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NAADA「Drunken Master Vol.2」2016.11.17@川口CAVALLIN

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2016年11月17日、川口CAVALLINOでNAADAが出演するイベント「Drunken Master Vol.2」を観た。
今年、NAADAがライブをやるのは11月5日の田端Studio Andantino以来五度目で、僕が彼らのライブを観るのはこれが通算47回目。
なお、この日の演奏が年内のラスト・ライブだった。


 
NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf)
 
では、この日の感想を。

1. 愛、希望、海に空
透明感にあふれた美しいピアノのイントロにエフェクティヴな音色のギターが加わり、音はドラマティックな広がりを見せる。
ただ、ヴォーカルの出音が大きすぎてサウンド・バランスが落ち着かない。この曲は器楽的なアンサンブルが肝だから、声も他の楽器と調和した音で聴きたいのだ。全パートがラウドになると、PAが歪んでしまうのも気になる。
神秘的な厚みあるコーラスは刺激的だし、ソウルフルなプレイも魅力的だから、もう少し音を整理できれば。
叙情派プログレッシヴ・ロックのような深みのある音像は、とても魅力的だ。

2. RAINBOW
演奏自体は悪くないのだが、やはり音のバランスが気になってしまう。何というか、彼らの音圧に会場とPAがオーバーフロー気味に聴こえるのだ。
ただ、この三人ならではのアンサンブルがしっかりと聴き取れて、手応えのようなものを強く感じた。

3.puzzle
意匠はポップ、心情はパンクな曲。RECOのストレートな歌には、ヒリヒリするような皮膚感覚があって刺激的だ。
この曲で音が整い、ガッツのあるサウンドが耳に残った。

4. REBORN
今回のライブでどれか一曲と問われたら、僕は迷わずこの曲を推す。まるで耽美的なフレンチ・シンフォニック・プログレのような圧倒的音像で始まり、機関銃のように畳みかける歌詞が独特の疾走感となって会場を駆け抜けていく。
NAADAの幅広い音楽性と高度な技巧が、如実に分かる極めてハイ・クオリティな演奏に舌を巻く。

5.sunrise
この曲のシンプルで簡素な美しさに、このリバーブはやや深すぎるように感じた。洞窟の中から見る日の出のような印象である。
ただ、この演奏でも三人編成のNAADAの音楽的アイデンティティが確立してきたのがはっきり分かった。

年内最後のライブを行ったNAADA。この夜の演奏には、初ワンマンの余韻と勢いがそのまま出ていたように思う。来年の彼らは、より大海へと船出していくんじゃないか。僕には、そんな予感と期待がある。
新しい日の出を楽しみに待ちたい。


城山羊の会『自己紹介読本』

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2016年12月1日ソワレ、下北沢の小劇場B1で城山羊の会『自己紹介読本』の初日を観た。

 


作・演出は山内ケンジ、舞台監督は神永結花・森下紀彦、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵、演出助手は岡部たかし、照明操作は櫛田晃代、音響操作は窪田亮、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は渡邉美保(E-Pin企画)、制作助手は山村麻由美・美馬圭子、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。主催・製作は城山羊の会。
助成は芸術文化振興基金、協賛はギーク ピクチュアズ。
協力はエー・チーム、レトル、クリオネ、ウィズカンパニー、quinada、バードレーベル、青年団、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。


こんな物語である。

とある公園の一角。長いベンチの端に一人座ってスマホをいじりつつ、待ち合わせの相手を待っている風の女性ミサオ(富田真喜)。もう片側の端に座って、文庫本を手に彼女の様子をうかがう男増淵(岡部たかし)。その光景を無言で見守る、壊れたのか水の出ない小便小僧。公園の近くでは、工事現場の音が時折聞こえてくる。

意を決して…というほど深刻ではなく、むしろ意味不明の軽さで自分は役所の職員だと唐突に自己紹介を始める増淵。もちろん、ミサオは怪訝そうな顔で増淵を見ている。
というより、明らかにミサオは関わりになりたがってないのだが、増淵はお構いなしに会話を進めていく。
いったん会話は打ち切られたかに見えたが、性懲りもなく増淵は話しかけてきた。「化学の教師のように見える」という言葉に、意外なほど反応するミサオ。「こんな教師、いる訳ないじゃないですか」と断言する彼女に、「いやいや、本当に先生に見えますよ」と返す増淵。

そんなやり取りをしているところに、ミサオと待ち合わせしていたユキ(初音映莉子)とユキの恋人カワガリ(浅井浩介)がやってくる。この二人が、ミサオに相談を持ちかけたのだった。
何となく微妙な空気が漂い始めたが、またしても増淵が自己紹介を始めようとする。二人は、増淵をミサオの知り合いだと思い込むが、今ここで会っただけだとミサオから聞かされ混乱する。しかし、例によって増淵は一向にひるむ様子もない。
どうやら、微妙な空気は増淵の存在が原因ではなく、そもそもミサオとユキの関係性にあるようだった。増淵がミサオのことを教師のように見えると言った話に、ユキは「そうじゃない」と言ったが、「もう、辞めたじゃない」とミサオ。「そりゃ、そうよね…」とユキ。このやり取りで、微妙な空気は不穏な空気へと変化した。
返す刀の如く、ミサオはカワガリがユキと付き合い始めたのは去年の5月からでまだ日が浅いとか、ユキは男の人がとっても好きだからとか、あまりこの場で言及することが適切とも思えない情報を次々と口にした。

そこに、今度は増淵と待ち合わせしていたという役所の後輩曽根(松澤匠)がやってくる。また自己紹介へと話が戻り、混沌は新たなる混沌へと向かっていく。
すると、今度はやたらと名刺を配りたがる産婦人科医の柏木(岩谷健司)と、最近結婚した妻の和恵(岩本えり)がやってくる。この夫妻は、曽根が増淵に紹介しようとしてこの公園に呼んだのだ。

ユキとカワガリがとある深刻な事態をミサオに相談するという本来の目的が捨て置かれたまま、関係性のよく分からない七人がそれぞれに気まぐれな会話をまき散らしつつ、事態はよりカオスへと迷走していくが…。


そもそも、あえて手狭な小劇場B1を選んだこと自体、「如何にも、山内ケンジだなぁ…」と若干の苦笑を交えつつ思った。彼の作る演劇同様、一筋縄ではいかない人である。
そして、公園のベンチに舞台を限定したワン・シチュエーション芝居という、役者陣にとってなかなかに過酷な環境。
悪意とセクシャリティがふんだんに盛り込まれた毒素の振りまき方や、後半における矢継ぎ早の展開、終演直前での如何にもなツイストと、どこを切っても城山羊の会である。

ただ、これまでの城山羊の会諸作では、奇妙な人物こそたくさん登場してきたものの、そこには明確な人物同士の関係性が設定されており、そのシチュエーションが思ってもみない方向に暴走して隠微なわいせつ性とダークな暴力性に帰結するという展開が多かったように思う。
ところが、本作においては登場人物七人の立ち位置や関係性がほぼ説明されないまま、かろうじて会話の端々にヒントを散りばめただけで、話がどんどん進んでしまう。
曖昧さを曖昧さのまま記号的に放置して、ひたすらちぐはぐな会話から生じる間と居心地の悪い沈黙だけで舞台を構築しているのだ。
そう、ある種の前衛というか、相変わらず攻めの姿勢を緩めない作劇こそ、山内ケンジの山内ケンジたる所以である。
本作を見ていて僕は終始もやもやした気分になっていたのだが、それはおそらく登場人物がそれぞれに抱いている関係性のもやもやと同等の不確かさに起因していたのだろう。
そのもやもやの呪縛から解放してくれるのが、城山羊の会としては珍しくコミカルな仕掛けを施したエンディングである。

基本的に間が命の会話劇で一幕物90分という尺は、さすがに見ていてところどころダレる個所があったし、正直七人の登場人物をうまく活かしきれていない部分もあった。
初日であることを考えればなかなかにハイ・クオリティだったと思うが、公演回数を重ねることによって、さらに会話が研ぎ澄まされて舞台は洗練されていくことだろう。


本作は、変わることなく攻めの姿勢を崩さない山内ケンジの新作。
ちょっとした話題になった映画『At the terrace テラスにて』を見た人にも見逃した人にも、自信を持ってお勧めしたい逸品である。

2016.12.16吉田美奈子& THE BAND@BLUES ALLEY JAPAN

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2016年12月16日、目黒のライブハウスBLUES ALLEY JAPANで吉田美奈子 & THE BANDのライブを観た。
かなりオサレでラグジュアリーな会場は、小心者にはかなりのプレッシャーだった。会場はテーブル席と立ち見に分かれていて、僕はスタンディングがしんどいからテーブル席で見ていたけど、立ち見のお客さんとのシンメトリーが、ビジュアル的に貧富の差みたいなたたずまいで何とも落ち着かない。


吉田美奈子(vo)、土方隆行(g)、松原秀樹(b)、森俊之(keyb)、村上“ポンタ”秀一(ds)

吉田美奈子さんは、僕が最も好きなシンガーの一人だが、ライブを聴きに行ったのはこの日が初めてだった。さすがに往年ほどには高いキーが出ていなくて、ファルセットを多用していた気がする。そのためか、いささか歌の歯切れとか突っ込んでくるようなシャープネスは後退していたように思うけど、その代わり表現のニュアンスとか心に響く熱量はすごかった。

ライブは終始リラックスした雰囲気で、美奈子さんもおっとりとしたマイペースのMCで会場を和ませていた。
個人的には、バンドの演奏がとにかく最高で、スローなバラードにしても、ミッドテンポの曲にしても、アッパーでファンキーな16ビートにしても、有無を言わせぬ説得力とグルーヴに貫かれていた。
本当に、ずっと聴き続けていたいと思える最高の快感だった。
「LOVIN' YOU」と「頬に夜の灯」では美奈子さんが一緒に歌うことを求め、客席からのコーラスに合わせて歌唱するハート・ウォーミングな一幕もあった。

第二部には、特別ゲストとして浜口茂外也さんが2曲で参加。「午後の恋人」では繊細なフルートを、「GRACES」ではパーカッションでポンタとのタイトな掛け合いを聴かせてくれた。それにしても、浜口さんは年を重ねて益々お父さんの浜口庫之助さんに似てきたように思う。

そして、ラストは必殺のファンキー・チューン「恋は流星」「愛は思うまま」「TOWN」が畳みかけるように演奏された。オーディエンスの熱狂も最高潮に。
そして、アンコールに応えてしっとりと一曲。

美奈子さんは、第23回日本プロ音楽録音運営委員会においてライブCD『calling』収録のユーミン・カバー曲「春よ、来い」がベストパフォーマー賞に選ばれた。その時の審査員の一人、椎名和夫さんもこの日のライブに来ていた。

この日の美奈子さんのライブを僕なりに形容するとしたら、「匠と円熟」ということになるだろう。
彼女の歌唱を一流のミュージシャンによるタイトな演奏に身を委ねていたら、「年を取るというのも、なかなか捨てたもんじゃないな…」とフッと思ったのだった。


【Set list】

第一部
1.TALE OF THE SEASONS
2.ENCOUNTER
3.GIFTED
4.CRYSTAL
5.LOVIN' YOU
6.少しだけ…
7.FORGIVING
8.TEMPTATION

第二部
9.RADIANCE
10.頬に夜の灯
11.午後の恋人
12.GRACES
13.BEAUTY
14.悲しみの停まる街
15.恋は流星
16.愛は思うまま
17.TOWN

-encore-
18.THE LIFE

My Favorite Reissured CD Award 2016

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新年といえば、毎度おなじみこの企画再発CDアワードという訳で、去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

2016年の基本的な印象は、前年とほとんど変わらず再発の企画にも目新しいものはなかったというものだ。一枚の名盤のアウトテイクやミックス違い、場合によってはアナログ・レコードやUSBデータ、DVD、Blu-rayまでセットしたデラックス箱物や、アーカイヴ的な超重力級BOX、新素材を使った高音質盤、廉価盤再発、放送音源、等々。
廉価盤再発に関しては、相変わらずリマスターの有無がインフォメーションされないことが多い。僕が一番どうかと思うのは、SHM-CD化はするがマスターは旧来のままという再発である。

そんな2016年の再発シーンにおいて、僕が個人的にうれしかったものを順不動で挙げておく。

○ 大滝詠一 / BEDUT AGAIN

大滝さんのまさしく置き土産的な一枚。他人に書いた名曲群の本人歌唱バージョンを集めた作品集は、『A LONG VACATION』『EACH TIME』と並んでボーカリスト大滝詠一を堪能できるファン待望の企画盤である。

○ THE POP GROUP /FOR HOW MUCH LONGER DO WE TOLERATE MASS MURDER?

ようやく出そろったポップ・グループのリマスター再発プロジェクトの一枚。かつて徳間ジャパンからも国内盤が出ていたが、廃盤になって久しかったからこれは待望だった。何せ、一時はPROGRESSIVE LINEからブート盤まで出ていた始末である。
彼らは、NEW WAVEというよりPOST PUNKという表現が最もピッタリくるバンドというのが個人的な印象で、最も過激なFREE JAZZとROCKとFUNKの邂逅というべきミクスチャー・ロックの元祖と言えるのではないか。

○ 須山公美子 / 夢のはじまり


現在でも音楽活動を続けてる須山公美子の名盤で、ずっとほしかった一枚がようやくの再CD化された。今回のマスタリングを担当したのは、AFTER DINNERの音響に深く関わった宇都宮泰!
シャンソンとチンドンをミクスチュアした独特の世界観は、ある意味永遠に懐かしく、そして新しい

○ CHUCK BROWN & THE SOUL SERCHERS / BUSTIN’ LOOSE


1980年代に一部で盛り上がったワシントンDCのローカル・ダンス・ミュージックGO-GO。同じビートでひたすらメドレー形式に長尺演奏を続けるスタイルで、代表バンドと言えばTROUBLE FUNKだけど、大ベテランのチャック・ブラウンによるプレGO-GOマスターピースといえば本作。
以前に一度CD化されたことがあったけど、ようやくの再発はまさに待望だった。

○ THE BEATLES / LIVE AT THE HOLLYWOOD BOWL

1977年にアナログ盤でリリースされたビートルズ唯一の公式ライブ盤で、かつて日本では東芝EMIから『ザ・ビートルズ・スーパー・ライブ!』として発売されていた。長年廃盤だったこのアルバムは、ロン・ハワード監督のドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ~エイト・デイズ・ア・ウィーク」公開に合わせて再発の運びとなった。
何も言うことなどない、ロック・ライブの歴史的モニュメントである。

○ LESTER YOUNG / CLASSIC 1936-1947 COUNT BASIE AND LESTER YOUNG STUDIO SESSIONS


MOSAIC渾身の8枚組。カンサス・シティのビッグ・バンド・ジャズと言えば、最高にスウィングするオール・アメリカン・リズムセクションを要したカウント・ベイシー楽団で決まりだが、その中心人物にしてサックスの革命者ともいえるプレス珠玉の名演を詰め込んだ一生もののお宝箱。
同じMOSAICには4枚組の『CLASSIC COLUMBIA,OKEH AND VOCALION LESTER YOUNG AND COUNT BASIE(1936-1940 』もあるが、もちろんそちらもマスト。

○ LOU REED / THE RCA & ARISTA ALBUM COLLECTION


生前にルー・リード自身が監修したこのボックスは、彼のキャリアを文字通り総括した圧巻の17枚組。もちろん、すべてのアルバムが必聴だと思うけど、RCAからリリースされた傑作ライブ『LIVE IN ITALY』が未収なのが個人的には大いなる不満だ。
このライブ盤、ロバート・クワインのギターが、本当に最高なんだけど。

○ THE ROLLING STONES / IN MONO


ビートルズのMONO BOXが限定生産でリリースされたときは、ものすごい争奪戦となったことが今となっては懐かしいが、こちらはあまり騒がれることなくひっそりリリースされた15枚組。
このボックスがすごいのは、ビートルズ同様に英米盤で微妙に収録曲を違えていたアルバム群を、すべてボックスに詰め込んでしまった点。強引と言えば強引な作りだけど、当時の雰囲気を伝えていて実に気分だ。ちゃんとレア・トラックス盤が用意されているのもうれしい。
やっぱり、60年代はMONOだよな!とつくづく思う。

○ BIG STAR / COMPLETE THIRD


一部に熱狂的なファンを持つメンフィスのローカル・ヒーロー、アレックス・チルトン。ボックス・トップスでの華々しい活動に比べて、地味な存在のまま終わってしまったビッグ・スターだが、元祖パワー・ポップ的なビート感とチルトンの黒っぽいボーカルが後進に与えた影響は決して小さくない。
本作は、サード・アルバム関連の音源をこれでもかと言わんばかりに詰め込んだタイトルに偽りなしのコンプリート版だ。

○ THE TIMERS / ザ・タイマーズ スペシャル・エディション


1988年に反原発がらみで東芝EMIから一度発売中止になった後、数か月後に古巣のキティレコードからのリリースされたRCサクセション唯一のオリコン・チャート第一位獲得アルバム『カバーズ』。
その怒りから、さらに活動をラジカルにした忌野清志郎が結成した覆面バンド、ザ・タイマーズ1989年のアルバムがデラックス・エディションとして蘇った。当時、テレビ出演やインタービューでも相当に尖っていたZERRYこと清志郎だが、今聴いても『カバーズ』以上に身も蓋もないヤンチャぶりだと思う。これをてらいもなくやれてしまうところが、清志郎の清志郎たる所以だろう。
何もなかったようにCMソングに使われている「デイ・ドリーム・ビリーバー」のポップさが、かえって皮肉に聴こえるから複雑と言えば複雑なんだけど。

個人的に、2017年再発で僕が密かに期待しているのは、プリンスのワーナー傑作群リマスター再発、P音なしのじゃがたら『君と踊りあかそう日の出を見るまで』、生活向上委員会大管弦楽団『This is Music is This!?』『ダンス・ダンス・ダンス』だ。

瀬田なつき『PARKS』

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2017年4月22日公開、瀬田なつき監督『PARKS パークス』

 

企画:本田拓夫/ゼネラルプロデューサー:樋口泰人/プロデューサー:松田広子/ラインプロデューサー:久保田傑/脚本・編集:瀬田なつき/音楽監修:トクマルシューゴ/劇中歌:PARK MUSIC ALL STARS「PARK MUSIC」/エンディングテーマ:相対性理論「弁天様はスピリチュア」/撮影:佐々木靖之/録音:高田伸也/美術:安宅紀史/スタイリスト:高山エリ/ヘア・メイク:有路涼子/助監督:玉澤恭平/制作担当:芳野峻大/協力:東京都西部公園緑地事務所、三鷹フィルムコミッション、武蔵野市フィルムコミッション、一般社団法人武蔵野市観光機構、公益社団法人東京都公園協会、ニューディアー
製作:本田プロモーションBAUS/制作プロダクション:オフィス・シロウズ/配給:boid/宣伝:VALERIA、マーメイドフィルム/宣伝協力:渡辺麻子、栗田豊/助成:文化庁文化芸術振興費助成金
宣伝コピー:「100年目の公園。僕らの物語がここから始まる。」「君と、歌いたい曲がある。」
2017年/日本/カラー/118分/シネマスコープ/5.1ch

本作は、2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターの本田拓夫が「映画館の終りを新しい始まりにしたい」という思いに端を発し、井の頭恩賜公園100年実行委員会100年事業企画として製作された。


こんな物語である。

井の頭公園脇にあるアパートで独り暮らしをしている成蹊大学4年生の吉永純(橋本愛)は、冴えない学生生活を送っている。同棲するはずだった恋人とは別れ、親のコネで就職が決まっているというのに大学からは留年通知が届いていた。
卒業するためには、放置していたゼミの卒論を何とかして単位をもらう以外に手立てがない。ゼミは代返オンリーで一度も授業に出席したことのない純だったが、背に腹は代えられない。彼女は、おずおずと井上教授(佐野史郎)の研究室を訪ねた。
ひとしきり嫌味を言った後、思いの外寛容な井上教授は一週間以内に論文のアウトラインを提出するよう言った。首の皮一枚つながったものの、元より純は卒論のアイデアなど持ち合わせていない。

 

 

純は、子役をしていた10年前にグミのCMに出演して話題となった。しかし、それ以降は鳴かず飛ばずでタレント活動もとん挫。10代のころはギターを弾いて作曲にも手を出したが、それもパッとしなかった。
思い起こせば、いつも逃げてばかりで何事に関しても中途半端。イケてない自分の人生に、彼女はずっと悶々としていた。そんな純にとって、モデルやイラストレーターとして活動しながら吉祥寺グッド・ミュージック・フェスティバル(通称「キチフェス」)の運営スタッフもやっている友人の理沙(長尾寧音)は、眩しい存在だ。かつて音楽をやっていたことを知る理沙からキチフェスで歌わないかと声をかけられるものの、純は即座に断ってしまう。

部屋の壁に貼ってあった元カレとのツーショット写真をすべてはがした純。強い風が部屋の中に吹き込んで、開け放った窓からそれらの写真は飛ばされてしまった。
慌ててベランダに出る純。すると、大きなリュックを背負って一枚の写真を手にこちらを見上げている女の子と目が合った。女の子は、パッと明るい表情を見せたかと思うと一切躊躇することなく純のアパートまでやって来て、何度もインターフォンを鳴らしうるさくノックした。
戸惑いながら純が玄関を開けると、女の子は「この人知りませんか?」と色あせてセピア色になった一枚の白黒写真を見せた。その写真には、何十年も前のこのアパートのベランダに立つ一人の若い女性の姿が写っていた。
「知る訳ないでしょう!」と純が答えると、「上がらせてください!」と言って止める純を振り払い女の子が部屋に上がり込んできた。



女の子は、木下ハル(永野芽郁)という名の高校生だった。ハルは、亡くなった父・晋平(森岡龍)の遺品の中から50年前に送られた手紙と数枚の写真を発見。差出人は、かつての晋平の恋人・山口佐知子(石橋静河)。どうやら晋平と佐知子は、仲間と歌を作っていたようだった。
もうすぐ母親が再婚するため、父の記憶が薄れないうちにハルは父のことを小説に書こうと考えてここにやって来たのだという。

 

ば呆れながらも興味をそそられた純は、ハルと一緒に佐知子を探すことにした。上手くいけば、このことをネタに論文が書けると考えたからだ。


とりあえず、純はハルと一緒にこのアパートを紹介してくれた不動産会社に行ってみた。すると、馴染みの社員(岡部尚)がアパートのオーナーの住所を教えてくれた。早速、二人はオーナーの寺田さん(麻田浩)宅を訪れる。
突然の訪問にもかかわらず、寺田さんは親切に応対してくれた。彼は古い書類や手紙を引っ張り出すと、佐知子の現在の住所を教えてくれた。彼自身、もう長いこと彼女とは連絡を取っていないようだった。

純とハルは、佐知子の家を訪れる。表札には三世代の名前が並び大家族のようだったが、何度インターフォンを押しても誰も出てこなかった。二人が窓から中を覗いていると、一人の青年がやって来る。佐知子の孫、小田倉トキオ(染谷将太)だった。トキオによれば、佐知子は少し前に脳梗塞でこの世を去ったという。
二人はがっかりするものの、トキオは佐知子の遺品の中から一巻のオープンリール・テープを見つける。純の部屋。三人は、ヤフオクで大枚はたいて落札したデッキにテープをかけて再生する。
ノイズの隙間から聞こえてきたのは、50年前の晋平と佐知子の会話と若い二人の歌声だった。

♪君と歌いたい曲がある それはこんな曲で 僕らの物語は この公園から始まる…

そこまでは聴き取れたが、テープの劣化によりその後はノイズ音だけだった。ハルは、どうしてもこの先が聴きたかった。



ここまでの顛末をレポートにまとめ、純は井上教授の研究室を再訪する。教授は、興味深そうに論文を読むと、曲の続きを完成させたらこの論文と合わせて単位をあげようと言った。
そんな訳で、是が非でも純は50年前の曲を完成させなければならなくなった。
ハルもトキオも曲の続きを作ることに意気込むが、そもそもハルはリコーダーを吹ける程度。トキオは音楽スタジオで働いているものの、機材のセッティングやサンプリングはできても楽器演奏はできず、できることと言ったらラップくらいだった。



とりあえず、純はしばらく触っていなかったアコースティック・ギターを引っ張り出して曲作りにトライし始めた。それと並行して、三人は50年前の曲のイメージを膨らませるために、マイクを持って井の頭公園や吉祥寺の町で色んな音を収録して回った。

 


しかし、なかなか曲のイメージは広がらず、純は悪戦苦闘する。ハルは小説を書き続けていたが、そのうち彼女の中で現在の自分たちと50年前の晋平や佐知子の世界が心情的にシンクロしていく。ハルは、2016年の吉祥寺で過ごしつつ、同時に1966年の吉祥寺で晋平や佐知子と想像の中で交流するようになった。

 


三人の活動を聞きつけた理沙は、純にキチフェスで歌うように言った。及び腰の純とは正反対に、トキオは大乗り気でバンド・メンバーを探そうと提案する。
子供たちにピアノを教えているキーボード・プレイヤー(谷口雄)、パンク・バンドのベース(池上加奈恵)、本業は大工のドラマー(吉木諒祐)、井の頭公園で演奏していたストリート・ミュージシャンのギター(井手健介)を強引にかき集め、セッションを繰り返して何とか曲は完成する。

 


しかし、ハルに聴かせると彼女は表情を曇らせた。ハルは、純たちが作った曲の続きが晋平や佐知子の思いから外れていたように思えてならなかったからだ。

純、ハル、トキオの様々な思いが交錯する中、いよいよキチフェス当日を迎えるが…。


井の頭公園100年の歴史、バウスシアター・オーナーの想い、現在・過去・未来、音楽…それこそが、この映画における本質的な主役と言っていいだろう。
移りゆくものと変わらないもの、過去の記憶と将来の夢、町と人。そのテーマは、いつの時代も普遍的だ。
肝となるのは、如何に映画としてその普遍性を魅力的な物語に結実できるかということに尽きる。

この映画を見て、僕が真っ先に思ったのは「何だか、バブル以前の牧歌的で昭和然とした物語みたいだなぁ…」ということだった。
とにかく、そろいもそろって登場人物たちがイノセントで善良なのだ。そこには、弱さや悩みはあっても、根本的な部分で悪意のようなものが微塵も感じられない。それはそれでもちろん悪くないのだが、それでは物語における“現在”の部分が、あまりにもファンタジックに過ぎるのではないか?

一番の問題は、50年前の晋平と佐知子の曲にまつわるドラマ部分があまりに弱いことである。三人を行動に駆り立て映画を疾走させるエンジンたるべきエピソードとしては、どうにも物足りなさを覚えてしまった。
最終的に、物語はまさしくファンタジー的な展開を見せるのだが、それにしてもハルという女の子の行動に共感しづらいのもネックだった。

ただ、冒頭のシーンからスクリーンいっぱいに広がる井の頭公園の壮大な広さと豊かな色彩と季節感。景色だけを切り取ればここが東京都武蔵野市とはにわかに信じられないような空間に、とにかく心奪われる。満開の桜の木々をすり抜け、緩やかな微笑みと共に自転車で疾走する橋本愛の躍動的な姿の魅力的なことと言ったら。
ちょっととぼけた感じで、調子のいい染谷将太の愛すべきキャラクター。まさにこれからの三人と、すでに様々なものを見てきた寺田さんという人物の絶妙なコントラスト。
映画の後半で、これでもかと挿入される演奏シーンのあまりに青春的なたたずまい。

そういったカラフルな映像こそが、この映画の持っている最大の魅力だと思う。やはり、この映画は大きな映画館のスクリーンで、しっかりシネマスコープ・サイズで見るべきである。
景色をメインに据えた映画故に、人物描写が弱いこともまた事実なのだが。

ただ、である。
映画を見終わり、エンドロールが流れ、場内が明るくなった時、僕はすっかり橋本愛のことが好きになっていた。「それで、十分じゃないか…」と思ったりもする。
そんなことも含めて、やはりこの映画は青春的である。

これはあまりに個人的なことだけれど、以前に二年間この公園のすぐそばで仕事に従事した経験を持つ身としては、自分までもがこの映画が提示する物語の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に陥ってしまった。


とにもかくにも、イノセントさに貫かれたあまりに青春的な一本。
よく晴れた穏やか日に、肩ひじ張らず見るには絶好の映画である。

 


余談ではあるが、映画後半のシーンで染谷将太がハイタッチする女性は和田光沙だろう。

塚田万理奈『空(カラ)の味』

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監督・脚本・編集:塚田万理奈/撮影:芳賀俊/撮影助手:五十嵐一人/照明:沼田真隆/録音:落合諒磨、加藤誠、坂口光汰、清水由紀子/カラコレ:関谷壮史、芳賀俊/MA:落合諒磨/助監督:鈴木祥/制作応援:塚田健太郎、古畑美貴、朴正一/張り子制作:前田ビバリー/宣伝:東福寺基佳、上田徹、崎山知世
本作は、第10回田辺・弁慶映画祭で弁慶グランプリ、市民賞、映検審査員賞、女優賞(堀春菜)の4冠に輝いている。


こんな物語である。

サラリーマンの父(井上智之)、専業主婦の母(南久松真奈)、予備校生の兄(松井薫平)と4人家族の野田聡子(堀春菜)は、ダンス部に所属するどこにでもいる普通の高校3年生。彼女は、何不自由することもなく高校では部活やダイエット、恋話といった他愛ない話をする友人に囲まれている。
淡々と過ぎて行く生活。波風なく平穏な日々。そんなありふれた生活の中で、聡子は心のどこかに漠然とした不安を感じている。自分のアイデンティティや将来のこと、具体的に何か問題がある訳ではないが、かといって自分の中に確たる何かを見出すこともできない。
いつしか、彼女は自分が空なのではないかという思いに囚われていく。

その違和は、やがて彼女の食生活に現れる。母が作ってくれた弁当や夕食がのどを通らなくなり、その一方でお菓子類を夜のコンビニで買い漁っては隠れて貪ってしまう。いったん満腹になると、すぐトイレに駆け込んでのどに指を突っ込み嘔吐する。その繰り返し。ノートには、食べたものとカロリーを書き込む。
罪悪感や不安に苛まれ、もうやらないと自分に言い聞かせても、次の瞬間にはまたお菓子を食べたくなって財布に手を伸ばしてしまう。それは、まるである種の無間地獄のようだった。

 


聡子の生活の変化は、じょじょに体つきにも出始める。部活で着替えているとき、友人たちは「あれっ?聡子、痩せた?」と聞いてくるようになった。大人っぽくなったと言われれば、悪い気分ではない。
しかし、家族もやがて彼女の様子がおかしいことに気づき始める。当初は何も言わずに静観していたものの、やがてその変化が深刻であると考えざるを得なくなってくる。

聡子が帰宅すると、いつもは仕事で遅い父親も珍しく家におり、家族4人そろっての夕食となった。兄は相変わらず食欲旺盛でがつがつ食べているが、今夜の食卓はどうも雰囲気がいつもと違っていた。
聡子は、形ばかりに食事を口に運ぶと席に立とうとする。「もういいの?」という母の声にかぶせるように、父は「トイレに吐きに行くのか?」と言った。
何とかとりなそうとする母と、心配と焦りがない交ぜになったように言葉をかけてくる父。父は、病院に行くよう聡子に言った。
やがて、聡子は堰を切ったように家族をなじる言葉を吐いて席を立つと自室にこもってしまう。心配してくれていることも、自分の言ってることが理不尽なのも分かっている。それでも、彼女は家族を傷つける言葉をぶつけずにはいられなかった。そして、そんな自分の態度がさらに聡子自身の心を傷つけて行った。

学校にも行けなくなった聡子は、ただ家に引きこもるしかなかった。やがて、今の自分に耐え切れなくなった聡子は、友人(笠松七海)に電話で助けを求める。母子家庭の友人と彼女の母親は、「いたいだけいてくれていいから」と優しく聡子を迎え入れてくれた。
変に気を遣われるでもなく、聡子は友人の家で暮らすようになる。しばらくすると、聡子は友人と一緒に登校できるようになるが、夜中にこっそりコンビニでお菓子を買い漁って食べる生活を改めることはできなかった。
やがて、再び彼女は学校に行けなくなり、風呂に入るのも億劫になって行く。おまけに、財布の中身が底をつき、友人が寝静まった夜中に金がないかと家探ししてしまう。
もはや、この家にいることもできない。聡子は、母に連絡して家に戻ることにした。苦渋の選択だった。

母は、聡子に対して腫物に触るような感じだった。聡子は、意を決して病院に行くことにした。
雑居ビルにあるクリニックを聡子は訪ねるが、午後の診療時間のはずがクリニックは閉まっていた。仕方なく、聡子がエレベーター横に置かれた椅子に腰を下ろして待っていると、ケバケバしいメイクに派手な服装の見るからに水商売っぽい女性がやって来る。
彼女は、甲高い声で「あれ~、まだ戻ってない。ここの先生、昼休み長いからなぁ」と言うと、聡子の隣に座った。
このエキセントリックな女性は、マキ(林田沙希絵)という名前だった。マキさんは、聡子に対して何ら気を遣うこともなく、あけすけすぎるほどの無防備さで、ざっくばらんに自分がしゃべりたいことをしゃべりまくった。
天真爛漫というにはあまりに突き抜けたキャラクターだったが、マキさんのそんな言動がなぜか聡子を安心させた。聡子は、ずっと心の奥底にため込んでいた本音を、初対面のマキさんに素直に話すことができた。目を潤ませながらぽつりぽつりと言葉を継いでいく聡子をマキさんはギュッと抱きしめてくれた。聡子は、少しだけ自分の心が軽くなるのを感じた。

それからというもの、聡子は時々マキさんと会うようになった。いつでもマキさんの行動はとんでもなくマイペースで、聡子も周囲も困惑させられたし、マキさんの話はいつも一貫していなかった。母親と一緒に旅行すると言ったかと思えば、別の日は自分に母親などいないというように。それでも、彼女といると聡子は救われた気持ちになることができた。

 


やがて、聡子は少しずつ回復の兆しが見えてきたが、その一方でマキさんとの日々は終わろうとしていた…。

 

現在25歳の塚田万理奈監督が、三年前の大学時代に陥った自身の摂食障害体験をベースに制作した初長編映画である。見る人のバックボーンによって作品の受け止め方は様々だと思うが、そこに切実な痛みや苦しさを伴うことだけは確かだろう。
絶望や過酷さといった突き放すような語り口の作品ではない。聡子を取り巻く人々には表現の仕方に差異こそあれ、むしろ優しさや温かさが漂っている。どう彼女に接すればいいのか、という戸惑いと共に。
そして、聡子自身がある意味どこにでもいる普通の女の子であるがゆえに、我々の心は掻きむしられる。これは、あなたのそして私の物語かもしれないのだから。

具体的に何かドラマティックなことや事件がある訳でもなく、聡子の日常は淡々と過ぎていく。思春期に誰もが抱く自我や自分の未来を思い描けないことへの悶々とした気持ち、確たるアイデンティティを持てないことへの焦燥、そんな自分を友人たちと比較して募る不安…。
知らず知らずのうちにそういった感情が澱のように心の奥底に堆積して、気がつけば自分のメンタリティーがどんどん歪んでいく。悲鳴を上げて助けを求めたくても、その勇気も出せず、焦燥と苛立ちと自責の念が空回りして、ますます自分自身を傷つけていく。
袋小路に入っていく自分は自覚できるが、そもそも何の袋小路なのかが分からない。分からないから、誰にも相談できない。まさしく、堂々巡りだ。

そんな聡子の内に秘めた苦しみを、塚田は一定の距離感を保って淡々と描いていく。静謐なまでのストイックな演出は、かえって見ている僕の気持ちを聡子の苦しみにシンクロさせていく。
本作で塚田が聡子に向ける目線は、そのまま過去の自分自身に対して向けられてもいるからだろう。ある程度の距離を保つことができなければ、恐らくこの作品を撮り切ることはできなかったのではないかと僕は思う。
だからこそ、聡子が感情を爆発させる夕食のシーンやクリニックの前でマキさんに自分の苦しみを打ち明けるシーンがとても強く胸に迫ってくる。

そして、思うのだ。大きな壁にぶち当たったら、直接と間接とを問わずやはり誰かの(あるいは何かの)力や助けが必要なのだ、と。
できることなら自分の力だけで何とかしたいし、最終的に自分を救い出せるのは自分だけではある。
けれど、その過程には他者とのかかわりが不可欠なのだ。結局のところ、我々は自分で思っているほど強くはないのだ。

言うまでもなく、聡子にとってその誰かはエキセントリックなマキさんである。一見、周囲が引くくらいに自由奔放で、行動が全く読めないマキさん。その何事にも頓着しないように見える突き抜けた彼女のキャラクターが、聡子の冷たく閉ざされてしまった心にある種の温かい震えをもたらす。
その温かさを糸口に、聡子は少しずつ再生に向かい始める。

その一方で、実は聡子よりよほど病状が深刻なマキさんは、いよいよその危うさを加速していく。バスタブでのワンシーンから、左手首に包帯をぐるぐる巻きにして何時間も遅刻して聡子との待ち合わせ場所に笑顔で現れたマキさん。彼女を見て衝撃を受ける聡子の表情。
ある意味、この映画におけるもっとも苛烈で痛みを伴うのが、ここだろう。

そして、映画は一縷の望み(というか、聡子のあるいは塚田監督自身の願い)を幻想的なシーンとして織り込みつつ、聡子のこれからに一筋の光が差し込んで終わる。
ゆえに、苦しい映画ではあるが、見終わった後には不思議に解放された気持ちになれる。

言うまでもなく、この作品の質の高さは、瑞々しくナイーブにリアルな女子高生としての聡子を演じ切った堀春菜の素晴らしさあってこそだろう。映画を見ていると、堀春菜はスクリーンの中で野田聡子の人生を生きているようにしか見えないのだから。
そして、聡子の人生を一瞬の邂逅を果たして、彼女の暗闇に確たるブライトネスをもたらすマキ役を見事に演じた林田沙希絵。映画後半において、物語を前に進めるエンジンたるのはマキの存在である。

 



本作は、切実な意思と誠実さに貫かれた痛みと再生の青春映画。
是非とも見ていただきたい良作である。

うさぎストライプと親父ブルースブラザーズ『バージン・ブルース』

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2017年5月17日ソワレ、こまばアゴラ劇場。
作・演出:大池容子/舞台監督:宮田公一/舞台美術:濱崎賢二(青年団)/照明:黒太剛亮(黒猿)、小見波結希(黒猿)/音響:杉山碧(ラセンス)/演出助手:亀山浩史(うさぎストライプ)/宣伝美術・ブランディング:西泰宏(うさぎストライプ)/制作・ドラマターグ:金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、赤刎千久子(青年団)/協力:青年団、アンフィニー、レトル、ケイセブン中村屋、箱馬研究所、黒猿、ラセンス、自由廊、青年団リンク 玉田企画、20歳の国
芸術監督:平田オリザ/技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)/制作協力:木元太郎(アゴラ企画)/主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場/企画制作うさぎストライプ、(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場/助成:平成29年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業


こんな物語である。

とある結婚式場控室。藤木博貴(志賀廣太郎:青年団)は、これから娘の披露宴だと言うのにまだ着替えも済んでおらず、ネクタイが見つからないとあたふたしている。そんな藤木の様子に呆れ苛ついているのは、本日のもう一人の主賓でタキシードに着替え終わった赤石修二(中丸新将)。彼もまた、新婦の父親という位置づけだからことはややこしい。

突然変異なのか何なのか、子供のころから藤木の胸は豊かで、それが原因で彼はずっといじめられてきた。今でもその巨乳は健在である。赤石は藤木の幼馴染であり、いじめられっ子の藤木の面倒をずっと見てきた。

二人が噛み合わないやり取りをしているところに、本日の主役・花嫁の彩子(小瀧万梨子:うさぎストライプ・青年団)が入ってくる。純白のウェディング・ドレスをまとった彼女は、これといった感慨もなさそうに不貞腐れた表情でおもむろにタバコを吸い始める。
そんな娘の態度を赤石はたしなめるが、彩子は聞く耳を持たず紫煙を吐き出し始末だ。
ようやく藤木の着替えも終わろうとしていたが、彼は体調がすぐれないのか椅子に座ったまま俯いてしまう。藤木の顔を覗き込む彩子と、藤木の肩をゆすって起こす赤石。いったんは目を開けた藤木だったが、彼は再びガックリと目を閉じてしまう。
慌てて助けを呼ぼうと赤石控室を出ていくのと入れ違いに、式場の従業員(金澤昭:うさぎストライプ)がそろそろ時間だと告げに来る。慌てる彩子。

混濁する意識の中で、藤木はこれまでの自分な数奇な人生を回想していた…。

女の子が欲しかった藤木の両親は、藤木のことをまるで女の子のように育てた。幼いころの藤木は顔立ちも綺麗で、周りの女の子よりも可愛かった。そんな藤木のことを、幼馴染の赤石はドキドキしながら友達付き合いしていた。
そのせいなのかどうなのか、思春期を迎えた藤木の胸は周囲の女の子よりも大きく発達して、その姿がいじめの対象になった。そんな藤木のことを守ってやったのも、もちろん赤石だ。
気持ち悪がられる藤木とは対照的に、赤石はモテモテだった。それというのも、赤石のペニスは驚くほど立派な代物だったからだ。
藤木はいじめに耐えつつ、自分のことをいじめる周りの連中をじっくり観察して欠陥や弱みを見つけることで密かに精神的な復讐をするようになった。

そんな自分の個人的復讐譚を藤木が赤石に話しているところに、一人のすかした男が突然割り込んできた。つい最近、生徒会の書記になった闇原有太郎(小瀧万梨子)だった。
闇原も藤木の幼馴染で、幼少のころは泣き虫有ちゃんと呼ばれるいじめられっ子だったが今ではいじめられっ子の影など微塵もないエリート意識剥き出しの男になっていた。
闇原は、自分も藤木同様周りの連中の弱みや欠点を観察しているのだと言った。そして、自分は本来生徒会長こそが相応しいポストだと言い切った。
闇原は、今の生徒会長をはめて信用をガタ落ちにさせて自分が生徒会長の座を射止める計画を二人に話し、協力を求めてきた。これで、自分たちの立場も形勢逆転と考えた二人は、闇原への協力を約束した。

計画通り、生徒会長は失脚して新しい生徒会長の座に就いた闇原は、持ち前のカリスマ性を発揮して学園生活を謳歌した。いつしか彼の魅力の虜となった藤木と赤石も、行動を共にするようになる。
高校を卒業すると、闇原は医者を志して大学へと進学。それと同時に、吹き荒れる学園紛争にも積極的に参加するようになる。藤木と赤石も、彼の理想主義に引っ張られてデモやバリケード封鎖に加わっていく。

ところが、闇原の様子がおかしくなる。ある日、闇原は酒に酔ってへべれけになった状態で二人の前に現れる。闇原は、所詮は自分も大きな欠陥を持った人間だったと自棄気味に吐き捨てた。
驚いたことには、闇原は妊娠していた。彼は、二人の前から忽然と姿を消した。

時は流れた。赤石は結婚して、平凡な社会人として日々を過ごしていた。あれ以来、彼は藤木とも闇原とも会っていない。
そんなある日、突然旧友から会いたいと連絡があり、赤石は待ち合わせの喫茶店に赴く。自分同様、藤木もそれなりに歳を重ねて中年になっていた。挨拶もそこそこに、赤石は闇原のことを尋ねてみる。すると、藤木が話した内容はにわかに信じられないものだった。
闇原は出産しており、その場に藤木は立ち会ったと言った。彼から聞かされた内容は壮絶なもので、とても赤石の想像力を超えていた。何と、尿道から出産した闇原は、新しい命と引き換えにこの世を去ったのだ。そして、闇原の子を藤木はずっと育てているのだと言う。
藤木が赤石に突然連絡したのは、彼が数日仕事で出張することになり、あいにくその時期子供を預けられるところがなくて困ったからだった。闇原の、そして藤木の娘は現在5歳。今、店の外で待たせているのだと言って藤木は娘を呼んだ。

赤石は、言葉を失った。彩子は闇原にそっくりというより、闇原そのものだったからだ。初めは、女房に説明できないからと断っていた赤石だったが、やがて腹を決めた。彼は、彩子を預かることを引き受けたのだった。

さらに、時は流れた。彩子は、藤木と赤石という二人の父親に育てられてすくすく育ち、恋人もできた。

そして今日、いよいよ結婚式当日を迎えたのだが…。


演出家・大池容子の劇作が一皮むけたことを実感させるスラップスティック・コメディの良作である。
彼女の舞台を見始めたのは、2014年9月のうさぎストライプと木皮成「デジタル」からだが、僕の好みを言わせてもらえば、この作品が最も楽しめた。

ストーリー紹介をお読みいただければお分かりいただけると思うが、結構突飛な設定と四人それぞれの人生をクロノジカルに描く構成の舞台である。なかなかディープな物語を、大池は歯切れのいいスピーディな演出によって上演時間70分で畳みかけていく。そのリズム感が、爽快である。
そして、メインの役者三人になかなかムチャ振り(あるいは、罰ゲーム的コスプレ)とも思える幅広い年齢層を演じさせている。
そのキッチュなたたずまいと不条理な設定に、思い切りのいい明け透けな下ネタを散りばめつつ、最終的には心に染み入るエモーショナルな美しい幕切れに着地して見せる。その演劇的技巧が、秀逸だ。

パンフレットにいつも記されるお馴染みの紹介だが、うさぎストライプの演劇は「どうせ死ぬのに」をテーマに、動かない壁を押す、進まない自転車を漕ぐ、など理不尽な負荷を俳優に課すことで、いつかは死んでしまうのに、生まれてきてしまった人間の理不尽さを、そっと舞台の上に乗せている…というのが基本スタイルである。

「デジタル」や「いないかもしれない」(動ver.)がまさしくそんな舞台で、正直観ていて僕は疲れてしまった。
あるいは、シュールで被虐的な暴力性というのも大池芝居によく用いられるテーマで、「わかば」や小瀧万梨子が正式メンバーに加わった「みんなしねばいいのに」などがそういった作劇の作品だったと思う。
大池容子のメンタリティや彼女自身のネガティヴィティを創造性に変換することで、ある種の浄化やセラピーの如き物語を表現するのがうさぎストライプという場であり、彼女の精神性を演劇的フィジカルさへと変換した作品に共鳴した人がうさぎストライプの演劇を求めるのではないか、というのが僕の見解である。

ただ、これはあくまで個人的な嗜好として…ということだが、僕にとって魅力を感じる大池演劇といえば、むしろ「空想科学」、「いないかもしれない」(静ver.)、「セブンスター」といった物語性と正面から向き合った舞台である。
動かない壁を押す、進まない自転車を漕ぐといった理不尽な肉体的負荷より、日常生活にあふれている理不尽でストレスフルな精神的負荷(あるいは暴力性)の方が余程心に堪えるし、「どうせ死ぬのに」と斜に構える以前に「今、生きていることのつらさ」の方が厳然たる事実に他ならないからだ。
そういった個人的思いもあり、見続けてはいるものの僕は大池が作る演劇世界に微妙なもやもやを感じることも少なくない。

そんな訳で、本作「バージン・ブルース」の吹っ切れたような抜けの良さは、ちょっとした驚きだった。シンプルに物語として面白いし、あまりにどうしようもないくすぐりや下ネタもしっかり良質な現代的笑いに昇華されているからだ。
何といっても本作の良さは、予測不能なジェットコースター的ドライヴ感であり、それが惚れ惚れするような情緒性を伴って物語的に回収される見事なエンディングである。

「デジタル」や「いないかもしれない」二部作にも出演していた小瀧万梨子が正式メンバーに加わって二作目となる「バージン・ブルース」は、うさぎストライプにとって小瀧加入最初の成果と言って差し支えないだろう。
ベテラン俳優二人を相手に、時に不貞腐れ、時にエキセントリックに、時に冗談めかしたキザったらしさでとくるくる表情を変える小瀧の演技こそが、この舞台の魅力であり芝居を加速させるタフで馬力のあるエンジンそのものである。
その一方、飄々とした志賀廣太郎と実直な中丸新将のコントラストも楽しい。

ただ、である。
正直に言ってしまうと、大池容子と小瀧万梨子が奏でるある種若く現代的な演劇リズムに比して、ベテラン二人のテンポがややもするとオフビート的に映ってしまい、温度差のようなものを感じる場面が散見された。オールドスクールとニュースクールのすれ違い…とでもいえばいいだろうか。
そこが、惜しまれる。

そして、幾ばくかのセンチメンタルさを持ったラストにおけるツイストは見事だと思うのだが、もう少し演出的に整理した見せ方ができなかったのかな、というもどかしさを感じたことも事実である。


とまあ不満もあるにはあるのだが、「バージン・ブルース」はうさぎストライプの新たなる旅立ちを予感させるに十分な良質の舞台であった。
次作が、楽しみである。

小林政広『海辺のリア』

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2017年6月3日公開、小林政広監督『海辺のリア』

 


エグゼクティブプロデューサー:杉田成道/プロデューサー:宮川朋之、小林政広/アソシエイトプロデューサー:ニック・ウエムラ、塚田洋子/制作経理:小林直子/契約担当:中野雄高/監督・脚本:小林政広/音楽:佐久間順平/撮影監督:神戸千木/撮影:古屋幸一/助監督:石田和彦/制作担当:棚瀬雅俊/録音:小宮元/衣裳デザイナー:黒澤和子/美術:鈴木隆之/編集:金子尚樹/ヘアメイク:小泉尚子/衣裳:大塚満、澤谷良/小道具:佐々木一陽/制作進行:小泉剛/タイトル:小林直子
助成:文化庁文化芸術振興費補助金/宣伝:日本映画放送/配給:東京テアトル/企画・制作:モンキータウンプロダクション/製作:「海辺のリア」製作委員会(日本映画放送株式会社、カルチュア・エンタテインメント株式会社、株式会社WOWWOW、株式会社ビーエスフジ、東京テアトル株式会社)
2016/日本/105分/カラー


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

ぼさぼさで乱れた髪、伸び放題の髭、どこか焦点の定まらぬ目をした80がらみの老人が、不機嫌そうに一人何ごとかブツブツつぶやきながら道路の真ん中を歩いている。
夏だというのにシルクのパジャマの上に黒のロングコートを羽織り、キャリーバッグを引きながら歩く老人は、していたマフラーを投げつけ履いていた靴さえ脱ぎ捨てて前に進む。

男の名は、桑畑兆吉(仲代達矢)。半世紀以上のキャリアを積んだ役者であり、俳優養成所まで主宰した彼は、まさしく日本を代表する稀代の名優と謳われた。
20年前に役者を引退し表舞台から去った兆吉は、最愛の妻に先立たれて今では認知症の疑いがあった。長女の由紀子(原田美枝子)、由紀子の夫で元は兆吉の弟子だった行男(阿部寛)に裏切られ、遺書を書かされた挙句に兆吉は高級老人ホームに送られてしまう。
役者の道を挫折した行男は会社経営者へと転身したものの、多角経営に乗り出して大きな負債を抱える羽目になった。父の世間知らずをいいことに、由紀子はマネージャーとなって兆吉の莫大な財産を一手に握っていた。おまけに、彼女は運転手(小林薫)と関係を持っている。

その老人ホームを脱走した兆吉は、行く当てもなく今こうして彷徨い歩いていた。目の前に広がる海に引き寄せられるように、兆吉は道を外れて浜辺へと歩を進めた。
いつしか、兆吉に道連れができている。着古した薄手の紺色ジャンバーにくたびれたボーダーのTシャツとジーパン、見るからに疲弊した表情で苛立ちを隠そうともしない女性の名は、伸子(黒木華)。
伸子の見たくれの汚さをさも愉快そうに揶揄する兆吉。伸子は、兆吉に食ってかかり攻撃的な言葉を吐くが、兆吉はどこ吹く風だ。
もはや兆吉の記憶からは消し去られているが、伸子は由紀子と腹違いの二女。50代も半ばだった兆吉が、当時愛人関係にあった26歳の女性に産ませてた娘が伸子だった。
ところが、伸子が私生児を出産したことを許せず、兆吉は彼女を家から追い出した。伸子が兆吉と会うのはその時以来で、皮肉にも現在彼女は26歳だった。

 


兆吉の老人ホームから連絡があり、行男は慌てているが由紀子は「どこかで行き倒れてくれたら、清々する」と言い放つ。そんな夫婦の様子を、無言で冷ややかに見ている運転手の姿。
止める由紀子を振り切ると、行男は車を発進させた。助手席に座り、憮然とした表情を浮かべる由紀子。
老人ホームへ着くと改めてことの次第を聞いた行男は、いったん家に戻って由紀子を下ろすと、再び兆吉を探すために車を発進させた。

腹が減ったと駄々をこねる兆吉に根負けした伸子は、渋々弁当を買いに行く。決してここから動くなと言われたにもかかわらず、兆吉はまたしても海辺を歩き始める。
弁当を手に伸子が戻ってくると、兆吉の姿はどこにもない。そのころ、行男は一人浜辺をふらつく兆吉の姿を見つけて駆け寄っていた。ところが、兆吉は行男のことさえ分からず、行く手を遮り車に乗せようとする行男と揉み合いになる。
何とか後部座席に兆吉を押し込み運転席に身を滑らせた行男は、いつの間にか助手席に座っている伸子に気づいてギョッとする。

伸子は、兆吉だけでなく由紀子や行男のことも憎んでいた。彼女は、自分が家を追われたのは、姉の企みに父が乗せられたからだとも考えていたからだ。おまけに、今となってはその父までもが家を追われて老人ホームに入れられているのだ。行男は必死で弁解するが、伸子は一切聞く耳を持たない。

無一文で家から放り出された伸子は、悲しみと行き場のない怒りに震え途方に暮れていた。私生児を生んだことに激怒して伸子を追い出した兆吉だが、愛人に兆吉が生ませた私生児が伸子なのだ。理不尽極まりない仕打ちに違いなかった。
行く場所も仕事の当てもない伸子は、何とかパチンコ屋の住み込み仕事を見つけて昼夜を問わずに働いた。ようやく子供と二人の暮らしに目途がつき、アパートを借りようと持ったが、今度は保証人がいない。
散々迷った末に認知すらしなかった先方に相談すると、伸子は認知と引き換えに子供を取り上げられてしまった。文字通りすべてを失った伸子は、絶望に打ちひしがれて兆吉に会うためここに戻って来たのだ。
ところが、かつては愛し今では殺したいほどに憎んでいる暴君の如き父親に再会してみると、思いもしなかった見るも哀れな姿になり果てていた。
自分がどこから来たのかも分からない。どこへ行くのかも分からない。自分が誰なのかも分からない。目の前にいる伸子が誰なのかすらも分からないのだ、もはやこの男は。
出口を失った伸子の怒りと絶望は、そのまま行男や由紀子にも向かった。

 


結局、この日三人は行男の車内で一夜を明かす羽目になった。頻繁にかかってくる由紀子からの携帯に、行男は苛立ちを隠そうともしなかった。伸子は、ひたすら憮然とした表情だった。兆吉だけが、我関せずの体で気まぐれに言葉を発していた。
行男は、兆吉を老人ホームに送り届けるが、またもや兆吉は歩き出してしまう。その後を追う伸子。行男は、もはやあきれ果てて二人を追う気になれなかった。
一人老人ホームの前に取り残された行男は、意を決して由紀子に電話した。散々自分の父親のことを蔑ろにし、おまけに夫である自分の前で平然と運転手と関係を持つ妻にもほとほと嫌気がさしていた行男は、妻に宣言した。借金は、自分の残りの人生で何とかする。会社は解散する。由紀子とは離婚する。
そして、自分はその芝居と人生に惚れぬいた兆吉の面倒を見ると。

 


兆吉に追いついた伸子は、改めて自分はあなたの子供だといった。しかし、兆吉は最後まで伸子のことを自分の娘だと分からなかった。娘は由紀子一人しかいないという兆吉に向かって、伸子はこれまでもこれからも自分のことを拒絶するのかと訴えて涙を流した。彼女の涙が悲しみからなのか、それとも憤りからなのかは伸子自身にも分からなかった。

再び、あの海辺にやってきた二人。兆吉は、伸子の中にかつて自分が演じた『リア王』のコーディーリアの姿を重ねていた。伸子は、一人去って行った。残された兆吉は、観客もいない海辺で一人『リア王』を演じ始める。そして、力尽きたように砂浜にくず折れた。

兆吉と別れた伸子は、履き古したスニーカーを脱ぐと海へと入って行った。

行男は、海辺で倒れている兆吉を見つけると、由紀子に連絡した。くだんの運転手の車でやって来た由紀子。ところが、兆吉は由紀子を自分の亡くなった妻だと思い込んでいた。車の乗り込んだ兆吉は、誰にともなく自分の役者としての半生を語り始める。
またしても老人ホームに連れてこられた兆吉は、ここでいいからと頭を下げた。安心した由紀子は、父の言葉を信用して車を発進された。「ねえ、このままドライブしない?」という由紀子に、愛人の運転手は「悪党」と不敵に笑った。

あれだけの啖呵を切った行男だったが、結局は妻に言いくるめられて借金を返済してもらう代わりに兆吉のことは由紀子に一任した。会社の専務に電話して借金返済のめどがついたと告げると、行男は、自棄気味に笑った。

ところが、兆吉は老人ホームに戻ることなく、またしてもあの道を歩き始めた。

海辺に戻った兆吉。その頬はやや上気したように紅が差し、霞がかかったようだった瞳は焦点を結び、鋭い眼光と生気を取り戻した兆吉は、まるで乗り移ったように再びリア王を演じ始める。寄せては返す波音しか聞こえないこの場所で、兆吉は彼にしか見えない満員の観客を前に渾身の力を込めて。それは、まるで彼が生きてきた証のような輝きを放っていた。
最後の科白を力の限り吐き出すと、命の炎を燃焼し尽くしたように兆吉は海の中に倒れ込んだ。

波に浮かぶ兆吉の体を、抱きかかえる者があった。それは、伸子だった。
頭の先までずぶ濡れになりながら、厳しい眼差しと固く結ばれた口元で、殺したいほど激しく憎んでいる父親を懸命に助ける彼女の胸に去来するのは、一体どんな思いなのか…。


2012年の『日本の悲劇』以来となる小林政広待望の新作は、『春との旅』、『日本の悲劇』に続いて三度目となる仲代達矢とがっちりタッグを組んだ渾身の人間ドラマであった。
長編映画としては4年ぶりだが、実はその間にも2015年には博品館劇場でドラマ・リーディング『死の舞踏』を仲代主演・小林演出で上演しているし、同年スカパー!で製作された杉田成道監督の仲代主演ドラマ『果し合い』(共演に原田美枝子)では小林が脚本を担当している。小林が時代劇の脚本を書いたのは、『果し合い』が初めてだった。
仲代達矢が小林政広に寄せる信頼のほどが、伝わってくるようである。しかも、この『海辺のリア』にエグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされているのは杉田成道だ。

「ひとりの人に贈る映画を初めて作った」と小林が言えば、仲代は「シナリオを読んだ瞬間、ああ遭遇してしまった。今だからこそできる作品に…」と返す。
主人公は、半世紀以上のキャリアを持った大御所俳優にして、俳優養成所を主宰する大スターと来れば、演ずる本人のみならず誰もが本作を「仲代達矢のドキュメンタリー」「仲代達矢の人生そのもの」と思わずにはいられないだろう。
しかも、仲代は2014年に無名塾公演『バリモア』でジョン・バリモアの晩年を演じたばかりである。

当初「オン・ザ・ロード・アゲイン」と題された脚本は、数十回の改訂を経て「海辺のリア」に改題された。10代の小林が水道橋のジャズ喫茶スイングでバイトしていた時の同僚で当時早稲田大学在学中の村上春樹「海辺のカフカ」を想起させるある意味大胆なタイトルである。
独自の視点でオリジナリティにあふれた硬派な物語を一貫して紡いできた小林政広だが、その姿勢は本作でも変わらない。ある種の頑固ささえ感じさせる作家性は、我が道を生きた主人公・桑畑兆吉の生き様に重なるようではないか。

『日本の悲劇』で、当時取り沙汰されていた超高齢化社会と年金不正受給問題を苛烈な家族の物語としてシリアスに描いた小林は、『海辺のリア』では認知症を疑われるかつて役者としての名声をほしいままにした男の人生最後の魂の彷徨と燃焼を描いてみせた。
同じ老いを扱った作品ではあるが、前者の徹底したペシミスティックさとは異なり、後者には滑稽と冷酷と強かさが混然一体となった何とも不思議な生命力の最後の躍動がほの見える。それこそが、『海辺のリア』最大の魅力と言っていいだろう。
明るく前向きな作品とは言い難いものの、強烈なインパクトを持って迫るラストシーンには「それでも、命ある限り生きていくしかないのだ」といったポジティヴな一条の光の如き救いがある。
『リア王』には悲惨な結末しかないが、『海辺のリア』にはかすかな希望が残されているのだ。そこが、いい。

ただ、個人的には登場人物造形がいささかカリカチュア的に過ぎることが気になる。
それは、伸子をコーディーリアに重ねることからも明らかなように、兆吉を取り巻く人々を『リア王』の物語的世界観に当てはめているからなのだが、行男にしても由紀子にしても運転手にしても、いささか人物像が前近代的なくらいに古典的なヒールに映ってしまうのである。
あえて現代に『リア王』を持ち込むのであるから、登場人物たちにもアップ・デートされたヒール像を提示することはできなかっただろうか。そこが、不満である。
それから、兆吉が伸子の身なりを揶揄する時に使う「女子」という言葉。認知症を患っている稀代の元名優が、若い女性を“今風”に女子と言うことが引っかかった。

さて、小林本人も言っているように、本作は徹頭徹尾仲代達矢のための映画である。しかし、認知症になり家族からも裏切られ見捨てられ彷徨するかつての名優…という物語を撮るというのは、よほどの信頼関係なくしては不可能なことである。
その意味でも、撮る側にも演じる側にも相当な覚悟を強いた作品に違いない。

上映時間105分を引っ張るのは、言うまでもなく仲代達矢の尋常ならざる熱量ほとばしるエネルギッシュな演技である。
ただ、本作のエンジンを司るのは彼のチャーミングにして飄々としたユーモラスで軽妙な芝居である。「あんた、どちらさん?」ととぼけるように問う仲代の表情は、まるでいたずらっ子のような純朴さだ。この軽妙さには、『死の舞踏』や『果し合い』の演技との連続性を感じる。

また、大胆な遊び心は小林の手になる脚本にも言えることだろう。劇中に出てくる「あの映画と違って、俺のは本名だ。桑畑兆吉(くわばたけちょうきつ)は」という兆吉と伸子のやり取り。言うまでもなく、黒澤明監督『用心棒』で三船敏郎が演じた桑畑三十郎のことであり、仲代は三船のライバル新田の卯之助を演じていた。
本作のキーとなっているのは「リア王」だが、仲代達矢が主演した黒澤明監督『乱』もまた「リア王」をモチーフにした作品だった。
しかも、『海辺のリア』で衣裳デザインを担当した黒澤和子は、黒澤明の長女である。

脇を固めるのも錚々たるメンバーである。阿部寛、原田美枝子、小林薫の一癖も二癖もある芝居も見どころだ。

そして、近年評価著しい黒木華。正直に言うと、僕は中盤まで彼女の演技に乗ることができなかった。伸子という女性の内面には、怒り、憎悪、喪失、消耗、疲弊、絶望といった負の感情が複雑に渦巻いているはずだが、黒木の演技はいささか攻撃的で前のめりに過ぎるのではないか…と感じたからだ。相対する仲代の変幻自在な軽やかさに比して、彼女の芝居がやや単調に思えたのだ。
だが、その印象も兆吉を前にして落涙する場面から一変してしまう。
まるでリア王が乗り移ったような仲代の鬼気迫る熱演の後、衝撃的なラストシーンでの黒木華の表情こそ、まさしく本作の白眉だろう。

 



本作は、稀代の名優仲代達矢と鬼才小林政広のコラボレーションにおける一つの到達点である。だからこそ、次を撮らなければならないともいえる。
だって、これで終わりだったらまるで映画のようじゃないか?

 


gojunko第4.5回目公演「はたち、わたしたち、みちみちて」「ウミ、あした」

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2017年6月24日ソワレ、早稲田のTheater Optionでgojunko第4.5回目公演「はたち、わたしたち、みちみちて」「ウミ、あした」を観た。女二人芝居二本立てである。
作・演出:郷淳子/照明:横山紗木里/音響:大矢紗瑛/宣伝美術:山羊/制作:河本三咲/企画・製作:gojunko/協力:有澤京花

「はたち、わたしたち、みちみちて」
小井坂とり…とみやまあゆみ 佐伯いずみ…穴泥美

地元でバイト生活をしている小井坂とりは、久しぶりに高校時代の友人・佐伯いずみと待ち合わせしている。地元を離れて就職したいずみは、色々あって就職した会社を辞め、今はニート生活を送っている。彼女が地元に戻って来たのは、成人式に出席するためだ。
もう一人の待ち合わせ相手、ミナトは約束の時間を過ぎてもまだ現れない。自然と二人の話題はミナトのことに…。ミナトからいずみに連絡が入る。彼女は、約束をドタキャンしてきた。とりは、自分に連絡がないことを不満に思う。
とりは、しきりに地元に帰ってくるよういずみに勧める。これからもこうして頻繁に二人で会おうと。その言葉に、いずみは逡巡する。

地元に戻ってきたいずみは、毎週のようにとりと会うようになる。何事もなく平穏な日々の中、二人は一見仲よくやっているように見えるが、果たして二人を結び付けているのはシンプルに友情なのだろうか。
やがて、ミナトの過去の一件やいずみの生活の変化から、二人の関係性はこれまでとは違っていくが…。

「ウミ、あした」
女…えみりーゆうな 女の子…石澤希代子

小さいころから背が低く、名前もアイダアイコだから出席番号も一番。そんな愛子の元へ、自分からの手紙が届く。誰からも愛させるようにとつけられた「愛子」という名。けれど、愛子の人生はまるで名前の通りには行かなかった。
彼女は、自分に届いた手紙をきっかけに、少女時代の自分と共に自分の人生を回想し始める…。


なかなかにシニカルでドライな人物造形の女性二人芝居二本立てである。僕は第4回公演「不完全な己たち」も観ているが、その芝居も強烈に悪意のこもったダークな物語だった。
その前作に比べると、尺がコンパクトで登場人物も二人に絞られた分、構成がシンプルな会話劇に仕上がっている。

「はたち、わたしたち、みちみちて」は、「不完全な己たち」に主演していたとみやまあゆみ穴泥美による会話劇。不在の友人ミナトをある種のキーにして進む物語だが、二人の関係性は消去法によって繋がっている友情というか、互いをどこかで受け入れないままずるずる続く負の依存関係的に見える。
ゆえに、どこで二人の関係が破綻してどういうエンディングを迎えるのかというドロッとしたネガティヴィティの匂いをかぎ取りながら事の推移を見届けるような落ち着かなさだった。
照明の強弱で巧みに時間を行きつ戻りつしながら二人の会話は進行し、いったんはおそらく観客の誰もが予想したような展開を迎える。
本作が秀逸なのは、そこからのツイスト。突き放して終わるかに見えた物語に、ややシニカルではあるものの思わずニヤリとしてしまう何とも秀逸なエンディングが用意されているのだ。
それが、本作の良さだろう。

微妙な空気感をはらみつつ、互いの腹の内を探るように会話するある種の屈折を伴う友人同士をとみやまと穴がナチュラルなテンポで好演している。

「ウミ、あした」は、より独特な物語構造とリズムを持った芝居と言っていいだろう。現在の愛子と幼少時代の愛子が、「ボレロ」の旋律に乗って会話をキャッチボールするかのように自身の悲惨な人生を回想する展開。
そこで語られるのは、吹っ切れたような絶望というか、自虐的でパンクな諦念のブルースといった面持ちの人生語りである。
自身の悲惨さを明るく笑い飛ばして、向こう側に突き抜けていくとでもいえばいいか。
最後に歌われるヨハン・パッヘルベル「カノン」に詞をつけた曲は、何とも不思議な余韻を残す。
戸川純は「カノン」に詞をつけて「蛹虫の女」という曲を作り、それを高速パンク化した「パンク蛹虫の女」という名曲をライブのアンコールでいつも歌っているけれど、ある意味この芝居のエンディングで歌われるこの曲にも、共通するペシミズムを感じなくもない。

決して明るく抜けのいい芝居とは言い難いが、明るい絶望とでも評すべき実にユニークで興味深い芝居だった。

破れタイツ『破れタイツのビリビリラップ』

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『破れタイツのビリビリラップ』(2017年8月13日公開)
企画:直井卓俊/監督・脚本・編集:破れタイツ/音楽:マチーデフ/撮影:福田陽平/配給:SPOTTED PRODUCTIONS
MOOSIC LAB 2017短編部門出品作
2017/日本/15分

着くのが遅れて時間に間に合わなかったとキレて車を降りていく客(鈴木太一)にため息をつき、その理不尽さをラップするタクシー運転手(マチーデフ)。浮かない顔で彼が車を流していると、かしましい関西弁をしゃべる若い女性二人組(破れタイツ:吐山ゆん、西本マキ)が乗り込んできて、前を走る車を追ってくれと叫んだ。
ガールズ映画監督ユニットとして関西で活動していた破れタイツの二人は、活動の拠点を東京に移した。上京一発目の仕事はアイドル(前田聖来)のPVを撮ることだったが、肝心のアイドルがスタジオをバックレて男と車で逃げ出してしまう。当然、プロデューサー(西村喜廣)はカンカンだし、この仕事のギャラが入らなければ来月の家賃もままならない二人は、アイドルをとっ捕まえて撮影を続行する選択肢以外なかった。

だが、切羽詰まっている割には追跡する自分たちの状況を楽しんでいるようにしか見えないお気楽な二人に、運転手は戸惑いを隠せない。おまけに、この二人は自分たちのしゃべりたいことをただまくしたてるだけで、人の話など全く聞いていない。
渋滞に巻き込まれて一度はアイドルの乗った車を見失ってしまうが、運よく公園に立ち寄っているアイドルを発見。破れタイツの二人は、いったんタクシーを降りた。そこに、PVのスタッフたち(中村祐太郎、松本卓也、今泉力哉)もドヤドヤと集まってくる。
男(小林勇貴)といちゃついているアイドルを見た破れタイツのマキは、一瞬固まってしまう。アイドルがじゃれついていたのは、自分の彼氏だったからだ。おまけに、アイドルからは「私の方がいいってぇ~」とのたまわれる始末。
アイドルは、またしても男の車で逃げてしまう。

タクシーに戻ってくる二人。すっかりしょげ返っているマキを励まそうとゆんは男の悪口を言うが、マキは彼氏の悪口言うなと逆ギレ。しばし言い合いした後、次は殴り合いに。その様子にうんざりする運転手。
ところが、二人に気を取られて前方不注意になった運転手は何かを轢いてしまう。慌てて車を停めると、目の前に血塗れになって起き上がる男の姿があった。プロデューサーだった。
仕事もキャンセルされ意気消沈した二人は、故郷に帰ってくれと言った。その態度に業を煮やした運転手は、お前らそんなんでいいのかとラップにのって檄を飛ばした。
その言葉に発奮した二人は、自分たちのテーマ曲「破れタイツのビリビリラップ」を歌い始める。

できた自分たちのPVを例のプロデューサーに持ち込むが、ウチは若い子専門だからとにべもなく断られる。「脱ぐならいいけど」というお約束の言葉とともに…。


如何にも、破れタイツらしい短編である。マチーデフ以外のキャストがすべて監督(前田聖来にも監督作がある)というのも、何とも人を食っている。
基本的には、ベタな展開と破れタイツのマシンガン・トーク、そしてマチーデフのラップで構成され、音楽で言えばサビの部分で自分たちのPVをぶちかますというさらに人を食った展開を見せる。その何とも身も蓋のない軽妙なバカバカしさとかとかしましさに、微苦笑してしまう訳だ。
本作中にも出てくる本音ともネタともつかない「映画よう知らんし」というフレーズ。確かに、破れタイツの作品群にはシネフィル的なマニア臭が皆無で、その如何にもミーハー女子的な軽妙さこそが、ガールズ映画監督ユニットを標榜する彼女たちの個性でもあり、僕はその部分に惹かれる。
オタク的な頑なさがなくて、妙に風通しがいいのだ。

で、本作の問題点はというと、これはもうリズム感に尽きるだろう。冒頭でマチーデフがぼやくようにラップするリズムがそのままこの映画のビートを刻むため、そのリズムからずれると映画的なグルーヴが阻害されてしまう。
破れタイツの二人がタクシーに乗り込み、お得意の関西弁マシンガン・トークを始める訳だが、その会話のリズムがオフビート気味のため、映画の流れがやや停滞するのだ。
そして、その停滞は「破れタイツのビリビリラップ」PVにも言える。音源のみで聴く分にはそれなりのリズム感なのだが、そこに映像が加わると何故か微妙にオフビートに感じられる。それは、破れタイツ作品のそもそもの持ち味がオフビートな語り口だということに依拠しているからだろう。
15分の短編作品だからこそ、この辺りのリズム感をビシッと決めてほしいのだ。

血塗れ作品を得意とする西村映造の西村喜廣がタクシーに轢かれて血塗れというシャレには、笑ってしまった。

 


本作は、東京に活動の拠点を移した破れタイツの挨拶状的な短編。
これからの彼女たちが、よりオリジナルな映像リズムを刻んでくれることを期待したいと思う。

 

城山羊の会『自己紹介読本』

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2016年12月1日ソワレ、下北沢の小劇場B1で城山羊の会『自己紹介読本』の初日を観た。

 


作・演出は山内ケンジ、舞台監督は神永結花・森下紀彦、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵、演出助手は岡部たかし、照明操作は櫛田晃代、音響操作は窪田亮、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は渡邉美保(E-Pin企画)、制作助手は山村麻由美・美馬圭子、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。主催・製作は城山羊の会。
助成は芸術文化振興基金、協賛はギーク ピクチュアズ。
協力はエー・チーム、レトル、クリオネ、ウィズカンパニー、quinada、バードレーベル、青年団、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。


こんな物語である。

とある公園の一角。長いベンチの端に一人座ってスマホをいじりつつ、待ち合わせの相手を待っている風の女性ミサオ(富田真喜)。もう片側の端に座って、文庫本を手に彼女の様子をうかがう男増淵(岡部たかし)。その光景を無言で見守る、壊れたのか水の出ない小便小僧。公園の近くでは、工事現場の音が時折聞こえてくる。

意を決して…というほど深刻ではなく、むしろ意味不明の軽さで自分は役所の職員だと唐突に自己紹介を始める増淵。もちろん、ミサオは怪訝そうな顔で増淵を見ている。
というより、明らかにミサオは関わりになりたがってないのだが、増淵はお構いなしに会話を進めていく。
いったん会話は打ち切られたかに見えたが、性懲りもなく増淵は話しかけてきた。「化学の教師のように見える」という言葉に、意外なほど反応するミサオ。「こんな教師、いる訳ないじゃないですか」と断言する彼女に、「いやいや、本当に先生に見えますよ」と返す増淵。

そんなやり取りをしているところに、ミサオと待ち合わせしていたユキ(初音映莉子)とユキの恋人カワガリ(浅井浩介)がやってくる。この二人が、ミサオに相談を持ちかけたのだった。
何となく微妙な空気が漂い始めたが、またしても増淵が自己紹介を始めようとする。二人は、増淵をミサオの知り合いだと思い込むが、今ここで会っただけだとミサオから聞かされ混乱する。しかし、例によって増淵は一向にひるむ様子もない。
どうやら、微妙な空気は増淵の存在が原因ではなく、そもそもミサオとユキの関係性にあるようだった。増淵がミサオのことを教師のように見えると言った話に、ユキは「そうじゃない」と言ったが、「もう、辞めたじゃない」とミサオ。「そりゃ、そうよね…」とユキ。このやり取りで、微妙な空気は不穏な空気へと変化した。
返す刀の如く、ミサオはカワガリがユキと付き合い始めたのは去年の5月からでまだ日が浅いとか、ユキは男の人がとっても好きだからとか、あまりこの場で言及することが適切とも思えない情報を次々と口にした。

そこに、今度は増淵と待ち合わせしていたという役所の後輩曽根(松澤匠)がやってくる。また自己紹介へと話が戻り、混沌は新たなる混沌へと向かっていく。
すると、今度はやたらと名刺を配りたがる産婦人科医の柏木(岩谷健司)と、最近結婚した妻の和恵(岩本えり)がやってくる。この夫妻は、曽根が増淵に紹介しようとしてこの公園に呼んだのだ。

ユキとカワガリがとある深刻な事態をミサオに相談するという本来の目的が捨て置かれたまま、関係性のよく分からない七人がそれぞれに気まぐれな会話をまき散らしつつ、事態はよりカオスへと迷走していくが…。


そもそも、あえて手狭な小劇場B1を選んだこと自体、「如何にも、山内ケンジだなぁ…」と若干の苦笑を交えつつ思った。彼の作る演劇同様、一筋縄ではいかない人である。
そして、公園のベンチに舞台を限定したワン・シチュエーション芝居という、役者陣にとってなかなかに過酷な環境。
悪意とセクシャリティがふんだんに盛り込まれた毒素の振りまき方や、後半における矢継ぎ早の展開、終演直前での如何にもなツイストと、どこを切っても城山羊の会である。

ただ、これまでの城山羊の会諸作では、奇妙な人物こそたくさん登場してきたものの、そこには明確な人物同士の関係性が設定されており、そのシチュエーションが思ってもみない方向に暴走して隠微なわいせつ性とダークな暴力性に帰結するという展開が多かったように思う。
ところが、本作においては登場人物七人の立ち位置や関係性がほぼ説明されないまま、かろうじて会話の端々にヒントを散りばめただけで、話がどんどん進んでしまう。
曖昧さを曖昧さのまま記号的に放置して、ひたすらちぐはぐな会話から生じる間と居心地の悪い沈黙だけで舞台を構築しているのだ。
そう、ある種の前衛というか、相変わらず攻めの姿勢を緩めない作劇こそ、山内ケンジの山内ケンジたる所以である。
本作を見ていて僕は終始もやもやした気分になっていたのだが、それはおそらく登場人物がそれぞれに抱いている関係性のもやもやと同等の不確かさに起因していたのだろう。
そのもやもやの呪縛から解放してくれるのが、城山羊の会としては珍しくコミカルな仕掛けを施したエンディングである。

基本的に間が命の会話劇で一幕物90分という尺は、さすがに見ていてところどころダレる個所があったし、正直七人の登場人物をうまく活かしきれていない部分もあった。
初日であることを考えればなかなかにハイ・クオリティだったと思うが、公演回数を重ねることによって、さらに会話が研ぎ澄まされて舞台は洗練されていくことだろう。


本作は、変わることなく攻めの姿勢を崩さない山内ケンジの新作。
ちょっとした話題になった映画『At the terrace テラスにて』を見た人にも見逃した人にも、自信を持ってお勧めしたい逸品である。

2016.12.16吉田美奈子& THE BAND@BLUES ALLEY JAPAN

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2016年12月16日、目黒のライブハウスBLUES ALLEY JAPANで吉田美奈子 & THE BANDのライブを観た。
かなりオサレでラグジュアリーな会場は、小心者にはかなりのプレッシャーだった。会場はテーブル席と立ち見に分かれていて、僕はスタンディングがしんどいからテーブル席で見ていたけど、立ち見のお客さんとのシンメトリーが、ビジュアル的に貧富の差みたいなたたずまいで何とも落ち着かない。


吉田美奈子(vo)、土方隆行(g)、松原秀樹(b)、森俊之(keyb)、村上“ポンタ”秀一(ds)

吉田美奈子さんは、僕が最も好きなシンガーの一人だが、ライブを聴きに行ったのはこの日が初めてだった。さすがに往年ほどには高いキーが出ていなくて、ファルセットを多用していた気がする。そのためか、いささか歌の歯切れとか突っ込んでくるようなシャープネスは後退していたように思うけど、その代わり表現のニュアンスとか心に響く熱量はすごかった。

ライブは終始リラックスした雰囲気で、美奈子さんもおっとりとしたマイペースのMCで会場を和ませていた。
個人的には、バンドの演奏がとにかく最高で、スローなバラードにしても、ミッドテンポの曲にしても、アッパーでファンキーな16ビートにしても、有無を言わせぬ説得力とグルーヴに貫かれていた。
本当に、ずっと聴き続けていたいと思える最高の快感だった。
「LOVIN' YOU」と「頬に夜の灯」では美奈子さんが一緒に歌うことを求め、客席からのコーラスに合わせて歌唱するハート・ウォーミングな一幕もあった。

第二部には、特別ゲストとして浜口茂外也さんが2曲で参加。「午後の恋人」では繊細なフルートを、「GRACES」ではパーカッションでポンタとのタイトな掛け合いを聴かせてくれた。それにしても、浜口さんは年を重ねて益々お父さんの浜口庫之助さんに似てきたように思う。

そして、ラストは必殺のファンキー・チューン「恋は流星」「愛は思うまま」「TOWN」が畳みかけるように演奏された。オーディエンスの熱狂も最高潮に。
そして、アンコールに応えてしっとりと一曲。

美奈子さんは、第23回日本プロ音楽録音運営委員会においてライブCD『calling』収録のユーミン・カバー曲「春よ、来い」がベストパフォーマー賞に選ばれた。その時の審査員の一人、椎名和夫さんもこの日のライブに来ていた。

この日の美奈子さんのライブを僕なりに形容するとしたら、「匠と円熟」ということになるだろう。
彼女の歌唱を一流のミュージシャンによるタイトな演奏に身を委ねていたら、「年を取るというのも、なかなか捨てたもんじゃないな…」とフッと思ったのだった。


【Set list】

第一部
1.TALE OF THE SEASONS
2.ENCOUNTER
3.GIFTED
4.CRYSTAL
5.LOVIN' YOU
6.少しだけ…
7.FORGIVING
8.TEMPTATION

第二部
9.RADIANCE
10.頬に夜の灯
11.午後の恋人
12.GRACES
13.BEAUTY
14.悲しみの停まる街
15.恋は流星
16.愛は思うまま
17.TOWN

-encore-
18.THE LIFE

My Favorite Reissured CD Award 2016

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新年といえば、毎度おなじみこの企画再発CDアワードという訳で、去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

2016年の基本的な印象は、前年とほとんど変わらず再発の企画にも目新しいものはなかったというものだ。一枚の名盤のアウトテイクやミックス違い、場合によってはアナログ・レコードやUSBデータ、DVD、Blu-rayまでセットしたデラックス箱物や、アーカイヴ的な超重力級BOX、新素材を使った高音質盤、廉価盤再発、放送音源、等々。
廉価盤再発に関しては、相変わらずリマスターの有無がインフォメーションされないことが多い。僕が一番どうかと思うのは、SHM-CD化はするがマスターは旧来のままという再発である。

そんな2016年の再発シーンにおいて、僕が個人的にうれしかったものを順不動で挙げておく。

○ 大滝詠一 / BEDUT AGAIN

大滝さんのまさしく置き土産的な一枚。他人に書いた名曲群の本人歌唱バージョンを集めた作品集は、『A LONG VACATION』『EACH TIME』と並んでボーカリスト大滝詠一を堪能できるファン待望の企画盤である。

○ THE POP GROUP /FOR HOW MUCH LONGER DO WE TOLERATE MASS MURDER?

ようやく出そろったポップ・グループのリマスター再発プロジェクトの一枚。かつて徳間ジャパンからも国内盤が出ていたが、廃盤になって久しかったからこれは待望だった。何せ、一時はPROGRESSIVE LINEからブート盤まで出ていた始末である。
彼らは、NEW WAVEというよりPOST PUNKという表現が最もピッタリくるバンドというのが個人的な印象で、最も過激なFREE JAZZとROCKとFUNKの邂逅というべきミクスチャー・ロックの元祖と言えるのではないか。

○ 須山公美子 / 夢のはじまり


現在でも音楽活動を続けてる須山公美子の名盤で、ずっとほしかった一枚がようやくの再CD化された。今回のマスタリングを担当したのは、AFTER DINNERの音響に深く関わった宇都宮泰!
シャンソンとチンドンをミクスチュアした独特の世界観は、ある意味永遠に懐かしく、そして新しい

○ CHUCK BROWN & THE SOUL SERCHERS / BUSTIN’ LOOSE


1980年代に一部で盛り上がったワシントンDCのローカル・ダンス・ミュージックGO-GO。同じビートでひたすらメドレー形式に長尺演奏を続けるスタイルで、代表バンドと言えばTROUBLE FUNKだけど、大ベテランのチャック・ブラウンによるプレGO-GOマスターピースといえば本作。
以前に一度CD化されたことがあったけど、ようやくの再発はまさに待望だった。

○ THE BEATLES / LIVE AT THE HOLLYWOOD BOWL

1977年にアナログ盤でリリースされたビートルズ唯一の公式ライブ盤で、かつて日本では東芝EMIから『ザ・ビートルズ・スーパー・ライブ!』として発売されていた。長年廃盤だったこのアルバムは、ロン・ハワード監督のドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ~エイト・デイズ・ア・ウィーク」公開に合わせて再発の運びとなった。
何も言うことなどない、ロック・ライブの歴史的モニュメントである。

○ LESTER YOUNG / CLASSIC 1936-1947 COUNT BASIE AND LESTER YOUNG STUDIO SESSIONS


MOSAIC渾身の8枚組。カンサス・シティのビッグ・バンド・ジャズと言えば、最高にスウィングするオール・アメリカン・リズムセクションを要したカウント・ベイシー楽団で決まりだが、その中心人物にしてサックスの革命者ともいえるプレス珠玉の名演を詰め込んだ一生もののお宝箱。
同じMOSAICには4枚組の『CLASSIC COLUMBIA,OKEH AND VOCALION LESTER YOUNG AND COUNT BASIE(1936-1940 』もあるが、もちろんそちらもマスト。

○ LOU REED / THE RCA & ARISTA ALBUM COLLECTION


生前にルー・リード自身が監修したこのボックスは、彼のキャリアを文字通り総括した圧巻の17枚組。もちろん、すべてのアルバムが必聴だと思うけど、RCAからリリースされた傑作ライブ『LIVE IN ITALY』が未収なのが個人的には大いなる不満だ。
このライブ盤、ロバート・クワインのギターが、本当に最高なんだけど。

○ THE ROLLING STONES / IN MONO


ビートルズのMONO BOXが限定生産でリリースされたときは、ものすごい争奪戦となったことが今となっては懐かしいが、こちらはあまり騒がれることなくひっそりリリースされた15枚組。
このボックスがすごいのは、ビートルズ同様に英米盤で微妙に収録曲を違えていたアルバム群を、すべてボックスに詰め込んでしまった点。強引と言えば強引な作りだけど、当時の雰囲気を伝えていて実に気分だ。ちゃんとレア・トラックス盤が用意されているのもうれしい。
やっぱり、60年代はMONOだよな!とつくづく思う。

○ BIG STAR / COMPLETE THIRD


一部に熱狂的なファンを持つメンフィスのローカル・ヒーロー、アレックス・チルトン。ボックス・トップスでの華々しい活動に比べて、地味な存在のまま終わってしまったビッグ・スターだが、元祖パワー・ポップ的なビート感とチルトンの黒っぽいボーカルが後進に与えた影響は決して小さくない。
本作は、サード・アルバム関連の音源をこれでもかと言わんばかりに詰め込んだタイトルに偽りなしのコンプリート版だ。

○ THE TIMERS / ザ・タイマーズ スペシャル・エディション


1988年に反原発がらみで東芝EMIから一度発売中止になった後、数か月後に古巣のキティレコードからのリリースされたRCサクセション唯一のオリコン・チャート第一位獲得アルバム『カバーズ』。
その怒りから、さらに活動をラジカルにした忌野清志郎が結成した覆面バンド、ザ・タイマーズ1989年のアルバムがデラックス・エディションとして蘇った。当時、テレビ出演やインタービューでも相当に尖っていたZERRYこと清志郎だが、今聴いても『カバーズ』以上に身も蓋もないヤンチャぶりだと思う。これをてらいもなくやれてしまうところが、清志郎の清志郎たる所以だろう。
何もなかったようにCMソングに使われている「デイ・ドリーム・ビリーバー」のポップさが、かえって皮肉に聴こえるから複雑と言えば複雑なんだけど。

個人的に、2017年再発で僕が密かに期待しているのは、プリンスのワーナー傑作群リマスター再発、P音なしのじゃがたら『君と踊りあかそう日の出を見るまで』、生活向上委員会大管弦楽団『This is Music is This!?』『ダンス・ダンス・ダンス』だ。

瀬田なつき『PARKS』

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2017年4月22日公開、瀬田なつき監督『PARKS パークス』

 

企画:本田拓夫/ゼネラルプロデューサー:樋口泰人/プロデューサー:松田広子/ラインプロデューサー:久保田傑/脚本・編集:瀬田なつき/音楽監修:トクマルシューゴ/劇中歌:PARK MUSIC ALL STARS「PARK MUSIC」/エンディングテーマ:相対性理論「弁天様はスピリチュア」/撮影:佐々木靖之/録音:高田伸也/美術:安宅紀史/スタイリスト:高山エリ/ヘア・メイク:有路涼子/助監督:玉澤恭平/制作担当:芳野峻大/協力:東京都西部公園緑地事務所、三鷹フィルムコミッション、武蔵野市フィルムコミッション、一般社団法人武蔵野市観光機構、公益社団法人東京都公園協会、ニューディアー
製作:本田プロモーションBAUS/制作プロダクション:オフィス・シロウズ/配給:boid/宣伝:VALERIA、マーメイドフィルム/宣伝協力:渡辺麻子、栗田豊/助成:文化庁文化芸術振興費助成金
宣伝コピー:「100年目の公園。僕らの物語がここから始まる。」「君と、歌いたい曲がある。」
2017年/日本/カラー/118分/シネマスコープ/5.1ch

本作は、2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターの本田拓夫が「映画館の終りを新しい始まりにしたい」という思いに端を発し、井の頭恩賜公園100年実行委員会100年事業企画として製作された。


こんな物語である。

井の頭公園脇にあるアパートで独り暮らしをしている成蹊大学4年生の吉永純(橋本愛)は、冴えない学生生活を送っている。同棲するはずだった恋人とは別れ、親のコネで就職が決まっているというのに大学からは留年通知が届いていた。
卒業するためには、放置していたゼミの卒論を何とかして単位をもらう以外に手立てがない。ゼミは代返オンリーで一度も授業に出席したことのない純だったが、背に腹は代えられない。彼女は、おずおずと井上教授(佐野史郎)の研究室を訪ねた。
ひとしきり嫌味を言った後、思いの外寛容な井上教授は一週間以内に論文のアウトラインを提出するよう言った。首の皮一枚つながったものの、元より純は卒論のアイデアなど持ち合わせていない。

 

 

純は、子役をしていた10年前にグミのCMに出演して話題となった。しかし、それ以降は鳴かず飛ばずでタレント活動もとん挫。10代のころはギターを弾いて作曲にも手を出したが、それもパッとしなかった。
思い起こせば、いつも逃げてばかりで何事に関しても中途半端。イケてない自分の人生に、彼女はずっと悶々としていた。そんな純にとって、モデルやイラストレーターとして活動しながら吉祥寺グッド・ミュージック・フェスティバル(通称「キチフェス」)の運営スタッフもやっている友人の理沙(長尾寧音)は、眩しい存在だ。かつて音楽をやっていたことを知る理沙からキチフェスで歌わないかと声をかけられるものの、純は即座に断ってしまう。

部屋の壁に貼ってあった元カレとのツーショット写真をすべてはがした純。強い風が部屋の中に吹き込んで、開け放った窓からそれらの写真は飛ばされてしまった。
慌ててベランダに出る純。すると、大きなリュックを背負って一枚の写真を手にこちらを見上げている女の子と目が合った。女の子は、パッと明るい表情を見せたかと思うと一切躊躇することなく純のアパートまでやって来て、何度もインターフォンを鳴らしうるさくノックした。
戸惑いながら純が玄関を開けると、女の子は「この人知りませんか?」と色あせてセピア色になった一枚の白黒写真を見せた。その写真には、何十年も前のこのアパートのベランダに立つ一人の若い女性の姿が写っていた。
「知る訳ないでしょう!」と純が答えると、「上がらせてください!」と言って止める純を振り払い女の子が部屋に上がり込んできた。



女の子は、木下ハル(永野芽郁)という名の高校生だった。ハルは、亡くなった父・晋平(森岡龍)の遺品の中から50年前に送られた手紙と数枚の写真を発見。差出人は、かつての晋平の恋人・山口佐知子(石橋静河)。どうやら晋平と佐知子は、仲間と歌を作っていたようだった。
もうすぐ母親が再婚するため、父の記憶が薄れないうちにハルは父のことを小説に書こうと考えてここにやって来たのだという。

 

ば呆れながらも興味をそそられた純は、ハルと一緒に佐知子を探すことにした。上手くいけば、このことをネタに論文が書けると考えたからだ。


とりあえず、純はハルと一緒にこのアパートを紹介してくれた不動産会社に行ってみた。すると、馴染みの社員(岡部尚)がアパートのオーナーの住所を教えてくれた。早速、二人はオーナーの寺田さん(麻田浩)宅を訪れる。
突然の訪問にもかかわらず、寺田さんは親切に応対してくれた。彼は古い書類や手紙を引っ張り出すと、佐知子の現在の住所を教えてくれた。彼自身、もう長いこと彼女とは連絡を取っていないようだった。

純とハルは、佐知子の家を訪れる。表札には三世代の名前が並び大家族のようだったが、何度インターフォンを押しても誰も出てこなかった。二人が窓から中を覗いていると、一人の青年がやって来る。佐知子の孫、小田倉トキオ(染谷将太)だった。トキオによれば、佐知子は少し前に脳梗塞でこの世を去ったという。
二人はがっかりするものの、トキオは佐知子の遺品の中から一巻のオープンリール・テープを見つける。純の部屋。三人は、ヤフオクで大枚はたいて落札したデッキにテープをかけて再生する。
ノイズの隙間から聞こえてきたのは、50年前の晋平と佐知子の会話と若い二人の歌声だった。

♪君と歌いたい曲がある それはこんな曲で 僕らの物語は この公園から始まる…

そこまでは聴き取れたが、テープの劣化によりその後はノイズ音だけだった。ハルは、どうしてもこの先が聴きたかった。



ここまでの顛末をレポートにまとめ、純は井上教授の研究室を再訪する。教授は、興味深そうに論文を読むと、曲の続きを完成させたらこの論文と合わせて単位をあげようと言った。
そんな訳で、是が非でも純は50年前の曲を完成させなければならなくなった。
ハルもトキオも曲の続きを作ることに意気込むが、そもそもハルはリコーダーを吹ける程度。トキオは音楽スタジオで働いているものの、機材のセッティングやサンプリングはできても楽器演奏はできず、できることと言ったらラップくらいだった。



とりあえず、純はしばらく触っていなかったアコースティック・ギターを引っ張り出して曲作りにトライし始めた。それと並行して、三人は50年前の曲のイメージを膨らませるために、マイクを持って井の頭公園や吉祥寺の町で色んな音を収録して回った。

 


しかし、なかなか曲のイメージは広がらず、純は悪戦苦闘する。ハルは小説を書き続けていたが、そのうち彼女の中で現在の自分たちと50年前の晋平や佐知子の世界が心情的にシンクロしていく。ハルは、2016年の吉祥寺で過ごしつつ、同時に1966年の吉祥寺で晋平や佐知子と想像の中で交流するようになった。

 


三人の活動を聞きつけた理沙は、純にキチフェスで歌うように言った。及び腰の純とは正反対に、トキオは大乗り気でバンド・メンバーを探そうと提案する。
子供たちにピアノを教えているキーボード・プレイヤー(谷口雄)、パンク・バンドのベース(池上加奈恵)、本業は大工のドラマー(吉木諒祐)、井の頭公園で演奏していたストリート・ミュージシャンのギター(井手健介)を強引にかき集め、セッションを繰り返して何とか曲は完成する。

 


しかし、ハルに聴かせると彼女は表情を曇らせた。ハルは、純たちが作った曲の続きが晋平や佐知子の思いから外れていたように思えてならなかったからだ。

純、ハル、トキオの様々な思いが交錯する中、いよいよキチフェス当日を迎えるが…。


井の頭公園100年の歴史、バウスシアター・オーナーの想い、現在・過去・未来、音楽…それこそが、この映画における本質的な主役と言っていいだろう。
移りゆくものと変わらないもの、過去の記憶と将来の夢、町と人。そのテーマは、いつの時代も普遍的だ。
肝となるのは、如何に映画としてその普遍性を魅力的な物語に結実できるかということに尽きる。

この映画を見て、僕が真っ先に思ったのは「何だか、バブル以前の牧歌的で昭和然とした物語みたいだなぁ…」ということだった。
とにかく、そろいもそろって登場人物たちがイノセントで善良なのだ。そこには、弱さや悩みはあっても、根本的な部分で悪意のようなものが微塵も感じられない。それはそれでもちろん悪くないのだが、それでは物語における“現在”の部分が、あまりにもファンタジックに過ぎるのではないか?

一番の問題は、50年前の晋平と佐知子の曲にまつわるドラマ部分があまりに弱いことである。三人を行動に駆り立て映画を疾走させるエンジンたるべきエピソードとしては、どうにも物足りなさを覚えてしまった。
最終的に、物語はまさしくファンタジー的な展開を見せるのだが、それにしてもハルという女の子の行動に共感しづらいのもネックだった。

ただ、冒頭のシーンからスクリーンいっぱいに広がる井の頭公園の壮大な広さと豊かな色彩と季節感。景色だけを切り取ればここが東京都武蔵野市とはにわかに信じられないような空間に、とにかく心奪われる。満開の桜の木々をすり抜け、緩やかな微笑みと共に自転車で疾走する橋本愛の躍動的な姿の魅力的なことと言ったら。
ちょっととぼけた感じで、調子のいい染谷将太の愛すべきキャラクター。まさにこれからの三人と、すでに様々なものを見てきた寺田さんという人物の絶妙なコントラスト。
映画の後半で、これでもかと挿入される演奏シーンのあまりに青春的なたたずまい。

そういったカラフルな映像こそが、この映画の持っている最大の魅力だと思う。やはり、この映画は大きな映画館のスクリーンで、しっかりシネマスコープ・サイズで見るべきである。
景色をメインに据えた映画故に、人物描写が弱いこともまた事実なのだが。

ただ、である。
映画を見終わり、エンドロールが流れ、場内が明るくなった時、僕はすっかり橋本愛のことが好きになっていた。「それで、十分じゃないか…」と思ったりもする。
そんなことも含めて、やはりこの映画は青春的である。

これはあまりに個人的なことだけれど、以前に二年間この公園のすぐそばで仕事に従事した経験を持つ身としては、自分までもがこの映画が提示する物語の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に陥ってしまった。


とにもかくにも、イノセントさに貫かれたあまりに青春的な一本。
よく晴れた穏やか日に、肩ひじ張らず見るには絶好の映画である。

 


余談ではあるが、映画後半のシーンで染谷将太がハイタッチする女性は和田光沙だろう。

塚田万理奈『空(カラ)の味』

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監督・脚本・編集:塚田万理奈/撮影:芳賀俊/撮影助手:五十嵐一人/照明:沼田真隆/録音:落合諒磨、加藤誠、坂口光汰、清水由紀子/カラコレ:関谷壮史、芳賀俊/MA:落合諒磨/助監督:鈴木祥/制作応援:塚田健太郎、古畑美貴、朴正一/張り子制作:前田ビバリー/宣伝:東福寺基佳、上田徹、崎山知世
本作は、第10回田辺・弁慶映画祭で弁慶グランプリ、市民賞、映検審査員賞、女優賞(堀春菜)の4冠に輝いている。


こんな物語である。

サラリーマンの父(井上智之)、専業主婦の母(南久松真奈)、予備校生の兄(松井薫平)と4人家族の野田聡子(堀春菜)は、ダンス部に所属するどこにでもいる普通の高校3年生。彼女は、何不自由することもなく高校では部活やダイエット、恋話といった他愛ない話をする友人に囲まれている。
淡々と過ぎて行く生活。波風なく平穏な日々。そんなありふれた生活の中で、聡子は心のどこかに漠然とした不安を感じている。自分のアイデンティティや将来のこと、具体的に何か問題がある訳ではないが、かといって自分の中に確たる何かを見出すこともできない。
いつしか、彼女は自分が空なのではないかという思いに囚われていく。

その違和は、やがて彼女の食生活に現れる。母が作ってくれた弁当や夕食がのどを通らなくなり、その一方でお菓子類を夜のコンビニで買い漁っては隠れて貪ってしまう。いったん満腹になると、すぐトイレに駆け込んでのどに指を突っ込み嘔吐する。その繰り返し。ノートには、食べたものとカロリーを書き込む。
罪悪感や不安に苛まれ、もうやらないと自分に言い聞かせても、次の瞬間にはまたお菓子を食べたくなって財布に手を伸ばしてしまう。それは、まるである種の無間地獄のようだった。

 


聡子の生活の変化は、じょじょに体つきにも出始める。部活で着替えているとき、友人たちは「あれっ?聡子、痩せた?」と聞いてくるようになった。大人っぽくなったと言われれば、悪い気分ではない。
しかし、家族もやがて彼女の様子がおかしいことに気づき始める。当初は何も言わずに静観していたものの、やがてその変化が深刻であると考えざるを得なくなってくる。

聡子が帰宅すると、いつもは仕事で遅い父親も珍しく家におり、家族4人そろっての夕食となった。兄は相変わらず食欲旺盛でがつがつ食べているが、今夜の食卓はどうも雰囲気がいつもと違っていた。
聡子は、形ばかりに食事を口に運ぶと席に立とうとする。「もういいの?」という母の声にかぶせるように、父は「トイレに吐きに行くのか?」と言った。
何とかとりなそうとする母と、心配と焦りがない交ぜになったように言葉をかけてくる父。父は、病院に行くよう聡子に言った。
やがて、聡子は堰を切ったように家族をなじる言葉を吐いて席を立つと自室にこもってしまう。心配してくれていることも、自分の言ってることが理不尽なのも分かっている。それでも、彼女は家族を傷つける言葉をぶつけずにはいられなかった。そして、そんな自分の態度がさらに聡子自身の心を傷つけて行った。

学校にも行けなくなった聡子は、ただ家に引きこもるしかなかった。やがて、今の自分に耐え切れなくなった聡子は、友人(笠松七海)に電話で助けを求める。母子家庭の友人と彼女の母親は、「いたいだけいてくれていいから」と優しく聡子を迎え入れてくれた。
変に気を遣われるでもなく、聡子は友人の家で暮らすようになる。しばらくすると、聡子は友人と一緒に登校できるようになるが、夜中にこっそりコンビニでお菓子を買い漁って食べる生活を改めることはできなかった。
やがて、再び彼女は学校に行けなくなり、風呂に入るのも億劫になって行く。おまけに、財布の中身が底をつき、友人が寝静まった夜中に金がないかと家探ししてしまう。
もはや、この家にいることもできない。聡子は、母に連絡して家に戻ることにした。苦渋の選択だった。

母は、聡子に対して腫物に触るような感じだった。聡子は、意を決して病院に行くことにした。
雑居ビルにあるクリニックを聡子は訪ねるが、午後の診療時間のはずがクリニックは閉まっていた。仕方なく、聡子がエレベーター横に置かれた椅子に腰を下ろして待っていると、ケバケバしいメイクに派手な服装の見るからに水商売っぽい女性がやって来る。
彼女は、甲高い声で「あれ~、まだ戻ってない。ここの先生、昼休み長いからなぁ」と言うと、聡子の隣に座った。
このエキセントリックな女性は、マキ(林田沙希絵)という名前だった。マキさんは、聡子に対して何ら気を遣うこともなく、あけすけすぎるほどの無防備さで、ざっくばらんに自分がしゃべりたいことをしゃべりまくった。
天真爛漫というにはあまりに突き抜けたキャラクターだったが、マキさんのそんな言動がなぜか聡子を安心させた。聡子は、ずっと心の奥底にため込んでいた本音を、初対面のマキさんに素直に話すことができた。目を潤ませながらぽつりぽつりと言葉を継いでいく聡子をマキさんはギュッと抱きしめてくれた。聡子は、少しだけ自分の心が軽くなるのを感じた。

それからというもの、聡子は時々マキさんと会うようになった。いつでもマキさんの行動はとんでもなくマイペースで、聡子も周囲も困惑させられたし、マキさんの話はいつも一貫していなかった。母親と一緒に旅行すると言ったかと思えば、別の日は自分に母親などいないというように。それでも、彼女といると聡子は救われた気持ちになることができた。

 


やがて、聡子は少しずつ回復の兆しが見えてきたが、その一方でマキさんとの日々は終わろうとしていた…。

 

現在25歳の塚田万理奈監督が、三年前の大学時代に陥った自身の摂食障害体験をベースに制作した初長編映画である。見る人のバックボーンによって作品の受け止め方は様々だと思うが、そこに切実な痛みや苦しさを伴うことだけは確かだろう。
絶望や過酷さといった突き放すような語り口の作品ではない。聡子を取り巻く人々には表現の仕方に差異こそあれ、むしろ優しさや温かさが漂っている。どう彼女に接すればいいのか、という戸惑いと共に。
そして、聡子自身がある意味どこにでもいる普通の女の子であるがゆえに、我々の心は掻きむしられる。これは、あなたのそして私の物語かもしれないのだから。

具体的に何かドラマティックなことや事件がある訳でもなく、聡子の日常は淡々と過ぎていく。思春期に誰もが抱く自我や自分の未来を思い描けないことへの悶々とした気持ち、確たるアイデンティティを持てないことへの焦燥、そんな自分を友人たちと比較して募る不安…。
知らず知らずのうちにそういった感情が澱のように心の奥底に堆積して、気がつけば自分のメンタリティーがどんどん歪んでいく。悲鳴を上げて助けを求めたくても、その勇気も出せず、焦燥と苛立ちと自責の念が空回りして、ますます自分自身を傷つけていく。
袋小路に入っていく自分は自覚できるが、そもそも何の袋小路なのかが分からない。分からないから、誰にも相談できない。まさしく、堂々巡りだ。

そんな聡子の内に秘めた苦しみを、塚田は一定の距離感を保って淡々と描いていく。静謐なまでのストイックな演出は、かえって見ている僕の気持ちを聡子の苦しみにシンクロさせていく。
本作で塚田が聡子に向ける目線は、そのまま過去の自分自身に対して向けられてもいるからだろう。ある程度の距離を保つことができなければ、恐らくこの作品を撮り切ることはできなかったのではないかと僕は思う。
だからこそ、聡子が感情を爆発させる夕食のシーンやクリニックの前でマキさんに自分の苦しみを打ち明けるシーンがとても強く胸に迫ってくる。

そして、思うのだ。大きな壁にぶち当たったら、直接と間接とを問わずやはり誰かの(あるいは何かの)力や助けが必要なのだ、と。
できることなら自分の力だけで何とかしたいし、最終的に自分を救い出せるのは自分だけではある。
けれど、その過程には他者とのかかわりが不可欠なのだ。結局のところ、我々は自分で思っているほど強くはないのだ。

言うまでもなく、聡子にとってその誰かはエキセントリックなマキさんである。一見、周囲が引くくらいに自由奔放で、行動が全く読めないマキさん。その何事にも頓着しないように見える突き抜けた彼女のキャラクターが、聡子の冷たく閉ざされてしまった心にある種の温かい震えをもたらす。
その温かさを糸口に、聡子は少しずつ再生に向かい始める。

その一方で、実は聡子よりよほど病状が深刻なマキさんは、いよいよその危うさを加速していく。バスタブでのワンシーンから、左手首に包帯をぐるぐる巻きにして何時間も遅刻して聡子との待ち合わせ場所に笑顔で現れたマキさん。彼女を見て衝撃を受ける聡子の表情。
ある意味、この映画におけるもっとも苛烈で痛みを伴うのが、ここだろう。

そして、映画は一縷の望み(というか、聡子のあるいは塚田監督自身の願い)を幻想的なシーンとして織り込みつつ、聡子のこれからに一筋の光が差し込んで終わる。
ゆえに、苦しい映画ではあるが、見終わった後には不思議に解放された気持ちになれる。

言うまでもなく、この作品の質の高さは、瑞々しくナイーブにリアルな女子高生としての聡子を演じ切った堀春菜の素晴らしさあってこそだろう。映画を見ていると、堀春菜はスクリーンの中で野田聡子の人生を生きているようにしか見えないのだから。
そして、聡子の人生を一瞬の邂逅を果たして、彼女の暗闇に確たるブライトネスをもたらすマキ役を見事に演じた林田沙希絵。映画後半において、物語を前に進めるエンジンたるのはマキの存在である。

 



本作は、切実な意思と誠実さに貫かれた痛みと再生の青春映画。
是非とも見ていただきたい良作である。


うさぎストライプと親父ブルースブラザーズ『バージン・ブルース』

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2017年5月17日ソワレ、こまばアゴラ劇場。
作・演出:大池容子/舞台監督:宮田公一/舞台美術:濱崎賢二(青年団)/照明:黒太剛亮(黒猿)、小見波結希(黒猿)/音響:杉山碧(ラセンス)/演出助手:亀山浩史(うさぎストライプ)/宣伝美術・ブランディング:西泰宏(うさぎストライプ)/制作・ドラマターグ:金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、赤刎千久子(青年団)/協力:青年団、アンフィニー、レトル、ケイセブン中村屋、箱馬研究所、黒猿、ラセンス、自由廊、青年団リンク 玉田企画、20歳の国
芸術監督:平田オリザ/技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)/制作協力:木元太郎(アゴラ企画)/主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場/企画制作うさぎストライプ、(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場/助成:平成29年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業


こんな物語である。

とある結婚式場控室。藤木博貴(志賀廣太郎:青年団)は、これから娘の披露宴だと言うのにまだ着替えも済んでおらず、ネクタイが見つからないとあたふたしている。そんな藤木の様子に呆れ苛ついているのは、本日のもう一人の主賓でタキシードに着替え終わった赤石修二(中丸新将)。彼もまた、新婦の父親という位置づけだからことはややこしい。

突然変異なのか何なのか、子供のころから藤木の胸は豊かで、それが原因で彼はずっといじめられてきた。今でもその巨乳は健在である。赤石は藤木の幼馴染であり、いじめられっ子の藤木の面倒をずっと見てきた。

二人が噛み合わないやり取りをしているところに、本日の主役・花嫁の彩子(小瀧万梨子:うさぎストライプ・青年団)が入ってくる。純白のウェディング・ドレスをまとった彼女は、これといった感慨もなさそうに不貞腐れた表情でおもむろにタバコを吸い始める。
そんな娘の態度を赤石はたしなめるが、彩子は聞く耳を持たず紫煙を吐き出し始末だ。
ようやく藤木の着替えも終わろうとしていたが、彼は体調がすぐれないのか椅子に座ったまま俯いてしまう。藤木の顔を覗き込む彩子と、藤木の肩をゆすって起こす赤石。いったんは目を開けた藤木だったが、彼は再びガックリと目を閉じてしまう。
慌てて助けを呼ぼうと赤石控室を出ていくのと入れ違いに、式場の従業員(金澤昭:うさぎストライプ)がそろそろ時間だと告げに来る。慌てる彩子。

混濁する意識の中で、藤木はこれまでの自分な数奇な人生を回想していた…。

女の子が欲しかった藤木の両親は、藤木のことをまるで女の子のように育てた。幼いころの藤木は顔立ちも綺麗で、周りの女の子よりも可愛かった。そんな藤木のことを、幼馴染の赤石はドキドキしながら友達付き合いしていた。
そのせいなのかどうなのか、思春期を迎えた藤木の胸は周囲の女の子よりも大きく発達して、その姿がいじめの対象になった。そんな藤木のことを守ってやったのも、もちろん赤石だ。
気持ち悪がられる藤木とは対照的に、赤石はモテモテだった。それというのも、赤石のペニスは驚くほど立派な代物だったからだ。
藤木はいじめに耐えつつ、自分のことをいじめる周りの連中をじっくり観察して欠陥や弱みを見つけることで密かに精神的な復讐をするようになった。

そんな自分の個人的復讐譚を藤木が赤石に話しているところに、一人のすかした男が突然割り込んできた。つい最近、生徒会の書記になった闇原有太郎(小瀧万梨子)だった。
闇原も藤木の幼馴染で、幼少のころは泣き虫有ちゃんと呼ばれるいじめられっ子だったが今ではいじめられっ子の影など微塵もないエリート意識剥き出しの男になっていた。
闇原は、自分も藤木同様周りの連中の弱みや欠点を観察しているのだと言った。そして、自分は本来生徒会長こそが相応しいポストだと言い切った。
闇原は、今の生徒会長をはめて信用をガタ落ちにさせて自分が生徒会長の座を射止める計画を二人に話し、協力を求めてきた。これで、自分たちの立場も形勢逆転と考えた二人は、闇原への協力を約束した。

計画通り、生徒会長は失脚して新しい生徒会長の座に就いた闇原は、持ち前のカリスマ性を発揮して学園生活を謳歌した。いつしか彼の魅力の虜となった藤木と赤石も、行動を共にするようになる。
高校を卒業すると、闇原は医者を志して大学へと進学。それと同時に、吹き荒れる学園紛争にも積極的に参加するようになる。藤木と赤石も、彼の理想主義に引っ張られてデモやバリケード封鎖に加わっていく。

ところが、闇原の様子がおかしくなる。ある日、闇原は酒に酔ってへべれけになった状態で二人の前に現れる。闇原は、所詮は自分も大きな欠陥を持った人間だったと自棄気味に吐き捨てた。
驚いたことには、闇原は妊娠していた。彼は、二人の前から忽然と姿を消した。

時は流れた。赤石は結婚して、平凡な社会人として日々を過ごしていた。あれ以来、彼は藤木とも闇原とも会っていない。
そんなある日、突然旧友から会いたいと連絡があり、赤石は待ち合わせの喫茶店に赴く。自分同様、藤木もそれなりに歳を重ねて中年になっていた。挨拶もそこそこに、赤石は闇原のことを尋ねてみる。すると、藤木が話した内容はにわかに信じられないものだった。
闇原は出産しており、その場に藤木は立ち会ったと言った。彼から聞かされた内容は壮絶なもので、とても赤石の想像力を超えていた。何と、尿道から出産した闇原は、新しい命と引き換えにこの世を去ったのだ。そして、闇原の子を藤木はずっと育てているのだと言う。
藤木が赤石に突然連絡したのは、彼が数日仕事で出張することになり、あいにくその時期子供を預けられるところがなくて困ったからだった。闇原の、そして藤木の娘は現在5歳。今、店の外で待たせているのだと言って藤木は娘を呼んだ。

赤石は、言葉を失った。彩子は闇原にそっくりというより、闇原そのものだったからだ。初めは、女房に説明できないからと断っていた赤石だったが、やがて腹を決めた。彼は、彩子を預かることを引き受けたのだった。

さらに、時は流れた。彩子は、藤木と赤石という二人の父親に育てられてすくすく育ち、恋人もできた。

そして今日、いよいよ結婚式当日を迎えたのだが…。


演出家・大池容子の劇作が一皮むけたことを実感させるスラップスティック・コメディの良作である。
彼女の舞台を見始めたのは、2014年9月のうさぎストライプと木皮成「デジタル」からだが、僕の好みを言わせてもらえば、この作品が最も楽しめた。

ストーリー紹介をお読みいただければお分かりいただけると思うが、結構突飛な設定と四人それぞれの人生をクロノジカルに描く構成の舞台である。なかなかディープな物語を、大池は歯切れのいいスピーディな演出によって上演時間70分で畳みかけていく。そのリズム感が、爽快である。
そして、メインの役者三人になかなかムチャ振り(あるいは、罰ゲーム的コスプレ)とも思える幅広い年齢層を演じさせている。
そのキッチュなたたずまいと不条理な設定に、思い切りのいい明け透けな下ネタを散りばめつつ、最終的には心に染み入るエモーショナルな美しい幕切れに着地して見せる。その演劇的技巧が、秀逸だ。

パンフレットにいつも記されるお馴染みの紹介だが、うさぎストライプの演劇は「どうせ死ぬのに」をテーマに、動かない壁を押す、進まない自転車を漕ぐ、など理不尽な負荷を俳優に課すことで、いつかは死んでしまうのに、生まれてきてしまった人間の理不尽さを、そっと舞台の上に乗せている…というのが基本スタイルである。

「デジタル」や「いないかもしれない」(動ver.)がまさしくそんな舞台で、正直観ていて僕は疲れてしまった。
あるいは、シュールで被虐的な暴力性というのも大池芝居によく用いられるテーマで、「わかば」や小瀧万梨子が正式メンバーに加わった「みんなしねばいいのに」などがそういった作劇の作品だったと思う。
大池容子のメンタリティや彼女自身のネガティヴィティを創造性に変換することで、ある種の浄化やセラピーの如き物語を表現するのがうさぎストライプという場であり、彼女の精神性を演劇的フィジカルさへと変換した作品に共鳴した人がうさぎストライプの演劇を求めるのではないか、というのが僕の見解である。

ただ、これはあくまで個人的な嗜好として…ということだが、僕にとって魅力を感じる大池演劇といえば、むしろ「空想科学」、「いないかもしれない」(静ver.)、「セブンスター」といった物語性と正面から向き合った舞台である。
動かない壁を押す、進まない自転車を漕ぐといった理不尽な肉体的負荷より、日常生活にあふれている理不尽でストレスフルな精神的負荷(あるいは暴力性)の方が余程心に堪えるし、「どうせ死ぬのに」と斜に構える以前に「今、生きていることのつらさ」の方が厳然たる事実に他ならないからだ。
そういった個人的思いもあり、見続けてはいるものの僕は大池が作る演劇世界に微妙なもやもやを感じることも少なくない。

そんな訳で、本作「バージン・ブルース」の吹っ切れたような抜けの良さは、ちょっとした驚きだった。シンプルに物語として面白いし、あまりにどうしようもないくすぐりや下ネタもしっかり良質な現代的笑いに昇華されているからだ。
何といっても本作の良さは、予測不能なジェットコースター的ドライヴ感であり、それが惚れ惚れするような情緒性を伴って物語的に回収される見事なエンディングである。

「デジタル」や「いないかもしれない」二部作にも出演していた小瀧万梨子が正式メンバーに加わって二作目となる「バージン・ブルース」は、うさぎストライプにとって小瀧加入最初の成果と言って差し支えないだろう。
ベテラン俳優二人を相手に、時に不貞腐れ、時にエキセントリックに、時に冗談めかしたキザったらしさでとくるくる表情を変える小瀧の演技こそが、この舞台の魅力であり芝居を加速させるタフで馬力のあるエンジンそのものである。
その一方、飄々とした志賀廣太郎と実直な中丸新将のコントラストも楽しい。

ただ、である。
正直に言ってしまうと、大池容子と小瀧万梨子が奏でるある種若く現代的な演劇リズムに比して、ベテラン二人のテンポがややもするとオフビート的に映ってしまい、温度差のようなものを感じる場面が散見された。オールドスクールとニュースクールのすれ違い…とでもいえばいいだろうか。
そこが、惜しまれる。

そして、幾ばくかのセンチメンタルさを持ったラストにおけるツイストは見事だと思うのだが、もう少し演出的に整理した見せ方ができなかったのかな、というもどかしさを感じたことも事実である。


とまあ不満もあるにはあるのだが、「バージン・ブルース」はうさぎストライプの新たなる旅立ちを予感させるに十分な良質の舞台であった。
次作が、楽しみである。

小林政広『海辺のリア』

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2017年6月3日公開、小林政広監督『海辺のリア』

 


エグゼクティブプロデューサー:杉田成道/プロデューサー:宮川朋之、小林政広/アソシエイトプロデューサー:ニック・ウエムラ、塚田洋子/制作経理:小林直子/契約担当:中野雄高/監督・脚本:小林政広/音楽:佐久間順平/撮影監督:神戸千木/撮影:古屋幸一/助監督:石田和彦/制作担当:棚瀬雅俊/録音:小宮元/衣裳デザイナー:黒澤和子/美術:鈴木隆之/編集:金子尚樹/ヘアメイク:小泉尚子/衣裳:大塚満、澤谷良/小道具:佐々木一陽/制作進行:小泉剛/タイトル:小林直子
助成:文化庁文化芸術振興費補助金/宣伝:日本映画放送/配給:東京テアトル/企画・制作:モンキータウンプロダクション/製作:「海辺のリア」製作委員会(日本映画放送株式会社、カルチュア・エンタテインメント株式会社、株式会社WOWWOW、株式会社ビーエスフジ、東京テアトル株式会社)
2016/日本/105分/カラー


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

ぼさぼさで乱れた髪、伸び放題の髭、どこか焦点の定まらぬ目をした80がらみの老人が、不機嫌そうに一人何ごとかブツブツつぶやきながら道路の真ん中を歩いている。
夏だというのにシルクのパジャマの上に黒のロングコートを羽織り、キャリーバッグを引きながら歩く老人は、していたマフラーを投げつけ履いていた靴さえ脱ぎ捨てて前に進む。

男の名は、桑畑兆吉(仲代達矢)。半世紀以上のキャリアを積んだ役者であり、俳優養成所まで主宰した彼は、まさしく日本を代表する稀代の名優と謳われた。
20年前に役者を引退し表舞台から去った兆吉は、最愛の妻に先立たれて今では認知症の疑いがあった。長女の由紀子(原田美枝子)、由紀子の夫で元は兆吉の弟子だった行男(阿部寛)に裏切られ、遺書を書かされた挙句に兆吉は高級老人ホームに送られてしまう。
役者の道を挫折した行男は会社経営者へと転身したものの、多角経営に乗り出して大きな負債を抱える羽目になった。父の世間知らずをいいことに、由紀子はマネージャーとなって兆吉の莫大な財産を一手に握っていた。おまけに、彼女は運転手(小林薫)と関係を持っている。

その老人ホームを脱走した兆吉は、行く当てもなく今こうして彷徨い歩いていた。目の前に広がる海に引き寄せられるように、兆吉は道を外れて浜辺へと歩を進めた。
いつしか、兆吉に道連れができている。着古した薄手の紺色ジャンバーにくたびれたボーダーのTシャツとジーパン、見るからに疲弊した表情で苛立ちを隠そうともしない女性の名は、伸子(黒木華)。
伸子の見たくれの汚さをさも愉快そうに揶揄する兆吉。伸子は、兆吉に食ってかかり攻撃的な言葉を吐くが、兆吉はどこ吹く風だ。
もはや兆吉の記憶からは消し去られているが、伸子は由紀子と腹違いの二女。50代も半ばだった兆吉が、当時愛人関係にあった26歳の女性に産ませてた娘が伸子だった。
ところが、伸子が私生児を出産したことを許せず、兆吉は彼女を家から追い出した。伸子が兆吉と会うのはその時以来で、皮肉にも現在彼女は26歳だった。

 


兆吉の老人ホームから連絡があり、行男は慌てているが由紀子は「どこかで行き倒れてくれたら、清々する」と言い放つ。そんな夫婦の様子を、無言で冷ややかに見ている運転手の姿。
止める由紀子を振り切ると、行男は車を発進させた。助手席に座り、憮然とした表情を浮かべる由紀子。
老人ホームへ着くと改めてことの次第を聞いた行男は、いったん家に戻って由紀子を下ろすと、再び兆吉を探すために車を発進させた。

腹が減ったと駄々をこねる兆吉に根負けした伸子は、渋々弁当を買いに行く。決してここから動くなと言われたにもかかわらず、兆吉はまたしても海辺を歩き始める。
弁当を手に伸子が戻ってくると、兆吉の姿はどこにもない。そのころ、行男は一人浜辺をふらつく兆吉の姿を見つけて駆け寄っていた。ところが、兆吉は行男のことさえ分からず、行く手を遮り車に乗せようとする行男と揉み合いになる。
何とか後部座席に兆吉を押し込み運転席に身を滑らせた行男は、いつの間にか助手席に座っている伸子に気づいてギョッとする。

伸子は、兆吉だけでなく由紀子や行男のことも憎んでいた。彼女は、自分が家を追われたのは、姉の企みに父が乗せられたからだとも考えていたからだ。おまけに、今となってはその父までもが家を追われて老人ホームに入れられているのだ。行男は必死で弁解するが、伸子は一切聞く耳を持たない。

無一文で家から放り出された伸子は、悲しみと行き場のない怒りに震え途方に暮れていた。私生児を生んだことに激怒して伸子を追い出した兆吉だが、愛人に兆吉が生ませた私生児が伸子なのだ。理不尽極まりない仕打ちに違いなかった。
行く場所も仕事の当てもない伸子は、何とかパチンコ屋の住み込み仕事を見つけて昼夜を問わずに働いた。ようやく子供と二人の暮らしに目途がつき、アパートを借りようと持ったが、今度は保証人がいない。
散々迷った末に認知すらしなかった先方に相談すると、伸子は認知と引き換えに子供を取り上げられてしまった。文字通りすべてを失った伸子は、絶望に打ちひしがれて兆吉に会うためここに戻って来たのだ。
ところが、かつては愛し今では殺したいほどに憎んでいる暴君の如き父親に再会してみると、思いもしなかった見るも哀れな姿になり果てていた。
自分がどこから来たのかも分からない。どこへ行くのかも分からない。自分が誰なのかも分からない。目の前にいる伸子が誰なのかすらも分からないのだ、もはやこの男は。
出口を失った伸子の怒りと絶望は、そのまま行男や由紀子にも向かった。

 


結局、この日三人は行男の車内で一夜を明かす羽目になった。頻繁にかかってくる由紀子からの携帯に、行男は苛立ちを隠そうともしなかった。伸子は、ひたすら憮然とした表情だった。兆吉だけが、我関せずの体で気まぐれに言葉を発していた。
行男は、兆吉を老人ホームに送り届けるが、またもや兆吉は歩き出してしまう。その後を追う伸子。行男は、もはやあきれ果てて二人を追う気になれなかった。
一人老人ホームの前に取り残された行男は、意を決して由紀子に電話した。散々自分の父親のことを蔑ろにし、おまけに夫である自分の前で平然と運転手と関係を持つ妻にもほとほと嫌気がさしていた行男は、妻に宣言した。借金は、自分の残りの人生で何とかする。会社は解散する。由紀子とは離婚する。
そして、自分はその芝居と人生に惚れぬいた兆吉の面倒を見ると。

 


兆吉に追いついた伸子は、改めて自分はあなたの子供だといった。しかし、兆吉は最後まで伸子のことを自分の娘だと分からなかった。娘は由紀子一人しかいないという兆吉に向かって、伸子はこれまでもこれからも自分のことを拒絶するのかと訴えて涙を流した。彼女の涙が悲しみからなのか、それとも憤りからなのかは伸子自身にも分からなかった。

再び、あの海辺にやってきた二人。兆吉は、伸子の中にかつて自分が演じた『リア王』のコーディーリアの姿を重ねていた。伸子は、一人去って行った。残された兆吉は、観客もいない海辺で一人『リア王』を演じ始める。そして、力尽きたように砂浜にくず折れた。

兆吉と別れた伸子は、履き古したスニーカーを脱ぐと海へと入って行った。

行男は、海辺で倒れている兆吉を見つけると、由紀子に連絡した。くだんの運転手の車でやって来た由紀子。ところが、兆吉は由紀子を自分の亡くなった妻だと思い込んでいた。車の乗り込んだ兆吉は、誰にともなく自分の役者としての半生を語り始める。
またしても老人ホームに連れてこられた兆吉は、ここでいいからと頭を下げた。安心した由紀子は、父の言葉を信用して車を発進された。「ねえ、このままドライブしない?」という由紀子に、愛人の運転手は「悪党」と不敵に笑った。

あれだけの啖呵を切った行男だったが、結局は妻に言いくるめられて借金を返済してもらう代わりに兆吉のことは由紀子に一任した。会社の専務に電話して借金返済のめどがついたと告げると、行男は、自棄気味に笑った。

ところが、兆吉は老人ホームに戻ることなく、またしてもあの道を歩き始めた。

海辺に戻った兆吉。その頬はやや上気したように紅が差し、霞がかかったようだった瞳は焦点を結び、鋭い眼光と生気を取り戻した兆吉は、まるで乗り移ったように再びリア王を演じ始める。寄せては返す波音しか聞こえないこの場所で、兆吉は彼にしか見えない満員の観客を前に渾身の力を込めて。それは、まるで彼が生きてきた証のような輝きを放っていた。
最後の科白を力の限り吐き出すと、命の炎を燃焼し尽くしたように兆吉は海の中に倒れ込んだ。

波に浮かぶ兆吉の体を、抱きかかえる者があった。それは、伸子だった。
頭の先までずぶ濡れになりながら、厳しい眼差しと固く結ばれた口元で、殺したいほど激しく憎んでいる父親を懸命に助ける彼女の胸に去来するのは、一体どんな思いなのか…。


2012年の『日本の悲劇』以来となる小林政広待望の新作は、『春との旅』、『日本の悲劇』に続いて三度目となる仲代達矢とがっちりタッグを組んだ渾身の人間ドラマであった。
長編映画としては4年ぶりだが、実はその間にも2015年には博品館劇場でドラマ・リーディング『死の舞踏』を仲代主演・小林演出で上演しているし、同年スカパー!で製作された杉田成道監督の仲代主演ドラマ『果し合い』(共演に原田美枝子)では小林が脚本を担当している。小林が時代劇の脚本を書いたのは、『果し合い』が初めてだった。
仲代達矢が小林政広に寄せる信頼のほどが、伝わってくるようである。しかも、この『海辺のリア』にエグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされているのは杉田成道だ。

「ひとりの人に贈る映画を初めて作った」と小林が言えば、仲代は「シナリオを読んだ瞬間、ああ遭遇してしまった。今だからこそできる作品に…」と返す。
主人公は、半世紀以上のキャリアを持った大御所俳優にして、俳優養成所を主宰する大スターと来れば、演ずる本人のみならず誰もが本作を「仲代達矢のドキュメンタリー」「仲代達矢の人生そのもの」と思わずにはいられないだろう。
しかも、仲代は2014年に無名塾公演『バリモア』でジョン・バリモアの晩年を演じたばかりである。

当初「オン・ザ・ロード・アゲイン」と題された脚本は、数十回の改訂を経て「海辺のリア」に改題された。10代の小林が水道橋のジャズ喫茶スイングでバイトしていた時の同僚で当時早稲田大学在学中の村上春樹「海辺のカフカ」を想起させるある意味大胆なタイトルである。
独自の視点でオリジナリティにあふれた硬派な物語を一貫して紡いできた小林政広だが、その姿勢は本作でも変わらない。ある種の頑固ささえ感じさせる作家性は、我が道を生きた主人公・桑畑兆吉の生き様に重なるようではないか。

『日本の悲劇』で、当時取り沙汰されていた超高齢化社会と年金不正受給問題を苛烈な家族の物語としてシリアスに描いた小林は、『海辺のリア』では認知症を疑われるかつて役者としての名声をほしいままにした男の人生最後の魂の彷徨と燃焼を描いてみせた。
同じ老いを扱った作品ではあるが、前者の徹底したペシミスティックさとは異なり、後者には滑稽と冷酷と強かさが混然一体となった何とも不思議な生命力の最後の躍動がほの見える。それこそが、『海辺のリア』最大の魅力と言っていいだろう。
明るく前向きな作品とは言い難いものの、強烈なインパクトを持って迫るラストシーンには「それでも、命ある限り生きていくしかないのだ」といったポジティヴな一条の光の如き救いがある。
『リア王』には悲惨な結末しかないが、『海辺のリア』にはかすかな希望が残されているのだ。そこが、いい。

ただ、個人的には登場人物の造形がいささかカリカチュア的に過ぎることが気になる。
それは、伸子をコーディーリアに重ねることからも明らかなように、兆吉を取り巻く人々を『リア王』の物語的世界観に当てはめているからなのだが、行男にしても由紀子にしても運転手にしても、いささか人物像が前近代的なくらいに古典的なヒールに映ってしまうのである。
あえて現代に『リア王』を持ち込むのであるから、登場人物たちにもアップ・デートされたヒール像を提示することはできなかっただろうか。そこが、不満である。
それから、兆吉が伸子の身なりを揶揄する時に使う「女子」という言葉。認知症を患っている稀代の元名優が、若い女性を“今風”に女子と言うことが引っかかった。

さて、小林本人も言っているように、本作は徹頭徹尾仲代達矢のための映画である。しかし、認知症になり家族からも裏切られ見捨てられ彷徨するかつての名優…という物語を撮るというのは、よほどの信頼関係なくしては不可能なことである。
その意味でも、撮る側にも演じる側にも相当な覚悟を強いた作品に違いない。

上映時間105分を引っ張るのは、言うまでもなく仲代達矢の尋常ならざる熱量ほとばしるエネルギッシュな演技である。
ただ、本作のエンジンを司るのは彼のチャーミングにして飄々としたユーモラスで軽妙な芝居である。「あんた、どちらさん?」ととぼけるように問う仲代の表情は、まるでいたずらっ子のような純朴さだ。この軽妙さには、『死の舞踏』や『果し合い』の演技との連続性を感じる。

また、大胆な遊び心は小林の手になる脚本にも言えることだろう。劇中に出てくる「あの映画と違って、俺のは本名だ。桑畑兆吉(くわばたけちょうきつ)は」という兆吉と伸子のやり取り。言うまでもなく、黒澤明監督『用心棒』で三船敏郎が演じた桑畑三十郎のことであり、仲代は三船のライバル新田の卯之助を演じていた。
本作のキーとなっているのは「リア王」だが、仲代達矢が主演した黒澤明監督『乱』もまた「リア王」をモチーフにした作品だった。
しかも、『海辺のリア』で衣裳デザインを担当した黒澤和子は、黒澤明の長女である。

脇を固めるのも錚々たるメンバーである。阿部寛、原田美枝子、小林薫の一癖も二癖もある芝居も見どころだ。

そして、近年評価著しい黒木華。正直に言うと、僕は中盤まで彼女の演技に乗ることができなかった。伸子という女性の内面には、怒り、憎悪、喪失、消耗、疲弊、絶望といった負の感情が複雑に渦巻いているはずだが、黒木の演技はいささか攻撃的で前のめりに過ぎるのではないか…と感じたからだ。相対する仲代の変幻自在な軽やかさに比して、彼女の芝居がやや単調に思えたのだ。
だが、その印象も兆吉を前にして落涙する場面から一変してしまう。
まるでリア王が乗り移ったような仲代の鬼気迫る熱演の後、衝撃的なラストシーンでの黒木華の表情こそ、まさしく本作の白眉だろう。

 



本作は、稀代の名優仲代達矢と鬼才小林政広のコラボレーションにおける一つの到達点である。だからこそ、次を撮らなければならないともいえる。
だって、これで終わりだったらまるで映画のようじゃないか?

 

gojunko第4.5回目公演「はたち、わたしたち、みちみちて」「ウミ、あした」

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2017年6月24日ソワレ、早稲田のTheater Optionでgojunko第4.5回目公演「はたち、わたしたち、みちみちて」「ウミ、あした」を観た。女二人芝居二本立てである。
作・演出:郷淳子/照明:横山紗木里/音響:大矢紗瑛/宣伝美術:山羊/制作:河本三咲/企画・製作:gojunko/協力:有澤京花

「はたち、わたしたち、みちみちて」
小井坂とり…とみやまあゆみ 佐伯いずみ…穴泥美

地元でバイト生活をしている小井坂とりは、久しぶりに高校時代の友人・佐伯いずみと待ち合わせしている。地元を離れて就職したいずみは、色々あって就職した会社を辞め、今はニート生活を送っている。彼女が地元に戻って来たのは、成人式に出席するためだ。
もう一人の待ち合わせ相手、ミナトは約束の時間を過ぎてもまだ現れない。自然と二人の話題はミナトのことに…。ミナトからいずみに連絡が入る。彼女は、約束をドタキャンしてきた。とりは、自分に連絡がないことを不満に思う。
とりは、しきりに地元に帰ってくるよういずみに勧める。これからもこうして頻繁に二人で会おうと。その言葉に、いずみは逡巡する。

地元に戻ってきたいずみは、毎週のようにとりと会うようになる。何事もなく平穏な日々の中、二人は一見仲よくやっているように見えるが、果たして二人を結び付けているのはシンプルに友情なのだろうか。
やがて、ミナトの過去の一件やいずみの生活の変化から、二人の関係性はこれまでとは違っていくが…。

「ウミ、あした」
女…えみりーゆうな 女の子…石澤希代子

小さいころから背が低く、名前もアイダアイコだから出席番号も一番。そんな愛子の元へ、自分からの手紙が届く。誰からも愛させるようにとつけられた「愛子」という名。けれど、愛子の人生はまるで名前の通りには行かなかった。
彼女は、自分に届いた手紙をきっかけに、少女時代の自分と共に自分の人生を回想し始める…。


なかなかにシニカルでドライな人物造形の女性二人芝居二本立てである。僕は第4回公演「不完全な己たち」も観ているが、その芝居も強烈に悪意のこもったダークな物語だった。
その前作に比べると、尺がコンパクトで登場人物も二人に絞られた分、構成がシンプルな会話劇に仕上がっている。

「はたち、わたしたち、みちみちて」は、「不完全な己たち」に主演していたとみやまあゆみ穴泥美による会話劇。不在の友人ミナトをある種のキーにして進む物語だが、二人の関係性は消去法によって繋がっている友情というか、互いをどこかで受け入れないままずるずる続く負の依存関係的に見える。
ゆえに、どこで二人の関係が破綻してどういうエンディングを迎えるのかというドロッとしたネガティヴィティの匂いをかぎ取りながら事の推移を見届けるような落ち着かなさだった。
照明の強弱で巧みに時間を行きつ戻りつしながら二人の会話は進行し、いったんはおそらく観客の誰もが予想したような展開を迎える。
本作が秀逸なのは、そこからのツイスト。突き放して終わるかに見えた物語に、ややシニカルではあるものの思わずニヤリとしてしまう何とも秀逸なエンディングが用意されているのだ。
それが、本作の良さだろう。

微妙な空気感をはらみつつ、互いの腹の内を探るように会話するある種の屈折を伴う友人同士をとみやまと穴がナチュラルなテンポで好演している。

「ウミ、あした」は、より独特な物語構造とリズムを持った芝居と言っていいだろう。現在の愛子と幼少時代の愛子が、「ボレロ」の旋律に乗って会話をキャッチボールするかのように自身の悲惨な人生を回想する展開。
そこで語られるのは、吹っ切れたような絶望というか、自虐的でパンクな諦念のブルースといった面持ちの人生語りである。
自身の悲惨さを明るく笑い飛ばして、向こう側に突き抜けていくとでもいえばいいか。
最後に歌われるヨハン・パッヘルベル「カノン」に詞をつけた曲は、何とも不思議な余韻を残す。
戸川純は「カノン」に詞をつけて「蛹虫の女」という曲を作り、それを高速パンク化した「パンク蛹虫の女」という名曲をライブのアンコールでいつも歌っているけれど、ある意味この芝居のエンディングで歌われるこの曲にも、共通するペシミズムを感じなくもない。

決して明るく抜けのいい芝居とは言い難いが、明るい絶望とでも評すべき実にユニークで興味深い芝居だった。

破れタイツ『破れタイツのビリビリラップ』

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『破れタイツのビリビリラップ』(2017年8月13日公開)
企画:直井卓俊/監督・脚本・編集:破れタイツ/音楽:マチーデフ/撮影:福田陽平/配給:SPOTTED PRODUCTIONS
MOOSIC LAB 2017短編部門出品作
2017/日本/15分

着くのが遅れて時間に間に合わなかったとキレて車を降りていく客(鈴木太一)にため息をつき、その理不尽さをラップするタクシー運転手(マチーデフ)。浮かない顔で彼が車を流していると、かしましい関西弁をしゃべる若い女性二人組(破れタイツ:吐山ゆん、西本マキ)が乗り込んできて、前を走る車を追ってくれと叫んだ。
ガールズ映画監督ユニットとして関西で活動していた破れタイツの二人は、活動の拠点を東京に移した。上京一発目の仕事はアイドル(前田聖来)のPVを撮ることだったが、肝心のアイドルがスタジオをバックレて男と車で逃げ出してしまう。当然、プロデューサー(西村喜廣)はカンカンだし、この仕事のギャラが入らなければ来月の家賃もままならない二人は、アイドルをとっ捕まえて撮影を続行する選択肢以外なかった。

だが、切羽詰まっている割には追跡する自分たちの状況を楽しんでいるようにしか見えないお気楽な二人に、運転手は戸惑いを隠せない。おまけに、この二人は自分たちのしゃべりたいことをただまくしたてるだけで、人の話など全く聞いていない。
渋滞に巻き込まれて一度はアイドルの乗った車を見失ってしまうが、運よく公園に立ち寄っているアイドルを発見。破れタイツの二人は、いったんタクシーを降りた。そこに、PVのスタッフたち(中村祐太郎、松本卓也、今泉力哉)もドヤドヤと集まってくる。
男(小林勇貴)といちゃついているアイドルを見た破れタイツのマキは、一瞬固まってしまう。アイドルがじゃれついていたのは、自分の彼氏だったからだ。おまけに、アイドルからは「私の方がいいってぇ~」とのたまわれる始末。
アイドルは、またしても男の車で逃げてしまう。

タクシーに戻ってくる二人。すっかりしょげ返っているマキを励まそうとゆんは男の悪口を言うが、マキは彼氏の悪口言うなと逆ギレ。しばし言い合いした後、次は殴り合いに。その様子にうんざりする運転手。
ところが、二人に気を取られて前方不注意になった運転手は何かを轢いてしまう。慌てて車を停めると、目の前に血塗れになって起き上がる男の姿があった。プロデューサーだった。
仕事もキャンセルされ意気消沈した二人は、故郷に帰ってくれと言った。その態度に業を煮やした運転手は、お前らそんなんでいいのかとラップにのって檄を飛ばした。
その言葉に発奮した二人は、自分たちのテーマ曲「破れタイツのビリビリラップ」を歌い始める。

できた自分たちのPVを例のプロデューサーに持ち込むが、ウチは若い子専門だからとにべもなく断られる。「脱ぐならいいけど」というお約束の言葉とともに…。


如何にも、破れタイツらしい短編である。マチーデフ以外のキャストがすべて監督(前田聖来にも監督作がある)というのも、何とも人を食っている。
基本的には、ベタな展開と破れタイツのマシンガン・トーク、そしてマチーデフのラップで構成され、音楽で言えばサビの部分で自分たちのPVをぶちかますというさらに人を食った展開を見せる。その何とも身も蓋のない軽妙なバカバカしさとかとかしましさに、微苦笑してしまう訳だ。
本作中にも出てくる本音ともネタともつかない「映画よう知らんし」というフレーズ。確かに、破れタイツの作品群にはシネフィル的なマニア臭が皆無で、その如何にもミーハー女子的な軽妙さこそが、ガールズ映画監督ユニットを標榜する彼女たちの個性でもあり、僕はその部分に惹かれる。
オタク的な頑なさがなくて、妙に風通しがいいのだ。

で、本作の問題点はというと、これはもうリズム感に尽きるだろう。冒頭でマチーデフがぼやくようにラップするリズムがそのままこの映画のビートを刻むため、そのリズムからずれると映画的なグルーヴが阻害されてしまう。
破れタイツの二人がタクシーに乗り込み、お得意の関西弁マシンガン・トークを始める訳だが、その会話のリズムがオフビート気味のため、映画の流れがやや停滞するのだ。
そして、その停滞は「破れタイツのビリビリラップ」PVにも言える。音源のみで聴く分にはそれなりのリズム感なのだが、そこに映像が加わると何故か微妙にオフビートに感じられる。それは、破れタイツ作品のそもそもの持ち味がオフビートな語り口だということに依拠しているからだろう。
15分の短編作品だからこそ、この辺りのリズム感をビシッと決めてほしいのだ。

血塗れ作品を得意とする西村映造の西村喜廣がタクシーに轢かれて血塗れというシャレには、笑ってしまった。

 


本作は、東京に活動の拠点を移した破れタイツの挨拶状的な短編。
これからの彼女たちが、よりオリジナルな映像リズムを刻んでくれることを期待したいと思う。

 

吉川鮎太『Groovy』

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『Groovy』(2017年8月13日公開)
企画:直井卓俊/監督・脚本・編集:吉川鮎太/劇中曲:ベントラーカオル「MICHA」/撮影:米倉伸、清田洋介/照明:杉村航/録音:村原孝麿/美術:武藤夏美/助監督:金山豊大/制作:中谷天斗/配給:SPOTTED PRODUCTIONS
MOOSIC LAB 2017長編部門公式出品作品
2017/日本/カラー/ステレオ/70分

 



こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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1日に約100人もの人が自殺している自殺大国、日本。
音楽研究家の神崎(今泉力哉)は、追い詰められて自殺の際にいる人を思いとどまらせるための力となる音楽を作り出すべく、日々取り憑かれたように研究を重ねている。神崎は、偶然出会った吉川鮎太(同)に、自分のことを撮るように依頼した。
神崎が主として行っているのは、幻聴を訴える人と会って彼らの頭の中で鳴っている音楽を口ずさんでもらい、その曲を録音するという一種のフィールドワークだった。今も、神崎は掲示板でコンタクトを取った相手(新谷惇泰)と喫茶店で会い、インタビューを行っていた。

吉川は、招かれて神崎の家を訪れた。神崎の家には、研究用の録音機材やパソコン、モニターなどの機械が置かれていた。神崎は、女性(しじみ)と暮らしていた。彼女は、酷い男と付き合い四度堕胎した末に捨てられた過去を持っている。その時のショックで、言葉を発することができなくなっていた。
神崎と彼女は、もっぱら音でコミュニケーションを図っていると言い、ことあるごとに神崎は何かを叩き、彼女はリコーダーを吹いた。
神崎は勝手に買いかぶっているが、吉川は映像作家でもなんでもなくただの動画投稿好きに過ぎず、おまけに彼はある種求道的な神崎の行動に対して冷笑的だった。彼は、自分の番組「鮎太君チャンネル」でも神崎のことをネタ扱いしている。

神崎は、深刻な幻聴と自殺願望に悩まされる女性(吐山ゆん:破れタイツ)のマンションを訪ねる。彼女は顔色が悪く、塞ぎ込んだ表情で自分ことをぽつりぽつりと語った。誰が見ても、すでに彼女はかなり危険な状態のようだった。
神崎が幻聴で聞こえる音楽について口ずさんでほしいと頼んでも、彼女は頑なに拒んだ。結局、音楽は聞けずじまいでこの日のインタビューは成果なしだった。

吉川は、また神崎に呼び出された。全裸で実験台に横たわる女(しじみ)の体に、神崎は砂鉄を混ぜたローションを塗りまくった。神崎の手が這うたび、彼女は喘ぎ声をあげる。その声を電気的に音楽に変換し、彼女のエクスタシーで作曲された音楽こそが自殺を食い止める音楽になると神崎は確信していた。
ところが、その曲では思った効果が上がらず、神崎は彼女に寄せる想いが弱いからだと深く落ち込み自分を責めた。

神崎は、研究の突破口となる奇策を思いつく。神崎は道でギターをかき鳴らしている男(谷口恵太)に近づくと、女とセックスしてほしいと頼み、懐からギャラの札束を見せた。男は、内心恋人(石倉直実)の顔を思い浮かべつつ、結局は引き受けてしまう。
神崎、吉川と共に神崎の家を訪れた男。寝室のベッドの上には、全裸姿で縛られた彼女が事情も分からぬまま横たわっている。隣の部屋で神崎がモニターする中、男は激しく抵抗する彼女を犯した。
事が終わり男が帰ると、寝室に入った神崎は彼女の拘束を解いた。彼女は、激しく神崎を叩いた。

試行錯誤の末、再び神崎は彼女とのローションセッションを敢行。ついに、神崎の思い描いた自殺防止音楽への手応えを得ることとなった。このセッションを終えた彼女も、今回は上機嫌で穏やかな笑みを浮かべている。神崎は、こんな表情の彼女を本当に久しぶりに見て、得も言われぬ達成感と心地よい疲労感に浸った。
神崎が自殺防止音楽を作ることに取り憑かれたのは、ずっと自殺衝動の中ギリギリの状態で何とか生をつないでいる彼女を救い出したいという恋慕の想いからだった。そう、神崎はこの女を深く愛し片想いしていたのだ。

神崎は、完成した音楽を真っ先に聴かせたい相手がいた。それは、とうとう自分の幻聴音楽を聞かせてくれなかったあの女性だった。神崎は、彼女に音源を送った。
ところが、一週間が過ぎても彼女からは何の音沙汰もない。不安を感じた神崎は、吉川を伴って彼女のマンションへと急いだ。
マンションに到着して、先に部屋に入った神崎の悲鳴が聞こえた。慌てて部屋に入った吉川の目に、こと切れて大の字になった女とその横で頭を抱えている神崎の姿が飛び込んだ。
「僕の実験は、失敗だった!」と絶叫するパニック状態の神崎を何とかなだめようとする吉川を、神崎は逆切れして叩き出した。

これで終わったと思い込んでいた吉川の元に、また神崎から連絡が入る。半信半疑で久しぶりに神崎の元を訪れる吉川。
すると、神崎は音楽を流しながら彼女に金属バッドで力いっぱい自分を殴れと強要していた。すでに、実験室には血だまりができている。吉川が止めようとしても、黙ってこの状況を撮れと神崎は言った。
泣きながら神崎の体に金属バットを振り下ろす彼女。その彼女に向って、神崎は残酷な言葉の数々を投げつけていく。壮絶な地獄絵図が続いたが、彼女が振り下ろした金属バットが神崎の後頭部を強かに痛打し、すべてが終わった。

時が経過した。
ホームに立って電車を待っている彼女。神崎は亡くなったが、彼はこの世に成果を残した。電車が入線すると、神崎が作曲したあの旋律がホームに流れた。
彼の音楽に自殺防止効果が認められ、電鉄会社が採用していたのだった。

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かなり大きな問題を抱えた作品だと思う。僕は、残念ながらまったく駄目だった。
映画と音楽の化学反応を標榜するMOOSIC LABにエントリーした「Groovy」というタイトルの作品にもかかわらず、映画にリズム感が乏しく一向にgrooveしないのである。

大きく映し出される空、背中を丸めた今泉力哉、自殺件数についてのモノローグ、「Groovy」のタイトル。不穏なフェイク・ドキュメンタリー的語り口で静かに始まるスケールを感じさせる冒頭に引き込まれるのだが、映画は進んでいくうちにどんどん話は如何にも低予算のカルトでミニマムな物語へと矮小化してしまう。

自殺防止音楽の研究に没頭する神崎の動機が一人の女を振り向かせるためというのはいいとして、登場人物たちが話す会話の脚本的な言葉選びに首を傾げる部分がいくつもあったし、そもそも作品として確たる芯のようなものがなく、見せ方の焦点がぼやけている印象だった。
鮎太君チャンネルという動画シーンは見ているだけでストレスだったし、谷口恵太と石倉直実のシーンや谷口にしじみを無理やり犯させるエピソードも、もう少し何とかならなかったのかと思う。

 


しじみにリコーダーを吹かせるチープな演出もどうかと思うし、ある意味映画のクライマックスとも言えるしじみが今泉を金属バットで撲殺するシーンも、いくら今泉が大声で叫んだところで殴り方がふにゃふにゃだから迫力に欠ける。

電波系的に飛んでしまっている吐山ゆんの病んだ演技は悪くなかったが、彼女が息を止めすぎて生命の危険を感じたというマンションでの自殺後のシーンも、もっと違った見せ方があったのでは。水揚げされたマグロのように、仰向けで大の字になった姿を足の方から映されてもなぁ…と思う。
すべてが何とも中途半端だから、「神崎の残した音楽は現在自殺防止に一役買っている」というエンディングがどこか空々しく響くのである。


本作は、もう少しドラマ構築と演出が違っていれば随分と印象も違ったはずである。
個人的には、しじみの脱ぎっぷり以外あまり見るべきところのない作品だった。

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