6月20日、「20世紀美術の巨匠、13年ぶりの大回顧展。」と銘打たれたマグリット展を見に、国立新美術館に行った。
僕は、麻布とか六本木とかいったハイ・アヴェレージの街に行くことがほとんどないから、行く度おのぼりさん状態になってしまう。前回この地を訪れたのは去年の10月14日で、同じ国立新美術館に「アメリカン・ポップ・アート展」 を見に行ったのだった。
それにしても、東京と一口に言っても街には色んな装いと価値観があるものだ。まあ、時代によって街並みもその佇まいを変貌させたりする訳で、いまや赤坂なんてパチンコ銀座みたくなっている。
いささか無粋なことを言っちゃうけど、国立新美術館の建物にしても六本木の街にしても一体どれだけのお金が動いているんだろう?…とか想像してくらくらするのは、僕が徹頭徹尾小市民だからだ。
どうでもいいけど、ヤフーの週プレNEWSに「六本木~ギロッポン」で一瞬話題になった鼠先輩の記事が掲載されていた。
ルネ・マグリットといえば、ベルギーの国民的画家でありシュルレアリスムの巨匠として20世紀を代表する芸術家というのがパブリック・イメージだろう。
今回の回顧展では、「第1章:初期作品(1920-1926)」「第2章:シュルレアリスム(1926-1930)」「第3章:最初の達成(1930-1939)」「第4章:戦時と戦後(1939-1950)」「第5章:回帰(1950-1967)」に分けて、彼の作家としての変遷を展示している。
1898年ベルギー西部のシレーヌに生まれたマグリットは、14歳の時に精神を病んでいた母親が橋から身を投げ自死したことで大きな衝撃を受ける。
その4年後、ブリュッセルの美術学校に入学。活動初期の頃、芸術界には未来派・抽象・キュビズムといった新しい潮流があり、マグリットもその影響下で様々な試みを行い、自分の方向性を模索する。
と同時に、生活のために商業デザイナーとして仕事をしたことが、彼の創作活動の血肉になって行く。当時の作品を見ると、その端正にしてグラフィカルなシンプルさがとても僕には魅力的に感じられた。
マグリットは、ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」を見て大きな感銘を受ける。幼馴染だった妻のジョルジェットと共にパリに移り、アンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちと合流して、シュルレアリスムに傾倒して行く。
3年間のパリ滞在後、マグリットはブリュッセルに戻り、以降彼はベルギーで創作活動を続けることとなった。この時期(第3章)辺りからマグリットの画家的評価は世界的にも定まって行くが、それでも画家一本では生活が厳しく彼は商業美術を手掛けていた。
マグリットという人は破天荒さとは無縁の人であったようで、その論理的で聡明な思考が彼独自の抽象性へと昇華しているところがユニークなのではないかと思ったりする。彼曰く、自身の作品は「目に見える思考」であるとのことだ。
戦争(或いはナチズム)がマグリットにもたらしたものは、反戦への直截性こそないもののその劇的ともいえる画風の変化として顕在化する。「ルノアールの時代」と称される印象派的な作品群で、それは言うまでもなく戦時下という恐怖暗黒へのアンチの提示であった。
しかし、この作品群がシュルレアリストたちから批判されたこともあり、マグリットはさらに違った絵画的アプローチを試みる。「野獣派(フォービズム)」をもじって「ヴァーシュ(牝牛)の時代」といわれる作品だったが、この画風は彼の妻も含めて周囲では誰も理解を示さなかった。
確かに、この「ルノアールの時代」「ヴァーシュの時代」の作品は、僕らがイメージするマグリット像から大きくかけ離れている。
そして、50代を迎えたマグリットは混沌とした時代を抜け出し、創作スタイルとしては原点へと回帰する。1930年代の自ら確立した画家的オリジナリティにさらなるスケールとソフィスティケーションをもって進化を遂げるのである。
そう、彼が繰り返し扱って来た球体、鈴、林檎、細い三日月、鳥、山高帽の男、葉のような樹、パイプ等を用いて、僕らがすぐに想起するイメージの魔術師としてのマグリット的な作品群が創作されたのがこの円熟期である。言うまでもないが、僕が最も惹かれるのもこの時期の作品群だ。
そして、マグリットは1967年に68歳でその生涯を閉じる。
僕が見に行ったのが土曜日の17時頃というのもあるだろうが、とにかく会場は若い人たちがその多くを占めていた。それは、多分にマグリットのある種デザイナー的でファンタジックな作風に興味を持つ若い人たちが多いからではないか?
こういう表現はいささか広告代理店的定型フレーズに過ぎるけれど、「マグリット芸術は、2015年の東京でも十分にモダンで現在進行形の刺激に満ちている」のである。
僕がマグリット作品をまとめて見たのはこれが初めてなのだが、個人的な感想を言えば「マグリットという画家は、随分と変遷を繰り返した人だったのだなぁ…」というものである。
僕の眼力が浅薄なせいだろうけど、1950年代になるまで(魅力的な作品はいくつもあるものの)僕にはマグリットの圧倒的な独自性をあまり感じ取れなかった。何というか、彼が自分の中に取り込む外的な影響がダイレクトに作品に反映されていて、その影響が描かれた作品のトーンを支配しているように思えたからだろう。
生活者としてのマグリットは、愛妻家であり、つつましやかなアパルトマンで規則正しい生活を送りながら画業に勤しむ生真面目な常識人だったようである。その生真面目さが、130点に及ぶ展示作品のすべてから伝わって来るようだった。
「人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡る」という表現があるけれど、今回の大回顧展を見ていると、国立新美術館の展示室がまるでルネ・マグリットの画家人生を投影する走馬灯のようであった。
こういう感覚に浸れることも、大回顧展に足を運ぶことの喜びだろう。
では、僕がマグリット作品から真っ先にイメージするのは何かというと、それは彼の作品を用いたりその影響下で制作されたレコード・ジャケットがたくさんあるというものである。
その幾つかを紹介しておく。
Alan Hull/Pipedream 哲学者のランプ