2015年6月3日ソワレと7日の千穐楽、東京芸術劇場シアターウエストにて城山羊の会『仲直りするために果物を』を観た。
作・演出は山内ケンジ、舞台監督は森下紀彦・神永結花、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、照明操作は高円敦美、演出部は田中政秀、演出助手は岡部たかし、衣裳は加藤和恵・平野里子、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は平野里子・渡邉美保、制作助手は山村麻由美・美馬圭子、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。製作は城山羊の会。
提携は東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)、助成は芸術文化振興基金。
協力は吉住モータース、quinada、クリオネ、イー・コンセプト、ワタナベエンターテインメント、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。
なお、前作『トロワグロTrois Grotesques』 で第59回岸田國士戯曲賞を最年長受賞した山内ケンジにとって、本作は受賞後第一作目である。
基地がある何処かの町。朽ち果てたあばら家で、添島照男(遠藤雄弥)とユリ子(吉田彩乃)の極貧兄妹が暮らしている。母親は先月他界し、照男は失業中。家賃は、数か月滞納したままだ。
ところが、質に入れたはずの母の湯呑でユリ子は水を飲んでいる。ガスを止められているから、お茶を入れることはできない。照男がどうやって質出ししたのか尋ねると、ユリ子はその辺に生えている花を摘んで売ったのだというが、どうにも話は要領を得ない。
照男は、妹がいかがわしいことをして金を作ったのではないかと勘繰る。
そこに、大家の岡崎(岡部たかし)がやって来る。もちろん、用件は家賃の催促だ。払えないのなら出て行ってもらうと言い放つ岡崎に、何とか待ってもらえないかと懇願する二人。
押し問答がしばらく続くが、話はあらぬ方向へ。昨日、岡崎はユリ子がバス停で男から金を受け取っているところを見かけたといった。照男は、やっぱり妹は体を売っているのかと思うが、当のユリ子は人違いだと否定する。
今度はこの話題で押し問答が続いたが、岡崎の携帯が鳴って中断した。彼は、「すぐに戻って来るから、待ってなさいよ」と言ってそそくさと去って行った。
岡崎を呼び出したのは、不動産会社の社長・丸山真男(岩谷健司)。イカツイ体に見るからに短気そうな丸山は、約束の金を渡せないと知るや岡崎に殴る蹴るの暴行を加えた。
すると、そこに通りかかったのは丸山の愛人で風俗嬢のキヨミ(東加奈子)。相変わらず粗暴な丸山に辟易しつつ、キヨミはトイレに行きたいと言い始める。この辺りにはコンビニや公園といったトイレのある施設もない。丸山の取り立てから逃れたい岡崎は、すぐそこに自分が大家をしている家があるから、そこのトイレを借りればいいと提案する。
岡崎がいなくなると、ユリ子は何処かに逃げようと言い出すが、照男は「大家さんを殺すしかないか…」と極論を口にした。
丸山とキヨミを連れて、岡崎は添島家に戻った。ところが、何度呼んでも家から人が出てくる気配はない。仕方なく三人が上がり込むと、家の奥から包丁を手にした照男が出てくる。照男は、大家以外にも人がいると気づくと、慌てて包丁を後ろに隠した。
今度は、照男が岡崎のことを殺すつもりだったの、いや料理してるところだったのと押し問答が繰り返されるが、奥から出てきたユリ子は、たった今死ぬつもりだったと言って話をますますややこしくした。
だったら自分が仕事紹介しようかとキヨミは言うが、当然のこと彼女が紹介するのは“風俗っぽい”仕事だ。「エッチなことはできない」とユリ子が断ると、キヨミは顔をしかめて「ムカつく」と吐き捨て、岡崎は「そもそも、仕事選べる立場じゃないでしょう」と凄んだ。
次にキヨミは、照男にホストをやってみる気はないかと尋ねた。さっきとは打って変わった猫なで声に、丸山は「随分と親切じゃないか」と嫌味を言った。しかも、照男もまんざらではなさそうで、それを見たユリ子は一緒に死のうと兄の腕を取った。
今度は、死ぬの死なないのでユリ子と照男が押し問答を始める始末だ。
その頃、添島家の裏にある空き地では、大学で教鞭を取っている森元隆樹(松井周)と妻のミドリ(石橋けい)が、散歩がてらにまったりと時間を過ごしている。ミドリはバツイチで、前の夫とはすったもんだの末に離婚した。
前の夫との間に子供はいなかったが、彼女は隆樹とはすぐにでも子供が欲しかった。そんな妻の積極さに気圧されたのか、隆樹はのらくら逃げようとするが、その態度にミドリは不信感を募らせる。「今すぐ、ここでしよう」とミドリが着ている服に手をかけたちょうどその時、叫び声が上がる。
手には包丁を持ち血のついた服を着た照男が、家から出てきた。彼の後から出てきたユリ子は全身血まみれで、地面に崩れ落ちると動かなくなった。二人を追うように、丸山、岡崎、キヨミの三人もわらわらと出て来た。
一瞬にして現場はパニック状態に陥ったが、隆樹が携帯を取り出して救急車を呼ぼうとすると、丸山はその携帯を無理やり奪い取った。この状況で連絡されては何かと面倒だと考えた丸山は、力づくでこの場をやり過ごそうとする。
ところが、事切れたと思ったユリ子が目を開けて「先生、来てくれたんだ。嬉しい」と呟き再び目を閉じたことで、状況はさらにおかしな方向へと迷走し始める。
隆樹は今わの際の際の人違いだと逃げようとするが、岡崎はユリ子と一緒にバス停にいたのは隆樹だと言った。キヨミはキヨミで、隆樹に対して何か言いたそうな表情を浮かべた。
ミドリは怪訝そうな表情を浮かべ、照男は真相が知りたいと訴えた。丸山は丸山で、何とかこの事態をうやむやにしようと躍起だ。
一度は収束するかに見えた場は、とあるきっかけでさらなるカオスへと突き進んで行くが…。
前作『トロワグロ』でも、かなりの観客動員だった城山羊の会。岸田國士戯曲賞を受賞していよいよ注目が集まる中、発表された待望の新作である。
一体、山内ケンジはどのような劇作で来るのか…。
提携は東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)、助成は芸術文化振興基金。
協力は吉住モータース、quinada、クリオネ、イー・コンセプト、ワタナベエンターテインメント、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。
なお、前作『トロワグロTrois Grotesques』 で第59回岸田國士戯曲賞を最年長受賞した山内ケンジにとって、本作は受賞後第一作目である。
基地がある何処かの町。朽ち果てたあばら家で、添島照男(遠藤雄弥)とユリ子(吉田彩乃)の極貧兄妹が暮らしている。母親は先月他界し、照男は失業中。家賃は、数か月滞納したままだ。
ところが、質に入れたはずの母の湯呑でユリ子は水を飲んでいる。ガスを止められているから、お茶を入れることはできない。照男がどうやって質出ししたのか尋ねると、ユリ子はその辺に生えている花を摘んで売ったのだというが、どうにも話は要領を得ない。
照男は、妹がいかがわしいことをして金を作ったのではないかと勘繰る。
そこに、大家の岡崎(岡部たかし)がやって来る。もちろん、用件は家賃の催促だ。払えないのなら出て行ってもらうと言い放つ岡崎に、何とか待ってもらえないかと懇願する二人。
押し問答がしばらく続くが、話はあらぬ方向へ。昨日、岡崎はユリ子がバス停で男から金を受け取っているところを見かけたといった。照男は、やっぱり妹は体を売っているのかと思うが、当のユリ子は人違いだと否定する。
今度はこの話題で押し問答が続いたが、岡崎の携帯が鳴って中断した。彼は、「すぐに戻って来るから、待ってなさいよ」と言ってそそくさと去って行った。
岡崎を呼び出したのは、不動産会社の社長・丸山真男(岩谷健司)。イカツイ体に見るからに短気そうな丸山は、約束の金を渡せないと知るや岡崎に殴る蹴るの暴行を加えた。
すると、そこに通りかかったのは丸山の愛人で風俗嬢のキヨミ(東加奈子)。相変わらず粗暴な丸山に辟易しつつ、キヨミはトイレに行きたいと言い始める。この辺りにはコンビニや公園といったトイレのある施設もない。丸山の取り立てから逃れたい岡崎は、すぐそこに自分が大家をしている家があるから、そこのトイレを借りればいいと提案する。
岡崎がいなくなると、ユリ子は何処かに逃げようと言い出すが、照男は「大家さんを殺すしかないか…」と極論を口にした。
丸山とキヨミを連れて、岡崎は添島家に戻った。ところが、何度呼んでも家から人が出てくる気配はない。仕方なく三人が上がり込むと、家の奥から包丁を手にした照男が出てくる。照男は、大家以外にも人がいると気づくと、慌てて包丁を後ろに隠した。
今度は、照男が岡崎のことを殺すつもりだったの、いや料理してるところだったのと押し問答が繰り返されるが、奥から出てきたユリ子は、たった今死ぬつもりだったと言って話をますますややこしくした。
だったら自分が仕事紹介しようかとキヨミは言うが、当然のこと彼女が紹介するのは“風俗っぽい”仕事だ。「エッチなことはできない」とユリ子が断ると、キヨミは顔をしかめて「ムカつく」と吐き捨て、岡崎は「そもそも、仕事選べる立場じゃないでしょう」と凄んだ。
次にキヨミは、照男にホストをやってみる気はないかと尋ねた。さっきとは打って変わった猫なで声に、丸山は「随分と親切じゃないか」と嫌味を言った。しかも、照男もまんざらではなさそうで、それを見たユリ子は一緒に死のうと兄の腕を取った。
今度は、死ぬの死なないのでユリ子と照男が押し問答を始める始末だ。
その頃、添島家の裏にある空き地では、大学で教鞭を取っている森元隆樹(松井周)と妻のミドリ(石橋けい)が、散歩がてらにまったりと時間を過ごしている。ミドリはバツイチで、前の夫とはすったもんだの末に離婚した。
前の夫との間に子供はいなかったが、彼女は隆樹とはすぐにでも子供が欲しかった。そんな妻の積極さに気圧されたのか、隆樹はのらくら逃げようとするが、その態度にミドリは不信感を募らせる。「今すぐ、ここでしよう」とミドリが着ている服に手をかけたちょうどその時、叫び声が上がる。
手には包丁を持ち血のついた服を着た照男が、家から出てきた。彼の後から出てきたユリ子は全身血まみれで、地面に崩れ落ちると動かなくなった。二人を追うように、丸山、岡崎、キヨミの三人もわらわらと出て来た。
一瞬にして現場はパニック状態に陥ったが、隆樹が携帯を取り出して救急車を呼ぼうとすると、丸山はその携帯を無理やり奪い取った。この状況で連絡されては何かと面倒だと考えた丸山は、力づくでこの場をやり過ごそうとする。
ところが、事切れたと思ったユリ子が目を開けて「先生、来てくれたんだ。嬉しい」と呟き再び目を閉じたことで、状況はさらにおかしな方向へと迷走し始める。
隆樹は今わの際の際の人違いだと逃げようとするが、岡崎はユリ子と一緒にバス停にいたのは隆樹だと言った。キヨミはキヨミで、隆樹に対して何か言いたそうな表情を浮かべた。
ミドリは怪訝そうな表情を浮かべ、照男は真相が知りたいと訴えた。丸山は丸山で、何とかこの事態をうやむやにしようと躍起だ。
一度は収束するかに見えた場は、とあるきっかけでさらなるカオスへと突き進んで行くが…。
前作『トロワグロ』でも、かなりの観客動員だった城山羊の会。岸田國士戯曲賞を受賞していよいよ注目が集まる中、発表された待望の新作である。
一体、山内ケンジはどのような劇作で来るのか…。
本作においても、山内は一切守勢に回ることなく、彼の持ち味であるブラックでシニカルな作風をさらに突き詰めたような作品をぶつけて来た。その誠実な姿勢には、ある種の感動すら覚える。
この『仲直りするために果物を』は、間違いなく賛否両論が渦巻く問題作だろう。僕は二回観たが、二日ともラスト前の暴力渦巻く苛烈な場面で席を立つ足音を背中に聞いた。
これまでも城山羊の会を観て来た人なら席を立つことなどないと思うが、岸田戯曲賞の看板に惹かれて足を運んだ向きには、目を背けたくなるような劇薬的舞台であったのだろう。
換言すれば、ノーマルで倫理的な観客の平常心を大きく揺さぶる演劇的フィクショナリズムに貫かれた、優れて非日常的な空間を現出させる舞台だということである。
日常性を歪ませるドロッとした悪意と理不尽な暴力、性的なメタファーと容赦のない残酷さ、良識への挑発こそが、山内演劇の核をなす重要なファクターであると言っていいだろう。
あばら家に住む貧乏な兄妹、家賃を催促する大家、その大家からさらに借金を取り立てる胡散臭げな不動産屋と風俗嬢の愛人、一見善良そうな教員夫婦…といった設定や舞台美術は、あたかも昭和の懐古的な佇まいのように映る。物語も、当初はまさしく昭和的に進んで行く。
ところが、ある時点から各人物の言動は高温に晒されたアスファルトのようにぐにゃりと歪み、物語は何処までも人間の不確かで底知れぬ強欲と自己保身の底なし沼に沈み込んで行く。
そして、登場人物たちの欲望赴くままの愚行や地位を守ろうと右往左往する滑稽さは、そのまま観客の心の奥に秘められた後ろ暗さに他ならないのだ。
だからこそ、我々はこの舞台から目を逸らすことができず、最後まで観届けた者はある種の清々しさにさえ到達することができるのだろう。
そう、この作品は毒を以て毒を征すが如くいささか過激な作品なのである。
暴力性がフル・スロットルになる嵐のような場面の後、累々と横たわる屍の中、物語は今一度空間を歪める。「誰が本当のことを言っていて、何が真実なのか…」という語り口で進んで来た舞台は、最後の最後で「果たして、何が現実なのか」というさらに大き揺さぶりをかけて来る。
暴力的に畳みかけるのではなく、大ラスで山内が仕掛けるのは城山羊の会の真骨頂ともいえる不条理に突き抜けるツイストである。
そこに、僕は劇作家・山内ケンジのアイデンティティと意地のようなものを感じて、心震えた。
しかも、本作の脚本は驚くほどに緻密であることも特筆に値するだろう。登場人物たちは噛み合わない会話をひたすら繰り返すのだが、互いを探り合うようなやり取りの一つ一つが、見事な伏線になっているのである。まるで、芸術的に張り巡らされた蜘蛛の巣のように。
役者陣は、誰もが素晴らしい演技を披露していた。出演する七人の誰か一人でもアンサンブルを乱せば、それで終わってしまうタイト・ロープ的な100分間である。そのプレッシャーたるや、相当なものだろう。
城山羊の会出演は『探索』 (2011)以来となる東加奈子の蓮っ葉な女もいいが、城山羊常連の岩谷健司、岡部たかし、石橋けいのレッド・ゾーンに振り切れるような迫真の演技に目を奪われた。
僕は『メガネ夫妻のイスタンブール旅行記』 (2011)から城山羊の会を観ているのだが、ラスト前のヴァイオレンス・シーンを観ているうちに、「あぁ、城山羊の会はとうとうここまで来たんだなぁ…」と胸に込み上げるものがあった。
感傷とは真逆の物語にもかかわらず、何だか目頭が熱くなってしまった訳だ。
この『仲直りするために果物を』は、間違いなく賛否両論が渦巻く問題作だろう。僕は二回観たが、二日ともラスト前の暴力渦巻く苛烈な場面で席を立つ足音を背中に聞いた。
これまでも城山羊の会を観て来た人なら席を立つことなどないと思うが、岸田戯曲賞の看板に惹かれて足を運んだ向きには、目を背けたくなるような劇薬的舞台であったのだろう。
換言すれば、ノーマルで倫理的な観客の平常心を大きく揺さぶる演劇的フィクショナリズムに貫かれた、優れて非日常的な空間を現出させる舞台だということである。
日常性を歪ませるドロッとした悪意と理不尽な暴力、性的なメタファーと容赦のない残酷さ、良識への挑発こそが、山内演劇の核をなす重要なファクターであると言っていいだろう。
あばら家に住む貧乏な兄妹、家賃を催促する大家、その大家からさらに借金を取り立てる胡散臭げな不動産屋と風俗嬢の愛人、一見善良そうな教員夫婦…といった設定や舞台美術は、あたかも昭和の懐古的な佇まいのように映る。物語も、当初はまさしく昭和的に進んで行く。
ところが、ある時点から各人物の言動は高温に晒されたアスファルトのようにぐにゃりと歪み、物語は何処までも人間の不確かで底知れぬ強欲と自己保身の底なし沼に沈み込んで行く。
そして、登場人物たちの欲望赴くままの愚行や地位を守ろうと右往左往する滑稽さは、そのまま観客の心の奥に秘められた後ろ暗さに他ならないのだ。
だからこそ、我々はこの舞台から目を逸らすことができず、最後まで観届けた者はある種の清々しさにさえ到達することができるのだろう。
そう、この作品は毒を以て毒を征すが如くいささか過激な作品なのである。
暴力性がフル・スロットルになる嵐のような場面の後、累々と横たわる屍の中、物語は今一度空間を歪める。「誰が本当のことを言っていて、何が真実なのか…」という語り口で進んで来た舞台は、最後の最後で「果たして、何が現実なのか」というさらに大き揺さぶりをかけて来る。
暴力的に畳みかけるのではなく、大ラスで山内が仕掛けるのは城山羊の会の真骨頂ともいえる不条理に突き抜けるツイストである。
そこに、僕は劇作家・山内ケンジのアイデンティティと意地のようなものを感じて、心震えた。
しかも、本作の脚本は驚くほどに緻密であることも特筆に値するだろう。登場人物たちは噛み合わない会話をひたすら繰り返すのだが、互いを探り合うようなやり取りの一つ一つが、見事な伏線になっているのである。まるで、芸術的に張り巡らされた蜘蛛の巣のように。
役者陣は、誰もが素晴らしい演技を披露していた。出演する七人の誰か一人でもアンサンブルを乱せば、それで終わってしまうタイト・ロープ的な100分間である。そのプレッシャーたるや、相当なものだろう。
城山羊の会出演は『探索』 (2011)以来となる東加奈子の蓮っ葉な女もいいが、城山羊常連の岩谷健司、岡部たかし、石橋けいのレッド・ゾーンに振り切れるような迫真の演技に目を奪われた。
僕は『メガネ夫妻のイスタンブール旅行記』 (2011)から城山羊の会を観ているのだが、ラスト前のヴァイオレンス・シーンを観ているうちに、「あぁ、城山羊の会はとうとうここまで来たんだなぁ…」と胸に込み上げるものがあった。
感傷とは真逆の物語にもかかわらず、何だか目頭が熱くなってしまった訳だ。
とにかく、山内ケンジは今最も注目すべき素晴らしい劇作家である。
一人でも多くの人に、城山羊の会の演劇を体験して欲しいと思う。