Quantcast
Channel: What's Entertainment ?
Viewing all 230 articles
Browse latest View live

城山羊の会『身の引きしまる思い』

$
0
0

2013年12月8日、三鷹市芸術文化センター 星のホールで城山羊の会『身の引きしまる思い』千秋楽を観た。


What's Entertainment ?

What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ? What's Entertainment ?

作・演出は山内ケンジ、舞台監督は森下紀彦・神永結花、照明は佐藤啓、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵・平野里子、楽曲は大城静乃、演出助手は岡部たかし、照明操作は森川敬子、音響操作は飯嶋智、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影はトーキョースタイル、制作助手は平野里子・渡邉美保・山村麻由美(E-Pin企画)、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。
製作は城山羊の会、主催は公益財団法人三鷹市芸術文化振興財団。
協賛はギークピクチュアズ、エンジンフィルム。
協力は吉住モータース、クリオネ、PAPADO、レトル、ユマニテ、フラッシュアップ、青年団、TES、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、アルピナウォーター、シバイエンジン。


一発の銃声が鳴り、自宅で胸を押さえて男(前説を兼任した三鷹市芸術文化センターの森元さん)が屑折れた。狼狽しつつ拳銃を手に息子・ミツヒコ(ふじきみつ彦)とその妹・妙子(岸井ゆきの)が、動かなくなった父の元に駆け寄る。二人がパニックに陥っていると、さらなる声が。キッチンの奥に隠れる兄妹。
拳銃を手に岡崎(岡部たかし)と妻の美鈴(島田桃依)が入って来る。二人は自分たちが殺したものと狼狽しているが、男の素性を知ろうと懐から財布を抜き出す。岡崎が名刺を一枚ポケットに入れると、美鈴は札束を抜き取って今夜は鰻と親子丼にしようととんでもないことをのたまった。
聞き捨てならないと出て行くミツヒコと妙子。

…という変な夢を見たとパジャマ姿の妙子は、母・ミドリ(石橋けい)に言った。彼女は昨日40度の熱を出して寝込んでいたが、今は熱も下がっている。ミドリは、市のボランティアに出かける前にビーフシチューを作っている最中だ。
妙子の父親は、一年前に癌…ではなく心筋梗塞で急逝。残ったローン返済も含めて、ミドリが家計を支えている。
そこにミツヒコが帰宅するが、彼は会社の後輩・添島テルユキ(成瀬正太郎)を連れていた。テルユキは、かなり神経質で感情の起伏も激しく、扱いづらい人間だった。
ミドリは、シチューを食べるように言うと三人を置いて外出する。

ミドリがやって来たのは、ボランティアの集まりではなくとある“夜の店”だった。またしても無断遅刻のミドリに、ママ(原田麻由)はおカンムリだ。
最近までミドリは三鷹市で放射線数値を計測する仕事をしていたが、そこを辞めざるを得なくなり家計を支えるために経験のない水商売に転職した。しかし、愛想もなければ気も利かないミドリのことをママはまったくの不向きだと思っている。
それでも続けるとミドリが訴えると、ならば研修を始めるとママは宣言して先輩ホステスの美鈴を呼んだ。美鈴に続いて、夫でバーテンの岡崎もやって来る。
お客の役をするのは、店長でママの亭主・柏木(岩谷健司)。美鈴は、身をくねらせて科を作りあろうことか柏木と熱烈なキスをした。
これではまるで風俗だと仰天するミドリに、こんなの何処の店でもやっていると他の四人。あなたもお手本通りやってみなさいと言われ、決死の覚悟で柏木に身を寄せるミドリ。

ミドリと柏木が接吻しているところに何故か妙子・ミキヒコ・テルユキがやって来る。「お母さん、何やってるの!」と固まる妙子とミキヒコ。
何の偶然かテルユキはママの実の子で、ミキヒコたちを連れてこの店に飲みに来たのだった。
緊迫するムードの中、衝撃に震える兄妹と消え入りそうなミドリ。「私たちは三人だけの家族なのに、何で言ってくれなかったの!?」と訴える妙子。何とかその場は収まったようだったが、今のショックで風邪がぶり返したのか妙子の調子が悪くなる。
そこに、この店の長年のお客で何やら柏木の弱みを握る赤井(KONTA)が現れて…。


前作『効率の優先』 を観た時、城山羊の会における集大成的な傑作だと唸った。
あれだけのものを作ってしまって、次はどう来るのだろうか?というのが新作に対する僕の思いだった訳だが、山内ケンジの劇作家としての才能はやはり強靭にして途轍もなかった。
本公演『身の引きしまる思い』は、城山羊の会のさらなる進化を確信させる傑作である。

What's Entertainment ?

2011年に同じ三鷹市芸術文化センター 星のホールで上演された『探索』 では、市職員森元さんの前説からそのまま物語へとなだれ込む秀逸な導入であった。今回もその森元さんが前説に立った時点で、「また、来るな!(笑)」と『探索』を観た方は思ったはずだ。
で、もちろんそのような展開になるのだが、二年前よりもいささか過剰な導入で「さすがに、ここまでやるのはどうなんだろう?」と僕は感じた。
ところが、舞台が進むにつれて過剰に思えた色々なことが必然性を伴うドラマ的伏線であったことに気づくと、その緻密を極めた圧倒的舞台構成に舌を巻いてしまった。凄い。

シュールで過激な不受理に振り切れることが持ち味だった城山羊の会は、『あの山の稜線が崩れてゆく』 『効率の優先』でより現実的な舞台設定(あくまでも、城山羊の会としては…ということだが)の元、新たなる舞台世界の構築に向かった。
そして本作では、その二作の成果を踏まえてもう一度不条理性へとドラマツルギーの舵を切ったと言っていいだろう。
リアリズム文体を通過した上で描かれた山内の劇作は、間違いなくさらなる高みへと到達していた。

いつものように適材適所の役者陣は、それぞれに魅力的だ。石橋けいのいささかM的な存在感、演出助手も兼ねる岡部たかしの飄々としたキャラクター、準レギュラーの岩谷健司の絶妙の間、ひと癖あるふじきみつ彦島田桃依、Sキャラを好演する原田麻由、山内ケンジお気に入りの若手劇団ナカゴーの『牛泥棒』 にも客演していた成瀬正太郎、本作の暴力性の象徴で歌も披露する元バービーボーイズのKONTA

しかし、個人的には無意識の天才女優岸井ゆきのの凄味さえ感じる演技力に目が釘付けとなった。


What's Entertainment ?

身長150cmにも満たない彼女は、城山羊の会が『あの山の稜線が崩れてゆく』公演時に初めて試みたオーディションでヒロインに抜擢された。その時のキュートな演技に心奪われた方も多いと思うが、あの時より随分とシャープなルックスに変貌した彼女は、演技のキレもシャープに進化していた。
いささかエキセントリックな感情表現から成瀬正太郎との際どい濡れ場に至るまで、彼女の迷いなき演技と大胆さを伴った潔さは誠に抗しがたい魅力であった。
彼女の濡れた瞳に心打ち抜かれない人など、いないのではないか?

今回、山内劇作にさらなる進化を確信するのは、妙子の精神の混濁にまで物語が踏み込むことである。シュールとリアルを行き来するだけでなく、物語は執拗的妄想にまで迷走するのだ。
そして、エンディング。観客や登場人物を冷徹に突き放すシニカルな語り口は山内の得意とするところだが、今回の終幕もビターな毒が盛られていた。

城山羊の会或いは山内ケンジは、本公演で新たなる演劇的地平へと旅立つチケットを手にしたと断言する。
本公演のチケットを手にしなかった演劇好きの方は、その不幸を悔やむべきだろう。

PR: 消費税増税分の買いたたきなどは違法です!-政府広報

$
0
0
減額や買いたたきなど消費税の転嫁拒否は禁止されています。ご相談はこちらまで。

ほたる『キスして。』

$
0
0

2013年12月7日公開のほたる監督『キスして。』




脚本はほたる、撮影・照明は勝嶋啓太、音楽は虹釜太郎・坂田律子、録音・整音は小林徹哉・臼井勝・川口陽一、編集は桑原広考・中村明子、監督助手は小泉剛・辻豊史・佐藤吏・小川隆史・広瀬寛巳・福山源、撮影助手は阿久津毅・下里泰生・サカイケイタ、衣装は荻野緑、スチールは沼田学、題字・イラストは會本久美子。製作は阿佐ヶ谷映画会。
2012年/日本/miniDV/66分


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

「好きな人が出来ました。別れて下さい」

15年連れ添った妻(ほたる)からの突然の言葉。男(伊藤猛)は、しばし絶句した後「どんな奴なんだ。そんなことが許されると思うのか。責任ってもんがあるだろう。俺は別れないぞ」と苦しげに言った。



父親(山崎幹夫)を早くに失った女は、二十歳の時に年上の男と結婚した。男は何でも知っていて、常に自分のことを導いてくれる存在に思えて、頼もしかった。
歳月は流れ、気づかぬうちに何かが変わって行った。具体的な諍いがあった訳ではないが、女の日常は息苦しいものになり、言いようのない孤独に苛まれるようになっていった。



ある日、夫は夢を追うことを諦め、きちんと就職した。「稼がなくっちゃな。お前は、続けるんだろ?」。女は、ただ頷くしかなかった。
いつしか夫は自分の体に触れなくなり、女は夫が寝る横で自分の体に指を這わせるようになった。



旅行に誘っても「俺は会社だから無理だ」と言い、一緒に外出しようと言っても「俺はいいよ」と付き合ってもくれない。

ある時、一人飲んでいた女は深酔いしてよろけながら店を出た。通りかかった男(今泉浩一)が、彼女の様子を心配して声をかけて来た。女は衝動的に男を誘い、そのまま物陰で一時の情事に身を焦がした。
事が済むと、女は礼を言って夜道を家へと向かった。いつしか酔いも醒め、気づけば彼女は駆け出していた。
もう少し、頑張れる気がした。

ある晩、一人駅で電車を待っていた女は、降りて来たサラリーマン風の男の姿にハッとする。佇まいが、亡き父にそっくりだったのだ。
彼女は、思わず男の後をつけてしまう。男は、居酒屋に立ち寄りしばしグラスを傾けた後、店を出て帰宅した。玄関を開けると、中から家族が男を迎える声がした。
男が家の中に消えてしまうと、女は来た方向へと引き返した。

新しい恋人(内倉憲二)ができた。同じ歳だった。そのことを夫に告げると、女は家を出て恋人の部屋で一緒に暮らし始めた。
夫との離婚の話し合いはまったく進まず、彼女自身も何故知り合ったばかりの人を好きになったのか分かっていなかった。
恋人には、何人もの親しい女友達がいた。しかし、女と暮らし始めて女が男に身を預けると、「そんなことされると、本当に好きになっちゃうよ…」と彼は言った。



夫との話し合いは、依然として平行線だった。「どうすればいいの。お金?」と女が聞いても、「そんなこと、自分で考えろよ」と夫は突き放した。



諦めて女が立ち上がると、夫は彼女にすがりついて「どうして、俺じゃないんだ…」と嗚咽を漏らした。



ある晩遅く、かなり酔って恋人が帰宅した。部屋に入ると、男は「みんな、別れて来ちゃった。もう、お前だけだよ」と女に言った。

部屋に一人でいた女は、急に吐き気をもよおして洗面所に走った。産婦人科を訪ねると、妊娠していた。女は、親友(河名麻衣)に相談するが、恋人には言い出せない。
久しぶりに会った母親(白井由希絵)は、娘のことを心配していた。母は、娘が三人もいるんだから、誰か一人くらいは子供を産んでほしいと寂しそうに言った。女は、自分が妊娠していることを母にさえ告げることができなかった。

恋人は、親子が仲良さそうにしているテレビの映像を見て、「俺、子供大好きなんだよね。いつか、欲しいな」と呟いた。
「でも、今じゃない」と女は心の中で言った。



女は、病院のベッドで身を起こした。呆気ないくらいに、すべては簡単に済んでしまった。

女は、かつての自分の家にいた。自分の荷物をまとめるためだ。女は、月々元の夫に慰謝料を払うことにした。男は言った。「大丈夫なのか?こっちは、特に金に困ってる訳じゃないから」。「うん、仕事始めたし」と答える元・妻に、男は「自分で決めたことだからな。ペナルティ、受けなさい」と言った。
「俺って、何だったのかな?父親か」「うん、そうかも」「15年かけて、やっと大人になったって訳か。長かったな」。
しばしの沈黙後、「たまには、猫の顔見に来なさいよ。まあ、毎日来られても困るけどさ」と男。
「…ありがとう…」とうつむく女の目から、涙がこぼれ落ちた。

人もまばらな電車内。女は、恋人の肩に頭を乗せている。



「好きな人が出来ました…」

気がつくと、いつしか女は一人で電車に揺られていた。

--------------------------------------------------------------------

一切予備知識もなく本作を観れば、何とも散文的な映画だと感じることだろう。
2008年7月にクランク・アップしてから編集に時間がかかり、本作がひとまず映画としての体をなしたのが2011年の後半。桑原広考が編集したバージョンは、関係者試写の後一度だけ劇場で上映されたのみだった。
そして、中村明子が再編集したバージョンにて、ようやく正式に劇場公開された。僕は、所謂ディレクターズ・カット版と今回の上映版を両方とも観ているが、再編集によって格段に映画としては良くなった。
見せるべき映像が、ずっとクリアーになったからである。

有体に言ってしまうと、『キスして。』で提示されるのは、ほたるという一人の女性の「私映画」である。
もちろん、ドラマ的な加工は幾分施されているにせよ、ほぼストレートに彼女自身の人生の一コマが切り取られているのだ。
父親の早世、結婚、恋人、離婚、等々。劇中のほたると伊藤猛の会話に「辞めるの?」「ああ、お前は続けるんだろう」というやり取りがあるが、これはもちろんほたる(葉月螢)が所属していた水族館劇場のことである。
また、劇中で母親が言っている通り、ほたるは三人姉妹の長女である。

これまで、監督はおろか脚本さえ書いた経験のなかったほたるがこの作品を作った理由。それは、彼女が離婚やその前後に色々と大変な経験をして、その時の自分の“顔”を映像作品に記録したいと考えたからである。
しかし、残念ながらその2007年当時、彼女は自分の顔を記録すべき現場に巡り合うことができなかった。「ならば自分で…」と一念発起して撮ったのが、本作である。
まさしく、D.I.Y.のシンプルにして強い意志が彼女にはあったのだ。

その意味では、カメラを回した時点で当初の目的はほぼ達成してしまったことになる。そこから、さらに作品としてトリートメントするのに、かなりの時間を要したのである。

本作は、観る人の置かれた立場や人生観によって、随分と受け止め方が異なって来る作品だと思うが、監督自身が言及しているように、本質的には女性映画だといっていいだろう。
ただ、男の側の視点に立てば、なかなかに切なく痛い物語でもある。個人的には、やはり伊藤猛の引き際と、その時に見せるさりげない優しさに切なくなってしまう。

徹頭徹尾自主製作された作品は、映画として見れば当然の如く拙く、あらゆる面でアマチュア然としている。
しかし、だからこそ作り手であるほたるのイノセントな衝動がダイレクトに伝わって来るのも、また事実だろう。
その意味でも、本作を鑑賞するという行為は、スクリーンを通して「ほたるの人生」という名のバスに乗り合わせることと同義なのだ。

私小説のような映画でありながら、観る者に覗き見的後ろめたさを感じさせない不思議な透明感に貫かれた作品。
もちろん、ほたるファンには避けて通れない一本である。

余談ではあるが、映画の中に河名麻衣、千葉誠樹、柳東史、杉浦昭嘉、岡輝男、矢崎仁司、七里圭の姿を探すのもまた一興である。

NAADA「太陽のセレナーデ」@東新宿 真昼の月・夜の太陽

$
0
0

12月20日、東新宿のライブハウス 真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「太陽のセレナーデ」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これで33回目。前回観たのは10月13日 、場所は学芸大学のメイプルハウスだった。




NAADA:RECO(vo,bodhrán)、MATSUBO(ag)+宍倉充(eb)+笹沢早織(pf)

彼らにとって年内ラストとなるライブは、久々に4人編成という布陣。クリスマス・シーズンということもあり、この日はメンバー全員がにカラー・コーディネイトされた衣裳で登場した。RECOは、白い帽子とカーディガン、赤いワンピース、黒のストッキングというファッションだった。




では、この日の感想を。

1.RAINBOW
最初のギターの音がわずかにブレたように感じたが、とても落ち着いた曲の入りである。PAの出音も含め、とてもカッチリと構築された音。時折聴かれる太いベースの音が、とても効果的だ。僕にとってこの日の曲の印象は、「安定」「広がり」ということになる。今は冬だけど、秋の木漏れ日のような音像である。
フェイドアウト気味のエンディングも、とてもスマートで良かった。

2.僕らの色
曲の入りが、まさにジャスト。緻密に練り上げられた曲構成は、圧倒的なクオリティである。その中にスリリングなテンションがあり、確たる「揺るぎなさ」を感じた。
僕はこの曲をNAADA流ウォール・オブ・サウンドだと思っているが、この日の演奏は濃密な音空間なのに不思議に息苦しさを感じなかった。おかしな表現だが、高揚を伴う開放感があった。多分、この曲におけるひとつの理想的パフォーマンスはこういう演奏の形なのだろう。
そして、サウンドがマックスになった時にも音割れしないPAが彼らの演奏を的確に伝えていた。

3.Twill
この曲での演奏は、何処までも澄みわたる「透明感」に貫かれていた。一部のバッキングに、もう少し音を抜いてストイックになってほしいかな…と思う個所もあったが、満足のパフォーマンスである。
特に、ブレイク時のネオサイケ的な音作りが秀逸。エンディングの幾何学的ともいえる演奏も面白かった。

4.UN HAPPY X’mas
ラスト2曲は、クリスマス・シーズンならではの選曲。そして、本日の個人的ベスト・パフォーマンスはこの曲。
疾走するようなベース・ラインがファンキーで痛快。この演奏は充のプレイヤーとしての面目躍如と言ったところだろう。加えて、笹沢が演奏するジャジーなピアノも曲にシャープさを添える。
RECOのボーカルは、くるくる変わる豊かな表情と転がるように軽快な歌がとてもキュートだ。
グルーヴィーにスウィングする演奏に、かなりの興奮を覚えた。

5.winter waltz
年内ラストに選ばれたのは、映像喚起に優れたこの曲。鈴の音をバックに奏でられた演奏は、この夜最もイノセントでストレートなパフォーマンスだった。このライブを締めくくるのには、ピッタリである。
そして、これはあくまでも個人的な心情だけれど(まあ、そもそも僕が書いているレビュー自体個人的な心情ではあるが)、RECOの歌っている姿を見ているとシンプルに魅力的な女性だな…と思う。


この日のライブは、僕が真昼の月・夜の太陽で聴いた中でも一二を争うPA音響の良さであった。これが今年最後でよかった!と心底思う。
とにかく、このライブに備えてメンバーが如何に音作りに神経を使ったのかが手に取るように分かったし、十二分にその成果が発揮されていた。僕が今まで聴いて来たNAADAのライブの中でもベスト・パフォーマンスのひとつと言っていいだろう。

来年には、本当に久々となるバンド編成でのアルバム・レコーディングが製作の佳境に入るはずだが、どんな音に仕上るのか今からワクワクする。
来年へのさらなる飛翔を感じさせる、とても充実した一夜であった。

最後に、Merry Christmas NAADA ♪

ラッセ・ハルストレム『ギルバート・グレイプ』

$
0
0

1993年12月25日公開、ラッセ・ハルストレム監督『ギルバート・グレイプ(What's Eating Gilbert Grape)』




製作はメイア・テペル、バーティル・オールソン、デイヴィッド・マタロン、製作総指揮はアラン・C・ブロンクィスト、脚本はピーター・ヘッジス、撮影はスヴェン・ニクヴィスト、美術はバーント・カプラ、音楽はアラン・パーカー、ビョルン・イスファルト、編集はアンドリュー・モンドシェイン、衣裳(デザイン)はルネ・アーリック・カルファス。製作はJ&Mエンタテインメント、配給はブエナビスタ。118分。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

人口1,000人の退屈な田舎町アイオワ州エンドーラの街道を、また今年もキャンピング・カーが通り過ぎる季節がやって来た。小さなグローサリー・ストアに勤める24歳のギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、もうすぐ18歳の誕生日を迎える弟のアーニー(レオナルド・ディカプリオ)にせがまれて街道までやって来た。
勤務先の店は、近所に大型スーパーが進出したために閑古鳥が泣いている。それでなくても、さしたる産業もなければ何の刺激もない、ただひたすらに退屈で息苦しい日々が繰り返されるだけのこの町にギルバートは辟易していた。
それでもギルバートには、どうしてもこの町を出て行けぬ理由があった。いや、むしろ縛りつけられている…と言った方がより正確だろうか。



アーニーは重度の知的障害者で、医者からは10歳までもたないかもしれないと言われたが今でも元気に生きている。しかし、彼は行動が読めず目を離すと町の給水塔に登ったりして警察騒ぎを起こしてしまう。




母のボニー(ダーレーン・ケイツ)は、若い頃は町でも有名な美人だったが17年前に夫が自宅地下で首吊り自殺をして以来、自宅に引きこもって過食を続けている。お陰で、今の彼女は動くこともままならぬほどに太り、2階の寝室にすら行けない。




そんな二人を、ギルバートはしっかり者の姉・エイミー(ローラ・ハリントン)、生意気盛りの妹・エレン(メリー・ケイト・シェルバート)と共に面倒見なければならないのだ。
ギルバートにとって、家族や父親が建てたこの家は自分をこの町に繋ぎとめる重い枷だった。



ギルバートは、店の常連で生命保険会社に勤める夫(ケヴィン・タイ)と二人の小さな子供がいるベティ・カーヴァー(メアリー・スティーンバージェン)と不倫関係にある。ギルバートは、彼女に頼まれた品物を家まで配達することにかこつけて情交していたのだが、実はそのことを彼女の夫は薄々気付いている。
そのカーヴァー氏に呼び出されてギルバートはドキマギするが、彼のオフィスを訪れると保険の勧誘をされて拍子抜けする。




キャンピング・カーで祖母と共に気ままな旅をするベッキー(ジュリエット・ルイス)は、車のエンジンが故障してエンドーラの町で立ち往生する。仕方なく、祖母は町で部品を取り寄せようとするが、あいにくの在庫切れでしばらくこの町に足止めされる。
当面の必要物資を揃えるために訪れたグローサリー・ストアで、ベッキーはギルバートと出逢う。
ギルバートは、アーニーと一緒にベッキーのキャンピング・カーまで商品を届ける。それがきっかけとなり、二人の仲は近づいて行く。
そして、そのことはベティを苛立たせた。




ギルバートが目を離した隙に、またしてもアーニーは給水塔に登ってしまう。堪忍袋の緒が切れた警察は彼のことを拘留するが、そのことに腹を立てたボニーは、夫の自殺以来初めて家を出て警察署に怒鳴り込む。




彼女の剣幕に気圧されたのか警察はアーニーを解放するが、ボニーの姿は町行く人の好奇の的になる。まるで化け物でも見るような人々の視線に晒されて、ボニーはいよいよ引きこもってしまう。間近に迫ったアーニーの誕生日パーティにも彼女は出ないと言い張った。
そんなある日、突然ベティの夫が他界。多額の保険金が掛けられていたこともあり、町ではベティに疑惑の目が向けられた。そして、葬儀が終わると彼女は子供たちを連れて町から出て行った。
最後にベティは、「あなたは、ここから出て行かないの?」とギルバートに言った。

どんどん親密さを増して行くギルバートとベッキー。しかし、ギルバートには面倒を見なければならない家族がいる。一方のベッキーは、車の故障が直ればこの町を出て行く。そんな事情から、ギルバートはベッキーとの仲に踏み込むことができない。



色んなことに集中することができず、ギルバートはいくつもの問題を起こしてしまう。ベッキーとのデートを中断して家に戻ったギルバートは、「自分で洗えるな?」と言って裸のアーニーを一人バスタブに残した。
ギルバートが夜遅く帰宅すると、アーニーは冷え切った体のままバスタブで震えていた。この一件で、アーニーは一切風呂に入らなくなってしまう。



アーニーの誕生日パーティを明日に控えた日。アーニーは、エイミーが作ったバースデー・ケーキを壊してしまう。叫び声をあげて頭を抱えるエイミー。頭に来たギルバートは、嫌がるアーニーを風呂場に連れて行くと思わず手を上げてしまう。
弟に手を上げたショックも相俟って、居たたまれなくなったギルバートは家を飛び出した。行き場所のない彼が向かったのは、ベッキーのキャンピング・カー。ベッキーのキャンピング・カーは故障が直り、明日にでも出発することになっていた。
ギルバートがベッキーのところに着くと、何故かそこにはアーニーがいてちょうどエイミーとエレンが彼を連れ帰るところだった。
物陰に隠れているギルバートに気づいたベッキーは、彼を優しく手招きした。そのまま初めて結ばれた二人は、朝まで一緒に過ごす。

帰宅したギルバートを迎えたボニーは、二度と黙って出て行かないで!と言うと、息子を優しく抱き寄せた。
アーニー18歳の誕生日パーティが盛大に行われ、アーニーとギルバートは仲直りした。アーニーから招待されたからとやって来たベッキーを、ギルバートは母親に紹介する。




無事にパーティが終わると、ボニーは2階の寝室に行くと言って立ち上がる。驚く家族を余所に、彼女は危なげな足取りで何とか自分のベッドにたどり着いた。「アーニーを呼んで」と頼まれたギルバートは、階下にアーニーを呼びに行った。アーニーがベッドに行くと、母親は動かなくなっていた。

事切れた母親を前にして、家族は悲嘆に暮れた。このままでは、巨漢のボニーを運び出せない。しかし、クレーン車を手配したのではいい晒し者になってしまう。
「もう笑い者にはさせないぞ…」と呟くと、ギルバートはある決断をした。みんなで家財道具を運び出すと、ギルバートは2階のベッドで眠るボニーを残して、父が建てた家に火を放った。

エイミーは新しい働き口を見つけて、この町を出た。エレンも姉について行った。そして、ボニーが亡くなった一年後。エンドーラの街道をキャンピング・カーが通り過ぎる季節がまたやって来る。
もちろん、今年もギルバートはアーニーと共に街道沿いにいる。そこに、ベッキーのキャンピング・カーが近づいてくる。ベッキーが二人を見つけて車を停めると、ギルバートとアーニーが乗り込んだ。
一年ぶりの再会。もう、ギルバートをこの町に繋ぎとめるものは何もなかった。ベッキーと笑顔を交わすギルバートに、アーニーが尋ねる。「ギルバート、僕らは何処へ?」。
「何処へでも、何処へでも」と答えるギルバートの目は、新しいことが始まるはずの未来を見ていた。

--------------------------------------------------------------------

良くも悪くも、アメリカという広大な国土を持った国でしか作り得ない種類の映画である。作品としては、ラッセ・ハルストレムの資質が良く出ていると思う。
単調で変化に乏しい田舎町、行き場のない閉塞感、家族の呪縛、そして解放…というのは、過去に何度も描かれて来た定番のテーマである。

テーマがテーマだけに物語的な仕掛けや起伏がつけ難いし、上映時間が2時間だから映画的には退屈すれすれの作品である。
しかも、登場人物が押し並べてステロタイプ気味に描かれているから、人間ドラマとしてのダイナミズムにも、正直物足りなさを感じる。
ラスト前に呪縛の象徴だった家を焼き払うところが、本作のハイライトにして映画的カタルシスのピークだろう。

商業的には、1990年のティム・バートン監督『シザーハンズ』が大ヒットしたジョニー・デップありきの企画だったろうし、その意味ではデップは十分にその役目を果たしている。
ギルバートとベッキーのロマンスも、いささか定型的な展開とはいえ手堅くエモーショナルに描かれている。
しかし、本作最大の見所は、何と言っても当時若干19歳のレオナルド・ディカプリオの驚異的な名演である。

言うまでもなく、ディカプリオといえばバズ・ラーマン監督『ロミオ+ジュリエット』(1996)でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞後、ジェイムズ・キャメロン監督の世界的ブロック・バスター作品『タイタニック』(1997)で一躍ワールド・ワイドなセックス・シンボルとなった俳優である。
ここ日本においても、“レオ様”と称されてミーハー人気が爆発したから、いまだに彼のことをアイドル俳優と考える向きも多いのではないか。
そういう人が本作を観れば、如何に自分の認識が間違っていたか、あるいは俳優としてのディカプリオを過小評価していたかを思い知らされることになるだろう。
まぁ、僕もあまり人のことは言えないけれど…。

とかく役者が知的障害者を演じると、どうしても映画的あざとさのようなものがついて回る。ある程度の演技的スキルを持った役者であればある程、どうもそういう傾向に陥るように感じる。
その理由は、あくまでも自分の内なるイメージとしての「障害者」「演じ過ぎる」からではないだろうか?真摯にやろうとすればするほど、方向的に過剰さが付与されてしまうとでも言えばいいか。
ところが、本作におけるアーニー役のディカプリオは、演じているのではなくリアルに知的障害者がスクリーンの中で生きているようにしか見えない。演技的ギミックが皆無なのだ。

ディカプリオは、『ギルバート・グレイプ』のオーディションを受けるにあたって、アーニーの役作りを徹底的に研究して練り上げて行ったのだそうだ。その努力と情熱たるや、ストイックな求道者のようですらある。本当に、腰を抜かすような途轍もない演技である。

『ギルバート・グレイプ』は、映画的クオリティから見ればそれなりの良心作といったレベルだろう。
しかし、レオナルド・ディカプリオ渾身の演技は、アカデミー賞助演男優賞ノミネートも当然の素晴らしさである。とりわけ、役者をやっている方には必見だろう。

小林政広『海賊版=BOOLTEG FILM』

$
0
0

1999年12月1日公開、小林政広監督『海賊版=BOOLTEG FILM』





プロデュース・脚本は小林政広、音楽は高田渡、テーマ曲は高田渡(詞・曲・唄)「仕事さがし」、挿入歌はSTRADA「山道より」(off note)、撮影監督は佐光朗(J.S.C.)、アシスタントプロデューサー・スチールは岡村直子、ラインプロデューサーは佐々木正則、制作は山本充宏、ロケーションコーディネイトは南博之、助監督は女池充、演出部協力は上野俊哉、ポストプロダクションプロデューサー・編集は金子尚樹(J.S.E.)、録音は瀬谷満、撮影助手は伊藤潔、照明は木村匡博、監督助手は藤丸俊樹・向井慎吾、録音助手は岩丸恒、特殊美術は吉田ひでお、衣装は岡本嚇子、ヘアメイクは諸橋みゆき、車輌は菊池淳、タイミングは永沢幸治・平井正雄、タイトルは道川昭、現像は東映化学、録音スタジオは福島音響、リーレコは日映録音、制作協力は北海道増毛町。製作・配給はモンキータウンプロダクション。
1998年/35mm/74分/モノクロ/シネマスコープ
なお、本作は1999年カンヌ国際映画祭“ある視点”部門公式出品作品である。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

荒涼とした北海道増毛町の道を行く自動車。ハンドルを握る小松立夫(柄本明)も助手席に座る会田清司(椎名桔平)も塞ぎ込んだ表情をしている。小松は運転しながら何本も缶ビールを消費しており、会田もそれをあえてとめない。二人は、喪服を着て北川文子(環季)の葬儀へと向かっている最中だ。
小松はリストラ寸前の冴えないヤクザで、会田は警視庁勤務の警察官。真逆の社会的地位にある二人は、皮肉にも親友同士。文子は会田の離婚した元妻で、結婚中から小松と文子は不倫関係にあった。
自殺の原因は分からないが、お陰で小松は妻の明子(高仁和絵)から離婚届を突きつけられ、会田も今付き合っている礼子(中野若葉)から散々きつい言葉を浴びせられた。




二人は、道中本当に文子が好きだったのは自分だと言い張り、会田との離婚原因の一つと推測される彼女が降ろした子供の父親も自分だと言って譲らない。
仲がいいのかただの腐れ縁なのか微妙な関係の二人だが、そのうち小松は「葬儀に出席するから休暇下さいって言ったら、『だったら、一体死体を始末して来い』ってよ。拳銃も二挺待たされちまってよ」と言った。会田がギョッとして「何処にあるんだ、それは」と聞くと、「トランク。拳銃も一緒にな」と小松は平然と言ってのけた。
小松は、用を足すために車をパーキング・エリアに停めた。小松が戻って来ると、二人は諍いを始める。会田がトランクを開けると、小松が言った通り血にまみれた男の死体と拳銃が二挺無造作に置かれていた。
さっきまで文子の件で言い争っていたこともあり二人の険悪さはマックスで、トランクから拳銃を取ると互いに銃口を向け合った。



二人の様子を後続車の若いカップルが見ていた。映画の真似ごとかと興味を持った順子(舞華)は、洋二(北村一輝)が止めるのも聞かず二人に近づいた。二人の間に割って入ると、「何してんですか?」と言いながら、順子はトランクを覗き込んだ。次の瞬間、彼女の絶叫が響き渡った。



洋二の元に逃げ帰る順子。ようやく状況に気づいた小松と会田は、慌てて車に戻ると急発進した。しばらく走ってはみたものの、やはりこのままあの二人を逃がしてはまずいと引き返す小松と会田。
さすがに元の場所にはいないだろう…と半ば諦めていた二人だが、何とカップルの車はパーキング・エリアに停まったまま。「あいつら、アホだ」と呆れかえる二人。
洋二がトイレで用を足すのを順子は車の中で待っていた。小松は順子を、会田は洋二をそれぞれ消すことにした。

ところが、拳銃を手に相対したというのに小松も会田もその場でカップルを殺さなかった。そして、小松は順子に会田は洋二に車を運転させてとある場所へと向かわせた。やって来たのは、水産物会社の倉庫が建つ人気ない海辺の場所だ。
しかし、ここまで来ても二人には殺しをやる肝が据わらない。互いに相手の行動に業を煮やした小松と会田は、カップルをそっちのけで怒鳴り合いを始める。会田に「意気地なし!お前、それでもヤクザか!」となじられた小松は、怒りにまかせて二人を射殺した。




とりあえずやることをやった二人は、死体をほっぽらかして車で走り去ってしまう。
夜の帳が下りた頃、車中で会田が死体を処理しないと足がつく…と言い出す。二人が現場に戻ってみると、カップルの死体はそのままの状態で倒れていた。

文子の通夜にも出席せず、二人はその日の宿を取って一緒に湯に浸かっている。会田が「トランクの中の死体は誰なんだ?」と尋ねると、小松は「弟だ」と答えた。




風呂から上がると、二人は町に出た。そして、バーに入ると「もう閉店だ」とマスター(小林政広)が言うのも聞かずにビールを注文した。




突然、会田は「文子が死んだのはな、あれは事故だったんだ。子供を産み落としてな」と言った。小松は驚きの表情を浮かべるが、「誰の子なんだ。俺の子か?」と聞いた。「いや、俺の子だ」と会田。ここでも、二人は言い合いになる。



翌日、小松はカップルと弟の死体を運び出して雪の中に埋めた。仕事の済んだ小松は、会田に指定されたまだ営業していないスキー場ゲレンデへとやって来る。




そして、二人はロッジの中に入る。すると、テーブルの上に文子の遺体が置いてあった。呆然とする小松に、会田は「お前が埋めに行っている間に、あいつの実家からかっぱらって来たよ」と言った。



雪の中を歩いている小松と会田。小松は死体を彼女の実家に帰してやれと言うが、会田はそれを拒否する。何を思ったのか、会田は懐から拳銃を取り出した。
「死ね、お前も。三人も殺したんだ。おまけに何年も他人の女房に手を出した。お前のような奴はな、このまま生きていても恥をさらすだけだ。だから、死んじまえ」「俺たちは親友だろ」「親友には裏切りがつきものだとでも言うのか」。
会田は、小松を撃ち殺した。



会田は、一糸まとわぬ文子の死体を抱きかかえると雪の中を山に向かって歩いて行った。



おもむろに、埋められた雪の中から出て来る順子と洋二。洋二は結婚しようと言って順子の手を取ると、歩いて行った。

死体の重さに息切れする会田。一発の銃声。こめかみを撃ち抜かれて、文子と寄り添うように息絶える会田。



こめかみから血を流し事切れたはずの小松は、一度目を開くと「あああああ~!」と叫んだ。




「ブートレグ フィルム でした!!」

--------------------------------------------------------------------

何とも人を食ったような、とても風変わりな作品である。
1996年に撮ったデビュー作『CLOSING TIME』 で第8回ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭ヤングファンタスティック部門グランプリを獲得した小林政広が、その次に撮ったのが本作。
処女作同様、この作品にも小林が敬愛するフランソワ・トリュフォーを始めとしたヌーヴェル・ヴァーグ的芳香がそこかしこに漂っている。


親友同士のヤクザとポリス、一人の女を巡る何ともシニカルな愛想模様、死体を扱ったドライなニヒリズム、随所に映画マニア的会話を散りばめた洒脱、等々。
本作のようなカラカラに乾いたストレンジなコメディは、こと日本映画ではなかなかお目にかかることができない。白と黒のコントラストが際立つ色彩計算とシャープな構図があるからこそ、映画的に成立しているところもあるだろう。
ペーソスを纏った奇妙なコメディ・タッチに、小林が後日親交を結ぶことになるパトリス・ルコント作品と相通ずる空気を感じた。

デビュー作でとりあえずすべてを吐き出した小林は、本作撮影時が一番経済的にきつかったと語っている。それでもあえて次の映画を撮り上げたのは、「自分は、シナリオライターではなく映画監督としてやっていくんだ」という強い意志があったからである。
そして、本作の次に撮られたのが緒方拳を迎えての『殺し』 『歩く、人』という良作である。言ってみれば、監督として彼が飛躍する上でのまさしく“踏み切り台”的な役割を果たしたのが本作だと言えるだろう。

僕にとって『海賊版=BOOTLEG FILM』が興味深いのは、その映画的佇まいに小林政広の作家的キャラクターが顕著な点である。
これ以降のものにも現れているが、小林の撮る作品には日本映画特有のウェットさや外連味がほとんど感じられない。彼は人間描写や人物造形に優れた作家であるが、映画として提示された作品には小林独特の渇きがいつもあるのだ。それは、恐らく彼自身がある種の情緒性に背を向けて、冷徹にドラマを構築するからだろう。
その姿勢が、ある意味過激に現れたのが本作だと思う。そして、何処かフランス映画を換骨奪胎したような作品の雰囲気は、賛否こそはっきり分かれるだろうがなかなかに刺激的である。

その辺りのことに確信犯的だからこそ、ラストに「ブートレグ フィルム でした!!」というテロップを用意したのだろう。

観る側の視点に立った場合、この作品のストーリーテリング自体はシリアスに受け止めるべき性質のものではない。
ただ、個人的には柄本明の求心力に比して椎名桔平が演技力・存在感に乏しいのが大いに不満である。緩急なく、ただひたすら単調に怒鳴っているように映るのだ。

本作は、決して傑作と評すべきものではないだろう。
しかし、小林政広の大いなる助走作品として避けて通れない一本である。

山下達郎PERFORMANCE 2013@中野サンプラザホール

$
0
0

12月24日クリスマス・イブの夜に、中野サンプラザホールで山下達郎「PERFORMANCE 2013」千秋楽を観た。



開演時間の18:30を7分ほど回ったところで客電が落ち、ステージにメンバーが登場。コンサートは、アップテンポな曲に仄かなノスタルジー香る「新・東京ラプソディー」で幕を開けた。
続いて大定番の「SPARKLE」、これも久しぶりの「LOVE SPACE」と最初の3曲でいきなりライヴはエンジン全開となった。この選曲でスタンディングしないところが、如何にも正しき達郎オーディエンスである。
ただ、MCによると今回のツアーには20代の一見客も多かったのだそうだ。
ツアー・ファイナルということもあって、この日はマスコミ招待なしの上に普段ならPAサイドで開放しないシートにまで客を入れていた。「大丈夫ですか?僕じゃなくて、呼び屋のSOGOのせいですから(笑)」とは、達郎の弁。
「今日は長いですから、そのつもりで」というMCに、会場はさらにヒートアップした。

今年は『MELODIES』がリリース30周年、『SEASON’S GREETINGS』が20周年という節目の年で、この2枚がようやくリマスター再発された。特に前者は「夏だ!海だ!達郎だ!」というパブリック・イメージを払拭するつもりで製作したアルバムであり、リリース当時は地味だという声も随分あったという。



ただ、このアルバムのお陰で自分はリゾート商品のように消費されずに済んだと達郎は自己分析した。コンサートでは珍しく、その『MELODIES』から「あしおと」と「ひととき」が演奏された。
僕も、達郎のアルバムでどれか一枚と言われたら迷わず『MELODIES』と答えることにしている。その次が『RIDE ON TIME』か。
この4年は毎年コンサート・ツアーを行っており、この日演奏された曲はオールド・ファンにはなかなか嬉しい渋いチョイスだった。達郎の声と演奏は、好調そのもの。小笠原拓海と宮里洋太という若い二人が、バンドに新たな勢いと息吹を付与したのも大きい。

「僕の書く歌には、情けない男がよく登場する」と言って歌われたのが、「スプリンクラー」「PAPER DOLL」
そして、近年はあまりにも安易な有名曲のカヴァー・アルバムが多いと苦言を呈した後、達郎らしいカヴァー曲を2曲。
1966年に発表され、アメリカン・ポップス史上に燦然と輝くThe Beach Boys『Pet Sounds』収録の「God Only Knows(神のみぞ知る)」。続いて、ブルー・アイド・ソウル最高峰The Young Rascalsの1967年発表アルバム表題曲「Groovin’」
後者は、言うまでもなく「サンデーソングブック」のエンディング曲として達郎のカヴァー・ヴァージョンが毎週流れている。



映画『陽だまりの彼女』の主題歌「光と君へのレクイエム」は、今回のツアー途中に決まったため選曲していなかったとのこと。「でも、せっかくだからテレビサイズで」と前置きして、達郎のキーボードでサラッと歌われた。
恒例の一人アカペラのコーナーは、『SEASON’S GREETINGS』から3曲。中でも、Jimmy Jam & Terry Lewisが製作したAlexander O’Nealの「My Gift To You」(1988)は超絶的な難曲だという。歌い終わった後、達郎は「間違えずにできた」と笑った。



達郎にしては珍しくポリティカル・ステイトメントなMCの後、演奏されたのは「DANCER」。続く「希望という名の光」の途中で、先ごろ亡くなった青山純について「80年代、90年代を代表する日本屈指のドラマーは、ちょっとだけ生き方が不器用でした」と達郎は語った。ツアー中だったため、彼の葬儀にも出席できなかったのだそうだ。
僕も、何度となく達郎のバックで叩く青山純のドラムスを聴いた。彼への思いを込めて、曲の後半で「蒼茫」が歌われた。



ここから、コンサートはいよいよ佳境へ。「メリー・ゴー・ラウンド」からの「Let’s Dance Baby」(この曲は、元々キング・トーンズのために書かれた。)では、クリスマスらしく「White Christmas」やWHAM!「Last Christmas」(1984)、Bobby Helms「Jingle Bell Rock」(1957)に果てはユーミンの「恋人がサンタクロース」までメドレーで登場。この曲で、ようやくオーディエンスが踊り出すのもいつもの光景だ。
達郎が書いたKinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」(1997)では、「お正月」やRay Charles「I Got A Woman」(1954)といった“らしい”遊びも。
「LOVELAND,ISLAND」で一度ステージを去ったメンバーは、アンコールに応えてもう一度登場。達郎は、赤いバンダナとシャツ姿。そう、彼は今年還暦を迎えたのだ。

ここで満を持しての「クルスマス・イブ」から「RIDE ON TIME」。ソロ回しの時に伊藤広規がPink Floyd「Money」(1973)のイントロを弾くと、達郎は「ギャラに不満なのかな…」と呟く。その後の柴田俊文は、Boz Scaggs「Lowdown」(1976)の一節を。
JAL「沖縄キャンペーン’79」のイメージソングとして書かれた「愛を描いて-LET’S KISS THE SUN-」(これが達郎の初タイアップ曲)の後に、奥方・竹内まりやが登場。二人でお馴染みのThe Everly Brothers「Let It Be Me」(1959)をデュエット。
「こんなことなら、練習しとくんだった」と言って、エレキギター一本で「Last Step」を歌った後、このツアー最後に歌われた曲は当然の如く「YOUR EYES」だった。

この日のライヴでは、達郎が何度も「時間、大丈夫ですか?」とお客に確認するのがとても印象的だった。何せ、「That’s My Desire」のア・カペラをバックに達郎がステージ袖に消えたのが22:15である。トータル3時間35分!の演奏時間だったのだから…。
日本最高の音楽パフォーマンスのひとつが、ここにある。まさしく、驚異の60歳である。
最後に達郎は、こう言った。「お互いに、恰好よく歳を取って行きましょう」と。彼がステージに立つ限り、僕はずっとその会場へと足を運ぶことだろう。
まさしく、至福のクリスマス・イブであった。



【2013.12.24 山下達郎PERFORMANCE 2013 at 中野サンプラザホール set list】

01.新・東京ラプソディー
02. SPARKLE
03.LOVE SPACE
04.ずっと一緒さ
05.あしおと
06.ひととき
07.スプリンクラー
08.PAPER DOLL
09.FUTARI
10.God Only Knows
11.Groovin’
12.光と君のラプソディー
13.My Gift To You
14.Bella Notte
15.Have Yourself A Merry Little Christmas
16.DANCER
17.希望という名の光~蒼茫
18.メリー・ゴー・ラウンド
19. Let’s Dance Baby
20.硝子の少年
21.アトムの子
22.LOVELAND,ISLAND

-encole-
23.クリスマス・イブ
24.RIDE ON TIME
25.愛を描いて-LET’S KISS THE SUN-
26.Let It Be Me(with 竹内まりや)
27.Last Step
28.YOUR EYES

山下達郎(vo,g)、小笠原拓海(ds)、伊藤広規(b)、難波弘之(p,el-p)、柴田俊文(keyb)、佐橋佳幸(g)、宮里洋太(sax)、国分友里恵(chor)、佐々木久美(chor)、三谷泰弘(chor)

山下敦弘『もらとりあむタマ子』

$
0
0

2013年11月23日公開、山下敦弘監督『もらとりあむタマ子』




プロデューサーは齋見泰正・根岸洋之、脚本は向井康介、秋・冬編撮影は芦澤明子、照明は永田英則、春・夏篇撮影は池内義浩、照明は原由巳、美術は安宅紀史、録音は小宮元・岩丸恒・中山隆匡、整音は岩丸恒、編集は佐藤崇、スタイリストは篠塚奈美・馬場恭子、ヘアメイクは木村友華・望月志穂美・大島美保、助監督は長尾楽・渡辺直樹・窪田祐介、ラインプロデューサーは濱松洋一・原田耕治、アソシエイトプロデューサーは石井稔久、主題歌は星野源「季節」(SPEEDSTAR RECORDS)、サウンドロゴは池永正二(あらかじめ決められた恋人たちへ)、スチール・タイトル写真は細川葉子。
制作プロダクションはマッチ・ポイント、配給はビターズ・エンド、製作・著作はM-ON! Entertainment Inc.・キングレコード。
宣伝コピーは「坂井タマ子 23才 大卒 ただ今、実家に帰省寄生中」
2013年/日本/78分/カラー/1:1.8/5.1ch


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

秋。東京の大学を卒業した坂井タマ子(前田敦子)は、就職もせず山梨県甲府市の実家に戻って来る。「甲府スポーツ」というスポーツ用品店を営む父・善次(康すおん)は妻と離婚し長女も結婚して家を出て一人で暮らしていたが、予想だにしなかった次女との共同生活をする羽目になった。




店を手伝う訳でもなく、家事をするでもなく、就職活動もしないタマ子は、朝遅く起き出しては善次の作った食事を食べ、テレビに毒づき、後はマンガを読んだりゴロゴロしてるだけだ。
近所の中学生・仁(伊東清矢)は、付き合い始めた彼女にタマ子のことを聞かれて「あの人、友達いないんだよね」と顔をしかめて言った。



あまりに自堕落な娘に、さすがの善次も苦言を呈する。テレビのニュースに「ダメだな、日本」と呟くタマ子に向かって、善次は「ダメなのは、日本じゃなくてお前だ!」と言った。
いつ就職活動するのかと質されたタマ子は、「その時が来たら動く。少なくとも…今ではない!」と何ら反省の色なしだ。

冬。大晦日はさすがに慌ただしく、いつもはぐうたらしてるだけのタマ子も新年のための買い物に出たりカレンダーのかけ替えをしている。まあ、仕事と言えるほど御大層なものじゃないが。




夜、善次の義姉・よし子(中村久美)がおせち料理を届けてくれた。タマ子の姉夫婦もそろそろ実家に顔を出す頃だ。
二人は、善次の作った年越しそばを啜っている。善次には電話もないようだが、タマ子は今でも母親と連絡を取り合っている。
もうすぐ、今年も終わりだ。




春。タマ子は、美容院で髪を切った。履歴書も書いているようで、タマ子に「面接用の服を買っていい?」と聞かれて善次は「ようやく“その時”が来たか」と上機嫌だ。
タマ子は、父親が写真屋を営む仁のところにやって来る。善次に買ってもらった服を着て、タマ子は店主にではなく仁に履歴書用の写真を撮ってもらうと、「これ、絶対誰にも言っちゃダメだからね!」と念を押して帰って行った。
掃除をしようとタマ子の部屋に入った善次は、ゴミ箱に捨てられた履歴書を拾い上げる。それは、芸能事務所用に書かれた履歴書だった。机の上には芸能情報誌がのっていた。
「…お父さん、タマ子のこと応援してるから…」と言われ、「そういうのが、嫌なんだよ!」とタマ子は善次にキレた。
タマ子は、町で偶然こっちに戻って来た友人とバッタリ会う。「時間あったら、連絡して」と去って行く彼女の背を見て、「携帯、知らないし」とタマ子は仏頂面した。

夏。またしてもぐうたら生活に戻っているタマ子。最近、何気に機嫌のいい善次のことが気になる。




善次と一緒に伯父・啓介(鈴木慶一)の家を訪ねたタマ子は、父の機嫌がいい訳を知る。よし子の友人で数年前に離婚し、近所でアクセサリー教室の先生をしている曜子(富田靖子)を善次はよし子から紹介されたのだ。どうやら、二人はすでに何回か会っているようだ。
タマ子は、自分の居場所を考えると気が気ではない。タマ子は仁にアクセサリー教室の様子を探らせるが、「どちらかといえば美人」らしいということくらいしか分からない。
まるで埒が明かないので、意を決してタマ子は自分でアクセサリー教室を覗きに行く。すると、背後から当の曜子に声をかけられてしまう。

成り行き上、タマ子は教室を受講することに。教室が終わり曜子と二人だけになると、タマ子は自分が善次の娘であることを伝えた。善次は曜子にタマ子のことを話していたようで、曜子は「あなたが、タマ子さん」と微笑んだ。
タマ子は、父親のことを情けないヤツだと言った。就活もせずダラダラしている自分に向かって出て行けとも言えないのだ、と。



タマ子は善次に、「再婚を応援してる」と心にもないことを言うが、善次は今さら他人と一緒に暮らす気はないと言った。その一方で、タマ子は母親に「私は、どうなるの?」と愚痴った。母親は、「東京に来る?あなたも一人でしっかりやらなくちゃ」と諭した。
電話を切って自転車を漕いでいると、東京方面の駅ホームに立つ友人の姿が目に入った。春、こっちに戻って来た友人だった。タマ子は、しばし彼女のことを眺めてから再び自転車を漕いで立ち去った。

善次は、言った。「タマ子、夏が終わったらこの家出て行け。お前が就職活動しても、しなくても」。それを聞いたタマ子は、しばし沈黙した後に言った。「合格」。
ベンチに座ってアイスキャンディを舐めているタマ子と仁。「夏が終わったら、私出て行くから。ところで、最近彼女は?」「別れた」「何で?」「自然消滅。じゃあ、俺行くから」。
自転車で去って行く仁の後姿を見送ると、タマ子は独りごちた。
「自然消滅…久々に聞いたな」。

--------------------------------------------------------------------

とてもいい作品である。僕は、前田敦子にほとんど興味ないんだけど感心しきりであった。
映画の冒頭。タマ子が寝がえりを打つのだが、そのシーンだけで「あっ、絶対この作品は悪くない!」と思わせるものがあった。そのシーンでは前田敦子の顔すら映らないのだが、その動きだけでリアルな怠惰さが劇場内を包むのだ。結構、凄いことである。

とにかく、この映画には事件らしきことなど何も起こらない。突然タマ子が無職のまま実家に戻って来て、キャッチ・コピー通り実家に帰省(寄生)する。ただ、それだけ。
何に対してもネガティヴで怠惰、自分のことは棚に上げて周囲に対しては無駄にシニカル。女子力の欠片もなければ、将来への展望も皆無。そんなダメ人間のタマ子を、前田敦子は“生気のない表情”で生き生きと演じる。
この作品が優れているのは、タマ子を取り巻く周囲の人々が無駄に感傷的にならず、かといって過剰にシニカルにもならないところである。日常生活におけるほんのちょっとだけ異分子な存在として、まるで棲みついてしまった野良猫のようにタマ子の存在を受け入れている。その距離感が、絶妙。これは、明らかに山下監督の演出力だろう。
映画全体を通して、押しつけがましいエモーションのようなものがまったくないのも清々しい限りだ。



役者について。
もちろん、前田敦子は素晴らしいし、彼女を見つめる父親役の康すおんの存在感も絶品。
ただ、僕が本作における映画的“華”だと思うのは、富田靖子。14歳の時に今関あきよし監督『アイコ十六歳』(1983)でデビューした彼女も、今ではもう44歳。
曜子役を演じる彼女は、贅肉の削げ落ちた外見に大人の女性としての慎ましさを湛えていて何とも魅力的だ。前田敦子に優しく語りかける彼女の表情を見るだけでも、一見の価値ありだ。
曜子とタマ子の何げない会話シーンは、この映画におけるひとつの白眉だろう。





あと、個人的に心奪われたのは、東京行きの駅ホームに立つ友人に気づいた時のタマ子の表情。本当に何のドラマもないさりげないシーンだが、アップになる前田敦子の表情に心ときめかない人などいるのだろうか?

とにかく、この作品が原作つきではなく向井康介のオリジナル脚本であることがシンプルに嬉しい。僕は同じ山下=向井コンビの『リンダ リンダ リンダ』(2005)も大好きだった。
とかく最近はミニマムなだけの映画が目につくが、「ミニマムな世界を描くなら、せめてこれくらいのクオリティで作ってくれなきゃな!」と留飲が下がる思いだった。

本作は、2013年日本映画のささやかなる成果の一本である。
どなたにも、自信を持ってお勧めしたい。

リム・カーワイ『FLY ME TO MINAMI 恋するミナミ』

$
0
0

2013年12月14日公開、リム・カーワイ監督『FLY ME TO MINAMI 恋するミナミ』





企画・製作総指揮は加藤順彦、共同エグゼクティブ・プロデューサーは井原正博・浦勝則・木下勝寿、プロデューサーは椚山英樹・リム・カーワイ、共同プロデューサーは三木裕明、脚本はリム・カーワイ、共同脚本は伊丹あき、人物デザインは柘植伊佐夫、撮影は加藤哲宏、美術は塩川節子、美術助手は上林弥生・地主麻衣子、編集はリム・カーワイ、録音は山下彩、録音助手は濱口雅弘、衣装は碓井章訓、メイクは北川恵里、照明は永田青海、整音は高田伸也、スチールは佐脇卓也、ライン・プロデューサーは友永勇介・船曳真珠、制作は平松明緒・今吉樹弥、制作補佐は松村和篤、助監督は加治屋彰人、監督助手は宮本杜朗。桑田由紀子、音楽はイケガミキヨシ、テーマソングはナガシマトモコ(ORANGE PEKOE)「Fly Me To Minami」。
制作はCinema Drifters、製作・配給はDuckbill Entertainment。
宣伝コピーは「恋は大阪ミナミで交差する」「言葉を越えた二つの恋が大阪ミナミで交差する」
2013年/日本・シンガポール/103分/英語・中国語(広東語)・日本語・韓国語/16:9/ステレオ


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

シェリーン(シェリーン・ウォン)は、香港でファッション誌のエディーターをしている。部数の伸び悩みから編集長は雑誌に付録をつける方針に転換するが、質そのもので勝負すべきだと考えるシェリーンは納得できない。
悶々とするシェリーンに、編集長は年末に取材で日本へ行くよう指示。場所は、大阪の繁華街ミナミだ。シェリーンは気乗りしないまま出張するが、同行するはずだったカメラマンが妻の出産で行けなくなってしまう。

来日したシェリーンは通訳を頼んだナオミ(石村友見)に代わりのカメラマンを探してもらうが、繁忙期の年末故カメラマンは見つからない。そこでナオミは、現在就職活動で行き詰っている弟のタツヤ(小橋賢児)を紹介する。
タツヤはカメラが趣味で、これまでに何度かコンクールに入選していた。彼が将来やりたいと思っていることは、アジア諸国を訪ねて人を写真に収めることだ。
背に腹は代えられないシェリーンは、アマチュア・カメラマンのタツヤに撮影を頼むことに。ナオミの案内で、ミナミにあるショップを取材する三人。
一日の取材が終わり、バーでお互いをねぎらう三人。シェリーンはタツヤの写真をチェックしてみるが、その表情は曇った。しばし考えてから、シェリーンは言った。「タツヤ、悪くはないわ。でも、この際だからハッキリ言わせてもらうと…」。

CAをする傍ら、ソウルでセレクトショップを経営しているソルア(ペク・ソルア)。彼女はショップの仕入れ目的で、度々大阪を訪れている。ミナミのコリアン・タウンで韓国雑貨店を営むシンスケ(竹財輝之助)は、数年前にソウルに語学留学した際ソルアと出逢い二人は恋に落ちた。
シンスケが帰国してからも二人の関係は続いていたが、シンスケには妻子があった。二人は、シンスケの妻・綾子(藤真美穂)の目を盗んではミナミで逢瀬を重ねていた。

今年もクリスマスが近づき、ミナミの街もイルミネーションが煌めき華やいでいる。来日したソルアは、早速シンスケに連絡。一緒に飲んだ後、二人はソルアの宿泊するホテルで親密な時間を過ごすが、そうそうことは上手く運ばない。




とうとう綾子が二人の関係に気づいてしまう。いや、これまでにも夫に女の影を感じてはいたが、綾子はそれに気づかぬふりをしていただけだった。




妻とのっぴきならない状況になっても、優柔不断なシンスケはソルアへの思いを断ち切れない。ソルアも彼のことを愛していたが、このまま何処へも辿り着くことのない恋愛に疲れてしまった。
意を決して、ソルアはシンスケに別れを告げた。

取材二日目。タツヤは、前回の取材場所の写真を全部撮り直して来た。その写真を見たシェリーンの表情が、パッと明るくなった。
この日も取材は順調に進み、一日の仕事を終えると三人はバーで飲んだ。タツヤはほとんど英語をしゃべれないが、それでもシェリーンとタツヤは熱心に言葉を交わした。
ナオミは恋人からの呼び出しで、先に帰ってしまう。残された二人は場所を変えて飲んでから、ミナミの街を散歩した。「あなたの夢は?」と問われて、タツヤは「人が好きなんだ。だから、アジア各国を回って人々の写真を撮りたい」と答えた。「じゃあ、私はタツヤが撮った写真を雑誌で紹介するわ」とシェリーンは微笑んだ。いつしか、二人は惹かれ合っていた。
シェリーンを宿泊先のホテルまで送ると、タツヤは帰って行った。部屋で一人になると、シェリーンはタツヤが撮った写真を見返した。



シェリーンを送った後、駅までやって来たタツヤはすでに終電が終わっていることを知る。行き場所に困ったタツヤがミナミの街中をふらついていると、青年たちにちょっかいを出されて困っている女性を見かけた。見かねてタツヤが中に割って入ると、青年たちは面倒臭そうに散らばって行った。ホッと息をついてから、ソルアはタツヤに礼を言った。
ソルアは、シンスケとの別れを決めた後で時間を持て余し、かといってホテルの部屋に一人いることも寂し過ぎて街へと出た。しかし、異国の街で会うべき人もなく、ただただ途方に暮れて公園で時間を潰していた。その時に、スケボーで遊んでいる青年たちにナンパされたのだった。

成り行き上、二人はまだ開いているバーで飲むことに。ソルアは歩いて行ける距離のホテルに宿を取っており、タツヤの乗るべき始発まではまだ随分と時間があった。男と別れて塞ぎ込んでいたこともあって、ソルアは結構な量のアルコールを飲んだ。
そのまま二人はカラオケボックスに場所を移す。ソルアは、しばらくはしゃいでから酔い潰れてしまう。そんな彼女を抱きかかえると、タツヤは何とか彼女を宿泊先のホテルまで連れて行った。そこは、偶然にもシェリーンの泊っているホテルだった。
どうにも寝つけずホテルの1階に下りて来たシェリーンは、酔っ払いのカップルが倒れ込むようにエレベーターに乗るところに出くわす。扉が閉まる刹那、男の方と目が合うがそれはタツヤだった。シェリーンは、動揺する。
何とかソルアをベッドに寝かしつけると、タツヤはソファで夜明かしした。そして、まだ彼女が眠っているうちに部屋を出た。シェリーンのことを気にしつつ。

ミナミの街にも新年がやって来る。シェリーンは、結局あのホテルの一件以来タツヤに会うことはなかった。一方のタツヤは、ひょんなことから知り合ったソルアのミナミ見物の案内をしてやった。
帰国するため、空港に向かう電車へと乗り込むシェリーンをナオミが見送った。タツヤがホームに駆けつけたのは、ちょうど電車が発車した直後だった。
その車内、偶然にも互いが前後のシートに座っていることをシェリーンもソルアも気づかない。




香港に戻ったシェリーンは、早速ミナミの特集号の編集に取りかかった。編集長の意向もあり付録つきの号となったが、雑誌の評判は上々で部数も伸びた。

数年後。タツヤ初めての個展が、ミナミの小さな画廊で開かれていた。幾人かのお客に交じって、ソルアが彼の写真を見ている。その横で、彼女に説明するタツヤ。
ソルアと入れ違いで、もう一人の女性が入って来る。シェリーンだった。二人にとっては、随分と久しぶりの再会だった…。

--------------------------------------------------------------------

国際色豊かなスタッフとキャストで制作したシンプルな恋愛映画。本作を一言で表現するなら、そういうことになるだろう。
確かに、リム・カーワイという異邦人或いは文化的他者(ただし、彼は1998年に大阪大学基礎工学部電気工学科を卒業している。)の目を通して描かれた大阪ミナミは、まるでヨーロッパのようなシックさといささかのエキゾティシズムに溢れた街としてスクリーンに映し出される。そのあまりにソフィスティケートされた雰囲気からは、大阪本来の猥雑さは感じられない。道頓堀川沿いに輝くグリコネオンまでもが、お洒落なアドバタイズメントに見えるのである。
それは、なかなかに不思議な感覚だ。

映像的にはそれなりに魅力的な作品だと思うのだが、それに比してあまりにも脚本が浅薄で拙い。それが、本作の抱える深刻な問題である。

たとえば、香港のシェリーン。彼女は、編集者としての理想とビジネスとしての現実の狭間でモチベーションを落とし同僚のカメラマンに弱音を漏らすのだが、そのあまりの蒼さにはどうにも鼻白む。
こういう悩みは、別にクリエイティヴな職業だけに限らずどんな仕事でも不可避的な問題である。仕事に追い詰められて疲弊し、ネガティヴになっているヒロインを表現するエピソードとしては、ちょっとないよな…と思ってしまう。そんな悩みは、僕らのささやかな人生の中に、それこそ嫌というほど転がっているのだ。

あるいは、タツヤが撮った写真。最初の撮影でシェリーンにプロとしてダメ出しされたタツヤが、一念発起して自主的に撮り直したものがいきなり飛躍的なクオリティに仕上がってしまうというのも、あまりにイージーだろう。

それから、ソルアとシンスケの不倫にしても、いい大人の男女がやる恋愛とは思い難い。恋は盲目というけれど、客観的に見たらソルアが都合のいい女扱いされているだけである。
そもそも、彼女がシンスケを深く愛し彼とのリスキーな関係に固執することの切実さが感じられないから、どうにも感情移入できないのだ。

また、男たちから強引にちょっかいを出されてタツヤに助けられた後、見ず知らずのタツヤについて行って飲んだりカラオケしたり…というのも、どうなんだろう。シンスケと別れて孤独に苛まれているのは分かるが、展開としてはせめてワン・クッション置くべきではなかったか。何とも、不自然に感じる。

物語後半、ことあるごとにシェリーンとソルアがニアミス的にすれ違うのだが、どうにも物語としての必然性とドラマ的立体感に欠ける。まさに、“取ってつけたよう”なのだ。

繰り返しになるが、どうにもストーリーテリングの甘さが目につくから、役者陣がそれなりに健闘していても、人物としての魅力にまで昇華しないもどかしさがある。
個人的には、ペク・ソルアはなかなか魅力的だと思うのだが…。

本作は、国際色の豊かさがいささか空回り気味の作品。
いくら映像というケースが綺麗でも、物語という中味が弱ければ映画の魅力は半減してしまうのである。

余談ではあるが、ソルアとシンスケがホテルのベッドを共にするシーンでは、もう少しセクシャリティを演出すべきだと思う。
それと、公式HPとフライヤーのストーリー紹介でシェリーンを「美人編集者」って書くのもどうかと思う。タブロイド紙や男性週刊誌のチープな見出しじゃないんだから…。

My Favorite Reissured CD Award 2013

$
0
0

今年もやって来た再発CDアワード…ということで、去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

再発の状況そのものは、国内外を問わず2012年とあまり変化のないパッケージが多かったように思う。ただ、国内においては廉価によるリマスター再発が加速したのと、BOX物再発に関してはその規模が年々デラックス化の一途をたどっている感が否めず、正直ここまで重箱の隅をほじくり返すアウトテイクの収録は却って聴く側にとっては煩わしいのでは…という気もする。研究者にとっては、いいのだろうが。
まあ、その意味では最近デラックス・エディションと二枚組通常エディションを同時再発するケースも増えてはいるが。

次に、目を引いた再発シリーズについて言及すると…。

ソニーのBlue-spec CD2シリーズ、リマスターで帰って来た名企画のワーナー新・シリーズ名盤探検隊2013、同CBGB40周年記念ニューヨーク・パンク紙ジャケット・シリーズ、同 ブリティッシュ・ビート50周年紙ジャケット・コレクション、クリンクのMALACO SOUL MASTERPIECE紙ジャケット・コレクション、ユニバーサルのUniversal Fusion Breeze SHM-CDコレクション、同 ユニバーサル・ジャズ&ボサノバ名盤ベスト&モア、同 MASTERS OF POP BEST COLLECTION 1000、同 MOTOWN R&B BEST COLLECTION 1000、同 CHESS BEST COLLECTION 1000シリーズ、Think!のthree blind mice紙ジャケ/Blue-spec CD復刻シリーズ、同 PEROLAS BRASILEIRASシリーズ、ウルトラ・ヴァイヴのアーバン・フォークの源流シリーズ、同Tabu Records Original Collection(Tabuについては、アメリカでもシリーズ再発がスタート)、同 BRUNSWICK FAVORITE COLLECTION、コロムビアのDig Deep Columbia 70年代日本のロック名盤編、キングのベルウッド・レーベル創立40周年再発企画シリーズ。

去年から続くものとしては、ワーナーのアトランティックR&Bベスト・コレクション1000シリーズ2013とJAZZ BESTコレクション1000シリーズ、レーベルをまたいでの昭和ジャズ復刻シリーズやDig Deep ColumbiaとDEEP JAZZ REALITYのコラボ、ウルトラ・ヴァイヴのサルソウル・レコーズ・オリジナル・アルバムズ・ベスト・セレクションズとホット・ワックス/インヴィクタス・グレイテスト・コレクション、ユニバーサル・ミュージックのモータウンモータウン名盤紙ジャケ/SHM-CDシリーズ、クリンクのTK’s Mellow Treasures紙ジャケット・シリーズ。

その一方で、海外の老舗レーベル、RHINOやHip-O Select、SUNDAZEDは随分と大人しくなってしまった。
マニアから熱烈な支持を受けたRHINO HANDMADEもここ数年は、ワーナー・ミュージク・ジャパンの通販サイトで容易に購入可能となっていたが、いよいよWounded Bird Recordsより廉価再発が始まった。当時RHINOから通販購入した向きには痛し痒しだが、まあ名盤が安価で流通するようになったことは素直に喜ぶべきだろう。
タワーレコード限定再発は2013年も好調だったが、ようやくMIDIレコードが重い腰を上げてリマスター再発を始めたことはファンにとって朗報だろう。


では、2013年の再発でとりわけ印象深かったものを順不同で挙げておく。


○ MARIANNE FATHFULL / BROKEN ENGLSH


ようやくちゃんとした音質で再発された1979年リリースのアイランド・レーベル移籍第一弾。
当然のことながら、妖精と言われたデラム時代の面影は片鱗すら残っていないが、生死の境を乗り越えて発表した情念の傑作である。彼女の凄味をじっくりと味わいたい。

○ DUANE ALLMAN / SKYDOG

交通事故のため24歳で急逝した天才ギタリストの集大成的7枚組BOXセット。タイトルの「スカイドッグ」は、彼の愛称。
オールマン・ジョイスやアワー・グラスといった初期から、アトランティックに吹き込まれたソウル・ミュージシャンとのレコーディング・セッション、オールマン・ブラザーズ・バンドやデレク&ザ・ドミノス、後期までを余すところなく収録したレトロスペクティヴの名に恥じぬ力作である。
ファースト・プレスは瞬く間に完売したことからも、彼の根強い人気がうかがえる。

○ MILTON NASCIMENTO / COLECAO

近年のブラジルBOX物は凄いことになっている。エリス・レジーナ、ジョルジ・ベン、マルコス・ヴァーリ、ティン・マイア、ジンボ・トリオ…等々。
そして、ついにここまで来たかと感慨を新たにする20組の途轍もないBOXがこれだ。「ブラジルの声」とまで称されたミルトン・ナシメントのレーベル横断1968年から1986年までのキャリアを網羅するコレクターズ・アイテムだが、そのコンセプトは800ページ超のブックレットがメインでリマスターCDはあくまで付属品に位置付けられているところも凄い。正真正銘の決定版である。

○ VAN MORRISON / MOONDANCE

孤高のシンガーという形容がこれほどピッタリくるミュージシャンもいないのではないか。彼は、1964年のゼムでの活動から現在に至るまで、紆余曲折はあるものの一貫して優れた創作活動を続けている。一時は、ミュージック・ビジネスに嫌気がさして引退宣言をしたこともあったが、およそ駄作のない人である。
名作・傑作数知れずだが、ヴァン・モリソンでどれか一枚…と言われたら、やはり僕は迷わず本作を挙げる。とにかく、全曲がパーフェクト。今回の再発は、blu-ray Audio付き5枚組と2枚組の通常盤がリリースされている。
余談ではあるが、「ムーンダンス」にはジョージィ・フェイムが『クール・キャット・ブルース』(1991)の中でカバーしたヴァージョンがあり、そこではヴァンとのデュエットを聴かせる。この盤も傑作なので、リマスター再発が待たれるところである。

○ JESS RODEN / HIDDEN MASTERS


ヴァン・モリソン同様、イギリスを代表するブルー・アイド・ソウル・シンガーである。この人も散発的にCD化はされていたが、ここにきてようやくちゃんとした音質で再発されるようになった。その決定版が、この6枚組アンソロジーBOX。
アラン・ボウン・セット、ブランコ、バッツ・バンドといったバンド時代の音源からソロ、未発表音源までファン垂涎の内容となっている。ただ、このBOXは日本の独自企画というのがいささか寂しい。
なお、彼のソロ名盤『ファースト・ステップ』『愛の狩人』『ストーン・チェイサー』の初期3枚も、紙ジャケで日本のみすでにリリース済みである。

○ CAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BAND / TROUT MASK REPLICA

去年の『バッド・チェイン・プラー』正規盤に続いて、ようやく彼の代表作がリマスター再発された。これで、ビーフハート関係のリマスターはすべて出揃ったと言っていいだろう。
フランク・ザッパがプロデュースした本作は、ビーフハート3枚目のアルバムとしてザッパの立ち上げたストレイト・レーベルから1969年リリースされた。
ザッパもこの人もアヴァンギャルドの極北のようなミュージシャンとして捉えられていた時期が長いが、今聴くとブルースを基調としたオリジナリティ溢れる音楽を構築していたことがよく分かる。必聴盤である。

○ HUEY LEWIS & THE NEWS / SPORTS

1980年代のアメリカン・ロックをいい意味で体現していたバンド、それがヒューイ・ルイス&ザ・ニュースである。その彼らの代表作が、30周年記念盤として2枚組で再発された。1枚目にはアルバム全曲のリマスターが、2枚目にはそのライヴ・ヴァージョンが収録されている。
このバンドは、何と言ってもライヴが真骨頂だったから、まさに理想的な拡張盤である。良質な楽曲が揃い、それをライヴで叩き上げたドライヴ感で聴かせる一枚。悪いはずがない。

○ 大空はるみ / はるみのムーンライトセレナーデ

これは、タワーレコード限定再発の一枚。個人的には、まさしく待望であった。彼女は、かの三保敬太郎率いるホワイト・ボックス出身で、その後は高中正義や松岡直也のアルバムへの参加やTan Tan名義でソロ・アルバムをリリースしていた。
その彼女が、大空はるみとして再デビューしたのが1982年のこのアルバムである。加藤和彦がプロデュースした本作は、シンセサイザーを使いつつもノスタルジックなアレンジを施してあり、音の感触としてはドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドに通ずる洒脱な楽曲が揃っている。彼女のハスキーなボーカスも抜群の冴えを見せる。

○ RIP RIG + PANIC / GOD

ポップ・グループから派生したバンドの中で、唯一正規のCD化が遅れていたのが彼ら。権利関係の問題からか、一度アナウンスされた再発も中止になった経緯がある。それがようやく、オリジナル・マスターからの再発。しかも、シングル曲が追加された文句なしのリイシューである。
日本において彼らの音を認知させたのは、言うまでもなく桑原茂一の『スネークマン・ショー』であるが、パンクを通過した後の尖鋭的なダンス・ミュージックは今こそ再評価されて然るべきだろう。

○ 高中正義 / SUPER TAKANAKA LIVE!

1979年12月23、24日に日本武道館で行われた井上陽水とのジョイント・ライヴ「クリスマス・スーパー・ライブ」の模様を収めた名盤で、当時キティ・レコードから発売されたアルバムは今回すべて再発された。
これはUniversal Fusion Breeze SHM-CDコレクションの一枚だが、こういう作品こそコンプリート・エディションでの再発を望みたいものである。

○ HONEY LTD. / THE COMPLETE LHI RECORDINGS

ソフトロック・ファンにとって、これはもう本当に待ちに待った一枚だろう。1967年にママ・キャッツとして活動を始めた女性4人組は、翌年リー・ヘイゼルウッドのLHIレーベルから名前を変えてデビュー。しかし、メンバー脱退を期にアルバム一枚のみで消えてしまった。
本作は、彼女たちの音源をすべて収録した決定版である。バッキング・メンバーはレッキング・クルーの面々が固めているのだから、いいに決まっている。60年代ガールズ・グループ・ファンの心鷲掴みだろう。

○ JIGSAW / COMPLETE SINGLE COLLECTION

これも、日本オンリーの企画。リリースがアナウンスされては発売中止を繰り返し、ようやくのリリースとなった。イギリスでの発売順にシングルのAB面をすべて収録した3枚組は、まさしくコンプリートな内容である。
ジグソーといえば条件反射的に「スカイ・ハイ」を連想する人がほとんどだろうが、英国屈指の洒脱なメロディーとハーモニーを存分に堪能して頂きたいものである。

○ かしぶち哲郎 / リラのホテル

MIDIレコードからようやく再発されたリマスター盤。本作の他には、彼の『彼女の時』や大貫妙子

『コパン』『スライス・オブ・ライフ』、坂本龍一『戦場のメリークリスマス』『CODA』も発売された。
ムーンライダーズでドラムを叩いていた彼が1983年に発表したファースト・ソロ・アルバムで、共同プロデュースは矢野顕子。アルバム内では、矢野のボーカルも聴くことができる。
洗練されたテクノポップ・テイストなアレンジが施されたヨーロピアン・エレガントを感じさせるシックな曲の数々は、まさに珠玉という言葉が相応しい。
去年の12月17日に食道癌のため亡くなってしまったことが、本当に惜しまれる。

○ 山下達郎 / MELODIES

1983年に、それまで在籍していたRCA/AIRから設立したばかりのムーン・レコードに移籍しての第一弾。ボーナス・トラック5曲を含む30周年記念リマスター盤である。
数ある山下の名盤の中でも、その完成度は一二を争う素晴らしさ。かの有名曲「クリスマス・イブ」や「高気圧ガール」(曲の途中で聞かれる溜息は、愛妻・竹内まりやのもの)を収録しているが、他の曲も隠れた名曲揃いである。
当時の彼は、「夏だ!海だ!達郎だ!」と季節商品のように聴かれており、そのパブリック・イメージを覆すために本作を作ったと回想している。隙のない内容は、完全主義者・山下達郎の面目躍如だろう。

○ ザ・フォーククルセダーズ / 紀元貳阡年

日本のポピュラー・ミュージック史に突如として現れた彼らは、一年間という期限付きの活動の中でまさに歴史を変えてしまったグループである。
自主製作レコードの先駆けともいえる『ハレンチ』に収録された「帰って来たヨッパライ」のエピソードをここであらためて紹介する必要もないだろう。
その『ハレンチ』、メジャー発売の『紀元貳阡年』、当時は発売禁止となった名曲「イムジン河」にレア映像を収めたDVDの決定的4枚組。
あんぐら、インディーズ、諧謔、洒脱、尖鋭のすべてが凝縮された蒼き才能が輝きを失うことは永遠にないだろう。

はてさて、2014年はどんな驚きの再発が待っているだろうか…。

小林政広『完全なる飼育 女理髪師の恋(La Coiffeuse)』

$
0
0

2004年12月28日公開、小林政広監督『完全なる飼育 女理髪師の恋(La Coiffeuse)』




企画・エグゼクティブプロデューサーは中沢敏明、プロデューサーは小林政広・金子尚樹・波多野ゆかり、脚本は小林政広、原案は松田美智子「完全なる飼育」より、音楽は佐久間順平、撮影監督は高間賢治、助監督は丹野雅仁、美術は飯塚優子、美術監修は山口修、照明は上保正道、編集は蛭田智子、録音は瀬谷満、音響効果は福島行朗、制作主任は川瀬準也、制作進行は橋場綾子・安孫子政人、衣裳は池田しょう子、ヘアメイクは白石義人、監督助手は瀬戸慎吾・西村信次郎、撮影助手は新家子美穂・池田直矢、照明助手は渋谷亮・松村志郎、録音助手は永口靖、整音助手は高坂隆、光学録音は利澤彰、編集助手は李英美、ネガ編集は松村由紀、スチールは石川登栂子、題字は岡村直子、タイトルは道川昭、タイミングは永沢幸治、録音スタジオは福島音響・アオイスタジオ、現像は東映ラボ・テック、テーマ曲・挿入曲はりりィ(唄)・斉藤洋士(演奏)「きみへの標(アメージンググレース)」(詞:りりィ、曲・トラディショナル)、「私は泣いています」(詞・曲:りりィ)、「時の過ぎ行くままに」(詞・阿久悠、曲・大野克夫)。
製作・配給はセディックインターナショナル、制作はモンキータウンプロダクション、制作協力はフロムファーストプロダクション・フィルムクラフト。
2003年/35mm/103分/カラー/アメリカンビスタ


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

冬の北海道白老町にやって来た男、ケンジ(北村一輝)。列車を下りたケンジは、その足で美髪という理髪店を確認すると中古車専門店に向かった。ケンジはどうしても今すぐに車が必要だと言って、渋る店員(林泰文)から整備の済んでいない事故車を五万円の即金で買った。
ケンジが次に向かったのは、廃墟のようになった売家。この家も即金で買い取ったケンジは、自分の手でリフォホームを始める。



今井治美(荻野目慶子)は、白老町で理髪店・美髪を始めて二年になる。夫の育夫(竹中直人)は仕事もせず、毎日パチンコに出かけては二万円負けて来る。田舎町の理髪店では儲けもたかが知れており、家計はいつも火の車だ。それでも、治美は夫のことをたしなめもしなければ、仕事をしろとはっぱをかけるでもない。
今日もパチンコで負けた育夫が愚痴り始めると、「葬式があってお客が沢山来たから、今夜は外食しましょう」と言って治美は夫を焼き肉に誘った。
夜、買い物帰りのケンジは治美と育夫が仲睦まじく歩いているところを見て、唖然とする。



翌日、ケンジは客として美髪を訪れる。坊主にしてくれと治美に注文すると、ケンジは椅子に座った。バリカンで刈られながら、ケンジは「外食は体に良くない」とか「亭主は仕事してないのか」と言った。怪訝な顔で治美が聞いていると、そこに電話がかかって来る。
ケンジに断って治美が電話に出ていると、散髪が途中にもかかわらずケンジは椅子に代金を置いて店を出て行ってしまう。



またしてもパチンコで負けている育夫に、店主の井田(佐藤二朗)がいい加減やめろと声をかける。不貞腐れる育夫に、ルーマニア・パブに行こうと誘う井田。
帰りの遅い夫を気にして治美は店から出て来るが、背後から近づいて来たケンジは彼女にクロロフォルムを嗅がせた。失神した治美を引きずって自分の車に乗せると、ケンジはリフォームした家に連れ去る。



意識を取り戻した治美は、手足を縛られ口をテープで塞がれた状態で布団に寝かされていた。傍らには、客として美髪にやって来た若い男が座っていた。
大声を出さないという約束でケンジは治美の口を塞いでいたテープを剥がしたが、当然のこと治美は帰してくれと叫び始めた。「ワインやケーキも用意したのに、あなたが台無しにした」と言って、ケンジは顔をくしゃくしゃにした。
怒りも露わに、ケンジは再び治美の口をテープで塞いだ。治美は、この男が何者で何が目的なのかまったく分からない。



翌朝、尿意を我慢できなくなった治美はケンジを起こした。ケンジに縄を解かせると、彼女はトイレに駆け込んだ。トイレから出て来た治美に近づくケンジ。家に帰してくれと治美が頼むと、ケンジは包丁を出した。
身構える治美に、ケンジはこの家から出て行くのなら自分を殺してから出て行ってくれと言って包丁を差し出した。包丁を構える治美を物ともせず、ケンジはにじり寄った。後ずさりする治美に、「刺すだけじゃ人は死なない。えぐらないと」とケンジは言った。
治美は裸足のまま雪の積もった庭に飛びだしたが、すぐケンジに捕まってしまう。ケンジは、治美を抱え上げると家の中に戻った。



家に戻った治美は、「私を抱いて」と言って服をかなぐり捨てた。そのまま、二人は抱き合った。
ケンジは、自分のことを語り出した。以前、彼は治美に髪を切ってもらったことがあったのだという。治美が白老町に越す前のことだ。




当時、ケンジは郵便局の外務員をしていた。彼の配達区域に、治美が勤めていた理髪店があった。一目惚れだった。ケンジは少しでも治美に近づきたい一心で、ポストがあるにもかかわらずわざわざ彼女に郵便物を手渡しした。話を聞くうちに、治美のそのおかしな配達員のことを思い出した。
「そんなに好きだったのなら、言ってくれればよかったのに」と治美が言うと、ケンジは苦々しく言った。「告白しようと思いました。でも、店に行ったらあなたはいなかった。その翌日も。お店の人に聞いたら、あなたは辞めたと…」。
「あの人に好きだと言われて、抱きしめられたから。そんなことは、初めてだったから」「あいつがすべて奪ってしまったんです」。
ケンジにしてみたら、治美を連れ去ったのではなく育夫から奪い返しただけなのだった。



その話を聞いてからというもの、ケンジと治美の間には絆のようなものが生まれた。しかし、駄目な男ではあっても育夫は二年間連れ添った夫だ。そう簡単に忘れることなどできない。そんな自分の思いが怖くて、治美は自分が逃げ出さないように縛ってくれとケンジに頼むが、もはやケンジにはそんなことできようはずもなかった。

二人は、まるで夫婦のように寄り添うようになる。ある時、ケンジが町まで買い出しに行こうとすると、治美は自分も連れて行って欲しいと言った。助手席に乗り込んだ治美は、「初めてのデートね」と微笑んだ。




しかし、二人はスーパーでバッタリ井田に会ってしまう。「奥さん!」と叫ぶ井田を振り切って、二人は車に乗り込んだ。




井田は、美髪に顔を出す。店には「休業します」と貼り紙が出されている。不機嫌そうに育夫が出て来た。一体妻は何処に消えてしまったのか、育夫には見当もつかない。井田は、治美が若い男と一緒だったとニヤつきながら言った。



スーパーでの一件で、二人はこの町での暮らしも潮時だと感じるようになる。特に、治美はその思いが強く、何処かへ移って二人でひっそり暮らそうと提案した。もちろん、ケンジには何の異存もない。二人は、新しい生活を夢想するようになる。



治美は、一人で出かけようとするケンジに声をかけた。ケンジは、煙草を買いに行くだけだからと言った。戻って来るまでに洗濯をしておいてくれと言って、ケンジは車に乗った。
車を見送ってから、治美は洗濯を始める。
ケンジが向かった先は、美髪だった。店のドアを開けて中に入ると、ジロッとこちらを睨んで来た育夫に向かって「久しぶりだな」とケンジは言った。
二年前、治美を連れ去ったこの男はケンジの年の離れた兄だった。「お前がグズグズしてるから、奪ってやったまでだ」と育夫は吐き捨てた。育夫は、忌々しそうにケンジの体を突き飛ばした。
「お前のお袋はどうしてる?」「半年前に死んだよ」「じゃあ、あの親父だけがのうのうと生き延びてる訳だな」。
ケンジは、治美と一緒になると一方的に宣言すると店を出た。



ケンジは、治美の待つ家に向けて車のハンドルを握っている。後方から、トラックがケンジの車を強引に抜き去って行った。治美との新生活、悪くない。二人の未来を想像すると、ケンジは自然と笑みがこぼれた。
前方でトラックが停まっていることに気づいてケンジはブレーキをかけるが、車のスピードはまったく落ちない。ケンジの脳裏に、中古車屋の言葉が蘇った。「事故車なんですよ。まだ整備してないし、ブレーキ・パッドも取り換えなきゃいけない…」。
どんどん近付いて来るトラックを避けようと、ケンジは必死にハンドルを切った。



横転したケンジの車を、トラックから降りて来た運転手(中澤寛)が覗き込んでいる。

店の窓から外を見ている育夫。今日の美髪は客で溢れている。淡々とお客の髪を切っていた治美は、突然電池が切れたように床に崩れ落ちた…。



--------------------------------------------------------------------

1965年11月に豊島区で起きた所謂女子高生籠の鳥事件は、本田達男監督『女高生飼育』(1975)や渡辺護監督『女子学生を縛る』(1981)など、成人映画では何度も題材にされている。犯罪心理学で「ストックホルム症候群」と定義付けられたのは、この事件から8年後にストックホルムで銀行強盗人質立てこもり事件が起きてからである。
この事件を題材に松田美智子が書いた『少女はなぜ逃げなかったのか 女子高校生誘拐飼育事件』(1994)をモチーフにしたのが、「完全なる飼育」シリーズである。



先ず僕が思ったのは、小林政広で「完全なる飼育」かぁ…ということだった。「完全なる飼育」シリーズといえば、監禁された女子高生と犯人との間に芽生える歪んだ愛情というのが定番で、それは小林政広という作家の資質とは相容れないように感じたからだ。
小林政広はピンク映画の脚本を何本も書いているが、彼の書く物語はことごとくピンク映画的エロティシズムから逸脱しており、そこにこそ小林の個性とオリジナリティがあるという不思議な作風であった。
まあ、僕はそんな小林脚本のピンク映画が大好きなのだが。

…で、本作を観て思ったのは、「完全なる飼育」を撮ってもやっぱり小林政広は小林政広だったということである。それに尽きる。
そもそも、ヒロインは女子高生どころか当時38歳だった荻野目慶子だし、彼女を拉致するのが5歳年下北村一輝である。事実、劇中で井田が育夫に「若い男と一緒だったぞ」という科白があるくらいだ。
ケンジによって治美が監禁されるという設定はギリギリ「完全なる飼育」のコンセプトに当てはまるかも知れないが、監禁から一晩明けたところですぐに男と女の立場は逆転してしまう。
本作で提示されるのは、孤独にまみれた女の渇きと自分の存在に気づいてさえもらえなかった内気な男の情念、その“一瞬の交錯”の物語である。
言ってみれば、「完全なる飼育」シリーズで期待される展開をことごとく外した異色作なのである。

荻野目慶子演じる治美からほとばしる想いの方が、ケンジよりよほど強靭にさえ思える。にもかかわらず、ケンジと治美が体を重ねるシーンはデカダンスな雰囲気こそ漂うものの、およそ官能とは程遠い。その辺りの淡白さも含めて、小林政広らしいなぁ…と僕は思うのだ。
この作品では、濡れ場は描かれてもそこからは過剰なエロティシズムがすっぽり抜け落ちているのだから。

列車に乗ってケンジが白老町にやって来るところから治美を監禁するまで、そこには余分な説明が一切排され、その一方で物語的な伏線は実に緻密に張り巡らされている。それは、ケンジが手にするハンカチであったり中古車屋でのやり取りであったり。
また、小林作品といえば北海道はロケ地の定番だが、この作品でも登場人物たちの心象風景とシンクロするように白老町の寒々しい景色が広がっている。
映像演出的には、長回しやロングショット、360度パンといった小林らしい技巧が施されているが、中でも治美が拉致されるシーンでケンジに引きずられるヒールのアップは強烈な印象を残す。

他の小林作品同様、本作も情緒的過剰さに陥ることなく、物語の説明的な部分はトイックに削ぎ落とされ、登場人物たちの表情と映像に多くを語らせる手法が取られている。それこそが、この作品の映画的成果と言っていいだろう。
後半の展開も、ケンジと育夫のやり取りにひとつのドラマ的ピークがあるものの、それとて水面下で激しく散らされる火花だ。
育夫の言葉から、この兄弟は異母兄弟であり、ろくでなしの父親から人生を呪縛されていることがほのめかされるだけである。

結局、誰一人救われることも解放されることもないまま、物語にはさっと幕が下ろされてしまう。
いや、ある意味ケンジだけが呪縛から解き放たれたのかも知れないが。


本作は、「完全なる飼育」シリーズとしては掟破りに異端な作品。
しかし、小林政広という映画監督の強靭な作家性は十分に感じ取れる逸品である。りりィの歌共々、じっくり味わって欲しい。

小林政広『ワカラナイ』

$
0
0
2009年11月14日公開、小林政広監督『ワカラナイ』




プロデューサーは小林政広、製作は小林直子、ラインプロデューサーは川瀬準也、脚本は小林政広、撮影監督は伊藤潔、照明は藤井勇、録音は福岡博美、編集は金子尚樹、サウンドデザインは横山達夫、助監督は志茂田達史、制作主任は本多菊雄、制作進行は小林克己、監督助手は橋本綾子・鈴木亮介、撮影助手は竹島千晴、編集助手は目見田健、制作応援は八木沢洋美・許樹人、ネガ編は小田島悦子・下園淳美、タイミングは安斉公一・小荷田康利、タイトルは道川昭、フィルムは報映産業(FUJI FILM)、音響スタジオはUP・LINK、リレコはヨコシネD.I.A.、現像は東映ラボ・テック、カメラ機材はnac、照明機材は日本照明、テーマ曲は「Boy」(詞・曲・歌:いとうたかおby courtesy of MIDI INC.。
製作はモンキータウンプロダクション、配給はティ・ジョイ、宣伝はアップリンク。
宣伝コピーは「じゃあ、僕はどっちにすればよかったんですか?」
2009年/日本/104分/ユーロスタンダード/35mm/DolbySR/


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

川井亮(小林優斗)は、地元・唐桑のローソンでバイトする16歳の高校生。サッカー少年の彼は、両親が離婚して母の伸子(渡辺真起子)と二人暮らしをしていたが、その母が重い病に罹り入院。
働けなくなった母に代わり、亮はバイトでギリギリの生活を続けるが、伸子の入院も長引き今では電気も水道もガスも止められていた。背に腹は代えられず、亮はレジ打ちをごまかしてコンビニからカップ麺とサンドイッチをちょろまかしては、公園の水道でペットボトルに入れた水と一緒に食べ物を掻き込んだ。



そんな亮が安らげる秘密の場所は、浜辺に捨て置かれた小舟。舟に横たわり、父親の住む東京のポケットマップと幼き日の自分と父の写真を見ることが、彼に唯一許された現実逃避の術だった。



しかし、そんな生活が続くはずもなく、不正が店長(田中隆三)にバレてしまい亮はバイトをクビになってしまう。バイト仲間の木澤(柄本時生)がチクッたものと思い込み、亮は木澤を突き飛ばした。
伸子の見舞いに病院を訪れる亮。日に日に衰えて行く母は、搾り出すように今日も病床から別れた夫の恨みつらみを吐き出した。居たたまれなくなった亮は、病院の踊り場で膝を抱えて落涙するしかない。



亮の元に電報が届く。母が亡くなった。呆然とする亮は、病院の職員(清田正浩)から二か月分の未払いを請求される。彼は、バイトをクビになった時渡された最後のバイト代を職員に差し出し、金はこれしかないから少し返して欲しいと言った。
生活保護の申請を市役所に出しても、いまだ支給は決定されていない。職員は、顔をしかめて金を返すと、近日中に必ず払ってもらうと言った。
次に顔を出したのは病院が手配した葬儀社の営業社員(小沢征悦)で、彼もまた最低ランクの葬儀の話を一方的にした。



入院代が40万に葬儀費用が20万。とても亮に払える額ではなかった。困り果てた亮は木澤に相談するが、もちろん友人にだって貸せる額ではない。じゃあ、盗みをやるしかないから協力してくれと亮は頼んだ。
計画決行の夜。木澤を連れて亮がやって来たのは、母親が安置されている病室。顔に布をかけられた伸子の姿を見た木澤は、その場から逃げ出してしまう。
仕方なく、亮は一人で伸子を担ぐと何とかあの小舟のところまで運んだ。そして、しばらく母に添い寝した後、亮は舟ごと伸子の遺体を海に流した。



一度家に戻った亮は、東京の地図と思い出の写真をポケットに入れて東京に向かった。長距離バスを降りると、亮は地図を頼りに住宅街へ。ようやく「野口」という表札の家を見つけると、彼は家の前にある駐車場から家の様子をうかがった。



しばらくすると、父の再婚相手(横山めぐみ)と息子が出て来た。何処かに子供を送ったらしく、彼女は一人で戻って来る。その後も女性は何度か家から出て来たが、ずっと家の前にいる亮を不審に思った彼女は夫に電話連絡した。実は、亮の父親(小林政広)はリストラに遭い、今は職探しの日々を送っている。

妻に呼ばれて戻って来た亮の父親は、亮の前に立つと「誰だ、お前?黙ってると、警察に通報するぞ」と言った。亮は、持っていた父との写真を握り潰すと、父親に投げてその場から駆け出した。
地面に落ちた写真を拾い上げると、父親は広げて見た。


夜の東京を当てもなく彷徨う亮を、突然降り出した雨が打った。傘もささずにずぶ濡れで歩く亮。いつしか雨は上がったが、亮は巡回中の警察官二人に捕まってしまう。

拘留された亮は、警察官(ベンガル)の事情聴取を受ける。病院での一件を木澤は地元の警察に報告していた。
死体を持ち出すのは犯罪だと言われ、亮は「病院代とか葬式代とか払わなくても犯罪でしょ?じゃあ、僕はどっちにしたらよかったんですか?どっちにしたって犯罪じゃないか」。



警察官がちょっと席を外した隙に、亮は脱走。彼は、もう一度野口家の前にやって来る。家から出て来た父親は、道に立っている亮に気づく。しばし、見つめ合う父と子。
亮は、鼻をすすりながら父親の元に駆け寄ると、そのまま抱きついた。



唐桑に戻った亮は、東京のポケットマップと写真を入れた木箱を抱えて、坂道を歩いて行くのだった…。




--------------------------------------------------------------------

映画のエンディングに、「父と、アントワーヌ・ドワネルの思い出に」というテロップが出る。
2008年の1月に小林は父親を喪った。小林には、前妻との間に二人の息子がいる。父親の通夜には二人の息子も参列したのだが、三年ぶりに会った息子を見て、小林はほんの一瞬誰だか分からなかったのだという。
そのことが、本作を製作する大きなきっかけの一つになったそうである。
ちなみに、アントワーヌ・ドワネルは言うまでもなく小林が敬愛するフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』等に登場する人物の名前である。

本作は、『バッシング』『愛の予感』に続くドキュメンタリー手法を用いた作品である。三作に共通して言えるのは、弱者(マイノリティ)の側に立った苛烈なリアリズム映画であるということだろう。
とにかく、登場人物も科白も極端に抑えられた映画は、見ている者にまで104分間一切途切れぬ息苦しさを強いる。
万力で絞め上げるが如き人生の過酷、その中で必死に出口を探り、何とか自分に繋がる細い絆を手繰り寄せようともがく亮の姿は、とりわけ今の時代には共感する方も多いのではないか?
それは、決して幸福なことではないのだけれど。

映画にリアリティを付与するため、小林はあまり演技経験のない新人の小林優斗をキャスティングして、あえて科白も聞き取りづらくしている。
さらには、現場で彼を亮と同様の環境に追い込む形で撮影を勧めたそうである。役者を追い込むという手法は、『春との旅』で徳永えりにも用いられることとなる。
暗い映像、いつでも同じ赤いTシャツにジーンズ、伸びて行く髪、顔色の悪い表情に落ちくぼんだ目。スクリーンに映し出される小林優斗は、まさしく亮という人間とシンクロする。
そして、彼同様あるいはそれ以上の凄味を感じさせるのが、伸子役の渡辺真起子である。亮と伸子のシーンは、朽ち果てた家の中でカップ麺を掻き込みパンにかぶりつく亮のシーンに勝るとも劣らぬ“痛み”を観る者に与える。
また、亮の父親も失業中という設定には、小林の容赦なさを感じて唸ってしまう。

そんなタイトロープの如き映画の中にあって、僕が唯一の傷と考えるのが警察官とのやり取りのである。コンビニの店長、病院の職員、葬儀社の社員もそれぞれに悪意的な大人として(あるいは、社会的な非情として)描かれてはいるが、ベンガル演じる警察官についてだけは、悪意の発露に演出的なあざとさと過剰を感じてしまう。
とりわけ、警察官が自分の娘の誕生日パーティーに遅れるからと電話をかけに行く場面にそれは顕著だろう。
このシーンだけは、もう少し何とかならなかったのか…と思う。残念である。

この作品がいいのは、亮が一度は拒否された父親の元に戻って抱きつくことである。人はどんなに苛烈な状況でも、やはり人との繋がりなくしては生きていけない。
幼少期から思春期にかけての愛情や絆の有無は、その人のその後の人生において決定的な(そして、ある場合には致命的・悲劇的な)影響を及ぼす。
その意味でも、この映画は亮が絆の糸口を繰り寄せたところで終わるべきなのである。
否、終わらなければならないのである。それでこその映画である、と僕は考える。



本作は、冷徹かつ真摯に作品と向き合う小林政広らしい作品。
目を背けずに、画面と対峙すべき一本である。

吉田恵輔『麦子さんと』

$
0
0

2013年12月21日公開の吉田恵輔監督『麦子さんと』




エグゼクティブプロデューサーは小西啓介、プロデューサーは木村俊樹、アソシエイトプロデューサーは姫田伸也、ラインプロデューサーは向井達矢、脚本は吉田恵輔・仁志原了、撮影は志田貴之、美術は吉田昌悟、編集は太田義則、音響効果は佐藤祥子、音楽は遠藤浩二、挿入歌は松田聖子「赤いスイートピー」(ソニー・ミュージックダイレクト)、スタイリストは荒木里江、ヘアメイクは清水美穂、照明は佐藤浩太・岡田佳樹、録音は小宮元、助監督は佃謙介、キャスティングプロデューサーは星久美子、劇中アニメキャラクターデザイン・作画監督は八尋裕子、劇中アニメ演出・絵コンテは川崎逸朗、劇中アニメ制作はProduction I.G。
制作プロダクションはステアウェイ、製作はファントム・フィルム/ステアウェイ、配給はファントム・フィルム。
宣伝コピーは「ひとつだけ伝えたい。『大キライだったけど、お母さん、ありがとう。』」

こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

--------------------------------------------------------------------

小岩麦子(堀北真希)は、声優になることを夢見てアニメショップでバイトしている。今日も、麦子は同僚の女子(田代さやか)と仕事中に声優の真似ごとをしている。




両親が離婚した後、麦子と兄の憲男(松田龍平)は父親と暮らしていたが、その父が他界して今は兄妹二人暮らし。まだ幼かった麦子は、母親の顔さえ覚えていない。
そんなある日、麦子がバイトから帰るとアパートの前で憲男が中年女性(余貴美子)と揉み合いしていた。女性を追い返した後、麦子が誰と尋ねると「ババア。今更一緒に暮らそうだと」と憲男が言った。「ババアって?」「お袋だよ。お前、覚えてないのか?今まで俺の稼ぎで何とかやって来たんだ。今頃になって、一緒に暮らす気なんかねえよ」。



これで済んだと思っていた麦子のバイト先に、突然母親の赤池彩子が現れる。あなたと暮らす気などないという麦子に「麦ちゃん、一緒に暮らそうよ。私も職場が不景気で何かと苦しくてさ。一緒に暮らせば生活費も浮くし」「私たちを置いて出て行ったくせに、何を勝手なこと言ってるんですか」「でも、あたしも毎月15万の仕送りは厳しいし」「えっ!?仕送り??」。憲男は自分の稼ぎだと恩着せがましく言っていたが、実は彩子から金をもらっていたのだ。考えて見れば、パチンコ屋に勤める兄がそんなに給料をもらっているはずもなかった。
麦子について再びアパートを訪れた綾子。15万のことを持ち出された憲男は、渋々彩子との同居を了承した。



引っ越して来た彩子は、とにかくマイペースで何かと麦子を苛立たせた。憲男は、すべてを麦子に押し付けて我関せずのスタンスだ。そればかりか、恋人に同棲を迫られたと言って憲男は麦子を残しとっととアパートを出てしまう。
残された麦子は、いよいよストレスの溜まる彩子との二人暮らしをする羽目に。彩子は彩子で娘と少しでも分かり合おうと努力しているのだが、離れ離れになった時間はあまりにも長く、母娘の気持ちはなかなか寄り添うことができない。



彩子はラブホテルで清掃婦の仕事をしていたが、日に日に体調がすぐれなくなった。寝起きが酷く悪い彩子はもの大きな音の出る目覚まし時計をかけているが、それでも起きることができず麦子の方が驚いて飛び起きる始末だった。
麦子は声優を目指して専門学校に入学しようと思うが、入学金の高さに途方に暮れる。彩子に頼むのは論外だから憲男に相談したが、憲男は「どうせ、今回も長続きはしない」「いい加減、現実を見ろ」と言って金を貸してはくれなかった。そもそも、兄は兄で苦しい生活なのだ。



麦子が帰宅すると、彩子が勝手に声優の専門学校パンフを手に取っていた。応援するという彩子に腹を立てた麦子は揉み合いになり、「私、あなたのこと、母親と思ってないから!」と言って彩子を突き飛ばしてしまう。さらに麦子は、彩子の目覚まし時計を投げて壊してしまった。
壁に頭を打ちながら、彩子は「お母さんじゃないなら、お父さん?」と言って寂しそうに笑った。
麦子はとても嫌な気持ちになったが、自分の思いを彩子に伝える術がない。

その数日後、あっさり彩子は亡くなってしまう。彼女は、末期の肝臓癌に侵されていたのだ。実感もわかぬまま、憲男と麦子は母の葬儀を出した。
あれだけ憎まれ口を叩いていた憲男は、母に遺骨を前に号泣した。麦子は、彩子との最後の日々を思うと、胸が苦しかった。



彩子の四十九日。仕事で都合がつかないからと憲男に言われて、麦子は彩子の遺骨を抱えて彼女の故郷・山梨県都留市を訪れた。電車を降りると、麦子は駅長に「あれ、どっかで見たことある気がするなぁ…」と言われる。
駅を出て乗ったタクシーでは、運転手の井本まなぶ(温水洋一)から「彩子ちゃん!?」と驚かれる。井本の話では、彩子はこの町のアイドル的存在だったらしい。何かと後ろを見る井本は、警官と接触。鼻血を出した警官に、麦子は慌ててポケット・ティッシュを渡した。

旅館に着いた麦子を出迎える麻生春男(ガダルカナル・タカ)・夏枝(ふせえり)の経営者夫婦も麦子の顔を見るや目を丸くした。
その夜、噂を聞きつけた彩子ファンの町人たちが押し寄せて、旅館はおかしな同窓会状態となった。自分を捨てた母と町のアイドルというあまりのギャップに、麦子は戸惑った。
翌日、井本のタクシーで霊園管理事務所にやって来た麦子だったが、持参したはずの埋葬許可証がどうしても見つからない。憲男に電話して探してもらうが、どうやら家にもないらしい。
許可証がなければ母を埋葬することはできず、かといって滞在を伸ばそうにも旅館の宿泊費がない。「だったら、埋葬許可証が再発行されるまでうちに泊まったら」と管理事務所職員のミチル(麻生祐未)が言ってくれた。
麦子は、ミチルのアパートにしばらく泊めてもらうことになった。

埋葬許可証が届くまで何もやることのない麦子。時間を持て余す彼女に、ミチルは町を案内してやった。
麦子と彩子をだぶらせる井本は、麦子をボウリングに誘った。ミチルも井本も、彩子がどんな女の子だったのかを麦子に話した。麦子の戸惑いは、ますます大きくなって行った。

春男と夏枝には、金をせびっては遊びに行くだけのドラ息子・千蔵(岡山天音)がいる。町で偶然麦子に会った千蔵は、麦子を祭りに誘った。祭りのステージでは、地元の若者バンドが下手な演奏を聞かせていた。バンドがステージを降りると、司会の男性が麦子を見つけてステージに上がるよう声をかけて来た。
断るに断れぬ雰囲気に気圧されて麦子はステージに上がるが、今度はかつて彩子がこのステージで歌ったという「赤いスイートピー」まで歌う羽目になってしまう。
「最悪なんだけど…」と麦子は溜息をついた。



麦子は、独り者だと思っていたミチルが実は離婚しており、長い間子供に会っていないことを千蔵から聞かされる。ミチルの姿を彩子に重ねてしまう麦子は、自分の怒りを抑えることができなくなってしまう。
そんな事情など知る由もないミチルは、仕事帰りに呼び出された居酒屋へと向かう。店に着いてみると、麦子と井本がミチルのことを待っていた。麦子はすでに結構飲んでいるようだった。
酔っ払った麦子は、勢いに任せてミチルのことを責めた。「どうせ、子供はあなたになんか会いたいと思ってないはず」と言う麦子に、我慢できなくなって井本が言った。「いい加減、子供みたいなこと言うのやめろよ。ミチルさんは、彩子ちゃんじゃないんだぞ」。

図星を指された麦子は、店を出てしまう。今更ミチルのところにも戻れず、麦子は麻生の旅館まで歩いた。春男は、驚きながらも麦子を迎え入れた。
翌朝、またしても夏枝と千蔵が押し問答している。千蔵が夏枝を突き飛ばすと、麦子は反射的に千蔵を引っ叩いてしまう。麦子は、彩子を突き飛ばした自分の姿を千蔵の行為に重ねてしまったのだ。皆驚きの表情を浮かべたが、一番驚いていたのは麦子自身だった。

再発行された埋葬許可証が届き、ようやく彩子の納骨が済んだ。旅館から霊園管理事務所へと向かうタクシーの中で、井本は彩子の思い出をまた語った。
歌手を目指して彩子が東京に向かった日。偶然、井本は駅のホームで電車を待つ彩子と遭遇した。彩子は反対する両親との別れ覚悟で家を飛び出そうとしたが、両親は彼女のことを心配して沢山の荷物を持たせた。寝起きの悪い娘のことを思って、やたら音の大きな目覚まし時計まで押しつけた。麦子が壊してしまった、あの目覚まし時計。
「私、頑張らないとね…」と言って、彩子はうつむいた。井本は、とうとう自分の想いを打ち明けることができなかった。


麦子はミチルに礼を言うが、その表情は何ともぎこちない。彩子の墓前に手を合わせると、ミチルは言った。「この町を出た後、一度だけ彩子さんに会ったことがあるの。ちょうど、あなたを妊娠していた時。歌手にはなれなかったけど、今が一番幸せだって凄くいい表情してたわ」。
その言葉に、麦子は涙をこらえきれなくなる。「私、酷いこと言っちゃった。母親と思ってないって…」。肩を震わせる麦子のことをミチルは優しく抱きしめた。

管理事務所に戻って来た麦子。麦子は、駅まで歩きたいからと井本のタクシーを断った。
色々なことがあった彩子の生まれ故郷での一週間。麦子は、母の青春時代に触れて頑なだった心が解けて行くのが分かった。納骨が済んだことを電話で憲男に伝えると、憲男は彩子が麦子の夢のために使ってくれと通帳を残していたことを伝えた。

途中、一週間前に井本にはねられた警官とバッタリ会った。警官は、「もらったティッシュにこんなものが入っていた」と麦子に紙を渡した。それは、埋葬許可証だった。思わず、苦笑する麦子。

再び歩き始めた麦子は、「東京に戻ったら、しっかり生きて行かなきゃ…」とまっすぐ前を見つめた。



--------------------------------------------------------------------

一言で言えば、あまりにも絵空ごと的に“いいひと”たちオンパレードのストーリーである。ハート・ウォーミングを否定する気はさらさらないが、それにしてもこの甘さに流れる展開はどうだろう?
ラストに流れる「赤いスイートピー」が、いささかあざとくさえ感じられた。

心温まる話にどうにも感情移入できないのは、登場人物たちのうわべしか描かれないからである。
ラスト前で麦子を身ごもっていた頃が一番幸せな時間だったはずの彩子が、どうして子供たちを捨てたのかがまったく描かれないし、彼女が急死するまでの描かれ方もあまりに定型的で凡庸ではないか?
また、麦子の“自分を捨てた母親との葛藤”にしても、取ってつけたような浅さがある。

それ以上に浅薄なのが憲男で、この兄貴が一体何を考えて生きているのかが不明。彩子のことを否定しつつも15万の仕送りはしっかり受け取り、しかもそれを妹に隠して俺の稼ぎで何とかやっていると見栄を張る。中途半端に粋がる軽薄なお調子者にしか映らない。
母親の葬儀でいきなりエモーショナルに号泣するのも、感動を煽るようでノレない。

そもそも論として、兄妹だけのつつましやかな暮らしのはずが、麦子が何度も夢を中途半端に投げてしまう点も解せない。そういう甘えが許される経済環境が、物語から説得力を奪ってしまうのだ。

温水洋一のあまりに方にハマりすぎたキャスティングもどうかと思うし、そもそもタクシーが警官跳ね飛ばして不問と言うのもちょっとないよなと思う。
そんな中で、一番いいのは麻生祐未演じるミチルの造形だろう。

ただ、何だかんだ言ってもやはり本作は堀北真希のための映画…結局はそれに尽きるのだろう。
僕は、これまで彼女の演技をほとんど評価していなかった。人形のように可愛い面立ちの女性だが、表情に乏しく科白も単調でおおよそ表現力に欠けていたからだ。
ただ、監督が堀北真希を可愛く撮ろうと心血を注いでいるのは伝わって来るし、事実この作品の堀北真希は本当に可愛い。



で、この作品における映画的成果と言えるシーンはといえば、僕は迷わずミチルを前にして落涙する麦子の場面と答える。
この演技を見たことで、堀北真希は演者として一皮むけるかもしれない…と思った。それほど、この場面での堀北の演技は胸に迫るものがあったのだ。

物語的には、表層的な善意に溢れた物足りない作品である。
ただ、堀北真希の飛躍を予感させる映画故、彼女のファンなら必見だろう。

園子温『地獄でなぜ悪い』

$
0
0

2013年9月28日公開、園子温監督『地獄でなぜ悪い』



エグゼクティブプロデューサーは森山敦、プロデューサーは鈴木剛・松野拓行、アクション監督はカラサワイワオ、脚本は園子温、撮影は山本英夫、美術は稲垣尚夫、照明は小野晃、編集は伊藤潤一、録音は小宮元、音響効果は齊藤昌利、音楽は園子温・井内啓二・坂本秀一、主題歌は星野源「地獄でなぜ悪い」、スクリプターは貞木優子、残酷効果・特殊造形は石野大雅、装飾は山田好男、助監督は木ノ本豪、VFXプロデューサーは赤羽智史、制作担当は佐藤圭一朗。
製作は「地獄でなぜ悪い」製作委員会(キングレコード、ケー・エイチ・キャピタル、BizAsset、ティ・ジョイ、ガンジス)、配給はキングレコード、ティ・ジョイ。
宣伝コピーは「世界が笑った。」/2012年/130分


こんな物語である。

暴力団の武藤組は、対抗組織の住田組と激しい抗争を繰り広げている。武藤大三(國村隼)の自宅を住田組が急襲するが、武藤本人は浮気相手のところにしけ込んでいて不在。一人家にいた妻のしずえ(友近)が、ヤクザ達を包丁で血みどろの返り討ちにしてパクられてしまう。
自分の代わりにムショ入りしてしまった愛妻の元に足繁く武藤は面会に行くが、しずえの夢は愛娘ミツコをムービー・スターにすることだった。



しずえがヤクザ達を血祭りに上げた日。子役CMタレントをしているミツコ(原菜乃華)が帰宅すると、自宅の床が真っ赤に染まっていた。家の中では、血を流した池上純(堤真一)が荒い息をしていた。しばし二人はやり取りしたが、ミツコの言動に池上は惹かれてしまう。
息も絶え絶えに、血を流しながら歩く池上。すると、背後で高校生のはしゃぎ声が聞こえる。ふり向いてみると、そこにはファック・ボンバーズと名乗る映画好きの平田純(中山龍也)、佐々木鋭(中田晴大)、谷川(青木美香)、御木(小川光樹)が「スゲエ、スゲエ!」と8ミリ・カメラを回していた。
池上は、呆れつつもカメラ目線で歩いて行った。



武藤組の報復で住田組組長(諏訪太朗)は取られたが、その後を継いだ池上は池上組として武藤に停戦を申し入れる。武藤も、その申し出を受けた。

平田は、自分にとっての最高の一本を撮るのが夢。ヤンキー上がりの佐々木を日本のブルース・リーに、カメラの谷川・御木と大きな夢を語る。
願い事が叶うと言われる神様に、平田は自分の名前と電話番号を書いた紙を奉納して仲間たちと成功を祈願した。

月日は流れ、しずえの出所があと9日に迫った。面会の度ごと武藤はミツコ(二階堂ふみ)の主演作が撮影中だと言っており、しずえは映画を観ることを楽しみにしている。
実際、武藤は力にものを言わせて知り合いのプロデューサー木下(石丸謙二郎)にミツコ主演の映画を撮らせようとした。ところが、クラインクイン直前にミツコは男と共にバックレてしまう。
窮地に立たされた武藤は、自分たちの手でミツコ主演の映画をしずえの出所までに撮ることを宣言。おりしも池上組との抗争が激しくなっており、組員たちは猛反対するがそれを聞き入れる武藤ではなかった。

ミツコは武藤組の追手から逃げ回っている中、偶然出逢った冴えない男・橋本公次(星野源)に今日一日だけ恋人を演じて欲しいと懇願した。橋本は、偶然にもCMタレント時代のミツコにゾッコンだった。
訳も分からぬまま恋人役を引き受けた橋本を連れて、ミツコは本当の恋人の元に押し掛けた。恋人はミツコと逃げた後、武藤組を恐れて他の女に乗り換えていた。
ミツコは、男にケリをつけると橋本と一緒にアパートを立ち去るが、とうとう武藤組に捕まってしまう。武藤組の面々は橋本をミツコの男と思い込むが、ミツコもそれを否定しようとはしなかった。
橋本は、殺されるかもしれないとひたすらビビっていた。



平田率いるファック・ボンバーズは、いまだ最高の一本を撮れていない。昔撮ったパイロット・フィルムを観ては空疎な理想を語る日々に、佐々木は疲れ果てアクション俳優を諦めると宣言してバイトに出かけた。

武藤組に連れて来られた橋本は、武藤と対峙していた。すでに組員たちは殺気立っている。すると、ミツコは「この人、映画監督なの!」とハッタリをかました。それを真に受けた武藤は、「ミツコ主演の映画を撮れ。撮れなければ命はない」と言った。



映画を撮らざるを得なくなった橋本だが、彼には映画製作の知識などゼロ。パニックに陥った橋本は、隙を見て武藤組から逃走した。
逃げた橋本が組員たちに再び捕まったのは、9年前に平田が願掛けした祠の前だった。恐怖から祠に向かって盛大に嘔吐する橋本。
すると、吐しゃ物に流されて祠から平田の願掛けした紙きれが出て来る。「映画監督になりたい 電話番号xxx-xxxx-xxxx 平田純」という文字に、わらをもつかむ思いで橋本は電話した。

池上は、今でもミツコのことを想っていた。池上組の壁には、成長したミツコの写真が大きく引き伸ばされて貼られている。
武藤組が殴り込んで来るとの情報に池上は臨戦態勢を取るが、一向に武藤組が攻め込んで来る気配はない。それもそのはず、同じ頃武藤組は映画撮影の件でごった返していた。



橋本から突然の電話をもらった平田は、遂に映画の神様が微笑んだと思い込んで映画作りを快諾。
ファック・ボンバーズのメンバー全員で、武藤組を訪れた。組員の提案で、撮影するのは武藤組と池上組の抗争シーンに決まった。



こうして、前代未聞の型破り自主映画がクランクインする…。




本作は、園子温が20年ほど前に書いたオリジナル脚本を加筆修正して撮られたものである。過激なバイオレンスものや近年の震災原発作品と発表の度に何かと話題の多い彼が撮った新作は、言ってみればスラップスティックで風変りな映画賛歌であった。
本作を観て僕が強く感じたのは、「何だかんだ言っても、園子温の作家性はこういう振り切れたフィクションでこそ発揮されるんだな」ということだった。

『希望の国』 公開時、彼はインタビューで「日本では、映画はアートではなく結局は芸能なんだ」と失望の念を吐露していたが、僕はその発言を鼻白む思いで受け止めていた。
「そうは言っても、園子温が注目され支持されたのは、まさしくその過剰な非アート的語り口だろうに」と。

『地獄でなぜ悪い』公式HPのイントロダクションには「これまで『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』『恋の罪』などで知られた“性と暴力と過激な映画作家”のイメージを覆して」という文章が掲載されているが、「それは、ちょっと違うんじゃないか?」と僕は思う。
表現形態こそ本作はコメディであるが、やっていることの本質は『冷たい熱帯魚』と同じベクトルにあるとしか思えないからだ。
そして、その方向性こそが園子温を園子温たらしめるオリジナリティなのである。

もちろん、『冷たい熱帯魚』は実際に起こった事件を題材にした作品であり、本作は過剰フルスロットルな暴力スプラッター・コメディである。
しかし、『冷たい熱帯魚』にしても『地獄でなぜ悪い』にしてもスクリーンいっぱいに飛び散る血しぶきの赤や累々と横たわる屍の山は、同じようにリアリズムの彼方にあるように感じる。前者は事実に基づいているのを知った上でも、やはりそう思ってしまう。

ゾンビ映画がそうであるように、過剰な残酷描写やあまりにも盛大な血しぶきというのは、現実を遠ざける機能を有しており、もはや笑うしかないというベクトルに向かうのではないか。
ある意味、血の赤が妙に映像色彩的に美しく計算されている訳だ。
自分の作家的特質を逆手に取って、臆面もなく青臭い映画賛歌を撮ってしまうことこそが園子温なのだろう。
この映画は、徹底的に映画という見世物的フィクショナリズムで作られているところにこそ美徳があるのだ。

カメオ的に贅沢なくらい役者がキャスティングされているのも楽しいが、僕としては嬉々としてヤクザの組長を演じる國村隼堤真一の二人で決まりである。
最近何かと話題の二階堂ふみや星野源あるいは長谷川博己には、あまり魅力を感じなかった。
個人的な好みと言ってしまえばそれまでだが、二階堂ふみの演技については突き抜け切れてない拙さが物足りない。

映画の内容について言及すると、十分に楽しめはしたが武藤組と池上組の抗争の活写に比してファック・ボンバーズのエピソードがいささか浮いていること、物語の構成をもう少し煮詰めれば橋本公次というキャラクターが不要に思えることに不満を覚える。
そして、ラストは映画館でのスタンディング・オヴェーションで終幕すべきではなかったかとの思いが残った。
それ以降を描いてしまうことに園子温らしさを感じもするが、個人的には絵空事的“映画の嘘”に徹して欲しかった。

いずれにしても、本作は園子温にしか撮り得ない痛快娯楽コメディである。
お勧めしたい。

Transparentz vs マリア観音@秋葉原CLUB GOODMAN

$
0
0

2014年1月25日、秋葉原CLUB GOODMANにて、Transparentz presents「Transparentz vs マリア観音」を観た。



Transparentzは、去年7月24日に同じCLUB GOODMANでデビュー・ライブ をやって以来の演奏。
実質的には木幡東介のソロ・ユニットと化していたマリア観音は、今年に入って13年ぶりにバンド活動を再開しており、この日が2回目のライブである。


Transparentz : 日野繭子(noise)、山本精一(g)、HIKO(ds)、Isshee(b)



とにかく、異種格闘技的経歴を持つメンバーが集まったバンドであるから、どんな音楽性の演奏を聴かせてくれるのかという興味で、僕は去年のデビュー・ライブを聴きに行ったのだが、残念ながらその時のライブにはかなりの不満が残った。
基本的には何のギミックもないストレートなノイズの洪水だったが、音像的にもPA的なアウトプットにしても何処か曖昧で、このバンドが何をやろうとしているのかが伝わって来なかったからだ。
何といっても、このメンバーなのだから期待するなという方が無理な話である。

そして迎えた、2回目のライブ。
先ずはシンプルな感想から述べると、前回とは別のバンドかと思うくらいにいい演奏だった。
前回同様にほぼ60分一本勝負的なノイズ演奏だったが、演奏に一切迷いがなくどういう音をどう聴かせるのかが極めて明快であった。
加えて、PAがバンドの轟音を的確にアウトプットしていたことも大きい。ノイズの奔流でありながら、各パートの音がクリアーに聴きとれたからラウドさがまったく苦痛に感じないのである。
どんなジャンルのどんな音楽にも言えることだが、如何に演奏が良くてもアウトプットされる音が駄目ならオーディエンスには伝わらない。まあ、至極当然のことである。

演奏自体には、特段のギミックがあった訳でもあざとい仕掛けがあった訳でもないが、60分間まったく弛緩することなく、高密度のままに走り抜けてくれた。
エンディングで、メンバーが一人一人ステージ袖にはけて行き、そのまま潔く終演となったのもいい。
やはり、このバンドにはクールなエンディングがよく似合う。


とても充実したパフォーマンスだったので、次回はさらなる音的な高みに登って欲しいものである。
このバンドにとってのひとつの理想は、ノイズによるトランスの創出だろう。期待したい。


永井聡『ジャッジ!』

$
0
0
2014年1月11日公開、永井聡監督『ジャッジ!』




脚本は澤本嘉光、撮影は野田直樹、美術は相馬直樹、録音は原田亮太郎、主題歌「アイデンティティ」・エンディング曲「ユリイカ」はサカナクション(ビクターエンタテインメント)。製作は「ジャッジ」製作委員会、配給は松竹。
宣伝コピーは「恋と仕事。人生最大の審査(ジャッジ)!」
2013年/日本/105分


こんな物語である。

広告代理店大手の現通でクリエイターをしている太田喜一郎(妻夫木聡)。彼は、広告に対する情熱は人一倍だが、才能や要領に問題ありで、いつでも上司の大滝一郎(豊川悦司)からそんな役回りばかり押し付けられている。



大滝が担当したきつねうどんのCMが完成。「コン、コン、コン、コ~ン♪こし、こし、こし、こし♪」という音楽に乗せてキツネの着ぐるみを着た喜一郎が腰を振って踊るだけの作品だが、エースコックの宣伝室長(あがた森魚)から「ダメだよこれ、もっとちゃんと猫に見えないと。これじゃ、キツネだよ」と意味の分からないダメ出しをされる。大滝はCMの作り直しを喜一郎に命じて、自分は逃げてしまった。
監督(木村祐一)にド顰蹙を買いながら喜一郎が手直ししたCMは、画面に「※これはネコです」とテロップを入れて、踊りの合間にキツネが「ニャー」という酷い代物。もちろん、評判は最悪だった。

現通社長(風間杜夫)と共に大口クライアントちくわ堂を訪ねた大滝は、社長(でんでん)から息子(浜野謙太)の作った信じられないくらい酷い出来のちくわCMを見せられる。
ちくわ堂の社長は、このCMがサンタモニカ国際広告祭で入賞すれば年間取扱額240億の広告をすべて現通に一任すると言うが、落選すれば広告代理店を変えるとムチャ振りして来た。
実は、サンタモニカ国際広告祭の審査員を務めることになっていた大滝は、身の危険を感じて審査員の役を喜一郎に押し付けてしまう。「ちくわが落選したら、お前は会社クビだぞ」と言いながら。

サンタモニカ国際広告祭とは、年に一度開催される広告の国際コンクールで、審査員たちも一流クリエイター揃いだ。当然のことながら、会話は英語。
審査のことはもちろん、英語もまともにしゃべれない喜一郎は、「広告祭のことなら、全部この人に聞け」と大滝に紹介されて資料保管室を訪ねる。
地下の保管室・別称リストラ部屋の主である鏡(リリー・フランキー)は、見るからに風采の上がらぬオッサンで、教えてくれることといえばペン回し、カマキリ拳法、レストランで美味しい食事にありつくための英会話、そして幾つかの英語による“つかみ”くらいのもの。
ところが、彼は大昔にサンタモニカ国際広告祭で審査員経験があった。その折、目立つために鏡は審査会場にメガフォンを持ち込み、ついたあだ名がまんま「メガフォン」。
鏡は、自分の存在をアピールするアイテムとして山のようなアニメグッズを喜一郎に持たせた。



鏡から「パートナーを連れて行かないとホモに狙われるぞ」と脅された喜一郎は、同僚の太田ひかり(北川景子)に一週間だけ奥さんのふりをしてほしいと懇願。理由は、苗字が同じだから。
ひかりは、英語が堪能で仕事もできる女性で、制作部では「できる方の太田」と呼ばれている。ただし、彼女は無類のギャンブル好きで、休日ともなれば場外馬券場界隈にいる変わり種だ。
一度は「絶対ヤダ!」と突っぱねたひかりだったが、「サンタモニカは、ラスベガスまで飛行機で1時間」という口説き文句に負けて、喜一郎に同行する。



広告祭は、審査員自身が関わっているCMも出品されるため、審査の裏では熾烈な駆け引きが行われていた。喜一郎以外に日本から参加しているのは業界では名の知れた白風堂の木沢はるか(鈴木京香)で、彼女が持ち込んだのはトヨタのCM。ちなみに、喜一郎が持ち込んでいるのはエースコックのきつねうどんとちくわ堂のちくわ。
しかし、広告祭は審査委員長も取り込んでの多数派工作がすでに出来上がっていた。




果たして、グランプリの行方は?喜一郎のクビは?そして、ひかりとの恋は?
様々な思惑を乗せ、審査(ジャッジ!)の幕が切って落とされる…。




観る前から、テレビ局や広告代理店が絡んだ「ザ・ムービー」的雰囲気を醸し出している映画である。そして、当然の如く製作委員会の中にはフジテレビも入っている。
物語はといえば、ディフォルメされた広告業界内幕もので、監督の永井聡はサントリー「グリーンDAKARA」のテレビCM等のディレクター、脚本の澤本嘉光は東京ガス「ガス・パッ・チョ」やトヨタ「ドラえもん」シリーズのCMディレクターをした人である。
そもそも、澤本が海外広告祭の審査員をやった時にアニメキャラのプリントTシャツを着用して人気者になったというエピソードがあり、それを面白がった松竹が「だったら、映画で…」と提案したのが制作の端緒らしい。

エースコックやトヨタがそのまんま出てくるところも如何にもだが、白風堂が出品したトヨタCM「Humanity」はカンヌ国際広告祭銀賞受賞CM(プレゼンを担当したのは澤木)である。

…で肝心の内容はといえば、始めの3分の1を見れば残りの3分の2は予想がつくし、あなたが予想したその展開は寸分狂うことなくその通りに進行する。そういう作品である。
良くも悪くも。

チラッと登場する役者も、風間杜夫、あがた森魚、木村祐一、竹中直人、玉山鉄二、加瀬亮、でんでん、伊藤歩、新井浩文、田中要次…と無駄に豪華。
現通経理係の松本さん(松本伊代)で、「センチメンタル・ジャーニー」ネタというのも世代的にはベタ過ぎるし、喜一郎がやるカマキリ拳法の出典元は、やはり「カックラキン大放送!!」(日本テレビ)におけるラビット関根(関根勤)だろうか?

そんな訳で、映画として過剰な期待を寄せて映画館に足を運ぶ人はそうそういないと思うが、そういうスタンスで観る分にはコスト・パフォーマンスに叶った良心的一本であると思う。
合コンで妻夫木聡がもてないというのはさすがにあり得なさ過ぎて鼻白むが、最終的に喜一郎の情熱がすべての流れを変えてしまうという甘過ぎる予定調和が、皮肉でも何でもなくこの作品にはよく似合う。

豊川悦司、鈴木京香、リリー・フランキー、荒川良々も予想の範囲内でいい仕事をしているが、個人的には地味ながら玄里がとても気になってしまった。




だが、この映画の最大の見所にして商品価値といえば、やはり北川景子のキュートさ。それに尽きるだろう。
正直、彼女がスクリーンで生意気に振る舞っていればそれだけで満足…のレベルである、僕は。
映画のラスト。スクリーンに向かって、一言しゃべる北川の表情にノックアウトだ。



本作は、観ずとも何ら人生の損失とはならないお気楽な一本。
ただし、北川景子ファンなら絶対に劇場スクリーンで観ることをお勧めしておく。

アンドリュー・スタントン『ウォーリー』

$
0
0

2008年6月27日公開(日本公開は12月28日)、アンドリュー・スタントン監督『ウォーリー(原題『WALL・E』)』





製作はジム・モリス、製作総指揮はジョン・ラセター、ピーター・ドクター、脚本はアンドリュー・スタントン、ジム・リードン、原案はアンドリュー・スタントン、ピーター・ドクター、スーパーバイジング・アニメーターはアラン・バリラーロ、スティーヴン・クレイ・ハンター、撮影監督はジェレミー・ラスキー、ダニエル・フェインバーグ、プロダクション・デザインはラルフ・エッグルストン、音楽はトーマス・ニューマン、主題歌はピーター・ゲイブリエル「ダウン・トゥ・アース」、サウンド・デザイナーはベン・バート、スーパーバイジングテクニカル・ディレクターはナイジェル・ハードウィッジ、編集はステファン・シェパー、共同製作はリンゼイ・コリンズ。
製作はピクサー・アニメーション、ウォルト・ディズニー・アニメーション、配給はウォルト・ディズニー・スタジオ。
なお、本作は2014年に3Dによるリバイバル上映が予定されている。


こんな物語である。

29世紀。700年前に環境汚染がいよいよ深刻化した地球は、巨大宇宙船アクシオムに人々が乗り込み宇宙空間へと脱出。環境が正常化して再び地球へと戻れる日が来るまで、人類は宇宙空間を旅することとなった。
そんな荒れ果てた廃墟の如き地球に、ただひとつ動いているものがいた。量産型ゴミ処理ロボット、ウォーリー(ベン・バート)だ。人間が立ち去った後の地球を綺麗にしておくため大量に生産されたロボットだが、この700年間で次々に機能停止してしまい彼が最後に残った1台だ。
ウォーリーは、集めたゴミを体内でキューブ状に圧縮して整然と積み上げる作業を淡々と700年間続けている。ウォーリー唯一の仲間は、ゴキブリのハルだ。



長い歳月が経過するうちウォーリーにシステムエラーが起こり、彼の中には人間同様の感情が宿っていた。
ゴミを集める作業の傍ら、ウォーリーはお気に入りの物を集めて宝物としてコレクションしている。特に、ジーン・ケリー監督のミュージカル映画『ハロー・ドーリー!』(1969)のビデオは大のお気に入りで、ウォーリーは棲家代わりのトレイラーハウスで事あるごとに再生していた。映画の中で、男女が手を握るシーンにウォーリーは強い憧れを持っている。




そんなある日。巨大な宇宙船が地球に着陸して、中から白いロボットが現れた。彼女の名前はイヴ(エリサ・ナイト)で、どうやら地球を探索しているようだった。ウォーリーはひと目見てイヴに惹かれるが、イヴの方ではウォーリーになどまったく関心を抱かない。それでも、ウォーリーは何とかイヴにコミットしようとする。そんなウォーリーの一途さに、指令一筋で堅物なイヴも次第に態度を和らげて行った。




ウォーリーはイヴをトレイラーハウスに招き、とっておきの宝物を見せる。それは、古いブーツから芽吹いた緑の植物だった。すると、イヴのプログラムが起動して植物を体内に取り込みフリーズしてしまう。




驚いたウォーリーがイヴを看病していると、巨大宇宙船がイヴを強制収容してしまう。ウォーリーはイヴを追って巨大宇宙船にしがみついた。
巨大宇宙船アクシオムは、ウォーリーを乗せて再び宇宙へ飛び立った。

イヴへの指令とは何なのか?そして、ウォーリーの運命は?


アニメーションが本来表現すべきキャラクターのモーション、子供に向けられたファンタジックな寓話性に加えて、老若男女を問わぬ普遍的かつ広い視野での愛情と警鐘までも内包したとても優れた作品である。

言うまでもなく、宇宙船アクシオムはノアの方舟だしイヴは植物を持ち帰ったからの引用である。
そして、観た方ならすぐにピンとくるだろうが、本作における宇宙船内のシーンのいくつかはスタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968)にインスパイアされている。リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れるのは指摘するまでもないだろうが、アクシオム自動操縦装置オートの艦長への反乱やゴキブリHALのネーミングにもそれは顕著だろう。
ちなみに、HALはハル・ローチとHAL 9000から取られているようだが、『2001年宇宙の旅』におけるHAL 9000のHALとはIBMを一文字ずつずらしたネーミングである。



なお、WALL・EはWaste Allocation Load Lifter Earth-Class(地球規模ゴミ分別積載機)、EVEはExtraterrestrial Vegetation Evaluator(地球外植物探査機)の略である。

ストーリーとしてダイナミックに展開するのはもちろんウォーリーがアクシオムに潜入して以降だが、映像的な素晴らしさが遺憾なく発揮されているのは、むしろ動きの少ない前半部分だと僕は思う。
まるでサイレント映画のように科白がなく、ウォーリーがたった一人でゴミを回収するシーン。その一つ一つの仕草に彼の心の動きや孤独といったメンタリティがリアルに表現されている。
そして、寂莫感の中にも何気ない遊びやユーモアが散りばめられている。ハルの動きがいささかリアルに過ぎて、岩場を動き回るフナムシみたいなのがちょっと気持ち悪いんだけど(笑)
しかも、ウォーリーにしてもイヴにしてもロボットであるから、彼らの喜怒哀楽は仕草や搭載されたライトで表現しなければならない。にもかかわらず、彼らの感情は観る者の心に確実に伝わって来る。
いや、ツールが限られているからこそ感情表現が過剰にならず、それがかえって切なさに昇華されるのである。
個人的には、ウォーリーとイヴの愛情交換に面映ゆい部分もあるんだけど、それは僕がいささかすれているからだろう。

物語の展開自体は言ってみればかなり定型的なのだが、こういうアニメーションにおいてはおかしなギミックを使うよりも正統的に突き進むべきなのだ。
CG映像を駆使した本編も素晴らしいが、エンドロールの温もりあるイラストレーションも実に可愛い。

本作は、モーション・ピクチャーとしてのアニメーションの粋を感じさせる傑作。
どなたにも、自信を持ってお勧めできる一本である。

余談ではあるが、劇中でさりげなく流れるルイ・アームストロング「バラ色の人生」のノスタルジーに僕はハッとした。

ざ☆よろきん『晒場慕情~恋慕の木遣り唄~』

$
0
0

1月5日、池袋シアターグリーンBASETHEATERにて萬屋錦之助一座「ざ☆よろきん」二〇一四年新春本公演『晒場慕情~恋慕の木遣り唄~』を観た。




本公演は、グリーンフェスタ2014特別参加作品であり、『火消哀歌~冬空の木遣り唄~』(BIG TREE THEATER)、『振袖大火~吉原木遣り唄~』(BOX in BOX THEATER)と同時公演されたものである。役者の一部は、劇場を行き来して他作品にも出演している。

演出は柿ノ木タケヲ(ゲキバカ)、脚本は朝比奈文邃、舞台監督は篠原絵美、美術は齊藤樹一郎、音楽は小林成宇・ぱくゆう、音響は池田野歩、照明は富山貴之、照明操作は内山唯美、振付は岸下香、衣裳は車杏里・林梨沙子・小野瀬みらい・佐野このみ・亀井美緒。
制作は倉重千登世・金田愛里・鎌田亜沙佳・新井真理子・金指諒子、総合制作は畑中晋太郎、プロデューサーは朝比奈文邃、企画制作は株式会社リロ・プロダクション、製作は株式会社アリー・エンターテイメント、主催はシアターグリーン、株式会社アリー・エンターテイメント。


こんな物語である。

年の瀬の江戸。日本橋の袂にある晒場隣で店を構える居酒屋よろずは、今夜も常連客で賑わっている。店を切り盛りする女将おいく(上田郁代)はキップの良さが評判だが、家出して随分になる一人息子のことを心に秘めている。
従業員は、もえ(袴田まお)、もも(音河亜里奈)、もこ(長島実咲)、千歳(奥田奈未)と皆女性で、彼女たち目当ての客も多い。
常連客の一人で南町奉行の羽原三太夫(島英津夫)はおいくとは古い馴染みで、おいくは従業員たちと共に羽原の依頼で町の情報収集もしている。今、おいくたちは江戸に頻発する不審火のことを探っていた。



火消の新八(木田健太)は、静玉屋の花魁・吾妻(松本理沙)とねんごろになり彼女会いたさに吉原通いを続けたが、所詮は薄給の身。すぐに金は尽きて、身請けはもとより揚げ代すら吾妻が持つようになった。
仕方なく、二人は「心中します」の書置きを残して新八が掘った地下道で足抜け。偽装心中して、二人ひっそり所帯を持とうと計画した。
脱走こそ成功したものの、二人が穴から出るとそこは何とよろずの店内。間が悪いことに、店では常連の同心見習い重松(猪狩和真)、冨松(井上翼久)、三郎太(シトミ祐太朗)が飲んでおり、そのまま二人は御用となってしまう。
すると、おいくは驚きの表情を浮かべる。新八こそ、彼女が探していた一人息子だったのだ。

正月早々、新八と吾妻は三日間晒しの刑に処せられるが、何やら二人は晒場で痴話喧嘩を始める。見張り番の三郎太の言うことなどまったくお構いなしの上、隣の居酒屋客も交えて酒まで飲み出す有様だ。
しかも、吾妻が年季奉公に出る前の知り合いで彼女に恨みを持つくま(高橋奈津季)とはつ(北川千晴)がちょくちょくやって来ては、嫌がらせした。
ようやく三日が終わり、二人は晒場から解放された。とりあえず、行き場のない新八と吾妻はよろずで厄介になることに。静玉屋から身を隠さねばならない吾妻をおいくは従業員として雇ってやった。
実はおいくも元は花魁で、彼女は吉原の伝説として今も語り継がれていた。母のそんな過去を嫌って、新八は家を飛び出したのだった。

三郎太は、旗本阿部家のお嬢様つる(下垣真香)と想いを通わせていたが、所詮は身分の違う恋。屈託のないつるとは違い、三郎太はすべてを捨てて彼女を奪い取る勇気が持てずにいた。
新八はおいくと和解。よろずで過ごす日々の中で、新八と吾妻の仲もまた親密さを取り戻していた。

しかし、そうそういいことは続かない。とうとう吾妻の居場所を嗅ぎつけ静玉屋の遣いの者が、彼女を連れ戻しにやって来た。
その一方、江戸のそこかしこでは幕府転覆を目論む不当の輩の手による放火が、いよいよ深刻な被害を出していた。
半鐘が鳴り響き、江戸八百八町は火の海と化した。新八は吾妻を助けに吉原に走り、阿部家が出火したとの報を聞いた三郎太は、つるを助けに向かった。
火付の下手人を内偵していた千歳は、おいくが止めるのも聞かず犯人の後を追った。




果たして、江戸の町は?新八と吾妻、三郎太とつるの恋の行方は?


そもそも、僕がこの舞台を観る気になったのは鴻上尚史主宰・虚構の劇団を辞めた高橋奈津季が久しぶりに舞台に立ったからである。それ以外の興味はなかった。
本公演を観ての端的な感想を述べさせてもらえば、良い部分と駄目な部分があまりにもはっきりした舞台だということである。

駄目な部分から指摘しておく。

とにかく、くすぐりがあまりにおやじギャグ・レベルで笑うに笑えない。これだけ若い役者を揃えた舞台で、何故にここまでベタにつまらないネタをかます必要があるのか?
江戸時代の居酒屋で「おいC~」だの、カクテル注文だの…と。
あるいは、おいくの人生を紙芝居仕立てで説明するシーン。EXILEネタが繰り返されるのは、ヒロインの松本理沙がLDH(EXILEのHIROが代表取締役社長)所属タレントだからか?まあ、どうでもいいが。
吾妻の祖母おとめ(法城寺エイト)のネタでは、観ていて痛々しく感じてしまった。
くまとはちが吾妻をいびるシーンも、下らな過ぎてどうかと思う。久々に高橋奈津季が舞台に立ったのは、嬉しかったのだけど。
唯一笑えるのは、一膳飯屋満腹従業員のかめ(沙神有希)と卯の助(高畑岬)のベタな絡みくらいである。

それから、吾妻・つるという女性二人がなかなかに魅力的なのに比べて、あまりに男たちに魅力がなさ過ぎではないか?
正直に言って、彼女たちが新八や三郎太に惹かれることに僕はドラマ的リアリティを感じることができなかった。
男性キャラクターの構築に、作者の思い入れが感じられないのだ。

では、良い部分を。

先に述べてしまったが、松本理沙演じる吾妻下垣真香演じるつるが、魅力的である。彼女たちの雰囲気も役によく合っていて、なかなか良いキャスティングだと思う。二人の演技も悪くない。
特に、吾妻ははまり役と言っていいだろう。

笑い中心でグダついている前半と違い、後半に入って展開がシリアスになると舞台は一変する。いきなり、ダイナミックに疾走するのだ。
そして、つると三郎太、おいくと千歳、吾妻と新八といった感傷的なシーンには、演出の冴えを感じた。
また、狭い舞台でのダンス・シーンは、なかなか演出がシャープで見応えがあった。

ただ、同時三公演で役者が出入りするアクロバティックな構成故、どうにも煮え切らない部分が散見されたことも不満である。
南町奉行のエピソードも上っ面だけだし、政五郎(小野塚勇人)とお文(沢辺りおん)の話はそれだけで一本の物語になるだろう。男の登場人物で、僕が唯一魅力を感じたのが政五郎だった。

本作は、役者陣の演技に比して脚本に問題を抱えた舞台。
やりようによってはもっと面白い作品になったと思うので、何かと後にフラストレーションが残る観劇であった。

射手座の行動『行動・1』

$
0
0

2月11日ソワレ、新宿眼科画廊・地下で射手座の行動第1回公演『行動・1』を観た。




作・演出・音響・照明はふじきみつ彦、出演は岩谷健司・岡部たかし・永井若葉(ハイバイ)・山村麻由美、ピアノ・衣装・小道具は山村麻由美、演出助手は猪瀬青史、製作は長谷川まや、協力は株式会社ディケイド・株式会社クリオネ・Krei株式会社、有限会社イーピン企画・株式会社ASH&Dコーポレーション・大橋さつき・美馬圭子・木下いづみ、チケット管理システムはCoRichチケット!。




射手座の行動とは、作・演出を手掛けるふじきみつ彦の一人ユニットである。
本公演は、4本のスケッチからなる80分の芝居である。


1「こだま」
籍は入れたものの新婚旅行もまだの男(岡部たかし)は、妻(永井若葉)を自分が運転するこだまの運転席に乗せてしまう。もちろん、会社にも車掌にも内緒だ。妻は、出発前からすでにテンションがマックス。
「お前のためだったら、俺は何だってできるよ」という夫に感動する妻。夫は、こともあろうに妻に運転までさせてしまう。
しかし、そのうち妻は新幹線といえども各駅停車のこだまに不満を言い出す。あまつさえ、熱海を通過してもいいかと無茶苦茶なことをのたまい、夫を慌てさせる。「どうせ他の女の人も乗せたことあるんでしょ?」と繰り返す妻に苛つき始める夫だったが、実はかつて女を乗せた前歴があった。しかも、今の妻が乗りたがっているのぞみに。乗せたのは前の妻で、彼女の実家は沼津だった。
三島駅停車中、前妻をのぞみに乗せたことで夫婦は揉め出す。いつまで経っても出発しないことを不審に思った車掌(岩谷健司)が、運転室にやって来て…。

2「ある院長の憂鬱」
数年かかりつけている整骨院に時間外に呼び出されたデザイナーの男(岡部隆たかし)は、院長(岩谷健司)と女性医(永井若葉)と共に妻(山村麻由美)の到着を待っている。デザイナーの妻は同僚と一緒に生徒の父親の家を訪ねているが、どうも要件が延びているらしかった。
ようやく妻が到着すると、院長は改まった顔でこう切り出した。「大変心苦しいのですが、もううちには来ないで頂けないでしょうか」。唖然として、訳を尋ねる夫。院長が彼の妻を好きになってしまい、このままでは自分を抑えきれなくなるからというのがその理由。
「お互い、家庭のある身ですし」という院長に患者夫婦はいよいよ複雑な顔をする。そればかりか院長が妻を意識し出した理由は、彼女が“そこそこ”で“ちょうどいい”からだと言われて、夫婦は顔をしかめた。
聞けば、院長は医者になる前新幹線の車掌をしていたが、問題を起こして辞めたとのことだった。もう、社会で失敗することは許されないと院長は真剣そのもので…。

3「タクシー」
兄妹(岩谷健司、山村麻由美)を乗せて駅に向かったタクシーは、動物を轢いてしまう。タクシーの運転手(岡部たかし)は車を降りて動物の死骸を検証しているが、兄妹はさすがに不快な表情を浮かべる。それもそのはず、このタクシーはすでにタヌキを二匹轢いていた。
会社から「動物ならいくら轢いても大丈夫」と言われていると運転手は言うが、お客からあまり指摘されるので彼もさすがに気にし始める。運転手は、自分の代わりに気持ちだけでも一匹轢いたことにしてくれないかと訳の分からないことを兄妹に頼んだ。
そこに、たまたま通りかかった運転手の妻(永井若葉)が会話に参加するが…。

4「親」
中高一貫の私立校。中学一年生の息子を持つ父親(岩谷健司)から「自分の息子とある生徒を二年以降別のクラスにしてくれ」と再三クレームを受けて、教師三人(岡部たかし、永井若葉、山村麻由美)は彼の家に説明に訪れた。彼の家は、父一人子一人の父子家庭だった。そのことも、父親を頑なにしている要因の一つだ。
しかし、三人の教師は慇懃に謝るだけで、クラス替えのことになると歯切れが悪い。検討に検討を重ねていると言って、のらくらとその場を交わすだけだ。
この父親は短気で、自分のことをモンスター・ペアレントだと思っているんだろうと絡んで来る始末だ。
一度は話をまとめて家を辞去しようとした三人だったが、父親に引き留められて出るタイミングを失ってしまう。この後、夫と待ち合わせている一番若い音楽教師は、先に整骨院に着いているはずの夫に連絡した。
さらに話を続けるうちに、いよいよ父親の雲行きが怪しくなってきて…。


各20分程度のショート・スケッチ4本で構成された舞台は、それぞれのエピソードが巧みにリンクされており、なかなか楽しめる80分であった。
ただ、昨日の祝賀会『冬の短篇』 で観たふじきみつ彦脚本作「冬の焚き火」「冬のロープウェイ」のコンパクトにしてシニカルにハイブロウなショート・スケッチを体験した者としては、物足りなさを感じたのも事実である。

ふじきの劇作にセンスがあることも、岩谷健司岡部たかし永井若葉が役者として上手いことも僕はすでに知っている(イーピン企画の山村麻由美は今回初めて観た)から、どうしても期待値が高くなってしまう訳だ。

端的に言えば、今回の舞台はいささか脚本が技巧的に過ぎて、僕には素直に笑えない部分があった。
何処に向かって進むのか分からない前半は面白いのだが、後半に施された仕掛けが作為としてのシニシズムに感じられる。だから、観ていてどこか疲れてしまうのだ。

一番面白いと思ったのは「こだま」だったが、その話も車掌が「実は、私も…」と告白するくだりで「ああ、ツイストが技巧的だなぁ…」と感じてしまった。僕は、運転手の妻と車掌のエピソードをパラレルになぞるのではなく、もう少し違った展開を期待したのだ。

「ある院長の憂鬱」もなかなか楽しめはしたが、患者の妻が突然京都弁を喋り出して以降に過剰さを感じた。ここからの展開は、役者の演技はアッパーになるのだが、テンポは逆に停滞気味に思えた。
そして、これは好みの問題かも知れないが、僕は「妻が、院長に囁いて去るところで終わっていれば!」と心底思った。その後があることは、蛇足の感ありだった。

「タクシー」は、そもそも話の骨格が存在せず、ひたすらシニカルにねじくれた展開を見せる。掴みの動物を三匹轢いたというところから運転手の妻が登場して以降まで、物語に笑いの芯がないように思う。
故に、体感時間が一番長く感じたのがこのスケッチであった。

「親」は、前半の一面的な正論を吐く父親と徹頭徹尾慇懃な態度を取る教師三人のチグハグな会話は可笑しい。
しかし、伊勢丹の袋のくだり以降、話は力ずくのナンセンス的展開に向かう。一度辞去しようとした教師たちを親が引きとめてからのやり取りに、何処かトゥー・クレヴァーさが漂って僕は駄目だった。
モンスター・ペアレントか否かという激論が教師間で戦わされた…という捻じれ方や「モンスター」ではなくただの「ペアレント」だったという流れは、イソップ寓話「北風と太陽」の北風的強引さで今ひとつノレなかった。

舞台でショート・スケッチをやる場合、やはり観る者に“時間”を感じさせてはダメだと僕は思う。より具体的に言えば、考える時間を与えてはダメで、笑っているうちに「あれ、もう終わっちゃったんだ」と観客を煙に巻くことができればその舞台はおおむね質の高いものである。
その意味では、今回の射手座の行動公演はいささか考え過ぎのように感じられた。

とはいえ、これが第1回公演である。挨拶代わりとしては決して悪くない。僕の期待が大きいのだ。
とにもかくにも、第2回公演を待ちたいと思う。もちろん、僕は観に行くつもりだ。

『国民の映画』@PARCO劇場

$
0
0

2月17日、PARCO劇場にてパルコ劇場40周年記念公演パルコ・プロデュース公演『国民の映画』を観た。




作・演出は三谷幸喜、音楽・演奏は荻野清子、美術は堀尾幸男、照明は服部基、音響は井上正弘、衣裳は黒須はな子、ヘアメイクは河村陽子、舞台監督は加藤高、製作は山﨑浩一、プロデューサーは毛利美咲、企画協力は(株)コードリー、企画製作は(株)パルコ。

本作は、2011年3月6日~4月3日の初演時に、第19回読売演劇大賞最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(小日向文世)、優秀男優賞(段田安則)、優秀女優賞(シルビア・グラブ)、優秀演出家賞(三谷幸喜)、紀伊國屋演劇賞等を受賞した。
今回のキャスティングでは、ヘルマン・ゲーリング役が白井晃から渡辺徹に、マグダ・ゲッベルス役が石田ゆり子から吉田羊に、エルザ・フェーゼンマイヤー役が吉田羊から秋元才加に変更された。




こんな物語である。

1941年秋、第二次世界大戦下のドイツ・ベルリン。ヒトラー内閣がプロパガンダ目的で創設した国民啓蒙・宣伝省。その初代大臣であるヨゼフ・ゲッベルス(小日向文世)には、すべての芸術・メディアを監視検閲する強大な力が付与されている。
映画関係者たちの中には、自分の表現活動のためにゲッベルスにすり寄る者も少なくなかった。映画好きのゲッべルスは、フィルムを取り寄せては自宅で鑑賞する趣味があった。妻マグダ(吉田羊)が前の夫と結婚していた頃から使える従僕フリッツ(小林隆)は、大の映画好きでゲッベルスにとっては芸術の師でもあった。



そんなある日、ドイツが誇る著名な映画人たちを招いてゲッベルスはホーム・パーティを開いた。招かれたのは、俳優で映画監督のエミール・ヤニングス(風間杜夫)、ベテラン俳優グスタフ・グリュントゲンス(小林勝也)、大女優ツァラ・レアンダー(シルビア・グラブ)、二枚目俳優グスタフ・ヒレーリヒ(平岳大)、注目の若手監督レニ・リーフェンシュタール(新妻聖子)、新人女優エルザ・フェーゼンマイヤー(秋元才加)、そして反体制的な言動から当局に睨まれ仕事を干されている国民的作家エーリヒ・ケストナー(今井朋彦)。

表向きは理想の夫婦として国民に喧伝されているゲッベルス夫妻だが、実際の夫婦仲は冷え切っている。ゲッベルスは結構な女好きで、次から次へと愛人を作った。チェコの女優リダ・バーロヴァとの不貞の時には、離婚まで考えたゲッベルスを看板夫婦のスキャンダルを避けたいヒトラー自身が仲裁に入り不倫を解消させる事態にまでなった。
この夜のパーティもマグダは頭が痛いから出席しないと言ってゲッベルスを怒らせるが、ゲストにケストナーが入っていることを知って、彼女は態度を変える。それと言うのも、マグダはケストナー作品の大ファンで、かつてケストナーと交際していた期間があったからだ。反ナチのケストナーが夫のパーティに参加するのは、実は自分に逢いたいからでは…とマグダの心中は穏やかではない。

客人たちがやって来る前に、ゲッベルス邸には招かれざる客が一人いた。親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラー(段田安則)だ。口実を作ってはなかなか帰ろうとしないヒムラーをゲッベルスは警戒する。「一体、この男は何を嗅ぎ回っているのか?」と。ゲッベルスは、くれぐれもヒムラーには用心するようにとフリッツに言った。
そうこうするうちに、次々とゲストたちがゲッベルス邸に到着する。招かれた映画人たちは、皆それぞれ腹に一物ある。ヤニングスは、自分の監督・主演でビスマルクの伝記映画を撮らせてくれと訴え、レアンダーは自分をいい役でキャスティングして欲しいとアピール。ゲッベルスお気に入りのリーフェンシュタールは、自分に対抗心を燃やすヤニングスを挑発する。
ご婦人方に人気の高いヒレーリヒは、大物たちに囲まれてどこか居心地が悪そうだ。駆け出しの女優でゲッベルスの愛人となったフェーゼンマイヤーは、この機会に自分を売り込もうと躍起になっている。





芸術家の後ろ盾として名を馳せていたゲーリング空軍元帥(渡辺徹)が最近はすっかり元気をなくし、それに取って代わるように頭角を現したともいえるゲッベルスはゲーリングの存在を強く意識している。
ゲーリングとの関係が深い名優グリュントゲンスをこのパーティに招いたことも、言ってみればゲッベルスが今では自分こそがナチス・ドイツの芸術界の大立者であることをアピールしようとしてのことだ。
ただ、ここにいる誰もが驚いたのが招待客にケストナーがいること、しかも反ナチで知られる彼がその招待を受けたことだった。現在、彼の著書はすべて発売禁止となり、事実上彼は政府の圧力で筆を折られている。おまけに、ゲッベルスはケストナーの本を焚き書にまでしたのだ。
そのケストナーは、一番最後に到着した。

いつまで経ってもヒムラーは帰らず、そればかりか招いてもいないゲーリングまでがやって来てしまう。微妙な空気が漂う中、あまり質がいいとは言えぬディナーが供され、その後でゲッベルスは今夜のパーティの趣旨を発表した。
ゲッベルスは、今夜招いた最高の映画人たちを結集して『風と共に去りぬ』に勝るとも劣らぬ全ドイツ国民に誇れる偉大なる一本を撮ろうと考えたのだ。そう、「国民の映画」と呼ぶに相応しい映画を。



沸き立つ場内。しかし、ことは誰も予想しなかった方向へと…。


途中15分間の休憩をはさんで、約3時間の長丁場。しかし、舞台は一切だれることなくむしろ次第に求心力を高めて一気にラストまで走り切ってしまう。まさしく、圧巻という言葉こそ相応しい素晴らしい舞台であった。
2011年、絶賛を持って迎えられた本作は上演期間中に東日本大震災に見舞われ、一時は公演の継続自体が危ぶまれた。「もっとたくさんの人に、きちんとした形で観て頂きたかった」とは、再演にあたっての三谷幸喜の弁である。

物語前半は、三谷幸喜らしいいささかブラックな笑いを散りばめつつ、軽妙に進んで行く。そこには、人の虚栄心があり、保身があり、野心があり、欲望がある。
誰もが、自分を必要以上に大きく見せようとして躍起になっている。虎視眈々と機会をうかがい、爪を研いでいる者がいる。冷徹に状況を静観している者がいる。
12人の登場人物たちのある種滑稽な立ち居振る舞いは、そのままあなたや私の行動なのである。

そして、後半。ひとつの事件、否一言の悪意なき舌禍をきっかけに、舞台の雰囲気は一変する。その、静謐でドラマティックな展開には、文字通り息を飲むしかない。空気の密度や温度が、手で触れるくらいハッキリとリアルに変化するのが分かる。
これを舞台のマジックと言わずして、一体何と評すればよいのだろう?ライブで演劇を観ることの悦び、それはこういう空気を直に肌で感じることに他ならない。
大変申し訳ないが、これは何度DVDで鑑賞したとて味わえないし、いくら言葉を尽くして説明してもその本当の凄さの10分の1も伝えることは叶わないだろう。
こういう感覚を表現できぬことは、評論を書く上でのもどかしさである。心底、そう思う。

生涯の当たり役とまで評された小日向文世がいいのは言うまでもないが、舞台に重さをもたらしているのはもちろん小林隆のストイックな演技である。
そして、完璧としか言いようのない段田安則の演技。彼は、同じ三谷作品『ホロヴィツとの対話』でも老いたマエストロになり切っていた。
自分自身の存在に矛盾を抱えたケストナー役の今井朋彦も見事。個人的には、同じ三谷作品『おのれナポレオン』を見逃したことが本当に残念でならない。チケットは取れたのだが、天海祐希の降板で休演になってしまったからだ。
吉田羊は初演時にはフェーゼンマイヤー役だったというが、初演のチケットが取れなかったことが改めて悔やまれる。
そして、個人的には白井晃のゲーリングを観たかったなぁ…と思う。渡辺徹も悪くはないが、小日向文世や段田安則、あるいは今村朋彦の演技に比していささか芝居が大仰で深みを欠いているように感じられたからだ。
その一方で、予想したよりはるかに(と言ってはいささか失礼だが)秋元才加が魅力的だった。気性の激しそうな顔立ち、強い光を放つ眼、166cmの長躯にスレンダーな体で赤いドレスを身に纏う彼女は、野心的な新人女優役がぴたりとハマっていた。

これは、あえてそう演出したのかもしれないのだが、個人的には物語が一変する“ひとつの事件”の描かれ方にもう少し別の演技的アプローチがなかっただろうか…との思いが残った。




いずれにしても、本当に素晴らしい舞台。この作品を観ることができて、本当に幸せであった。
まさに、至福の3時間である。
Viewing all 230 articles
Browse latest View live