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鵺的特別公演『鵺的第一短編集』

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2015年12月23日千穐楽、新宿眼科画廊にて鵺的初の短編公演である『鵺的第一短編集』を観た。




作・演出は高木登、照明は吉村愛子(Fantasista?ish)、音響は平井隆史・太田智子、舞台美術は袴田長武+鵺的、演出助手は田神果林(エムキチビート)、ドラマターグは中田顕史郎、アクション指導は宗形拓樹、劇中雑誌デザインは小林タクシー、宣伝美術は詩森ろば(風琴工房)、舞台写真撮影は石澤知絵子、ビデオ撮影は安藤和明(C&Cファクトリー)、制作は鵺的制作部・J-Stage Navi(島田敦子・早川あゆ)、制作協力は井上恵子(T1project)・contrail(加瀬修一)、協力はキムキチビート・チタキヨ・IVYアイヴィーカンパニー・アスタリスク・レトル・ECHOES・Krei.inc・YUYU・にしすがも創造舎、企画・製作は鵺的。


「ふいにいなくなってしまった白い猫のために」

野田宏(杉木隆幸:ECHOES)には、もうすぐ結婚式を控えた妹がいる。そして、今、彼の目の前には妹の高校時代の友人で現在は宏の恋人である日向響子(堤千穂)が座っている。響子とも知り合って長いが、宏は彼女の内面をつかみかねている。
響子は、宏のことを今でも“お兄さん”と呼び、そのことも宏を混乱させていた。響子はひとしきり昔話をした後、宏と妹がただならぬ関係だと知っていたことを告げる。
激しく動揺し、自分と妹の関係は純粋な感情だとむきになって抗弁する宏に、彼女は「お兄さんも、私のことを妹だと思って抱けばいいじゃないですか」とこともなげに言ってのけた。
宏は、ますます響子という女のことが分からなくなり…。

「くろい空、あかい夜、みどりいろの街」

三人の女が、ひとつの部屋でちょっとした修羅場を演じている。亜以(奥野亮子)という自由奔放で猫のような女に振り回される比呂子(高橋恭子:チタキヨ)と志津(中村貴子:チタクヨ)。
亜以の気持ちは比呂子へと移っており、志津との関係を清算するために、今ここにいる。ところが、志津はこの子のことを本当に理解して守ってやれるのは自分だけだと主張して譲らない。亜以は亜以で、持ち前の気紛れからか不貞腐れたまま二人を突き放すような言動を繰り返す。
比呂子は、志津に対して必死に自分の気持ちの強さを訴えるが、次第に亜以の気持ちが分からなくなってしまい、志津にある種の共感めいたものを抱き始める。ある意味、私たちは同じようにこの子に翻弄されているのではないか?
何故、ここまで志津は強気なのか。それは彼女が亜以の実の姉だからと知って、比呂子は…。

「ステディ」

ライターをしている小林圭吾(平山寛人:鵺的)には、現在同棲中の木崎逸郎(稲垣干城)というステディがいる。小林は木崎のことを深く愛しており、木崎も小林のことを思ってはいるものの、根っからの自由人の木崎は、頻繁に女とも寝ていた。
小林は、「自分は大人だから…」と自らに言い聞かせて耐えているものの、またしても木崎が軽い気持ちで手を出した女・新井みずき(とみやまあゆみ)が家まで押しかけてくる。
みずきは思い込みの激しい独善的でエキセントリックな女で、一方的に小林を悪者にして食ってかかった。彼女は、木崎のことが好き過ぎて、自分こそが木崎を救いだせると真剣に考えているのだが、当の木崎にはハタ迷惑で鬱陶しいだけだ。
自分で原因を作っておきながら今回もいい加減な態度に終始する木崎を見ていると、人のいい小林はみずきに同情心を抱く。
結局、みずきは追い出され、木崎は気紛れに外出した。さっきまでの騒ぎが嘘のように、小林は一人部屋に残される。
そこに、レズビアンの雑誌編集者・白石由希乃(木下祐子)がやって来る。しばらく、二人は次の記事について打ち合わせしていたが、そこに再びみずきがやって来て…。


三編のうち「ステディ」は10年以上前に書いた作品の蔵出しで、他の二編は今回のために書き下ろしたそうである。
配布されたチラシに高木登さんが書いた文章を引用すると、「世間的には『異端』とされる愛のかたちをならべたのは、コンセプトとして考えたわけではなく、自然にそうなったものです。愛に異端も正統もなく、ただ『人』がいるだけ」とのことだが、それでも今回ほど明確に打ち出したのは初めてかもしれないそうである。

そもそも、僕がこの芝居に足を運んだのは、「ステディ」に出ているとみやまあゆみさんの演技を生で観たかったから…というシンプルな理由からである。
榊英雄監督がオーピー映画で初めて撮ったピンク映画『オナニーシスター たぎる肉壺』(2015)にとみやまさんが刑事役で出演していて、僕は彼女のことが印象に残った。それで、SNS上でちょっとしたやり取りがあり、この舞台のことをとみやまさんから聞いたのだ。
とみやまさんがどう思っているかはもちろん分からないけど、多分『鵺的第一短編集』をピンク映画がきっかけで観に来たお客はあまりいないのではないかと思う。
偶然というか世の中狭いというか、僕は制作協力の加瀬さんと一度酒席で一緒になったことがあり、彼とも久々の再会となった。

ただ、この短編三本を観て、いささか僕は首を傾げてしまった。
異端的(という表現自体、僕にはちょっと引っかかってしまうのだが)な恋愛譚ではあるが、特に異端を意識した訳ではないと高木さんは度々語っているし、それに嘘偽りはないのだろうが、同時にフライヤーの中で「あたりまえの男女の恋愛に興味がない。書く気にならない。それを書いて上手な人間は他にもいるだろうし、すでに無数にあるものをあらためて書く意義を感じない」と書てもいる。
文意としては、その後で生きる人間の多様性に言及して、マイノリティ(少数)の側に立つことこそが作家の使命だろうという方向に行く。
まあ、文章の一部を取り上げてどうのこうのいうのはいささかフェアではないが、配布物に書かれた文章を読むと、やはり考え込んでしまう。

舞台を観ている間、僕はずっとある種の居心地悪さや息苦しさを感じていた。それは、恐らく、この三つの物語が芝居的大仰さに彩られているように思えたからだ。
舞台を観た後、改めて手元にあったチラシ類に目を通してみて、高木さんの作劇や演出にある種未整理な混沌があったんじゃないか…という印象を持った。

どういう形のものであれ、大半の人々は他者を求めるだろうし、その希求が不可避だからこそ、そこに幾通りもの関係性やドラマが生まれる。それは、僕たちの生の営みそのものと言ってもいいだろう。
異端か否か、日常か非日常か、マジョリティかマイノリティか…それはあくまで物語を紡ぐ上でのひとつのモチーフに過ぎず、ことさら強調するべきものとは思えないし、作り手の思いは作り手の思いとして、その舞台に足を運んだ観客一人一人の受け止め方に委ねるべきだろうと思う。
もし、届くものがあれば、ちゃんと届くだろう…というのが、僕の基本的な考えである。

然るに、当の作り手である高木さんが、あくまで結果として「異端」的な仕掛けに囚われ過ぎてしまったのではないかと僕は考えてしまう。それが、僕の感じた「芝居的大仰さ」である。
要するに、各登場人物の言動がことごとく直情的であり、過剰に自らの想いの丈を行間なく吐露する場面が多いことで、彼らの言葉にできない心の揺れみたいなものに想像力を及ばせる余白がなく、僕は観ていて疲れてしまったのだろう。
それは、芝居にとっていささか残念なことのように思う。

あと、登場人物たちは、それぞれがままならぬ想いや相手への不満を抱いているのだが、「ふいにいなくなってしまった白い猫のために」の宏にしても、「くろい空、あかい夜、みどりいろの街」の亜以にしても、「ステディ」の木崎にしても、相手の心を掻き乱すだけの魔性というか人間的な魅力が上手く伝わらず、どうしても物語に感情移入できないもどかしさがあった。
多分に、人物造形がカリカチュア的に過ぎるのではないか。

役者たちが、それぞれ自分の与えられた役を思いを込めて演じているのは伝わるのだが、ある意味その思いさえもが過剰のように感じられた。
結局のところ、人そのものを自然に描けなければ、ドラマ的なあざとさや異端的な個所ばかりが前に出て来てしまう。

恋愛を描くことは、シンプルだからこそ難しい。たとえ、それがストレートであれ、ノット・ストレートであれ。
誰もが経験することだからこそ、恋愛を巡る人々の想いとその物語の質が、シビアに問われてしまうのだ。

そんなことをずっと考えてしまう舞台だった。


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