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菅乃廣『あいときぼうのまち』

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2014年6月21日公開の菅乃廣監督『あいときぼうのまち』



製作・エグゼクティブプロデューサーは小林直之、製作・プロデューサーは倉谷宣緒、脚本は井上淳一、撮影監督は鍋島淳裕(J.S.C)、照明は三重野聖一郎、録音は土屋和之、美術は鈴木伸二郎、衣装は佐藤真澄、編集は蛭田智子、音楽は榊原大、音響効果は丹雄二、監督補・VFXスーパーバイザーは石井良和、スタイリストは菅原香穂梨、ヘアメイクは石野一美、VFXはマリンポスト、オープニング曲「千のナイフ」(作曲:坂本龍一)、挿入歌「咲きましょう、咲かせましょう」(唄・夏樹陽子)、撮影協力はいわきフィルム・コミッション協議会、一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー。
製作は「あいときぼうのまち」映画製作プロジェクト、配給・宣伝は太秦。
宣伝コピーは「東電に翻弄された四世代の家族を通して、七十年に渡る日本の歩みを描いた愛と希望の物語。」
2013年/日本/カラー/DCP/ドルビー5.1ch/126分


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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1945年4月、福島県石川町の山奥では学徒動員の中学生たちが天然ウランの採掘を行っている。彼らはその目的を知らされていないが、ただ一人草野英雄(杉山裕右)だけが作業を指揮する陸軍技術将校の加藤大尉(瀬田直)からその目的を知らされた。戦況を一変させる新型爆弾を作る材料にするというのだ。


英雄の母・芙美(里見瑤子)は、戦争未亡人となり石川町の実家へと戻って来た。そこに妻子を残し赴任して来た加藤大尉と出逢い、不倫関係になった。そのことからか、加藤は英雄に良くしてくれた。英雄は複雑な思いを抱いているものの、およそ軍人らしからぬ飄々とした加藤のことが好きだった。



乏しい作業員数ゆえ採掘作業は遅々として進まず、そうこうしているうちに5月の空襲で原子力爆弾を研究していた早稲田の理化学研究所が焼失。新型爆弾開発はとん挫した。
やがて、広島と長崎に原爆が投下されて日本は敗戦。加藤は、妻子のいる都会へと戻って行った。残された芙美は、首を吊って自分勝手に死んでしまう。英雄を残して。


1966年、高度経済成長を続ける日本は、2年後に開催される東京オリンピックを前にいよいよ活況を呈していた。そんな社会状況の中、福島県双葉町は揺れていた。農業が中心でさしたる産業もないこの町に、東京電力が原子力発電所の建設を計画していたからだ。賛成派と反対派で町は二分されたが、徐々に住民たちは土地を手放して行った。
そんな中、頑なに土地にしがみついている英雄(沖正人)は次第に周囲から孤立して行った。英雄はやがて酒浸りになり、愛想を尽かして妻の弥生(大島葉子)は出て行った。働かなくなった父の代わりに高校生の愛子(大池容子)はバーで働いたり、新聞配達をやったりして糊口を凌いでいる。
愛子には憎からずと思っている同級生の奥村健次(伊東大翔)がいるが、健次の父親は早々に土地を手放していた。しかも、町で募集した原発推進の標語に健次が応募した「原子力 明るい未来の エネルギー」が当選。商店街のアーチに、その標語が大きく掲げられた。
愛子は、そのアーチをくぐる度苦々しい思いに駆られ、健次との仲もぎくしゃくし始めた。


双葉町の住民は、東京電力の説得に応じ次々と自分の土地を手放して行った。いつまでも自分の土地にしがみついている英雄は、安全な原発で町おこし的な雰囲気に傾く周囲からいよいよ浮き上った。「そんなに安全なら、何で東京に作らないんだ」との思いから、英雄は懐疑の念を深めて行った。
自分たちの関係を修復しようと健次は何度も愛子の前に現れ、その想いに愛子の心は揺れた。英雄の存在が煙たがれて新聞配達のバイトまでクビになってしまった愛子は、耐えがたい孤独感も手伝って健次を受け入れた。海でずぶ濡れになった体を、浜辺ににあった小屋の中で愛子は英雄に投げ出し、二人は結ばれた。


愛子は、再び前向きになろうとする。とうとう、英雄も自分の土地を手放すことにした。


父の外出中、愛子は自宅に英雄を呼んで交わった。事が済み、二人がまどろんでいると玄関の戸が激しく叩かれた。英雄が自殺したと近所の住民が知らせに来たのだ。
浜辺に寝かされた物言わぬ父親を前にして、愛子は号泣した。健次は、愛子にかけるべき言葉さえ見つからなかった。

あれから45年後の2011年、福島県南相馬市。愛子(夏樹陽子)も還暦を過ぎた。愛子は、学生運動の闘士だった西山徹(大谷亮介)と結婚、三人の子供に恵まれた。今は、長男の家族と同居している。
愛子は、孫の怜(千葉美紅)に教わりFacebookを始める。チュニジアで起こったジャスミン革命は、Facebookによって民衆が集まったという事実を知って興味を持ったのだ。怜は、Facebookで昔の恋人と繋がったことが原因で離婚する夫婦が増えていると笑った。

東京電力を定年まで勤め上げた健次(勝野洋)は、一人息子の孝之を癌で亡くした。孝之もまた東京電力で働いていたが、彼は自分が死んだら原発の危険性を裁判で争って欲しいと言い残した。
健次の妻・小百合は孝之の無念を晴らそうとしない夫に業を煮やしていた。健次は、様々な思いの板挟みになり、辛く苦しい毎日を送っている。
そんなある日、健次のFacebookに友達申請が届く。名前を確認すると、「西山愛子」とあった。


一人、喫茶店で健次のことを待つ愛子。駐車場に入った車から降りて来る男をひと目見ると、それが健次であることが愛子には分かった。
45年ぶりの再会。互いにそれぞれの年月を重ねて来た二人。はじめこそ言葉を探しながらの会話だったが、次第に二人はあの頃の二人に戻って行った。
以来、愛子は外出することが増えて行った。そのことを、一人孫の怜だけはいぶかしんでいた。
怜が懸念したとおり、愛子は健次との逢瀬を繰り返していた。健次は、息子の死に深く傷つきながらも自分の古巣でもある東京電力と対峙することもできないでいた。そのことに失望した妻とは、離婚の危機を迎えている。
45年前とは違った形で、また愛子と健次の間にあの電力会社の存在が影を落としていた。愛子は、そんな健次を自分の体で癒す以外、何の術も持ち合わせてはいなかった。

今日も愛子は車で出かけて行った。怜は、自転車を必死に漕いで後をつけた。愛子の自動車が駐車場に停まってしばらくすると、もう1台の車が入って来た。自分の車から降りた愛子は、その自動車の助手席に体を滑り込ませた。ハンドルを握っているのは、愛子と同世代の男性だった。
発進する車を再び怜は追いかけた。

愛子は、あの海辺の小屋を見に行きたいと言った。しかし、45年前に二人が初めて関係を持った思い出の場所は、跡形もなくなっていた。
浜辺に佇み、健次は「もう一度やり直したい…」と言った。しかし、愛子は首を横に振った。自分にとって健次との関係はいわば置き捨てられた宿題のようなものだったのだ、と愛子は言った。そして、愛子は健次に東電と対峙すべきだと促した。


その時、台地が激しく揺れた。

津波を恐れて二人は車に戻ったが、指したままにしておいたはずのキーが見当たらない。祖母が浮気している現場を目撃した怜が、怒りにまかせて捨てたことをもちろん二人は知る由もない。
車を諦めて走り出した二人は、高い所を目指して逃げ惑う沢山の避難住民たちと遭遇した…。

3月11日を境に、人々の暮らしは一変した。怜の家族は、福島を離れて東京に避難していた。フォト・フレームの中で微笑む愛子の遺影と共に。
祖母が亡くなったのは自分のせいだという罪悪感にかられて、怜は自分に罰を与えるかのように援助交際をするようになった。彼女は、家族も何も信じることができなくなっていた。寝た男に被災体験を話してさらに金を無心する怜は、お客が金を出し渋ると自分は未成年だと言って脅した。

そんな行き場ない日々の中、怜は「みんな、もうわすれていないか」という看板を掲げて街頭で募金活動をしている青年・沢田(黒田耕平)に遭遇する。小奇麗な身なりで帽子を被り、髪を金髪に染めた如何にも軽薄そうな青年。好奇心から、怜は沢田の後をつけた。沢田の後からラーメン屋に入った怜に、沢田は稼いだ募金からラーメンを奢った。
怜は、沢田の横に立ち自分も募金活動を始める。沢田は、自分が各地の原発を転々としている派遣労働者で、それ故に罪悪感からこんなことをしているのだと言った。彼は、怜が福島で被災したことを信じていないようだった。
怜と沢田は、互いを疎ましがりながらも不思議な交流を続けた。


怜が援交をしていることを知った沢田は、お客とホテルから出て来た怜に高級中華料理を奢らせる。食事をしている最中、大きな地震が来た。その瞬間、怜は激しく動揺してテーブルの下に身を隠した。その様子を見て、沢田は怜が本当に被災者だったことを知る。
ある日、怜は沢田にレンタカーで福島に連れて行ってもらう。彼女は、ガイガー・カウンターを取り出すと、あちこちの放射線量を計測しては落ち葉を採取してビニール袋に詰めた。
そして、更地になった場所までくると、ここがかつての自宅だったと怜は言った。沢田は、実は自分は原発のことを書こうとしているフリー・ライターなのだと言った。

夜、東京に戻って来た二人はビルの屋上にいた。怜はビニール袋の中から落ち葉をつかむとビルの屋上から投げようとした。その様子に一瞬驚きの表情を浮かべた沢田は、「これは、俺がやることだ」と言って怜からビニール袋を奪い取ると、地上に向けてばら撒いた。
玲は警察に補導されたが、あくまでも主犯の沢田にそそのかされてのことという判断でおとがめなしだった。母の博美は平身低頭で警察に何度も詫びた。青年は、実は沢田という名字でさえなかったことを怜は警察から知らされた。

帰宅した怜に、徹は愛子に来客があったことを告げた。あの日、津波を恐れて狼狽する人たちを愛子は避難誘導したのだという。そのお陰で命の助かった人がいたのだ。
さらに、徹は続けた。実は、愛子は自分が自殺するのではないか…とずっと恐れていたことを。というのも、愛子の父親と祖母がともに自ら命を断っていたからだ。そのことを考えると、悲しい事故ではあったが愛子の最期は決して不幸なだけではなかったんじゃないかと徹は言った。
その言葉に、怜の中で何かが解けるような感覚があり、彼女の両眼からは止めどなく涙が溢れた。怜は、しゃくり上げながらもこれまでずっと凍りついていた自分の心が溶けて行くのを感じていた。

怜は、一人で南相馬市の自宅跡に来ていた。愛子の遺影を地面に置くと、おもむろにホルンを取り出した。まだ家族が平穏に暮らしていたあの頃、怜は吹奏楽部でホルンを吹いていたのだ。生前祖母に聴かせることのできなかったホルンを、怜はようやく聴かせることができた。
その刹那、怜の足もとがグラリと揺れると遠方でサイレンが鳴り響いた…。

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力作では、ある。
ただ、震災・原発を扱った日本映画はどうしてかくも肩に力が入り過ぎた作品になってしまうのだろう?
園子温監督『希望の国』 、内田伸輝監督『おだやかな日常』 、本作ともに作り手が誠実に作品と向き合っていることは伝わる。
しかし、その誠実な姿勢がフィクションとしての映画製作という観点で見た時にどこか空回りしてしまっている印象を受けるのもまた事実である。ドキュメンタリーとして被災地の現状と向き合い、国の姿勢なり電力会社を糾弾するのならともかく、フィクションとして描くのであればそこに作家的な文体とフィクショナイズすることの意味性でこそその映画を問うべきである。

然るに、園子温にしろ内田伸輝にしろ、「震災・原発を題材に、真摯に直截的な作品を撮った」という部分の方をあまりにも強調し過ぎてはいないか?
『あいときぼうのまち』にも、僕は同様な匂いを感じてしまう。それは、公式ホームページに書かれた文章の至るところに顕著である。
そもそも、この三作品はともに逆説的な意味でのシニカルなタイトルがつけられているところからして共通のスタンスが窺える。
ただ、これら三作のうちでは、僕は『あいときぼうのまち』が一番観ていて“映画”として納得できる部分が大きかった。
それは、『希望の国』や『おだやかな日常』のように、あまりにも構造的ステロタイプの人々が登場しないからである。『希望の国』にしても『おだやかな日常』にしても、放射能の恐怖を鋭敏に感じ取って周囲との軋轢を恐れず自分の正しさに邁進する主人公と、それに反発するその他大勢の一般市民という図式化された善悪が登場した。
そのあまりに単純化されたストーリーテリングに、僕は鼻白む思いだった。政府や電力会社はともかく、同じように被災して不安に怯える人々を単純化して善悪の色分けをする姿勢に、僕はどうしても作り手の傲慢を感じて馴染めなかったのだ。

震災を描いた映画で、僕が最も評価するのは小林政広監督『ギリギリの女たち』 である。この作品は、震災によって邂逅する三姉妹のそれまでの人生と家族としての関係性を描き出した映画で、あえて震災そのものを直截的に描かないところに作り手の強い意志と真摯さを感じた。
極々個人的な人の生を描いたとしても、被災地の深刻な傷跡はその空気感として映画のあらゆる個所に影を落とし、観る者に突き刺さった。そこには、分かりやすく図式化された善も悪も登場しない。提示されるのは、あくまでも登場人物一人ひとりの過酷な人生だけである。
それがフィクションとして震災と向き合うことだ…と、僕には深く納得できたのである。

その意味において、『あいときぼうのまち』は東京電力側になびいた住民たちをある種図式化して描いている部分こそ否定できないが、より主人公たちの個人的生活に絞り込んで描いているところに好感が持てる。やはり、フィクションを標榜するのであれば人の営みそのものを描くべきだと僕は考える。
結局のところ、人の日々の生活なり思いというものは、個人的なエゴや欲望、そしてささやかな自分にとっての幸せに向けられるものだから。先ずはそのことあってこそ、それを脅かす外界の敵に目が向くのである。

ドラマ的に見た場合、芙美と英雄の自殺や家庭を捨てて出て行った弥生にいささかの物語的ご都合主義を感じるが、愛子と健次の関係性には映画的な力がある。
そして、健次と亡くなった息子の関係性にも菅乃監督や脚本を担当した井上淳一の思いを感じる。
この映画で問題なのは、“今”の描き方である。自虐的になって援助交際を繰り返す怜と募金詐欺をする沢田、この二人の物語があまりにも弱いのだ。そもそも、援交という設定にある種の手詰まり感があるし、それまでの登場人物たちと比較して怜と沢田の人間像を作り手側が掌握しかねているのではないか?
何というか、四世代にわたる家族の物語の帰結として、ちょっとこれはないんじゃないか…と思う。

役者陣について言及すると、僕にとってこの映画の魅力は夏樹陽子大池容子の熱演に尽きる。
先入観と言ってしまえばそれまでだが、夏樹陽子のイメージというと、2時間ドラマによくキャスティングされていた女優…程度の印象だった。しかし、この作品における夏樹陽子の若々しい躍動には目を見張った。年齢はそれなりに重ねたが、今の夏樹にしか出せない強さと可愛らしさを内包した愛子という女性象を見事に演じていたと思う。
そして、愛子の少女時代を演じた大池容子。頑なで不器用、それでいて健次に寄り沿わずにはいられないアンビバレントな少女像をとても魅力的に演じていたと思う。ちょっと気になる若手である。

重ねていうが、『あいときぼうのまち』は力作である。
しかし、この題材を描く場合、他の題材でフィクションを描く時と同様、あるいはそれ以上に謙虚に作品に向かうべきではないのか?
そんなことを考える作品であった。

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