作・演出は三谷幸喜、音楽・演奏は荻野清子、美術は堀尾幸男、照明は服部基、音響は井上正弘、衣裳は黒須はな子、ヘアメイクは河村陽子、舞台監督は加藤高、製作は山﨑浩一、プロデューサーは毛利美咲、企画協力は(株)コードリー、企画製作は(株)パルコ。
本作は、2011年3月6日~4月3日の初演時に、第19回読売演劇大賞最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(小日向文世)、優秀男優賞(段田安則)、優秀女優賞(シルビア・グラブ)、優秀演出家賞(三谷幸喜)、紀伊國屋演劇賞等を受賞した。
今回のキャスティングでは、ヘルマン・ゲーリング役が白井晃から渡辺徹に、マグダ・ゲッベルス役が石田ゆり子から吉田羊に、エルザ・フェーゼンマイヤー役が吉田羊から秋元才加に変更された。
こんな物語である。
1941年秋、第二次世界大戦下のドイツ・ベルリン。ヒトラー内閣がプロパガンダ目的で創設した国民啓蒙・宣伝省。その初代大臣であるヨゼフ・ゲッベルス(小日向文世)には、すべての芸術・メディアを監視検閲する強大な力が付与されている。
映画関係者たちの中には、自分の表現活動のためにゲッベルスにすり寄る者も少なくなかった。映画好きのゲッべルスは、フィルムを取り寄せては自宅で鑑賞する趣味があった。妻マグダ(吉田羊)が前の夫と結婚していた頃から使える従僕フリッツ(小林隆)は、大の映画好きでゲッベルスにとっては芸術の師でもあった。
そんなある日、ドイツが誇る著名な映画人たちを招いてゲッベルスはホーム・パーティを開いた。招かれたのは、俳優で映画監督のエミール・ヤニングス(風間杜夫)、ベテラン俳優グスタフ・グリュントゲンス(小林勝也)、大女優ツァラ・レアンダー(シルビア・グラブ)、二枚目俳優グスタフ・ヒレーリヒ(平岳大)、注目の若手監督レニ・リーフェンシュタール(新妻聖子)、新人女優エルザ・フェーゼンマイヤー(秋元才加)、そして反体制的な言動から当局に睨まれ仕事を干されている国民的作家エーリヒ・ケストナー(今井朋彦)。
表向きは理想の夫婦として国民に喧伝されているゲッベルス夫妻だが、実際の夫婦仲は冷え切っている。ゲッベルスは結構な女好きで、次から次へと愛人を作った。チェコの女優リダ・バーロヴァとの不貞の時には、離婚まで考えたゲッベルスを看板夫婦のスキャンダルを避けたいヒトラー自身が仲裁に入り不倫を解消させる事態にまでなった。
この夜のパーティもマグダは頭が痛いから出席しないと言ってゲッベルスを怒らせるが、ゲストにケストナーが入っていることを知って、彼女は態度を変える。それと言うのも、マグダはケストナー作品の大ファンで、かつてケストナーと交際していた期間があったからだ。反ナチのケストナーが夫のパーティに参加するのは、実は自分に逢いたいからでは…とマグダの心中は穏やかではない。
客人たちがやって来る前に、ゲッベルス邸には招かれざる客が一人いた。親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラー(段田安則)だ。口実を作ってはなかなか帰ろうとしないヒムラーをゲッベルスは警戒する。「一体、この男は何を嗅ぎ回っているのか?」と。ゲッベルスは、くれぐれもヒムラーには用心するようにとフリッツに言った。
そうこうするうちに、次々とゲストたちがゲッベルス邸に到着する。招かれた映画人たちは、皆それぞれ腹に一物ある。ヤニングスは、自分の監督・主演でビスマルクの伝記映画を撮らせてくれと訴え、レアンダーは自分をいい役でキャスティングして欲しいとアピール。ゲッベルスお気に入りのリーフェンシュタールは、自分に対抗心を燃やすヤニングスを挑発する。
ご婦人方に人気の高いヒレーリヒは、大物たちに囲まれてどこか居心地が悪そうだ。駆け出しの女優でゲッベルスの愛人となったフェーゼンマイヤーは、この機会に自分を売り込もうと躍起になっている。
芸術家の後ろ盾として名を馳せていたゲーリング空軍元帥(渡辺徹)が最近はすっかり元気をなくし、それに取って代わるように頭角を現したともいえるゲッベルスはゲーリングの存在を強く意識している。
ゲーリングとの関係が深い名優グリュントゲンスをこのパーティに招いたことも、言ってみればゲッベルスが今では自分こそがナチス・ドイツの芸術界の大立者であることをアピールしようとしてのことだ。
ただ、ここにいる誰もが驚いたのが招待客にケストナーがいること、しかも反ナチで知られる彼がその招待を受けたことだった。現在、彼の著書はすべて発売禁止となり、事実上彼は政府の圧力で筆を折られている。おまけに、ゲッベルスはケストナーの本を焚き書にまでしたのだ。
そのケストナーは、一番最後に到着した。
いつまで経ってもヒムラーは帰らず、そればかりか招いてもいないゲーリングまでがやって来てしまう。微妙な空気が漂う中、あまり質がいいとは言えぬディナーが供され、その後でゲッベルスは今夜のパーティの趣旨を発表した。
ゲッベルスは、今夜招いた最高の映画人たちを結集して『風と共に去りぬ』に勝るとも劣らぬ全ドイツ国民に誇れる偉大なる一本を撮ろうと考えたのだ。そう、「国民の映画」と呼ぶに相応しい映画を。
沸き立つ場内。しかし、ことは誰も予想しなかった方向へと…。
途中15分間の休憩をはさんで、約3時間の長丁場。しかし、舞台は一切だれることなくむしろ次第に求心力を高めて一気にラストまで走り切ってしまう。まさしく、圧巻という言葉こそ相応しい素晴らしい舞台であった。
2011年、絶賛を持って迎えられた本作は上演期間中に東日本大震災に見舞われ、一時は公演の継続自体が危ぶまれた。「もっとたくさんの人に、きちんとした形で観て頂きたかった」とは、再演にあたっての三谷幸喜の弁である。
物語前半は、三谷幸喜らしいいささかブラックな笑いを散りばめつつ、軽妙に進んで行く。そこには、人の虚栄心があり、保身があり、野心があり、欲望がある。
誰もが、自分を必要以上に大きく見せようとして躍起になっている。虎視眈々と機会をうかがい、爪を研いでいる者がいる。冷徹に状況を静観している者がいる。
12人の登場人物たちのある種滑稽な立ち居振る舞いは、そのままあなたや私の行動なのである。
そして、後半。ひとつの事件、否一言の悪意なき舌禍をきっかけに、舞台の雰囲気は一変する。その、静謐でドラマティックな展開には、文字通り息を飲むしかない。空気の密度や温度が、手で触れるくらいハッキリとリアルに変化するのが分かる。
これを舞台のマジックと言わずして、一体何と評すればよいのだろう?ライブで演劇を観ることの悦び、それはこういう空気を直に肌で感じることに他ならない。
大変申し訳ないが、これは何度DVDで鑑賞したとて味わえないし、いくら言葉を尽くして説明してもその本当の凄さの10分の1も伝えることは叶わないだろう。
こういう感覚を表現できぬことは、評論を書く上でのもどかしさである。心底、そう思う。
生涯の当たり役とまで評された小日向文世がいいのは言うまでもないが、舞台に重さをもたらしているのはもちろん小林隆のストイックな演技である。
そして、完璧としか言いようのない段田安則の演技。彼は、同じ三谷作品『ホロヴィツとの対話』でも老いたマエストロになり切っていた。
自分自身の存在に矛盾を抱えたケストナー役の今井朋彦も見事。個人的には、同じ三谷作品『おのれナポレオン』を見逃したことが本当に残念でならない。チケットは取れたのだが、天海祐希の降板で休演になってしまったからだ。
吉田羊は初演時にはフェーゼンマイヤー役だったというが、初演のチケットが取れなかったことが改めて悔やまれる。
そして、個人的には白井晃のゲーリングを観たかったなぁ…と思う。渡辺徹も悪くはないが、小日向文世や段田安則、あるいは今村朋彦の演技に比していささか芝居が大仰で深みを欠いているように感じられたからだ。
その一方で、予想したよりはるかに(と言ってはいささか失礼だが)秋元才加が魅力的だった。気性の激しそうな顔立ち、強い光を放つ眼、166cmの長躯にスレンダーな体で赤いドレスを身に纏う彼女は、野心的な新人女優役がぴたりとハマっていた。
これは、あえてそう演出したのかもしれないのだが、個人的には物語が一変する“ひとつの事件”の描かれ方にもう少し別の演技的アプローチがなかっただろうか…との思いが残った。
まさに、至福の3時間である。