2005年1月22日公開の小林政広監督『フリック』。
プロデューサーは川上泰弘・小林政広、ラインプロデューサーは波多野ゆかり、アシスタントプロデューサーは安孫子政人、原案・脚本は小林政広、音楽は佐久間順平、テーマ曲は高田渡「ブラザー軒」、撮影は伊藤潔、照明は木村匡博、編集は金子尚樹、録音は吉田憲義、助監督は瀬戸慎吾、音響効果は柴崎憲治、制作主任は川瀬準也、衣裳は宮田弘子、ヘアメイクは岩井裕一、特殊美術は原口智生、スチールは大塚寧々・小林政広、プロダクションデスクは岡村直子、制作進行は橋場綾子、監督助手は吉田久美、撮影助手は中島美緒・柳沢光一、照明助手は三善章誉、ヘアメイク助手は岸典子、編集助手は李英美、ネガ編集は松村由紀、タイミングは永沢幸治、タイトルは道川昭、車両は日本照明(総括は吉野実)、フィルムは報映産業、照明機材はハイライト札幌、録音スタジオは福島音響、現像は東映ラボ・テック。
製作・配給はケイエスエス、制作はモンキータウンプロダクション。
2004年/35mm/154分/カラー/アメリカンビスタ
本作は、2003年12月に北海道苫小牧市で撮影された。
こんな物語である。
幼馴染で10年連れ添った妻・明子(葉月螢)を自宅マンションでシャブ中のチンピラ(本多菊次朗)に殺された刑事、村田一夫(香川照之)。自らの手で犯人を射殺した村田は、ショックで6か月も欠勤を続けている。
村田は、上司や同僚からの再三の連絡にも応じることなく、家にこもって酒を煽り続ける自暴自棄の毎日を送っていた。
朝、鳴り出す携帯に朦朧とした意識の中で手を伸ばす村田。電話の主は同僚の滑川郁夫(田辺誠一)だった。滑川は、すでにマンション前にいるという。
不承不承、招かざる客をマンションに入れる村田。「俺は、すでに辞表を提出している」と仏頂面の村田に、滑川は「部長が廃棄したのは、村田さんも知っているでしょ」と答えた。
滑川の来訪目的は、こうだった。渋谷区円山町のラブホテルで、苫小牧市在住の女子大生・楠田美和子(安藤希)がバラバラの遺体で発見された。犯人はまだ見つかっていないが、最近多発している連続殺人犯の仕業という見方を所轄はしていた。
苫小牧にいる彼女の親族を滑川と共に東京に連れて来て、身元確認させろというのが部長から村田への業務命令だった。
早速苫小牧に飛んだ二人は、美知子の唯一の家族で同居している兄・楠田健一(村上連)を訪ねる。車椅子の健一は、妹の死体写真を見て衝撃を受ける。どうにも腑に落ちない村田は、健一に根掘り葉掘り質問を始める。健一は、心当たりはおろか美知子が東京に行ったことすら知らなかったという。
越権行為だと慌てて止める滑川。楠田の家を後にしようとした滑川と村田は、やって来た所轄の捜査員佐伯(田中隆三)・及川(松田賢二)と遭遇。佐伯は警察学校時代の滑川の先輩で、「今夜は、歓迎会をやろう」と持ちかけて来た。
ところが、酒宴は憮然とする村田のせいであまり友好的な雰囲気とはならなかった。
翌朝、村田は滑川に叩き起こされる。健一の死体が湖のほとりで見つかったのだ。急いで現場に急行すると、そこには健一の死体を見下ろす佐伯と及川の姿があった。緊張感もなければやる気も感じられない現場に、村田は苛立つ。所轄はこの事件を健一の自殺と決めつけているようだったが、現場は楠田の家からかなり離れている上に、車椅子さえないのだ。
「車椅子がないんなら、多分タクシーでも拾ったんだろう」という佐伯に詰め寄る村田。怒りを隠そうとしない佐伯は、「こちら様は何様なんだ、ええ滑川よ!」と詰め寄った。
元来、生粋の刑事である村田にはこの状況が我慢できない。滑川にも告げることなく、彼は独自の捜査を始める。
地元でパン屋を営む奈美(占部房子)に聞き込みをした村田は、美知子がバイトしていたという隣町のバー「BAR 27・s」を教えられる。早速、店に赴くと開店前の店内では雇われ店長だという石井伸子(大塚寧々)が煙草を燻らしていた。
伸子の話では、美和子はバイトではなく店の常連客だった。村田が話を聞いているところに、若い女性が入って来る。この店でバイトしている愛(安藤希:二役)だった。彼女は、美知子の大学の同級生だという。
村田は、店の外で愛からも話を聞いた。美和子は、援助交際をしていた。かなり派手に。そして、この店を男との待ち合わせに使っていたのだという。実は、愛も誘われたが断ったのだという。
援交には元締めがおり、美知子は何か弱みを握られているようだった。渋谷の現場からは彼女の携帯がなくなっていたが、もし見つかったら町はひっくり返るような騒ぎになると愛。
しかし、話の途中で愛の携帯が鳴り、彼女は村田に背を向けて歩いて行ってしまう。
その夜、村田は嫌がる滑川に車を運転させて再び「BAR 27・s」を訪ねた。「この店ですか…」と呟く滑川は、店に入ってもカウンターに座ろうとせず、伸子の方を向こうともしない。
「あれ、愛ちゃんは?」と尋ねる村田に、「そんな子、いませんけど」と伸子は言った。村田が首を傾げていると、彼女は滑川に向かって「あら、何処かでお会いしませんでしたっけ?」と言った。
即座に否定する滑川の顔を、村田は静かに見ている。ウイスキーのグラスを傾けつつ、アルコールに犯されて朦朧とする頭で村田は亡き妻のことや美知子のことを考える。
考えれば考えるほど分からないことだらけで、村田の心は猜疑心で占められて行った。
村田の態度に不快感を示し滑川は店を出て行くが、それは新たなる混沌の始まりだった…。
最近行われたいくつかのインタビューの中で、小林政広は本作について「自分のそれまでの映画で、持っている引き出しを出し尽くしたように思えた。『フリック』は、自己模倣している」と語っている。
映画における自身のフィクショナリズムの限界を切実に感じたことから、小林はリアリズム文体を取り入れた『バッシング』
を次に製作した訳である。
で、本作を観ての率直な印象は、ストーリーテリングはともかく自身の映像話法を再生産してしまったのではないか…というものだった。何よりもそれが息苦しいのである。
小林政広という作家は、今に至るまで一貫して極めて技巧的な演出手法で映画を撮る人である。本作もかなり個性的な撮り方をしているのだが、そこに必然性よりもギミックを強く意識してしまうのだ。
明子の殺害現場、村田の表情、渋谷のラブホテル、死者たちの影…幾度ともつかぬパンとリフレイン。
孤高の刑事が巻き込まれるハードボイルドと思われた映画は、物語が進むにつれて傷心とアルコールに精神を蝕まれた村田の思念と混沌が交錯した悪夢幻想譚の様相を帯びて行く。
何が現実で、何が回想で、何が真相で、誰が生者で、誰が死者なのかすらも判然としない。第二章に入って以降、もはや映画は幻惑としての記号に満ち溢れてしまう。
美和子が殺されたのは昨夜だったのか、愛は何処に行ったのか、ヤクザの亡霊、滑川の携帯に記録された動画、楠田の家のテレビに映し出される映像、明子の浮気相手、佐伯という男、伸子という謎の女、そして事件の真相と物語の結末…。
観ていてイメージしてしまうのは、やはりデヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス ローラ・パーマ最期の7日間』(1992)や『マルホランド・ドライブ』(2001)である。
ただ、デヴィッド・リンチが観る者を突き放すような混沌を提示するのに対して、『フリック』は物語的な誠実さを内包しているが故に、かえって据わりの悪さを感じてしまう。エピローグで用意されたエピソードにそれは顕著で、混沌は混沌のまま投げ出されているにもかかわらず、何処か綺麗にまとめられている風なのだ。
むしろ、徹底的に悪夢を提示するか、或いはハードボイルドとして映画的虚構を極めるかのいずれかに突き抜けてくれていたら…と残念でならない。
本作は、映画監督・小林政広にとって初期の終幕を感じさせるような作品といえる。
もし叶うならば、村田一夫という刑事のその後の人生に再会したいと思わせる一本である。
これは余談だが、天竜館の主人として特別出演している高田渡は、小林政広が林ヒロシとしてフォーク歌手をしていた時代の師匠筋である。1970年代初頭、活動拠点を京都から吉祥寺に移した高田は吉祥寺フォークの第一人者的存在であったが、その時の一員には本作で音楽を担当している佐久間順平(大江田信との林亭として)もいた。