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山口和彦『ビッグ・マグナム黒岩先生』

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1985年4月13日公開、山口和彦監督『ビッグ・マグナム黒岩先生』




企画は天尾完次、プロデューサーは佐藤和之・木村政雄、原作は新田たつお(「別冊漫画アクション」)、脚本は掛札昌裕・笠井和弘、撮影は飯村雅彦、美術は今村力、音楽は矢野立美、録音は柿沼紀彦、照明は山口利雄、編集は飯塚勝、助監督は新井清、スチールは加藤輝男。製作・配給は東映。並映は小平裕監督『パンツの穴 花柄畑でインプット』。
宣伝コピーは「じゃかましい!ワシが体で教えたる。」


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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無法状態で機能不全に陥っている仁義泣学園では、不良生徒達による校内暴力や強姦、器物損壊で、もはや教師によるコントロールは不可能な状態だった。元を正せば偏差値を上げるためにすべての運動部活を禁止したことが荒廃の原因だったが、校長の堤省吾(長門勇)は3月末に迫った定年退職を指折り数えるだけの事なかれ主義に徹していた。
そんな学園に、二人の教師が赴任してきた。一人は、FBIからも一目置かれているとうそぶくアメリカ帰りの樺沢征一(西川のりお)で、彼は拳銃をちらつかせて不良達を威嚇してイニシアティヴを取った。
もう一人は、黒縁メガネの見るからに頼りない華奢な男・黒岩鉄夫(横山やすし)で、黒岩は端から生徒達になめられまくっていた。




樺沢の強硬な態度に校長はもちろん、教頭の二本松徳太郎(南利明)も同僚教師の藤倉勇(高田純次)、中山春彦(ベンガル)、岸伸夫(三谷昇)も最初こそ難色を示したが、彼のおかげで校内暴力が沈静化の気配を見せ始めると掌を返した。
女教師の桜井文子(朝比奈順子)や島田幸子(志麻いづみ)は、樺島の科を作って露骨にすり寄った。
だが、用務員の多湖清(たこ八郎)の不手際で樺沢の拳銃がモデルガンだとばれてしまい、不良達は逆襲に転じる。柿崎進一(木村一八)、川崎アケミ(武田久美子)、渡辺桃子(井上麻衣)は、他の仲間とともに樺島を吊し上げした挙げ句、女教師達をレイプした。

再び荒廃へ逆戻りかに見えた学園だったが、黒岩が立ち上がる。彼は、懐から本物の44マグナムを取り出し、不良達を蹴散らした。黒岩は、文部省直属特別第一指導教育課に籍を置く男で、日本で唯一超法規的に拳銃所持を許可された特命教師だった。黒岩は、44マグナムを携えて日本全国の荒れた高校を建て直しているのだ。
今度は黒岩が救世主として祭り上げられたが、生徒との対話を主張する若手教師の榊原波子(白都真理)と銀野八郎(渡辺裕之)は黒岩のやり方に否定的だった。




そんなある日、学園を長期欠席していた問題児の霧原遼一郎(山下規介)が登校。再び不穏な空気が漂い始めた。
黒岩は、アケミの色仕掛けに騙されて44マグナムを奪われてしまう。話し合いをするために霧原達のたまり場ダーティーヒーローというカフェバーに単身乗り込むが、椅子に拘束されて電気ショックによる拷問を受ける。

学園は霧原の支配下に置かれ、教師達は全員校舎の壁に宙吊りにされてしまう。不良達は黒岩が納められた棺をバイクで引いてくると、校庭に埋葬した。
万事休す…と誰もが思ったそのとき、土の中から黒岩が復活。彼は、二丁の拳銃を引き抜くと、バイクを暴走させて荒れ狂う不良達を次々仕留めていった。





これには、さすがの霧原とアケミも白旗を揚げるしかなかった。「今回は、負けた」と言い残して、彼らは去って行った。

黒岩は、波子と八郎に学園の事を託すと、新たなる彼の戦場に向かうのだった。

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一言でいえば、東映の停滞と漫才ブームの終焉を体現するような寒々しい作品である。
1978年から量産体制二本立て興行をやめ大作一本興行に切り替えた東映は、1980年代には自社製作の作品が減少。代わって興行成績を支えたのは、映画プロデューサーとして提携していた角川春樹の角川映画諸作であった。
プログラム・ピクチャーに関しては子会社の東映セントラルフィルムが製作していたが、その東映セントラルフィルムも1988年に解散している。

本作には主演の横山やすしや西川のりお以外にも、紳助・竜介がワンシーンで出演しているが、紳竜もこの年にコンビを解消している。
漫才ブームが起きたのは1980年のことで、1982年には早くも下火になった。ザ・ドリフターズの国民的モンスター番組『8時だヨ!全員集合』(TBS系列)が放送終了になったのが、1985年9月28日のことである。

1982年から「別冊漫画アクション」(双葉社)に連載された新田たつおの「ビッグ・マグナム黒岩先生」を映画化した本作は、ある意味“祭りの後”的な倦怠感と笑えないギャグ、中途半端なバイオレンスが空回りしており、不良達に壊された仁義泣学園の校舎同様すきま風吹きすさぶ寒々しさが全編を覆っている。
おまけに、せっかくキャスティングされた朝比奈順子志麻いづみ井上麻衣といったにっかつロマンポルノの人気女優達も、何とも煮え切らないお色気シーンにとどまっている。
プログラム・ピクチャー然とした低予算作品において、思い切りと勢いが失われれば後に残るものなどないのである。
バンドを従えてダーティーヒーローでロックする陣内孝則も、何気にもの悲しい。横山やすしの息子、木村一八が不良の一人として出演しているが、当時は15歳の若さで声変わりもまだなのかキンキン声だから、まったくもって締まらないことおびただしい。
東京乾電池の面々も、どうかと思うが。
そんな中、一切ブレないのがたこ八郎とチャンバラトリオである。


なお、余談ではあるがキャスティング・クレジットに工藤静香と八神康子の名前があったが、どこに出ていたのか分からなかった。

本作は、「怒るでぇ!しかし」と言いたくなるような空虚なだけの東映ダメ作品。
ひっそりと記憶の片隅にしまい込んでおくのが相応しい、昭和の徒花的プログラム・ピクチャーの一本だろう。

橋口亮輔『恋人たち』

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2015年11月14日公開、橋口亮輔監督『恋人たち』



製作は井田寛・上野廣幸、企画・プロデューサーは深田誠剛、プロデューサーは小野仁史・平田陽亮・相川智、ラインプロデュー-サーは橋立聖史、原作・脚本・編集は橋口亮輔、撮影は上野彰吾、照明は赤津淳一、録音は小川武、美術は安宅紀史、装飾は山本直輝、衣裳は小里幸子、ヘアメイクは田辺知佳、助監督は野尻克己、制作担当は伊達真人、音楽は明星/Akeboshi、主題歌は「Usual Life_Special Ver.」明星/Akeboshi、協賛はザズウ、女性は文化庁文化芸術振興費助成金、制作プロダクションはランプ、宣伝はシャントラバ/ビターズ・エンド、配給は松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ、製作は松竹ブロードキャスティング。
宣伝コピーは「それでも人は、生きていく」
日本/2015/ビスタ/140分/5.1ch


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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機械より正確な耳を持ち、橋梁点検の仕事をしている篠原アツシ(篠原篤)は、三年前に愛する妻を通り魔事件で喪った。健康保険料さえまともに払えないアツシは、犯人に損害賠償請求を起こそうと何とか金を工面して弁護士の元を回っているが、誠意ある対応をしてもらえず、やり場のない苛立ちと深い絶望感を募らせている。



高橋瞳子(成嶋瞳子)は、派遣社員時代に知り合った冴えない夫とそりの合わない姑・敬子(木野花)と三人暮らしをしている。近所の弁当屋でパートをしている彼女は、皇室の熱烈なファンであり、趣味は少女漫画を書くことだ。

主に企業相手の弁護士事務所に所属する四ノ宮(池田良)は、エリート意識の高い完璧主義者だ。彼はゲイであり、年下の恋人と高級マンションで同棲しているが、パートナーに対しても無意識に尊大な態度を取っている。それが原因で、彼は恋人に出て行かれてしまう。
新婚の夫を結婚詐欺で訴えたいと息巻くクライアントの女子アナ(内田滋)に対しても、彼は内心見下してあざ笑っている。
そんなある日、彼は歩道橋で何者かに背中を押され、階段から落ちて骨折入院する羽目になる。

テレビのニュースで、犯人が措置入院になったことを知ったアツシは、自らの無力にいよいよ絶望して、会社を無断欠勤して自宅に引きこもる。一人、犯人に対する激しい殺意をもてあまし憔悴するアツシ。彼のことを心配した社長の黒田大輔(同)は、アツシのアパートを訪ねて、何とか彼を元気づけようとする。

瞳子は、ひょんなことから弁当屋に出入りしている肉屋の藤田弘(光石研)と知り合い、夫と姑が不在の時に自宅で関係を持つ。枯渇しきった退屈な彼女の日常に、降って湧いたようなささやかな刺激。
彼女は、弘との関係を深めていく。




入院している四ノ宮を大学時代の親友で不動産業者の聡(山中聡)が妻と息子と一緒に見舞いに来てくれる。
聡の妻は、四ノ宮が夫に注ぐ熱っぽい視線を怪訝そうな目でうかがっている。聡は四ノ宮がゲイであることを大学時代にカミング・アウトされていたが、その想いが自分に向けられていたことを知らない。

アツシのことを心配する義姉が差し入れ持参で彼のアパートを訪ね、締め切られた仏間に線香を上げる。妹を失ったことで彼女も深い傷を負っていたし、その他にも義姉は義姉なりのつらい経験を背負って生きている。
久しぶりに会った二人は継ぐべき言葉が見つからず、互いを探るようにポツポツと会話するのだった。

瞳子は、弘に連れられてとある養鶏場にやってくる。彼は、ここを買い取って起業しようと思っているから、出資してくれないかと言った。
すでに心が走り出している瞳子は、貯金を下ろし荷物をまとめて駆け落ち覚悟で弘の家を訪れる。ところが、弘は自宅で覚醒剤を打ち恍惚の表情を浮かべていた。愕然とする瞳子。
そこに、弘の妹だと紹介されていた吉田晴美(安藤玉恵)が入ってくる。実は、晴美は弘の女だったが、愛想を尽かし出て行くところだった。
晴美は、起業の話は嘘っぱちでこの男はいつでもこうなのだと吐き捨てて出て行った。
瞳子は、朦朧としている弘に向かって、独り言のように夫とのなれそめや自分の夢について話し続けるのだった。

四ノ宮は、独立するために聡に事務所物件を紹介してもらう。ところが、聡の態度はどこかよそよそしい。聡は、四ノ宮が息子にいたずらしようとしていたと妻から聞かされたと言った。耳を疑う四ノ宮だったが、聡はつれなく去って行った。
収まりの付かない四ノ宮は誤解を解くため聡に電話を入れるが、一方的に電話を切られてしまう。傷ついた四ノ宮は、電話に向かって切々と自分の思いを訴え続けるのだった。




もはや自暴自棄になったアツシは、ネット掲示板で見た売人に連絡してドラッグを購入するが、それは偽物だった。風呂場で手首を切って自殺しようとするが、それもできなかった。
妻の位牌を前にして、彼は激しく慟哭し続ける。
そして、ようやく職場復帰したアツシを黒田は温かく迎えた。死ねないのであれば、生きていくしかないのだ。
アツシは、同僚たちと一緒に乗船すると、橋梁検査に出た。彼の頭上には、青い空が広がっている。

瞳子は、再びつまらない日常生活へと戻っていった。求めてくる夫に「ゴムを切らしてるから」と彼女は言うが、「できてもいいじゃないか。夫婦なんだから」と言われた。
その言葉に、彼女は自分の中で何かが変わったような気持ちになった。

例の女子アナを前にする四ノ宮。彼女は、夫とよりを戻すつもりだと一方的にまくし立てている。上の空でその話を聞き流しながら、四ノ宮はかつて聡からもらった思い出の万年筆に手を触れ、ふっと落涙する。
その涙を自分の話に心打たれてのことと自分勝手に勘違いして、彼女は感動する。

今日も、青空の下でアツシたちは橋梁検査にいそしんでいる。




アツシのアパートでは、ずっと締め切られていたカーテンが開け放たれ、妻の位牌の横には彼女の愛したチューリップの花が飾られていた。

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『ぐるりのこと。』から7年ぶりの橋口監督作品である。脚本執筆に8ヶ月を費やし、ワークショップに参加した三人をオーディションで主演に選び、キャストの約8割をアマチュアの役者が占めている。
また、主要な登場人物たちはすべてアテ書きだそうである。

第89回キネマ旬報ベスト・テンの日本映画ベスト・テン第1位、監督賞、脚本賞、新人男優賞(篠原篤)、第58回ブルーリボン賞で監督賞を獲得した本作は、上映当初から高く評価されロングランになった話題作である。

力作であることは間違いないし、色んな意味で閉塞した今の状況を容赦なくえぐるような作品でもある。

ただ、なぁ…と僕は思う。

様々な問題や傷を抱えて苦しみ悶える人がいて、彼らを容赦なく突き放す苛烈な現実があって、「それでも人は、生きていく」という余韻とともに終幕する物語にもかかわらず、そのドラマ構築に類型的なヒューマニズムを見てしまうし、あまりにも日本映画的なミニマルさにある種の息苦しさを感じてしまった。
キャストとともに、丁寧に誠実に織り上げられた映画であることは伝わってくるのだが、本作に登場する人々の造形が、どこまでがシリアスで、どこまでがシニカルで、どこまでがコミカルなのか?
その辺りにも、僕はやや首をかしげてしまう。

アツシはともかく、瞳子にしても四ノ宮にしても、あるいは弘や美女水を売る晴美、聡とのその妻、社会保険事務所員の溝口、アツシの後輩といった人々の言動やキャラクターにしても、あまりに定型的なステロタイプさを見てしまうのだ。
それ故に、映画で語られるストーリーとそれを見ている自分との間に寄り添うことのできない厳然とした壁のようなものが立ちはだかり、入り込むことができなかった。
見終わったときに、「それでも人は、生きていく」という気持ちに浸りきれない自分がいるのだ。

そんな中、アツシを乗せた橋梁検査船がゆっくり川を流れる映像と抜けるような広い青空の映像には、やはり抗しがたい魅力があった。

本作は、力作であることには異論のない作品。
ただ、今日本映画が語るべき物語は、これでいいのか…と思ってしまう踏み絵的な映画でもある。

gojunko第4回目公演「不完全な己たち」

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2016年1月22日ソワレ、池袋のスタジオ空洞でgojunko第4回目公演「不完全な己たち」を観た。




作・演出は郷淳子、照明は横山紗木里、宣伝美術はろこた、当日運営は田中遥佳、制作は河本三咲、企画・製作はgojunko。協力は、アイリンク(株)、青年団、(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、(有)レトル、サンプル、bozzo、ホワイトホール(株)、佐々木優子、南舘祥恵。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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自宅の片隅、瀬戸みちる(とみやまあゆみ)は女の子(みぞぐちあすみ:劇団ポニーズ)に対して、独り言をつぶやくように一方的に話している。
母親のことが大好きだったみちるは、縁日の金魚釣りで手に入れた奇形の金魚を母親が可愛がることに嫉妬したり、生まれてきた弟に嫉妬したりと、いつでも自分を一番愛してほしいという気持ちを抱えて幼少期を過ごした。

ごく平凡な結婚をして、ありふれた生活を送っていたみちるは、生まれたばかりの娘・まなみを喪うが、優しい夫とともに何とかまた平穏な日々を取り戻している。
幼なじみでOLの槇原祐子(石井舞)は、頻繁にみちるの家にやって来ては、職場の愚痴やままならぬ恋愛事情をまくし立てる。強気な口調とは裏腹に、祐子は結婚できないまま年を重ねている自分に焦燥感を抱いている。
元々自分の容姿にコンプレックスを持っていた祐子は、今ではすっかりプチ整形マニアと化しており、以前の彼女とは別人のようなルックスに変貌を遂げている。おまけに、彼女はしきりにみちるにも整形を勧めてくる。ちなみに、なぜかみちるの鼻はまるで豚のようなユニークな造形をしていた。
みちるは、そんな祐子の言葉をいつでもやんわりとかわしていた。

もう一人、みちるの家を頻繁に訪れるお客がいた。母(小瀧万梨子)の妹・阪木めぐみ(柴山美保)だ。めぐみは、美しかったみちるの母と違い、冴えない容貌のぱっとしない女で男とつきあうこともなくいまだ独身だった。
めぐみは最近物忘れが激しくなったのか、「まなみちゃんに」と言って子供服とかを持ってくる。みちるは、いささか戸惑いつつもめぐみからの贈り物を受け取っていた。

しかし、自分はありふれた幸せの中にいると思い込んでいたみちるの日常が歪み始め、彼女は思いもしなかった現実に直面させられる。

今は社会人をしている春田雄介(前原瑞樹:青年団)が、久しぶりにみちるの家に顔を出す。しばらくは、互いの近況や過去の思い出話を和やかにしていたが、雄介が結婚したことを隠し、みちるを結婚式にも呼ばなかったことが明らかになってから、話の雲行きがおかしくなる。
雄介は、姉の容貌を心の底から嫌悪し、彼女と同じ遺伝子が自分の中にも宿っていることに恐怖し続けていたのだ。
もし、自分や生まれてくる子供もいつか姉と同じようなことになったら…そのことで彼はずっと怯えて生きていた。
雄介は、姉弟の縁を切ると言い捨てて、みちるの家から出て行った。

またしても、めぐみが訪ねてくる。彼女は、相変わらず野暮ったい安物の子供服を持ってくる。
「おばさん、まなみは一年前に亡くなってるの」と苛ついた表情でみちるが言うと、めぐみは無表情の中に悪意を宿した顔でこともなげに言った。
「知ってるわよ」。

いつまでも仕事から帰らない夫の譲。すると、突然猫耳をつけた派手な女・一条はるか(小瀧万梨子:二役)と一緒に譲(伊藤毅:青年団)が帰宅すると、みちるに向かって別れてくれと切り出した。
呆然とするみちると譲が噛み合わない押し問答を続けているうちに、うんざりしたはるかは自分が離婚の口実にするために雇われた契約恋人だと言うことをバラしてしまう。
開き直った譲は、みちるの母親から5千万円を渡されて娘と結婚してくれと頼まれたことを明かす。
自分はもう随分と頑張ったし、金も使い切ったし、もういいだろうと譲は自己弁護の言葉を並べた。
娘の容貌が変わった後、その将来を案じた母がすべてを仕組んだのだった…。

皆が集まり楽しげに歌う姿を、一人遠くから見ているみちる。彼女の顔を指さして、女の子は言った。
「それ、まだ要る?」

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「“母と娘”ものを描きたいと思いました。いかにも女が選びそうな、ありきたりなテーマ。」と、本作のチラシに郷淳子は書いている。
そして、本作はみちると彼女の美しい母親という“母と娘”の、結果的に捻れて歪んだ愛情の形が描かれている。
そしてまた、ずっと舞台に存在する女の子は、幼くして亡くなったみちるの娘まなみだろう。
それぞれにキャラクターの立った役者陣の演技は魅力的なものだが、どうにも僕はこの舞台を見ていることに苦痛を感じてしまった。

ややメルヘンチックとも思える幻想的な開巻から、豚の鼻という突飛なメイクをして淡々と平凡な主婦みちるを演じる主役のとみやまあゆみと、彼女を取り巻く人々の物語。
前述したチラシの中で、郷淳子はこう続けている。「人間って面倒だな、っていつも感じます。それに“血縁”や“女”が加わると余計に。」と。
確かに、叔母や実の弟、幼なじみの女友達といった登場人物がみちるの家にやって来ては、彼女の日常に石つぶてを投げつける。
最後には、みちるにとっての平凡な幸せの礎とも言える夫の譲から理不尽な真実を告げられ、彼女の信じていた幸せがある意味砂上の楼閣、幻想という名の蜃気楼の如きものであったことを思い知らされる。

エキセントリックな人々に振り回され、苛烈な悪意や呪詛の言葉を叩きつけられながらも、淡々と無感情なままに見えるみちる。
その彼女が胸に秘めているある種情念のように激しいエゴを、まるでモノローグのように女の子に語るシーンが、物語の進行に伴って業として露わになっていく展開。
終演したとき、本作に含まれている毒素のようなものに自分がやられてしまった感じで、少しだけ面識のあるとみやまさんに声をかけることなく、僕は劇場を出てしまったのだ。

自分が一番、母から愛されたいと激しく希求するみちるは、母が縁日に持ち帰った奇形の金魚に嫉妬し、次には生まれてきた弟に嫉妬する。母親の愛情を一人占めするために、恐らく彼女はあのような容貌へと自ら無意識に望んで変貌してしまったのではないか。
その甲斐あって彼女は母親から望んだとおりの愛情を注がれることになるのだが、その注がれ方にも相当な屈折がある訳だ。

また、本作の登場人物たちは明確なる美醜のシンメトリーと、(それが幻想や思い込みであっても)幸不幸的ヒエラルキー下に描かれているように思う。
恐らくはある種の演劇的シニシズムなのだと推察するのだが、やはり譲や雄介、めぐみの言動から放出させる悪意や憎悪の言葉には、どうしてもその行き場なさに消耗してしまうのだ。

多分、ラストで女の子が言う台詞は「もう、自分を愛してもらうための精神的な虚飾の仮面などはぎ取るべき」ということだと思うのだが、そこにある種の開放感が伴わないことがしんどいのである。

本作は、緻密に描かれたシニカルな愛憎劇である。
残念ながら、僕はダメだったけれど。

横浜聡子『俳優 亀岡拓次』

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20016年1月30日公開、横浜聡子監督『俳優 亀岡拓次』



エグゼクティブプロデューサーは田中正、製作は由里敬三・原田知明・宮本直人・坂本健・樋泉実・鈴井亜由美、プロデューサーは吉田憲一・遠藤日登思、原作は戌井昭一『俳優・亀岡拓次』(フォイル刊)、脚本は横浜聡子、撮影は鎌苅洋一、美術は布部雅人、音楽は大友良英、録音は加藤大和、照明は秋山恵二郞、編集は普嶋信一、キャスティングは南谷夢、ライン・プロデューサーは竹内一成、助監督は松尾崇、VFXは田中貴志、制作担当は有賀高俊。製作は『俳優 亀岡拓次』製作委員会、配給は日活。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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カメタクこと亀岡拓次(安田顕)は、37歳の冴えない独身。趣味は酒で、職業は俳優。ただ、亀岡が主演を張ることはなく、彼はもっぱら脇役専門だ。
基本的に仕事を選ばず、現場を東奔西走しながら器用に監督の注文に応える彼は、スタッフからの信用も厚い。ロケから戻れば行きつけの「すなっく キャロット」で酒を飲み、お店のママ(杉田かおる)の軽口につきあいながら、また次の現場に向かう。



三ノ輪で流れ弾に当たって死ぬホームレス役をやったと思えば、山形庄内では大御所の古藤監督(山﨑努)の組で斬られる浪人役。二日酔いのためあげてしまうも、監督には面白がられたり。
インディーズで映画を撮っている横田監督(染谷将太)の現場では、キャバクラのシーンで実際に酒を飲み過ぎ、初出演の女優ベンジャミン(メラニー)をフォローするはずがNGを連発したり。




山之上監督(新井浩文)のVシネ撮影で諏訪に行った折り、亀岡はふらっと入った居酒屋「ムロタ」で一人の女性と出逢う。彼女の名は、室田安曇(麻生久美子)。店主(不破万作)の娘で、ちょっと前に子供を連れて出戻ったのだという。亀岡は、気さくで酒好きな安曇にほのかな恋心を抱く。





マネージャーの藤井(工藤夕貴)が持ってきた舞台の仕事を受けた亀岡は、これまで断り続けた演劇の稽古に四苦八苦する。陽光座の座長で主演も兼ねるのは、大女優の松村夏子(三田佳子)。




いつも通りの落ち着かぬ日々の中、亀岡の元に驚くべきオーディションの話が舞い込んでくる。極秘来日中の世界的巨匠アラン・スペッソ監督(ガルシア・リカルド)が新作のために日本人の役者を探していたのだ。
亀岡は、半信半疑でとあるスタジオを訪れ、戦場の兵士という設定で不思議な演技テストをさせられる。夢見心地でスタジオを出ようとしたとき、彼はイケメン人気俳優の貝塚トオル(浅香航大)と鉢合わせする。貝塚もまた、このオーディションに呼ばれていたのだ。

地方ロケの現場で一緒になった旧知の同じ脇役俳優・宇野泰平(宇野祥平)と酒を飲んでぐだぐだしていた亀岡は、てっきり独身だと思い込んでいた宇野が結婚していたことを知って驚く。




一念発起した亀岡は、花束を携えてバイクに跨がると、雨に打たれながら一路諏訪に向かった。もちろん、安曇に再会し愛の告白をするためだ。
ようやく、「ムロタ」に到着して店に入る亀岡。ところが、いざ安曇を前にするとなかなか言葉が出てこない。
すると、夫とよりを戻すことにしたと安曇から打ち明けられてしまう。店内に花束を残したまま、為す術なく亀岡は出て行くしかなかった。

モロッコ。灼熱の陽光が降り注ぐ砂漠で、亀岡はアラン・スペッソの現場にいる。自分の出番を終えた亀岡に、スペッソ監督は哲学的とも思えるエールを贈って去って行った。

そして、また今日も亀岡はどこかの現場で脇役を演じ続けるのだった…。

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『ウルトラミラクルラブストーリー』(2009)以来6年ぶりとなる横浜聡子監督の長編作品は、演劇ユニット「TEAM NACS」の一員として最近活躍が目立っている安田顕を主人公に据えた、ある意味「いかにも」な脇役俳優のアンチクライマックスなストーリーである。
おおよそオーラを感じさせない酒好きで冴えない中年独身男は、まさしく安田のはまり役だろう。

僕は、「水曜どうでしょう」にonちゃんの着ぐるみ姿で出演していた頃から安田顕を見ているから亀岡拓次も適役だと思うのだが、正直に言って映画としてはいささか首を傾げる出来だった。
名もなき脇役俳優の日常風景を、さりげないタッチでオフビートに描くという構想は分からなくもないのだが、本作はオフビート以前に映画としてのリズムがなく、ただだらだらしているだけに見えてしまうのだ。




アンチドラマチックでこぢんまりした映画も嫌いではないが、ちょっとこの作品は観ていて厳しかった。こういう散漫さは、散文的というのとも違うと思う。
要所要所に感傷的な要素や、ある種哲学的なたたずまいも盛り込んで、安田の周りにはそれなりに豪華な脇役を配しているところもかえってちぐはぐに映るし、遊びの部分で上手く遊べていないようにも感じる。

こういうことを言うと元も子もないのだが、そもそもこの内容なら何も主人公は脇役俳優でなくてもいいようにさえ思う。困ったものである。

個人的に本作で良かったのは、安曇役を演じた麻生久美子の素朴なたたずまいなのだが、その安曇があっさり離婚した亭主とよりを戻す展開にも、何だか鼻白む思いだった。

本作は、オフビート的なる物語が上手く焦点を結ばなかった作品。
脇役俳優以前に、物語自体が脇に追いやられてしまったような一本だろう。

PRINCEという名のREVOLUTION

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平成28年4月21日、朝。出勤前につけたNHK「おはよう日本」を何となく見ていて、絶句した。ミネソタ州の自宅で、プリンスが亡くなったという。まだ、57歳の若さで…。



今年1月10日に69歳でデヴィッド・ボウイが亡くなった時も、そりゃ酷いショックだった。著名人の死に関してSNSに投稿しないことを決め事にしている僕が、思わずツイッターでつぶやいたくらいに。ボウイの音楽は聴きまくっていたし、大好きなロック・ミュージシャンだった。
ただ、それはさかのぼっての追体験で、僕にとってリアルタイムで体験したボウイというのは、1983年の『レッツ・ダンス』であり、MTVであり、テレビ朝日の『ベストヒットUSA』であり、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』であった。
あるいは、宝酒造の焼酎「純」CMと「クリスタル・ジャパン」(1980)であったり、クイーンとの「アンダー・プレッシャー」(1981)であったり。



プリンスに関しては、彼にとってあるいはミュージック・シーン全体において正真正銘イノヴェーションの時期をリアルタイムで目の当たりにしていたし、僕自身が彼の音楽にぞっこんで、プリンスの活動を熱心にフォローしていたから、今の喪失感を的確に表現することすらできない。
まさしく、「言葉を失った」ままの状態である。

そんな訳で、あくまでささやかに個人的な文章を書きたいと思う。

プリンス(本名プリンス・ロジャー・ネルソン)が日本において話題になり始めたのは、三枚目のアルバム『コントラヴァシー』(1981)のタイトル曲がスマッシュ・ヒットしたあたりからで、次の二枚組大作『1999』(1982)により全米ブレイクを果たしたことで、ロック雑誌にも頻繁に取り上げられるようになったと記憶する。





同じ1982年に、マイケル・ジャクソンがかのモンスター・アルバム『スリラー』を発表して世界的なマイケル・ブームが起こったことから、同じ黒人・ミュージシャンでありソウルとロックの境界を超えた音楽性もあって、この二人は頻繁に比較されるようになった。




ちなみに、当時の日本においては「クリーンなマイケル」「ダーティなプリンス」的扱いが基本トーンだったように思う。
確かに、健全で陽性のキャラクターを持ったマイケルと挑発的なスキャンダラスさを伴ったプリンスという対照的な黒人ミュージシャンであり、そのイメージは『パープル・レイン』(1984)の世界的ヒットにより、一層明確になった。
まあ、後日マイケルの奇行が目立つようになると、いささか状況は変化する訳だけど。
音楽評論家・渋谷陽一は、『ロッッキングオン』誌上でプリンスの音楽性について「密室」的と表現、以降プリンスの音楽はしばしばこの「密室性」というキーワードで語られることとなった。




商業的成功という意味において、まさしくプリンスの絶頂期となったのは自伝的な同名映画のサウンドトラック盤としてリリースされた『パープル・レイン』の大ヒットである。



ビルボードのアルバム・チャート第一位を24週にわたってキープしたこのアルバムからは、「ビートに抱かれて」「パープル・レイン」「ダイ・フォー・ユー」「テイク・ミー・ウィズ・U」がシングル・カットされ、それぞれにヒット。特に、「ビートに抱かれて」は年間シングル・チャートの第一位になった。




この成功により、プリンスはペイズリー・パーク・レコードという自己レーベルを作り、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(1985)をリリースする。ロックとダンス・ミュージックを融合したこれまでのスタイルから音楽性が変化した本作は、プリンス流『サージェント・ペパーズ』とでもいうべきコンセプト・アルバムであり、サイケデリックでフラワーなポップ・ミュージックが詰め込まれた先鋭的な傑作であった。




ミネアポリス・サウンドと称された一人多重録音、ロック・ビート、エレクトリック・ダンス・ミュージック、サイケデリックといったここまでの音楽性からさらに飛躍し、ルーツ回帰とでもいうべき革新的なソウル・ミュージックへと自らの音楽性を進化させたのが、次作『パレード』(1986)である。
プリンス自身が監督した映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』は大コケしてしまったが、そのサウンドトラックとして発表されたこの作品は、ブラック・ミュージックの歴史的文脈の中で高く評価された。




アルバムからのシングル・カットで全米第一位となった「KISS」は、無駄な音を大胆にそぎ落とし、シンプルなギター・カッティングとエレクトロ・ビート、ファルセット・ボーカルで通す大胆なアレンジだった。僕は「Kiss」を聴いた時、音楽的なたたずまいこそ違うけれどスライ&ザ・ファミリー・ストーンの名曲「ファミリー・アフェア」と同様の衝撃を受けたものである。





このアルバムをひっさげてのワールド・ツアー「PARADE TOUR」で、プリンス&ザ・レヴォリューションは初来日した。ツアー・ファイナルとなる横浜スタジアムでの演奏は、スタジアム・コンサートの常識を覆すような素晴らしい音質のライヴとして絶賛されたが、このツアーをもってバック・バンドのザ・レヴォリューションが解散してしまう。




続く二枚組大作『サイン・オブ・ザ・タイムス』(1987)は、『パレード』で見せたソウル・ミュージックとしての音楽性をさらに洗練させ、いよいよプリンスの音楽は未開の境地へと到達した感さえあった。そればかりか、同年には『ブラック・アルバム』も録音。ところが、リリース直前に発売中止となってしまう。




P-FUNK的にハードなファンク作という情報が紹介され、音源が流失したために、この『ブラック・アルバム』はブートレグ史上最高とも噂される500万枚以上を全世界で売り上げたという。かくいう僕も、その当時西新宿界隈のレコード店を回ってこの海賊盤を入手した一人である。
1994年に、ようやくこのアルバムはワーナー・ブラザーズから正式発売されることとなった。



『ブラック・アルバム』騒動への回答とでもいうべき作品『ラヴセクシー』は、1988年にわずか4か月の製作期間でリリースされる。プリンスの全裸写真が使われたジャケットや曲をセレクトできないようにCDでは一曲扱いとなっていることなど、本作も話題性には事欠かない内容だった。



このアルバム発売後に行われた「LOVESEXY TOUR」の日本公演「NEC Parabola PRESENTS PRINCE LOVESEXY ’89 JAPAN TOUR」に、僕は足を運んでいる。
1989年2月5日で、会場は東京ドームのアリーナ。主催はテレビ朝日とFM東京である。当時の日記を読み返してみると、「衛星放送でオンエアーされたライヴと構成がまったく同じで、PAが非常に悪かった」と書いてあった。
約2時間の演奏時間で、アンコールなし。僕の記憶では、ものすごく濃密な演奏で走り抜けたライヴだった。


ティム・バートン監督『バットマン』(1989)のサウンドトラックもプリンスならではのダンス・ミュージックが展開した良作で、シングル・カットされた「バットダンス」のPVは、当時「とんねるずのみなさんのおかげです」で石橋貴明による完璧なパロディが放映されたことも懐かしい。




その後も、プリンスは精力的な活動を続けていたが、ワーナー・ブラザーズとの確執もありペイズリー・パーク・レコードを閉鎖したり、プリンスという名前を捨てたりと色々あった後に、ワーナーとの契約を終了した。
そして、2000年代に入ってプリンス名義での活動を再開。2014年にはワーナー・ブラザーズと驚きの再契約をして、『アート・オフィシャル・エイジ』をリリースした。
ところが…である。残念でならない。



僕が最もプリンスに思い入れていたのは、アルバムでいえば『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』から『ラヴセクシー』あたりまでということになる。その当時は、とにかく彼が発売する音楽のすべてを浴びるように聴いていた。




とにかく、僕はファンク・ミュージックが大好きで、御多分に漏れず、ジェイムズ・ブラウン~スライ&ザ・ファミリー・ストーン~P-FUNKという系譜とジミ・ヘンドリックスという音楽的文脈の中に現れた孤高のイノヴェーターとしてプリンスの音楽を聴いていたように思う。
プリンス・ファミリーでは、ジャネット・ジャクソン等のプロデューサーとして一世を風靡することになるジミー・ジャムとテリー・ルイスが在籍したザ・タイム、シーラ・E、マッドハウス、ザ・レヴォリューションのメンバーだったウェンディ&リサが印象深い。
また、ジョージ・クリントンがペイズリー・パーク・レコードから『ザ・シンデレラ・セオリー』(1989)をリリースした時は熱くなったものである。シーナ・イーストンがプリンスに接近したときには、かなり驚いたけど。だって、「モダン・ガール」「モーニング・トレイン」の人ですからね、僕にとっては。



個人的には、プリンスの傑作群がずっとマスターされないことが不満で、いつか彼自身の手で再発されることを心待ちにしていたのだが…。



また一人、不世出の巨人を失ったことを、僕はいまだに現実として受け止められずにいる。やっぱり、リアルタイムで体験すると喪失感もあまりに巨大なんだ。
本当に、若すぎるよ…。

岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』

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2016年3月26日公開、岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』



エグゼクティブプロデューサーは杉田成道、プロデューサーは宮川朋之・水野昌・紀伊宗之、原作は岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』(文藝春秋刊)、脚本は岩井俊二、撮影は神戸千木、美術は部谷京子、スタイリストは申谷弘美、メイクは外丸愛、音楽監督は桑原まこ、制作プロダクションはロックウェルアイズ、配給は東映。
宣伝コピーは「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」


こんな物語である。一部ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

皆川七海(黒木華)は、教師を目指しているが正式採用されず、派遣教員として不安定な仕事をしている。もちろん、それだけでは生活が苦しいためスカイプで登校拒否になった子のインターネット家庭教師や、コンビニでのアルバイトを掛け持ちしている。
日々たまる鬱憤やもやもやをマイナーなSNSサービス「ランバラル」につぶやくことが、彼女のささやかな息抜き。七海のHNはクラムボンだ。



ネットで知り合った鶴岡鉄也(地曵豪)と意気投合した七海は、鉄也と結婚することに。彼もまた、教師をしていた。
付き合い始めた当初、七海は結婚しても教師の仕事を続けるつもりだったが、今の学校で更新をしないという連絡を派遣会社から受ける。七海の態度が自信なさげで、生徒たちになめられていたことが原因のようだった。
そんなこともあり、七海は寿退職を理由に教壇を去ることにしたが、最後の最後まで生徒たちの態度は彼女に対して冷酷だった。おまけに、教師の職を辞したことを「自分には、何の相談もなく」と鉄也は面白くなさそうに言った。
ある時、鉄也が自分の妻のアカウントとは知らずにクラムボンのコメントを読んでいることを知り、七海は慌てて「カムパネルラ」というアカウントを作り直した。




結婚式に招待する親族・友人の人数のことで、七海はちょっと困ったことになる。知人の多い鉄也と違って、彼女にはほとんど呼べるような人がいなかったのだ。おまけに、父の博徳(金田明夫)と母の晴海(毬谷友子)は離婚していた。そのことすら、彼女は鉄也に話せずにた。
困った七海は、ランバラルで友達になった安室行舛(綾野剛)にネット上で相談する。安室は、代理出席を斡旋するサービスがあると教えてくれた。七海は安室と会ってみた。
すると、彼自身がアズナブルという便利屋を経営しており、ランバラルの友達だから、と言って格安で結婚披露宴への代理出席者を斡旋することを請け負ってくれた。




鶴岡・皆川両家の結納も粛々と行われたが、派手で破天荒な晴海を見て、息子のことを溺愛するカヤ子(原日出子)は、あからさまに顔をしかめた。
一方、七海は鉄也とカヤ子の関係性にマザコン的な匂いを感じていた。
派手派手しい演出の施された結婚式は、つつがなく終わった。安室の仕込みは、きわめてそつのないプロの仕事だった。





新婚生活は、淡々としたものだった。ところが、ある日事件が起きる。鉄也が仕事に出ている昼間、七海の家に高嶋優人(和田聰宏)という男が訪ねてきた。高嶋は、鉄也が自分の妻と浮気しているのだと言った。七海に卒業アルバムを持ってこさせると、高嶋は一人の女子生徒の写真を指差した。
とりあえず、憔悴しきった表情で高嶋は帰って行ったが、七海には思い当たる節があった。先日、部屋掃除していると女もののアクセサリーが落ちていたのだ。

その日以来、七海と鉄也の間はどこかギクシャクしたものになっていった。数日後、高嶋から呼び出された七海は、とあるホテルの部屋にいた。高嶋は、鉄也への意趣返しに自分と関係するよう七海に迫った。
窮地に陥った七海は、トイレに入って安室にランバラルで助けを求める。安室は、すぐに駆け付けるからバスルームに逃げ込んで時間を稼いでくれと言った。
言われたとおり、七海はバスルームに入って内側から鍵をかけた。高嶋は、「奥さん、一緒に入りましょうよ」と言ってドアをガチャガチャさせたが、諦めたようで音はしなくなった。

ところが、安室が到着すると出迎えた高嶋は「もう、どうしようかと思いましたよ」と泣きそうな顔で訴えると、いそいそと部屋から出て行った。
そんなこととは夢にも思わず、安室の到着を知ってバスルームから出てきた七海は、へなへなと床に座り込むのだった。

鉄也の実家を訪れた七海は、カヤ子から呼び出された。カヤ子は険しい顔で、結婚式に参列した七海のお客が代行サービスのサクラだったことを責めた。
そればかりか、彼女は険しい顔でスマホの動画を突き付けてきた。そこには、七海と高嶋がホテルの一室で揉み合っている姿が映し出されていた。七海には、何が何だかさっぱり分からず、言葉を失ってしまう。
カヤ子は、その場で七海を家から追い出すと、タクシーを呼んで彼女を押し込み、息子とは離婚して実家に帰れと吐き捨てた。運転手に万札を握らせると、カヤ子は車を発進させるよう命じた。

一度東京の家に戻った七海は鉄也と携帯で話し、浮気したのはそっちの方ではないかと責めるが話が全く噛み合わず、結局離婚することになった。
安室にそのことを話すと、安室は別れさせ屋の仕業だろうといった。安室に言われてもう一度卒業アルバムを確かめてみると、浮気相手と高嶋が指し示した女の子の写真がどうしても見つからなかった。
もはや何を信じればいいのか分からなくらった七海は、キャリーバックに必要最低限のものだけを詰め込み、家を出た。




呆然自失の体で歩いていた七海の携帯に、安室が電話してきた。「今、どこにいるんですか?」と尋ねられた七海は、「あれ、今私どこにいるんだろう?」とつぶやいた。どんなに辺りを見回しても、今自分がどこを歩いているのか、彼女にはさっぱり分からなかった。




目に入ったビジネスホテルに転がり込んだ七海は、とりあえず泥のように眠った。翌朝、七海はビジネスホテルの従業員にここで働かせてもらえないかと掛け合い、雇ってもらった。
七海のことを心配して、安室が連絡してきた。とりあえずの現状を説明した七海に、安室はバイトを斡旋してくれた。それは、結婚披露宴代理出席の仕事だった。





披露宴当日、七海は他の代理出席者たちと即席の疑似家族を演じた。バイトが終わると、七海は疑似家族を演じた他の四人と軽く打ち上げした後、本業は女優をしているというエキセントリックでパワフルな里中真白(Cocco)と二人で二次会に行った。
店を出て人ごみの中を歩いていた七海がふと振り返ると、真白の姿は消えていた。七海は、ランバラルの真白のHN「リップヴァンウィンクル」にコメントすると、帰路につくのだった。

そんなある日、また安室が現れて月100万稼げるバイトがあるからと言った。今すぐビジネスホテルの仕事を辞める訳にはいかないと七海は言ったが、強引なやり方で安室は七海にバイトを辞めさせてしまう。
安室が紹介したバイトとは、所有者が海外出張中の家に住み込むハウスキーパーの仕事だった。その屋敷は途轍もない広さで、しかも先ほどまでパーティーでもしていたかのように物が散乱していた。
七海は、半信半疑でバイトを始めるが、この家にはもう一人雇われている女性がいた。真白だった。
二人は、不思議な共同生活を始めるが…。


映画の冒頭、街角で待ち合わせの相手を待つ黒木華を捉えた映像、流れるクラシックの感傷的なメロディ…それだけで、岩井俊二の映画的たたずまいが強靭に立ち上がってくる。その鮮烈さに、劇場の暗がりの中で映画と対峙することの特別さを思わずにいられない。「ああ、僕は今、岩井俊二監督の映画を、スクリーンで観ているんだな」という、確たる手応えを感じる訳だ。

そして、映画は、夢想的な儚さと現実的な冷酷さや醜さとの境界を行き来しながら、やがてすべてを曖昧に飲み込むようにして進んでいく。
その曖昧さの象徴のように僕が感じたのが、登場人物たちが仮初のつながりを持っているSNSツール「ランバラル」である。ある意味、本作で描かれる七海を取り巻く世界は、そのまま現代のネット社会が抱える曖昧な不確かさそのもののように映る。
七海が体験する理不尽な残酷さや、彼女の前に現れる正体不明の人々、彼女が翻弄される虚実ないまぜの情報に至るまで…。
それは、披露宴の代理出席で出会った疑似家族を演じた人々、中でも真白という存在に象徴されているようにも思える。それが、実に今を描いた映画的である。

ただ、なぁ…と、僕は思ってしまう。

物語を常に動かす人物、安室という男の行動が、僕にはどうにも腑に落ちないまま映画が終わってしまった。結局のところ、この人物は何なのだろう?もちろん、この男の存在こそが本作におけるフィクショナリズムだと思うし、彼に導かれるように七海という女性が新たなる人生の扉を開けることになる訳だけど、それにしてもな…と。
そして、何ら疑念を抱くことなく安室にすがりつき、無条件に彼の言動を信用して行動する七海の姿も、僕は見ていて映画の中盤あたりからいささかしんどくなってしまった。




その一方、まるで疑似恋愛のような関係に陥る七海と真白の姿を映し出す物語後半は、「これぞ、岩井映画!」と唸ってしまうような耽美的映像にめまいすら感じる。これこそ、本作における劇薬的な甘美さに他ならない。
ウェディング・ドレスに身を包んだ二人が、戯れキスするシーンの透明感と妖しさには、得も言われぬ寓話的エロティシズムのほとばしりがあった。




そこから物語は衝撃的な展開を迎えるのだが、実はAV女優だった真白の告別式シーンで故人を悼み同業者たちが会話するシーンにも、正直僕はちょっと首を傾げるところがあった。
AV女優という仕事についてあるいは真白という女性について同業者たちが思いの丈を吐露する場面で語られる言葉には、切実さとシリアスな過酷さとある種の諦念と徒労感が漂う。それは、もちろん一面の真実だろうけれど、この映画であえて説明的に語られる必要があったのだろうかと思ってしまうのだ。
というのも、生き急ぐように仕事に没入する真白の壮絶さは、告別式でのシーンをあえて挿入せずとも僕には十分伝わっていたからだ。

それはそれとして…ということになるが、告別式のシーンには真白の同僚として、森下くるみ、倖田李梨、若林美保、岸崎ジェシカ、希島あいり、希美まゆ、桜井ちんたろうといった元も含めてAV業界の人たちが登場する。そして、森下と倖田の話す科白にはリアルな説得力がある。
僕はピンク映画を中心に活動している倖田のことが好きでずっと追いかけているのだが、短いシーンだけど倖田の演技に彼女の個性がちゃんと出ていたことが嬉しかった。
真白のマネージャー恒吉冴子は、映画後半のキーパースンの一人だが、冴子役を熱演する夏目ナナは、2004年から2007年に大変な人気を誇った元AV女優である。

終盤、真白と絶縁した母・珠代役でりりィが登場するが、彼女の鬼気迫る演技には言葉を失ってしまった。ただ、真白の遺骨を引き取ってもらうために安室と七海が珠代のアパートを訪ねる場面自体は、あまりに過剰なセンチメンタリズムを感じてしまい、鼻白むところも無きにしも非ずだったが。

七海が新たなる人生に向かってささやかなる一歩を踏み出そうとするところで、映画は終わる。さわやかで素敵なシーンではあるけれど、上述したようなわだかまりが自分の中でくすぶっているので、僕は全面的にその感傷的なラストに浸りきることができなかった。

結局のところ、僕にとってこの映画の魅力といえば、あまりに圧倒的な黒木華の演技であった。本当にもう、彼女に尽きる。あまりに巧すぎて、まったく演技に見えなかったくらいだ。
とりわけ、キャリーバックを引きながら憔悴しきった表情で見知らぬ町を彷徨い歩くシーンの凄さには、息を飲むしかなかった。




Coccoの全身から発せられるオーラのような凄みも、胸に迫るものがあった。

ただ、僕が安室という存在自体に首を傾げていたこともあるとは思うのだが、綾野剛の演技にトゥー・マッチな作為が感じられてしまい、そのことでどうにもこの作品に入り込めないもどかしさが最後まで付きまとったのが残念である。
余談ではあるけれど、七海の友人役で前半に登場する玄理の演技が印象的だった。



本作は岩井俊二らしさにあふれた力作だし、彼のファンには十分に満足できる作品だと思う。
そして、あくまで僕にとってこの映画は、黒木華という女優の凄まじさを叩き付けられたという一点において途轍もなく衝撃的であった。

緋牡丹(仮)@国立NO TRUNKS

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2016年4月22日、国立NO TRUNKSで仮に緋牡丹と名付けられた女性四人によるライブを見た。
当初、このライブは渋さチビズ女子部としてアナウンスされた。ところが、地底新聞をチェックするとこの日の不破大輔さんは新宿ウルガで川下直広4の一員として演奏することになっていた。
「おかしいなぁ…。不破さんに確認した方がいいのかな~」と僕は密かに思っていたんだけど、どうやら不破さんは16日と間違えてダブル・ブッキングしちゃったみたいで、NO TRUNKSの方は急遽元スーパー・ジャンキー・モンキーのかわいしのぶさんがベースを弾くことになったのだそうだ。

ということで、完全なる女子部になったこのユニットは、緋牡丹という仮名がつけられたのだった。

緋牡丹(仮):かわいしのぶ(eb)、中島さち子(pf)、山田あずさ(vib)、纐纈雅代(as)

開演前、NO TRUNKSのカウンターに集まった女子四人は、何やらひそひそと演奏の打ち合わせをしているようで、その光景が何となく微笑ましかった(笑)
ステージに登場した四人は、とりあえずジャンケンして勝った順にそれぞれの持ち曲を演奏するというザックリした決め方で演奏をスタートした。

第一部

1. ひめごと(かわいしのぶ)
ちょっととぼけた感じのキュートでファニーなご挨拶代わりの小曲。

2. BLOOM(中島さち子)
幾何学的な音像で始まりフリーなたたずまいに変化した後、中島のピアノと山田のヴィブラフォンがクリスタル・サイレンスな美しい音を交換して、かわいがグルーヴィなベースを奏でる。ラストは、四人によるユニゾンで決める。

3.Little B’s Poem(Bobby Hutcherson)
ヴィブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンが、1965年にブルー・ノートから発表した二枚目のリーダー作の表題曲。このメンバーでの演奏も、クールな疾走感が気持ちいい。

4.橙(纐纈雅代)
日本の古謡「さくらさくら」を思わせる旋律で始まるミッドテンポの曲だが、纐纈さんに聞いたところによると「特に、意識せず作った」とのことだった。先日、新宿PIT INNでのまさまさch’an法師でも演奏したが、このメンバーでの演奏だとまた随分と曲の雰囲気が違っていた。
純日本的なメロディとジャズの間を行き来する演奏が、イマジネイティヴである。

第二部

1.笑う夜の遊園地~共存のブルース(かわいしのぶ)
どことなく不穏さ漂うメロディをバックに、かわいが朗読を聞かせる。夜のおとぎ話とでも表現したくなる、不思議な雰囲気を持った演奏である。

2.一滴の祈り(中島さち子)
リリシズムあふれる繊細なピアノとヴィブラフォンの対話で始まり、そこに感傷的なサックスが加わる。まるで晩夏の美しい夕暮れを見ているような音像に、遠い日の郷愁を掻き立てられる。胸が締め付けられるような、甘美な切なさである。
そこから展開する纐纈の熱いブロウと中島の静謐なプレイのコントラストも素晴らしいし、山田と中島のホット&クールなアンサンブルも刺激的だ。
ラストで聴かせる四人によるサイダーヂ感あふれるプレイに、胸が熱くなる。

3.Average(山田あずさ)
此処ではない何処か…というストレンジにエスニックな旋律をブロウするサックスに、他の三人が性急で饒舌なアンサンブルを重ねる。中毒性を有したユニークな音像が、面白い。
そこから、山田のよく歌うヴィブラフォンを軸にアグレッシヴな演奏を展開すると、ラストは無駄なくシェイプ・アップされたソリッドなグルーヴを聴かせた。

4.こだまでしょうか(詩:金子みすゞ、曲:纐纈雅代)
「NHKみんなのうた」みたいな、ファニーでキュートな出だし。男前にブロウする時とは対照的に、はにかんだ感じで歌う纐纈が可愛い。声を重ねる三人も何気に微笑ましい。
と、そこからいきなりトルネードのようなフリー・ジャズに突入。スピリチュアルな猛々しさにしびれる。
そこから、再びみんなのうた的展開に戻って終演。

Encore

NAADAM(林栄一)

アンコールは「不破さんへのオマージュ」ということで、渋さ知らズテッパンのレパートリー「ナーダム」。
ヴィブラフォンの美しいイントロから、サックスのホットなブロウ。そこから一気に畳みかけるスリリングな展開に息を飲む。
攻撃的なヴィブラフォン、パーカッシヴなピアノ、グルーヴするベースと聴かせて、ラストは四人による熱気あふれるプレイでこの日のステージを締めくくった。
いや~、本当に名曲だと思う。





アクシデント的に渋さ女子部が純粋に女子部ユニット緋牡丹になった訳だが、冒頭のジャンケンで始まる緩い展開から一転、ライブの方はビシッと凛々しく決めてくれた。
そのあたりのジャム・セッション的な雰囲気と、如何にもジャズ的な自由さ、そして女性ならではの華やかな柔らかさが絶妙にマッチした楽しい夜のひと時であった。
また、この四人での演奏を聴きたいものである。

沖田修一『モヒカン故郷に帰る』

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2016年4月9日公開(3月26日広島先行公開)、沖田修一監督『モヒカン故郷に帰る』



製作は横澤良雄・川城和実・三宅容介・佐野真之・太田和宏・稲垣宏、企画は重松圭一・佐々木史朗、プロデューサーは青木裕子・西川朝子・久保田傑・佐藤美由紀、脚本は沖田修一、音楽は池永正二、主題歌は細野晴臣「MOHICAN」(Speedstar Records)、撮影は芦澤明子、DIT/VEは鏡原圭吾、照明は永田英則、録音は石丸恒、美術は安宅紀史、編集は佐藤崇、衣裳は纐纈春樹、ヘアメイクは田中マリ子、スクリプターは田中良子、音楽プロデューサーは安井輝・篠崎恵子、助監督は茂木克仁、制作担当は齋藤大輔。
制作プロダクションはオフィス・シロウズ、配給・宣伝は東京テアトル〈東京テアトル70周年記念作品〉。
製作は『モヒカン故郷に帰る』制作委員会(関西テレビ放送、バンダイビジュアル、ポニーキャニオン、アスミック・エース、東京テアトル、テレビ新広島、オフィス・シロウズ)。
助成は文化庁文化芸術振興費補助金。
宣伝コピーは「バカヤロー!だけど、ありがとう」
2016年/日本/125分/ヴィスタ/カラー/5.1ch


こんな物語である。

売れないデスメタル・バンド断末魔のボーカル田村永吉(松田龍平)は30歳で、同棲している恋人の会沢由佳(前田敦子)は現在妊娠中。バンドのメンバーもみな若くはなく、将来にそれぞれ不安を抱いている。




将来のビジョンなどまったくない永吉だが、とりあえず結婚の報告をするため、金髪モヒカン頭のまま7年帰っていない広島県戸鼻島(架空の町)の実家に由佳を連れて帰郷する。




頑固おやじの治(柄本明)は、商売を営みながら永吉もかつて所属していた中学校の吹奏楽部で指導している。彼は熱烈な矢沢永吉ファンで、中学生たちに演奏させているのも当然矢沢の曲。「I LOVE YOU,OK」は渋すぎると不平をこぼす生徒たちに向かって、「矢沢、広島県民の義務教育です」と治は譲らない。
長年連れ添った妻の春子(もたいまさこ)は、大の広島カープ・ファンだ。なぜか、家を出たはずの弟・浩二(千葉雄大)が実家に戻っていた。

春子は、電話もよこさずに突然帰ってきた永吉に呆れ、治はハンパ者の息子を怒るものの、永吉が嫁を連れてきたことには大喜び。で、治は早速ご近所に招集をかけて、盛大な永吉の結婚祝をやった。

ところが、その夜に治が倒れてしまう。搬送された病院の検査で、旧知の医師(木場勝己)から家族が告げられた病名は末期がんだった。



動揺を隠せない永吉たち家族だったが、治の最後に寄り添おうと決心。島外の大きな病院への転院も考えるが、治は自宅へ帰ることを希望した。何でも願いを聞いてやるとの永吉の言葉に、治が望んだことは「えーちゃんにあいたい」と永吉・由佳の結婚式だった…。



沖田修一監督オリジナル脚本による、会心の一本。
家族の死に直面した人々が織りなす人生模様を扱った映画は、それこそこれまでにも脈々と作られてきた訳だが、本作は2016年の現代性をしっかりとまとい、若々しい感性で作られた実にコンテンポラリーな傑作に仕上がっている。

涙を煽るような過剰にあざとい感傷は皆無だし、かといってシニカルに斜に構えた部分もない。
あるのは、誠実で暖かな眼差しと秀逸な人物造形、粋な照れ隠しとストイックな心象表現、登場人物に対しての絶妙な距離感、ソフィスティケーションの極みともいえる笑い。
そこから立ち上がってくる映画としての真摯な物語が、観ている我々の胸を熱くする。

映画冒頭、終演後のライブハウス楽屋で将来の不安を吐露する断末魔メンバーの会話に含まれた閉塞感とペーソス、そのやり取りの中ですでに永吉の人物像が見事に表現させている。
また、この映画の風通しを良くする「通風孔」の如き存在ともいえる由佳の存在。治の衰弱と死に向き合いつつも、常に心優しきコミカルさを忘れないストーリーテリング。
とりわけ、治が始動する中学の吹奏楽部員たちの描き方が微笑ましい。

とにかく、125分すべてが見どころと言えるのだが、治に代わって永吉が中学生たちを指揮する練習シーンのカタルシスや、治思い出のピザを探すシーン、深刻さを巧みにそらす結婚式のシーンに笑いながらも切なくなってしまう。
やろうと思えばいくらでも情緒的なアプローチが可能な物語において、沖田監督が唯一センチメンタルな仕掛けを施す海辺での治と永吉の会話シーンの素晴らしさ。
本当に、完璧なまでにすべてがコントロールされた作品だと思う。

加えて、演じる役者陣の見事さ。柄本明、もたいまさこ、前田敦子、木場勝己、美保純はもちろん、吹奏楽部員の富田望生と小柴亮太の存在も見逃せない。
ただ、やはり何といっても本作は主人公のモヒカンを演じた松田龍平の演技に尽きる。前述した柄本明との海辺のシーンの抑制した演技には、誰もが胸を熱くするんじゃないか?



本作は、現在の日本映画で描き得る最高にウェルメイドな人情喜劇(あえて悲喜劇とは言わない)と断言する。
絶対の自信を持ってお勧めしたい素晴らしい映画である。

吉田恵輔『ヒメアノ~ル』

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2016年5月28日公開、吉田恵輔『ヒメアノ~ル』




製作は由里敬三・藤岡修・藤島ジュリーK.、エグゼクティブプロデューサーは田中正・永田芳弘、企画は石田雄治、プロデューサーは有重陽一・小松重之、ライン・プロデューサーは深津智男、原作は古谷実「ヒメアノ~ル」(ヤングマガジンKC所蔵)、音楽は野村卓史、脚本は吉田恵輔、撮影は志田貴之、照明は中西克之、美術・装飾は龍田哲児、録音は小黒健太郎、整音は石貝洋、編集は鈴木真一、音響効果は勝亦さくら、音楽プロデューサーは和田亨、アソシエイト・プロデューサーは小出健、衣装は加藤友美、ヘアメイクは加藤由紀、スクリプターは増子さおり、キャスティングは南谷夢、音楽は野村卓史、助監督は綾部真弥、製作担当は竹上俊一。
製作は日活、ハピネット、ジェイ・ストーム。制作プロダクションはジャンゴフィルム。配給は日活。
宣伝コピーは「めんどくさいから殺していい?」


こんな物語である。

ビル清掃会社でパート勤務する岡田進(濱田岳)は、仕事の要領も悪いうえに、これといった目標も楽しみもなく、日常生活は漫然と過ぎていく。そんな日々に、彼はやるせなさと漠然とした焦りを感じている。
職場の先輩・安藤勇次(ムロツヨシ)も相当にイケてないもっさりした男だが、職場にも友達がいない岡田は、安藤が唯一の話し相手だった。




ある日、安藤は自分が想いを寄せている女性・阿部ユカ(佐津川愛美)がバイトしているカフェに岡田を連れて行った。どう考えても安藤が付き合えるような女性とは思えぬくらいにユカは可愛かったが、安藤は岡田に協力しろと強引に迫った。安藤の話では、カフェの客で彼女に付きまとっている男がいるという。その男は、この日もこのカフェにいた。
岡田の高校時代の同級生・森田正一(森田剛)だった。安藤に言われて、岡田は森田のいるテーブルに行くと、話題も思いつかぬままに話しかけた。森田は、面倒くさそうに岡田の相手をした。

その様子を、遠くからユカがうかがっていた。森田との会話が長続きする訳もなく、次はユカに話しかける岡田。不審そうな表情を浮かべつつ、ユカは岡田の話を聞いた。
確かに、ユカは森田からストーカー行為をされているようだった。
このことをとっかかりに、岡田と安藤は森田のことを監視するという名目で、彼女の携帯を聞き出すと翌日以降も彼女の勤めるカフェに連日顔を出すようになった。

安藤の命令で、一度岡田は森田と居酒屋で飲んだが、森田はユカへの付きまといはおろか、あの店に行ったのはあの時一回だけだと言い切った。岡田には、それ以上突っ込む勇気はなかった。




高校時代、森田は同じクラスの和草浩介(駒木根隆介)と共に、クラスの河島から酷いいじめにあっていた。いじめは日に日にエスカレートしていき、二人にとって高校生活は地獄の日々だった。
ところが、ある時森田は逆襲に転じる。和草にも手伝わせて、河島を容赦なく叩き殺すと、そのまま死体を遺棄。そのことは、いまだ警察にも露見しておらず、もちろん岡田もその事実を知らない。
共犯者にさせられた和草は、高校卒業後に父親が経営するホテルに就職したが、森田は和草から定期的に金をタカっていた。度々ホテルの金をくすねる和草の行動を、婚約者の久美子(山田真歩)は詰問したが、和草はその訳すら話すことができない。

その後も、安藤は猛然とユカにアプローチ。安藤と岡田は、ユカと彼女の友達・飯田アイ(信江勇)と四人で居酒屋に行くことになったが、その席でアイの口からユカに想いを寄せる相手がいることが発覚する。
それでも諦めきれない安藤に頼まれて岡田は夜の公園にユカを呼び出すと、「どうしても、安藤さんとは付き合ってもらえないかな?」と聞いた。うなずくユカに、「好きな人がいるから?」と聞くと、ユカはもう一度コクリとうなずいた。
さすがにしょうがないなと岡田が諦めて帰ろうとすると、ユカは慌てるように「誰が好きなのか聞かないの?」と言った。驚いた岡田が「誰?」と聞くと、「私の好きな人は、岡田さんです…」と彼女。
「ふ~ん、僕とおんなじ名前だ」と言う岡田をユカは指差した。一目惚れだと彼女ははにかんだ。




すると、後ろの方で悲痛な絶叫が聞こえた。二人のやり取りを、物陰から安藤がのぞいていたのだった。




安藤から「ユカちゃんには付き合えないと言え」と迫られた岡田は、断腸の思いでユカに会うが、「岡田君の気持ちはどうなの?」と問われて「もちろん、好きだよ。付き合いたいよ」と本音を吐いてしまう。ユカは、明るい表情で「じゃあ、内緒で付き合えばいいじゃん。絶対、ばれないよ」と言った。岡田は、もう断る気など失せてしまった。

相変わらずユカをストーキングしている森田は、彼女が岡田と付き合い始めたことを知った。腹を立てた森田は、和草に連絡を入れると岡田を殺すのを手伝えと迫った。
もはや限界が来た和草は警察に河島殺しの共犯者として自首しようとするが、久美子に止められる。彼女は、二人で森田を始末しようと持ち掛けたが、森田の逆襲にあい二人とも殺されてしまう。

岡田は、奔放なユカの過去に戸惑いながらも、彼女と順調に交際を続けていた。




その二人に、森田の影が迫ってきていた…


これは、本当に見事な傑作である!
古谷実の漫画を原作にした作品で基本的には猟奇的な心理ホラーと言えるが、99分間の中にホラー、恋愛、コメディが絶妙にミクスチュアされ、どの要素も破綻することなく有機的な映画のリズムとしてラストまで一気に走り抜けていく。
緩急自在のストーリーテリングが素晴らしく、冴えわたる演出手腕に惚れ惚れする。

最終的な印象として残るのは森田剛の暗く淀んだ目かもしれないが、キモオタクを怪演するムロツヨシのエキセントリックなブ男ぶり、如何にもさえない岡田君の濱田岳、ある種男の妄想的キャラともいえるユカの大胆さとキュートさを見事に演じてみせた佐津川愛美が、一つの世界にちゃんと収まっている。
このバランスの良さたるや、あたかも老舗料理店の幕の内弁当の如き味わいである。




良心回路が失われて、人を殺すことに何の躊躇も感じない森田という男が、果たして一人の女性にここまで執着するものだろうか…という疑問もあるだろう。
ただ、僕は「森田の良心回路は失われたのではなく、フリーズしているだけだ」という印象を持って映画を見ていた。
彼が河島を叩き殺すことも、現在の彼がずっと頭の中のノイズに悩まされていることも、和草を食い物にし続けることも一つのものに呪縛され続けるこの男のメンタリティの表れのだろうし、阿部ユカという獲物に執着するのも、彼の行動原則に何ら矛盾していないように思える。
「捕食者と被食者。この世界には、2通りの人間しか存在しない。」という映画のサブ・コピーそのままに。

そして、森田の良心回路が失われたのではなく「一時的に凍結していたに過ぎない」からこそ、本作ラストで提示される展開がストンと腑に落ちて、見ている者に何とも言えない切ない救われなさと、ギリギリ締め上げるような緊張感から解放されたことによるカタルシスをもたらすのである。
まさしく、これしかない秀逸なエンディングだろう。

言うまでもなく、キャストそれぞれの素晴らしさあってこその作品だし、とりわけ無機質なシリアル・キラーを演じた森田剛の存在感は圧倒的だ。
ただ、僕としては物語に独特の雰囲気を付与するムロツヨシの味も捨てがたいし、抜群の可愛さと思い切りのいい濡れ場演技を見せてくれた佐津川愛美の存在に心がロックオンしてしまった。

そんな本作において、僕の心に一番訴えてきたのは濱田岳の達者な演技で、あたかも熟練ドライバーの巧みなシフト・チェンジを見る思いだった。

ピンク映画ファン的な視点のことを書くと、わずかな登場シーンで印象的な殺され方をする鈴木卓爾の演技に瀬々敬久監督『雷魚』 を思い出したりした。
あと、森田が押し入って家人を殺し、カレーライスを貪り食っているシーン。そこに遺体として横たわる女性は倖田李梨(クレジットでは、幸田リリ)である。

本作は、とにかく見逃し厳禁の大充実作。
サイコホラー嫌いの方も、勇気を出して見てほしいと言いたくなる一本である。

NAADA「宇宙で君と踊る」2016.7.9@東新宿 真昼の月・夜の太陽

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2016年7月9日、東新宿の真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「夜の太陽たち」を観た。
今年、NAADAがライブをやるのは2月7日の真昼の月・夜の太陽 以来二度目で、僕が彼らのライブを観るのはこれが44回目。




NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf)


では、この日の感想を。

1.sunrise
繊細なギターのイントロに導かれて、静かな祈りの如く歌われるオーバーチュア的な楽曲。透明感のある音像、美しくセンチメンタルなピアノのフレーズ、洗練とスキルを感じさせる秀逸なコーラス・ワークに、彼らの技術的な研鑽を感じる。
もはや、プログレッシヴ・フォークとでも表現したくなる敬虔かつ静謐な演奏が素晴らしいが、安定感を欠いたPAがボーカルを歪ませてしまったのがもどかしい。

2. REBORN
ノベルゲーム・アプリ「時凪る部屋~凪編~」のエンディング・テーマに提供された曲。
前回のライブでも濃密な演奏を聴かせてくれた楽曲だが、この日の演奏は耽美的なフレンチ・プログレッシヴ・ロックを彷彿させるアヴァンギャルドでテクニカルなアレンジメントが耳を引く。
途中で、ジャパニーズ・ラップのようなボーカリゼイションを聴かせる展開も実に刺激的だ。
ポップス・ユニットを標榜しつつ、超難度な演奏をサラッとさりげなく聴かせてしまう一筋縄ではいかない音楽性こそ、彼らの真骨頂だろう。

3.puzzle
シンプルに聴かせる楽曲だが、とても三人による演奏とは思えない音の厚みと確信に満ちた演奏が頼もしい。その選び抜かれた音と緻密なアンサンブルが耳を捉えて離さない。
NAADAにしては珍しいシビアな詞を持った曲だが、この日の演奏にはシニカルの先に込められた確たる意思まで伝わってくる歌唱だった。

4. echo
唯一、RECOの歌とMATSUBOのギターだけで聴かせる曲。二人だけのピュアな演奏は、二人組の音楽ユニットとして活動していた彼らの原風景を感じさせるものだ。
個人的にはもう少しボーカルのエコーを抑制した音像が好みだが、抑制してストイックに歌う前半から、エモーションを解放するように高まっていく後半のコントラストも鮮烈で、大好きな曲である。

5.RAINBOW
アコースティックで繊細な曲の入りから、美しいハーモニーを印象的に聴かせる演奏。この曲のキャラクターとでもいうべき明るく爽やかなメロディ・ラインの骨格が、クリアーに伝わってくる。二番では演奏に厚みが増し、力強くポップな音楽性がライブ会場を包み込む。
曲のポジティヴさが聴く者の心に灯を点してくれるような、素敵な演奏である。

6.僕らの色
土着的でパーカッシヴなイントロで始まり、RECOの迷いなきボーカルがどこまでも真っ直ぐに伸びていく。そこにギターとピアノが加わってラウドに展開する後半は、パッと鮮やかに視界が広がるような音像。その圧倒的な音世界に息を飲んだ。
NAADA流アフロ・スピリチュアルなアレンジで演奏された楽曲には、徹頭徹尾彼らのオリジナリティが貫かれており、その大胆かつ冒険心に満ちた前向きな姿勢に今の彼らの充実ぶりが伝わってきた。


You Tube「NAADAchannel」 の登録件数や再生回数も着実に伸びており、NAADAのリスナーや知名度も上がっている中でのライブである。
彼らの周辺事情も変化しているだろうし、一体どんな演奏を披露するのか、それをどんなオーディエンスがどういう反応を示すのか…といろんな意味で一つの試金石と位置付けられるライブと言っていいだろう。
リスナーが増えていくということは、あらゆる種類の好意や歓迎すべからざる感情を一緒くたに引き受けることでもある。
それでも、一切ブレることなく攻めの姿勢を貫く彼らは、このところの活動の成果と言わんばかりに圧倒的な演奏を聴かせてくれた。これは、長年NAADAの演奏を聴き続けている僕にとっても、なかなかに感慨深い光景であった。

表現の幅、演奏の力強さ、歌の説得力、確信に満ちた世界観、守りに入らないチャレンジ精神と、現在彼らが目指している方向性と志が手に取るように分かる圧巻のパフォーマンスに、舌を巻くしかなかった。
質の高い、優れてオリジナルな音楽と対峙する喜びに満ちた、誠に濃密な30分間…それ以外に、一体どんな言葉が必要だというのだろう。
今後のさらなる飛躍を予感させるNAADA新章の序曲が高らかに鳴り響く会場に、一人の聴衆として立ち会えたという感慨すら抱いた。

次のライブは、8月27日の下北沢Lagunaで、11月5日には待望のワンマン・ライブも決定している。これからの彼らの活動から目が離せない。

 
一人でも多くの良心的な音楽ファンに、NAADAの音楽が届くことを願ってやまない。

森谷司郎『兄貴の恋人』

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1968年9月7日公開、森谷司郎監督『兄貴の恋人』




製作は藤本真澄・大森幹彦、脚本は井手俊郎、音楽は佐藤勝、撮影は斎藤孝雄、美術は村木忍、録音は吉岡昇、照明は小島正七、編集は岩下広一、助監督は石田勝心、製作担当は森本朴、スチールは中尾孝、整音は下永尚、合成は三瓶一信、音響制作は東宝サウドスタジオ、現像は東洋現像所、製作・配給は東宝。
日本/カラー/モノラル/シネマスコープ/84分
並映は、沢島忠監督『北穂高絶唱』。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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丸の内の商事会社に勤務する北川鉄平(加山雄三)は、実直で良くも悪くも馬鹿正直な男だ。鉄平は阿佐ヶ谷の実家暮らしで、父・銀作(宮口精二)と母・加代(沢村貞子)、女子大生の妹・節子(内藤洋子)の四人家族。
銀作も平凡なサラリーマンで、加代は「満州から引き揚げてからというもの、夫はすっかりしぼんでしまった」と嘆いている。裕福な家庭を持つ相手と見合い結婚するのが家のためと考える鉄平は、何度も見合いをしているもののなかなか話はまとまらない。やや尋常じゃないくらいに兄を思う節子は、いつでも鉄平の見合い相手に目を光らせている。




鉄平の同僚・野村和子(酒井和歌子)が、一身上の都合で退職することになった。彼女は、美人で気の利く女性だったから、社内にはファンも多かった。なんでも、叔父が川崎で経営するスナックで経理の手伝いをするという。
節子は和子とも面識があり、しかも和子の後任・小畑久美(岡田可愛)は節子の友人。おまけに、久美は鉄平に惹かれていた。鉄平も含めた四人で和子の送別会をやることになり、鉄平はプレゼントにブローチを買うが、当日悪友たちに誘われて雀荘に行ってしまい、送別会をすっぽかしてしまう。




鉄平は、先輩の大森史郎(小鹿敦=小鹿番)とともに和子が手伝っている川崎のスナック「ピーコック」を訪ねてみる。如何にも場末感漂う店でお客の筋も感心できず、しかも和子は給仕のようなことまでさせられていた。
彼女の姿を見ていた鉄平は、複雑な気分になった。

鉄平は新規の得意先担当を任されるが、挨拶に赴いた当日鉄平の顔を見るなり先方の態度がよそよそしくなる。そして、後日先方は担当を変えろと社に言ってきた。
先方の真意を測りかねつつ、鉄平は上司と一緒に専務の山岸(清水元)に謝罪する。先日、夜の繁華街を歩いていた鉄平は、上司らしき中年男からから強引に誘われて困っている女性を助けた。その時の男が、実は取引先の男だったのだ。
その時助けた女性・西田京子(豊浦美子)から事の真相を教えられた鉄平は、山岸にそのことを報告した。山岸は、鉄平の実直さに半ば感心しつつ半ばあきれたが、その真っ直ぐさには好感を抱いた。

その後も、鉄平は時々ピーコックに飲みに行った。和子には病弱な母・千枝(東郷晴子)とやくざ者の兄・弘吉(江原達怡)がおり、家は貧しく、会社を辞めてスナックを手伝っているのも叔父に義理があったからだった。
そんな野村家を見守っているのは近所に住む幼馴染の矢代健一(清水紘治)で、彼は弘吉の喧嘩の仲裁に入って顔を切りつけられたことがあり、今でもその時の傷が生々しく残っていた。どうやら健一は和子に気があるようで、千枝も健一のことを頼りにしていた。
不器用な鉄平は、何度会ってもいまだ和子にブローチを渡せずにいた。




ある時、鉄平は山岸に言われて酒の場に付き合わされる。如何にも高級そうなバーのラウンジで、山岸は鉄平に取引先の重役・中井(北竜二)と彼の娘・緑(中山麻理)を紹介した。帰国子女だという緑は英語で話しかけてきたが、鉄平も流暢に英語で返した。その様子を、まんざらでもなさそうに山岸と中井が見守っている。
後日、山岸に呼ばれた鉄平は、緑の印象を問われた。彼女はわがままな資産家の娘だが、結婚相手として考えてはくれまいかと山岸。ある意味、結婚の相手としては鉄平の考える理想と合致しており、鉄平は前向きに緑とのことを考えようと思った。

ところが、緑とのデートを重ねるにつれて、鉄平の中では和子の存在がどんどん大きくなっていった。自分が好きなのは和子だと自覚した鉄平は、プールでデート中の緑に自分の胸の内を伝えてしまう。あきれた表情で鉄平を見る緑。その様子を、偶然同じプールに来ていた節子と久美が目撃する。
節子たちを見つけた鉄平が緑に紹介するが、緑は最初てっきり節子のことを和子だと思い込んでしまう。鉄平を見る節子の目が、兄を見る目つきではなかったからだ。






そんな折、鉄平は語学力を買われてアメリカ支社への異動を内示される。異例の大出世だったが、アメリカ行きは和子と会えなくなることを意味していた。
鉄平はブローチに替えて高価なハンドバックを買い和子の元を訪れて求婚するが、母や兄のことが心配な和子は、鉄平の申し出を固辞した。頑なな彼女の態度に、さすがの鉄平もあきらめざるを得なかった。
鉄平のことが気になって仕方ない節子は何かと兄にちょっかいを出すが、落ち込んでいる鉄平にきつい言葉を言われて深く傷ついた。

加代は緑との縁談に大乗り気だったが、息子の様子を見ていた銀作は鉄平を飲みに誘う。美人のマダム玲子(白川由美)が営む鉄平行きつけのバーで、銀作は息子の背中を押した。
アメリカ行き3日前、和子のことをあきらめきれずに鉄平はもう一度川崎を訪れる。しかし、健一とともに弘吉の喧嘩に巻き込まれた鉄平は、怪我を負い入院してしまう。アメリカ行きがなくなったばかりか、鉄平は急遽九州支社への異動を命じられた。

鉄平の様子を見ていた節子は、このままでは兄が駄目になると思い、大好きな兄のために一大決心して行動に出る。兄のアメリカ行き当日、炎天下の中を節子は川崎に赴くと和子に兄との結婚を直談判した。
始めは頑なだった和子も、節子のあまりの真剣さに心動かされて鉄平との結婚を承諾する。元々、彼女も鉄平のことが好きだったのだ。大喜びの節子は、空港にいる鉄平に連絡する。
羽田空港で呼び出しを受け電話口に出た鉄平は、節子から事の一部始終を知らされる。そして、電話口に出た和子に、鉄平は弾んだ声で話しかけるのだった…。

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人気の若手スターと豪華キャストをそろえて撮った、キッチュな恋愛&ホームドラマ的仕上がりの作品である。
「何だか、予算をかけたスター主演のテレビドラマを見ているような感じだな…」と思いつつ僕は鑑賞していたのだが、本作を原作にテレビドラマも作られたようだ。やっぱり、テレビドラマとしてもいい素材だったのだろう。
人気絶頂の加山雄三、内藤洋子、酒井和歌子を起用して撮られた青春映画なのだが、無神経なくらいに馬鹿正直でやや鈍感なモテ男、近親相姦すれすれに兄を慕う可愛い妹、美人で聡明だが頑固で訳ありの女性という相関関係とかなり強引な展開で、狙いというよりも結果としてやや風変わりでストレンジなドラマになっているように思う。

個人的には、やや垢抜けない素朴な内藤洋子のキュートさと、お嬢様然とした酒井和歌子の可憐さが堪能できればそれで満足な一本で、かなり能天気な展開については心の中で笑ってスルーしちゃいましょう…的な感じで楽しめた。
結構、突っ込みどころ満載である。

女子社員の仕事と言えばまずはお茶くみ、男性はどこでもスパスパ煙草を吸うといった描写はまさしくこの時代のスタンダードな世情だし、銀座や阿佐ヶ谷の町と対比され徹底的に場末のすすけた町として描かれる川崎も如何にもである。
節子が和子を説得しようとポーコックに向かう道すがら、砂埃舞う工場町の壁に貼られたピンク映画のポスターが風にたなびくシーンがかなり強烈な印象を与える。ピンク映画好きとしては作品名が気になるところだが、残念ながら判読できなかった。

専務が謀っての見合い話とか、アメリカ支社栄転のはずが一転して九州支社へ左遷気味の異動という展開もかなり強引だし、和子をめぐる状況もなかなか漫画的なやさぐれ加減である。
でも、一番ストレンジなのは、節子がピアノを習っているロミ・山田演じる藍子という女性。如何にも裕福そうな庭の広い家に住み、同居しているのはアメリカ人(アンドリュー・ヒューズ)。「あなたのお兄さんのお見合いについて、占ってみましょう」と言って唐突にカードを取り出したり、節子をスポーツカーにのせて乗せてドライブに出かけていきなり彼女にキスする突飛な行動。まさしく、「お前、誰やねん!」な感じである。
節子の奮闘で鉄平と和子はめでたく結ばれる訳だが、公衆電話越しのやり取りでのエンディングが、何とも中途半端で歯切れが悪いのも気になる。

本作は、いささか風変わりな昭和青春映画の徒花的一本。
ロミ山田の正体を悩みつつ、内藤“でこすけ”洋子と酒井和歌子の魅力に酔うのが正しい見方である。




余談ではあるが、小鹿番の女房役・悠木千帆(樹木希林)は、この当時からすでに老けた感じでキャラが一貫していると思う。

NAADA「あんどん集会」2016.8.27@下北沢Laguna

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2016年8月27日、下北沢LagunaでNAADAが出演するイベントLaguna 8th anniversary 大元さむ企画初め「あんどん集会」を観た。イベント名の通り、会場にはいくつものあんどんが置かれていた。
今年、NAADAがライブをやるのは7月9日の真昼の月・夜の太陽以来三度目で、僕が彼らのライブを観るのはこれが45回目。



NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(keyb)


では、この日の感想を。

1. RAINBOW
PAのサウンド・バランスが平板な上に音がラウドすぎるため、音像に奥行きがなく人工的に響く。この曲本来の持ち味である繊細な透明感がきちんと再現されず、聴いていてストレスである。
NAADAのプレイ自体は安定感があり、ハーモニーも定番の美しさなのに、スピーカーから出てくる音がまるで初期CDをフルボリュームで再生しているような印象である。何とも、残念だ。

2. Little Fish
イントロで流れるギターのループ音がリズム的にジャストに聴こえず気持ち悪いし、音数そのものは少ないというのに耳に入ってくるサウンドが情報過多に感じて疲れてしまう。
ボーカル・パートのアンサンブルもバランスにメリハリがなく、もう少し出音に引きがほしい感じである。この曲の良さって、小品的でキュートな音のたたずまいにあると思うからだ。
音が間引かれて、視界が晴れるラストにホッとする。

3.fly
いつもと違ったアプローチのイントロ。このやや感傷的ともいえるアレンジメントは悪くないが、PAと会場が曲の音圧を受け止めきれず、音が歪んでしまうのがもどかしい。
ただ、不思議なことにギターが加わりブレイクしてからの方がサウンド的に安定した。俄然演奏もグルーヴして、疾走するようなスピード感が何とも気持ちいい。

4. 君想
ライブ中盤からようやく音が安定した感じで、この曲では過剰さがなくなりアコースティックでクリアーな音像が会場を包んだ。これで、もう少しボーカルのリバーブが抑えられれば…。それと、音量はもう少し下げた方がこの会場の規模に合うと思うのだが。集中して演奏を聴こうとすると、いささかしんどい。
細やかで丁寧な演奏、伸びやかでエモーショナルな歌がとてもいい。

5.淡香色の夏空へ
静かに奏でられるギターのアルペジオ、まるでガラス細工のように繊細な歌いだし。透明感のある演奏が美しいし、適度に抑制されたコーラス・ワークもいい。それだけに、後半でのリバーブが気になる。
ラストに向けてドラマチックに歌い上げていくパートに、RECOのボーカリストとしての圧倒的な力量を感じる。

僕がこの会場でライブを聴いたのは初めてだが、会場の音的なキャパシティとPAのサウンド・メイキングに首を傾げる部分が少なからずあった。
NAADAの演奏自体はずっと安定していたのだが、このステージではほとんど内音も外音にかき消されて、自分たちのサウンドをモニタリングできなかったのではないか。

僕は声を大にして言いたいのだけれど、ライブの出来というのは演者のパフォーマンスは言うまでもないことだが、それと同等にPAがとても大きなカギを握る。その意味では、この日のライブは色々と残念な部分も少なくなかった。
ただ、彼らの演奏からは今の充実ぶりがしっかりと伝わってきた。

次のライブは、11月5日。いよいよ、待望のワンマン・ライブである。心して待ちたい。
すでに予約でいっぱいらしいが、キャンセルもあると思うので興味のある方はチェックしてみてほしいと思う。

纐纈雅代、伊藤啓太、外山明2016.8.30@中野Sweet Rain

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2016年8月30日、中野Sweet Rainで纐纈雅代さんが演奏するライブを観た。




纐纈雅代(as)、伊藤啓太(b)、外山明(ds)という面々は、要するに内橋和久を除いたBand of Edenということである。




では、この日の感想を。

第一部

1.African Shower(纐纈雅代)
『オレンジ・エクスプレス』の頃の渡辺貞夫を思わせるような、おおらかで開放的に奏でられるアルト・サックスに、タイトなベースとパーカッシヴなドラムス。途中で聴かせる饒舌なフレーズにも纐纈らしさを感じる。




2.天岩戸(纐纈雅代)
朗々と歌う纐纈のソロから入り、ベースのアルコとドラムスが加わる。ジャパニーズ・オリエンタル風味のスピリチュアル・ジャズといった音像とエリック・ドルフィー張りのむせび泣くようなフレーズが刺激的だ。




3.ヤドナシ・ブルース(纐纈雅代)
骨太でフリーキーなブロウを聴かせるサックス、ドラムスのタイム感、タメを利かせたベース・ランニング。リズム隊のグルーヴィーな掛け合いが、何とも気持ちいい。和太鼓のようなドラム・ソロも面白い。
再び三人に戻っての演奏は引き締まった音で、有機的なコンビネーションを聴かせる。



4. カラスの結婚式(纐纈雅代)
ブルージーなサックスとマイナー調の旋律を聴かせるベースのアルコ・プレイ。サックスがメロディをまくしたててからは、自由奔放に疾走する演奏。構築から解体へと変貌して、再び構築へと揺れ戻すアンサンブルは、「哀しみのサーカス」とでも表現したくなるような不思議な切なさを漂わせる。




第二部

5.Broadway Blues(Ornette Coleman)
饒舌、メロディアス、フリーキー、猛々しさといった様々な要素をごった煮にした如何にもオーネット・コールマンのユニークな楽曲を変幻自在のプレイで吹きまくる纐纈の男前なサックスにしびれる。
彼女のプレイを絶妙な距離感でサポートする伊藤と外山のアンサンブルも聴きものである。




6.Un Poco Loco(Bud Powell)
歯切れのいいシャープな演奏で、エスニックなムードから暴力的なワイルドさへと大きく振幅する演奏が圧巻。緩急を使い分けた見事なリズムは、遊び心もあって楽しい。
この日の白眉と断言できる素晴らしさだ。




7.Monk’s Mood(Thelonious Monk)
徹頭徹尾モンク的なメロディを伸びやかに力強くプレイする纐纈のサックス、酩酊感漂うヒプノティックなリズム隊。スケール大きな三人の演奏は、とても魅力的。



8.卑弥呼(纐纈雅代)
ジャズ・ジャイアンツたちの有名曲をセレクトした第二部の最後を飾るのは、纐纈作Band of Edenの定番曲。
和風の旋律をベースにしつつ、ハイ・トーンの自由なフレーズを炸裂させるサックス。さらに、畳みかけるように音の塊を叩き付けるブロウがオーディエンスの耳を挑発する。とてもパーカッシヴで、攻撃的なプレイだ。ギミックに富んだユニークなドラム・ソロも刺激に満ちている。
ある種の幽玄ささえ感じる後半の展開から、ラストは再び圧倒的な音圧で攻め込むプレイが美しくも爽快。まるでディック・デイルのサーフ・ギターの如き伊藤のアルコ・プレイは、ヒリヒリするような皮膚感覚である。





纐纈のオリジナルとジャズ・クラシックをバランスよく配したセットリストは、なかなかに濃密でオリジナリティにあふれた至福の時間であった。
フリー・ジャズで攻撃的に煽ってくる纐纈さんのプレイも大好きだけど、先達のジャズ資産と真摯に向き合う彼女も素敵だ。



心楽しい中野の夜であった。

週末女優「たまことゆかり」

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2016年9月9日、アトリエ第七秘密基地で川嶋一実プロデュース週末女優vol.1「たまことゆかり」を観た。
 

 
今年の3月に上演した舞台の再演で、初演の時は脚本の五戸真理枝が演出も兼ね、配役はたまこが木原千尋、かなえが小川仁美(現・川嶋一実)、劇場はcafe&bar木星劇場だった。
 

 
作:五戸真理枝(文学座)、演出:伊藤毅(青年団)、照明:三浦詩織、音響:藤原圭佑、演出助手・照明操作:佐度那津季、宣伝写真:Masaya、宣伝美術:福森崇広、制作:河本三咲、楽曲提供:2y’soul「JOY」、主宰・企画製作:週末女優、総合プロデューサー:川嶋一実。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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同じ高校の同じクラスだが、まったく対照的なたまこ(小瀧万梨子:青年団・うさぎストライプ)とゆかり(川嶋一実:週末女優)。
バンドのボーカルで作詞・作曲もこなすたまこは、言ってみれば高校の有名人で行動も派手な目立つ存在だが、ゆかりはまじめだけが取り柄の地味な優等生で影も薄い。
高校最後の学園祭で演奏することになっているはずのたまこは、模擬店の喫茶室と化している教室の机でなぜか突っ伏して寝ている。店番のゆかりがたまこを揺り動かすが、バンドはさっき解散したからステージにも立たないと鬱陶しそうにたまこは言った。
たまこは、バンド・メンバーの大久保の子を妊娠しているのだとつい告白してしまう。言葉を失うゆかり。それでも、たまこをステージに立たせたくて食い下がるゆかりに、「だったら、あなたが一緒にステージで歌ってよ!」とたまこは無茶振りした。

あれから10年。28歳になったたまことゆかりは、ライブハウスを拠点に女性ボーカル・ユニットとして活動しているが、生活は苦しくたまこは曲作りしながらバイトを四つも掛け持ちしている。
焦りといら立ちが募るたまことは対照的に、ゆかりは常に前向きで楽しそうだ。そんな相棒の姿もたまこは気に食わず、何かにつけて二人はケンカが絶えなかった。
ゆかりは、たまこのかつての恋人・大久保と付き合っていた。しかも、彼女はプロポーズされた。ただ、結婚を機に歌手を辞めてほしいと大久保から言われていた。たまこは激しく動揺しつつも、これが最初で最後のチャンスだから歌なんか辞めてとっとと結婚しろというが、ゆかりは結婚より歌うことを選んだ。

また、10年が経過した。相変わらず歌い続けているたまことゆかりだったが、今のたまこはオリジナル曲も書かず、まるで惰性のように有名曲のカバーをライブで歌っている。彼女は、体形も中年化が加速しており、若いミュージシャンの影におびえつつ何とか細々とプロ活動を続けていた。
高校時代、たまこの歌への情熱に巻き込まれてこの道に足を踏み入れたゆかりだったが、今では彼女の方がよほどたまこよりも歌うことに情熱を持っていた。
20年間変わらず意見の食い違う二人だったが、食い違いの質は当初とずいぶん様相が違ってきていた。
このところ、毎回のようにライブ会場には大久保の姿があり、ゆかりは自分へのストーカー行為ではないかと気持ち悪がるが、たまこは大久保のことを必死でかばった。
腑に落ちないゆかりが問い詰めると、実は自分が大久保に来てもらっているのだ、とたまこ。
実のところ、たまこはいまだ大久保のことが好きで、彼女は大久保との結婚や普通の家庭を持つことを望んでいたのだ。
結局、たまこは歌を捨てて大久保と結婚した。ゆかりは、一人で歌うことを躊躇なく選んだ。皮肉と言えば、皮肉な話だった。

また、10年が経過した。コンビ解消後、一度もゆかりの歌を聴きに来なかったたまこが、突然ライブ会場に現れた。終演後、楽屋に顔を出したたまこを歓迎するゆかり。たまこも、いまや二児の母親だった。
久しぶりの再会をゆかりは喜んだものの、彼女はたまこの本心を知っていた。大久保が会社を辞めて生活に困ったたまこは、ゆかりの懐を当てにしてきたのだ。ゆかりが借金を断ると、だったらマネージャーでも何でもやらせてくれないか、とたまこ。そんなかつての戦友の変わり果てた姿に、心底失望するゆかり。
自分のみじめさに気づいたたまこは、そのうちまた歌を聴きに来るから、と言った。今日のライブでは、ちゃんとゆかりの歌を聴く余裕すらたまこにはなかったからだ。
去っていくたまこの後ろ姿に、ゆかりはかけるべき言葉も見つからない。

仕事を終えて、疲れた体で夜のバス停へと歩くゆかり。ふと顔を上げると、道の向こうにたまこの姿を見たような気がした。
高校のブレザーを着崩し、ちょっと尖って、生意気で、鼻息が荒くて、いささか自信過剰で、将来への希望と不安で胸をいっぱいに膨らませていた18歳のたまこの姿を…。

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歌でつながったシンメトリカルな女性二人の18歳から48歳まで30年の月日を描いた、ちょっとビターで濃密なクロニクル劇である。
正直に言うと、僕はこの物語が提示するたまことゆかりの転機となる出来事の数々がいささか定型的に過ぎると思う。
まったくキャラクターの異なる二人の女性のありふれた人生の邂逅と別離、二人それぞれのスタンスを対比して進む物語。歌い続けることに疲れた者と歌うことに憑かれた者という二人の立場が入れ替わるややシニカルでニヒリスティックなドラマ構造と、センチメンタルな余韻を残して綺麗に収束する伊藤の技巧的な演出手腕にはハッとする。
けれども、そこに至るまでの過程がともすれば既視感を伴う展開の積み上げで、物足りない。
そういうありふれたエピソードにリアリティを付与するためには、役者が有無を言わせぬ説得力で観客を物語に引き込んでしまうしかないのだが、小瀧万梨子も川嶋一実もそこまで強靭な力技を発揮するには至っていないように思う。

ことあるごとに反目し合い、互いに不満をぶつけ合う二人だが、ややもすると演技が単調になるきらいがある。それが、そのまま舞台の平板さにつながっているように感じた。
これは、あくまで僕の個人的な好みに過ぎないけれど、冒頭の文化祭でのエピソードでは、もう少したまこに斜に構えたニヒリズムがほしいし、後半の展開ではゆかりに突き放したシニシズムがほしい。
何というか、感情のぶつけ方が一本調子で、ややメリハリを欠くように思えたからだ。

それから、二人の人生で重要な意味を持つのは言うまでもなく“歌”であり、劇中でも歌うシーンにかなりの尺が割かれる。音楽オタク的見地から言うと、女優二人の歌唱はお世辞にも感心できるレベルとは言い難く、それがこの演劇に身を委ねきれなかった大きな要因であった。

ただ、ゆかりが他のものをすべて犠牲にしてまで歌うことにこだわる理由が圧倒的な説得力を持っていて胸に迫ることと、ラストで学生時代のたまこを登場させる伊藤毅の演出はエモーショナルな輝きを放っていて秀逸だ。
それから、舞台の要所要所にセクシュアリティが盛り込まれているのも、この女性二人芝居の大きな要素だろう。あえて足を開いて、だらしなくシャツを着崩したたまこのスタイル、中盤に登場するたまことゆかりのキス・シーンと、何気にリアルな息遣いと挑発を仕掛けてくるのも刺激的だった。
とりわけ、小瀧万梨子という女優には、おそらく彼女自身も無自覚と思われるイノセントなコケティッシュさがあって、それをこの舞台はうまく引き出していたように思う。

アフタートークでの川嶋一実の口ぶりからすると、この作品はこれからも長く演じられるようだし、どう舞台としての洗練と進化を模索するかが今後の鍵になるのではないか。
「たまことゆかり」は、川嶋一実とともにこれからもっと育っていく作品だろう。

余談ではあるが、小瀧さんのブレザー姿がナチュラルにはまっていて、何だか感心してしまった。

 

緒方明『東京白菜関K者』

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1980年12月21日公開、緒方明監督『東京白菜関K者』
製作は大場恭司・秋田光彦、脚本は緒方明、撮影は石井聰亙、照明は手塚義治、録音は飯田譲治、製作はダイナマイトプロダクション。
出演は尾上克郎、保坂和志、室井滋、佐野和宏、長崎俊一、諏訪太郎、山本政志、山川直人、手塚真、近田春夫(特別出演)、日野繭子(特別出演)、他。
1980年/8mm/カラー/59分

本作は、緒方明の監督デビュー作であり、1981年の第4回ぴあフィルムフェスティバル入選作である。
僕は、東京国立近代美術館フィルムセンターで開催された第38回PFF ぴあフィルムフェスティバル「映画はPUNKだ!」の企画上映「8ミリ・マッドネス!!~自主映画パンク時代~」の一本として鑑賞した。
並映は、園子温監督『俺は園子温だ!!』。

 

 
ある朝起きたら白菜に変身していた男K(尾上克郎)。東京の街に出た彼は、その異様な容姿ゆえか様々な事件に巻き込まれ、おかしな人々に追い回される。
そして、最後は東京のはずれにある畑で、自ら深い穴を掘って埋まり、一介の白菜へと回帰するのだった…。

題材を見れば誰もがピンとくるように、本作はカフカの「変身」をベースにした作品と言えるが、文学性とか心理描写とか哲学性とかいったしちめんどくささは皆無で、ただひたすらに白菜男が東京のあちこちをひたすら爆走する映画である。
印象としては、バスター・キートンのスラップスティックなテイストを、80’sパンキッシュな無軌道さで料理した一発芸的反射神経作品といった感じである。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった石井聰亙監督の下で助監督をやっていた緒方が、石井監督から「お前も、一本撮れ」と言われて撮影したのが本作だそうである。
九州出身の緒方の感覚からすれば東京はあくまで異郷であり、そんな彼の心象があえて“東京”と冠したタイトルに込められている。
白菜男に扮している尾上克郎は、『シン・ゴジラ』の准監督・特技総括を担当した特撮技術者であり、緒方とは佐賀西高校の同級生。緒方監督曰く、「当時の尾上は、至って普通のヤツだった」とのことである。
ちなみに、白菜の被り物にはお金をかけたとのことで、ちゃんとした造形技術の人にラテックス素材の白菜を発注したそうである。
今の目で見ると、1980年当時の東京の風景(竹の子族、銀座の街並み、北の丸公園、国鉄、新宿駅の地下道)を異邦人の目で切り取った映像が懐かしい。
なお、撮影は届け出と内容は異なるにしてもゲリラ撮影ではないそうだ。

 

魔女のようなメイクで奇天烈な演技を披露する室井滋や、ピンク四天王の一人である若き日の佐野和宏の姿もなかなかに興味深いが、個人的には何といっても当時のピンク映画を代表する人気女優の日野繭子である。
人生に悩んだ白菜男が公衆電話をかけるラジオ番組の電話相談室でアシスタント役をやっているのが彼女で、相談を受ける先生は何と近田春夫。で、なぜかこの二人は白菜男の相談そっちのけで乱闘を始めてしまう。
 

ちなみに、日野さんはBOΦWYの氷室京介がまだ暴威の氷室狂介と名乗っていた時に主演にした諸沢利彦監督の8mm自主映画『裸の24時間』(1984)で氷室の恋人役を演じたのが女優としての最後の仕事だそうである。
ただ、そのフィルムは損傷がひどくて上映不可能とのことだ。残念である。

本作上映後に緒方監督によるトークショーがあったのだが、緒方監督はひたすら恐縮してる感じであった。
僕は、この作品に近田さんと日野さんが出演した経緯を質問したかったんだけど、結局聞けずじまいだった。

いずれにしても、映画作りに対する原初的な情熱とアナーキーさが炸裂した、正しく自主映画的でパンキッシュな作品である。

トースティー、纐纈雅代、勝井祐二「生誕SHOWER 919!」2016.9.19@新宿PIT I

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2016年9月19日、新宿PIT INNで9月19日生まれのミュージシャン三人による企画ライブ「生誕SHOWER919!」を観た。ちなみに919は「クイック」と読むらしい。
今は活動を休止している秘宝感で出会った熱海宝子と纐纈雅代が、実は同じ誕生日だったということで2011年から始まった「生誕SHOWER 919!」。今回、三年ぶりに再開の運びとなった。



トースティーfeat.熱海宝子(うた)、纐纈雅代(sax)、勝井祐二(vln)
ゲスト:原田仁(b)、Nii Tete(perc)、竹村一哲(ds)

ステージ上での話によると、ほとんどのメンバーは初めましてに近い感じらしく、互いの空気を読むような微妙な雰囲気が可笑しい。
ROVOの勝井さんは、最後まで「なんで、俺ここにいるんだ?」的で居心地悪そうな投げやり感が面白かった。


では、この日の感想を。

第一部

1.熱帯感
法螺貝を吹く纐纈を先頭に、メンバーが雑然とステージへ。纐纈がカリンバを、勝井がトレードマークともいえる浮遊感のあるエレクトリック・ヴァイオリンを奏で、そこにトースティーのボイス・パフォーマンスとタイトでパーカッシヴなリズムが加わる。
音響派アプローチのアヴァンギャルドなR.I.O.的出だしから、次第にアフロ・スペーシーな音像が形成されていく過程がスリリングだ。
纐纈のホットなブロウ、勝井と原田のROVOコンビによるクールなサウンド、トースティーの人を食ったようなボイス、ミステリアスでヒプノティックなアンサンブル。
後半では、メンバー全員のプレイがアグレッシヴにヒートアップしていき、ラストはまるでキング・クリムゾン「太陽と戦慄パート2」を思わせるような凄まじさに興奮した。



2.勝井祐二シャワータイム
「シャワータイム」の意味が分かりませんが(笑)エフェクトをかけたリリカルで物悲しいヴァイオリン・ソロで始まり、そこにサックスとボイスが入ってくる。ノイジーでストレンジなアンサンブルにリズム隊が加わり纐纈のサックスが咆哮すると、ジョン・ゾーンが現代音楽を演奏しているようなサウンドから、次第にエスノ・トライバルとアフロ・グルーヴをミクスチュアしたような独特のジャズ・ファンクへ変貌する。近い音があるとすれば、トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』あたりか。
纐纈とトースティーが抜けて勝井のヴァイオリン主導になるラストは、スペース・ダブというべきユニークなサウンドが現出した。



3.纐纈雅代シャワータイム
篠田昌已のコンポステラを想起させるような纐纈のサックスソロは、まるで昭和のサーカス団の如き哀愁が気分だ。
アルバート・アイラーと阿部薫を行き来するようにブルージーな調べをブロウすると、音は饒舌さを増していき凶暴なジャズ・ロックが牙を剥く。ニテテのパーカッション・ソロから祝祭的なアフロ・グルーヴに表情を変え、雅楽的に収束する構成が熱い。



第二部

4. トーストシャワータイム~海獣のバラード
頭にトースターを被りパンを焼くという奇天烈なパフォーマンスをしながら、ストレンジでファニーな曲を歌うトースティー。
小道具のホイップ・クリームが最前列のお客さんに飛んでしまうという、ハプニングな展開に苦笑してしまうが、それもこの人のキャラクターに飲み込まれてしまうところはある種の人徳…といえなくもない(苦笑)



5.原田仁ボイスタイム
トースティーと原田によるカオスなボイス・パフォーマンス合戦から、土着的でパーカッシヴなアンサンブルへと展開する万華鏡的なサウンドがエキサイティングだ。
シャーマニックなたたずまいを見せて進む演奏は、フェイク歌謡から怒涛のファンキー・ミュージックへと疾走する。

 

6.ニテテ&竹村一哲タイム
ニテテのパーカッション・ソロに竹村のドラムスが絡み、そこに原田のハーモニカと勝井のヴァイオリンが加わる。ポリリズミックなアフロ・ファンクが体を震わせる。
そこから、メンバー一丸となって聴かせるのは、まるでアフリカ奥地で人知れず奏でられる呪術的な秘境グルーヴだった。

 

 

-encore-

7.ボレロ(空中ネコちゃん)
飄々とコミカルに歌うトースティーのバックで、メンバーはボレロのメロディーを演奏する。そこに、猫の仮面を被った女性ダンサーも加わり、この日のライブはハッピーでファニーなエンディングを迎えた。




何ともとぼけたMC、つかみどころのない雰囲気、噛み合ってるんだか噛み合ってないんだか分からない三人のやり取りで進行したライブは、いざ演奏が始まると途端に発火するようなステージが何ともスリリングでオリジナリティに富んでいた。

「このメンバーなら、多分こういう音になるよな」と思って僕は足を運んだのだが、思った以上に熱い演奏で十分に楽しめた。
願わくば、来年も勝井さんに参加してほしいと思うけど、どうなんでしょう?

 


メンバーの皆さん、お疲れ様でした!

QUOLOFUNE – 黒船+1 2016.9.23@池袋Absolute Blue

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2016年9月23日、池袋Absolute BlueでQUOLOFUNE – 黒船+1のライブを観た。僕が山田あずささんと中島さち子さんのプレイを聴くのは、4月22日の緋牡丹(仮)以来のことである。

QUOLOFUNE – 黒船:山田あずさ(vib)、中島さち子(pf)、相川瞳(perc)、Guest:小林真理子(b)


では、この日の感想を。

第一部

1.裏山の。(中島さち子)
どこまでも澄み渡る透明度高き湖のようなピアノの旋律、揺らめく水面の斑紋を思わせるヴィブラフォン、純然たる和の響きを持ったパーカッション。
静謐なイントロダクションから次第に音圧を上げていく四人のアンサンブルには、雅やかな格調高さを感じる。
ベースがやや饒舌になると、サウンドはファンキーなたたずまいに。ラストは、重厚なドラマティックさで。



2.HELIOS(山田あずさ)
幻想的なヴィブラフォンの和音のイントロにシャープなパーカッションが加わり、ピアノとベースが入ってくるとサウンドはスリリングに疾走を始める。まるで、燃え盛る蒼い炎の如くクールでホットなグルーヴ
どんどん音がラウドになり、プレイはアグレッシヴに。やがて、徐々にクールダウンしてフィニッシュ。

 


3.Bloom(中島さち子)
重心の低いピアノ、ベース、ヴィブラフォンのユニゾン、幾何学的な音像を感じさせるややアブストラクトでストレンジなアンサンブル。四人がニコニコしながら演奏する様が印象的である。

 



4.CRYSTAL SILENCE(Chick Corea)
独ECMレーベル屈指の名盤の一枚、チック・コリアとゲイリー・バートンによるデュオ・アルバムの表題曲。
ヴィブラフォンとピアノによる透徹した演奏は、まさしく水晶の静寂そのものである。寄り添うようにベースとパーカッションがそっと加わると、ガラス細工のように繊細なサウンドスケープが会場を包み込む。
地に足がついた感じのどっしりした演奏に表情を変える後半、ラストはエレガントに奏でられるヴィブラフォン・ソロ。

 


5.AVERAGE(山田あずさ)
カッチリした硬質なアンサンブル、腰の据わったベース・ラインと煽り立てるようにアグレッシヴなヴィブラフォン、まるで小動物が走り回るようなピアノの旋律とパーカッションのビート。
くるくると目まぐるしく表情を変える演奏が、スリリングだ。

 


第二部

6.山越え(中島さち子)
抒情的で美しいピアノ、軽やかなヴィブラフォン、サウンドのボトムを支えるベースとパーカッション。ストイックなアンサンブルは、次第にスピリチュアルな熱を帯びていく。
とても胸に響く演奏である。

 


7.光(中島さち子)
スペイシーな広がりを感じさせる四人の音楽的対話。ピアノのメロディがエモーショナルな高揚に表情を変えると、ドラマティックに視界が開ける。
音が、ステップを踏んで進んでいくようなしなやかさ。まさしく、光差すようなプレイに心も弾む。

 


8.37℃(山田あずさ)
ピアノ、ベース、ヴィブラフォンのユニゾンで切り込んでくる冒頭は、ややエスニックなテイストのユニークなビート。すべての楽器がパーカッシヴな演奏を聴かせ、大地に根差したようなサウンドが響く。
夜気を運んでくるようなピアノ・プレイ、骨太にグルーヴするベース、シャープなリズムを叩き出すパーカッション、クールでクレバーなヴィブラフォン。スタイリッシュな演奏。

 


9.Naadam(林栄一)
渋さ知らズ所縁のメンバーがいれば、やはり最後はこの名曲。流麗でグルーヴィーなヴィブラフォン、ファンキーなビートを刻むベースとパーカッション。最高にクール&ホットでエキサイティングな演奏。自然に聴く側も身体が揺れ始める。
メンバー一丸となって疾走する様は、とてもスリリングだ。ピアノとパーカッションによるエキゾティックでソウルフルな掛け合いにしびれる。
再び四人に戻ると、ひたすら突き進んでいくような圧倒的ダイナミズムがたまらない。発火するような熱いプレイである。

 


-encore-

10. Sárgul már a fügefa levele(ハンガリー民謡)
エキゾティックなパーカッション・ソロから入る演奏は、夜のしじまにそっと入り込んでくる優しく静かな美しい調べ。ここではない何処か…とでもいうような、不思議な郷愁に心がざわめいた。

 


女性四人による演奏は、このメンバーならではのオリジナリティを感じさせる楽さだった。
ちょっと天然さが覗く山田さんのMCは聞いていてくすっと笑ってしまうんだけど、いざ演奏になるとビシッと決まるから流石である。
ちょっと贅沢な時間を過ごせた、週末の夜だった。
メンバーの皆さん、お疲れ様でした。

緋牡丹ず 2016.10.15@国立NO TRUNKS

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2016年10月15日、国立NO TRUNKSで緋牡丹ずのライブを観た。

 

 

もそも、緋牡丹ずは渋さ女子部として企画されたライブが不破大輔さんのダブル・ブッキングにより、急遽ベースをかわいしのぶさんが代演したことから偶発的にできた女性カルテットである。わりと困った理由である。
その4月22日のライブが好評だったので、正式に「緋牡丹ず」として二回目のライブが企画された。命名は、NO TRUNKSのマスター村上寛さんである。
なお、四人が持ち寄った曲をジャンケンで勝った順に演奏するという緩いノリは、今回も同様である。

緋牡丹ず:纐纈雅代(as)、中島さち子(pf)、山田あずさ(vib)、かわいしのぶ(eb)


では、この日の感想を。

第一部

1.ひめごと(かわいしのぶ)
ちょっと人を食ったような、コミカルでとぼけた歌。突然、かわいからソロを振られて戸惑う纐纈が微笑ましい…のだけど、そこからスウィンぎーに吹くのは流石だ。
キュートな演奏である。

 


2. Bloom(中島さち子)
重心の低いベース・ライン、軽やかなヴィブラフォン、ややノイジーなピアノとフリーキーなサックス。ちょっとアブストラクトで、スリリングな音像。各人が異なるベクトルで演奏しているようで、ギリギリのラインで破綻しないタイト・ロープの如きアンサンブル
ヴィブラフォンのアグレッシヴなプレイをうかがいつつ音を合わせるピアノ、淡々と自分のラインを饒舌に弾くベース、アタックの強い演奏から、ドラマティックなピアノ・ソロへ。
再び四人に戻ると、フリーキーなユニゾンをバッチリ決めて終演。

 


3.夜の緋牡丹ず(フリー・インプロ)
「今夜は一曲しか持ってこなかったから第一部ではインプロをやりますが、旅っぽいのと蟻地獄のような酒と闇…みたいの、どっちかいいですか?」という纐纈の言葉に、お客が選んだのは後者(笑)
まるでエリック・ドルフィーのようにいななくサックスに導かれて、エキセントリックな音を奏でるメンバー。闇すら破壊するようなヴァイオレントなフリー・インプロビゼーション。
激しいプレイの応酬から、嵐が去った後のように訪れる静寂が美しい。

 


4.Menuet~Petite suiteより(Claude Debussy)
山田が用意したのは、ドビュッシーの「メヌエット」をアレンジした楽曲。ハッとするような透明感と哀愁漂う感傷的な美しいメロディ、秋の夜にそっと忍び込むような心洗われる室内楽的アンサンブル。蟻地獄的な女の闇の世界から一転、NO TRUNKSがセレブリティなサロンに
徐々に音が力強さを増し、サックスのブルージーなフレーズとヴィブラフォンのソウルフルな旋律。ドビュッシーのメロディが、極めて日本的なマイナー調のサウンドに再構築される面白さ。

 


第二部

5.共存のブルース(かわいしのぶ)
やはり、コミカルな歌に始まり、ヴィブラフォンのキュートなメロディと明るく歯切れのいいピアノ、アーシーなサックスが絡む小品である。

 


6. 37℃(山田あずさ)
日本昔話を想起させるような和風の旋律、低音を強調したアンサンブルで進み、次にブルージーなサックスが力強くブロウされ、そこにアタックの強いピアノと骨太なベース・ライン、クリスタルなヴィブラフォンが重なる。どこか演歌的なウェットさとソウルフルな拳回しを感じる。
パーカッシヴに切り込むヴィブラフォンの攻撃的なプレイから、ゴスペル・ライクに響くピアノ。とてもポジティヴなサウンドに、心震える。
まさに、スピリチュアル!

 


7.カラスの結婚式(纐纈雅代)
ブルージーでエキゾティックなメロディを持った纐纈ファンにはお馴染みの曲である。緋牡丹ずによる演奏は、独特のエレガントさとリリシズム、それに逞しさも伴った素晴らしいものだった。

 


8.一摘みの祈り(中島さち子)
繊細で美しいクリスタルな響きを共鳴するピアノとヴィブラフォンによるイントロダクション。祈りのタイトルそのままに、ブライトな敬虔さを感じさせるサックスのメロディ。
過剰さを排したストイックなプレイだからこそ、この曲に込められた想いが聴く者の胸を打つ。
長くつらい夜の後、ようやく迎えられた新しい陽の出のようなさわやかさが感動的である。

 


-encore-

かわいの「闇で終わります…」の一言で始まった演奏は、ひたすらアグレッシヴに叩き付けられる女性四人の内的な闇であった。
不協和音寸前の不穏でアブストラクトな音は、さながら不眠症的フリー・ジャズとでも称したくなるようなヒリヒリした危うさだ。


 

前回のライブは、当人たちも含めて何が飛び出すか分からないスリリングさと時々のぞくユーモラスな雰囲気が楽しかったが、今回はある種の確信となって演奏が展開していたように思う。
「この四人ならでは」というキャラクターが音の輪郭を形作っていたし、これからも定期的に続けてほしい女性カルテットである。
メンバーの皆さん、お疲れ様でした。

纐纈雅代、原田依幸、石渡明廣 2016.10.21@西荻窪アケタの店

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2016年10月21日、西荻窪アケタの店で纐纈雅代、原田依幸、石渡明廣のライブを観た。このメンバーで演奏するのは、8月19日以来である。
 

 
僕は、たまたま先月に原田さんのソロ・デビュー作『Miu』(1981)を買っており、愛聴しているところだった。彼が参加した集団疎開1976年のライブ盤『その前夜』も持っている。


纐纈雅代(as)、原田依幸(pf)、石渡明廣(eg)


では、この日の感想を。演奏は、すべてインプロヴィゼーションである。

第一部

1.静寂による対話、とでもいうべき三者による張りつめた音出し。深遠な音像が会場を包む。ひっそりと息づく誰も知らない秘密の森に響くような音は、まさしく幽玄の世界である。
緊張と不穏、抽象的な自由。
それぞれが自らの音を高めていき、静寂は暴力的に歪んだ緊迫感へと変貌する。ヒプノティックなピアノ、知的でコールドなギター、法竹を思わせるサックス。テンションみなぎるアブストラクトで極北的な音。
コンストラクトとディスコンストラクトを繰り返すラウドなサウンドは、まさにBreak on through to the other sideである。フリーキーにスウィングしていく様は、本当にエキサイティング極まりない。
原田と石渡の出す音に聞き耳を立てる纐纈の表情が、とても印象的。ひとつのジャズ的宇宙である。(40分)

 

2. 熱いブロウ・アップを聴かせるサックス、ワウワウをかけたスペイシーなギターのスケール、スピリチュアルでパーカッシヴなピアノ。簡潔にして刺激的な演奏。(5分)
 


第二部

3. ハンマーを打ち下ろすようなピアノ、性急なアルペジオを奏でるギター、地面から上昇していくようなサックス。そして、サウンドはアグレッシヴに発火する。
ハードでフリーキーなプレイの応酬から一転して静寂が訪れ、ハッとするようなバラードにチェンジする展開は息を飲む美しさだ。(20分)

 

4. 太い音で吹き始めるサックス、クールとホットを行き来するワウワウ・ギター、いかにも纐纈らしい男前なフリー・ブロウに絶妙な音を合わせるギターとピアノ。
一音、一音に強靭な説得力があるピアノ。終始、ダンディズムを貫くギター。ドメスティックなフリー・ブルースを歌うサックス。(7分)

 

 
三人のミュージシャンが即興演奏の中で互いの個性をぶつけ合い、その化学反応によって生み出されていくサウンド。まさに真剣勝負的で濃密なライブであった。

どこかとぼけた感じの原田さん、終始クールな石渡さんとマイペースな二人に挟まれて、一曲終わるごとに演奏時間を気にする纐纈さんのたたずまいが何となく微笑ましかった。
第二部が終わった後、「今、何時なんだろ?アンコールは、どうするんですか?」みたいな感じになった末に、纐纈さんが「え~と、何かもう演らなそうなんで、これで終わります。ありがとうございました…」的にMCして終演したのだった(笑)

皆さん、お疲れ様でした。

 

NAADA「NAADA HOUSEへようこそ vol.1」2016.11.5@スタジオ・アンダン

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2016年11月5日、田端にある音楽レンタルスペースStudio AndantinoでNAADA初のワンマン「NAADA HOUSEへようこそ vol.1」を見た。
今年、NAADAがライブをやるのは8月27日の下北沢Laguna以来四度目で、僕が彼らのライブを観るのはこれが通算46回目。
いつもだと曲ごとの演奏内容に触れたレビューを書いているんだけど、上述したように今回は初ワンマン記念ということで、いつもとはちょっと違った感じで書こうと思う。「NAADAと僕と音楽と」風に、ささやかなるクロニクル的な文章を。
 

NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf)

以前にも書いたことがあるけど、僕がNAADAの存在を知ったのは偶然だった。
今を遡ること8年前、2008年12月16日に池袋のライブハウス鈴ん小屋で開催された音楽イベント「plumusic Christmas」で友人のベリーダンサーが踊るというので足を運んだ。今は対バン形式のライブがあってもほぼお目当てのバンドしか聴かない僕だが、当時は持て余すほどに時間があったから律儀に全出演者の演奏を聴いていた。そして、よかった演奏者には積極的に声を掛けたりもしていた。
今思えば、随分と元気で行動的だったんだな、自分…と半ば感心、半ば呆れつつ回想してしまうけれど、この時声をかけたのがNAADAのRECOちゃんだった。その日の演奏は、5人のフルバンド編成であった。

 

当時のレビューを読み返してみると、「NAADAは、ボーカルの女性にキュートなキャラクターと豊かな表現力があり、メロディもキャッチーで安心して聴くことができた」と書いている。あと、「ギターに華がない」とか書いてるな。すまん、マツボ!(笑)
僕の記憶が確かならばこの日の鈴ん小屋は音響が悪く、特にNAADAのライブ前半は音がめちゃくちゃ歪みまくっていた。にもかかわらず、彼らの曲が持っているポップな魅力はちゃんと聴き取ることができた。

それからしばらくが経った2009年4月30日、今度はサポートなしの二人だけによるNAADAの演奏を代官山NOMADに聴きに行った。この時のイベント名はNOMAD Presents「音楽曜日 Vol.5」。
以来、コンスタントにNAADAのライブに足を運んで今日に至っている。僕は重度の音楽オタクを自覚しているけど、彼らは僕が愛してやまない極めて重要なミュージシャンである。
以前、「NAADA~裸足の天使が舞い降りる場所」と題してNAADAの音楽的魅力について書いた文章を紹介しておこう。

2011年9月に、一度だけ演奏時間60分のツーマン・ライブをやったことがあった。レパートリーも十分にあるし、尺の長いライブでこそNAADAが持っている音楽的な多面性と魅力がもっと発揮できるはずだと僕はずっと勝手に思い続けていたのだが、待ち望んでいたワンマンはなかなか行われなかった。多分、彼らにとっての“その時期”はまだ到来していなかったのだろう。
ちなみに、ツーマンの時にサポート・メンバーとしてNAADAとともにステージに立っていたのがCOARIだった。

そして、今年はNAADAにとって大きなターニング・ポイントとなった。アルバム『muule』を全国流通にのせ、You Tube上で週一回カバー動画を発表するNAADAchannelをスタートして、彼らの重要なサポート・メンバーだったCOARIを正式メンバーに迎えたのだ。
とりわけ、NAADAchannnelのインパクトは大きく、彼らの音楽はこれまでとは桁違いの数の人々に届くようになり、彼らのファンは着実に増え続けている。
これは、NAADAの音楽を愛聴し続けている僕がずっと望んでいたことであり、いちロートル・ファンとしてはうれしい限りである。

 

で、言葉通り「期は熟した」ということなのだろう。本当に待望のワンマンが実現した。何から何までNAADAの手作り、あえて会場をライブハウスでなく音楽スタジオにしての三時間。
コンサートは、以下の通り三部で構成された。

PART 1
sunrise
Humming
スマイル

Little Fish
Good bye
echo
fly
I love you
Twill
Guitar Solo

PART 2
You Tube NAADAchannelからセレクトしたカバーをメドレーで

PART 3
愛、希望、海に空
cherish
puzzle
REBORN
RAINBOW

ライブ開始から二曲目くらいまで音響的に不安定な部分もあったけれど、ライティングによる演出もできない環境ながら、彼らの想いの熱さが満ち溢れ、その音楽を熱心に聴き入るオーディエンスが会場を埋め尽くし、終始コンサートは温かくリラックスしたムードに包まれていた。
そう、まさにNAADA HOUSEに集まった気の置けない人々とでもいう風に…。

第二部の時、お客さんから寄せられた質問にメンバーが答える風景が妙に新鮮だった。「ああ、確実にNAADAは新しいファンを獲得しているのだな」と思った訳だ。
その第二部ではRECOがいかに幅広い表現力を持ったボーカリストなのかということを改めて実感できたのが、個人的には大きな収穫であった。

そして、オリジナル・パートの第一部と第三部について。

沢山の素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、僕の個人的な思いをシンプルに書いておこう。
久しぶりに『Triangle2』バージョンで演奏された「fly」としばらくステージ演奏がなかった「cherish」の二曲がとても心に響いた。
現在のライブで一つのハイライトとなっている「fly」は僕の大好きな曲だけど、静かなイントロから始まるこのバージョンはしばらくご無沙汰だったのだ。
そして、「cherish」は数年前までピアノが加わった編成でのハイライトとなるエモーショナルなバラードだったから、久しぶりにこの曲を熱唱するRECOの姿に胸が熱くなってしまった。何というか、僕がNAADAを聴き始めたころのことが色々と思い出されて。

この日のライブでもっとも僕の心を貫いた珠玉の一曲、それは「Twill」だった。極めて個人的なことを言うと、今年は色々としんどいことが続いて心身ともかなり疲弊しているのだけれど、この曲を聴いているうちに自分がとても励まされているような気持ちになった。
もし、音楽に某かの力があるとするならば、この日に演奏された「Twill」は正真正銘の音楽的な力に他ならないと思う。
ヒーリングという言葉はともすれば安っぽく聞こえるけれど、この日の「Twill」が僕にもたらしたものは、癒しなんかではなくもっと根源的なパワーだった。

風邪が治りきっていない体を押して会場にやって来た僕は、終演後にメンバーと言葉を交わすことなくすぐ会場を後にしてしまった。
けれど、帰りは心も体もちょっと元気になっていた。
冬の近づいた外の空気は風邪が抜けない身には冷たいものだったけれど、耳に残るNAADAの音楽は、僕の心を温めてくれたのだ。

そんな、一日だった。

 

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