2018年1月21日、吉祥寺ココマルシアターというカフェ併設の小さな映画館に代島治彦監督『まるでいつもの夜みたいに』を観に行った。
この映画は、フォーク・シンガーの高田渡が生前最後に東京で演奏したライブを記録したドキュメンタリーである。吉祥寺といえば高田渡と縁の深い街であり、シアター3階では高田渡写真展も開催されていた。
『まるでいつもの夜みたいに』(2017年4月29日公開)
監督・撮影・編集:代島治彦/語り:田川律/題字・絵:南椌椌/ピアニカ演奏:ロケット・マツ/整音:田辺信道、瀧澤修/宣伝美術:カワカミオサム/配給協力:アップリンク、TONE/製作・配給:スコブル工房
2017年/日本/デジタル/カラー/74分
2005年3月27日、長年住み慣れたアパートからギターを担ぎ煙草を吹かしながら最寄りの三鷹駅へと歩く高田渡。この日の夜は、高円寺にある沖縄居酒屋「タイフーン」でライブがあるのだ。30名ほどの聴衆を前に、彼は一人ギターを弾き歌う。そのライブのほぼ全貌を、ご近所でもあった代島監督がカメラに収めたのがこの作品だ。
会場は狭く店内は満員のため三脚を立てることもままならず、ライブの間中立ったままで手持ちカメラを回したそうである。であるから、当然の如く映像は人力によるフィックスみたいなことになっている。
当時の高田渡は56歳だが、風貌はもとより曲間に挟む飄々とした語りも何やら山から降りてきた仙人のようでもあり、ユーモアを解する哲学者のようでもある。
淡々と持ち歌を弾き語り、焼酎をちびりちびりと生であおり、ぼそぼそとつぶやくように話す。
ライブ映像に挟み込まれるのは、高田渡が亡くなった直後の中川イサトへのインタビュー、2005年4月28日に行われた高田渡お別れの会で追悼文章を読む中川五郎の姿。
このライブの後、高田渡は同年4月3日渋谷毅・片山広明と出演した北海道での公演後に体調を崩し、そのまま4月16日に帰らぬ人となった。
そして、撮った映像を公開するまでに10年の歳月を要した。言うまでもなく、残された遺族や関係者の気持ちの整理にはそれくらいの時間が必要だったのだろう。
ただ、ミュージシャン高田渡にとっての“いつもの夜”の一コマを切り取ったような映像が残されたことを、我々はひっそりと静かに喜ぶべきなのだろう。
まさしく、熟成した味わい深いヴィンテージ・ワインのような歌と語りに酔うしかないのだ。
この日は、映画上映後に代島治彦とやはり映画監督の小林政広によるトークショーが行われた。小林監督は高田渡さんの5歳年下で、高校生だった小林青年は受験勉強の傍ら深夜放送から流れてきた高田渡の歌に感銘を受け、渡さんの所属事務所に電話を入れる。
個人情報の保護といった意識もストーカーに関する社会認識もほぼ皆無だった当時は、今では考えられないくらいすべてが牧歌的にのんびりしていて、小林青年は電話に出た事務所の人から渡さんの家の電話番号を教えてもらう。1970年代初頭、渡さんは活動の拠点を京都から東京に移していて、小林青年からの電話に「うちに遊びに来なさい」と言って自宅の住所を教えてくれたそうだ。
ギターを持って渡さんの家を訪れたはいいが、特に何を話すでもなく二人はぼんやりテレビを見たりして過ごしたらしい。渡さんの奥様は出産のため京都に帰っていて、不在だったようである。
そんな風にして、渡さんと小林青年の初対面は終わったのだが、帰りしな渡さんは「今度コンサートをやるから、ギターを持って楽屋を訪ねて来なさい」と言った。
コンサート会場は当時お茶の水にあった日仏会館で、小林青年が楽屋を訪ねてみると彼の歌を聴いたこともないのに渡さんは前座で何曲か歌えと言った。訳も分からぬまま、小林青年は数百名のお客を前に自作曲を歌ったそうだ。最初こそガチガチに緊張していたが、そのうち調子が出てきて何曲も歌っているうちに、「お前、いつまで歌ってるんだ」と渡さんにステージから降ろされたらしい(笑)
それが、小林青年にとっては表現者としてのキャリアの出発となった。演奏のことで渡さんは頻繁に電話をかけてきたようだが、その電話と取った小林さんのお父さんは、「うちの息子を引っ張り込むんじゃない」と怒ったそうである。小林監督にとっての怖い人といえば、父親、渡さん、そして緒形拳さんだそうである。皆、すでに鬼籍に入っている。
そんなこんなで、高校卒業後も彼は林ヒロシという名で渡さんのフォーク仲間とともに演奏ツアーを回ることになる。その当時、渡さんの周辺にいたのは、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤博、佐久間順平と大江田信の林亭などである。
その後、渡さんからはまだ早いから我慢しろと言われたにもかからず、林ヒロシは1975年に自主製作盤『とりわけ10月の風が』を発表。そして、映画監督への思いが断ち切れずに彼は林ヒロシから小林政広へと戻り、やがてはテレビドラマのシナリオライターから映画監督の道に進むことになった。
ちなみに、『とりわけ10月の風が』はジャケットを変更して現在MIDI INC.からCDで再発されている。オリジナル盤のジャケット写真は、渡さんが撮影したもので、録音メンバーには当時東京芸術大学の学生だった坂本龍一が編曲とピアノで参加している。
余談ではあるが、小林青年は高校時代に水道橋のスイングというジャズ喫茶でバイトをしており、その時のバイト仲間に早稲田大学在籍中の村上春樹とジャズ・シンガーの金丸正城がいた。村上春樹と漫画家のいしかわじゅんは『とりわけ10月の風が』のオリジナル盤を所有しているそうである。
そして、林亭の佐久間順平は、小林政広監督作品の音楽を何本も担当している。渡さんは、『海賊版=BOOTLEG FILM』で音楽を『フリック』では出演をしており、亡くなったのは『フリック』公開から三か月後のことである。
…と、まぁこういう経歴もあり、小林監督はトークショーでもこの辺りのことを話されていた。
映画を観た後に聞く小林監督の話も、映画同様に温かみのあるノスタルジアにあふれていて、実に魅力的な楽しいものだった。
場内には、俳優の木村知貴さん(僕は、木村さんと小林さん絡みの映画でよく遭遇する)、小林組の撮影を何本か担当した伊藤潔さんもいらしていた。上映とトークショー終了後に懇親会があり、僕もその席にお呼び頂いたのだけど会場となった居酒屋には林ヒロシ当時の小林青年のことを知る渡さん所縁の方も顔を出され、小林監督は懐かしそうに話されていた。
小林監督の柔和な表情を見ていると、まるでかつての吉祥寺の夜が浮かび上がるようで、何だか僕まで温かい気持ちになったのだった。
そんな、楽しいひと時であった。