2009年9月19公開の小林政広監督『白夜』。
エグゼクティブプロデューサーは丸茂日穂、企画は富田敏家、プロデューサーは富田敏家・梅村安、共同プロデューサーは佐谷秀美、原作・脚本は小林政広、撮影監督は伊藤潔、音楽は佐久間順平、主題歌は野畑慎(THE ROOTLESS)「雲の上の世界」、録音は吉田憲義、音響効果は渋谷圭介、照明は渋谷匡博、編集は金子尚樹、ヘアメイクは篠宮春美、アソシエイト・プロデューサーは小林直子・新妻貴弘、ライン・プロデューサーは原田耕治・マサ・サワダ、助監督は川瀬準也、CO-プロデューサーは吉村知己・高野竜平・山本正典・内田森・森満康巳・宮田弘子。製作は「白夜」製作委員会、配給はギャガ・コミュニケーションズ。
2009年/HD/84分/カラー/ビスタサイズ
フランスのリヨンで10日間オールロケにより撮影された本作は、小林作品としては誠に珍しい製作委員会方式で作られている。
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手に薔薇の花束を携え、木島立夫(眞木大輔)は5年ぶりにフランスのリヨンを訪れていた。彼は、凍てつく寒さの中、思い出のあの橋へと向かった。
昨日までは普通のOLだった相沢朋子(吉瀬美智子)は、フランスに単身赴任した不倫相手への想いを抑えきれなくなり、「橋の上で待ってます、午後からずっと」という文面の手紙をしたためると、衝動的に辞表を出して単身渡仏した。
容赦なく吹きつける冷たい風が体を刺す橋の上で、朋子は自分の肩を抱いて無為に過ぎて行く時間に悲しみを募らせて行く。
2009年/HD/84分/カラー/ビスタサイズ
フランスのリヨンで10日間オールロケにより撮影された本作は、小林作品としては誠に珍しい製作委員会方式で作られている。
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手に薔薇の花束を携え、木島立夫(眞木大輔)は5年ぶりにフランスのリヨンを訪れていた。彼は、凍てつく寒さの中、思い出のあの橋へと向かった。
昨日までは普通のOLだった相沢朋子(吉瀬美智子)は、フランスに単身赴任した不倫相手への想いを抑えきれなくなり、「橋の上で待ってます、午後からずっと」という文面の手紙をしたためると、衝動的に辞表を出して単身渡仏した。
容赦なく吹きつける冷たい風が体を刺す橋の上で、朋子は自分の肩を抱いて無為に過ぎて行く時間に悲しみを募らせて行く。
そこに、長躯で細身の日本人らしき男が通りかかる。フランスに渡って一年のバックパッカーである立夫は、久しぶりの日本人に懐かしさを感じて話しかけるが、心に余裕のない朋子は、立夫の軽薄な馴れ馴れしさに苛立ち、相手にしない。
そんな朋子にはお構いなしで、立夫はやれ男を待ってるんだろうだの、道ならぬ恋だろうだのととはやし立てるが、そのことごとくが図星で、二人の間はますます剣呑なムードになる。
さすがにまずいと思ったのか、立夫は強引に朋子をカフェへと誘った。持ち合わせがないから、お前が奢れと悪びれもせずに。待つことにいささか疲れていた朋子は、不承不承カフェに付き合うことにした。
カフェでの会話もぎこちないものだったが、それでも二人は少しずつ近づいてはいるようだった。そんなやり取りの中、立夫は「俺がそいつに電話してやる」と言って朋子からアドレス帳を奪って行った。しかし、結局男を呼び出すことはできなかった。聞けば、出張からいまだ戻っていないのだという。
実は、立夫は一年ぶりに帰国するつもりで、明日のエアチケットを手配済みだった。22時発パリ行きの電車までは、まだ間がある。そこで彼は、朋子に即席コンダクターとしてこの街を案内すると提案した。いつしか立夫のペースに巻き込まれている朋子は、その申し出に乗る。
一度宿泊先のホテルに戻った朋子は、ドレスアップして待ち合わせの場に現れる。彼女の姿に、立夫は目を見張った。
しばしのデート気分を味わううちに、ポツリポツリと互いの身の上を話し始める二人。立夫は、自分の母親を介護することに疲れて、兄の反対も聞かず一人フランスへと逃げて来たのだった。一方の朋子は、今まで主体的に行動したことがなく、そんな自分にほとほと嫌気がさしていた。
衝動的ともいえる二人の行動は、それぞれが自分を見つめ直すための、或いはリセットするためのものだったのかもしれない。
そんな心のわだかまりを吐き出してしまった二人は、すでに互いを想い始めていた。しかし、立夫がここを発つ時間は徐々に近づいている。
チェックアウトするため、朋子はホテルに戻った。「ちゃんと、待っていてね」と言い置いて。
しかし、彼女の後姿を見送ってしばらくすると、立夫は「これで、俺の旅は終わったな…」と独りごちた。
支度を整えた朋子がホテルを出ると、そこに立夫の姿はなかった。半狂乱になって、立夫の姿を探し求める朋子。
同じ頃、立夫はホームに入って来た22時発パリ行きの列車に乗り込んでいた。
朋子は、再びあの橋の上にやって来た。寒さも気にならないのか、彼女はいささか狂的な光を帯びた目で、辺りを窺った。彼女の白い肌と、いささか不釣り合いに引かれた赤いルージュが闇の中に浮かび上がる。
ハッと振り向いた朋子は、「あの人だわ!」と叫ぶと、駆け出した…。
5年後、リヨン、橋の上。しばし川面を見つめると、立夫は持っていた薔薇の花束を投げてその場から立ち去った。
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これが、本当にあの小林政広の作品なのだろうか?正直、そう思った。
長年温めていた企画だという本作。小林の原作・脚本とクレジットされているが、ベースにあるのはドストエフスキーであり、本作のタイトルもドストエフスキーを原作にしたロベール・ブレッソン監督『白夜』(1971)からの引用である。
人生に大きな喪失感を抱いた孤独な男女が、運命の悪戯から偶然リヨンの橋の上で出逢い、たった一日だけの時間を共有した恋愛譚。言ってみれば、そういう映画である。
作品に賭ける小林の思いや意気込みはどうあれ、僕はこの作品を好意的に観ることは最後までできなかった。
あまりにも、あらゆるものが空疎に過ぎないか?。
登場するのは二人だけで、ほとんど会話劇の如く進行する物語。そういう構造だから、当然のこと問われるのは役者二人の力量であり、交わされる会話の熱量であり、それがリアルかフェアリーテイルかを問題としない物語的な求心力である。
さらに言うなら、ドラマをあえて映画で構築することに必然性…というのも挙げられるだろう。普通に考えれば、おおよそオーソドックスな演劇的世界観のストーリーだからである。
然るに、本作は冒頭の眞木大輔のモノローグに始まり、吉瀬美智子と眞木のやり取りに至るまで、あまりにも拙過ぎるのではないか?
小林政広といえばその長回しはつとに有名だが、そのワンカット、ワンカットの中で、あまりにも科白を言っている感ばかりが伝わって来てしまう。感情をぶつけ合っているのではなく、科白をぶつけ合っているようにしか見えないのである。
それに、物語のメインに据えられた朋子の伝わらぬ恋情と立夫の心の痛みが、あまりにも昭和メロドラマ的既視感を伴っていて、現代劇としての切ない痛みに昇華されていない。
観ていて、空回りする舞台のようなのだ。
そして、唐突に訪れる離別と、朋子の終幕。そのシーンで、物語の空虚はピークに達してしまうのである。
本作について、個人的にはあまりにも見出せるものがなかった。
小林政広監督作品で、初めて僕が残念に思った一本である。
そんな朋子にはお構いなしで、立夫はやれ男を待ってるんだろうだの、道ならぬ恋だろうだのととはやし立てるが、そのことごとくが図星で、二人の間はますます剣呑なムードになる。
さすがにまずいと思ったのか、立夫は強引に朋子をカフェへと誘った。持ち合わせがないから、お前が奢れと悪びれもせずに。待つことにいささか疲れていた朋子は、不承不承カフェに付き合うことにした。
カフェでの会話もぎこちないものだったが、それでも二人は少しずつ近づいてはいるようだった。そんなやり取りの中、立夫は「俺がそいつに電話してやる」と言って朋子からアドレス帳を奪って行った。しかし、結局男を呼び出すことはできなかった。聞けば、出張からいまだ戻っていないのだという。
実は、立夫は一年ぶりに帰国するつもりで、明日のエアチケットを手配済みだった。22時発パリ行きの電車までは、まだ間がある。そこで彼は、朋子に即席コンダクターとしてこの街を案内すると提案した。いつしか立夫のペースに巻き込まれている朋子は、その申し出に乗る。
一度宿泊先のホテルに戻った朋子は、ドレスアップして待ち合わせの場に現れる。彼女の姿に、立夫は目を見張った。
しばしのデート気分を味わううちに、ポツリポツリと互いの身の上を話し始める二人。立夫は、自分の母親を介護することに疲れて、兄の反対も聞かず一人フランスへと逃げて来たのだった。一方の朋子は、今まで主体的に行動したことがなく、そんな自分にほとほと嫌気がさしていた。
衝動的ともいえる二人の行動は、それぞれが自分を見つめ直すための、或いはリセットするためのものだったのかもしれない。
そんな心のわだかまりを吐き出してしまった二人は、すでに互いを想い始めていた。しかし、立夫がここを発つ時間は徐々に近づいている。
チェックアウトするため、朋子はホテルに戻った。「ちゃんと、待っていてね」と言い置いて。
しかし、彼女の後姿を見送ってしばらくすると、立夫は「これで、俺の旅は終わったな…」と独りごちた。
支度を整えた朋子がホテルを出ると、そこに立夫の姿はなかった。半狂乱になって、立夫の姿を探し求める朋子。
同じ頃、立夫はホームに入って来た22時発パリ行きの列車に乗り込んでいた。
朋子は、再びあの橋の上にやって来た。寒さも気にならないのか、彼女はいささか狂的な光を帯びた目で、辺りを窺った。彼女の白い肌と、いささか不釣り合いに引かれた赤いルージュが闇の中に浮かび上がる。
ハッと振り向いた朋子は、「あの人だわ!」と叫ぶと、駆け出した…。
5年後、リヨン、橋の上。しばし川面を見つめると、立夫は持っていた薔薇の花束を投げてその場から立ち去った。
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これが、本当にあの小林政広の作品なのだろうか?正直、そう思った。
長年温めていた企画だという本作。小林の原作・脚本とクレジットされているが、ベースにあるのはドストエフスキーであり、本作のタイトルもドストエフスキーを原作にしたロベール・ブレッソン監督『白夜』(1971)からの引用である。
人生に大きな喪失感を抱いた孤独な男女が、運命の悪戯から偶然リヨンの橋の上で出逢い、たった一日だけの時間を共有した恋愛譚。言ってみれば、そういう映画である。
作品に賭ける小林の思いや意気込みはどうあれ、僕はこの作品を好意的に観ることは最後までできなかった。
あまりにも、あらゆるものが空疎に過ぎないか?。
登場するのは二人だけで、ほとんど会話劇の如く進行する物語。そういう構造だから、当然のこと問われるのは役者二人の力量であり、交わされる会話の熱量であり、それがリアルかフェアリーテイルかを問題としない物語的な求心力である。
さらに言うなら、ドラマをあえて映画で構築することに必然性…というのも挙げられるだろう。普通に考えれば、おおよそオーソドックスな演劇的世界観のストーリーだからである。
然るに、本作は冒頭の眞木大輔のモノローグに始まり、吉瀬美智子と眞木のやり取りに至るまで、あまりにも拙過ぎるのではないか?
小林政広といえばその長回しはつとに有名だが、そのワンカット、ワンカットの中で、あまりにも科白を言っている感ばかりが伝わって来てしまう。感情をぶつけ合っているのではなく、科白をぶつけ合っているようにしか見えないのである。
それに、物語のメインに据えられた朋子の伝わらぬ恋情と立夫の心の痛みが、あまりにも昭和メロドラマ的既視感を伴っていて、現代劇としての切ない痛みに昇華されていない。
観ていて、空回りする舞台のようなのだ。
そして、唐突に訪れる離別と、朋子の終幕。そのシーンで、物語の空虚はピークに達してしまうのである。
小林政広監督作品で、初めて僕が残念に思った一本である。