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小林政広『幸福』

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2008年9月20日公開の小林政広監督『幸福 Le bonheur




プロデューサーは小林政広、ラインプロデューサーは波多野ゆかり、アシスタントプロデューサーは岡村直子、脚本は小林政広、音楽は明星、撮影監督は鏡早智、編集・仕上げコーディネイターは金子尚樹、制作主任は川瀬準也、助監督は高橋孝之介、サウンドデザインは横山達夫、録音は秋元大輔、衣裳コーディネイター&アドバイザーは宮田弘子、監督助手は下田達史、撮影助手は池田直矢・鈴木雅也、照明は増谷文良、制作進行は橋場綾子・長井優、制作応援は板橋和士、ネガ編集は小田島悦子・神田純子、編集助手は目見田健、タイミングは安斉公一、タイトルは道川昭、フィルムは報映産業(FUJI FILM)、リレコはヨコシネディーアイエー、録音協力はシネマサウンドワークス、現像は東映ラボ・テック。提供はディーツーゲイト、製作はディーツーゲイト・モンキータウンプロダクション、制作はモンキータウンプロダクション。
2006年/35mm/107分/カラー/アメリカンビスタ/モノラル

本作が構想されたのは、『バッシング』の前である。2005年8月に撮影されたものの、諸般の事情により公開されたのは作品が完成してから3年後のことであった。
当初は冬の物語で「雪国」というシナリオ・タイトルであったが、撮影が夏にずれ込んだために苫小牧市勇払を白夜の町という設定にしてシナリオが改訂された。
なお、タイトルはアニエス・ヴァルダ監督『幸福』からの借用である。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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苫小牧市勇払に、今年も白夜の季節が訪れた。
一人駅に降り立つ男、健司(石橋凌)。くたびれた服装に、疲れ切った表情、口髭。しばらく立っていた健司はホームに倒れ込んでしまうが、彼に駆け寄る者などいなかった。
健司は、公園のブランコに座って食パンを頬張っていたが、そのうちまた倒れてしまう。バイト先に向かっていた品子(桜井明美)は、偶然健司を見つける。彼女は、健司を抱え起こすとバイト先のスナックあすなろに連れて行った。

スナックあすなろのマスター(村上淳)は、「もうすぐ店開けなきゃなんないのに、何考えてんだ」と不機嫌そうに言った。ほんのわずかな常連客のみのしけた店で、自分は煙草を吸っていると言うのに店内は禁煙という何ともひねくれたスナックだ。
ソファには健司が占拠していたが、今夜のお客もカウンターで「心凍らせて」をがなっている男(香川照之)だけだ。
店が終わると、品子は健司を自分の家に連れて行った。家といっても近所にあった工場の寮で、工場はすでに潰れていた。要するに、使われなくなった寮に品子が勝手に住みついているのだ。品子の勢いに気圧されたかのように、健司は彼女の家で深い関係を持った。
その翌日から、二人は互いの素性も分からぬまま不思議な同居生活を始めた。健司は、持っていたマジソン・スクエア・ガーデンのバッグを失くしたことをしきりに気にしていたが、何が入っていたのかと品子が聞くと大したものじゃないとだけ言った。



スナックあすなろがアルバイトを募集して、3カ月目にやって来たのが品子だった。その当時はとにかく人出が欲しかったので、マスターはちゃんと履歴書を確認することもなく品子を雇った。辛気臭く愛想もなければ表情もない女だったが、言ってみればこのスナックもマスターも同じようなものだった。
実は、品子は自分勝手に夫と子供を残して家出した身だった。彼女は、ある時我慢できず家に電話してしまうが、電話に出た夫がもう許すから帰って来いと言うと何も言わずに電話を切った。

マスターは、デリヘル嬢(橘実里)と付き合って二年になるが結婚する気はさらさらない。スナックで「心凍らせて」をがなる常連客は、彼女の常連客でもあった。
品子は、独占欲が強いのか健司に家から出ないようにと言って仕事に出るのだが、健司は毎日ほつき歩いていた。彼は、何やら町のガソリン・スタンドを巡っているようだった。
マスターは、開店前に思わず品子に口づけしてしまうが、それが何故かは自分自身にすらよく分からなかった。

また今日も、あすなろ常連客の男は町はずれのホテルでデリヘル嬢と会っていた。男は、家族五人を殺して来たと言った。会社を潰して莫大な借金を背負ったのだと。男は、お前も死んでくれと言ってデリヘル嬢にまで手をかけた。
男は、その足でスナックあすなろを訪れた。店内には、マスターと品子と健司がいた。彼はデュエットしろと迫ったが品子が嫌がると「この店は、店員の教育がなってない!」と怒鳴って一人で「心凍らせて」をがなった。
店を上がり、品子は健司と一緒に歩いていた。近くの公園に立ち寄ると、健司はこの町を出ると告げた。理由は、言わなかった。「じゃあ、私も」という品子にそれは出来ないと言うと、健司は「ここで別れよう」と言い残して公園から出て行った。一人残された品子は、ひとしきり泣いてから家に帰った。
玄関前に、常連客の男が座り込んでいた。品子の姿に気づくと、男はこの辺で派出所知らないかと聞いて来た。

品子は、男を勇払北部駐在所に連れて行った。住み込みの警官(柄本明)が、パジャマ姿のままで応対した。男は、六人殺して来たと言った。警官は動揺して本部に連絡すると、とりあえず調書を取れと指示された。
品子は、派出所に届けられていた健司のスポーツ・バッグを見つけると自分の物だと言い張って持ち帰ってしまう。
警官が渋々調書を取り始めると、やっぱり死刑になるのは怖いと言って男は拳銃を奪うと銃口をこめかみに当てた。

帰宅すると、品子は健司のバッグを改めた。すると、中から一通の手紙が出て来た。息子が健司に宛てたものだった。会社が倒産して借金まみれになった健司を捨てて、妻は二人の子供を連れて出て行ったようだった。息子は、やっぱり家族は一緒に住むべきだと考えていて、母に内緒で現在の居場所をこっそり知らせて来たのだ。健司の妻は勇払のガソリン・スタンドで働いているとその手紙は告げていた。
恐らく、健司はガソリン・スタンドで働いている妻の姿を見つけたのだろう。



悲しみに打ちひしがれて、マスターは店の壁に張られた写真を剥がしていた。そこに写っている殺された彼女の笑顔に向かって、「だから、ホテトルなんて辞めろっつったんだよ」と声を詰まらせた。
店を整理していると、マスターは品子の履歴書を見つけた。読んでみると、バカ正直にも彼女は出て行った自宅の連絡先を書いていた。マスターは、携帯を取り出した。出勤して来た品子に、マスターは履歴書が見つかったことを言った。

開店しても、客は来なかった。マスターは、店をやめると言った。この店は、マスターの彼女が開いたもので、当時の彼は女のヒモだった。ところが、彼女は早くして亡くなってしまい、彼がこの店を引き継いだのだった。「俺の付き合う女、みんな死んじゃうんだよ」とマスターは言った。
品子は、「カラオケでも歌いましょう」と言って「いい日旅立ち」を入れた。モニターを見つめる二人。しかし、歌は出て来ず品子は嗚咽を漏らすだけだった。
帰宅した品子に、「お母さん」と声がかかった。ハッとして品子が声の方を向くと、そこには息子と夫が立っていた。駆け寄ろうとする息子の腕を、夫は引き戻した。

そして、再び、白夜の季節がやって来た。
スナックあすなろは、名前を「幸福」に変えて営業を続けていた。店内では、女性客が一人で「いい日旅立ち」を歌っている。
店の奥では、おしぼりを作っている健司と品子の仲睦まじい姿があった…。




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『フリック』(2004)を撮った時、小林政広は自身の映画製作に一度行き詰まりを感じていたようだ。そこで製作されたのが、小林流リアリズム文体で撮られた『バッシング』である。
ところが、前述のとおり『フリック』の次に小林が手掛けた脚本は『幸福』の原案となった『雪国』であった。“もし”という仮定は意味をなさないが、もし『雪国』の資金が順調に集まり『バッシング』より先に撮影されていたら、小林の映画製作も今とは随分と違ったものになっていたのではないかと思う。
というのも、ストーリー紹介をお読み頂ければ明白なように、『幸福』はそれまでの小林的な映画フィクショナリズムとはやや軸をずらした形で語られたビターなファンタジーとでも言える作品だからである。

本作を特徴づけているのは、『バッシング』でも見られた登場人物の会話や心情を可能な限り映像だけで表現し、極力科白を削ぎ落しているところだろう。そして、ある種の技巧さえ感じられる役者の動きやカメラ・アングルにも、『愛の予感』『ワカラナイ』へと続く流れを感じる。
物語全体を覆うトーンは何とも息苦しく重いものであるが、そこに某かの可笑し味をまぶすところも小林作品ならではだろう。

本作を観ての僕の感想は、これが「喪失の先」を題材にした物語だというものである。そして、観ようによってはラストのツイストがちょっとしたおとぎ話のようにも映るのだが、本作のファンタジー性がハート・ウォーミングとは程遠いところにも小林ならではの視点を感じる。
ラストに見られる健司と品子二人の笑顔は一面的には心温まるものだが、どうしてもその背後にある“では、結局この二人の家族は…”という現実的な部分に思い至る。健司の息子が送って来た手紙の文面や、品子と再会した夫が駆け寄ろうとする息子の腕を取るシーンが脳裏に浮かんでしまうのだ。
そして、健司と品子には手にできる幸福があったが、彼らの周囲に配されたスナックあすなろのマスターやデリヘル嬢の彼女、常連客には喪失しか訪れないのだ。
会社を潰して借金まみれという崩壊の構図も、あまりにも現代的リアリティの中にある。

それ故にと言うべきか、健司が行き倒れる姿、健司と品子が歩く姿、フィックスされたカメラの中でマスターの渋面と品子の陰鬱な表情が対比される店内シーン、カラオケをがなる常連客のシーンの不思議なコミカルさがとても効果的である。
こういったシンメトリーがあるからこそ、本作には映画的フィクションとしての時間がちゃんと流れるのだ。

小林作品を観た時にいつでも強く感じるのは、彼が作り出す登場人物たちの造形の妙と小林が彼らに注ぐ視線の距離間であるが、本作でもそれはしっかりと感じることができる。
それこそが、小林作品に彼ならではのオリジナリティを付与しているのだろう。

本作は、小林の作品群の中では過渡期的な印象を受ける作品である。
ただ、これ以降の展開を考えると見逃せない一本と言っていいだろう。



最後に、個人的には橘実里がとても魅力的に映ったことを付け加えておく。


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