2015年5月3日と4日のソアレに、こまばアゴラ劇場にてうさぎストライプ公演『いないかもしれない』2部作、静ver.と動ver.を観た。
本作は、2012年の青年団自主企画にて上演した作品を大幅に手直しした再演である。作・演出の大池容子曰く、静ver.は平田オリザの作風を真似ようとしたもの、動ver.はその名の通り動く演劇ということである。フライヤーには、「現代口語演劇のいないかもしれない静ver.」「うさぎストライプのいないかもしれない動ver.」と記されている。
作・演出は大池容子、照明は角田里枝(Paddy Field)、舞台美術は濱崎賢二(青年団)、舞台美術は宮田公一、制作は石川景子(青年団)、宣伝美術は西泰宏(うさぎストライプ)、制作・ドラマターグは金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、美術監督は平田オリザ、技術協力は鈴木健介(アゴラ企画)、制作協力は木元太郎(アゴラ企画)、企画制作はうさぎストライプ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、主催は(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、協力は黒猿/Paddy Field/青年団/(有)レトル/(株)アルファセレクション/20歳の国/シバイエンジン
第四小学校の同窓会が行われた。卒業生たちも今では皆社会人となり、それぞれの人生を送っている。
どう考えてもチョイス・ミスと思われる渋谷のクラブでの一次会がお開きになり、山崎友子(長野海/植田ゆう希)は一足先に二次会の会場である小さなバーに来ている。そこは、同級生だった小田島孝之(重岡獏/埜本幸良)が経営する店で、やはり卒業生の吉岡秀俊(海老根理/亀山浩史)がバイトのバーテンダーとしてカウンターに立っている。小田島が一次会に出席していたので、吉岡は一次会には参加せず店番をしていた。
ようやく姿を現したのは、小西佳奈(小瀧万梨子)。佳奈は、友子の結婚祝いにと包みを渡した。友子が開けようとすると、恥ずかしいから後で見てと佳奈。
話し始めたところで、うっかり友子がグラスを倒してしまいアルコールが佳奈のスカートを汚した。慌ててふきんを手渡す吉岡、「私、わざとじゃないから」言い訳する友子。佳奈は、トイレに行った。佳奈が席を外すと、残った二人の間には何やら微妙な空気が流れた。
そこに、店の常連客・長谷川敦子(石川彰子/北村恵)が、続いて小野島が入って来た。小野島の話では、二次会に参加すると言っていた女子がいるというのだが、彼はその女性の名前を思い出せない。他のメンバーは、もう一度戻って彼女を連れて来いと小田島に行った。渋々、もう一度店を出て行く小田島。
先ほど、友子がグラスを倒して緊張が走ったのには訳があった。四小時代の佳奈は、クラス全員からいじめられていた。彼女はいつも一人ぼっちで、誰とも話すことなくひたすら絵を描いていた。もちろん、友子も佳奈をいじめる側だった。
今の佳奈は、四小で美術と図工を教える教師になっていた。友子は看護助手をしており、先ごろ結婚したばかりだ。
吉岡に借りたジャージに履き替えて戻って来た佳奈と友子、吉岡の会話は、何処か互いを探るような感じだったが、そこに小田島が先ほど話していた女性(堀夏子/緑川史絵)を連れて戻って来る。しかし、四人は女の顔を見てもそれが誰だか思い出せない。
一方の女は、四人のことをよく覚えており、ますます彼らは彼女に名前を聞きづらくなってしまう。携帯を教え合おうと吉岡が苦し紛れに提案しても、女は持っていないとあっさりかわした。それでは今何をしているのかたずねると、女は「人を暗闇から助け出す仕事かな…」という。
女は、次々と四小時代のことを話題に出した。かつては作家志望だった吉岡が、佳奈をモデルにして書いた物語のこと、佳奈がわざと牛乳をこぼされてよくジャージを着ていたこと、等々。彼女が一言口を開く度に、店内の温度が下がって行くようだった。
しかも、女は気にするどころかどんどん話の傷口を広げていくようにさえ見えた。そればかりか、彼女は佳奈が過去の自分と向き合おうとしていないと言って、友達が開催する勉強会に顔を出してみないかと胡散臭げな話まで持ちかける始末だ。
その頃、渋谷の街では通り魔騒動が起きており、騒然としていた。どうやら死傷者まで出たらしく、おまけに火事まで起きていた。それも、四小のそばでだ。
その事件は、彼らに重苦しい過去の事件を思い出させた。彼らの在学中、学校で火事が起き、その少し前には美術の先生が教え子に手を出したことが原因で、四小の卒業生だったその子の兄が教師を刺殺して刑務所に送られたのだ。
今日の一次会で幹事を務めた一人はこの問題兄妹の真ん中の姉で、事件後に家を出て今は恋人もできてようやく安定した暮らしを送っているらしかった。
ちなみに、小田島は当時その女の子のことが好きだった。
正体も分からぬまま、この女のせいでいよいよ店内には険悪なムードが漂い出した。彼女に挑発されたかのように、友子はかつていじめっ子だった自分の行動を棚に上げる発言をして周囲を凍りつかせた挙句、さっさと帰ってしまう。
あまりにも当時のことを詳細に記憶しているこの女のことが、残された三人には不気味にさえ感じられてくる。
一体、この女は何者なのか?
そして、いじめられていた当時の記憶を蘇らされた佳奈は…。
うさぎストライプの舞台を観たのは今回が3、4回目だが、『いないかもしれない』静ver.は心の奥に封印していた暗く淀んだ記憶を暴き出されるような衝撃に満ちた作品であった。本当に、相当なインパクトである。
うさぎストライプの公演は基本的に尺一時間だが、今回の濃密にしてダークに張り詰めた物語をこの時間で描ききったことが素晴らしいと思う。というよりも、一時間で終幕したことである意味ホッとしたくらいである。それほどまでに、この演劇時間は深かったのだ。
本作について、大池は「いじめられっ子が同窓会にやって来るおはなしです。最近は、もう自分の体験や思い出に興味が無くなってきたのですが、この作品は自分のことを書いてます」「いじめられっ子だった自分も、それを演劇にする3年前の自分も、あんまり好きじゃないのですが、でも忘れられないなあという気持ちで再演してみることにしました」と書いている。
これはもう本当にどうでもいい話なのだが、実は僕も小学校時代にいじめにあったり高校時代には担任も含めてクラスのほとんどが敵…みたいなわりと困った青春時代を送って来た。まあ、今振り返ってみれば自分が異分子だったからだと思うけど、いつの時代も人々は手軽なスケープゴートを見つけ出すことで緩く連帯するみたいである。
で、大池が言っていることとはニュアンスを異にするかもしれないが、「でも忘れられないなあ」という気持ちって、本当にそうなんだよな…と思う。
こういう経験は、人の人格形成というほど大袈裟なことじゃないかもしれないが、やっぱりその後の思考回路や行動規範、あるいは判断基準のようなものに決定的な影響をもたらすからだ。いくら忘れようとしても、それは影の如くずっとついて回るものである。
とにかく、物語構成が緻密である。しかも、何かを押し付けてくることなく、登場人物たちの言動の中からドロッとしたものが湧き出てくるところがリアルかつ秀逸だ。
とりわけ、友子の保身や自己肯定を漂わす言動と人物造形は見事である。もちろん、静ver.で彼女を演じる長野海の演技力あってのことだが。
当然のことながら、本作のキーとなるのは謎の女の存在である。彼女を演じる堀夏子の捉えどころのない不気味さと確信に満ちた言説は、過去から蘇った悪意の亡霊のようである。女の口から語られるエピソードの数々は、まさに蓋をしてきた各人の心の暗部を目の前に引きずり出して白日の元に晒す呪詛のように響くのだ。
そして、かつていじめられっ子だった佳奈の表情や内面の揺れを小瀧万梨子(小瀧のみ、静動両ver.に出演)がしっかり表現しているのも素晴らしい。
結局のところ、この舞台は佳奈と友子の心の動き、謎の女のツルッとした無機質な怖さが何処まで観る者の心に揺さぶりをかけられるかが鍵となると思うのだが、その意味では演者たちは十二分に大池演出に応えていたと思う。
ただ、僕の個人的な感想を言わせて頂くと、ちょっと詰め込み過ぎかな…という思いもある。具体的に言うと、それは敦子の存在や、渋谷の事件、そして四小に災厄をもたらした兄妹のエピソードである。
もちろん、これらの素材も物語には有機的に関わって来るのだが、もう少し違ったドラマ・アプローチができなかったかと思うのだ。こういう表現はいささか何だけど、ちょっとあざとい印象を受けた。
ここまでずっと静ver.について評して来たが、動ver.についても触れたいと思う。基本的には同じ台本の上に作られた芝居だが、動ver.の演出メソッドはいわゆるうさぎストライプ的身体演劇とでも言うべきものである。僕が観た作品では、木皮成との『デジタル』と近似した構成だと思う。
印象としては、正統的なストーリーテリングの静ver.に対して、動ver.はリミックスあるいはレゲエのDUB ver.のようなリコンストラクトを施した舞台とでも言えば近いだろうか。
僕の演劇的な好みからいうと動ver.の身体性はいささか観ていてしんどいのだが、あえてこちらのヴァージョンも提示した大池の意図なり思いなりというのは分かるような気がする。
この動ver.は、静ver.で描いた演劇的世界観の解毒なのではないか…と感じるからだ。
必見の重要作だと断言する。