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瀬々敬久『マリアの乳房』

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2014年6月14日公開の「ラブストーリーズ」シリーズvo.1、瀬々敬久監督『マリアの乳房』




企画は利倉亮、プロデューサーは江尻健司・坂井識人、脚本は瀬々敬久、キャスティングは小林良二、音楽は入江陽、撮影は斎藤幸一、録音は梅原淑行、編集は桐畑寛、助監督は松岡邦彦、制作担当は山地昇、監督助手は井上卓馬、撮影助手は花村也寸志・坂元啓二・横手三佐子、メイクは中尾あい、スチールは千葉朋昭、CGは立石勝・内海大輔、効果は丹愛、MAは高村光秀、メイキングは榎本敏郎。
製作はレジェンド・ピクチャーズ、配給・宣伝はアルゴ・ピクチャーズ。
印象文献は「ひかりの素足」宮沢賢治
宣伝コピーは、「あなたと生きていたい、この世界で―。」

2014年/日本/カラー/84分/HD/R15+


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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かつて超能力少女として世間を騒がせた真生(佐々木心音)は、テレビ収録の時にたった一度だけインチキをしたことで激しい批判に晒されマスコミから消えた。「もしスプーンが曲がらなければ、背中を向けてトリックを使ってもいいから」というディレクターの言葉を信じてのことだった。何と言っても、彼女はまだ幼い少女だったのだ。
その出来事を境に親も周囲も態度がガラッと変わり、そのことが真生の心をさらに深く傷つけた。

都会の喧騒から遠く離れた寒々しい地方都市の片隅。成人した真生は、低所得者が身を縮めるようにして生活する一角でひっそりと街角に立っては、売春していた。
真生は、肌に触れると死期が近づいている人が分かった。そして、彼女は来るべき死の恐怖を取り除くために、死期の近づいた人に体を売った。真生にとって、自分の体を提供することはある種の癒しであり祈りのようなものだった。
たった今も、真生は重篤な病に侵された老人(飯島大介)に身を任せていた。傍らにいる妻(吉田京子)は、自分の若い頃を思い出してその人を抱いて欲しい…と言った。
金を受け取り玄関から出ようとする真生に妻は「また、来てくれますね」と言うが、真生は首を振った。もう、この老人に次はないのだ。



街角に座り込んで物乞いをしている身体障害者の老人(田村泰二郎)。傍を通りかかった男(吉岡睦雄)が、疎ましそうに老人を蹴り上げた。老人が持っていた鉢から小銭が散らばった。その様子を見ていた真生は、金を拾うと老人に渡してやった。彼の手が触れた時、真生には分かった。
真生は老人を物陰に誘うと、自分の体を押し付けた。自分の若い肉体を貪る老人の頭を撫でながら、真生は「なんにも怖いことはないよ」と言った。
その様子を覗き見しているサラリーマン風の男(伊藤猛)がいた。男は、真生に声をかけると「抱かせろよ。幾らだ?」と言った。男を無視して歩いて行く真生の腕を男が掴んだ。真生は、「あなたは、違う」と言い捨てて男を振り切った。
老人が亡くなったのは、その数日後のことだ。



真生は、みすぼらしい我が家に帰ると、そのまま布団も敷かずに眠った。目を覚ますと、陽の光が差し込み何処かでさえずる鳥の鳴き声が聞こえた。
真生の前に招かざる客が現れる。中学校教師を名乗る立花(大西信満)は、彼女の超能力を撮影したいと言った。話すことなど何もないと言って真生は拒否するが、立花は執拗に食い下がった。
外出する真生の後を尾行する立花。真生は、寂れた町工場に入って行った。中には、経営者の男(首くくり栲象)が立っていた。彼女は、男を交わった後に出て行った。しばらくすると、男の妻(伊藤清美)が入って来て絶叫した。男は、首を吊って死んでいた。
その一部始終を立花は目撃した。
立花は、そのことで真生を激しく叱責した。



ずっと家の前を張り続ける立花に業を煮やした真生は、裸足で家を飛び出した。
行く当てもなく町を彷徨っていた真生は、裏通りで先日のサラリーマン風の男と他の二人の男たち(川瀬陽太と前出の吉岡睦雄)に遭遇。彼らにレイプされる。
真生を探して歩き回っていた立花は、彼女が足を傷だらけにして道に倒れているのを見つける。しかも、彼女は高熱を出していた。
嫌がる真生を背負うと立花は病院に連れて行き、その後食堂で食事した。ずっと自分を隠して孤独に生きて来た真生は、この正体不明の男に幾ばくかの親近感を抱いた。
真生は、自分の能力の一部を立花に見せた。三つの茶碗のどれかに飴玉を入れさせ、立花の手に触れてどの茶碗に隠したのかを当てるという能力だった。
しかし、立花は不満そうだった。彼は、スプーン曲げにこだわっているようだった。



立花は、一人家に帰るとベッドしか置いていない生活感のない部屋で、ハンディカムの映像を再生した。その映像の中では、妻(小橋めぐみ)が、何故自分の病気のことを隠していたのかと涙を流しながら、立花を責め続けていた。
これまでに何度繰り返し再生したか分からない映像を見ながら、今夜も立花は落涙していた。テレビのリポーターをしていた妻は、かつて世間を騒がせた超能力少女を取材しようと試みた。真生がスピリチュアル・カウンセラーをしていることを突き止めた妻は、患者を偽ってその診療室を訪ねた。
出て来た真生に取材を申し込んだが、真生はそれを拒否。何とか取材を受けてもらおうと妻が真生の腕をつかんだ時、真生は「あなた、三か月後には死んでるよ。心当たりない?」と吐き捨てた。
病院を訪れた立花の妻は、自分の病状を聞かされて絶望。夫に遺言代わりのビデオ・レターを残して自ら命を絶った。
立花が真生に近づいた真の理由は、これだった。

この町には自殺の名所として有名な陸橋があった。その橋には、自殺を思いとどまらせるためにいのちの電話が設置されていた。
思いつめた表情で、橋から下を窺う高校生(松永拓野)がいた。彼の家庭では、父親が激しい暴力を母親(安部智凛)に振るっていた。そして、彼自身は高校で酷いいじめに晒されていた。彼はふといのちの電話に目を止めると受話器を取った。オペレーターに繋がると、彼は受話器を置いた。
その様子を偶然見ていた立花は、彼に声をかけた。

その高校生は、立花に言われたとおり真生に接近した。真生は、高校生と交わった。その様子を、立花はこっそり見ていた。
事が済み高校生が出て行くと、立花が現れた。驚く真生を引っ張って、立花は雑居ビルの屋上に上がった。二人が屋上に着いたその時、高校生は屋上から飛び降りて命を絶った。
これがお前のやっていることだと立花に突きつけられた真生は、階下を見下ろし絶叫した。
真生は、立花に自分のこれまでを話した。自分の超能力を喜んでくれた母親も、テレビでのインチキを境に態度が変わったこと。過去を隠して過ごした学生時代、唯一仲の良くなった素行の良くない同級生に陥れられて彼女の仲間に輪姦されたこと。すべてに絶望し町を彷徨う中、交通事故で生死を彷徨ったこと。意識不明の中、夢とも現実ともつかないメッセージを聞いたこと。
それ以来、真生は何かの役に立ちたいと思い、この町に流れ着いて人を死の恐怖から救おうと行動していること。



真生は、初めて立花と関係を持つが、自分が立花を刺す光景を見て愕然としてしまう。立花の姿を求めて彼の家に向かった真生は、部屋に置かれたハンディカムの映像を見てしまう。

果たして、真生と立花の行く末は…。

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対極としての“死と生”に向き合い映画を作る瀬々敬久の新作は、やはり彼ならではの文体で描かれた物語であった。
荒涼とした真生の心とシンクロするような町のロケーションも魅力的だ。
ただ、随所に瀬々らしさは感じられるものの、トータルとしては4日間という撮影期間同様に性急で掘り下げ不足を感じる作品であった。
何というか、語られるべきところに言葉が不足して、さほど語る必要のないエピソードに尺が取られる…そんなチグハグな印象である。
佐々木心音が陰りのある印象深い演技を披露しているのに、言いようのないもどかしさを感じる。

超能力者がマスコミの餌食に…というのは、関口少年の例を持ち出すまでもなく昭和のオカルト・ブーム以降リアルでもフィクションでも繰り返し語られて来た定番である。
物語の導入としては不可避な陳腐さと言えなくもないが、それゆえにこそ以降の展開にストーリーテリングの質が問われることとなる。
然るに『マリアの乳房』は、真生の歩んだ過酷な道にも立花が歩んだ苦しみにも寄り添えぬまま、中途半端に映画が進められてしまう。

映画の前半、真生は死期の近い男たちに自分の肉体を提供することで彼らを死の恐怖から解放しようとする。それは、慈悲の精神とその行為によって忌まわしい自分の能力に少しでも前向きな意味を見出そうとする行為である。他者と自分自身に対する祈りと言った方がより適切かもしれない。
ところが彼女の行動は、途中から死を考えるまでに追い込まれた者たちに対して、その自殺を後押しするものへと変貌して行く。「なんにも怖いことはない」という真生のメッセージが、その本質の部分でおかしな具合に歪められてしまうのである。そこが、どうにも腑に落ちない。
高校時代のレイプ体験で人生に絶望した真生が、臨死状態で見た神の如き存在からの啓示「なんにも怖いことはない」をそのように受け止めたのだとしたら、やはりその時点で真生自身が自殺を選んでいるのではないのか?
自分は死ぬことなく他者の死を後押しするという行為は、あまりにも思考に一貫性を欠いているのではないか?

その一方で、立花の行動にも首を傾げる。彼が真生に近づいたのは、言うまでもなく愛妻を自殺へと追いやったからである。そこには、真生の行為に対する怒りと自分が妻に対して何もしてやれなかったことへの贖罪の念があったことだろう。
共に魂の核に深い傷を持つ真生と立花が結果的に惹かれざるを得ないところは、納得がいく。しかし、妻や他の者たちを死へと誘う真生を糾弾しようとする立花が、追い詰められた高校生を生贄の如く真生に近づけるという行動は、どう考えても不自然ではないか?
この行動においては、真生も立花も“同じ側”の人間だからだ。
高校生の自殺を経て二人が真の意味で結ばれ、そして結果的に別離して行くという展開には、映画的フィクショナリズムとは別の意味でどうにも無理があると思う。

この辺りのもやもや感は、小さなエピソードの中にも多分に含まれている。やはり、この物語は、もっと真生と立花の人生の苦しみに向き合ったところから語られるべきではなかったか?
その意味でも、映画の中で苦しんだ者、死んでいった者たちの誰もが癒されぬまま、映画自体が自己完結してしまったような後味の悪さが残る。

本作は、真生の超能力同様に物語自体も中途半端な苦痛のみを提示してしまう作品であった。

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