある視点”部門公式出品作品である。
作品のラストには、「母の思い出に」とのクレジットが入る。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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北海道増毛町で、五代続く造り酒屋を営む66歳の本間信雄(緒形拳)。妻は癌で2年前に他界し、何かと折り合いの悪かった長男の良一(香川照之)は高校卒業と同時に家を出たままだ。現在は、次男の安夫(林泰文)が家業を継いで信雄の面倒を見ている。
偏屈な信雄が唯一楽しみにしているのは、自宅から8キロ離れた国営の鮭孵化場に歩いて通うこと。妻に先立たれた後、信雄はそこで働くバツイチの職員・熊谷美知子(石井佐代子=葉月螢)に仄かな想いを寄せている。
安夫は、行き先も告げずに毎日ほつき歩いている父親を持て余し気味で、彼の恋人・野口圭子(占部房子)は呆けてるんじゃないかと辛辣に言う。圭子は、自分のしたいこともせずに父親に縛り付けられている安夫のことが不満でならない。
家を出て12年、バンドのボーカルとして夢を追い続けている良一は、そろそろ潮時だと思い始めている。同棲相手の清水伸子(大塚寧々)が懐妊し、もはや彼女の給料と自分のバイト代では生活が苦し過ぎるのだ。音楽をやめて実家に戻ろうと考えている良一に、伸子は一抹の寂しさを感じている。
美和子の別れた夫は、公金を持ち逃げして沖縄に逃亡中。「こっちで一緒に暮さないか」と連絡が来たという美和子に、あんな男と一緒にならずに自分と再婚しないか?と信雄は言った。「考えておくわ」と美和子は答えた。
安夫は圭子に呼び出されて、喫茶店で一方的に別れを告げられた。彼女は、親離れできていないと安夫を非難した。店を出た安夫は、駐車場に停めた車の中から久しぶりに良一に電話すると、「明日、会いに行くから」と告げて一方的に電話を切った。
「誰も、僕の気持ちなんて分かってくれないんだ!」と叫んで車を飛び出す安夫の姿を、圭子は見ていた。
安夫が家に戻ると、信雄は日本地図を広げて沖縄の場所を確認していた。二年間妻に操を立てて来たが、三回忌が終わったら解禁だと笑う信雄。明後日の三回忌には良一を呼べと突然言われたことも、安夫が兄に電話した理由の一つだった。
いつものように信雄が訪ねて行くと、美和子は「昨日の話…」と切り出した。惚ける信雄に「もう忘れたの?」と美和子。「結婚するのなら、週に一度はしてもらわないと」と言って乳房を差し出す美和子に、恐る恐る一度だけ触れる信雄。
自分は女を妻しか知らず、それでいいんだと信雄は弱々しく呟いた。この言葉に表情を暗くした美和子は、やはり自分は沖縄に行くと告げた。
その頃、安夫は良一のバイト先を訪ねていた。相も変わらず無愛想な良一。互いに憎まれ口を叩きつつ、兄弟は距離感を測っている。
良一に肉を奢れと言われ、兄弟はステーキハウスへ。ビールが進むうちに、良一は自分の近況についてしゃべり始める。「親父の面倒など見ずに、お前も家を出ればいいじゃないか」という良一に対して、安夫は兄の勝手な振る舞いを責め立てた。
二人の間に険悪な空気が立ち込める中、仕事を終えた伸子がやって来る。安夫は伸子に挨拶だけすると、「明日の三回忌、来てくれよ」と金を置いて出て行った。
「どうかした?」と問う伸子に、「上手くいかないんだなぁ。弟にカッコつけてどうするのかと思うんだけどさ、上手くいかないんだなぁ…」と良一は溜息交じりに言った。
そして迎えた三回忌の日。良一と伸子も来てくれたのだが、肝心の信雄はまたしても鮭の孵化場に行ってしまう。けれど、もうそこに美和子の姿はなかった。
ようやく寺にやって来た信雄は、良一と伸子に気づく。三回忌の読経が続く中、良一は安夫に、「実家に戻って来てもいい」と告げた。
自宅に戻って、四人でのお清め。久しぶりに揃った面々は、戸惑いつつぎこちない会話をしている。何とか互いの距離を縮めようとするものの、なかなか素直になれない信雄と良一。
そして、伸子と安夫が席を外している時に二人は諍いを始めてしまう。怒鳴り合ううちに掴み合いになり、信雄が手を上げた。慌てて二人の間に入ると、安夫は自分がこれからもずっとここで父と一緒に暮らすと叫んだ。
居たたまれなくなった信雄は、席を外す。家の外に出ると、女性が立っていた。圭子だった。
残された三人。「なあ、安夫。いいのか、あれで?」「うん」「本当にいいのか?」「うん」「そっか…」。
そこに信雄が戻って来ると、安夫に玄関を指差した。今度は、安夫が出て行く。良一は信雄に、バンドをやめてここで一緒に暮らそうかと思っていたことを告げた。
でも自分たちは上手くいかないなと苦笑する息子に、信雄は「そんなこと、ないと思うなぁ。もう少し、バンド続けるか」と言った。「子供ができたから、もうそんなに猶予はない」と良一。「そうなのか?」と問われて、伸子は頷いた。
作業場で、圭子はしゃがみこんでいた。やって来た安夫に、「好きなの!」と言って圭子は抱きついた。
駅で良一と伸子を見送った信雄を、安夫が迎えに来る。安夫がどてらを掛けようとしても、信雄は頑なに拒否し続けた。
吹雪の中、もはや美和子のいない孵化場に信雄は向かう。放流された鮭の稚魚たちを見送ると、雪道に一度大の字に寝そべった信雄は、再び起き上がって歩き始めるのだった…。
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とてもいい作品である。本当に、凄くいい。
小林作品の優れている点、それは鑑賞中に「あぁ、自分は今、小林政広の“映画”を観ているんだなぁ」という確かな手応えがあることだ。
彼の作品で描かれるのは、基本的に派手な仕掛けとは無縁の物語である。しかし、凡百の低予算映画とは異なり、ミニマムなのではなく市井の人々の普遍的な生活や感情の襞を描き出す優れた物語性を有している。
そこに、小林政広の作家としての才能を僕は強く感じる。平凡な話であればある程、脚本と演出の手腕が問われるのである。
この作品も、物語の前半は拍子抜けするくらいに淡々と進み、緒形拳はある意味過剰とも思えるほどに飄々と演じる。その前半、映画のフックとなるのは信雄と美和子の“大人”のプラトニックな恋情である。
不器用な老職人と人生経験豊富な大人の女の取りとめない会話の中に、決して熱することのない温かみを感じる。それは、信雄が美和子を背負うシーンに象徴される。
親子や兄弟のやり取り、あるいは良一と伸子、安夫と圭子のやり取りでは、ある種のペーソスと可笑し味を伴って彼らの関係性が描かれて行く。
どことなく掴み処のなかった物語は、安夫が去った後のステーキハウスのシーンから一気に映画的躍動を見せる。まるで、マジックのように。
「弟にカッコつけてどうするのかと思うんだけどさ、上手くいかないんだなぁ…」と吐き出す良一の言葉に、小さく胸が痛むのだ。
そして、物語は三回忌の後の本間家でのやり取りでピークを迎える。家族四人(いや、圭子も加わるから、五人か)の感情の爆発とその後に吐露される本音、その中に人間の弱さと優しさが仄見える。
人を描く…というのは、こういうことを言うのだろう。
物語には何の結論も出ず、本間家の日常は劇的な変化など訪れぬままに続いて行く。しかし、我々の人生だってそうやって続いているのだ。
けれど、観る者の心に確たる“何か”が残る、優れて映画的な一本である。
小田基義『透明人間』
70分、モノクロ、並映は渡辺邦男監督『岩見重太郎 決戦天の橋立』。
本作は、所謂「変身人間シリーズ」の先駆的作品と称されるものである。
変身人間シリーズは、本多猪四郎『美女と液体人間』(1958)、福田純『電送人間』(1960)、本多猪四郎『ガス人間第一号』(1960)の三本。本多猪四郎『マタンゴ』(1963)は、その番外作品として位置付けられる。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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昼間の銀座4丁目路上。何かを轢いた衝撃を感じて、慌てて自動車を降りた運転手。集まる人々に自分は人を轢いてしまったと運転手は訴えるが、倒れている人はいない。皆が彼の自動車の下を注視しているとやがて赤い液体が流れ出し、仰向けに倒れた男の姿が現れて周囲は大騒ぎになる。
死んだ秋田晴夫(中島晴雄)は、旧日本軍に所属していた男。戦時下に偶然発見された人を不可視化する技術。それを用いて極秘裏に編成された透明人間の特攻隊が組織されたが、彼らは全員サイパン島で玉砕したと思われていた。
ところが、生き残りが二人いた。そのうちの一人だった秋田は、透明人間でいることに疲れ果てて、路上に横たわり車に轢かれることを選んだのだった。秋田は、もう一人の生き残りに宛てた遺書を残していた。
透明人間の存在に、世の中は震撼した。街頭テレビでは、警視総監(恩田清二郎)が国民に向けて注意と情報提供を訴えていた。街中に、透明人間への注意を促す看板が立てられた。
その騒ぎの中、銀座のキャバレー「黒船」のサンドイッチマンとしてピエロ姿で働いている南條(河津清三郎)は、関心なさそうに人ごみを縫って歩いていた。
彼が身を寄せるアパート平和荘には、芝浦で倉庫の警備員をしている老人(藤原釜足)と孫で盲目の少女まり(近藤圭子)が住んでいた。仕事柄夜が不在の祖父に代わって、仕事から帰った南條はまりの話し相手になっていた。
南條は、まりの誕生日に「金髪のジェニー」のオルゴールをプレゼントする約束をした。
いまだ警察は透明人間を発見することができず、その一方で全身に包帯を巻いたギャング団が競馬場・銀行・宝石店を急襲する事件が相次いでいた。世間はギャング団を透明人間の仕業だと考え、新聞記者の小松(土屋嘉男)は編集長に一任されて透明人間を追い始める。
世の透明人間騒ぎに便乗して強盗を繰り返す黒幕、それは「黒船」の支配人・矢島(高田稔)と店の従業員・健(植村謙二郎)一味だった。しかも、彼らは麻薬密売にも手を染め、その運び屋として店の専属歌手・美千代(三條美紀)を巻き込んでいた。
美千代はそんな自分の境遇に苦しんでいたが、弱みを握られているために何もできずにいた。そんな彼女のことを、南條は陰から見守っていた。
矢島は、麻薬を荷受けするために金を積んでまりの祖父を抱き込んだ挙句、殺害。ギャング団の悪辣さは、加速して行く。
一方、まりへのプレゼントを探しにたまたま宝石店にやって来た南條の姿を取材中の小松が目撃。南條の全身白塗りのピエロ姿と目に見えぬ透明人間が繋がった小松は、南條の後をつけた。自分が透明人間であることを悟られた南條は小松の目の前で衣服を脱ぎ、透明な自分の姿を晒した。
すべてを吐露した南條の誠実さを信じた小松は、二人で透明人間を騙る真犯人を見つけることにする。
南條は、悪事が自分の職場である黒船で行われていることを突き止める。そして、美千代が一味の犯罪に加担していることも知った南條は、美千代に組織から抜けることを進言するため彼女を夜の公園に呼び出す。
美千代も、黒船で唯一信頼できる南條の言葉を聞こうとする。南條は、自分が透明人間であることを告白するが、美千代は南條への想いを打ち明ける。
そこに矢島一味が現れ、二人は捉えられて黒船の地下室に軟禁されてしまう。矢島の部下になることを拒否した南條は、激しい暴行を受ける。気を失った南條から衣服を剥ぎ取ると、矢島は部下に命じて南條を路上に捨てた。南條にも秋田と同じ末路を辿らせるために。
後は南條の死体が発見されるだけ…と黒船で祝杯をあげている矢島一味。すると、置いてあった瓶や皿が浮き上がり、彼ら目がけて飛んで来た。さらには、演奏者のいないピアノが鳴り出だした。南條だった。
一味は、見えぬ南條に向けて発砲するが、南條は次々に矢島の部下たちを倒して行った。そこに警察が到着する。南條から連絡を受けた小松が、通報したのだった。
矢島と健は自動車に飛び乗ると、逃走した。しかし、彼らの乗った車を無人のスクーターが追った。もちろん、南條だ。何度発砲しても、スクーターは追いかけて続けた。
行く手を重油タンクに阻まれ、車を捨てた矢島は逃げ場を求めて重油タンク塔に登った。南條も矢島の後を追った。
タンクの上では、矢島と南條の決戦の時が来た。階下では、警察が二人の戦いを固唾を飲んで見ている。その中には、美千代と小松の姿もあった。
矢島の撃った弾丸でタンクが爆発し、激しく炎が立ち昇った。そして、南條は矢島に組みつき、二人は格闘の末に地上へと落下。
美千代の目の前に、事切れた南條の姿が現れた。
その頃、まりの部屋では南條から贈られたオルゴールがひとりでに「金髪のジェニー」を奏で始めた。まるで、これからもまりを見守るかのように…。
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プログラム・ピクチャーを量産した小田基義の有名な仕事といえば、やはりトニー谷主演の『家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻』(1954)と『透明人間』の次に撮られたゴジラ・シリーズ第二弾『ゴジラの逆襲』(1955)ということになるのではないか。
そもそも、この『透明人間』は『ゴジラ』に続く特撮映画として企画されたものである。
光学合成を駆使した本作は、カメラマンとしての円谷英二最後の仕事でもある。昭和29年という時代と透明人間という素材を扱った本作は、物語的にはシリアスに大人向けでなかなか骨のある力作である。
円谷英二指揮の特撮はもちろん、作品が提示する世界観や物語性も含めて今の目で見てもかなり楽しめる逸品である。
娯楽の世界では、明白な絶対悪的存在があると比較的物語が設定しやすい訳だが、この当時の日本映画においてその“絶対悪”といえば大戦末期の軍に見出すことが多かったようである。
本作に限らず、空想科学映画でいえば『透明人間と蝿男』(1957)や『電送人間』(1960)も似たような構造の作品である。
この絶対悪の系譜は、その後東西冷戦構造になり、近年ではテロリストということになるのではないか。
また、当時の映画のひとつの特徴といえば、劇中に大規模なキャバレー・シーンが挿入されることである。この辺りも、ひとつの時代トレンドだったのだろう。『透明人間』では、日劇ダンシングチームに所属していた重山規子がセクシーなプロポーションと踊りを披露している。
銀座のキャバレーがそのまま犯罪グループという構造にはさすがに無理を感じるが、透明人間がピエロに扮してささやかな自分の居場所を見出している設定は秀逸。
盲目の少女との交流というくだりにこそ時代を感じるが、随所に閃きとストーリーテリングの巧みさを感じる。
とりわけ、南條が小松に自分の正体を告白するシーン、南條と美千代の公園でのロマンティックなシーンには時代を越えて訴求するドラマ的強靭さがある。
もう少し小松がストーリーに深くかかわって、重油タンク屋上での決闘シーンにキレがあればな…と思う。そこだけが、惜しまれる。
透明人間を扱ったお子様ランチ映画だと思わずに、鑑賞をお勧めしたい一本である。
デニス・サンダース『エルビス・オン・ステージ』
2001年1月19日アメリカ公開(日本では2004年7月31日)のデニス・サンダース監督『エルビス・オン・ステージ(Elvis:That’s the Way It Is-Special Edition)』。
本作は、1970年11月11日アメリカ公開(日本では1971年2月12日)されたオリジナル版からインタビュー・シーン等をオミットして演奏シーンを追加、さらには音響もデジタル5.1chにヴァージョン・アップされている。
製作はリック・シュミドリン、製作総指揮はジョージ・フェルテンスタインとロジャー・メイヤー、音楽はエルヴィス・プレスリーとジョー・ガルシオとグレン・ハーディン、ミキシングはブルース・ボトニック、撮影はルシエン・バラード、編集はマイケル・サロモン、配給はメトロ・ゴールドウィン・メイヤーとターナー・エンターテインメント。
なお、編集に際して108分だった上映時間は95分に短縮されている。
撮影は、1970年7月19日から9月9日にかけて行われた。収録されているのは、ラスヴェガス、インターナショナル・ホテル大ホール(キャパシティ4,100人)における8月10日オープニング・ショーから8月14日カクテル・ショーまでの8ステージと、MGMスタジオにおけるリハーサル風景である。
バッキング・ミュージシャンは、ジェームズ・バートン(g)、ジョン・ウィルキンソン(g)、チャーリー・ホッジ(g)、ジェリー・シェフ(b)、ロニー・タット(ds)、グレン・D・ハーディン(pf,arr)、ミリー・カーカム、スウィート・インスピレーションズ、インペリアルズ(chor)、ジョー・ガルシオ・インターナショナル・ホテル・オーケストラ(strings)。
1960年に陸軍を除隊したエルヴィスは、マネージャーであるパーカー大佐が映画配給会社との長期出演契約を締結してしまったため(1969年までに27本)に、思うような音楽活動ができなくなっていた。
そんな彼が歌手としての再起を賭けて臨んだNBC-TVスペシャル「ELVIS」(1968年12月3日午後9時放映)が、全米視聴率42%(瞬間視聴率70%超)と空前の大成功を収める。
それを受けて、1969年からエルヴィスはラスヴェガスを拠点に超過密スケジュールでのコンサート活動を再開したのである。
先ずは、快活に動く1970年のエルヴィス35歳の雄姿に見惚れる。シャープな体、精悍で甘いマスク、勢力と男の色気に溢れた佇まい。そりゃ、女性ファンが放っておかない訳だ。
そして、随所に挿入されるMGMスタジオでのリハーサル・シーン。有能なミュージシャン仲間との信頼に裏打ちされた、リラックスして楽しげな演奏シーンに心奪われる。
ここでのセッション・シーンは、音楽することへのエルヴィスの喜びがダイレクトに伝わって来るようで、こちらまで頬が緩んでしまうのだ。
色々な曲が演奏される中で目を引くのが、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」とビートルズの「ゲット・バック」だろう。この辺りのヒット曲を屈託なく演るところにも、ミュージシャンとしてのエルヴィスのイノセンスを感じる。
元々、ポール・サイモンがゴスペルの影響下で作った「明日に架ける橋」だが、エルヴィスの楽曲テイストには、後日同曲をソウルフルにカバーしたアレサ・フランクリンのバージョン(1970年8月録音)と類似点を感じる。
そして、コンサート・ショー本編。襟が高い白の派手なスーツ、お約束の空手アクション。楽団まで従えた大人数のバッキング・メンバー。会場を埋めるセレブリティなオーディエンスの中には、サミー・デイヴィスJr.の姿も見える。
そのあまりにゴージャスな煌びやかさからは、ロック的なテイストを感じることはできない。
映画でのオープニング3曲、「ザッツ・オール・ライト」「アイ・ガット・ア・ウーマン」「ハウンド・ドッグ」のクオリティに腰を抜かす。
ファンにはお馴染みのエルヴィス・スタンダードとも言える3曲(「アイ・ガット・ア・ウーマン」はレイ・チャールズのカバー)を高速でパンキッシュな演奏で聴かせる。
その音的な佇まいは、カントリーとソウルをミックスして、ロックンロールの衝動で演奏したとでも言えば近いだろうか。
その後、スクリーンに映し出されるのは、「ハートブレイク・ホテル」、「ラヴ・ミー・テンダー」、レイ・チャールズの「愛さずにはいられない」、「ジャスト・プリテンド」、「ワンダー・オブ・ユー」、「イン・ザ・ゲットー」、「パッチ・イット・アップ」、ライチャス・ブラザースの「ふられた気持ち」、「ポーク・サラダ・アニー」、「ワン・ナイト」、「冷たくしないで」、カール・パーキンスの「ブルー・スエード・シューズ」、「恋にしびれて」、「この胸のときめきを」、「サスピシャス・マインド」、そして大団円の「好きにならずにいられない」。
この時期エルヴィスの選曲や演奏コンセプトは、大きくポピュラー・テイストな方向に舵を切っていた訳だが、確かにここでも「ジャスト・プリテンド」「ふられた気持ち」「ポーク・サラダ・アニー」「この胸のときめきを」のアレンジメントには歌謡ショー的分かりやすさを感じる。
そして、ファン・サービスに徹したステージング。「ラヴ・ミー・テンダー」を歌いながら客席を回り、ファンの女の子たちのキスの嵐を受け止め、差し出されたタオルで汗を拭う。その姿には、ロックのコンサートというよりも杉良太郎のディナー・ショーをイメージする向きもあるだろう。
ただ、である。
どんな演奏スタイルでどんな楽曲を演奏しても、高度な演奏テクニックとゴスペル・ライクなコーラス隊をバックに、圧倒的な声量でパーフェクトに自分の歌を歌い上げるエルヴィス・プレスリーという男の途轍もないパフォーマンスには、それこそ「打ちのめされずにいられない」。
そう、彼は史上最高の歌手であり、ソング・スタイリストであり、そして孤高に屹立したアメリカ大衆音楽の体現者なのだ。
だからこそ、人は彼をこう称えるのである。「キング・エルヴィス」と。
ラスヴェガスのコンサート・ショーは、エルヴィス或いはバッキング・ミュージシャンにとっては1960年代に隆盛を誇った「ソウル・ミュージック・レビュー」の感覚だったのではないか。ジェームズ・ブラウンやアイク・アンド・ティナ・ターナーやモータウンのように。
この凄まじい音楽の洪水の中にあって、誰がジャンル分けなど気にするだろう。それが、ロックだろうが、ソウルだろうが、カントリーだろうが、ゴスペルだろうが、そんなことはどうでもいい些事に過ぎないのである。
とはいえ、エルヴィスの完璧なパフォーマンスに酔いながら、映画をシートに座って鑑賞する僕の胸中に複雑な思いが去来したのも、また事実である。
1970年という時代。前年にはウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティヴァル、1970年に入って第3回ワイト島音楽祭をピークに、ロックの世界はある種の喪失感を抱いていた時期である。そこには、ベトナム戦争の泥沼化やヒッピー幻想への敗北感も伴っていたことだろう。
ビートルズの解散、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリンの死去。その翌年には、ドアーズ(本作のリミックスを手掛けたブルース・ボトニックは、ドアーズのエンジニアとしても有名)のジム・モリソンも鬼籍に入った。黒人音楽の世界では、ニュー・ソウル運動の前夜である。
時代は、大きく動いていたのだ。
時代検証において“if”はまったく意味をなさないが、もしエルヴィスが映画契約に拘束されることなく除隊後も音楽活動を続けることができたなら、彼の音楽或いはアメリカのポピュラー音楽状況はどうなっていたのだろう…と考えずにはいられない。
というのも、ジャニス・ジョプリンを擁したビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーやオーティス・レディング、ジミ・ヘンドリックスが頭角を現し、ザ・フーの暴力的なライヴ・パフォーマンスがオーディエンスのド肝を抜いたモントレー・ポップ・フェスティバルが開催されたのが1967年。
当然の如く、エルヴィスの音楽活動も変革期を迎えた音楽シーンの影響と無縁ではなかっただろうと想像するからである。
その時代と交錯することがなかったという意味においても、やはりエルヴィスという天才は孤高の存在であったのだ。
そして、それ以降1977年8月16日に訪れる悲劇的な死に思いを馳せる時、僕はどうしようもない切なさに胸をかきむしられる。
最高潮に達したファンの熱狂の中、「好きにならずにいられない」の演奏終了とともに降ろされる緞帳。一度、その幕の間から顔をのぞかせて客席に微笑むエルヴィスを見て、僕はその喪われしものの大きさに、一人溜息をつくのである。
これ以上、一体何を言うことがあるだろうか。
10月26日から11月8日に立川シネマシティで公開予定の『エルビス・オン・ステージ』で、多くの人に70年代エルヴィスの巨大さを体感して欲しいと切に願う。
井坂聡『[Focus]』
企画は原正人・黒井和男、プロデューサーは赤井淳司・莟宣次、ラインプロデューサーは大里俊博・冨永理生子、脚本は新和男(1994年第2回さっぽろ映像セミナー入選作)、撮影・照明は佐野哲郎、美術は丸尾知行、音楽は水出浩、主題歌はEPO「夢の後についていく」、挿入歌は鈴木結女「HOMEPLACE」、編集は井坂聡、録音は今井善孝、音響効果は丹雄二、衣裳は東京衣裳、助監督は藤江義正、制作協力はバズ・カンパニー、特別協力はケイエスエス、スチールは中村和孝。
製作は西友・エースピクチャーズ、配給はエースピクチャーズ=シネセゾン。
井坂聡の劇場デビュー作である本作は、ベルリン国際映画祭ベルリナー・ツァイトゥンク読者賞とNETPAAC賞、井坂聡が毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、浅野忠信がヨコハマ映画祭主演男優賞・日本アカデミー賞話題賞、佐野哲郎が日本映画技術特別賞を受賞している。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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無線機を使って盗聴まがいの無線電波傍受にのめり込むフリーターの青年・金村(浅井忠信)。彼の存在に目をつけたテレビ・ディレクターの岩井(白井晃)は、カメラマン(佐野哲郎)とADの中山容子(海野けい子)と共に金村の取材を始める。
顔を出さないことと自宅を映さないことを条件に金村はインタビューに応じるが、彼の言動を聞いているうちに岩井の関心はよりスキャンダラスな展開と金村の私生活に向かう。
そんな岩井の我の強さに戸惑いながらも、押し切られるように金村はペースを乱されて行く。
どのくらい走った頃か、無線機が暴力団らしき男たちのやり取りを拾う。新宿駅西口のコインロッカーで、拳銃の受け渡しについて交わされる会話。車内には緊張感が漂うが、一人だけ色めき立つ者がいた。岩井だ。
皆が止めるのも聞かず、岩井は会話が本当かどうか確かめると言い出す。拳銃が出て来たら、その時警察に通報すればいいんだと彼は捲し立てた。岩井の頭の中に渦巻くのは、スクープ映像と視聴者からの大きな反響だけだ。
夜の新宿西口。指定された電話ボックスから、岩井はコインロッカーの鍵を見つけ出す。次に階段を駆け降りると、コインロッカーへと急ぐ。中には箱がひとつ入っていた。その箱を抱えて、岩井は金村の車に飛び込んだ。
駐車場に車を止めて、箱の中味を確かめる岩井。もちろん、カメラは回っている。紙に包まれた黒く光る拳銃が出て来た。岩井は、突然話を金村に振ってリアクションを求めるが、金村には岩井の求めるようなリアクションが取れない。苛つき、何度もテイクを重ねる岩井。
車に戻って来た金村は、「畜生、お前のせいでこんなことになった。マジで最悪だぜ、どうすんだよ!」と叫んだ。彼の手には、拳銃が握られていた。
金村は、呪詛の言葉を岩井たちに浴びせながらアクセルを踏み込んだ。もはや冷静さを欠いた金村は、三人を自分のアパートに連れて行くと、口封じのため岩井に容子を強姦するよう命じた。
部屋に置かれた無線機が、射殺犯を追っている警察無線を傍受。それを聞いた金村は、再び三人を車に押し込むと容子にハンドルを握らせた。銃口を突き付けられたまま、容子は車の運転を続け、いつしか辺りは夜が明け始めた。
次の瞬間、拳銃を奪おうとして容子、岩井、金村が揉み合いを始めた。一瞬カメラが真っ暗になり、一発の銃声が薄暮を切り裂いた。
凍りつく岩井、呆然とする容子。金村のこめかみには風穴が開き、窓ガラスは飛び散った血で真っ赤に染まっていた。ところが、彼らにとって肝心の決定的瞬間を収めることはできなかった。
「どうすんだよ、お前?」と聞く岩井に、容子は「海、見たいな…」と呟いた。
「もう、バッテリーがない。何か言うなら、早く!」とカメラマンは叫んだが、言葉が見つからぬ岩井をあざ笑うかのように、カメラのバッテリーは切れた…。
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見始めて数分で惹き込まれると、観る者の目を釘付けにしたまま、息詰まるテンションが73分ひたすらに疾走して行く。ロウ・バジェットを逆手に取った、パーフェクトとしか言いようのない凄まじいばかりのクオリティ。
いや、むしろ低予算だからこそ撮り得た作品…というのがより的確な評価だろう。隙のない脚本、一瞬の緩みもなく計算し尽くされた演出、秀逸なカメラワーク、そして何よりも監督のプランを完璧に実現するプロフェッショナルな役者たち。どこにも文句などつけようがない。
内気なのか不気味なのか得体の知れぬ浅野忠信のナイーヴな演技と、アドレナリンがほとばしるような白井晃の演技が見事なコントラストを構築している。
前半は、狡猾なマスコミ然とした岩井がドラマを牽引するが、その憎々しい押しの強さが見事。しかし、後半唐突に話の軸は金村に移り、あとはひたすらに暴力と狂気が渦巻いて行く。その転機となるチーマーのくだりが、マジックの如くシャープなツイストを決める。
役者たちの高度な演技力あってこそ説得力を持つ作品だが、本作を傑作たらしめているのは、人間が歯止めを失いエスカレートして行く様を強靭なリアルさをもって描けているからに他ならない。
低予算でも、映画的なチープさとはまったく無縁なのである。
そして、さらに容赦のない結末と、静寂な絶望が訪れる見事な終幕。静かに眠るような金村の死に顔を朝日がオレンジ色に照らし出し、魂が抜けたように呆然とする容子。
最後までテレビ屋としてもがこうとする岩井の姿にも、ある種のカリカチュアが込められていて唸ってしまった。
本作は、まごう方なきクライム・ムービーの大傑作。
予算はなくとも、センスと技術としっかりした志さえあれば、これだけのことが表現できる…というお手本の如き一本である。ただ一言、必見!
スタンリー・キューブリック『恐怖と欲望』
製作・撮影・編集はスタンリー・キューブリック、脚本はハワード・サックラー、音楽はジェラルド・フリード。
アメリカ/62分/モノクロ/スタンダード
本作は、スタンリー・キューブリックが裕福な伯父から出資してもらった10万ドルで製作した幻の劇場デビュー作である。
何故“幻”なのかというと、公開当時評論家から好評をもって迎えられた本作を完全主義者のキューブリック自身が「アマチュアの仕事」(事実、キャストとスタッフは経験がほとんどなかった)として、フィルムを買い占め封印してしまったからである。
なお、出演者の一人として後年『ハリーとトント』(1974)や『結婚しない女』(1978)を監督したポール・マザースキーが参加している。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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何処かの国で起きている戦争。爆撃を受けて敵陣内の森に墜落した飛行機から脱出した四人の兵士たち。空軍の上官コービー中尉(ケネス・ハープ)、元は修理工でベテラン軍人のマック軍曹(フランク・シルヴェラ)、新米のシドニー(ポール・マザースキー)とフレッチャー(スティーヴン・コイト)の両二等兵。
コービー中尉は、敵地を縦断する川をいかだで脱出するプランを立てる。
四人は敵に発見される恐怖や空腹、そして極度の疲労と戦いながら川を目指して行軍する。ようやく辿り着いた川岸で、いかだ作りを開始する。
しばらくすると、偵察に出ていたマック軍曹がコービー中尉を呼んだ。偶然にも対岸に敵陣のアジトがあり、その建物には敵の将軍(ケネス・ハープ:二役)がいたのだ。
双眼鏡でアジトを窺っていた二人の頭の上を、敵の航空機が飛来した。発見を恐れた四人は、いかだを置いてひとまず退避。来たのとは逆の方向に、森を歩いた。
目の前に現れた木造の小屋。中を窺うと、敵の兵士二人がシチューを食べている。壁には、銃も立て掛けられていた。四人は奇襲攻撃をかけると、二人を射殺した。冷めたシチューを貪ると、四人は銃を奪って小屋を後にしたが、新米兵士のシドニーはかなりのショックを受けたようだった。
何の進展もないまま、一昼夜が経った。四人は心身ともに疲弊していた。とりあえず、もう一度川に向かった四人は、魚を獲っている地元の女たちを発見。慌てて隠れたが、そのうちの一人(ヴァージニア・リース)に見つかってしまう。
川へと戻った三人。いかだは昨日のまま置いてあり、どうやら発見は免れたようだった。シドニーの様子がおかしかったことを気にして、コービー中尉は一足先に戻るようマック軍曹に命じる。
マック軍曹が戻ると女は死んでおり、シドニーは意味不明なことを口走ると駆け出してしまった。そこに、コービー中尉とフレッチャー二等兵が到着する。
残された三人にとっても、シドニー二等兵の奇行は決して他人事ではなかった。長引く戦争、繰り返される殺戮、死への恐怖…まともでいられる方が不思議なくらいなのだ。
三人は、改めてこれからのことを話し合った。
コービー中尉はいかだでの脱出を唱えたが、マック軍曹は将軍を急襲すべきだと主張した。無謀とも思える強引な作戦だったが、マックは自分の空疎な人生から己を取り戻す野心に燃えていた。
自分がいかだで敵陣の隙を突き、相手を引きつけている隙にコービー中尉とフレッチャー二等兵が航空機を奪って脱出。自分は、将軍を仕留めてからいかだで生還するとマック。
彼の熱弁に、コービー中尉も賭けに出る決意を固めた。
その頃、アジトでは将軍が部下を目の前にして話し込んでいた。彼は、前線から離れたこのアジトで命令を下すだけの自分に疲労の色を濃くしていた。
いかだで接近すると、マック軍曹は敵めがけて発砲。敵が応戦に放った弾丸が、マック軍曹の腹部を貫いた。
その混乱に乗じて、コービー中尉とフレッチャー二等兵は敵の将軍を殺害。航空機での脱出に成功した。
瀕死の重傷を負ったマック軍曹は、最後の力を振り絞っていかだで川を下っていた。すると、川の中に佇む男の姿があった。気の触れたシドニーだった。シドニーは、いかだに乗せて欲しいと懇願した。
無事に生還したコービー中尉とフレッチャー二等兵は、司令部の許可を得て川岸でいかだの到着を待っていた。マック軍曹が生還するとは思えなかったが、それでも彼を待つことは人としての自分たちの責務であると考えてのことだった。
どれだけ待っただろうか。向こうから、何かが流れて来た。それは、あのいかだであったが、その上には二つの影があった。
目を見開いたまま仰向けで動かなくなったマック軍曹に寄り添っていたのは、シドニー二等兵だった。
そして、人々を狂気と恐怖に駆り立てる戦争は、今日も終わることなく続いている…。
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奇才スタンリー・キューブリックの劇場デビュー作は、『非情の罠』(1955)ではなかった。2012年時点でニューヨーク州モンロー郡ロチェスター市コダック・アーカイヴに1本だけ残っているという『恐怖と欲望』のフィルム。
株式会社アイ・ヴィー・シーの手によって、2013年5月3日から日本でも劇場公開されている。
確かに、完全主義者スタンリー・キューブリックにしてみたら、本作は予算的にもスタッフ・ワーク的にも役者のスキル的にもアマチュア然とした作品ということなのだろう。
ただ、この作品は新人監督らしからぬ冷徹でシビアな視線と、映画作家としての非凡な閃きに満ちている。誠に素晴らしい映画である。
見るからにローバジェット・ムーヴィー、制作サイドも役者陣もほとんど経験のない人たち、少数ではあっても特段精鋭とはいえない布陣で作られた本作。
しかし、この作品が62分間で提示するものの何と濃密なことだろう。
ストイックな演出、洗練された映像、シャープなライティング、哲学性にまで昇華された脚本。
これもある種の反戦映画と言える内容だが、それ以上に人間が根源的に内包している残虐、狂気、欲望、内省、恐怖といった様々な感情とアイデンティティを極限状態の中で掘り下げるストーリーテリングこそに、強靭な作家性を感じる。
特に目を引くのは、モノクロームの陰影を存分に使った照明の素晴らしさ。中でも、小屋で殺害された二人の兵士の表情や、シチューの入った皿の描写には目が釘付けになった。
また、四人の主人公のみならず、敵将軍の孤独感と疲弊にまで切り込んだ人物描写にも唸った。
小道具として扱われる犬を使った演出も心憎いばかりである。
作品としてのタイプはまったく違うが、井坂聡監督『[Focus]』 といい、この『恐怖と欲望』といい、低予算で恵まれているとは言い難い製作環境においても、才能と熱意があればこれだけのものが作れるのか…と驚嘆してしまう。
本作は、スタンリー・キューブリックの偉大なる第一歩として刻まれるべき良作。
“幻”の冠がとれたことを心から歓迎したい一本である。
小林政広『フリック』
2005年1月22日公開の小林政広監督『フリック』。
プロデューサーは川上泰弘・小林政広、ラインプロデューサーは波多野ゆかり、アシスタントプロデューサーは安孫子政人、原案・脚本は小林政広、音楽は佐久間順平、テーマ曲は高田渡「ブラザー軒」、撮影は伊藤潔、照明は木村匡博、編集は金子尚樹、録音は吉田憲義、助監督は瀬戸慎吾、音響効果は柴崎憲治、制作主任は川瀬準也、衣裳は宮田弘子、ヘアメイクは岩井裕一、特殊美術は原口智生、スチールは大塚寧々・小林政広、プロダクションデスクは岡村直子、制作進行は橋場綾子、監督助手は吉田久美、撮影助手は中島美緒・柳沢光一、照明助手は三善章誉、ヘアメイク助手は岸典子、編集助手は李英美、ネガ編集は松村由紀、タイミングは永沢幸治、タイトルは道川昭、車両は日本照明(総括は吉野実)、フィルムは報映産業、照明機材はハイライト札幌、録音スタジオは福島音響、現像は東映ラボ・テック。
製作・配給はケイエスエス、制作はモンキータウンプロダクション。
2004年/35mm/154分/カラー/アメリカンビスタ
本作は、2003年12月に北海道苫小牧市で撮影された。
こんな物語である。
幼馴染で10年連れ添った妻・明子(葉月螢)を自宅マンションでシャブ中のチンピラ(本多菊次朗)に殺された刑事、村田一夫(香川照之)。自らの手で犯人を射殺した村田は、ショックで6か月も欠勤を続けている。
村田は、上司や同僚からの再三の連絡にも応じることなく、家にこもって酒を煽り続ける自暴自棄の毎日を送っていた。
朝、鳴り出す携帯に朦朧とした意識の中で手を伸ばす村田。電話の主は同僚の滑川郁夫(田辺誠一)だった。滑川は、すでにマンション前にいるという。
不承不承、招かざる客をマンションに入れる村田。「俺は、すでに辞表を提出している」と仏頂面の村田に、滑川は「部長が廃棄したのは、村田さんも知っているでしょ」と答えた。
滑川の来訪目的は、こうだった。渋谷区円山町のラブホテルで、苫小牧市在住の女子大生・楠田美和子(安藤希)がバラバラの遺体で発見された。犯人はまだ見つかっていないが、最近多発している連続殺人犯の仕業という見方を所轄はしていた。
苫小牧にいる彼女の親族を滑川と共に東京に連れて来て、身元確認させろというのが部長から村田への業務命令だった。
早速苫小牧に飛んだ二人は、美知子の唯一の家族で同居している兄・楠田健一(村上連)を訪ねる。車椅子の健一は、妹の死体写真を見て衝撃を受ける。どうにも腑に落ちない村田は、健一に根掘り葉掘り質問を始める。健一は、心当たりはおろか美知子が東京に行ったことすら知らなかったという。
越権行為だと慌てて止める滑川。楠田の家を後にしようとした滑川と村田は、やって来た所轄の捜査員佐伯(田中隆三)・及川(松田賢二)と遭遇。佐伯は警察学校時代の滑川の先輩で、「今夜は、歓迎会をやろう」と持ちかけて来た。
ところが、酒宴は憮然とする村田のせいであまり友好的な雰囲気とはならなかった。
翌朝、村田は滑川に叩き起こされる。健一の死体が湖のほとりで見つかったのだ。急いで現場に急行すると、そこには健一の死体を見下ろす佐伯と及川の姿があった。緊張感もなければやる気も感じられない現場に、村田は苛立つ。所轄はこの事件を健一の自殺と決めつけているようだったが、現場は楠田の家からかなり離れている上に、車椅子さえないのだ。
「車椅子がないんなら、多分タクシーでも拾ったんだろう」という佐伯に詰め寄る村田。怒りを隠そうとしない佐伯は、「こちら様は何様なんだ、ええ滑川よ!」と詰め寄った。
元来、生粋の刑事である村田にはこの状況が我慢できない。滑川にも告げることなく、彼は独自の捜査を始める。
地元でパン屋を営む奈美(占部房子)に聞き込みをした村田は、美知子がバイトしていたという隣町のバー「BAR 27・s」を教えられる。早速、店に赴くと開店前の店内では雇われ店長だという石井伸子(大塚寧々)が煙草を燻らしていた。
伸子の話では、美和子はバイトではなく店の常連客だった。村田が話を聞いているところに、若い女性が入って来る。この店でバイトしている愛(安藤希:二役)だった。彼女は、美知子の大学の同級生だという。
村田は、店の外で愛からも話を聞いた。美和子は、援助交際をしていた。かなり派手に。そして、この店を男との待ち合わせに使っていたのだという。実は、愛も誘われたが断ったのだという。
援交には元締めがおり、美知子は何か弱みを握られているようだった。渋谷の現場からは彼女の携帯がなくなっていたが、もし見つかったら町はひっくり返るような騒ぎになると愛。
しかし、話の途中で愛の携帯が鳴り、彼女は村田に背を向けて歩いて行ってしまう。
その夜、村田は嫌がる滑川に車を運転させて再び「BAR 27・s」を訪ねた。「この店ですか…」と呟く滑川は、店に入ってもカウンターに座ろうとせず、伸子の方を向こうともしない。
「あれ、愛ちゃんは?」と尋ねる村田に、「そんな子、いませんけど」と伸子は言った。村田が首を傾げていると、彼女は滑川に向かって「あら、何処かでお会いしませんでしたっけ?」と言った。
即座に否定する滑川の顔を、村田は静かに見ている。ウイスキーのグラスを傾けつつ、アルコールに犯されて朦朧とする頭で村田は亡き妻のことや美知子のことを考える。
考えれば考えるほど分からないことだらけで、村田の心は猜疑心で占められて行った。
村田の態度に不快感を示し滑川は店を出て行くが、それは新たなる混沌の始まりだった…。
最近行われたいくつかのインタビューの中で、小林政広は本作について「自分のそれまでの映画で、持っている引き出しを出し尽くしたように思えた。『フリック』は、自己模倣している」と語っている。
映画における自身のフィクショナリズムの限界を切実に感じたことから、小林はリアリズム文体を取り入れた『バッシング』
を次に製作した訳である。
で、本作を観ての率直な印象は、ストーリーテリングはともかく自身の映像話法を再生産してしまったのではないか…というものだった。何よりもそれが息苦しいのである。
小林政広という作家は、今に至るまで一貫して極めて技巧的な演出手法で映画を撮る人である。本作もかなり個性的な撮り方をしているのだが、そこに必然性よりもギミックを強く意識してしまうのだ。
明子の殺害現場、村田の表情、渋谷のラブホテル、死者たちの影…幾度ともつかぬパンとリフレイン。
孤高の刑事が巻き込まれるハードボイルドと思われた映画は、物語が進むにつれて傷心とアルコールに精神を蝕まれた村田の思念と混沌が交錯した悪夢幻想譚の様相を帯びて行く。
何が現実で、何が回想で、何が真相で、誰が生者で、誰が死者なのかすらも判然としない。第二章に入って以降、もはや映画は幻惑としての記号に満ち溢れてしまう。
美和子が殺されたのは昨夜だったのか、愛は何処に行ったのか、ヤクザの亡霊、滑川の携帯に記録された動画、楠田の家のテレビに映し出される映像、明子の浮気相手、佐伯という男、伸子という謎の女、そして事件の真相と物語の結末…。
観ていてイメージしてしまうのは、やはりデヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス ローラ・パーマ最期の7日間』(1992)や『マルホランド・ドライブ』(2001)である。
ただ、デヴィッド・リンチが観る者を突き放すような混沌を提示するのに対して、『フリック』は物語的な誠実さを内包しているが故に、かえって据わりの悪さを感じてしまう。エピローグで用意されたエピソードにそれは顕著で、混沌は混沌のまま投げ出されているにもかかわらず、何処か綺麗にまとめられている風なのだ。
むしろ、徹底的に悪夢を提示するか、或いはハードボイルドとして映画的虚構を極めるかのいずれかに突き抜けてくれていたら…と残念でならない。
本作は、映画監督・小林政広にとって初期の終幕を感じさせるような作品といえる。
もし叶うならば、村田一夫という刑事のその後の人生に再会したいと思わせる一本である。
これは余談だが、天竜館の主人として特別出演している高田渡は、小林政広が林ヒロシとしてフォーク歌手をしていた時代の師匠筋である。1970年代初頭、活動拠点を京都から吉祥寺に移した高田は吉祥寺フォークの第一人者的存在であったが、その時の一員には本作で音楽を担当している佐久間順平(大江田信との林亭として)もいた。
NAADA「カフェインボンバー」@学芸大学 MAPLE HOUSE
僕がNAADAのライヴを観るのは、これで32回目。前回観たのは6月7日 、場所は東新宿の真昼の月・夜の太陽であった。
では、この日の感想を。
1.Good afternoon
構築された音の完成度が、とても高い。ただ、エコーがいささか深過ぎるのと、圧倒的な音をPAが受け止め切れず、音像に若干の濁りを感じたのがもどかしかった。
2.RAINBOW
何やら、ボーカルの出音が浴室内の反響音のようで落ち着かない。声はちゃんと出ているし、歌のクオリティも悪くないのに、某かのフィルターを通した音を聴いているようで、ストレスがあった。
3.echo
この曲では、PCを使わずに二人だけでの生音による演奏。ただ、僕にはPAにとても問題があるように思えてならなかった。
そもそも、ボーカルの音量が不安定だし、エコーがまったくかかってないように聴こえた。何というか、本来二人がイメージしていた音とはかなりのギャップが生じていたのではないか?
RECOは、かなり外音を気にしながら自分の歌声をコントロールしているように映った。
4.fly
本日の個人的ベスト・パフォーマンスは、迷わずこの曲。
確信に満ちたキレのあるプレイ、シャープで凛々しさを湛えたい歌、グルーヴィーで勢いのあるギター。ハイ・ノートでのボーカルの突き抜け方も一切ブレない。
とてもいい演奏だったと思う。
5.僕らの色
この曲では、バウロンを手にしながらRECOが歌う。音源も、サポート・メンバーである笹沢早織のピアノと宍倉充のベースを加えた重厚なサウンドを重ねた。
聴く度に思うのは、この曲のひとつの理想形はNAADA流ウォール・オブ・サウンドなのではないかということ。
この日はPAの限界なのか、音が団子状で押し出しの迫力に欠けていた感があった。アッパーに気持ちが煽られる高揚感にまで達しないのだ。
ただ、ラスト前のボーカル・パートの力強さには心動かされた。バウロンも入っていることだし、間奏でバグパイプ的な音が付加されても面白いんじゃないかな…と思った。
4か月ぶりとなる久々のライヴは、ステージ環境としては決して理想的なものとはいえなかったのではないか。それが、やはり残念であった。
けれども、NAADAが試行錯誤して来た音作りのあり方は、このライヴでも揺るぎなき明確さを持っていた。4か月前のライヴにもその片鱗は見えていたのだが、それがさらなる進化(というより、むしろ深化と言った方がより的確か)を遂げていたように思う。
今、彼らが心血を注いでいるバンド編成でのアルバム・レコーディングがとても楽しみになるライヴであった。
NAADA年内最後の演奏は、年内12月20日東新宿真昼の月・夜の太陽。今から、とても待ち遠しい。
これは、余談。
この日のライヴで、RECOは比較的襟ぐりの広い服を着て、左の鎖骨辺りにワンポイントとなるシール・タトゥーを施していた。
かなり以前のライヴでも、彼女は手の甲やうなじの辺りにシール・タトゥーを貼っていたことがあったようだが、僕が見たのは今回が初めてで何だかドキドキしてしまった…。
Photo by HAL
ラスカルズ『ゴーストライター』@上野ストアハウス
脚本・演出・映像監督は松本たけひろ(ラスカルズ)、アートディレクター・衣裳は中島エリカ(ラスカルズ)、宣伝写真・映像撮影は宮永智基、舞台美術は向井登子、照明は山浦恵美、音響は橋本絢加、舞台監督は大友圭一郎・松澤紀昭、舞台写真は永田理恵、宣伝美術製作は小西裕子、Website製作は森裕香、映像編集は山本清香、制作は山田真里亜(ひげ太夫)。企画・製作はラスカルズ。
オムツ姿でラブホテル「LOVE BOAT」の一室に監禁されている遠藤正雄(佐藤宙輝:ラスカルズ)。彼の隣には、風俗嬢を装って彼を監禁した辻本実花(山本真由美:舞夢プロ)が不敵な笑みを浮かべている。
そこに、わらわらと仲間たちが入って来る。映画監督で首謀者の三浦真吾(加藤敦:ホチキス)と元・看護師の高木豊春(長尾長幸:劇26.25団)の二人だ。彼らは、遠藤のアパートを家探ししていたのだ。
彼らは、遠藤が応募しようとしていたシナリオ原稿を無造作に投げ出した。どれも、もうすぐ締め切りの物ばかり。
部屋の片隅には、遠藤が育てていた観葉植物・モンステラの植木鉢が無造作に置かれている。遠藤は、何も口にしておらずかなり消耗しているが、彼の目は三浦への憎悪で激しく燃えている。
かつて、遠藤が脚本を書き三浦が監督した自主映画をコンテストに出品、作品は見事グランプリを獲得した。ところが、そのことは遠藤には知らされず、彼が作品上映に招かれることはなかった。
後で知ったことだが、何故か作品のクレジットには一切遠藤の名前はなく、脚本も三浦が書いたことになっていた。三浦は、この作品を評価されて監督デビューを果たし、今に至っている。
当然、幼馴染だった遠藤と三浦の関係は断絶した。
現在、遠藤は警備会社に勤務しながら、コツコツと脚本を書き続けているが、いまだデビューできずにいる。遠藤はいつしか酒に依存するようになり、今ではすっかりアルコールに体を蝕まれている。
一方の三浦は、デビュー作以降まともに作品を評価されることもなく、ずっと二流監督として燻り続けている。しかも、数年前に大麻を栽培した罪で、三浦は前科持ちに身を堕していた。
ただ、経済的に困窮しているばかりか友達はモンステラとメダカだけという遠藤とは異なり、三浦は父が医者ゆえ、経済的には豊かで友人も多い。
このラブホテルも、潰れかかったところを人助けのつもりで三浦の父が買い取ったものだった。
三浦は、今さらのように遠藤に接触。彼は、次の作品の脚本を書いて欲しいと遠藤にオファーした。今に至るまで、三浦は自分が遠藤をゴーストライターとして利用したことを否定し続けている。
プロットを送って、何度となく遠藤に説得を試みようとした三浦だが、遠藤は聞く耳など持たない。業を煮やした三浦が取った最終手段、それが今回の監禁だった。
あまりにも攻撃的な遠藤に、へらへらと説得を試みていた三浦たちも次第にヒート・アップ。苛立ちは、遠藤への拷問へと形を変えて行った。
そこに、ホテルで清掃婦をやっている川原琴子(江間みずき:キトキト企画)が入って来る。三浦は、川原にも手伝うよう命じた。鬼気迫る三浦の姿に、他の者たちの腰が引け出す。
実は、辻本も高木も川原も、三浦から借金をしていた。それをチャラにする条件で、三浦を手伝っているだけなのだ。
今回の企画に関する女優の資料映像を見ておけと、三浦は椅子に縛り付けた遠藤の膝にノートブック・パソコンを置いた。もちろんのこと、遠藤はディスプレイを見る気などない。
肉体的に衰弱している遠藤は、そのうち眠ってしまう。
夢の中で、遠藤は会ったこともないその女優を面接している。場所は、「LOVE BOAT」の一室で、遠藤は緑色のジャージ姿だ。
町山朋子(藤真美穂)は整った顔立ちの女性で、ラブホテルでの二人きりの面接にとても緊張しているようだった。遠藤もまた、同じように緊張していた。けれども、彼の緊張は魅力的な女性と、至近距離で相対していることへの緊張であった。
初対面にもかかわらず、不思議に二人は心通ずるところがあった。どうした成り行きからか、二人はごくごく自然に唇を合わせた。遠藤は、自分の気持ちを抑えることができなくなり、彼女に想いをぶつけた。すると、朋子は遠藤の手を取った。
遠藤は、自分がアルコール中毒であることを告白したが、それすらも朋子は受け入れてくれた…。
意識を取り戻した遠藤は、相も変わらずオムツ一枚でラブホテルに監禁されていた。
しかも、いよいよ彼の様子は尋常ではなくなってくる。極度の消耗で混濁した意識のせいか、それとも積年の三浦への怒りがそうさせるのか。
狂的なまでに錯乱する遠藤に対して、もはや後のない三浦は三浦で取り憑かれたように遠藤を攻め立てるが…。
上野ストアハウスという小屋は、外観上は雑居ビルの地下1階にあって何とも心許ないのだが、実際に入ってみると客席こそ少ないが舞台は奥行きもあってかなりしっかりした作りである。やはり、芝居をやるならこれくらいの規模は欲しいよな、と思う。
いざ舞台が始まってみると、役者陣の演技は確かな力を感じさせる堂々たる芝居で、気持ちが入って行けた。
冒頭と中盤には適度にエロティシズムもまぶされるのだが、これもしっかりとした表現やくすぐりになっていた。僕はピンク映画の評論をかなり書いていて、まあエロに関しては結構うるさいのだけど、不満のない出来である。
デリヘル嬢役の手塚けだま(ラスカルズ)の迷いなき演技が心地よい。
しかし、である。なかなかいい役者たちを揃えたというのに、この脚本は如何なものかと思う。
幾つかのエピソードのピースも登場人物も悪くないのだが、それを一本の物語にできていない。断片が断片のままで、機能不全なのだ。
根本的な部分として、三浦と遠藤の関係性に説得力がない。それは、三浦真吾という男の造形を煮詰め切れていないからだろう。
二人が仲違するきっかけとなった事件。その描き方が曖昧だから、話の興味や劇空間としての物語的説得力に欠ける。ここが欠けた時点で、舞台は深刻なエンジンの空ぶかしである。
それに、三浦という男が映画作家として業界にしがみつこうとすることの“意味”が見えてこない。これもまた、物語的な停滞である。
そして、物語のもう一つの核である「町山朋子」という記号。彼女は、三浦にとっては心に深く刺さったまま抜けない棘であるし、遠藤にとってみれば、“理想”であり“夢の女”である。
然るに、「じゃあ、町山朋子という女性は、一体何を意味するのか?」という像が何処にもフォーカスしないまま、まるで蜃気楼の如き雰囲気のまま舞台をすり抜けてしまうのだ。
しかし、最大の問題は、終盤に持って来るモンステラ(ワダタワー)の幻想シーンである。ある種宗教性を帯びたようなこのシーンが、僕には物語からの逃避にしか感じられなかった。しかも、中途半端に演出されたファンタジックな場面は、役者陣の拙い動きも伴って、何とも鼻白む思いであった。
物語として、最も対峙しなければならない部分から、松本たけひろは逃げているのではないだろうか?
逃げていないのだとすれば、彼の演出に大いなる問題があるのだ。
そもそもが、遠藤が置かれた立場は「ゴーストライター」(代筆者)ではなく、単に盗作の被害者である。
役者陣の表現力に劇作の表現力が負けている、何とももどかしい舞台であった。
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アメリカン・ポップ・アート展@国立新美術館
おおよそ、トレンディでハイソでセレブリティな街とは無縁な生活を送っている僕にとって、「ギロッポン」なぞは行動範囲の埒外のさらにまた外なんだけど、まあそれでも見に行きますよ。何せ、「これぞ、ポップ・アート!」という作品が一堂に会すのだから。
ちなみに、僕が六本木に赴いたのは、2009年1月16日大貫妙子「A day in the life」コンサートを観にSTB139に行って以来のことだ。
今回の展示は、世界的コレクターであるジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻の所蔵品からポップ・アートを代表する傑作群を集めたものである。ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、クレス・オルデンバーグ、アンディ・ウォーホール、ロイ・リキテンシュタイン、トム・ウェッセルマン、メル・ラモス、ジェイムズ・ローゼンクエストと言った有名作家たちの名作が、所狭しと並べられている様はまさに圧巻の一言。
ウォーホールは、キミコ・パワーズの肖像画を製作しており、もちろん今回の展示でもそのうちの何枚かを見ることができる。
ポップ・アートというのは、現代アートのひとつとして位置づけられるんだろうけど、一般的なイメージとしてある「現代アート=難解」というところから最も遠いところにあるような気がする。
もちろん、今回展示された作品の中にも現代アート的抽象性を纏った作品はあるんだけど、表現に向かう根本的な姿勢に某かの明快さを感じるものが多い。
本当に、“ポップ”な芸術とは良く言ったもので、そのカテゴライズ自体がそもそも「ポップ・アート」なのだよ、と思う。
世間的にポップ・アートのパブリック・イメージと言ったら、やっぱりウォーホールのキャンベル缶やマリリン・モンローのシルクスクリーン、あるいはリキテンシュタインの漫画の一コマを引き伸ばしたような作品…ということになるだろう。
そういえば、開館前の東京都現代美術館がリキテンシュタインの代表作「ヘア・リボンの少女」を6億円で購入した際、「漫画のような絵に税金を使うとは」と問題になった。
ロバート・ラウシェンバーグのコンバインは、現代アート的抽象性に日常生活品をオブジェとして融合させる手法で、色彩的インパクトと共にその尖鋭性を感じる。
ジャスパー・ジョーンズを著名にしたのは如何にもポップ・アート的な星条旗をモチーフにした「旗」だけれど、今回多く展示されている「地図」「標的」「数字」「クロスハッチング」といった色彩パターンそのものの意味性に僕は面白さを感じた。
クレス・オルデンバーグの作品「ジャイアント・ソフト・ドラム・セット」はビジュアルのインパクトもあってとても目立っていたけれど、個人的好みから言えばその習作として描かれたラフ・スケッチの方に心惹かれた。
硬質なものがグニャッとしたヴィジュアルに変換されるのって、僕はすぐダリの「柔らかい時計」を思い出してしまうのだけれど。
トム・ウェッセルマン「グレート・アメリカン・ヌード」の単純な構図とカラフルさを見ていると、アンリ・マティスのポップ・アート的展開と思わざるを得なかった。何と言うのかな、表現することの連綿とした流れとでもいうか。
メル・ラモスが描く女性の肉感性って、昭和の時代のエロ劇画的濃密な芳香が立ち昇るように思うんだけど、そんなことを感じるのってやはり僕だけだろうか?
ジェイムズ・ローゼンクエストは、現代広告的グラフィックのテイストが最も濃厚なように感じた。
アンディ・ウォーホールとロイ・リキテンシュタインについては、今さら何を言えばいいのか…と思うくらい、彼らの代表作が惜しげもなく展示されている。それを実際目にできただけで、満足してしまう。
ウォーホールなら、キャンベル缶、マリリン・モンロー、毛沢東、フラワー。リキテンシュタインなら、鏡の中の少女、私の夢想につきまとうメロディー、ブルーン!…。
僕は音楽オタクなので、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ、バナナ・ジャケット、アンディ・ウォーホール、ファクトリーという一連の流れの中でポップ・アートを知った。
ポップ・アートについて語る時、大量生産・大量消費という文化へのカリカチュア的表現という文脈で紹介されることが多いけれど、僕にとってのポップ・アート的魅力というのは、尖鋭的なグラフィック・デザインとしての表現手法という感じになる。
それは、ロートレックの「ムーラン・ルージュ」ポスターに感じる魅力的磁場と同じベクトルなのかも知れない。
ただ、こういう尖鋭的表現が運動として継続するためには、よき理解者よきパトロンの存在は欠かせない。その意味でも、パワーズ夫妻はポップ・アートの庇護者であるし、だからこそウォーホールが製作した一連の「キミコ・パワーズ」には特別な親密さがあるのだろう。
ひとつ思ったのは、これだけの作品群が整然としたディスプレイで「国立新美術館」という空間に並べられると、それはそれでどことなく違和感のようなものを感じて少し落ち着かないなぁ…ということである。
そういう印象を抱かせるあたりも、ポップ・アートという表現が本質的に有している“ある種の毒性”が今でも十分に機能しているということなのだろう。
もし、あなたがエスタブリッシュな街をお好みでなかったとしても…。
虚構の劇団第5回公演『エゴ・サーチ』@紀伊國屋ホール
エゴ・サーチの結果、インターネットで出会ったもう一人の自分。そんなふうに、この物語は始まる…。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
作家志望の一色健治(山﨑雄介)は、大学卒業後にアルバイトをしながら小説家を目指している。彼の持ち込んだ文章に興味を持った新人編集者の夏川理香(大久保綾乃)は、彼の担当になり原稿を待っている。しかし、健治の執筆は5枚のみで遅々として進まない。彼の物語は、女性が沖縄の離島を訪ね、そこでキジムナーに出会うところまでで筆が止まっている。
理香は偶然健治のブログを見つけ、昨日の記事が『スター・ウォーズ』シリーズを全て観たと書かれていたことに腹を立てている。しかし、ブログのことを健治に言うと、彼はブログをやっていないと訝しがる。そこで、理香は打ち合わせの席でパソコンを見せる。そこには、確かに一色健治のブログがあった。しかも、プロフィールは何から何まで彼のもの。唯一の違いは、ブログの健治は卒業後小さな広告会社に勤務したが、交通事故に遭って2年前の11月5日に退職。現在はアルバイト生活なのに対し、ここにいる健治は卒業後ずっとアルバイト生活を送っていた。やはり作家志望の健治も同じ時に交通事故で瀕死の重傷を負っており、それ以来ふとしたことで自分の足が激しく痙攣するようになっていた。
田中実(渡辺芳博)と桐谷舞(高橋奈津季)の二人きりの弱小IT会社に、「骨なしチキン」という冴えないフォーク・デュオの松山大悟(三上陽永)と小池良太(杉浦一輝)が訪ねて来る。ネットを使って自分たちを本格デュオとしてメジャーにしてほしいと言うのが彼らの依頼。才能は全く感じられないが、家賃さえ払えず倒産寸前の会社ゆえ背に腹は代えられず、彼らの依頼を引き受けることにする。
舞は、全く面識がないはずの良太に「以前に会ったことはないですか?」と聞かれて否定する。
カメラマンを目指しているという佐伯と名乗る男、彼は若い女に手当たり次第「モデルになってくれ」と声をかけては金を借りて姿を消す詐欺を繰り返していた。広瀬隆生(古河耕史)が佐伯の本名で、今回彼がカモにしたのは島袋日菜子(大杉さおり)。彼女の恋心につけ込み、広瀬は友達の借金の保証人になり金が必要だと日菜子から金をせびっていた。彼を信じて疑わない日菜子は、金を工面するために風俗嬢に転職してしまう。
あれから2年が経っても美保は島に現れなかった。クミラーは、彼女が死ぬことを予感していたこともあり、東京の彼女の部屋を訪ねる。しかし、彼女の痕跡はどこにもない。呆然としていると、そこに美保が現れる。しかし、彼女を一目見たクミラーは悟る。美保は既に死んでおり、しかもそのことを彼女は気付いていない。美保がこの世に思いを残していると考えたクミラーは、それとなく彼女に聞いてみる。すると、美保は恋人の一色健治に会いたいと言う。
しかし、健治の元を訪ねても、彼は小田切美保など知らないと答える。美保は、恋人が自分のことを知らないと言ったことと、自分の姿が彼には見えていないことを知って愕然とする。仕方なく、クミラーは美保が既に死んでいることを告げるのだった。
小説は一向に進まず、ブログの一色健治にメールで会う約束をしてもすっぽかされてしまった健治。彼の姿を見て途方に暮れる理香。理香はブログの管理人について調べるために、IT関連の仕事をしている大学時代の友人・舞に健治のバイト先の居酒屋で会う。事情を聞いた舞は、後日そのことを田中に話した。すると、田中は商売そっちのけでこの話に興味を持つ。そんな田中の態度に、舞は苛立つ。
舞には消したくても消せない暗い過去があり、その苦しみは今もなお続いている。学生時代に付き合っていた舞の恋人との情交写真が、ファイル交換ソフトを通じて流出してしまうという事件があった。今もその写真はネット上に散らばり、そのことで彼女を脅迫しようとする輩がいつまで経っても現れるのだ。
広瀬は、理香に目をつける。働く美しい女性の写真を撮りたいからと何度も口説かれ、とうとう理香は根負けしてしまう。打ち合わせ場所であるバイト先に、理香が広瀬を連れて現れたことに驚く健治。しかし、片隅の席で彼らの様子を伺う者がいた。クミラーだ。
一向に進まない小説のアイデアを健治と理香が話していると、そこに広瀬とクミナーが参加して来る。「離島」と「若い女」という健治の物語に彼らはそれぞれ思うところがあり、黙っていられないのだ。
その若い女に名前が付いていないことに健治と理香が気付くと、広瀬は仮に「美保」と名付けようと提案。クミナーも、その名前に同意する。その様を、店の片隅で窺っている幽霊の美保。
ストリート・ライブをしている骨なしチキンの熱烈なファンになった物好きな女性がいた。日菜子だった。いつしか、彼女は骨なしチキンと行動を共にするようになる。
一方、メンバーの良太は舞のことを思い出す。以前にネット上で見た流出写真の女であることを。このことをネタに、二人は舞をどうにかしようと考える。とりあえず脅迫文を書いて彼女の渡そうと舞の会社に向かう二人。しかし、会社近くの公園でフードを被った男を殴りつけていた田中に遭遇してしまう。男は逃げ、田中の拳からは血が流れていた。ネットにある写真が流出した友人を脅迫して来た輩に鉄拳制裁を下したのだ、と答える田中に二人は震え上がって退散するのだった。
一色健治のブログを興味本位で調べた田中は、その記事からブログ主の健治のマンションを突き止める。
骨なしチキンは演奏場所として、日菜子の恋人のカメラマンが住んでいると言うマンションの屋上に行くことにする。
健治たちは、物語について話しているが、広瀬の提案で、彼の部屋で話し合うことにする。そして、健治、理香、山崎、クミラーで話しているうちに、段々広瀬の様子がおかしくなってくる。
広瀬は断言する。美保が離島に1日しかいなかったのは本島で待つ恋人と待ち合わせをしていたからだ、と。そして、健治が2年前の11月に自動車事故を起こしたのは何故なのか。どこに行こうとしていたのか。それは一人でなのか。広瀬は矢継ぎ早に言葉を続けた。驚き戸惑う健治の脳裏を記憶がフラッシュバックしていく。
広告代理店に勤める自分。同じチームで不眠不休で納期と闘っている広瀬とバイトの美保。そして、自分は美保と付き合っており、この仕事が終われば二人は東北の彼女の田舎に二泊三日のドライブ旅行に行くことになっている。しかし二人の関係をどうしても広瀬に告げることができない自分。それは、三人チームが壊れるのが怖いからだ。健治は薄々気づいている。広瀬にも想っている人がいることを。
広瀬が、堰を切ったように話し出す。二人が嘘をついた腹いせに、自分は納期当日に風邪と偽って欠勤したことを。そのせいで健治は一睡もできぬまま美保と旅行に出かける羽目になった。そして、健治は居眠りしてしまい、交差点で彼の車にトラックが突っ込む。美保は即死したが、健治は軽傷だった。
その会話を聞いていた幽霊の美保は、その時のことを思い出す。自分が眠らずに健治の運転を見張っていると約束したこと。一度帰ろうとした美保が忘れ物を取りに職場に戻ると、眠り込んでしまった健治に広瀬が口づけしていたところを目撃してしまったこと。そう、広瀬が恋慕していたのは、美保ではなく健治だったのだ。
もう広瀬の言葉は止まらない。交通事故は10月。では、11月5日の事故は何だったのか?それは、良心の呵責に耐えかねた健治が、このマンションの屋上から飛び降り自殺を図った日。一命を取り留めた健治は、意識を取り戻すと美保に関する部分の記憶だけをすっぽりと失っていた。
会社から姿を消してしまった健治を何とか見つけ出そうと考えた広瀬が取った行動。それが、健治になりすましてブログを開設することだった。彼の目論見通り健治はブログにアクセスして、広瀬に会いたいとメッセージを書き込んで来た。そして、待ち合わせ場所に現れた健治から、広瀬は彼の全てを把握したのだった。
全ての記憶が戻った健治は、マンションの屋上へと駆け上がる。彼を追って広瀬、理香、クミナー、幽霊の美保も屋上へ走った。再び飛び降りようとする健治と、彼を止めて自分の方が飛び降りようとする広瀬。
緊迫した雰囲気を一気に脱力させる面々が突然屋上に現れる。骨なしチキンと日菜子だ。すると、次に現れたのは田中と舞。
田中は、骨なしチキンに言う。明日人を集めてライブをやる、と。そして、ライブを聴いて失望した人々を前にこう言えと。「自分たちは、沖縄の離島で廃校になろうとしている小学校があることを伝えたくて音楽活動をしているのだ」と。
その田中に舞が言う。「あなたは私に自分を偽っている。あなたの名前は田中実ではなく長谷川哲次だ。あなたのことを警察が訪ねて来た。あなたは自分の正体を偽り、そして私のことなど愛してはくれない」と。そして、舞は思いあまって健治を押しおけて屋上から飛び降りようとする。田中は答える。「俺は、自分の信念に基づいた行動で傷害事件を起こし、警察に追われている。その時効成立まであと4年。俺は逃げ切らなければならないから、お前のことは愛しているが受け入れられない」と。そして、屋上から姿を消す田中。彼を追いかける舞。
呆気にとられた一同の隙をついて、健治はマンションの屋上から飛び降りた。
沖縄の離島。骨なしチキンはここで日菜子と共に演奏活動を続けている。相変わらず、舞は彼らの活動をサポートしている。田中の行方はようとして知れないが、後4年など大したことないと彼女は強がる。
クミナーのお陰で足の怪我だけで命に別条がなかった健治は、この地で自分の贖罪の意味を込めて必ず小説を完成させると言う。もちろん、彼の担当者である理香もここにいる。二人が寄り添い、小説に取り組む姿を見て、幽霊だった美保は姿を消す。広瀬の行方も分からない。そして、広瀬の本当の恋の相手を美保は語らなかった。
いよいよ鍛えられてきた若い10人の俳優たちが本当に頼もしい。彼らの成長も相まって、今回の舞台は今までで最高の出来となった。
複雑なプロットを見事につなぎ合わせて行く鴻上演出。いささか物語を詰め込み過ぎるところは相変わらずなのだが、劇団員全員に役をつけるとなると、どうしてもそういう構成で物語を紡がなければならないのだろう。そこは、ある意味劇団の宿命であり、物語性の弱点でもある。
しかし、後半で物語を解き明かしていく広瀬とマンション屋上でのカタルシスは見事である。広瀬の秘めた恋情も相まって、健治が飛び降りようとする場面は思わず胸が熱くなった。
物語の強度からすると、田中と舞の存在や広瀬が女たちを騙すエピソードは要らないように思う。余分な個所を削ぎ落とせば、舞台はよりシャープなものになっただろう。その意味では、骨なしチキンはくすぐりとして「あり」だが、日菜子も不要だろう。
山﨑雄介、客演古河耕史の色気がいい。脇を固める渡辺芳博の存在ももはやこの劇団には不可欠である。
そして、個人的には高橋奈津季が好きだ。やはり、彼女のどこか翳りのある演技は魅力的だと思う。いつか、彼女が主役の舞台を観たいものだ。
今回のストーリーで最後に登場する長谷川哲次とは、旗揚げ公演公演『グローブ・ジャングル』の登場人物である。果たして、このスピン・オフがあるのかにも注目したい。
いずれにしても、虚構の劇団の現時点での最高傑作には違いない。いい舞台だったと思う。
肯定座第二回公演『濡れた花弁と道徳の時間』@高円寺明石スタジオ
企画・製作は肯定座。
とある町のラブホテル、405号室。サラリーマン風の男つくも(久我真希人:ヒンドゥー五千回)が、とても10代には見えないケバい女子高生あびる(奈賀毬子:肯定座)と4度目のセックスをしている。
もちろん金が取り持つ仲だが、あびるはセックスにもまるでやる気がない。事が済むと、つくもはひとしきりまっとうな正論を吐いてあびるに説教を始めるが、次の瞬間にはローターを使ったプレイをリクエストする。
フロントに電話してローターを取り寄せたつくもだが、届けに来た従業員白木かなえ(菊池美里)の後ろから長身の外国人ジョージ(佐瀬弘幸:SASENCOMMUN)が乱入。つくもに襲いかかる。護身用に持っていたスタンガンで反撃するあびる。
どうやらジョージは305号室と間違えたらしく、謝りながら退散する。
気を取り直して浴室に向かうつくも。その隙に、あびるは彼の財布の中を漁るが、免許証を見て、彼女は顔をしかめる。
304号室。かなり年の離れた夫婦の酒井正臣(安東桂吾)と優香(福原舞弓)は、子作りするためにラブホテルにやって来た。家には正臣の母親が同居しており、どうにも落ち着かないからだ。正臣は、子供ができたら陽太と名づけようと、いささか早すぎる提案をする。
先に浴室に入る優香。すると激しい爆音とともに、閃光が。仰天する正臣。すると、浴室から長髪髭面の中年男(ちゅうり:タテヨコ企画)が気絶した優香を抱きかかえて現れ、正臣は二度びっくり。
男は、自分は未来からやって来た陽太だと荒唐無稽なことを言い出す。しかも、彼は今日ここで二人が子作りするのを止めに来たのだと言った。自分が生まれると、皆が不幸になると。
ものすごい音に驚いた従業員小金井桃子(久行しのぶ:タテヨコ企画)が様子を見にやって来るが、正臣は何とかごまかした。
305号室。部屋掃除のため集まった従業員三人、小金井桃子、白木かなえ、浦辺幸子(大石洋子:劇団俳協)。彼女たちは、お客たちへの不満や互いのプライベートの話に夢中で、なかなか仕事は捗らない。
そのうち、かなえは客に呼び出されて部屋から出て行き、桃子はひどく汚れたトイレを掃除するために個室へ。一人残った幸子は、てんでやる気なく客用のテレビでAVを見ているうちに、欲情して浴室へ。母子家庭の彼女は、自宅でオナニーする時子供に見つからぬよう浴室でやっていた。その習慣がついていたのだ。
305号室にチェックインした桜井詩織(平田暁子:年年有魚)と楠瀬大樹(椎名茸ノ介:散歩道楽)。これからという時に、トイレから桃子が出て来て大樹は激怒。
ところが、桃子は大樹のことを知っていた。彼女の息子が所属する小学校のサッカー部で顧問をしているのが大樹だったのだ。さっきの剣幕は何処へやら、大樹は態度を豹変させる。その一方、詩織は必死で顔を隠した。彼女の息子もサッカー部に所属しており、桃子とは面識があったからだ。この状況は、二人にとって最悪だった。
桃子を追い出しようやく二人きりになると、詩織は「今日は早く帰らないと…」言い出す。またしても不機嫌になった大樹は、彼女のことをなぶり始める。
そこに、ジョージと詩織の夫・保(富士たくや)が乱入す。妻の携帯を盗み見して彼女の浮気を疑った保は、飲み屋で知り合ったジョージを助っ人に妻の後をつけて来たのだ。
305号室は、修羅場と化すが…。
終わった時、「いや~、上手いなぁ!」と思わず唸ってしまった。とても面白い芝居である。
僕はこと舞台に関してはメジャー中心で、ごくたまに知人の舞台にも足を運ぶんだけど、あまり満足できる作品と出逢うことがない。大体は、時計の針を気にしつつ「まあ、こんなもんだよな…」と溜息をつくことになる。
ところが、奈賀毬子が去年立ち上げた肯定座のこの舞台では、芝居を観る充足感にどっぷり浸ることができた。
とにかく、太田善也の劇作が抜群に素晴らしい。練り上げたエピソード、タペストリーのように緻密な構成、ブラックさとハート・ウォーミングの巧みな使い分け、見事にエモーションをコントロールしたストーリーテリング…等々。
場面展開もシャープにしてスマートだし、キャスティングも適材適所と言っていいだろう。女優なら、福原舞弓のキュートさと平田暁子のやや疲れた艶っぽさがいい。
男優では、安東桂吾と佐瀬弘幸。ただ、財津一郎ネタは要らないと思うが(笑)
ラブホテルの3室を巧妙に使って、登場人物の関係性にはストーリー展開への布石となる伏線が張り巡らされる。それが、本当に見事な舞台捌きで、観ていていちいち納得してしまうのだ。
これしかないというエンディングに至っては、もはやある種の爽快感すら漂う。
とりわけ本作を見応えあるものにしているのが、安易な情緒性にストーリーを流さないところだろう。突き放すかと思えば、感傷を伴った綺麗な収束を用意し、はぐらかすかと思わせて次にはリアルな揺れ戻しが待っている。情緒的なオチにするのかと思えば、何の躊躇も容赦もなく観る者を突き放す。
我々観客は、まんまと彼らの術中にはまっているのだ。
不満があるとすれば、それはあびるとつくものエピソードにいささか演出的過剰さが感じられるところか。あびるがきつい方言でしゃべる必要性を感じないし、あえて落語的な科白回しでしゃべるつくもにも違和感がある。
あるいは、酒井夫婦のエピソードにしても、その導入部をサラッとした入りにした方が良かったのではないか?
その辺りにもう少し洗練が加味されれば、もっと大きな劇場での再演にも十分耐え得るクオリティである。
本作は、どなたにも自信を持ってお勧めできる優れた舞台。来年夏頃を予定している肯定座の第三回公演が、今から待ち遠しい。
今回の公演を見逃した方は、後悔すべきである。かく言う僕も、旗揚げ公演『暗礁に乗り上げろ!』を見逃して後悔した口なのだが…。
大貫妙子 Pure Acoustic 鎌倉LIVE 2013@鎌倉芸術館小ホール
ちなみに、彼女が鎌倉芸術館で歌うのは2005年以来8年ぶりのことである。
場内に流れる客入れのBGMは、ジョアン・ジルベルト。開演時間の午後7時を少し回ったところで、照明が落とされメンバーが登場。静かに、インストゥルメンタルの序曲が演奏される。
そして、大貫妙子がステージへ。この日のター坊は、ソバージュをかけた髪、4年前の2009年11月1日JCB HALL「Pure Acoustic 2009」時と同じ黒の衣装。「別に、衣裳を買うお金がない訳じゃないですよ…」と言って、彼女は軽やかに笑った。
大貫妙子(vo)、フェビアン・レザ・パネ(pf)、吉野弘志(wb)、金子飛鳥ストリングス:金子飛鳥(1st violin)、相磯優子(2 nd violin)、志賀恵子(viola)、木村隆哉(cello)
久しぶりにドラムもギターもいない編成は、何だか新鮮に聴こえる。
この夜の一曲目は、「幻惑」。厳選された言葉、研ぎ澄まされたサウンド。まるで客席全体がひとつの耳になったように、彼女の歌を聴く。そう、これこそピュア・アコースティックならではの雰囲気なのだ…と思う。
続いては、お馴染みの「Hiver」「風の道」。
歌い終わった後で「やはり、この編成でないとしっくりこない曲があるんです」と言ったのが、彼女の代表曲のひとつ「黒のクレール」。
いつものように言葉を探しながら、けれど朗らかにMCするター坊は、シュガーベイブでの活動から40周年。今月末には60歳を迎えるというのに、相変わらず若々しい。
彼女が秋田の田んぼで米を作っているというのはファンには有名な話だが、この日会場では彼女が育てた無農薬のお米を使って葉山の料理店「魚料理うりんぼう」が作ったお弁当を販売していた。どうでもいい話だけれど、僕も買って食べた。
ちなみに、ター坊は葉山町在住である。
メンバーは、静謐な演奏を続ける。「明るい曲もありますよ」とター坊は笑った。
一度、ター坊がステージ袖に引っ込むと、彼女にとってなくてはならない存在のフェビアン・レザ・パネがピアノ・ソロを披露。曲は、彼のアルバム『大地の肖像』(2004)一曲目に収録されている「Secred Distance」。“聖なる距離”を意味する曲名は、ター坊と彼との関係性を表しているのだそうだ。
この日のパネさんは、珍しく長いMCをしていた。
淡いベージュのドレスに着替えて、ター坊が再びステージへ。曲は「横顔」「彼と彼女のソネット」。
ター坊の作詞ではないけれど、僕は無性に「彼と彼女のソネット」の歌詞が好きだ。「いくつもの偶然から あなたにひかれていく」「もう一度 いそぎすぎた私を 孤独へ帰さないで」というフレーズが、特に。
天井に据えられたミラー・ボールが回り、光の粒舞う中で「Shall we dance?」を歌い終えると、ター坊は「この曲を発表した(周防正行監督『Shall we ダンス?』が公開された1996年)当時は空前の社交ダンス・ブームで、テレビの社交ダンス・シーンのバックで随分流れましたけど、今は何が流行ってるんでしょう?」と呟いた。どうでもいいことだけれど…という表情を浮かべながら。
コンサート最後の二曲は、「ベジタブル」と「星の奇跡」。「ベジタブル」の演奏と歌唱は、いつもとアレンジを少し変えてあるように感じた。少なくとも、僕の耳にはちょっと斬新な響きだった。
彼女は、自分の歌を聴いてコンサートに足を運んでくれるファンに対して、丁寧に感謝の言葉を述べていた。いつものように静かな語り口ではあるけれど、何やら熱い思いが伝わるようだった。
メンバーがステージを去っても、アンコールを求めて拍手は鳴り続ける。そして、再びメンバーがステージへ。
数人のファンがプレゼントを手にステージにやって来るのは、いつもの光景だ。プレゼントを受け取り、言葉と握手を交わした彼女は、「突然の贈りもの、ありがとうございます」と言ってマイクの前に立った。曲は、もちろん「突然の贈りもの」。
この日の最後を飾ったのは、キュートな身振りを交えての「メトロポリタン美術館」。
今後、大貫妙子の活動40周年を記念して、2枚組のトリビュート・アルバムと3月下旬には東京国際フォーラム・ホールCでバンド編成のコンサートが予定されている。
大貫妙子の歌声を同時代に体験できることは、僕にとってささやかな奇跡だよな…と思いながら。
1.幻惑(from『SIGNIFIE』1983)
2.Hiver(from『One Fine Day』2005)
3.風の道(from『Cliché』1982)
4.黒のクレール(from『Cliché』1982)
5.空へ(from『LUCY』1997)
6.TANGO(from『LUCY』1997)
7.Time To Go(from『One Fine Day』2005)
8. Secred Distance-Febian Reza Pane piano solo(from『Portraits of Earth 大地の肖像』2004)
9.横顔(from『Mignonne』1978)
10.彼と彼女のソネット(from『A Slice of Life』1987)
11.Cavalier Servante(from『PURISSIMA』1988)
12.Shall we dance? (from single「Happy-go-Lucky」coupling 1997、『Library』2003、『Boucles d’oreilles』2007)
13.四季(from『aTTRaCTiOn』1999)
14.ベジタブル(from『copine.』1985)
15.星の奇跡(from『note』2002)
-encore-
16.突然の贈りもの(from『Mignonne』1978)
17.メトロポリタン美術館(from single「宇宙(コスモス)みつけた」coupling 1984、『COMin’ SOON』1986)
大貫妙子『Pure Acoustic 2009』@JCB HALL
2009年11月1日、水道橋のJCB HALLに大貫妙子『Pure Acoustic 2009』を観に行った。
JCB HALL(現TOKYO DOME CITY HALL)に行くのは初めてで、水道橋にこのようなホールができていること自体全く知らなかった。ホーム・ページを見てみると、コンサートからプロレスの興行まで行う多目的施設のようであり、そのような会場で「ピュア・アコースティック」の繊細な世界をきちんと構築できるのか…会場に着くまで不安であった。
会場に着いてみるとアリーナ席(僕は、8列46番で、ステージから見て、ほぼ中央であった。)は、フラットなフロアに折りたたみ式の椅子が並べられていた。アリーナなのだから当たり前だけれど、いくらステージが高い所にあっても、前の席に座高の高い人が座ったら目も当てられない。しかも、演奏が始まってみるとPAが今ひとつアコースティックのガラス細工のような音世界をフォローできていなかった。僕は中央付近に座っていたから、それでも音に納得がいったけれど、端に座っている人にはどう聴こえたのか心配である。
さて、今回のPure Acousticコンサートは、ター坊にとっても長年のファンである僕たちにとっても、二つの意味で特別なものであった。何故なら、22年間にわたってコンスタントに行われて来たこのライブ・シリーズが今回の公演をもって、ファイナルとなってしまうからである。その理由は、第一ヴァイオリンの金子飛鳥が渡米することにより、ASKAストリングスが解散することになったからである。7年間Pure Acousticコンサートを支えてきたこのメンバーが解散することは、ター坊にとってみれば自分のバンドが発展的に解消することと同じ思いであろう。
もう一つの特別なことは、今回初めてPure Acousticの会場に撮影クルーが入ったことである。ター坊は今まで一切このライブ企画を映像に残していなかったのだが、ファイナルを迎えるということで、是非とも今回のライブをカメラで記録したいとの熱烈なオファーがあり、彼女もそれを承諾したのである。この日収録されたライブ映像は、2010年2月17日にDVDとして発売が予定されている。
前置きが長くなったが、今回のライブの模様をレポートしていきたい。
午後6時の開演時間を少し回ったところで、客電が暗くなり、フェビアン・レザ・パネ(pf)、吉野弘志(b)、林立夫(ds)、小倉博和(g)がステージに登場。一通り音出しが終わった頃合いを見計らって、ター坊が登場。この日の彼女は、黒を基調にしたフォーマルな衣装を身にまとっている。1曲目は、『プリッシマ』からの「Monochrome & Colours」。いつもの彼女のステージは、演奏開始からしばらくは声や身のこなしに硬さが目立つのだか、今回はファイナルということで、彼女自身深い思いがあるのだろう、実に堂々たる歌唱が披露された。声に張りがあって、しかも透き通るような美しさに溢れている。会場の空気は、一瞬にしてター坊の世界観一色に染まった。それは、ちょっとした奇跡のようであり、僕にとっては嬉しい衝撃であった。2曲目はパネのピアノだけをバックに、お馴染の「若き日の望楼」をしっとり聴かせてくれた。
今回のライブはDVD用にカメラが入っているからということと、ファイナルであるということから、大貫スタンダードの名曲の数々が、いつもより多く披露された。3曲目からは、再び四人をバックに演奏が進んでいった。アメリカの「9.11」へのレクイエムとして作ったというター坊のMCがあった「snow」、いつ聴いても素晴らしい「新しいシャツ」など、充実した演奏と歌唱が続いていく。7曲目はフェビアン・レザ・パネのオリジナル「遥かなる旅路」を彼のピアノで聴かせ、その間にター坊は一度ステージ袖に下がった。
パネさんのソロ演奏が終了すると、黒のドレスに着替えたター坊がASKAストリングスを従えて、再びステージに登場。金子飛鳥(1st vln)、相磯優子(2nd vln)、志賀惠子(vla)、木村隆哉(cello)の四人であり、このメンバーの演奏で、2007年に素敵な作品集『Boucles d'oreilles』が発表されている。
フルメンバーを迎えて、コンサートは後半へ。「夏に恋する女たち」「彼と彼女のソネット」「黒のクレール」と、まさにファイナルにふさわしい曲が続く。ター坊の声は、透明感と存在感が抜群のバランスで、聴く者を魅了する。次々に歌われていく、彼女の美しい作品たち。僕らは声もなく、ただ、彼女の音楽に身を委ねて聴き惚れるのみである。
彼女のファンならだれもが知っている、「ター坊がお米を作っている」ネタのMCの後に聴かせるのは「四季」。気の効いた選曲だと思う。そして、今回のコンサートの白眉だったと僕が思う「横顔」と「風の道」。ASKAストリングスとの息の合った演奏が、実にいい感じである。うっとりする。
「今日は、沢山曲を用意したのに、もう最後の曲です」というMCで歌われたのが、とてもキュートで軽やかな「ベジタブル」。本当に彼女のファンでいて良かったと思う。
一度メンバー全員がステージを降りるも、アンコールを求めるオーディエンスの拍手は鳴りやまず。しばらく拍手が続いた後に、ター坊がフェビアン・レザ・パネ、吉野弘志、林立夫、小倉博和と共にステージへ。恒例のお客さんからのプレゼントを受け取った後、「あの曲、まだ演奏していないな…と思っているでしょう」という彼女のおちゃめなMCに続いて、お約束の「突然の贈りもの」が歌われた。そして、ター坊にしては長かったこの日の演奏の最後を飾ったのは、「懐かしい未来」。
鳴りやまぬ拍手の中、もう一度ASKAストリングスのメンバーもステージに姿を見せて、九人全員が拍手に応えながらステージを後にした。本当に至福の2時間10分であった。
ター坊は、このPure Acousticシリーズでの演奏はひとまず終了するけれど、これからは色々な編成でライブをやっていきたいとコメントしていた。その言葉を信じて、彼女の次のステージを待ちたいと思う。
2009.11.1(SUN)大貫妙子 Pure Acoustic 2009 @JCB HALL set list
1.Monochrome & Colours(from『PURISSIMA』1988)
2.若き日の望楼(from『romantique』1980)
3.Hiver(from『One Fine Day』2005)
4.snow(from『note』2002)
5.新しいシャツ(from『romantique』1980)
6.あなたを思うと(from『note』2002)
7.遥かなる旅路(Febian Reza Pane piano solo)
8.夏に恋する女たち(from『SIGNIFIE』1983)
9.彼と彼女のソネット(from『A Slice of Life』1987)
10.黒のクレール(from『cliché』1982)
11.空へ(from『LUCY』1997)
12.TANGO(from『LUCY』1997)
13.春の手紙(from『Shooting star in the blue sky』199.)
14.四季(from『aTTRaCTiOn』1999)
15.横顔(from『Mignonne』1978)
16.風の道(from『cliché』1982)
17.Time To Go(from『One Fine Day』2005)
18.Cavaliere Servente(from『PURISSIMA』1988)
19.ベジタブル(from『copine.』1985)
-encore-
20.突然の贈りもの(from『Mignonne』1978)
21.懐かしい未来-longing future-(from『palette』2009)
世志男『野良猫の恋』
脚本は世志男、撮影は司木憲、音楽は沢水友彦、照明は太田博、録音は小林徹哉、ラインプロデューサーは篠崎周馬、助監督は中村和愛、ヘアメイクは芦川善美、演出部は太田美乃里・広正翔、制作助手は鎌田美緒、車両は椙田顕、現地協力は高橋嗣。制作は夢企画。
2012/25分/HD
取り立て屋としてしのいでいる正次(三元雅芸)。躊躇なく腕力に任せて、倒産ギリギリまで追い込んで債務者から金を取り立てるのが彼のやり方だ。今日も正次は、相方(妹尾公資)を従えて金の回収に勤しむ。
正次のターゲットの一人で町工場を経営する社長(安永和彦)は、従業員の給与まで持って行かれ頭を抱えている。
仕事の合間、正次はいつもの空き地で薄汚れた猫の縫いぐるみに話しかけている。ふと気づくと、傍らで正次の様子を窺っているセーラー服姿の女の子(片桐えりりか)がいた。彼女は、沙希という名前だった。
興味深げに話しかけて来る沙希に対して、気恥ずかしさからパンティが黒いだの何だのとへらず口をたたく正次。沙希は怒って、その場から去って行った。
その日の仕事を終えた正次は、ラブホテルの一室で相方と回収した金を数えている。町工場の社長からはもっと金を巻き上げられたという相方に、すぐに返されたんじゃ利息がつかないと正次。
そこに、呼んでおいたデリヘル嬢が到着。相方は淫靡な笑みを浮かべて出て行った。
昼間の一件もあり、室内には険悪なムードが漂う。正次がスカートをめくると、出て来たのは黒いパンティではなくリラックマのワンポイントが入った白いパンティだった。お客には、こういう下着が受けるらしい。
正次は、先払いの金を投げつけるとキスを嫌がる沙希に無理やり口づけ、暴力的に彼女を抱いた。沙希は怒り心頭でホテルを出た。
しかし、二人の関係はこれだけでは終わらなかった…。
う~ん。ダメでしょ、この作品。
僕は、本作を「なかのインディーズムービーコレクション 世志男×中村公彦作品特集 Vol.1」 (なかの芸能小劇場)で観たのだが、他に上映された世志男作品『SCAPEGOAT』(2009)と『消えた灯』(2010)も同じようなトーンでダメだった。この三本の中では、本作が一番いいのだが。
唯一、開き直り気味の勢いがあって『RUNゾンビRUN』(2010)には失笑した。このタイトルは、言うまでもなく『ラン・ローラ・ラン』からのいただきだよね。
世志男は、役者としてはおかしな役や変態役でも迷いなく演じてなかなかに潔いのだが、作家としては首をかしげざるを得ない。
使い古された昭和的ストーリーテリングと陳腐で感傷的過ぎる人物造形ゆえ、どうにもオリジナリティが見出せないのだ。それに、不可避的な低予算が拍車をかける。
一番の問題は、あまりに定型的かつアウト・オブ・デートな人物描写と科白回しだろう。
本作でまず指摘しなければならないのが、猫の縫いぐるみである。予算云々は置いておいて、ここで実際の子猫を使わないでどうする…と、観た誰もが思うはずだ。少なくとも、正次が“縫いぐるみの猫”にこだわる理由だけでも語らなければ。
そもそもが、こういう物語でやさぐれた男のナイーヴさを表現する語り口として、猫というのもどうかと思うが…。
そして、紗希。JK風俗嬢、リラックマのパンティ、「マジ、受けるんですけど」の言葉遣いも、2012年という制作時期を思えば、どうなんだ?と思う。
如何とも、感情移入しづらい。
その一方で、役者陣がなかなかの健闘をみせているから、何とも切なさが募る。
門井肇監督『ナイトピープル』 のナチュラル・ボーン・キラー役が印象深い三元雅芸は、ここでもなかなかにシャープな演技を見せる。とりわけ、妹尾公資をボコボコに蹴るシーンは、彼の面目躍如だろう。
この作品が初演技という片桐えりりかは、予想外にいい仕事ぶりである。ちょっと翳りのある表情も魅力的だ。ただ、モノローグの拙さは頂けないが。
ちなみに、町工場の社長を演じた安永和彦は、国沢☆実が旗揚げした劇団野垂レ死ニ のメンバーの一人である。
個人的には、また片桐えりりかの出演作を観てみたくなった。
中村公彦『もうひとりのルームメイト』
プロデューサーは遊山直奇、脚本・編集は中村公彦、撮影監督は宮永昭典、撮影助手は鏡早智、録音は春本一大、助監督は阿草祐己、ヘアメイクは征矢杏子・片伊木彩名、美術は中山美奈、音楽はFra、制作担当は文信幸。製作はINNERVISIONS、SHOW TENT。
2012/30分/HD
作家志望の悠紀夫(仁田宏和)は、短期で仕事をしては、辞めて小説を書くということを繰り返している。しかし、いまだデビューのめども立たない彼に、同棲相手の鈴香(芳賀めぐみ)は不安を禁じ得ない。もう自分たちは、そう若くないのだ。
人気作家だった父・滋(川瀬陽太)は、母(渡会久美子)と悠紀夫に暴力をふるい浮気も日常茶飯事という人間だった。当然のこと悠紀夫は父を嫌悪していたが、その自分が今では父と同じ道を志しているという皮肉。
鈴香は、自分たちの将来以上に不安の種を抱えていた。それは、このところ悠紀夫がおかしな独り言を頻繁に呟くようになったことだった。そう、まるで「彼の目の前に、誰かがいるかのように」だ。
悠紀夫が話している相手、それは小さな女の子(齋藤映海)だった。楽しいことなど何もない幼少期のある日、悠紀夫は家の中に見知らぬ女の子がいることに気づく。彼女は、この家に棲みつく座敷童子だった。両親に女の子の姿は見えてないようだったが、いつしか悠紀夫は彼女と仲良くなって行った。
やがて家を引っ越すことになり、それきり悠紀夫は座敷童子とも別れてしまった。ところが、最近になって彼女がまた現れたのだ。昔と変わらぬ姿で。
中村公彦でピンと来なくても、サーモン鮭山と聞けばピンとくる人もいるのではないか?…そんなにはいないか(笑)
本作は、中村の才気の一端を感じさせるなかなか良くできた小品である。
座敷童子という言ってみれば今さら的な素材を使いつつ、「実は、母にも見えていた」というツイストには唸った。見事にゾクッと来てしまい、中村の術中にはまってしまった。
ただ、30分の尺がネックとなった感は否めない。幼き日の悠紀夫の家庭事情の描写が、何とも舌っ足らずである。とりわけ、母親のパートが。
この辺りをしっかり語れていないから、いささか物語が分かりにくいものになっている。
それから、現在の悠紀夫が座敷童子と会話するシーンが、あまりにあからさまだ。彼は、鈴香に座敷童子が見えていないことを知っている訳だから、もっと女の子と会話する時に注意深くなって然るべきだろう。
役者陣について触れると、主役を演じる仁田宏和に存在感が薄いのが何とも物足りない。鈴香役の芳賀めぐみや、悠紀夫の両親を演じる川瀬陽太と渡会久美子に力があるから、なおのことだ。
作品のキモである座敷童子を演じた齋藤映海は、何とも言えない無機質な不気味さがあっていい。それだけに、なおさら仁田の弱さが目立ってしまうのだ。
ちなみに、冒頭の占い館のシーンで占い師を演じているのは、相米慎二監督『ラブホテル』 (1985)での名演が記憶に残る志水季里子。そして、占い館にちらっと顔をのぞかせる女性は倖田李梨である。
お勧めしたい一編である。
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中村公彦『スルー・ロマンス』
プロデューサーは中村公彦・森元修一、脚本・編集は中村公彦、撮影監督は宮永昭典、撮影補は鏡早智、撮影助手は入江望・渡辺友磨、録音は春本一大、助監督は阿草祐己、ヘアメイクは片伊木彩名、スタイリストは部坂尚吾、美術は中山美奈、合成は遊山直奇・中村公彦、音楽は與語一平、挿入歌は「モヤモヤサラサラ体操」「セシオチョコレートの唄」(歌:日下部あい)・「愛は空のかなたに」(歌:緒方友里沙&原田祐輔)、体操振付は倖田李梨、制作担当は文信幸。製作はINNERVISIONS、Fatheron Productions。
2012/45分/HD
子役時代から活躍している人気女優の山吹杏奈(緒方友里沙)は、20歳の記念に初の座長公演を行うことになる。彼女は、自分の相手役として現在はニューヨークに演劇留学している22歳の亜門ヒロ(原田祐輔)を指名する。
二人は子役時代から何度も一緒に仕事をする仲で、世間ではゴールデン・コンビとまで称されている。しかし、実のところ二人は実際に会ったことがなかった。それというのも、杏奈の事務所社長(ほたる)とヒロの事務所社長(竹本泰志)が犬猿の仲で、二人を直接仕事場で会わせることを禁じていたからだ。
世間には極秘だったが、二人の共演はすべて3D映像を合成処理したものだった。共演を重ねるうち、次第に杏奈はヒロに惹かれて行った。
今回の公演が3Dによるヴァーチャル共演であることを他の共演者たちは不安に思ったが、稽古を重ねるうちにその不安は解消されて行った。それほど、杏奈とヒロの息はぴったり合っていた。
杏奈には、この公演中に自分に課したことがあった。それは、自分の秘めた想いをいよいよヒロに伝えるということだった。
正直、どこまでが真面目で何処からがおふざけなのか判別しづらい作品である。
タイトルは、トニー・スコット監督『トゥルー・ロマンス』(1993)のもじりだろうし、杏奈とヒロのゴールデン・コンビから共演作品までは山口百恵&三浦友和のパロディである。今の人には、三浦貴大のご両親と言った方が通りがいいか…って、さすがにそんなことないよね(笑)
世志男が出演してるからの「セシオチョコレート」は、百恵・友和の共演CM「セシルチョコレート」(江崎グリコ)が元ネタである。それにつけても、ドラマのパロディが今の目で見ると韓流ネタにしか見えないから不思議だ。
閑話休題。いきなり何なのだが、やはり3D共演という物語の根本があまりにも無理過ぎる。握手しようとする手が行き違う場面も、どう見てもわざとらしい。
かといって、展開が弾けた方向に疾走するかというと至極まっとうな悲恋的ロマンスに収束してしまうから、どう観れば正解なのかが本当に分からない。ヒロの死もそうだし、杏奈とヒロの事務所社長同士の秘めたる思いもまた、かなりガチでシリアスな雰囲気を纏うのだ。
その一方で、演出家の世志男やもりちえ、意味不明な柳東史と無駄とも思えるポップなくすぐりも用意されている。松浦祐也は…この際、いいか(笑)
いずれにしても、困ったものである。
主役の緒方友里沙はそれなりに魅力的だし、ほたると竹本泰志は安定感抜群の演技を見せてくれる。地味に、千葉誠樹も悪くない。
これだけの役者が揃っているのだから、もう少しやりようがあったのでは…との思いがどうしても頭をよぎるのだ。
「いえ、あえてこういうのがやりたかったんですよ」と中村監督は言いそうな気もしないではないが。
まあ、あまりシリアスに受け止めるべき作品でもないかも知れないが、やはり僕にとっては不完全燃焼気味の小編であった。
これは余談だが、「愛は空のかなたに」のデュエットでは緒方友里沙の音程が不安定で、聴いていていささか気持ち悪い。
小林政広『白夜』
2009年/HD/84分/カラー/ビスタサイズ
フランスのリヨンで10日間オールロケにより撮影された本作は、小林作品としては誠に珍しい製作委員会方式で作られている。
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手に薔薇の花束を携え、木島立夫(眞木大輔)は5年ぶりにフランスのリヨンを訪れていた。彼は、凍てつく寒さの中、思い出のあの橋へと向かった。
昨日までは普通のOLだった相沢朋子(吉瀬美智子)は、フランスに単身赴任した不倫相手への想いを抑えきれなくなり、「橋の上で待ってます、午後からずっと」という文面の手紙をしたためると、衝動的に辞表を出して単身渡仏した。
容赦なく吹きつける冷たい風が体を刺す橋の上で、朋子は自分の肩を抱いて無為に過ぎて行く時間に悲しみを募らせて行く。
そんな朋子にはお構いなしで、立夫はやれ男を待ってるんだろうだの、道ならぬ恋だろうだのととはやし立てるが、そのことごとくが図星で、二人の間はますます剣呑なムードになる。
さすがにまずいと思ったのか、立夫は強引に朋子をカフェへと誘った。持ち合わせがないから、お前が奢れと悪びれもせずに。待つことにいささか疲れていた朋子は、不承不承カフェに付き合うことにした。
カフェでの会話もぎこちないものだったが、それでも二人は少しずつ近づいてはいるようだった。そんなやり取りの中、立夫は「俺がそいつに電話してやる」と言って朋子からアドレス帳を奪って行った。しかし、結局男を呼び出すことはできなかった。聞けば、出張からいまだ戻っていないのだという。
実は、立夫は一年ぶりに帰国するつもりで、明日のエアチケットを手配済みだった。22時発パリ行きの電車までは、まだ間がある。そこで彼は、朋子に即席コンダクターとしてこの街を案内すると提案した。いつしか立夫のペースに巻き込まれている朋子は、その申し出に乗る。
一度宿泊先のホテルに戻った朋子は、ドレスアップして待ち合わせの場に現れる。彼女の姿に、立夫は目を見張った。
しばしのデート気分を味わううちに、ポツリポツリと互いの身の上を話し始める二人。立夫は、自分の母親を介護することに疲れて、兄の反対も聞かず一人フランスへと逃げて来たのだった。一方の朋子は、今まで主体的に行動したことがなく、そんな自分にほとほと嫌気がさしていた。
衝動的ともいえる二人の行動は、それぞれが自分を見つめ直すための、或いはリセットするためのものだったのかもしれない。
そんな心のわだかまりを吐き出してしまった二人は、すでに互いを想い始めていた。しかし、立夫がここを発つ時間は徐々に近づいている。
チェックアウトするため、朋子はホテルに戻った。「ちゃんと、待っていてね」と言い置いて。
しかし、彼女の後姿を見送ってしばらくすると、立夫は「これで、俺の旅は終わったな…」と独りごちた。
支度を整えた朋子がホテルを出ると、そこに立夫の姿はなかった。半狂乱になって、立夫の姿を探し求める朋子。
同じ頃、立夫はホームに入って来た22時発パリ行きの列車に乗り込んでいた。
朋子は、再びあの橋の上にやって来た。寒さも気にならないのか、彼女はいささか狂的な光を帯びた目で、辺りを窺った。彼女の白い肌と、いささか不釣り合いに引かれた赤いルージュが闇の中に浮かび上がる。
ハッと振り向いた朋子は、「あの人だわ!」と叫ぶと、駆け出した…。
5年後、リヨン、橋の上。しばし川面を見つめると、立夫は持っていた薔薇の花束を投げてその場から立ち去った。
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これが、本当にあの小林政広の作品なのだろうか?正直、そう思った。
長年温めていた企画だという本作。小林の原作・脚本とクレジットされているが、ベースにあるのはドストエフスキーであり、本作のタイトルもドストエフスキーを原作にしたロベール・ブレッソン監督『白夜』(1971)からの引用である。
人生に大きな喪失感を抱いた孤独な男女が、運命の悪戯から偶然リヨンの橋の上で出逢い、たった一日だけの時間を共有した恋愛譚。言ってみれば、そういう映画である。
作品に賭ける小林の思いや意気込みはどうあれ、僕はこの作品を好意的に観ることは最後までできなかった。
あまりにも、あらゆるものが空疎に過ぎないか?。
登場するのは二人だけで、ほとんど会話劇の如く進行する物語。そういう構造だから、当然のこと問われるのは役者二人の力量であり、交わされる会話の熱量であり、それがリアルかフェアリーテイルかを問題としない物語的な求心力である。
さらに言うなら、ドラマをあえて映画で構築することに必然性…というのも挙げられるだろう。普通に考えれば、おおよそオーソドックスな演劇的世界観のストーリーだからである。
然るに、本作は冒頭の眞木大輔のモノローグに始まり、吉瀬美智子と眞木のやり取りに至るまで、あまりにも拙過ぎるのではないか?
小林政広といえばその長回しはつとに有名だが、そのワンカット、ワンカットの中で、あまりにも科白を言っている感ばかりが伝わって来てしまう。感情をぶつけ合っているのではなく、科白をぶつけ合っているようにしか見えないのである。
それに、物語のメインに据えられた朋子の伝わらぬ恋情と立夫の心の痛みが、あまりにも昭和メロドラマ的既視感を伴っていて、現代劇としての切ない痛みに昇華されていない。
観ていて、空回りする舞台のようなのだ。
そして、唐突に訪れる離別と、朋子の終幕。そのシーンで、物語の空虚はピークに達してしまうのである。
小林政広監督作品で、初めて僕が残念に思った一本である。