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宮崎駿『風立ちぬ』

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2013年7月20日公開の宮崎駿監督『風立ちぬ』



プロデューサーは鈴木敏夫、制作は星野康二(スタジオジブリ)、原作・脚本は宮崎駿(月刊「モデルグラフィックス」)、作画監督は高坂希太郎、動画検査は舘野仁美、美術監督は武重洋二、色彩設計は保田道世、撮影監督は奥井敦、音響演出・整音は笠松広司、アフレコ演出は木村絵理子、編集は瀬山武司、特別協賛はKDDI、特別協力はローソン・読売新聞、宣伝プロデューサーは高橋亜希人・細川朋子、製作担当は奥田誠治・福山亮一・藤巻直哉、主題歌は作詞・作曲・歌:荒井由実「ひこうき雲」(EMI Records Japan)、音楽は久石譲(サントラ/徳間ジャパンコミュニケーションズ)。スタジオジブリ作品、配給は東宝。
宣伝コピーは「生きねば。」
カラー/ビスタサイズ/モノラル/126分


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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群馬県に生まれた堀越二郎(声:庵野秀明)は、飛行機乗りに憧れる少年。彼は頭脳明晰で正義感も強いが、近眼であったためパイロットにはなれないと諦めた。その代わり、飛行機を設計する人間になろうと考えている。
二郎は、学校で先生から借りた飛行機に関する英書を辞書片手に読み耽り、本に出てくる世界的なイタリア人飛行機製作者カプローニ(声:野村萬斎)に憧憬の念を抱く。その思いの強さ故にか、二郎は夢の中でカプローニと邂逅を果たし、自身の夢である飛行機設計士への思いを確たるものとした。



東京帝国大学工学部航空学科に入学した二郎は、日々学友の本庄(声:西島秀俊)らと勉学に勤しんでいた。
そんなある日、二郎が列車に乗っていると轟音と共に大きな揺れを感じる。関東大震災だった。二郎は、偶然乗り合わせた育ちのよさそうな少女・里見菜穂子(声:瀧本美織)と彼女に付いていた女性を助けた。二人を家まで送り届けると、二郎は名乗ることもなく立ち去る。
後日、二郎の下宿に菜穂子は借りていた手ぬぐいを返しにやって来るが、あいにく二郎とはすれ違いで二人は会えずじまいだった。

大学を卒業すると、二郎は念願の航空技術者として三菱内燃機製造に就職。本庄と共に名古屋にて設計の仕事に携わることとなった。作るのは、軍事用の戦闘機だ。二郎の上司・黒川(声:西村雅彦)は優秀で厳しい技術者、課長の服部(声:國村隼)は懐深く温かい上司だった。
まだまだ海外との技術差を痛感した黒川は、二郎に海外を見て来るよう示唆。二郎は、本庄と共にドイツを訪れる。戦争はより深刻な雰囲気を帯びており、二人が訪れたドイツにも不穏な空気が漂っていた。



帰国した二郎は、七試艦上戦闘機の設計主務に大抜擢される。ところが、二郎が心血注いだ飛行機は、飛行試験中に垂直尾翼が折れて墜落してしまう。
技術者としての二郎の能力を高く評価している服部は、失意の二郎に休暇を与え息抜きするように命じた。二郎は、休暇で軽井沢の避暑地を訪れる。瀟洒なホテルに逗留していた二郎は、そこで菜穂子と運命の再会を果たす。菜穂子は、父親(声:風間杜夫)と共に避暑に訪れていたのだ。



互いに強く惹かれた二人が恋に落ちるのは、あっという間だった。里見から菜穂子の母親は結核で他界し、菜穂子もまた結核であると告白されても二郎の心は揺らぐことがなかった。若い二人の強い気持ちに、里見は交際を認めた。



名古屋に戻った二郎は、九試単座戦闘機の設計主務となり再び意欲的に設計の仕事にまい進する。そんなある日、菜穂子が喀血したと里見の家から電報が届く。夜行列車を乗り継ぎ菜穂子の元を訪ねた二郎は、二人で束の間の時を過ごすがすぐに名古屋へと取って返した。二郎を見送った後、里見の心配をよそに菜穂子は高原療養所への入院を決意する。
戦火はいよいよ激しくなり、世間はキナ臭さを増して行った。特高に目をつけられた二郎をかくまうため、黒川は自宅の離れに二郎を移り住ませた。
依然、九試単座戦闘機の設計に没頭する二郎の元を療養所を抜け出した菜穂子が突然訪問する。言葉には出さずとも残された時間が少ないことを悟っている二人は、黒川夫妻に晩酌人を頼む。
渋る黒川を夫人(大竹しのぶ)が説得し、二郎と菜穂子はささやかな祝言を上げた。

二人は、そのまま黒川宅の離れで新婚生活を始める。相変わらず、二郎の仕事は多忙を極めていた。
兄の結婚を聞いて、二郎の妹・加代(志田未来)が訪ねて来る。医者の卵である加代は、ひと目見て菜穂子の病状が深刻であることを知り、愕然とする。
ようやく、二郎の設計した戦闘機が完成。飛行試験も大成功に終わった。しかし、菜穂子は三通の置き手紙を残して一人高原療養所に戻る。連れ戻さなければと訴える加代に、黒川夫人は「自分が一番綺麗な時を二郎さんに見せようとしたのよ」と言って加代を止めた。

二郎の設計した九試単座戦闘機の後継機・零式艦上戦闘機は、日本海軍の主力戦闘機として運用され、末期には爆撃や特攻にまで用いられた。

夢の中で幾度目かの邂逅を果たした二郎とカプローニ。一面に広がる緑の草原で、二郎はカプローニに自分が設計した戦闘機を見せる。二郎の戦闘機を称賛すると、「君を待っていた人がいる」とカプローニ。向こうから、笑顔で手を振る菜穂子の姿があった。
「生きて」と二郎に伝えた菜穂子は、風にさらわれ宙に舞った。
万感胸にこみ上げる二郎に、カプローニが言う。「ゆっくり話をしようじゃないか。とっておきのワインがあるんだ」。

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長編映画製作からの引退を表明した宮崎駿。その決心が変わらなければ、本作は宮崎の最終作ということになる。
「堀越二郎と堀辰雄敬意を込めて。」とクレジットされた本作は、零戦を設計した航空技術者・堀越二郎の半生を描きつつ、そこに堀辰雄の「風立ちぬ」から材を取った話をフュージョンさせて作り上げた作品である。
また、宮崎の父親は零戦を製造していた中島飛行機に部品を納入する宮崎航空興学を経営していた人物である。

アニメーションは基本的に子供の物という姿勢を貫く宮崎は、それ故にか観る者が物語の行間で想像力を働かせる隙なく、明確なストーリーテリングを敷き詰める傾向があるように思う。啓蒙的とまでは言わないけれど、そこには明確な作者の主張がある。そう、宮崎駿的教育とでもいうような。
その意味でも、宮崎の趣味性が反映され中年男性に向けて作られた『紅の豚』(1992)は、かなりの異色作だった。

本作は、その『紅の豚』とはまた違う異色作と言える。それは、初めて実在の人物を主人公に据えたこと、自分の父親の人生が反映されていること、戦闘機好きではあるが反戦を訴える自身のアンビバレントさをも取り込んでいること。そして、やはり子供の目線に立った作品とは言い難いこと。
実在の人物が主人公とはいえ、もちろんすべての事実が忠実に描かれている訳ではなく、そこには宮崎が作り出したフィクションがまぶされている。
本作におけるコンセプトは、「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたい」「実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く」というものである。

みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたいという宮崎の言葉通り、本作における自然描写はまさに“宮崎アニメの真骨頂”といえる美しさである。また、宮崎駿最大の特徴ともいえる飛行シーンもふんだんに描かれている。
その、鮮烈にして果てしのない解放感は本作における最大の成果だろう。
その一方で、リアルとフィクション、現実と幻想が入り交じったストーリーテリングは、トータルとしていささか綺麗なところに視線が行き過ぎてはいるようにも思う。
もちろん、戦時下における不穏な足音やそこかしこに見え隠れする死の影も描かれてはいる。ただ、それは二郎の飛行機設計のようなリアルさとは対照的な描かれ方である。
何でも苛烈に描けばいいという訳ではないが、それでもこの時代を描いた作品としてはどうにも居心地の悪いアンバランスさを感じてしまう。

しかし、僕が本作で最も不満に感じたのは、その点ではない。自然描写や飛行シーンのビビッドさに比べて、主たる登場人物たちの表情があまり躍動しないことである。何と言えばいいのだろう、“生きている”のではなく“画として動いている”という印象が最後まで払拭しきれなかった。それを最も強く感じたのが、主人公の堀越二郎であった。

本作は、言うまでもなく宮崎駿の集大成的渾身作ではある。
しかし、彼が作り続けて来たアニメーションとしては、いささかカタルシスを欠くように思えてならない。

劇団玉の湯第十三回公演『レイトショウ』@新宿シアターPOO

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2月22日マチネ、新宿シアターPOOで劇団玉の湯第十三回公演『レイトショウ』を観た。




作・演出は武田浩介、照明は三枝淳、宣伝美術は三浦恒夫、舞台監督は石動三六、協力は演激集団INDIGO PLANTS・久保新二。制作は(劇)玉の湯実行委員会。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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昭和52年、ユミという名のストリッパーがひっそり亡くなった。彼女は、数名と飲んだ後一人で劇場に戻ると言って仲間たちと別れた。翌朝、劇場で冷たくなっているユミが発見された。
彼女には、トシアキ(ペロリ:演激集団INDIGO PLANTS)というヒモがいた。トシアキは元々雪国からの出稼ぎだったが、ユミとねんごろになり故郷の妻子を捨てた。ユミは全国を回ったが、いつしか雪国の劇場をコースから外すようになった。
ユミを失ったトシアキは生きる希望すらも失いつつあった。

現在。その日の興行はすべて終わり、静まり返っている劇場。ほとんどの者はすでに帰ったが、まだ残って稽古している踊り子が二人。ベテランのコナカカナコ(齋木亨子)と中堅のサヨ(SATOMI)だ。しばし二人は口を利くこともなく、黙々と自分のペースで動きを確認している。
ところが、些細なやり取りから二人の間に険悪なムードが漂い始める。いまだにサヨは踊っている時の表情が硬く可愛げがないと指摘されて苛立ち、表情豊かに踊るカナコに対して“キラキラばばあ”と悪態をついた。

サヨは、思うように仕事のスケジュールも埋まらず、最近は踊り子としてのモチベーションが下がって来ている。おまけに、売れないミュージシャンの彼氏クラタ(平田浩二:劇団玉の湯)とも喧嘩が絶えず私生活も上手くいっていない。
一方のカナコは、珍しく今日のステージでは何度もとちっていた。それは、客席にかつて同棲していた昔の男の姿があったからだった。男が消息を断って、もう数年が経っていた。カナコは、表情にこそ出さぬが酷く混乱し動揺していた。

揉み合いの末、サヨは手を上げそうになるが、それは思いとどまりカナコを突き飛ばした。すると、何処にいたのか突然男が現れて二人の間に入った。ギョッとする二人を気にすることなく、男は「近頃の若い奴は…」と分かった風に説教を始める。その男は、トシアキだった。
当然の如く、踊り子二人とトシアキの会話は噛み合わない。互いが話す言葉自体、チンプンカンプンなのだ。
ただ、トシアキのぼやきを聞いているうちに、二人はこの男がユミという昔の踊り子のヒモであり、彼女と一緒にかつて全国の劇場を回っていたのだということを理解する。
時代は移ろい全国の劇場が減り続けてはいても、踊り子と男の関係にはさほど変化がないようだ。

「昔は良かった、今のやつらは…」と愚痴るばかりのトシアキに、カナコもサヨも次第に苛立つ。自分たちは自分たちで、身を削って生きているのだ。この男は、過去を美化し自分のことを肯定するばかりだ。そしてその姿は、ある意味自分たちの姿と重なりもした。
そこに、突然別の男が入って来る。ギターを抱えた男は、クラタだった。喧嘩のこともあってサヨはクラタに食ってかかるが、クラタの方は飄々と受け流した。

クラタは、自分と一緒に誰かの出待ちをしている風の男が立っていたと言う。その言葉に、カナコの表情が変わった。間違いなく、それは今日劇場にいた元の恋人だ。
カナコは、昔話を始める。故郷を捨てて東京で男と同棲を始めたカナコは、次第に水商売の仕事にハマって生活も荒れ始めた。荒んだ日々の中、男の方も駄目になって行った。カナコは、あまり感情を外に出さない男に「もう別れる。別れたくなきゃ、これで私のことを刺してみろ」と刃物を出した。男は、逡巡することなくその刃物でカナコを刺した。
メイクで消してはいるが、カナコの体には今でもその時の傷が男の記憶と一緒に刻まれたままだ。

話し終えたカナコをトシアキは屋上に行こうと誘った。二人が出て行くと、残されたサヨとクラタは久しぶりに互いに向き合った。結局のところ、二人は離れることのできぬ似合いのパートナーなのだ。

現代の夜景を見下ろしながら、トシアキは感慨深げだった。カナコは、こんな姿じゃユミさんが悲しがるだろうと諭した。ユミとトシアキは新しい出し物の振付を考えていたが、ユミの突然の死でそれを披露することは叶わなかった。
その話を聞いたカナコは、その踊りを自分にくれないか?と言った。

クラタが、外の様子をうかがって戻って来た。男は、踊るカナコの姿が美しかったことともう彼女の前には現れないことを伝えて欲しいとクラタに言って立ち去ったという。

カナコとトシアキを劇場に残して、サヨとクラタは出て行った。いつしか、雪がちらついていた。

カナコは、ユミが踊るはずだった新作を踊って見せた。バトンは、過去から現在へとしっかり渡された。カナコの踊りを見つつ、トシアキは未来も悪くないと思っていた。
何処か遠くの空から、「わたしはここにいるよ」と語りかけるユミの声が聞こえたような気がした。

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予算の都合もあり、ほとんどセットらしいセットもなく最小限の役者だけで構成された舞台だったが、なかなか悪くない内容だった。
先ず感じたのは、作・演出を担当した武田浩介のストリップに対するとても強い愛情である。それから、昭和という遠くなりし時代への憧憬。
本作は、彼がイメージする「ストリップを巡る男と女の人生模様」とでも言うべきものをストレートにてらいなく、感傷的に描いた物語である。多分にロマンチストなのだろう、武田浩介という人は。

ただ、その思い入れ故に感傷とノスタルジーの比率がやや高過ぎの感があり、全体としてウェットさが前面に出てしまったのは個人的には辛い部分もあった。
前向きな終幕にするのは決して悪くないが、人物造形がある種定型的で“色々あるけど、皆いい人”というまとめ方はちょっと甘いかな…と思う。いささか綺麗ごとのように感じてしまった。

芝居において僕が気になったのは、サヨの喋り方。「~っす」という語尾やそこかしこに挟まれたフレーズが、若いとは言えなくなった世代の人間が“若さ”を意識して書いている(或いは、喋っている)印象が拭えなかった。SATOMIの演技が如何にも科白を言っている感じで、どうにも会話として不自然なのだ。
それから、舞台の見せ場の一つともいえるサヨとカナコの諍い。齋木を突き飛ばすSATOMIの力があまりに弱々しくて、何とも鼻白んだ。相手に対して気を遣い過ぎなのだ。

クラタを演じる平田浩二の喋り方は、硬くて何とも芝居的である。その一方で、演技自体は軽すぎるように思う。
トシアキ役のペロリは独特の存在感を醸していたが、脚本も相俟っていささか演技が情緒的ではなかったか。抑えた芝居は悪くなかったが。

で、やはりこの舞台を締めていたのは主役・カナコを演じた齋木亨子の落ち着いた雰囲気とリアルな語り口、そして時折見せる人生経験豊かな大人の女性の陰りである。彼女の演技が情緒に流れないことで、物語は演歌的過剰さから踏み止まっているのである。



また、齋木もSATOMIも踊り子の経験があり、ステージ上での身のこなしはさすがであった。特に、中盤ソロで踊りを披露するSATOMIの動きは、間違いなくこの舞台の“華”であった。

本作は、ストリップという大人の芸能を切り取った佳作である。
舞台を鑑賞後、実際のストリップを観たいと思った方も結構いるのではないか?

リンゼイ・アンダーソン『八月の鯨』

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1987年8月19日フランス・1987年10月16日アメリカ・1988年11月26日日本公開、リンゼイ・アンダーソン監督『八月の鯨(The Whales of August)』。





製作はキャロライン・ファイファー、マイク・カプラン、製作総指揮はシップ・ゴードン、脚本はデイヴィッド・ベイリー、音楽はアラン・プライス、撮影監督はマイク・ファッシュ。製作はアライヴ・フィルム・プロダクション。
1987年/アメリカ/英語/91分/スタンダード

撮影当時、D.W.グリフィス監督の作品への出演等でサイレント時代最大のスター女優と謳われたリリアン・ギッシュは91歳、ハリウッド黄金時代のスターだったベティ・デイヴィスは79歳(本作は、彼女の出演作100本目)であった。リリアン・ギッシュは1993年、ベティ・デイヴィスは1989年にそれぞれこの世を去っている。





なお、音楽を担当したアラン・プライスは、もちろんジ・アニマルズでVOXオルガンを弾いていた彼である。




本作は、2013年にニュープリント版が公開されている。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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8月、メイン州の小さな島。かつて伯母が建て、今ではセーラ・ウェッバー(リリアン・ギッシュ)が所有する別荘に、リビー・ストロング(ベティ・デイヴィス)とセーラの老姉妹は毎年避暑に訪れている。




彼女たちが少女だった頃、入り江には鯨が姿を見せたものだった。その記憶は二人の脳裏に今も焼きついているが、それも遠い昔のことだ。島には新しい人々が増え、世の中は変化していた。
セーラは、第一次世界大戦で早くに夫を亡くした。その頃、妹を不憫に思いリビー夫妻は15年間彼女と共に暮らした。未亡人となり視力も失ったリビーは、娘との折り合いが悪く今では15年もセーラの世話になっている。
元々きつい性格だったリビーは、いよいよ偏屈になりセーラもほとほと手を焼いていた。




幼馴染でやはり今は未亡人のティシャ(アン・サザーン)はそんなセーラを気遣い、リビーの面倒は彼女の娘に任せて自分と一緒に暮さないかと言って来た。
老大工のジョシュア(ハリー・ケリー・ジュニア)に提案されてセーラは別荘に大きな見晴らし窓を作りたいと思うが、今更自分たちに新しい物など必要ないとリビーは即座に異を唱えた。
ご近所で最近連れ合いを亡くした帝政ロシア時代の貴族の末裔マラノフ(ヴィンセント・プライス)が魚釣りの獲物をおすそ分けに来ても、自分は魚など食べないとリビーはけんもほろろだ。




セーラの招待でディナーに再び別荘を訪れたマラノフは、食事の後で自分の身の上話を始める。セーラは心ときめかすが、孤独な流浪の人生を送っているマラノフのことを警戒したリビーは、「この家があなたの次の居場所になることはない」と拒絶する。
翌朝、岬まで鯨を見る行く約束をしていたセーラとマラノフだったが、その一言でマラノフはその約束を辞退。もうこの別荘に来ることもないと言って帰って行った。マラノフの後姿を見送りながら、セーラはリビーとの関係を断つ決心をして、一度はそのことをリビーに告げた。

もはや二人の関係を修復するのは不可能だと諦めたリビーは、夏が終われば娘のところに行くと寂しげに言った。
46回目の結婚記念日の夜、セーラは夫の遺影に向かって「もう、リビーと一緒に暮らすことは限界…」と語りかけた。

翌朝、ティシャが不動産業者を連れて別荘にやって来る。リビーと別れて自分のところに来るなら、この家を売ってしまうべきだと先走っての行動だった。
しかし、彼女の出過ぎた真似にセーラは憤りを感じる。自分は家を売るつもりのなければ、リビーと離れるつもりもないと言って不動産業者とティシャを追い返した。

騒ぎを聞いて起き出して来るリビー。そこに、忘れた工具を取りにジョシュアがやって来る。リビーは、見晴らし窓を作るにはどれくらいの工期がかかるのかと聞いた。私たち姉妹で話し合って、やはり窓を取りつけることにしたのだと。
ジョシュアは、「まったく、あんたらにはやきもきさせられる」と呆れ顔で出て行ったが、その言葉を聞いてセーラの表情はパッと明るくなった。

リビーは、岬まで散歩に連れて行けと言って手を差し出した。その手を握ると、セーラはリビーを連れて岬まで行った。

「もう、鯨は行ってしまったわ」と言うセーラに、「決めつけるもんじゃない」とリビーは言った。



二人の人生があとどのくらい残されているのかは分からないが、それでも姉妹はもう少し前を向いて生きて行くことに決めたようだった。鯨の再訪を待ちながら…。

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往年の大女優二人が共演して話題となった作品である。日本では、ミニシアターの先駆けと言われる岩波ホールの創立20周年記念作品としてロードショウ上映され、当館としては異例のロングランとなった。

リリアン・ギッシュ、ベティ・デイヴィス以外の役者たちも往年の名優ばかり。アン・サザーンはMGMのミュージカル・スター、ヴィンセント・プライスはクラシック・ホラー俳優の第一人者、ハリー・ケリー・ジュニアはジョン・フォード作品の常連俳優である。

その名優たちが、ありのままの老いた姿でイノセントな芝居に徹した(と言っても、ベティ・デイヴィスの役はいささかギミックがあるが)とても地味で粋な作品である。
キム・カーンズが歌った「ベティ・デイビスの瞳」は全米チャート9週連続第1位の大ヒットとなったが、本作でベティ・デイヴィスが演じたのは視力を失った女性というのも趣深い。




肉が削げ落ちて魔女のようなルックスのベティ・デイヴィス、齢90を越えても銀幕の聖女と呼ばれた若き日の面影を残すキュートなリリアン・ギッシュ。対象的なリビーとセーラの姉妹を、二人は迫真の演技でリアルに表現する。

ストーリー紹介をお読み頂ければ分かるように、物語には何らドラマチックなトピックは出て来ないし、派手な仕掛けもない。
あるのは、穏やかで美しい自然、過ぎ去りし日々、喪われた人々と変わり行く時代、老いと残された時間…ただ、それだけだ。大女優二人の晩年の共演という話題性はあるにせよ、本当に地味な作品である。

しかし、リビーやセーラが抱える「老いて行くことへの不安」や、「残された時間への焦燥」と言ったものは、リアルで残酷な“時の刻み”としてこの作品を観るすべての人の心に分け入って来るだろう。
リンゼイ・アンダーソンは、この姉妹の水面下の確執を丁寧に追いながら、しかし絶妙な距離感で淡々と描いて行く。

一端は袂を分かとうとした老姉妹は、再び共に生きて行くことにする。岬に行こうと言って互いの手を取るリビーとセーラの“絆”に、僕の心は静かに、けれど温かく震えた。
そして、鯨の再訪をいつまでも待ち続けるセーラと過ぎ去った昔の出来事とドライに否定するリビーという構図が、ラスト・シーンでは反対になる。
そのささやかなドラマチックさには、誰もが優しい気持ちになれるだろう。

本作は、まるで奇跡のような静かで美しい徹頭徹尾映画的な逸品。
豊穣いう言葉こそ相応しい一本である。

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NAADA「太陽のセレナーデ」2014.3.21@東新宿 真昼の月・夜の太陽

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3月21日、東新宿のライブハウス真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「太陽のセレナーデ」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが34回目。前回観たのは12月20日 、場所は同じ真昼の月・夜の太陽だった。






NAADA:RECO(vo,bodhrán)、MATSUBO(ag)+宍倉充(eb)+笹沢早織(pf)





彼らにとって今年初となるライブは、4人編成という布陣である。会場では、完成間近のフルバンド編成による3年ぶりニュー・アルバムの予約も開始された。

では、この日の感想を。

1.愛 希望、海に空
各パートとも、音の輪郭がくっきりと聴こえる分離のいい音響。抱擁力と透明感を伴ったスケールの大きなRECOのボーカルと、繊細なコーラス・ワークが会場を包む。
サポートする宍倉のトリッキーなベース・プレイと時折挿入される笹沢の印象的なピアノも効果的だ。
この日の演奏は、敬虔な祈りの如き印象であった。

2.RAINBOW
この日のPAは音の解像度が高いためか、この曲では情報量が多すぎていささか耳が疲れないでもなかった。
4人編成時のコーラス・ワークに、洗練の度合いが増していることを感じる。演奏としても、隙のなさと安定感が共存していたように思う。

3.echo
この曲は、いつものようにRECOとMATSUBO二人だけでの演奏。僕の耳にはボーカル・エコーがいささか深過ぎるように感じられて、エモーションの発露がやや過剰のように思えた。
この曲はそもそも感傷的な表情を纏っているから、とても高度な歌声のコントロールとストイックな音作りが求められる。シンプルであるが故の難曲と言っていいだろう。

4.fly
RECOがひとこと「fly」と呟き、PCのキーボード音から演奏がスタート。多分にニュー・アルバムでのフルバンド編成のアレンジを意識した音作りだと推察するが、演奏する3人が一体となったスピード感と重心の低いRECOのボーカルが圧巻。この曲でも、宍倉のトリッキーなプレイと笹沢の流麗なピアノが冴える。
揺るぎなき自信に溢れたアレンジと演奏の素晴らしさは、間違いなく本日のハイライトだろう。聴いていて、気分が高揚した。

5.僕らの色
緻密に音を構築したPC音源をフィーチャーした演奏は、エスニックなテイストを感じさせるかなり技巧的なものだった。トーキング・ドラムのような音も聴こえて、僕はナイジェリアのミュージシャンであるキング・サニー・アデのジュジュ・ミュージックを想起した。曲の後半では、リズムがマーチのように変化したのも面白い。
ただ、この曲の音像はやや拡散気味で、ボーカルが遠くから聴こえて来るような感じだった。あるいは、風呂場の中でのくぐもった音というか。それゆえに、この曲本来の持ち味であるどんどん上がって行く高揚感には足りなかったように思う。


前述したとおり、この日の演奏コンセプトはニュー・アルバムの音像をメンバー4人とMacのPCで可能な限り再現するという試みだったように感じた。
セット・リストは、言ってみれば現時点におけるNAADAスタンダードで去年のライブでも繰り返し演奏されて来た楽曲たちである。
このメンバー編成もアンサンブルがかなりこなれて来ており、とりわけコーラス・パートの向上には目を見張るものがあった。個々のプレイでも、なかなかに刺激的な攻めの演奏が聴けてスリリングであった。

ただ、個人的に印象深かったのがRECOのボーカルに感じられたスケールの大きさである。あるいは、歌に込められた意志の強さとでも言えばいいだろうか。
彼女の声が好きで僕はもう5年以上ライブに足を運んでいるけれど、この日のライブを聴いていて、こんなことを思った。

“RECOの歌を聴いていて、やはり彼女の歌が自分にとって特別なものであることを再認識する。特別だと思っているものが、やはり特別であることを確認できるだけで十分じゃないか。それ以上、一体何を求める必要があるというのだろう?”と。

それは、なかなか素敵な気分だった。その夜、実は僕がへとへとに疲れ切った体を引きずってライブ会場を訪れていたとしても、だ。

この日のライブは、かなりの手応えを感じる頼もしいパフォーマンスであった。
ニュー・アルバムももちろん楽しみだが、アルバム完成後に彼らがどのような活動を展開するのか…その辺りにも注目したいと思う。

ぽこりんちゃん@阿佐ヶ谷Yellow Vision

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2014年4月2日、阿佐ヶ谷Yellow Visionでグンジョーガクレヨン企画のライヴ「ぽこりんちゃん」を観た。
グンジョーガクレヨンの組原正さんが女装をしていて、そのキャラクターがどうやら“ぽこりんちゃん”みたいだ。





グンジョーガクレヨン:組原正(g,vo)、前田隆(b)、宮川篤(ds)

グンジョーガクレヨンといえば、Pass recordから1980年にリリースされた『GUNJOGACRAYON』の無機質なメタリックさとパーカッシヴな肉体性が共存した音が僕は好きだった。1987年にDIWレコードから出た2ndアルバムも持っている。
現在のグンジョーガクレヨンは三人編成だが、いずれも結成当初からのメンバーである。




電子変調された組原のヴォイス、かきならされるノイジーなテレキャスター、ストイックにボトムを支える前田のベース、宮川のタイトなドラム。
ただ、客席で聴いているといささか音がくぐもっており、何やら団子状に響く。とりわけ、ドラムの音の抜けが悪い。そのせいか、悪くはないのだが演奏自体が単調な気がした。
あと、組原の女装が僕にはどうにもしっくりこない。スリー・ピースでこれだけフィジカルな演奏を披露しているのだから、何も異形な演出など無用に感じる。
如何せん僕は女装的なインパクトなら成人映画館等ですっかり耐性ができているから、ちょっとやそっとのことでは異形とすら感じないのである。
その意味でも、少し物足りなさを感じたパフォーマンスであった。


日野繭子、向島ゆり子、組原正・トリオ:日野繭子(electronics)、向島ゆり子(e.violin)、組原正(g,vo)

この日の共演者である日野繭子は、元C.C.C.C.で、現在はDFH-M3とTRANSPARENTZで活動中。言わずと知れた、かつてのピンク映画界を代表するスター女優でもあった。
向島ゆり子は、PUNGOやベツニナンモクレズマでプレイした人。スウェーデンのサムラ・マンマス・マンナのリーダーだった故・ラーシュ・ホルメルとのDUOアルバムも発表している。









向島のアグレッシヴなエレクトリック・ヴァイオリンが空間を切り裂き、そこに組原の攻撃的なギターと日野の電子ノイズが被せられる。音のコラボレーションとしてはなかなかに刺激的だし、中でも向島のメロディと扇情を行き来するヴァイオリンの調べは魅力的である。
ところが、トータルとしての音像にはいささか求心力が欠けていたように思う。三人が目指すサウンドの核が、いつまで経っても見えてこないのだ。互いの音を探ってはいるものの、ダイナミズムも偶発的なカオスも生じないままにただ演奏が進んでしまったように映った。
一度音が止んでから再びノイズに戻って演奏が終わるのだが、このブレイクがメリハリにならず、その後に続けられた演奏がややもするとキレの悪さに繋がりかねない展開だった。

グンジョーガクレヨンとの差別化を図る上でも、組原が衣裳くらいはチェンジして女性三人(女装含む)の異形ノイズ・ユニット的なコンセプトでパフォーマンスを構築すべきだったように思う。
僕の個人的な音楽嗜好を言わせて頂ければ、このメンバーならDUB NOISE的な展開を期待したかったところである。
このユニットにはまだまだ可能性があると思うから、是非次を期待したいものである。

AVANTGARDE百花繚乱 挑発:ATGの時代

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3月9日から4月26日まで、ラピュタ阿佐ヶ谷にて上映された特集「AVANTGARDE百花繚乱 挑発:ATGの時代」




大手映画会社とは一線を画す芸術映画や実験的作品の配給、また独立プロダクションと提携しての製作など、日本映画界に大きな痕跡を残した日本アート・シアター・ギルド=ATG映画を29本集めた大特集である。
気にはなっていたけど近年なかなか劇場でかかることがなく、僕はこれまでATG作品をほとんど素通りして来た。今回は願ったり叶ったりの特集上映があり、すべての作品を鑑賞した。
ここ数年ピンク映画や独立系の自主製作映画を追いかけている僕にとって、独立プロとも積極的にコミットしたATG作品群は今こそきっちり対峙したい映画たちであった。ある種の頭打ち状態で閉塞感漂うマイノリティな日本映画やその作り手たちにとって、某かの指針があるのではないか…と考えたからだ。

上映されたプログラムは、以下の通り。

勅使河原宏『おとし穴』(1962)
羽仁進『彼女と彼』(1963)
黒木和雄『とべない沈黙』(1966)
今村昌平『人間蒸発』(1967)
森弘太『河 あの裏切りが重く』(1967)
羽仁進『初恋・地獄篇』(1968)
岡本喜八『肉弾』(1968)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969)
篠田正浩『心中天網島』(1969)
大島渚『少年』(1969)
松本俊夫『薔薇の葬列』(1969)
熊井啓『地の群れ』(1970)
吉田喜重『エロス+虐殺』(1970)
実相寺昭雄『無常』(1970)
吉田喜重『煉獄エロイカ』(1970)
黒木和雄『日本の悪霊』(1970)
若松孝二『天使の恍惚』(1972)
新藤兼人『鉄輪』(1972)
中島貞夫『鉄砲玉の美学』(1973)
斉藤耕一『津軽じょんがら節』(1973)
黒木和雄『竜馬暗殺』(1974)
吉田憲二『鷗よ、きらめく海を見たか めぐり逢い』(1975)
村野鐵太郎『鬼の詩』(1975)
黒木和雄『祭りの準備』(1975)
長谷川和彦『青春の殺人者』(1976)
須川栄三『日本人のへそ』(1977)
山口清一郎『北村透谷 わが冬の歌』(1977)
吉田憲二『君はいま光のなかに』(1978)
後藤幸一『正午なり』(1978)
※当時の公開順

数あるATG作品の中から、日本映画で60~70年代に絞って厳選したセレクトだと思うけど、僕自身の嗜好性もあって楽しめたものもあれば退屈に感じたものもあった。
確たる普遍性を纏った作品もあれば、時代の風雪に耐えられていない作品も当然あった。当時はトピカルであった題材や語り口が、今となっては古めかしさへと変貌してしまっているものには、観ていて一抹の寂しさと気恥ずかしさが同居してしまい、何とも居心地が悪かった。

そんな中、これら29本の作品群の中であまりの素晴らしさに僕が言葉を失ったのはこんな作品だ。

篠田正浩『心中天網島』


日本的な様式美と映画表現の前衛性、人形浄瑠璃を人間による実写で表現する慧眼とあまりに斬新な構図。本当に完璧としか言いようのない傑作だった。
唯一の不満は、紙屋治兵衛(中村吉右衛門)と小春(岩下志麻)が河原で心中を図る前の場面にほんのわずかながら弛緩があること。
ただ、それを除けば本当に一瞬たりとも息抜けない途轍もない傑作だった。
これは余談だけど、天井桟敷に在籍していた若き池島豊青年が、寺山修司の口利きで現場の手伝いをしたらしい。

岡本喜八『肉弾』


大戦末期の日本を舞台に、ある種ブラック・ジョーク的に描かれた戦争映画。とにかく、シニカルではあってもニヒリスティックに陥らない洒脱なセンス、佐藤勝の軽妙でチャーミングなテーマ曲、寺田農のユーモラスな芝居と大谷直子の眩いばかりの若さ。本当に、まったく古くならないソフィスティケーションの極致である。
ナレーションは、仲代達矢。




斉藤耕一『津軽じょんがら節』


ある意味、この映画の主役は荒れ狂う日本海の波の音と吹きすさぶ風の音、そしてばち捌きまで分かるような津軽三味線の響きかもしれない。
江波杏子と西村晃の見事な存在感、佐藤英夫のいやらしさ、新人・中川三穂子の体当たりの熱演。それに比べると、織田あきらの弱さが、本作で唯一惜しまれる点。
呆気ない無常感さえ漂うエンディングが同じ1973年公開の神代辰巳監督『恋人たちは濡れた』のエンディングとも繋がるように感じたのは、僕だけだろうか。

黒木和雄『竜馬暗殺』


史実に映画的な嘘を交えて、異色の坂本竜馬像を見事に構築した傑作。モノクロの画面に、粒子の粗い画質があたかも幕末ドキュメンタリーのように映って観る者の心をつかんで放さない。
原田芳雄、石橋蓮司、松田優作のむせ返るような男臭さに交じって咲く一輪の華中川梨絵の美しさ。当初キャスティングされていた山川れいかが病気降板しての代役だったことは、ファンには知られたエピソードだ。




これら4本の大傑作には及ばないけれど、印象深かった作品たちは、こちら。

勅使河原宏『おとし穴』…勅使河原宏と安部公房のコンビは、2年後に日本映画史に残る傑作『砂の女』を撮ることになるが、本作も如何にも安部公房的な毒とユーモアを含んだ前衛的秀作。若き日の井川比佐志と田中邦衛が、存分に魅力的な演技を披露する。

大島渚『少年』…これは、実在の事件を基に撮られた作品で、少年を演じた阿部哲夫は養護施設に収容されていた孤児だそうだ。映画的には、鬼畜然とした父親役の渡辺文雄と夫と息子の間で揺れる継母役の小山明子が凄味のある演技を見せている。
ただ、両親逮捕後の展開に、いささかの歯切れ悪さを感じるのが残念であった。

実相寺昭雄『無常』…この作品が放つ畸形的な腐臭、暗黒的な業を感じさせるエロティシズムは、まさしく背徳の極致。悪魔的な主人公を演じているのは、田村亮。
本作は、ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した。日本映画でこの賞を受賞した作品はもう一本あって、それは小林政広監督の『愛の予感』(2007)だ。

熊井啓『地の群れ』…被爆者集落、在日朝鮮人集落、被差別部落とあらゆる社会的な差別を苛烈に描いた作品。画面から漂う息苦しいまでの容赦なさは、軽く時代を越えて鋭利なナイフのように我々の胸をえぐる。
熊井がこの作品の前に撮影したのは、かの大作『黒部の太陽』(1968)だ。

上述した作品以外で佳作だと思ったのは、『初恋・地獄篇』『日本の悪霊』『祭りの準備』『青春の殺人者』『君はいま光のなかに』
作品の出来云々よりも、当時の時代をパッケージした意味で貴重な映像資料的価値を有する作品には、状況劇場が登場する『新宿泥棒日記』、ピーターのデビュー作『薔薇の葬列』、山下洋輔トリオの演奏シーンが登場する『天使の恍惚』を挙げておきたい。
ただ、これらの作品や『とべない沈黙』『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』は、当時の尖鋭的な表現が今の目で見るとどうにも古臭く感じてしまうのも事実。

個人的にまったく乗れなかったのは、『鷗よ、きらめく海を見たか めぐり逢い』『鬼の詩』『北村透谷 わが冬の歌』『正午なり』であった。

特集上映を通して感じたのは音楽の素晴らしさで、特に前期ATGにおいては、武満徹、一柳慧、湯浅譲二、黛敏郎、高橋悠治といった現代音楽を代表する作曲家のスコアが並んでいた。
また、これも独立プロ的と言っていいのかどうなのか、女優たちが潔くスパッと脱いでいるのも印象的だった。大谷直子、高橋洋子、竹下景子、原田美枝子、緑魔子、中川三穂子、等々。
もちろん、成人映画を飾った人気女優たちも出ている。田中真理、水原ゆう紀、絵沢萠子、片桐夕子、杉本美樹、芹明香、フラワー・メグ、東てる美、松井康子。
かなりの頻度で登場した俳優は、佐藤慶、寺田農、田中邦衛、渡辺文雄、小松方正、原田芳雄、戸浦六宏、あと、地味に外波山文明と下元史朗が登場する作品もあった。

いずれにしても、2か月かけてすべて観た甲斐のあった特集でありました。

三浦大輔『愛の渦』

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2014年3月1日公開の三浦大輔監督『愛の渦』




制作は間宮登良松、企画は加藤和夫、プロデューサーは岡田真・木村俊樹、企画協力は太田雄子、宣伝プロデューサーは深瀬和美、原作・脚本は三浦大輔、音楽は海田庄吾、ラインプロデューサーは坂井正徳、音楽プロデューサーは津島玄一、キャスティングはおおずさわこ、撮影は早坂伸(J.S.C.)、照明は神谷信人、美術は露木恵美子、録音は永口靖、編集は堀善介。
制作プロダクションはステアウェイ、配給はクロックワークス、宣伝協力はミラクルヴォイス、スターキャスト・ジャパン、製作は「映画 愛の渦製作委員会」(東映ビデオ、クロックワークス)。
宣伝コピーは「笑っちゃうほどむきだしの欲望 集まったのは性欲を満たしたいだけの男女。向かう先は愛か、底なしの欲望か。第50回岸田國士戯曲賞受賞の伝説の舞台、衝撃の映画化。」
2014/日本/ビスタ/DCP5.1ch/123分/R18+

本作は、三浦大輔が2005年に劇団ポツドール第13回公演として初演、第50回岸田國士戯曲賞(2006)を受賞した舞台を映画化したものである。
上映時間123分中、着衣シーンが18分30秒というのも話題となった。




こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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六本木の喧騒から少し離れた閑静な住宅街。瀟洒なマンションの一室にある秘密クラブ「ガンダーラ」は、いわゆる裏風俗店である。
時間は午前0時から早朝5時まで、料金は男性2万円・女性1千円・カップル5千円。ルールは避妊具を着用すること、行為の前にはシャワーを浴びること、女性の意思を尊重してセックスすること。
秘密裏に開設された店のホームページは、「乱交」という言葉で検索しないとヒットしないようになっている。



今宵、ここに集まったのは親からの仕送りで料金を払った陰鬱なニート(池松壮亮)、茶髪でけんかっ早そうなフリーター(新井浩文)、一見真面目そうなサラリーマン(滝藤賢一)、町工場で携帯電話のボディを作っている肥満体(駒木根隆介)、眼鏡をかけて如何にも気弱そうな大学生(門脇麦)、気の強さがにじみ出ている保育士(中村映里子)、今風の可愛いOL(三津谷葉子)、夥しい数のピアスをつけているヤバそうな女(赤澤セリ)。



店長(田中哲司)は、店のルールを説明すると出て行った。部屋に残ったのは、チャラそうな店員(窪塚洋之)。



皆が空気を読む中で、ピアス女だけがわがもの顔で振る舞っている。この女はこの店の常連らしく、店員にもあれこれと用事を言いつけている。



こう着状態を破ったのはフリーターで、彼はOLに声をかけると「お先に」といった風情でプレイルームへと消えて行った。それがきっかけとなり、次はサラリーマンと保育士が、続いて工員とピアス女がプレイルームに向かった。
部屋に残ったニートと女子大生。ニートはおずおずと女に話しかけ、ようやく二人もプレイルームへと消えた。



一番内気そうに見えた女子大生は、大きな喘ぎ声を出しながら激しくニートの体を求めた。その光景に、他の者たちも目を見張った。



とりあえず一度事が終わると、一同は緊張から解放された。で、2回戦となる前に次の相手を品定めしつつ、皆自分のことを話し始めた。
一通り下ネタ系の話が終わると、フリーターは保育士と、サラリーマンはOLとプレイルームへ。工員はピアス女、ニートは女子大生と。しかし、2回戦が終わったところで場の雰囲気にはおかしなものが漂い始める。性欲だけではなく、各々のエゴまでが解放されて行ったからだ。
男たちはピアス女のお相手だけは勘弁願いたいと思い、保育士は童貞工員のことを無理だと言った。挙句、OLの股間は臭いだの、ニートが女子大生に情を移して一人占めしようとしているだのと、一触即発の緊張感が漂って行った。

そこに、イカれた風情のカップル(柄本時生、信江勇)が加わる。二人は、自分たちの強い愛情を確認するために参加したのだと言う。女はニートと、男は女子大生とプレイルームへ。ところが、本気で感じている女を見た男が激怒。女を引っ叩くと、出て行ってしまう。女も、泣きながら男の後を追った。ニートは、女子大生の表情を窺っている。
このハプニングがガス抜きになったのか、場の雰囲気は収まった。

午前5時のアラームが鳴り、一晩の肉宴が終わったことを告げた。カーテンの隙間から、朝日が漏れ入っている。
6人は服を着て、帰り支度をしている。すると、女子大生は携帯がないと呟いた。店員は、ニートから携帯を借りると彼女の番号を押した。着信音が、彼女のバッグの奥で鳴った。
店員は、不服そうな表情を浮かべるニートの携帯から、凄んで発信履歴を消させた。女たちが先に出て行き、しばし男たちは部屋に残される。ストーキングを防ぐためだ。店長は、ピアス女を連れて出て行った。二人が付き合っていることを知って、工員は言葉を失った。

早朝の街をトボトボ歩くニートの携帯が鳴った。女子大生からだった。ニートは、喜び勇んで彼女が指定した喫茶店に向かった。
席について向き合うと、「電話してくれて、良かっ…」と言いかけるニートの言葉を遮り、女子大生は「私の番号、消して下さい」と言った。彼女は、自分の痕跡がなくなっていることをちゃんと確認したくて、念のためにニートを呼び出しただけだった。
ニートは、失望の色を浮かべて言われたとおりにすると、喫茶店を出た。



一人残って後片づけをしている店員の携帯に、妻からメールが届く。そこには、生まれたばかりの我が子の写真が添付されていた…。

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如何にも三浦大輔らしい、身も蓋もないくらいに剥き出しの欲望交錯する密室劇である。演劇としての評価はすでに固まった作品だが、それを映画に再構築することで、より直截的に明け透けな肉体性が露わになっている。
まずは、その過剰なまでの肉体性を演じきった役者陣に称賛の言葉を贈りたい。それぞれの役者が、絶妙な間と呼吸でこの個性的な作品にリアルな空気を付与していると思う。

上映時間123分中、着衣シーンが18分30秒という言葉からも明白だが、注目されるのはプレイルームにおける大胆な濡れ場の数々だろう。
ただ、物語描写の観点からいえば、見るべき個所はことが動き出すまでの心理戦的な“間”であり、次第に剥き出しになる各人のわがまま勝手なエゴイズムの方である。とりわけ、「何か話して、場の雰囲気を変えなければ…」と空回り気味に言葉を発するサラリーマンの姿は、見ていてなかなか痛い感じである。
そして濡れ場では、やはり門脇麦の魅力的な体のラインと大胆な演技がインパクト絶大だ。オープニングで店長を前にうじうじしている姿から、一度体を交わして振り切れてからの彼女では、人が違ったような変化が見えるところもこの映画の力だろう。

ただ、この密室劇を展開して収束させるために用いられたエピソードには、「三浦大輔といえども、ある種の予定調和的挿話が回避できなかったのだろうか…」という感想を持ってしまった。
具体的には、後半になってから加わるカップルに不自然さを感じるし、女子大生の携帯を探すために店員が他の客の携帯を借りるというのはどう考えてもあり得ないだろう。この店の電話を使えば済むことなのだ。
そして、店での「欲望処理のためだけの行為」の対極として、店員の家族に「新しい命が誕生した」いうシニカルなエピソードを提示したことが何とも空々しい情緒的幕引きに思えてならなかった。
まあ、女子大生がニートを突き放すところは、この作品のクールな荒涼だと思うけれど。

本作は、如何にも現代的な愛と欲を表現した一本。いささか物語的深度が感じられないところも含めて、この辺りが“今”的なのだろうか。
こういう作品を一般で作られると、成人映画はいよいよ存在意義が希薄になってしまうだろう。

余談ではあるが、ピアス女を演じた赤澤セリは作・演出家の赤澤ムックのこと。彼女は、ほたるが出演した二人芝居『トナリネ』 の演出も手掛けている。

NAADA「夜風に花を咲かせる」2014.6.25@東新宿 真昼の月・夜の太陽

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6月25日、東新宿のライブハウス真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「夜風に花を咲かせる」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが35回目。前回観たのは3月21日 、場所は同じ真昼の月・夜の太陽だった。
彼らにとって今年2度目のライブは、3年ぶりニュー・アルバム『muule』のリリース・デーでもあった。





NAADA:RECO(vo,bodhrán)、MATSUBO(ag)



では、この日の感想を。今回演奏された5曲は、すべて『muule』収録曲である。

1.overlook
レコ発らしく、『muule』1曲目に収録された曲でスタート。この日は、サポート・メンバーがいないNAADA二人だけの演奏だが、PC音源に関しては、かなり考えて音を作り込んでいるように感じた。
二人での演奏の場合、僕は最小限の音数でイマジネーション豊かに表現してみせるところが魅力だと思うのだが、この演奏においてはいささか音を畳みかけ過ぎているように感じた。何というか、やや息苦しい単調さがあったのではないか。

2.君想
出だしのシンプルさに心惹かれるが、途中からエコーやコーラスといった部分にどこか音像的ギミックを意識してしまう。恐らく、PAによる出音がかなりクリアーであることも関係しているのだろう。

3.Little Fish
NAADAのレパートリーでも、この曲くらい演奏アプローチで印象が変わるものも少ないんじゃないかな…と思う。僕がこの曲に抱くイメージというのは、フレンチ・テイストのキュートな小品というものである。
この演奏では、聴いていて音のバランスにやや違和感があった。演奏が進むにつれて情報がどんどん増えて行くような気がして、どこにフォーカスして音と対峙したらいいのかをつかみあぐねているうちに演奏が終わってしまった。

4.愛 希望、海に空
シンプルな演奏なのだけれど、どういう訳かその音像に耳が疲れてしまう。何故だろう…と戸惑いながら聴いていたのだが、後半になって音にハッキリと統一感が見えて来る。その展開は、まるで魔法のようだった。
恐らく、この夜僕が無意識に欲していたNAADAの音はこれだったのだろう。まさに、気持ちが反応したとしか言いようがない視界の開け方だった。

5.僕らの色
この日の白眉
と断言できる演奏であった。とにかく、素晴らしい。
四人編成による前回のライブでも、エスニックなテイストを感じさせるいい意味で技巧的な演奏を披露していたが、二人だけで行ったこの日の演奏はとても斬新でチャレンジ精神溢れるアレンジで歌われた。
PCによるパーカッシヴなリズムに前回はアフリカ的なテイストを感じたのだが、今回はむしろアラビックなエキゾティシズムを見た。
音を大胆に削ぎ落としRECOの歌が剥き出しになるような実験的アレンジはとても刺激的だったし、如何に彼女のヴォーカルがハートフルでスキルの高いものなのかを改めて痛感した。
演奏の後半では、マツボがかき鳴らすギターと力強さを増して行くRECOの歌声に、この曲のアイデンティティともいえる祝祭的高揚感が見事に表現されていた。
演奏が終わった後に感じるカタルシスは、優れた音楽に出逢えたことの至福としか言いようのないものであった。


多分に僕自身の体調のせいもあったと思うが、この日の演奏は前半と後半でまったく印象の異なるものであった。
音楽というものは(或いは表現というものは)、パフォーマー側・環境・オーディエンス側のコンディションが相互に作用して形作られるものだ…という至極当たり前のことをリアルに再認識した夜でもあった。
ただ、この日の「僕らの色」には、聴き手が置かれた状況くらいでは左右されない音楽的な力がみなぎっていたし、それは間違いなくNAADAにとって一つの大きな成果であったはずだ。

今後しばらく彼らにはライブの予定がないそうだが、次ステージに立つ時どんな音を聴かせてくれるのかが今から楽しみである。
待ち遠しい、本当に。

瀬々敬久『マリアの乳房』

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2014年6月14日公開の「ラブストーリーズ」シリーズvo.1、瀬々敬久監督『マリアの乳房』




企画は利倉亮、プロデューサーは江尻健司・坂井識人、脚本は瀬々敬久、キャスティングは小林良二、音楽は入江陽、撮影は斎藤幸一、録音は梅原淑行、編集は桐畑寛、助監督は松岡邦彦、制作担当は山地昇、監督助手は井上卓馬、撮影助手は花村也寸志・坂元啓二・横手三佐子、メイクは中尾あい、スチールは千葉朋昭、CGは立石勝・内海大輔、効果は丹愛、MAは高村光秀、メイキングは榎本敏郎。
製作はレジェンド・ピクチャーズ、配給・宣伝はアルゴ・ピクチャーズ。
印象文献は「ひかりの素足」宮沢賢治
宣伝コピーは、「あなたと生きていたい、この世界で―。」

2014年/日本/カラー/84分/HD/R15+


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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かつて超能力少女として世間を騒がせた真生(佐々木心音)は、テレビ収録の時にたった一度だけインチキをしたことで激しい批判に晒されマスコミから消えた。「もしスプーンが曲がらなければ、背中を向けてトリックを使ってもいいから」というディレクターの言葉を信じてのことだった。何と言っても、彼女はまだ幼い少女だったのだ。
その出来事を境に親も周囲も態度がガラッと変わり、そのことが真生の心をさらに深く傷つけた。

都会の喧騒から遠く離れた寒々しい地方都市の片隅。成人した真生は、低所得者が身を縮めるようにして生活する一角でひっそりと街角に立っては、売春していた。
真生は、肌に触れると死期が近づいている人が分かった。そして、彼女は来るべき死の恐怖を取り除くために、死期の近づいた人に体を売った。真生にとって、自分の体を提供することはある種の癒しであり祈りのようなものだった。
たった今も、真生は重篤な病に侵された老人(飯島大介)に身を任せていた。傍らにいる妻(吉田京子)は、自分の若い頃を思い出してその人を抱いて欲しい…と言った。
金を受け取り玄関から出ようとする真生に妻は「また、来てくれますね」と言うが、真生は首を振った。もう、この老人に次はないのだ。



街角に座り込んで物乞いをしている身体障害者の老人(田村泰二郎)。傍を通りかかった男(吉岡睦雄)が、疎ましそうに老人を蹴り上げた。老人が持っていた鉢から小銭が散らばった。その様子を見ていた真生は、金を拾うと老人に渡してやった。彼の手が触れた時、真生には分かった。
真生は老人を物陰に誘うと、自分の体を押し付けた。自分の若い肉体を貪る老人の頭を撫でながら、真生は「なんにも怖いことはないよ」と言った。
その様子を覗き見しているサラリーマン風の男(伊藤猛)がいた。男は、真生に声をかけると「抱かせろよ。幾らだ?」と言った。男を無視して歩いて行く真生の腕を男が掴んだ。真生は、「あなたは、違う」と言い捨てて男を振り切った。
老人が亡くなったのは、その数日後のことだ。



真生は、みすぼらしい我が家に帰ると、そのまま布団も敷かずに眠った。目を覚ますと、陽の光が差し込み何処かでさえずる鳥の鳴き声が聞こえた。
真生の前に招かざる客が現れる。中学校教師を名乗る立花(大西信満)は、彼女の超能力を撮影したいと言った。話すことなど何もないと言って真生は拒否するが、立花は執拗に食い下がった。
外出する真生の後を尾行する立花。真生は、寂れた町工場に入って行った。中には、経営者の男(首くくり栲象)が立っていた。彼女は、男を交わった後に出て行った。しばらくすると、男の妻(伊藤清美)が入って来て絶叫した。男は、首を吊って死んでいた。
その一部始終を立花は目撃した。
立花は、そのことで真生を激しく叱責した。



ずっと家の前を張り続ける立花に業を煮やした真生は、裸足で家を飛び出した。
行く当てもなく町を彷徨っていた真生は、裏通りで先日のサラリーマン風の男と他の二人の男たち(川瀬陽太と前出の吉岡睦雄)に遭遇。彼らにレイプされる。
真生を探して歩き回っていた立花は、彼女が足を傷だらけにして道に倒れているのを見つける。しかも、彼女は高熱を出していた。
嫌がる真生を背負うと立花は病院に連れて行き、その後食堂で食事した。ずっと自分を隠して孤独に生きて来た真生は、この正体不明の男に幾ばくかの親近感を抱いた。
真生は、自分の能力の一部を立花に見せた。三つの茶碗のどれかに飴玉を入れさせ、立花の手に触れてどの茶碗に隠したのかを当てるという能力だった。
しかし、立花は不満そうだった。彼は、スプーン曲げにこだわっているようだった。



立花は、一人家に帰るとベッドしか置いていない生活感のない部屋で、ハンディカムの映像を再生した。その映像の中では、妻(小橋めぐみ)が、何故自分の病気のことを隠していたのかと涙を流しながら、立花を責め続けていた。
これまでに何度繰り返し再生したか分からない映像を見ながら、今夜も立花は落涙していた。テレビのリポーターをしていた妻は、かつて世間を騒がせた超能力少女を取材しようと試みた。真生がスピリチュアル・カウンセラーをしていることを突き止めた妻は、患者を偽ってその診療室を訪ねた。
出て来た真生に取材を申し込んだが、真生はそれを拒否。何とか取材を受けてもらおうと妻が真生の腕をつかんだ時、真生は「あなた、三か月後には死んでるよ。心当たりない?」と吐き捨てた。
病院を訪れた立花の妻は、自分の病状を聞かされて絶望。夫に遺言代わりのビデオ・レターを残して自ら命を絶った。
立花が真生に近づいた真の理由は、これだった。

この町には自殺の名所として有名な陸橋があった。その橋には、自殺を思いとどまらせるためにいのちの電話が設置されていた。
思いつめた表情で、橋から下を窺う高校生(松永拓野)がいた。彼の家庭では、父親が激しい暴力を母親(安部智凛)に振るっていた。そして、彼自身は高校で酷いいじめに晒されていた。彼はふといのちの電話に目を止めると受話器を取った。オペレーターに繋がると、彼は受話器を置いた。
その様子を偶然見ていた立花は、彼に声をかけた。

その高校生は、立花に言われたとおり真生に接近した。真生は、高校生と交わった。その様子を、立花はこっそり見ていた。
事が済み高校生が出て行くと、立花が現れた。驚く真生を引っ張って、立花は雑居ビルの屋上に上がった。二人が屋上に着いたその時、高校生は屋上から飛び降りて命を絶った。
これがお前のやっていることだと立花に突きつけられた真生は、階下を見下ろし絶叫した。
真生は、立花に自分のこれまでを話した。自分の超能力を喜んでくれた母親も、テレビでのインチキを境に態度が変わったこと。過去を隠して過ごした学生時代、唯一仲の良くなった素行の良くない同級生に陥れられて彼女の仲間に輪姦されたこと。すべてに絶望し町を彷徨う中、交通事故で生死を彷徨ったこと。意識不明の中、夢とも現実ともつかないメッセージを聞いたこと。
それ以来、真生は何かの役に立ちたいと思い、この町に流れ着いて人を死の恐怖から救おうと行動していること。



真生は、初めて立花と関係を持つが、自分が立花を刺す光景を見て愕然としてしまう。立花の姿を求めて彼の家に向かった真生は、部屋に置かれたハンディカムの映像を見てしまう。

果たして、真生と立花の行く末は…。

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対極としての“死と生”に向き合い映画を作る瀬々敬久の新作は、やはり彼ならではの文体で描かれた物語であった。
荒涼とした真生の心とシンクロするような町のロケーションも魅力的だ。
ただ、随所に瀬々らしさは感じられるものの、トータルとしては4日間という撮影期間同様に性急で掘り下げ不足を感じる作品であった。
何というか、語られるべきところに言葉が不足して、さほど語る必要のないエピソードに尺が取られる…そんなチグハグな印象である。
佐々木心音が陰りのある印象深い演技を披露しているのに、言いようのないもどかしさを感じる。

超能力者がマスコミの餌食に…というのは、関口少年の例を持ち出すまでもなく昭和のオカルト・ブーム以降リアルでもフィクションでも繰り返し語られて来た定番である。
物語の導入としては不可避な陳腐さと言えなくもないが、それゆえにこそ以降の展開にストーリーテリングの質が問われることとなる。
然るに『マリアの乳房』は、真生の歩んだ過酷な道にも立花が歩んだ苦しみにも寄り添えぬまま、中途半端に映画が進められてしまう。

映画の前半、真生は死期の近い男たちに自分の肉体を提供することで彼らを死の恐怖から解放しようとする。それは、慈悲の精神とその行為によって忌まわしい自分の能力に少しでも前向きな意味を見出そうとする行為である。他者と自分自身に対する祈りと言った方がより適切かもしれない。
ところが彼女の行動は、途中から死を考えるまでに追い込まれた者たちに対して、その自殺を後押しするものへと変貌して行く。「なんにも怖いことはない」という真生のメッセージが、その本質の部分でおかしな具合に歪められてしまうのである。そこが、どうにも腑に落ちない。
高校時代のレイプ体験で人生に絶望した真生が、臨死状態で見た神の如き存在からの啓示「なんにも怖いことはない」をそのように受け止めたのだとしたら、やはりその時点で真生自身が自殺を選んでいるのではないのか?
自分は死ぬことなく他者の死を後押しするという行為は、あまりにも思考に一貫性を欠いているのではないか?

その一方で、立花の行動にも首を傾げる。彼が真生に近づいたのは、言うまでもなく愛妻を自殺へと追いやったからである。そこには、真生の行為に対する怒りと自分が妻に対して何もしてやれなかったことへの贖罪の念があったことだろう。
共に魂の核に深い傷を持つ真生と立花が結果的に惹かれざるを得ないところは、納得がいく。しかし、妻や他の者たちを死へと誘う真生を糾弾しようとする立花が、追い詰められた高校生を生贄の如く真生に近づけるという行動は、どう考えても不自然ではないか?
この行動においては、真生も立花も“同じ側”の人間だからだ。
高校生の自殺を経て二人が真の意味で結ばれ、そして結果的に別離して行くという展開には、映画的フィクショナリズムとは別の意味でどうにも無理があると思う。

この辺りのもやもや感は、小さなエピソードの中にも多分に含まれている。やはり、この物語は、もっと真生と立花の人生の苦しみに向き合ったところから語られるべきではなかったか?
その意味でも、映画の中で苦しんだ者、死んでいった者たちの誰もが癒されぬまま、映画自体が自己完結してしまったような後味の悪さが残る。

本作は、真生の超能力同様に物語自体も中途半端な苦痛のみを提示してしまう作品であった。

纐纈雅代×若林美保+不破大輔「解禁2」@吉祥寺MANDA-LA2

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2014年7月14日、吉祥寺MANDA-LA2にて纐纈雅代(sax)×若林美保(dance)+不破大輔(b)のライブ・イベント「解禁2」を観た。
この日のライブは、三人が順列組み合わせ的にコラボレーションする相手を変えながら、最後は全員のパフォーマンスで締めくくるというものだった。

では、感想を。

○若林美保ソロ

音源に合わせてソロで踊る若林美保のパフォーマンスでスタート。黒のコルセットに赤いランジェリー、シースルーの生地を羽織った姿が悩ましい。天井の梁が低いのが難点だが彼女のファンにはお馴染み、赤い縄を使っての吊りをメインに据えた演目である。
わかみほのパフォーマンスは運動量が多いというのが僕の抱くイメージなのだが、この日の踊りは意識的に動きを抑えたものだった。先ずは、そのことが印象的だった。
神経を研ぎ澄ませて繊細に踊っているのが、手に取るように感じられる。ゆるやかな動作の中に意味があり、彼女の踊りはまるで羊水に浮かんだ胎児のような安寧感に満ちていた。
続いては、コルセットを外しての踊り。縄を足首や首に巻き付けての吊りは、“ごっこ”ではなくリアルにアングラ臭濃厚なパフォーマンスである。バラッと落ちた黒髪が汗ばんだ彼女の顔にまとわりつく様も含めて。


○纐纈雅代&若林美保

纐纈雅代の演奏を聴くのは初めてだが、一音目から吐き出されるようなブロウに圧倒される。この、聴く者の心を鷲掴みにするかのような灼熱の音は凄い。剥き出しのヒリヒリした皮膚感覚である。正直、「今、こんな音を出す若手のサックス吹きがいるんだ!」と思って嬉しくなった。
迷いがなく一心にフリー・ブロウする纐纈雅代の姿は、デクスター・ゴードンのアルバム・タイトルじゃないけど“BLOWS HOT AND COOL”そのものの凛々しさである。
いささか捻りのない感想だけど、彼女の音を聴いているとエリック・ドルフィーや若松孝二監督『十三人連続暴行魔』 における阿部薫の「夕焼け小焼け」を思い浮かべてしまう。
ただ、彼女の演奏と若林美保の踊りがステージ上で化学変化を起こしたか…と問われると、残念ながら僕にはそう思えなかった。
何というか、サックスはサックス、踊りは踊りといった感じに分離したまま交わることなく二人のコラボレーションは終わってしまった気がする。
しかも、僕は踊る若林美保よりもサックスを吹きまくる纐纈雅代の方にこそ肉体性を強く感じてしまった。



○不破大輔&若林美保

決して頭を短く刈ったから…という訳じゃなく、今夜の不破大輔のベース演奏には徳の高い僧侶が唱える経文のような深遠さが聴きとれた。
一音目を聴いて思ったことは、ジャズというよりも山本邦山(まあ、山本邦山はジャズのレコードも録音しているが)の尺八や、囃子方といった純邦楽に近い音像だということである。
途中、ウッド・ベースのボディをパーカッションのように叩いたりと変幻自在なソロを聴かせる不破の演奏を前にすると、「日本人がジャズを演奏することの意味」みたいなことまで考えてしまった。素晴らしい演奏である。
ただ、纐纈の時にも感じたことだが、やはり不破と若林のコラボも“それ以上の何か”といった高みにまで至ってはいない。
最初に見せたソロでの踊りとは違い、若林美保は纐纈や不破の演奏する音を聴きながらこれまで自分が培ってきた文体なり抽斗の中から出した踊りを披露したのではないか…そんな印象を僕は受けた。
だから、悪くはないのだが目から鱗が落ちるような衝撃というほどでもなかったのである。



○纐纈雅代&不破大輔

で、先ほどとても刺激的な音を聴かせてくれた二人の演奏…なのだが、残念ながらソロの時のように圧倒されるほどの衝撃はない。
それは、二人がステージの右端と左端に離れて演奏していること、PA的に出音のバランスが今ひとつで、サックスとベースが音楽的に融合できていないこと、そもそものサウンド・バランスが良くないことが原因だと思う。
一言でいうと、ジャズ的なグルーヴに乏しいのである。難しいものだとつくづく思う。

○纐纈雅代×若林美保+不破大輔

この日の最後は、三人によるセッション。不破は、アルコでの演奏からスタート。これまでのどこかチグハグな印象とは打って変わって、最後のパフォーマンスには目を見張り耳を引きつけられる刺激に満ちていた。
先ずは演奏についてだが、このパートでは音のイニシアティヴを不破のベースが取っており、そこに纐纈がソロの時のブロウ一辺倒ではなく、時にはメロディアスに時には激しくと緩急をつけた演奏を聴かせてくれた。
不破大輔のベースと纐纈雅代のサックスに絶妙な間と音楽的対話がしっかりと聴きとれる。そこには、70年代の最も先鋭的なフリー・ジャズと比較しても遜色のない音が現出していた。途中で聴けたベース・ランニングの疾走感は、まさしく不破大輔の真骨頂だろう。
時折、纐纈が不破のベースにどう反応すべきか考えているようなところも感じたが、そこはまあ経験値の差だろう。
この二人の音に刺激を受けたのか、若林美保の踊りにもソロで見せてくれた閃きが戻って来た。自分の踊りの文体から解き放たれたように自由度が増した後半の踊りは、まさしくマルチ・パフォーマーを標榜する若林美保の面目躍如と言ったところだろう。



この日のイベントは、コラボレーションの難しさと歯車が噛み合った時の化学反応の凄さを実感できるとても意義深いものだったと思う。
もし、「解禁」に次があればもちろん観たいと思うし、纐纈雅代というサックス吹きの演奏をまた聴きたいと強く思った一夜であった。


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Transparentz vs 血と雫@秋葉原CLUB GOODMAN

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2014年7月19日、秋葉原CLUB GOODMANにてTransparentz企画ライブ第三弾「Transparentz vs 血と雫」を観た。前回のTransparentzライブは、1月25日 だった。
残念ながら、僕は対バンである血と雫のライブは観れずに帰ったのだが、Transparentzの演奏について感想を書きたい。




Transparentz:山本精一(g)、日野繭子(noise)、HIKO(ds)、Isshee(b)

この日の演奏時間は、50分くらい。演奏開始と同時に、凄まじい音圧のノイズが客席に向けて文字通り叩きつけられる。僕は、かなりステージに近い場所で聴いていたのだが、音の塊と空気の震えが体にビリビリと伝わって来て息苦しいほどだった。その破壊力は、これまでのライブでも群を抜く迫力である。「ゴジラ登場!」みたいな比喩しか思い浮かばない。




ただ、この日のPAは音が団子状にこもっていて、各パートの音が聴き分けづらい。メロディのある音楽だろうとノイズだろうと最低限の音の分離は必要だろうと僕は考えているので、その意味でもいささかのストレスを感じてしまう。破壊力というものは、やはりそれ相応のアウトプットあってのことだろう。



よく聴いていると、コズミックな効果音であったり、金属板やエフェクターによる音の歪みであったりと轟音の中にも様々な音響的ギミックが施されているのだが、出音の状態が一本調子であるために、なかなかこの日の演奏には彼らならではの音の核みたいなものが見えてこない。



「ここで、この音がもっと前に出ていれば」とか「ここで、HIKOのビートがもっとトライバルな音抜けをしていれば」とか聴いていて感じるのだが、それが上手くアウトプットされないゆえ、イけそうでイけない寸止め感みたいなフラストレーションが溜まってしまう。
ただ、轟音に反応して大きく頭や体を揺らすオーディエンスも沢山おり、彼らを見ていると、つくづくノイズというのはある種のセラピーだよなと思った。

そんな状態が続いたのだが、音像がフォーカスされたのがラストの10分である。ここから、山本とIssheeが抜けてステージに残った日野のノイズとHIKOのドラムスで終演するまでの時間は、まさしくTransparentzならではの音であった。
それを聴くにつけても、もう少しトータルで音を構築できなかったのか…という恨めしさが残る。




ただ、このバンドはまだまだ試行錯誤の段階だろうから、これからの展開が楽しみである。彼らの真価が問われるのは、恐らく次のライブだろう。

会場に来ていたDFH-M3メンバーの大西蘭子さんに挨拶してから、僕は帰途についたのだった。

菅乃廣『あいときぼうのまち』

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2014年6月21日公開の菅乃廣監督『あいときぼうのまち』



製作・エグゼクティブプロデューサーは小林直之、製作・プロデューサーは倉谷宣緒、脚本は井上淳一、撮影監督は鍋島淳裕(J.S.C)、照明は三重野聖一郎、録音は土屋和之、美術は鈴木伸二郎、衣装は佐藤真澄、編集は蛭田智子、音楽は榊原大、音響効果は丹雄二、監督補・VFXスーパーバイザーは石井良和、スタイリストは菅原香穂梨、ヘアメイクは石野一美、VFXはマリンポスト、オープニング曲「千のナイフ」(作曲:坂本龍一)、挿入歌「咲きましょう、咲かせましょう」(唄・夏樹陽子)、撮影協力はいわきフィルム・コミッション協議会、一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー。
製作は「あいときぼうのまち」映画製作プロジェクト、配給・宣伝は太秦。
宣伝コピーは「東電に翻弄された四世代の家族を通して、七十年に渡る日本の歩みを描いた愛と希望の物語。」
2013年/日本/カラー/DCP/ドルビー5.1ch/126分


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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1945年4月、福島県石川町の山奥では学徒動員の中学生たちが天然ウランの採掘を行っている。彼らはその目的を知らされていないが、ただ一人草野英雄(杉山裕右)だけが作業を指揮する陸軍技術将校の加藤大尉(瀬田直)からその目的を知らされた。戦況を一変させる新型爆弾を作る材料にするというのだ。


英雄の母・芙美(里見瑤子)は、戦争未亡人となり石川町の実家へと戻って来た。そこに妻子を残し赴任して来た加藤大尉と出逢い、不倫関係になった。そのことからか、加藤は英雄に良くしてくれた。英雄は複雑な思いを抱いているものの、およそ軍人らしからぬ飄々とした加藤のことが好きだった。



乏しい作業員数ゆえ採掘作業は遅々として進まず、そうこうしているうちに5月の空襲で原子力爆弾を研究していた早稲田の理化学研究所が焼失。新型爆弾開発はとん挫した。
やがて、広島と長崎に原爆が投下されて日本は敗戦。加藤は、妻子のいる都会へと戻って行った。残された芙美は、首を吊って自分勝手に死んでしまう。英雄を残して。


1966年、高度経済成長を続ける日本は、2年後に開催される東京オリンピックを前にいよいよ活況を呈していた。そんな社会状況の中、福島県双葉町は揺れていた。農業が中心でさしたる産業もないこの町に、東京電力が原子力発電所の建設を計画していたからだ。賛成派と反対派で町は二分されたが、徐々に住民たちは土地を手放して行った。
そんな中、頑なに土地にしがみついている英雄(沖正人)は次第に周囲から孤立して行った。英雄はやがて酒浸りになり、愛想を尽かして妻の弥生(大島葉子)は出て行った。働かなくなった父の代わりに高校生の愛子(大池容子)はバーで働いたり、新聞配達をやったりして糊口を凌いでいる。
愛子には憎からずと思っている同級生の奥村健次(伊東大翔)がいるが、健次の父親は早々に土地を手放していた。しかも、町で募集した原発推進の標語に健次が応募した「原子力 明るい未来の エネルギー」が当選。商店街のアーチに、その標語が大きく掲げられた。
愛子は、そのアーチをくぐる度苦々しい思いに駆られ、健次との仲もぎくしゃくし始めた。


双葉町の住民は、東京電力の説得に応じ次々と自分の土地を手放して行った。いつまでも自分の土地にしがみついている英雄は、安全な原発で町おこし的な雰囲気に傾く周囲からいよいよ浮き上った。「そんなに安全なら、何で東京に作らないんだ」との思いから、英雄は懐疑の念を深めて行った。
自分たちの関係を修復しようと健次は何度も愛子の前に現れ、その想いに愛子の心は揺れた。英雄の存在が煙たがれて新聞配達のバイトまでクビになってしまった愛子は、耐えがたい孤独感も手伝って健次を受け入れた。海でずぶ濡れになった体を、浜辺ににあった小屋の中で愛子は英雄に投げ出し、二人は結ばれた。


愛子は、再び前向きになろうとする。とうとう、英雄も自分の土地を手放すことにした。


父の外出中、愛子は自宅に英雄を呼んで交わった。事が済み、二人がまどろんでいると玄関の戸が激しく叩かれた。英雄が自殺したと近所の住民が知らせに来たのだ。
浜辺に寝かされた物言わぬ父親を前にして、愛子は号泣した。健次は、愛子にかけるべき言葉さえ見つからなかった。

あれから45年後の2011年、福島県南相馬市。愛子(夏樹陽子)も還暦を過ぎた。愛子は、学生運動の闘士だった西山徹(大谷亮介)と結婚、三人の子供に恵まれた。今は、長男の家族と同居している。
愛子は、孫の怜(千葉美紅)に教わりFacebookを始める。チュニジアで起こったジャスミン革命は、Facebookによって民衆が集まったという事実を知って興味を持ったのだ。怜は、Facebookで昔の恋人と繋がったことが原因で離婚する夫婦が増えていると笑った。

東京電力を定年まで勤め上げた健次(勝野洋)は、一人息子の孝之を癌で亡くした。孝之もまた東京電力で働いていたが、彼は自分が死んだら原発の危険性を裁判で争って欲しいと言い残した。
健次の妻・小百合は孝之の無念を晴らそうとしない夫に業を煮やしていた。健次は、様々な思いの板挟みになり、辛く苦しい毎日を送っている。
そんなある日、健次のFacebookに友達申請が届く。名前を確認すると、「西山愛子」とあった。


一人、喫茶店で健次のことを待つ愛子。駐車場に入った車から降りて来る男をひと目見ると、それが健次であることが愛子には分かった。
45年ぶりの再会。互いにそれぞれの年月を重ねて来た二人。はじめこそ言葉を探しながらの会話だったが、次第に二人はあの頃の二人に戻って行った。
以来、愛子は外出することが増えて行った。そのことを、一人孫の怜だけはいぶかしんでいた。
怜が懸念したとおり、愛子は健次との逢瀬を繰り返していた。健次は、息子の死に深く傷つきながらも自分の古巣でもある東京電力と対峙することもできないでいた。そのことに失望した妻とは、離婚の危機を迎えている。
45年前とは違った形で、また愛子と健次の間にあの電力会社の存在が影を落としていた。愛子は、そんな健次を自分の体で癒す以外、何の術も持ち合わせてはいなかった。

今日も愛子は車で出かけて行った。怜は、自転車を必死に漕いで後をつけた。愛子の自動車が駐車場に停まってしばらくすると、もう1台の車が入って来た。自分の車から降りた愛子は、その自動車の助手席に体を滑り込ませた。ハンドルを握っているのは、愛子と同世代の男性だった。
発進する車を再び怜は追いかけた。

愛子は、あの海辺の小屋を見に行きたいと言った。しかし、45年前に二人が初めて関係を持った思い出の場所は、跡形もなくなっていた。
浜辺に佇み、健次は「もう一度やり直したい…」と言った。しかし、愛子は首を横に振った。自分にとって健次との関係はいわば置き捨てられた宿題のようなものだったのだ、と愛子は言った。そして、愛子は健次に東電と対峙すべきだと促した。


その時、台地が激しく揺れた。

津波を恐れて二人は車に戻ったが、指したままにしておいたはずのキーが見当たらない。祖母が浮気している現場を目撃した怜が、怒りにまかせて捨てたことをもちろん二人は知る由もない。
車を諦めて走り出した二人は、高い所を目指して逃げ惑う沢山の避難住民たちと遭遇した…。

3月11日を境に、人々の暮らしは一変した。怜の家族は、福島を離れて東京に避難していた。フォト・フレームの中で微笑む愛子の遺影と共に。
祖母が亡くなったのは自分のせいだという罪悪感にかられて、怜は自分に罰を与えるかのように援助交際をするようになった。彼女は、家族も何も信じることができなくなっていた。寝た男に被災体験を話してさらに金を無心する怜は、お客が金を出し渋ると自分は未成年だと言って脅した。

そんな行き場ない日々の中、怜は「みんな、もうわすれていないか」という看板を掲げて街頭で募金活動をしている青年・沢田(黒田耕平)に遭遇する。小奇麗な身なりで帽子を被り、髪を金髪に染めた如何にも軽薄そうな青年。好奇心から、怜は沢田の後をつけた。沢田の後からラーメン屋に入った怜に、沢田は稼いだ募金からラーメンを奢った。
怜は、沢田の横に立ち自分も募金活動を始める。沢田は、自分が各地の原発を転々としている派遣労働者で、それ故に罪悪感からこんなことをしているのだと言った。彼は、怜が福島で被災したことを信じていないようだった。
怜と沢田は、互いを疎ましがりながらも不思議な交流を続けた。


怜が援交をしていることを知った沢田は、お客とホテルから出て来た怜に高級中華料理を奢らせる。食事をしている最中、大きな地震が来た。その瞬間、怜は激しく動揺してテーブルの下に身を隠した。その様子を見て、沢田は怜が本当に被災者だったことを知る。
ある日、怜は沢田にレンタカーで福島に連れて行ってもらう。彼女は、ガイガー・カウンターを取り出すと、あちこちの放射線量を計測しては落ち葉を採取してビニール袋に詰めた。
そして、更地になった場所までくると、ここがかつての自宅だったと怜は言った。沢田は、実は自分は原発のことを書こうとしているフリー・ライターなのだと言った。

夜、東京に戻って来た二人はビルの屋上にいた。怜はビニール袋の中から落ち葉をつかむとビルの屋上から投げようとした。その様子に一瞬驚きの表情を浮かべた沢田は、「これは、俺がやることだ」と言って怜からビニール袋を奪い取ると、地上に向けてばら撒いた。
玲は警察に補導されたが、あくまでも主犯の沢田にそそのかされてのことという判断でおとがめなしだった。母の博美は平身低頭で警察に何度も詫びた。青年は、実は沢田という名字でさえなかったことを怜は警察から知らされた。

帰宅した怜に、徹は愛子に来客があったことを告げた。あの日、津波を恐れて狼狽する人たちを愛子は避難誘導したのだという。そのお陰で命の助かった人がいたのだ。
さらに、徹は続けた。実は、愛子は自分が自殺するのではないか…とずっと恐れていたことを。というのも、愛子の父親と祖母がともに自ら命を断っていたからだ。そのことを考えると、悲しい事故ではあったが愛子の最期は決して不幸なだけではなかったんじゃないかと徹は言った。
その言葉に、怜の中で何かが解けるような感覚があり、彼女の両眼からは止めどなく涙が溢れた。怜は、しゃくり上げながらもこれまでずっと凍りついていた自分の心が溶けて行くのを感じていた。

怜は、一人で南相馬市の自宅跡に来ていた。愛子の遺影を地面に置くと、おもむろにホルンを取り出した。まだ家族が平穏に暮らしていたあの頃、怜は吹奏楽部でホルンを吹いていたのだ。生前祖母に聴かせることのできなかったホルンを、怜はようやく聴かせることができた。
その刹那、怜の足もとがグラリと揺れると遠方でサイレンが鳴り響いた…。

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力作では、ある。
ただ、震災・原発を扱った日本映画はどうしてかくも肩に力が入り過ぎた作品になってしまうのだろう?
園子温監督『希望の国』 、内田伸輝監督『おだやかな日常』 、本作ともに作り手が誠実に作品と向き合っていることは伝わる。
しかし、その誠実な姿勢がフィクションとしての映画製作という観点で見た時にどこか空回りしてしまっている印象を受けるのもまた事実である。ドキュメンタリーとして被災地の現状と向き合い、国の姿勢なり電力会社を糾弾するのならともかく、フィクションとして描くのであればそこに作家的な文体とフィクショナイズすることの意味性でこそその映画を問うべきである。

然るに、園子温にしろ内田伸輝にしろ、「震災・原発を題材に、真摯に直截的な作品を撮った」という部分の方をあまりにも強調し過ぎてはいないか?
『あいときぼうのまち』にも、僕は同様な匂いを感じてしまう。それは、公式ホームページに書かれた文章の至るところに顕著である。
そもそも、この三作品はともに逆説的な意味でのシニカルなタイトルがつけられているところからして共通のスタンスが窺える。
ただ、これら三作のうちでは、僕は『あいときぼうのまち』が一番観ていて“映画”として納得できる部分が大きかった。
それは、『希望の国』や『おだやかな日常』のように、あまりにも構造的ステロタイプの人々が登場しないからである。『希望の国』にしても『おだやかな日常』にしても、放射能の恐怖を鋭敏に感じ取って周囲との軋轢を恐れず自分の正しさに邁進する主人公と、それに反発するその他大勢の一般市民という図式化された善悪が登場した。
そのあまりに単純化されたストーリーテリングに、僕は鼻白む思いだった。政府や電力会社はともかく、同じように被災して不安に怯える人々を単純化して善悪の色分けをする姿勢に、僕はどうしても作り手の傲慢を感じて馴染めなかったのだ。

震災を描いた映画で、僕が最も評価するのは小林政広監督『ギリギリの女たち』 である。この作品は、震災によって邂逅する三姉妹のそれまでの人生と家族としての関係性を描き出した映画で、あえて震災そのものを直截的に描かないところに作り手の強い意志と真摯さを感じた。
極々個人的な人の生を描いたとしても、被災地の深刻な傷跡はその空気感として映画のあらゆる個所に影を落とし、観る者に突き刺さった。そこには、分かりやすく図式化された善も悪も登場しない。提示されるのは、あくまでも登場人物一人ひとりの過酷な人生だけである。
それがフィクションとして震災と向き合うことだ…と、僕には深く納得できたのである。

その意味において、『あいときぼうのまち』は東京電力側になびいた住民たちをある種図式化して描いている部分こそ否定できないが、より主人公たちの個人的生活に絞り込んで描いているところに好感が持てる。やはり、フィクションを標榜するのであれば人の営みそのものを描くべきだと僕は考える。
結局のところ、人の日々の生活なり思いというものは、個人的なエゴや欲望、そしてささやかな自分にとっての幸せに向けられるものだから。先ずはそのことあってこそ、それを脅かす外界の敵に目が向くのである。

ドラマ的に見た場合、芙美と英雄の自殺や家庭を捨てて出て行った弥生にいささかの物語的ご都合主義を感じるが、愛子と健次の関係性には映画的な力がある。
そして、健次と亡くなった息子の関係性にも菅乃監督や脚本を担当した井上淳一の思いを感じる。
この映画で問題なのは、“今”の描き方である。自虐的になって援助交際を繰り返す怜と募金詐欺をする沢田、この二人の物語があまりにも弱いのだ。そもそも、援交という設定にある種の手詰まり感があるし、それまでの登場人物たちと比較して怜と沢田の人間像を作り手側が掌握しかねているのではないか?
何というか、四世代にわたる家族の物語の帰結として、ちょっとこれはないんじゃないか…と思う。

役者陣について言及すると、僕にとってこの映画の魅力は夏樹陽子大池容子の熱演に尽きる。
先入観と言ってしまえばそれまでだが、夏樹陽子のイメージというと、2時間ドラマによくキャスティングされていた女優…程度の印象だった。しかし、この作品における夏樹陽子の若々しい躍動には目を見張った。年齢はそれなりに重ねたが、今の夏樹にしか出せない強さと可愛らしさを内包した愛子という女性象を見事に演じていたと思う。
そして、愛子の少女時代を演じた大池容子。頑なで不器用、それでいて健次に寄り沿わずにはいられないアンビバレントな少女像をとても魅力的に演じていたと思う。ちょっと気になる若手である。

重ねていうが、『あいときぼうのまち』は力作である。
しかし、この題材を描く場合、他の題材でフィクションを描く時と同様、あるいはそれ以上に謙虚に作品に向かうべきではないのか?
そんなことを考える作品であった。

ぱんだと笹「Sactone-Proud! 2014」@新宿SACT!

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2014年8月29日、新宿のライブハウスSACT!にて、ぱんだと笹という二人組が出演するライブ「Sactone-Proud! 2014」を観た。
突然現れたこのユニットは、NAADAファンの人ならすぐにピンとくるネーミングだろう。そんな訳で、カバー曲を中心に6曲を演奏したこの日のライブ・レビューをさらっと書いてみたい。




ぱんだと笹:RECO(vo)、笹沢早織(pf)

1.Because(手嶌葵)
この日最初に演奏された曲は、音が固まりとなってガツンとくる印象だった。二人の演奏は悪くないんだけど、音に奥行きのようなものが欲しい。何と言うか、もう少し静謐さと透明感があればなと思う。

2.やわらかな夜(orange pekoe)
こういうライブでなければ、RECOのボーカルではなかなか聴けないタイプのメロディである。笹沢のピアノが絶妙にスウィングする歌謡曲テイストの曲で、聴いていてとても楽しい。

3.うちゅうひこうしのうた(坂本真綾)
何だか、歌い回しにちょっと矢野顕子を連想する。こういう曲だと、ボーカリストとしてのRECOの力量がよく伝わってくる。音の隙間やバランスがなかなかに好ましい。

4.Break These Chain(CHARA)
この曲でもRECOはなかなか技巧的に聴かせるが、ちょっと力み過ぎかな…とも思う。もちろん会場の音楽的キャパにも問題があるのだが、トータルとしていささかの過剰を感じた。

5.隔たり(Mr.Children)
二人のハーモニーは綺麗だし、情感のある歌も悪くないんだけど、僕の好みを言わせてもらえばもう少しさりげない感じの方が好みかも。前の曲にも言えることだけど、元来RECOには声量があるから会場やPAの状況によってアウトプットのバランスが難しい。

6.キミとボク(鈴木蘭々)
躍動感あふれるRECOのボーカルとカラフルにグルーヴする笹沢のピアノ。こういうイノセントな歌唱を聴くとRECOっていいボーカリストだよなと再確認する。
これで、笹沢のコーラスがもう少し聴こえるとよかったのだが…。

7.淡香色の夏空へ(NAADA)
ちょっと音がラウドなんじゃないかな、と思う。歌の佇まいとして、夏の終わりの切なさみたいなものが感じられると素敵なのだけど。聴いていて、ちょっと疲れた。

8.RAINBOW(NAADA)
テッパンといっても差し支えない、NAADAスタンダードの一曲。NAADAで聴く時とは、ちょっと音像が違うところに新鮮さを感じる。笹沢がつけるハーモニーも美しい。徐々に音圧を上げる展開は、この夜のラストにぴったりだと思う。よい選曲である。


もちろん、NAADAの時に聴かせるシリアスさとは違うパフォーマンスだったが、個人的にはなかなか楽しめた。色んな意味でレアな演奏だったけど、音楽的な基礎体力を備えた二人だからこその良質なエンターテインメントを聴かせてくれたと思う。
アンケート用紙にカバーして欲しい曲という項目があったから、珍しくリクエストを書いておいた。いつか、聴ける機会があるとよいのだけれど。

ところで、この二人がぱんだと笹だとすれば、NAADAはぱんだと犬ということになるのかしらん?ワンワン!(笑)
それはそれとして、二人ともお疲れ様でした。

うさぎストライプと木皮成『デジタル』@こまばアゴラ劇場

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2014年9月14日こまばアゴラ劇場のマチネで、うさぎストライプと木皮成『デジタル』を観劇した。



作・演出:大池容子(うさぎストライプ・青年団)、振付:木皮成、舞台監督・照明:黒太剛亮(黒猿)、音響:角田里枝、舞台美術:伊藤健太(黒猿)、宣伝美術・プランディング:西泰宏(うさぎストライプ・青年団)、製作・ドラマターグ:金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)、制作協力:堤佳奈(アゴラ企画)、芸術監督:平田オリザ、特別協力:中村光彩/小川優江/花明里/阿部将之/若林靖/LICKT-ER/鈴木杏里/早稲田大学演劇研究会
企画制作:うさぎストライプ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、主催:(有)レトル/フォセット・コンシェルジュ



ちょっとだけ未来の日本。リアルに実感するには少し距離のあるところで、いまだ戦争が起こっている。

義肢装具士の仕事をしている亀山(亀山浩史)は、ネイリストのマコ(小瀧万梨子)との結婚には失敗したが、今は職場の後輩・菊池(菊池佳奈南)と付き合っている。
亀山は色覚異常で、彼が見ているモノクロームの世界は他の人々が見ている世界とはちょっと違っているのかも知れなかった。

マコの店のお客に、そじん(李そじん)という女の子がいた。彼女はフリーターで、足には義足を装着している。

現在、亀山は妹のカナコ(坂倉夏奈)と同居しているが、カナコは亀山の幼馴染でジャーナリスト志望だった成(木皮成)がいなくなってからというもの、家から一歩も出なくなった。
カナコは、感情表現にいささか問題を抱えており、彼女の行動は時として亀山を混乱させた。

そんなある日、亀山の幼馴染でパイロットとして世界中を飛び回っている滋(佐藤滋)がやって来る。滋は、少年のまま大人になったような男で、そのハイテンションなノリで亀山を呆れさせる。


祭りの日。亀山は菊池と出かけ、滋はカナコを祭りに連れ出そうとするが…。


僕がうさぎストライプの舞台に足を運んだのは、そもそも大池容子に関心があったからだ。菅乃廣監督『あいときぼうのまち』 を観た時、作品そのものについては色々思うところあって、その詳細は以前レビューに書いた。
キャスティング的には、『太陽にほえろ』世代にはテキサスを演じた勝野洋で、ピンク映画ファンなら里見瑤子といった感じだと思う。僕はその両方に該当するのだけれど、個人的には夏樹陽子大池容子がとても印象に残った。
しかも、大池容子は井上淳一監督『戦争と一人の女』 にも出ていたようだ。何処に出ていたのだろう?と思っていたら、ご本人から村上淳を石で殴って逃げる女学生役だったと教えて頂いた。

そんな訳で、女優としての彼女に興味を抱いて調べたら、青年団の演出部に籍を置きうさぎストライプ主宰として作・演出を手掛けていることを知った。
それで、彼女がどんな芝居を作っているのか気になって、この芝居を観たのである。こまばアゴラ劇場で初めて会った彼女は、『あきときぼうのまち』で演じていた愛子のイメージからすると、どこか華奢な印象だった。



大池本人のコメントによれば、『デジタル』という芝居は去年一年間うさぎストライプと業務提携していた木皮成を振付に迎えて“人間ピタゴラスイッチ”的なものを目指した60分だそうである。
その意味では、大池容子単独による作劇とはいささか趣を異にする作品なのかも知れない。

こまばアゴラ劇場のコンパクトな舞台には、エッシャーの騙し絵の如く天井にテーブルと椅子が吊るされ、床に蛍光灯が設置されている。
僕にとってうさぎストライプの舞台は初めてだから他の作品と比較できないのだけれど、この『デジタル』では木皮成の振付による役者の肉体性と大池の物語世界を融合することで、新たな劇空間を作ろうとしたのではないか?異種格闘技とまでは言わないが、そこにある種の化学変化を狙ったトライアルなのだと思うし、その意思は観ていても伝わる。
ただ、その試みが上手くいっているかといえば、残念ながら僕にはそう思えなかった。

一番の問題は、劇場の舞台が小さいことである。木皮成の振り付けた動きが、狭い空間の中に押し込められてしまって肉体性を獲得できていないように感じた。
そして、振付を課された役者たちは、自分の動きと科白の双方に意識が分散してしまい、いささかチグハグな演技になっているように思った。特に、他の役者との会話における“間”の取り方。何というか、相手とのタイミングを計っている空気が漂っていたのではないか。

で、『デジタル』の物語について僕が感じたのは、登場人物たちがそれぞれに喪失を背負って生きているということだ。
色覚の喪失、伴侶の喪失、体の一部の喪失、大切な人の喪失、安寧の喪失…等々。誰もが何かを喪失し続ける日常において、主人公の亀山が義肢装具士の職に就いているのは象徴的だろう。
僕が気になったのは、それぞれに人生のピースを失った登場人物たちの造形やエピソードに、どこかデジャヴと浅薄さのようなものが感じられたことである。
それに、ちょっとだけ未来の日本というエクスキューズを付けつつ戦争の臭いと立ち上げようとするには、今の日本はいささかキナ臭過ぎるようにも思う。

もちろん、この舞台を気に入って、木皮成の付けた動きを楽しめた人もたくさんいるだろうし、ひょっとすると『デジタル』で大池が提示した世界観に共鳴するには、僕がちょっとだけ過去の人間なのかもしれない。肉体的にも、感性的にも。
ただ、配布されたフライヤーには「自分以外のひとに世界がどう見えているのかが気になります。演劇が好きなのは、つくっているひとが見ている世界を一緒に見てる気になるからなのかもしれません」と大池は書いている。
彼女の言葉には僕も共感するのだけれど、残念ながら僕が観た日の舞台では大池が見ている世界を一緒に見てる気になれなかったということだ。

ただ、僕は大池容子という若き劇作家が作り出す、他者とコラボレーションしない“より大池純度の高い”芝居を観てみたいと思う。だから、予定されている次回公演『空想科学』にも足を運ぶつもりである。
相性というものはあると思うが、女優としての大池容子から受けたインパクトを思う時、彼女の表現するものの中に何か自分が感じるものがあると思うからだ。

いずれにしても、剥き出しの肉体性と精神性の両方を観客に晒す舞台って、時として残酷で過酷である。

だからこそ、劇場に足を運ぶ気になるのだけれど。

ササニシカ vs re-trick~勝敗を決めるのはアナタ!~@南青山MANDALA

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2014年9月28日、南青山MANDALAにてササニシカとRe-Trickの対バン・ライブ「ササニシカ vs re-trick~勝敗を決めるのはアナタ!~」を観た。とはいっても、翌日が早かったのでササニシカしか聴かなかったのだが。




今回、初めてササニシカのライブに足を運んだのは、NAADAのライブを時々サポートしている笹沢早織がメンバーの一人だったからである。僕は、早織ちゃんの弾くピアノの音色が好きなのだ。




ササニシカは、その名の通り笹沢早織(pf)西広樹(g)川崎綾子(ds)の三人からなるインストゥルメンタル・ユニットで、2011年春に「ジャンルレスで個性的な楽曲。風景が思い浮かぶような色彩豊かなサウンド」をテーマに活動を開始したそうである。
なお、この三人は2008年1月30日に解散した6人編成のバンド「ジムノぺディ」のメンバー(笹沢は2007年に脱退)であった。
ササニシカの音楽性の根本にはジムノペディ時代との連続性もうかがえるが、ジムノペディの楽曲を印象付けていたのが田中直美のボーカルと小林殉一のサックスだったことを考えると、目指すものは恐らく違うだろう。

僕がササニシカを動画サイト等で聴いた印象は、カッチリと端正にアレンジメントされたカラフルな音楽というもの。色んなタイプの曲があるのだが、トータルとしては80年代日本のフュージョンとプログレッシブ・ロックの中庸といった感じに聴こえた。
もちろん、音の作り自体は至って今風でテクニカルなのだが、その血肉となっている部分に関してはやや懐古的に思えなくもない。
また、技巧的という意味では一種の洒落でメンバーが行った「完全再現レコーディング」シリーズが象徴的だろう。

近くにあるライブハウス月見ル君想フには何度も行ったことがあるが、南青山MANDALAは初めてである。吉祥寺の如何にもなライブハウスMANDA-LA2とは正反対の圧倒的なラグジュアリーさに、息も詰まり気味であった…。




この日は、サポート・メンバーとして野地智啓(b)と足立浩(perc)を加えての演奏だった。

では、当日のライブの印象を。

1.パレード
出音のバランスがいささか悪いのが、結構気になる。ギターの音はくぐもってるし、ドラムは抜けないし、ベースとピアノに至ってはほとんど聴き取れない。
音像的にはやはりプログレ・ライクなサウンドに聴こえるが、せっかくの複雑なアレンジがPAのためかメリハリなく響くのが残念である。

2.オープニング
一曲目を終えると、オープニング方々カラフルな演奏。ここでは、音の分離がよくなって、しっかりと演奏の行間まで聴き取れた。ややグダり気味に笹沢が挨拶(早織ちゃん、ササニシカではMCなんだ!)してからのソロ回し。「セント・トーマス」~「ダイヤモンド・ヘッド」~「ミッシェル」~「ボーイフレンド」からのメタリカ。

3.Wabi-Sabi
イントロは音圧の高いロックなのだが、何だか純邦楽のような響きの不思議な曲で「侘び寂」のタイトルに偽りなしである…かと思えば、ノーマルなロックに揺れ戻す。
なかなかにユニークな楽曲だが、スキルの高さは伝わってもこのバンドのアイデンティティのようなものがなかなか見えない。そこがメンバー言うところのジャンルレスということなのかもしれないが、気にかかるのは一曲を束ねる音楽的な核の不在である。この曲に関していえば、その役目を担うべきは西のギターだと思うのだが。

4.Beautiful Black
対バンであるRe-trickのカヴァー。イントロのギターでわずかにタメを作っているように聴こえたのだが、次の展開になると何だかタイム感がつかめていないように感じた。むしろ、ストレートにカッティングしてくれた方が個人的には気持ちいいが。
間奏をダブ的に処理すると面白いのではないか。

5.Slide of Life
トリッキーに聴こえる導入部から、プログレ的なドラム・プレイが続く。音数が増えてもサウンドに明確なポリシーとストイックさが伝わるところがいい。トータルとして、穏やかな音像なのだ。それが、途中から疾走し始める展開も刺激的だ。
ただ、後半に入って畳みかけるようなギミックが入るところに過剰さを感じなくもない。その辺りにも、ササニシカというユニットの問題点を僕は見てしまうのだ。

6.春~カーテンコール
大和真二郎をゲスト・ボーカルに迎えての曲。彼は山下達郎「クリスマス・イブ」完全カヴァー・レコーディングの参加メンバーである。
ササニシカの楽曲としてはシンプルな演奏だが、もう少し違ったアプローチの仕方があるのではないか。ボーカルも複数のよる厚みが欲しいように思う。一人10CCみたいだな…と思って聴いていたら、「完全再現レコーディング」第二弾として10CC「I’m not in love」をカヴァーしたことを知った。

7.クリスマス・イブ
で、その山下達郎カヴァー。思うのは、完コピ・レコーディングするのはシャレ企画としては面白いが、それをそのままライブ演奏するのはどうなのかな…ということだ。せめて、このバンドならではの演奏で僕なら聴きたい。


8.樹花鳥獣奏
僕のリズム感に問題があるのかもしれないが、ところどころアンサンブルがジャストに聴こえない気がした。曲のキャラクターからすれば、スタートのギター演奏から一気に持って行くべきだと思うのだが、どうにもグルーヴし切らないもどかしさがある。
笹沢のピアノ・プレイは印象に残った。

9.タイトル未定~エンディング
ラテン的な楽しい演奏。この曲が、個人的にはこの日の白眉だと思う。しっかりした演奏だが、そこに押しつけがましさは微塵もなく、カラフルなポップさが前面に出た演奏が清々しい。
ササニシカのライブに必要なものは、この曲で聴けたようなオーディエンスに向かって開かれた自由な雰囲気ではないかと思う。
ただ、ここでいう自由さは、決して川崎綾子が披露した肉体労働者的なダンス・ステップのことではないけど(笑)


初めて彼らのライブを聴いての感想を言わせてもらうと、ササニシカは現段階ではあくまでレコーディング・ユニットなのでは?ということだ。
スタジオで構築するような整然とした音が、ライブではあまり生かされていないように思ったからだ。そう、「ライブならでは!」という魅力にまでは至っていなかったように思う。少なくとも、この日の演奏について言えば…ということだが。

思うに、「ジャンルレス」「色彩豊か」という彼らの標榜する音楽性が、ややもするとユニットとしてのアイデンティティの欠落に陥ってはいないか。
音楽的な素養も演奏技術の確かさも伝わっては来るものの、そこにササニシカとしての一本通った筋のようなものが感じられないのだ。「民主主義的な散漫」とでも表現すればいいだろうか。

ただ、次のササニシカのライブも僕は聴いてみたいと思う。
恐らく、この三人は奏でるべき自分たちの音楽がより明確になれば、化学変化を起こしそうな予感がするからである。

田尻裕司『こっぱみじん』

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2014年7月26日公開の田尻裕司監督『こっぱみじん』



プロデューサーは田尻裕司、脚本は西田直子、企画は須藤正子、キャスティングは石垣光代、撮影は飯岡聖英、美術は羽賀香織、録音は堀修生、編集は田巻源太、制作担当は坂本礼、助監督は山城達郎、衣装・メイクは鎌田英子、予告編音楽はSoRA、ロケ協力は群馬県桐生市・わたらせフィルムコミッション。製作は冒険王、配給・宣伝はトラヴィス。
宣伝コピーは「憧れの彼は私の兄を好きでした」
2013年/日本/DCP/カラー/88分

冒険王は、いまおかしんじ、田尻裕司、榎本敏郎、坂本礼(要するにピンク七福神のうちの四人)による映像制作会社であり、本作が第一回製作作品である。


こんな物語である。

地元の桐生市で新米美容師をやっている瀬戸楓(我妻三輪子)は、これといった目標もなく同業の彼氏とも惰性でずるずると付き合っている。何らモチベーションもないまま生きている楓は、当然の如く美容師としてもなかなか上達せず、同期で入った友人がカットを任させるようになってもいまだシャンプーしかやらせてもらえない。彼氏が求めて来ても、あれこれ口実をつけていまだ深い関係を避けている。
要するに、何もかも中途半端な毎日だ。



そんなある日、幼馴染で楓の憧れの人・小田拓也(中村無何有)が戻って来る。看護師になった拓也は地元を離れたが、6年ぶりに桐生市の病院に移って来たのだ。
小学校時代、拓也と楓の兄・隆太(小林竜樹)は同級生で親友同士だった。楓は、兄と拓也と一緒に遊ぶことが多く、そのうちに拓也の優しさに惹かれて行ったのだ。
小さな料理店を経営する隆太は、婚約者の今村美乃(野原有希)と同棲中で、美乃のお腹の中には子供がいた。
拓也と再会できたことで、楓の心は浮き立つ。しかも、拓也は仕事に悩む楓の話をちゃんと聞いてくれて、優しく励ましてくれた。いよいよ、楓の拓也に対する想いは強くなって行った。



しかし、拓也には大きな秘密があった。それは、彼がずっと想いを寄せる相手が隆太だということだった。その事実を知った楓は、自分の心を整理することができずに激しく動揺した。



一方、美乃の子供の父親が隆太でないことが分かり…。




あえて音楽を排し、手持ちカメラと自然光のみで撮られた作品である。暗めの画面の中に映し出されるドキュメンタリータッチの本作は、なかなかユニークでほろ苦い女の子の成長譚であった。ややツイストした青春恋愛映画として見ても、悪くない小品だと思う。

言うまでもなく本作の核になっているのは、どっちつかずに宙ぶらりんの毎日を過ごす楓と、ゲイであることを隠して孤独に苛まれながら生きる拓也の今である。
楓→拓也→隆太→美乃という如何ともしがたい一方通行の恋愛、拓也の想いを想いとして受け止める隆太、そんな拓也の気持ちを応援しつつも「好きになった人が、好きになってくれて、一生一緒にいたいって思えるなんて…奇跡だよ」と呟きながら拓也に対する自分の想いもあるがままに肯定しようとする楓…その描き方がナチュラルで、映画を観終わった後には爽やかな切なさが残る。

ただ、その一方で美乃が二股をかけて隆太以外の男の子供を妊娠する展開、しかも隆太に対しては酷い女でありながらもう一人の男にとっては都合のいい女であることにどうにも違和感を覚える。
また、それでも美乃のことを嫌いになれず、彼女に想いをぶつけようとする隆太にも僕はリアリティを感じることができなかった。
田尻が「登場人物たちがまっすぐぶつかっていくというキャラを、今のリアルとして体現できるかどうか」をこの映画で一番の課題にしたのであれば、それ以前に登場人物たちの抱く感情そのものに人間的なリアルを付与できていなければならないと思う。
その意味において、上述した二点が僕には映画としてのご都合主義的な設定に思えてならなかった。それが、本作における不満である。

また、劇中で唐突に緊急地震警報が鳴り出すシーンが挿入される。「震災以降、地震が出て来る映画には抵抗がある」と言いつつ、それと同時に「今、自分が一番感じている現実を外して映画を撮ることがどうしてもできなかった」と田尻は述べている。それが、彼にとっては地震そのものではなく“警報の音の生々しさ”だったのだそうだ。海沿いや東北地方ではなく、警報の音に人々がビクッとする反応を描くのであれば…ということで、ロケ地に桐生川沿いを選んだのだという。
しかしながら、僕は“今”“この時期”にあえて物語の本筋とは関係ない緊急地震警報の音が挿入されることで、そこに作り手的な作為や社会トピックとしての震災の匂いを感じてしまう。もちろん、田尻にそんな思いが微塵もないことだって分かっているが、それでもこの地震警報は素材としてこの映画に中途半端に組み込まれてまっているように思う。僕の個人的な受け止め方としては、ということだが。

役者陣に目を向けると、まず主人公の我妻三輪子の演技に好感を持った。楓の内的な感情のすべてを表情に出してしまうところにはリアルというより過剰さを感じてしまうものの、飾り気のない彼女の雰囲気は悪くない。
そして、中村無何有の演技にもあざとさのようなものがなくて良かったと思う。
個人的には、久しぶりにスクリーンで見た佐々木ユメカが“如何にも”な役をやっていてある種の懐かしさを感じてしまった。

本作は、いささかの問題も抱えてはいるがやや屈折した今風青春恋愛映画の良心作である。
冒険王製作の第二弾作品にも期待したい。

山本政志『水の声を聞く』

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2014年8月30日公開、山本政志監督『水の声を聞く』




プロデューサーは村岡伸一郎、ラインプロデューサーは吉川正文、脚本は山本政志、撮影は高木風太、照明は秋山恵二郎、美術は須坂文昭、録音は上條慎太郎、編集は山下健治、音楽はDr.Tommy、助監督は野沢拓臣。製作・配給はCINEMA☆IMPACT。
2014年/日本/HD/129分


こんな物語である。

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在日韓国人ミンジョン(玄里)の祖母は、済州島で尊敬を集める巫女だった。しかし、島で起こった悲惨な事件を契機に難を逃れて日本に移住。ミンジョンの母親は日本人の三樹夫(鎌滝秋浩)と結婚した。
ところが、ある日何の理由も言わずミンジョンの祖母は娘夫婦を残して故郷・済州島に戻ってしまう。人間的に問題を抱える三樹夫と別れたミンジョンの母は、韓国に戻った母親のことを怨みながら幼いミンジョンを残して早世した。



東京都新宿区のコリアンタウンの一角。ミンジョンは友人の坂井美奈(趣里)から誘われて、占いを手始めにインチキ巫女を始める。
雑居ビルの一室に大きな水槽を置き、信者から告白を受けるとミンジョンは水の声を悩める人々に伝える…ただそれだけの儀式に過ぎなかったが、口コミで彼女の評判が広がり彼女の元を訪れる信者は増えて行った。当初は軽くひと稼ぎしたら辞めるつもりだったが、いつしかミンジョンと美奈は後に引けなくなる。




ミンジョンのことを聞きつけた広告代理店の赤尾(村上淳)は、彼女に接近。一時はミンジョンと男女関係も持ったが、彼の目的はミンジョンを利用することだった。ほどなく、宗教団体として真教・神の水が設立され、ミンジョン達の活動はより具体的にシステムナイズされて行く。




ブレーンとして教団をコントロールするのは赤尾と彼の同僚、運営をマネージメントするのは美奈、その他にもスタッフとして熱心な信者である宮沢裕太(富士たくや)と依子(西尾英子)の夫妻が加わり、いよいよミンジョンは教祖として祭り上げられて行く。
しかも、いつしか美奈は赤尾と男女関係を結んでいた。

ミンジョンの宗教が信者を集めていることを知って、三樹夫はしばしば金の無心に訪れた。今となっては何もいい印象のない父にミンジョンは借金の申し出を断るが、そんな娘のことを三樹夫は激しく罵った。というのも、彼は闇金から借金を背負っており、ヤクザの高沢(小田敬)から厳しい取り立てにあっていたからだ。
いよいよ追い詰められた三樹夫は、高沢の命令で人を一人殺すことになったが、直前で怖気づいてしまう。業を煮やした高沢は自分でターゲットに手をかけたものの、恐れをなした三樹夫は拳銃で高沢を撃つと逃走した。



行き場を失くした三樹夫は、自分がミンジョンの父親であることは隠して神の水にボランティア・スタッフとして入り込む。ミンジョンからは出て行けと言われるが、三樹夫はすでに他のスタッフや信者たちと懇意になっており、追い出すに追い出せなくなってしまう。そのまま、三樹夫は、神の水に住み込むようになった。
増え続ける信者、教祖としての重圧、インチキ巫女としての自責の念の中で、ミンジョンは苦しむようになる。そんな娘の姿を目の当たりにした三樹夫から「お前も、色々大変そうだな」と同情されるが、そんな父親の言葉に強がることさえできぬくらいミンジョンは疲弊していた。



ミンジョンが行方をくらました。しかし、今日も多くの信者たちと面会のアポイントがある。困った赤尾たちは、ミンジョンが修行に出たことにしてその代役を急ごしらえで信者の紗枝(中村夏子)にやらせる。彼女は、赤尾たちが書いた台本を暗記して何とかその場をしのいだ。




ミンジョンの不在はその後もしばらく続き、始めこそ戸惑っていた信者たちもやがては紗枝のことを受け入れて行った。
しかし、ようやく新体制が軌道に乗り始めたちょうどその時、ミンジョンが教団に戻って来る。
ミンジョンは、彼女自身のルーツを知るべく、祖母のことをよく知る人々のところを訪れていたのだ。巫女としての祖母の話を聞かせてもらううちに、ミンジョンは自分の中にも巫女としての血が流れていることを実感することができた。



自らのルーツを確認したミンジョンは、私を滅してこれからも教祖として自分を慕う信者たちの力になろうと決意した。

ミンジョンが戻って来たことを信者たちは心から歓迎したが、彼女のことを面白く思わない者もいた。紗枝はもちろんのこと、宮沢夫妻や赤尾も教祖としてのアイデンティティに目覚めたミンジョンの強さを煙たく感じていた。

ミンジョンは、自分が信じる正しき信仰の道に邁進しようとするが、彼女が行った野外での祈りの儀式の際に大きな事件が起こり…。



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なかなかユニークかつ刺激的な作品だと思う。
胡散臭い新興宗教を取り巻く人間の思惑が交錯する群像劇のようでありながら、そこに在日韓国人のコミューン、何かに取りすがろうとして集まる人々、済州島四・三事件、現代にも脈々と続く民間宗教の堂とシャーマニズムが交錯する。

登場する人々は、ヒロインのミンジョンを始め、美奈も三樹夫も赤尾も高沢も紗枝もシンジ(萩原利久)も宮沢夫妻もすべてが目の前の欲に忠実な俗物たちである。
彼らはみなそれぞれに利己的で刹那的な生き方に明け暮れしているが、神の水を取り巻く状況が変化するにつれ、ある者は破滅し、ある者は暴走し、ある者は傷つき挫折し、ある者は次の人生を模索する。

人物造形に関していえば、ヒールの側に位置する人々があまりにもステロタイプ的で気になるし、その行動の明快な短絡さも如何にも過ぎるように思う。
ただ、エセ巫女をしていた当時のミンジョンに引き寄せられる人々の姿には「鰯の頭も信心から」的な説得力を感じるし、彼らが翻弄される刹那的で自己愛にまみれた欲望にもある種の現代的なリアリティがある。
それは決して好ましいこととは言えないが、現代の閉塞的な社会状況を映し出す鏡のように思えてしまうのだ。

で、本作に一本筋を通しているのは、やはりミンジョンにルーツ回帰を促す祖母を知る人々との会話の場面と済州島の堂をロケしたシーンである。
これらの映像に、民間信仰の足腰の強さと人が祈り継ぐことの敬虔さが浮かび上がるから、映画の着地点があざとくならないのである。

個人的な感想を言わせて頂ければ、やはりこの映画はミンジョンを演じる玄里の魅力が大きいと思う。物語前半で見せる如何にも現代的な若者としてのミンジョンから、次第に彼女が巫女としてのアイデンティティを獲得して行く姿を玄里は熱演している。




また、彼女に敵愾心を燃やす紗枝役を演じた中村夏子にも不思議な魅力がある。




これで、赤尾や三樹夫や高沢にもっと深い描き方がなされていれば…と、惜しまれる。

いずれにしても、本作は刺激的な意欲作。
僕にとって玄里は今とても気になる女優の一人だが、彼女の資質を見事に引き出した一本である。

牧羊犬旗揚げ公演『國富家の三姉妹』

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2014年11月16日、池袋シアターグリーンBASE THEATERにて牧羊犬旗揚げ公演『國富家の三姉妹』千秋楽を観た。




作・演出:渋谷悠、舞台監督:新里哲太郎、照明:サイトウタカヒコ、美術:Hikaru Cho、音響:下田雅博(劇団リベラトリクス)、楽曲提供:優河、制作:渡辺柚紀代(Beethoven)、ayako、西出実華、製作:牧羊犬。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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國富家の三姉妹が、10年ぶりに揃った。それは、父である國富正蔵(黒川逸朗)が倒れて病院に搬送されたのがきっかけだった。

長女の國富薫子(森実有紀)は、キャリア・ウーマンとしてかつてバリバリ仕事していたが職場の上司・羽生田(渡邊聡)との不倫が泥沼化して心を病んでしまい、実家に引きこもって随分になる。
三女の國富ふみ(長谷川葉生)も男を見る目がなく、今はホストの伸也(たっぴー:ローレント)に貢いでいる。
唯一結婚している田村知恵子(玄里)は、彼女が子作りを拒否することが原因で夫・裕二郎(橋本仁)との仲が上手くいっていない。

三人の実母はすでに他界していたが、彼女は気性の荒い女性で正蔵とのケンカは日常茶飯事。いったん激すると、母は近くにある物を手当たり次第に夫に投げつけた。三姉妹は、その光景が恐ろしくてたまらなかった。
正蔵はそんな妻との生活に疲れ、次第に夫婦仲は冷え切って行った。そして、彼女が逝去して一年も経たぬうちに、正蔵は娘たちに付き合っている女性がいることを告げた。今から10年前のことだ。
正蔵とは20才も年が離れた茜(藤原麻希)は、薫子とさほど年が変わらない女性だった。

父の再婚が引き金となり、國富家には様々な波風が立ったが結局正蔵は自分の想いを押し切って茜と結婚した。茜は、とにかく酒好きの豪傑で細かいことにウジウジしない性格ゆえ、次第に三姉妹も彼女の存在を受け入れてしまう。
いささか無神経に過ぎるし酒癖も悪いが、根は悪い人間でもなく何と言っても父を大切にしてくれた。流石に、三姉妹は彼女を「お母さん」と呼ぶ気にはなれなかったが。
再婚以来、正蔵は前の妻の命日を三姉妹の誕生日を祝う日と決めて、この日には家族全員が集まることにすると勝手に宣言した。

自分が不倫にハマることなどないと高を括っていた薫子だったが、いざ羽生田との関係が深まると一向に妻を捨てる気配がない彼に苛立ち、次第に関係はギクシャクし出した。結局のところ羽生田が選んだのは妻であり、彼は薫子の元に戻ってはこなかった。
その喪失感は、薫子の心に深い爪痕を残し、そのことがきっかけで彼女は家から出られなくなった。それでも、彼女の首には今でも羽生田から贈られたネックレスがかけられている。あれだけ深く傷ついた関係にもかかわらず、いまだ薫子は過去に縛られ続けていた。
ところが、父の入院でバタバタしているこの家に、こともあろうに羽生田が訪ねて来る。彼は妻と別れており、独り身の寂しさから薫子の元を訪ね当てたのだった。玄関先で許しを請う羽生田を拒絶し、薫子は彼のことを激しく罵った。なす術なく、羽生田は帰って行った。

薫子とふみには告げていなかったが、知恵子は裕二郎と別居していた。知恵子は、三姉妹のうちで一番母親似だった。
かつて、母親が荒れた時に「自分は、母親になんてなりたくなかった」と暴言を吐いたことがあった。その言葉は、それ以降ずっと知恵子のことを縛り続けていた。「自分は、あんな母親のようになりたくない…」その考えに彼女は固執した。
結婚した夫は、とても優しく知恵子にベタ惚れだった。結婚する時、彼は知恵子の考えを尊重するからと言ってくれた。だから、決めた結婚だった。
しかし、彼の本心はそうではなかった。裕二郎は、子供の時から人一倍家族を持つことに強い願望を抱いていたのだ。そのことは、結婚以来二人の間にわだかまりとなって現れた。
ついに耐えきれなくなった裕二郎と、自責の念にかられて夫につい残酷な言葉をぶつけてしまう知恵子。

冷え切った夫婦関係は互いの心を蝕んで行き、いつしか裕二郎は新興宗教に走ってしまった。それが原因で、彼女は家を出たのだ。
家を出るには、安い物件を探す必要がある。そこで、知恵子が相談したのが茜だった。しかし、茜は知恵子が別居していることを今日、見舞いから戻ると酒が入っていたこともあって他の二人にバラしてしまう。薫子もふみも驚きを隠せず、知恵子は腹を立てた。
おまけに、茜は知恵子の胸が以前よりも大きくなっていることを指摘した。知恵子は、妊娠していたのだ。薫子もふみも言葉すら出なかった。

ふみは、入院して弱っている父を自分と一緒に見舞って欲しいと貢いでいる伸也に頼む。自分が今ちゃんと付き合っている恋人がいると紹介すれば、父も安心してくれると考えてのことだった。面倒臭がる伸也を、ふみは五万円で買った。

薫子の様子がおかしいのでどうしたのかと知恵子が尋ねると、薫子はしつこい宗教の勧誘があったのだと嘘を言った。それを真に受けた知恵子は、そういう輩は徹底的に撃退しなきゃダメだと語気を荒げた。知恵子の脳裏に浮かんだのは、もちろん裕二郎のことだった。
一方のふみは、姉の元をかつての不倫相手が訪ねてきたことに気づいていた。家から立ち去る羽生田の姿を目にしたからだ。かつて、姉が羽生田と仲睦まじく一緒にいるところをふみは目撃したことがあり、男の存在を覚えていたのだ。

その日、久々に再会した三姉妹と茜は、互いの距離を手探りするように微妙な空気感の中で過ごした。しばらく酒をやめていた茜は、この日はかつての酒豪が蘇ったように飲んでいた。
彼女が酒をやめたのは、正蔵が体調を崩して酒が飲めなくなったからだったが、この日弱った夫を見て、飲まずにはいられなかった。彼女は彼女で、深い悲しみと戦っていたのだ。

翌日、再び羽生田が國富家の周りをうろうろしていた。本当の事情を知らない知恵子は、ここぞとばかり羽生田を家に入れて詰問した。当然のことながら、羽生田には知恵子の話がさっぱり分からない。
家の中が騒がしかったので、薫子が居間に出て行くとそこに羽生田がいて凍りついた。ちょうど間が悪いことに、ふみが伸也を連れて来た。薫子と知恵子の予想をはるかに超えて、伸也はガチガチの軽薄ホストそのものだった。

動揺する薫子と彼女のネックレスを目にしてその真意を正そうとすがる羽生田、マイペースに家の中を混ぜ返す伸也と國富家はカオス状態だった。
そこに、病院から電話が入る。正蔵の意識がなくなったので、すぐ来てほしいとのことだった。慌てて支度する四人。茜はタクシーを呼んで来たが、やはり薫子はい玄関から出ることができなかった。何とか姉を連れ出そうと試みた知恵子とふみも、結局は諦めて病院に向かった。
ふみは伸也に一緒に来てほしいと頼んだが、伸也は意識がないのなら行ってもしょうがないから留守番していると面倒臭そうに言った。結局、家には薫子と羽生田と伸也の三人が残った。

羽生田は、ここぞとばかりにもう一度自分とやり直してほしいと薫子に懇願した。羽生田は、一方的にまくしたてるとアニエスベーの小さな箱を残し、近所のビジネスホテルで一晩中待っているからと言い残して出て行った。
しばらくはその光景を眺めていた伸也だったが、やがて退屈して居眠りを始めた。

正蔵は何とか持ち直し、三人は帰宅した。ふみは約束の五万円を渡すと、自分と一緒に見舞ってくれなかったことをなじって伸也を追い出した。彼女は、意を決して伸也のメモリーをスマホから消去した。
気がつくと、薫子の姿が見当たらなかった。激しく動揺する二人だったが、知恵子が携帯に電話すると、薫子が出た。近所で買い物をしているとのことだった。
数年も家から出られなかったというのに…二人が驚いて顔を見合わせていると、買い物袋を重そうに下げた薫子が帰って来た。

薫子は、必死に頭を下げる羽生田の目を見ているうちに、あんなに心にわだかまっていた羽生田の存在がどんどん小さくなって行くように思えたのだと言う。彼女の呪縛は解かれ、薫子はまた発作に襲われないかと冷や冷やしつつも外出してみたのだ。そして、彼女はネックレスを処分したが、ついた値はたったの千円だったと笑った。

薫子は、ケーキを買って来ていた。父親の病状が急変した日になんだが、出来れば知恵子の妊娠を祝いたいと。その言葉を聞いて、知恵子の顔がにわかに曇った。それだけは、やめてほしいと彼女は言った。自分のお腹の中にいるのは、裕二郎のとの間にできた子ではないし、実は誰が父親かも分からないのだと。
裕二郎が宗教と関わるようになって以来、知恵子はその現実から逃避するためにクラブ通いにハマった。激しいビートに合わせ我を忘れて踊っていると、たくさんの男たちが彼女に寄って来た。もちろん、体目当てであることも分かってはいたが、その時の知恵子は誰かから求められることがただただ嬉しくて、誰かれ構わず男と関係を持った。
妊娠が分かった時でさえ、これで避妊する必要がなくなったと考えたほどだった。彼女も、また病んでいたのだ。いまだ、知恵子は子供を産むのか堕ろすのか決めかねている。
結局、ケーキはホストとの関係を断ったふみを祝うための物になった。

薫子は、ちゃんと引きこもりを卒業することができたら、ボランティアを始めようと思っているのだと言った。美術館に足を運ぶ盲目の人をサポートするために、絵の解説をするスタッフをやりたいのだと言った。
そんな仕事があるのかと、知恵子とふみは驚いた。ためしに聞かせてほしいと言って、二人は目を閉じた。
薫子は、二人に美術書の絵をイメージ豊かに語った。

その時心にイメージした絵の素晴らしさを、後年知恵子は何度も生まれてきた息子(島本将司)に何度も語って聞かせた。知恵子は、単身宗教団体に乗り込むと裕二郎を奪還した。ふみの貢ぎ癖はしばらく治らなかったものの、徐々にその額は減って行ったという。

ケーキを囲んでいる三姉妹。ろうそくに灯をともすと、「願い事は決まったか?」と正蔵が尋ねる。いつも最後までぐずぐずしているのは、決まってふみだ。
皆が決めたと言って目を閉じ、灯されたろうそくの炎を一気に吹き消した…。

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いささか問題のある母親と父親の元に生まれた三姉妹の半生を描いた家族劇。フォーカスされているのは、正蔵の再婚前後と現在とを対比するここ10年間のことである。

10年の歳月の流れを表現するために、劇中やたらと「トリビアの泉」ネタとか初代iPodが強調されるコミカルなシーンがあるのだが、10年前の時代性よりもくすぐりの感覚の方にこそ古さを感じてしまう。この辺りについては、もっと風景的にサラッと時代を演出する方がよほどこの劇には適しているように思う。
また、笑いといえば酔った茜の武勇伝として郵便屋がその奇行について語るシーンがあるのだが、正直このシーンも必要とは思えない。喜劇的な側面に、もう少し洗練が必要ではないか。

物語的に見ると、感情にむらが激しくいささかエキセントリックだった母親の存在が三姉妹と父親それぞれに今でも影を落としているのだが、その影の描き方が深みに欠ける。
一番母親似だった知恵子が子供を作ることに拒否反応を持っているのはいいが、上司との不倫が原因で10年間引きこもる薫子とホストに貢ぎ続けるふみは、いささか造形が短絡的に過ぎると思う。
その他の部分も含めて、心の痛みの発露として描かれるエピソードが概して表層的に映るのだ。

また、正蔵、裕二郎、羽生田のキャラクターが、何とか強く生きようとしている三姉妹と対比する形でステロタイプ的ダメ男に描かれているところももどかしい。逞しい女と弱い男というシンメトリーに、どうしても類型的なものを僕は見てしまうのである。
その中にあって、ホストの伸也の描き方は突出してよかった。いささか登場シーンを引っ張り過ぎているのが冗長であるにせよ、彼の突き放したドライさと身も蓋もないバカバカしさは、優れて演劇的だと思う。演じているタッピーがお笑いを中心に活動している人であること大きいだろう。

役者陣に目を向けると、三姉妹を演じた女優たちはそれぞれに魅力的だが、その中でも玄里の演技には唸ってしまった。いささか定型的な女性像ともいえる知恵子であるが、彼女を演じる玄里を見ていると、役がリアルに血肉化されているのである。



また、三姉妹の中で一番ナイーブな存在ともいえるふみを演じた長谷川葉生の佇まいにも惹かれるものがあった。



その一方で、ベテランの黒川逸朗の芝居が粗っぽいように思う。ところどころ科白がつかえるのも気になった。
それから、導入部と後半でナレーションを入れる島本将司の喋りがぎこちなく、特に導入部では興を削がれる思いだった。

力作ではあるし旗揚げ公演としては健闘しているが、もう少しドラマ的な深みを望みたい舞台であった。
個人的には、玄里の演技を目の前で観ることができたのが大きな収穫であった。今後の活動がとても楽しみな女優である。

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