2015年10月24日公開、千葉誠治監督『忍者狩り(NINJA HUNTER)』。
製作・脚本・編集は千葉誠治、プロデューサーは佐藤究・下角哲也、配給は松竹メディア事業部。
本作は、第48回シッチェス国際映画祭ミッドナイトエクストリーム部門正式出品作品である。
こんな物語である。
時は、天正6年。悪夢にうなされ、薄暗い洞窟の中で飛び起きる下忍の男(三元雅芸)。突然襲い掛かって来た同じ下忍(虎牙光輝)としばし死闘を繰り広げるが、途中で相手は戦いを止め「俺は、おめえの仲間だ。伊賀の下忍で幼馴染じゃねえか」と言った。
男の名はで邪鬼、自分の名前は突悪だと教えられても、男には一切の記憶がなかった。邪鬼が指し示した洞窟の入り繰り付近には、同じ伊賀の下忍40人の死体が累々と横たわっていた。彼らを殺めたのも突悪だと言うが、彼は何一つ思い出せない。
さらに、洞窟の奥には切り殺された女下忍・楓衣(黒川芽以)の亡骸があった。
突悪は、邪鬼との腹を探り合うような会話の中で、混乱した記憶が脳内でフラッシュ・バックを繰り返し、その度に新たなる記憶が断片的に呼び覚まされて行った。どうやら、突悪は、下忍たちとの戦いの中で後頭部を石で殴られ、その衝撃で一時的に記憶を失ったようだった。
すると、洞窟に不気味な出で立ちをした新たなる忍者たちが現れる。今度は、甲賀の下忍だと言う。二人は、刺客たちをことごとく殺めて行った。
邪鬼の話は、こうだった。伊賀の下忍の中に、どうやら甲賀と通じている裏切り者がいるらしい。そこで、楓衣を甲賀に送り込み、色仕掛けで伊賀に紛れ込んでいる裏切り者を探らせ、それを密書にしたためて伊賀に持ち帰るよう命令が下された。
ところが、楓衣は洞窟内で事切れ、肝心の密書もない。どうして彼女がここにいるのかも、誰の手にかかって死んだのかも判然としないし、密書は誰かが持ち去ったのか、それともそもそもなかったのかさえ闇の中だ。
その真相を知っているであろう突悪の記憶は、いまだ核心部分が蘇っていない。
その頃、この洞窟から少し離れた廃寺で仲間の下忍二人、狐野(島津健太郎)と密通(辻本一樹)が、密書の到着を待ち詫びていた。狐野は楓衣に甲賀潜入を命じた張本人で、密通は楓衣の密書を上忍に届ける命を受けていた。
腹に一物ありそうな表情を浮かべつつ泰然として構える狐野とは対照的に、業を煮やした密通は楓衣を迎えに行くと言って林の中に消える。
ここにいても埒が明かぬと、邪鬼は仲間の待つ廃寺に移動することを提案した。せめてこの女を埋葬してからという突悪の言葉を、今は戦乱の世だと言って邪鬼は一笑に付した。
二人は廃寺目指して歩き出すが、その途中で楓衣を探しに来た密通と遭遇。そこに、密通の後を追って来た狐野も合流した。
狐野は懐に手を入れると、楓衣から渡された密書を取り出した。そして、密書に記された意外な名前を口にする…。
102分間のうちの6割以上を占める古武道まで取り入れたアクション・シーンは、息することも忘れるくらいにハイ・テンションでフィジカルな映像の連続である。主演の三元雅芸は、近年活躍目覚ましいアクション俳優で、今年に入って三池崇史監督『極道大戦争』 や西村喜廣監督『虎影』 でもキレのある動きを見せている。
三元と相対する虎牙光輝や島津健太郎も、がっちりと彼のアクションを受け止めている。
ただ、本作はアクション・シーンを除くと、あまりにも問題点が山積した作品ともいえる。役者の動き以外には見るべきものが少なく、映画とりわけ忍者映画としての魅力に乏しいのだ。
物語の語り口、あるいは演出面で緻密さを欠いた個所があまりにも目につくからである。あるいは、それも千葉監督には何らかの意図あってのことかもしれないが、だとすればその意図を僕はほとんど理解できなかった。
世界三大ファンタスティック映画祭のひとつシッチェス国際映画祭に出品された本作は、ある意味逆輸入的な忍者アクション映画である。だからこそ、“NINJA HUNTER”というタイトル・クレジットも出るのだろうが、この映画を観た印象は、何だか浅草仲見世通りで売られている外国人観光客向けの「ベタな日本土産」を手にした時の感覚に近い気がするのだ。良くも、悪くも。
もちろん、そこはあくまで意識的にそう作っているのだと思うが、今忍者映画を提示する上でこういう方向性にはいささかの戸惑いがある。下忍たちのメイクにしても、バトル・シーンでの殺陣にしても、登場人物のキャラクターにしても、あまりに戦闘ゲーム的な方向に引っ張られてはいないか?
卑近な例を挙げるなら、北野武監督が『座頭市』(2003)で市を金髪にしたりタップ・ダンスを取り入れて演出的なアップデイトを施しても、なおかつ映画としては時代劇の佇まいを残していたのとは趣を異にしているように思う。
物語について考察すると、突悪が記憶を失った状態で展開するミステリアスな前半はなかなかに興味深いのだが、話が進んで行くと「待てよ…」という感じになって来る。
こういうストーリーの場合、先ずは「本当の筋書き」があって観客を幻惑するために時間を遡って色んなギミックを施すことになると思うのだが、本作にはストーリーテリングに根本的な無理があるのではないか。
一番引っかかるのは、突悪が記憶を失っていることが物語の鍵であるにもかかわらず、彼が記憶喪失になったのは伊賀の下忍との戦いで偶発的に頭を殴られたからという設定だ。ここに、狐野の作為が介在していないことが、そもそもの物語的破綻のように感じてしまう訳だ。
また、狐野が密書を用意しているところも、物語的なご都合主義に思えて仕方がないし、そもそも彼が楓衣を甲賀に潜入させるのもいささか無理があるのではないか。
突悪の記憶が錯綜することで観るものを幻惑する仕掛けに、そもそも作り手の方が混乱してしまっているような印象さえ受けた。
人物造形についても、あまりにも類型的な下忍たちの描写が気になった。それは役者陣の演技にも言えることで、あまりにも前のめりの芝居が単調である。
もったいぶったような歯切れの悪いエンディングも、僕は感心しない。カタルシスに至らないからだ。
演出について考察すると、突悪の記憶がフラッシュ・バックする度に書き換えられた戦闘シーンがリフレインされるのだが、その度に“書き換えられた記憶以外のシーン”でもライティングやアクションが微妙に変化してしまうのがどうにも気になる。その最たるものが、突悪のほふく前進シーンである。
また、突悪がフラッシュ・バックする時の映像ギミックが、長く執拗に過ぎてかえって興醒めする。
下忍たちのメイクが忍びとは思えないド派手さで、それも如何なものか。これなら、むしろ『マッドマックス』のような近未来設定にした方が据わりいいように思う。
本作は、アクションの凄まじさのみが突出したいささか問題ありの作品。
忍者映画にも関わらず、陰影に乏しいことが何より不満な一本である。
さらに、洞窟の奥には切り殺された女下忍・楓衣(黒川芽以)の亡骸があった。
突悪は、邪鬼との腹を探り合うような会話の中で、混乱した記憶が脳内でフラッシュ・バックを繰り返し、その度に新たなる記憶が断片的に呼び覚まされて行った。どうやら、突悪は、下忍たちとの戦いの中で後頭部を石で殴られ、その衝撃で一時的に記憶を失ったようだった。
すると、洞窟に不気味な出で立ちをした新たなる忍者たちが現れる。今度は、甲賀の下忍だと言う。二人は、刺客たちをことごとく殺めて行った。
邪鬼の話は、こうだった。伊賀の下忍の中に、どうやら甲賀と通じている裏切り者がいるらしい。そこで、楓衣を甲賀に送り込み、色仕掛けで伊賀に紛れ込んでいる裏切り者を探らせ、それを密書にしたためて伊賀に持ち帰るよう命令が下された。
ところが、楓衣は洞窟内で事切れ、肝心の密書もない。どうして彼女がここにいるのかも、誰の手にかかって死んだのかも判然としないし、密書は誰かが持ち去ったのか、それともそもそもなかったのかさえ闇の中だ。
その真相を知っているであろう突悪の記憶は、いまだ核心部分が蘇っていない。
その頃、この洞窟から少し離れた廃寺で仲間の下忍二人、狐野(島津健太郎)と密通(辻本一樹)が、密書の到着を待ち詫びていた。狐野は楓衣に甲賀潜入を命じた張本人で、密通は楓衣の密書を上忍に届ける命を受けていた。
腹に一物ありそうな表情を浮かべつつ泰然として構える狐野とは対照的に、業を煮やした密通は楓衣を迎えに行くと言って林の中に消える。
ここにいても埒が明かぬと、邪鬼は仲間の待つ廃寺に移動することを提案した。せめてこの女を埋葬してからという突悪の言葉を、今は戦乱の世だと言って邪鬼は一笑に付した。
二人は廃寺目指して歩き出すが、その途中で楓衣を探しに来た密通と遭遇。そこに、密通の後を追って来た狐野も合流した。
狐野は懐に手を入れると、楓衣から渡された密書を取り出した。そして、密書に記された意外な名前を口にする…。
102分間のうちの6割以上を占める古武道まで取り入れたアクション・シーンは、息することも忘れるくらいにハイ・テンションでフィジカルな映像の連続である。主演の三元雅芸は、近年活躍目覚ましいアクション俳優で、今年に入って三池崇史監督『極道大戦争』 や西村喜廣監督『虎影』 でもキレのある動きを見せている。
三元と相対する虎牙光輝や島津健太郎も、がっちりと彼のアクションを受け止めている。
ただ、本作はアクション・シーンを除くと、あまりにも問題点が山積した作品ともいえる。役者の動き以外には見るべきものが少なく、映画とりわけ忍者映画としての魅力に乏しいのだ。
物語の語り口、あるいは演出面で緻密さを欠いた個所があまりにも目につくからである。あるいは、それも千葉監督には何らかの意図あってのことかもしれないが、だとすればその意図を僕はほとんど理解できなかった。
世界三大ファンタスティック映画祭のひとつシッチェス国際映画祭に出品された本作は、ある意味逆輸入的な忍者アクション映画である。だからこそ、“NINJA HUNTER”というタイトル・クレジットも出るのだろうが、この映画を観た印象は、何だか浅草仲見世通りで売られている外国人観光客向けの「ベタな日本土産」を手にした時の感覚に近い気がするのだ。良くも、悪くも。
もちろん、そこはあくまで意識的にそう作っているのだと思うが、今忍者映画を提示する上でこういう方向性にはいささかの戸惑いがある。下忍たちのメイクにしても、バトル・シーンでの殺陣にしても、登場人物のキャラクターにしても、あまりに戦闘ゲーム的な方向に引っ張られてはいないか?
卑近な例を挙げるなら、北野武監督が『座頭市』(2003)で市を金髪にしたりタップ・ダンスを取り入れて演出的なアップデイトを施しても、なおかつ映画としては時代劇の佇まいを残していたのとは趣を異にしているように思う。
物語について考察すると、突悪が記憶を失った状態で展開するミステリアスな前半はなかなかに興味深いのだが、話が進んで行くと「待てよ…」という感じになって来る。
こういうストーリーの場合、先ずは「本当の筋書き」があって観客を幻惑するために時間を遡って色んなギミックを施すことになると思うのだが、本作にはストーリーテリングに根本的な無理があるのではないか。
一番引っかかるのは、突悪が記憶を失っていることが物語の鍵であるにもかかわらず、彼が記憶喪失になったのは伊賀の下忍との戦いで偶発的に頭を殴られたからという設定だ。ここに、狐野の作為が介在していないことが、そもそもの物語的破綻のように感じてしまう訳だ。
また、狐野が密書を用意しているところも、物語的なご都合主義に思えて仕方がないし、そもそも彼が楓衣を甲賀に潜入させるのもいささか無理があるのではないか。
突悪の記憶が錯綜することで観るものを幻惑する仕掛けに、そもそも作り手の方が混乱してしまっているような印象さえ受けた。
人物造形についても、あまりにも類型的な下忍たちの描写が気になった。それは役者陣の演技にも言えることで、あまりにも前のめりの芝居が単調である。
もったいぶったような歯切れの悪いエンディングも、僕は感心しない。カタルシスに至らないからだ。
演出について考察すると、突悪の記憶がフラッシュ・バックする度に書き換えられた戦闘シーンがリフレインされるのだが、その度に“書き換えられた記憶以外のシーン”でもライティングやアクションが微妙に変化してしまうのがどうにも気になる。その最たるものが、突悪のほふく前進シーンである。
また、突悪がフラッシュ・バックする時の映像ギミックが、長く執拗に過ぎてかえって興醒めする。
下忍たちのメイクが忍びとは思えないド派手さで、それも如何なものか。これなら、むしろ『マッドマックス』のような近未来設定にした方が据わりいいように思う。
本作は、アクションの凄まじさのみが突出したいささか問題ありの作品。
忍者映画にも関わらず、陰影に乏しいことが何より不満な一本である。