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NAADA「宇宙で君と踊る」2015.11.7@東新宿 真昼の月・夜の太陽

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2015年11月7日、東新宿の真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「宇宙で君と踊る」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが42回目。前回観たのは2015年7月25日、場所は同じ真昼の月・夜の太陽だった。
この日は、NAADAのメンバーとしてCOARI(笹沢早織)が正式加入後の初ライブである。

NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf) + 宍倉充(b) + 古沢優子(chor)






では、この日の感想を。

1.Humming
前回のライブは宍倉を除いた4人編成で、その時同様4声コーラスでの歌い出し。PAがやや安定性を欠いているものの、ギターの押し出しもハーモニーの繊細さも聴き取れるし、RECOのボーカルもクリアーである。
宍倉のベースがグルーヴして、COARIが奏でる転がるようなピアノのフレーズもキュートに響く。
エコーの深過ぎる音像が演奏の良さをやや阻害しているのが難だが、非常に完成度の高いアレンジとパフォーマンスである。その意味でも、この曲におけるひとつの完成形的クオリティに到達しているように感じた。

2.overlook
演奏を牽引すべきギターの音がざらついて聴こえるのが気になるし、全体的に音が平板で立体感に乏しい。曲の持っているキャラクターを考えれば、いささか抽象的な表現になってしまうがもっとガッツある客席に迫ってくるような音で聴きたい。グルーヴィーにうねるベース・ラインと技巧的な歌が、魅力的。
演奏が後半に入るとサウンドが整ってきて、ようやく音が前に出てくる。できることなら、通してこの音像で聴きたかったところである。

3.echo
MATSUBOの奏でる繊細なギター・イントロの響きが心地よい。ところが、本来もっと静謐に響かせるべきRECOのボーカルにやや作為的とも思える深いエコーがかかってしまい、この曲も魅力ともいえる抑制された喪失の哀しみが的確にアウト・プットできていないように思う。
とにかく二人だけの演奏だから、ストイックでナチュラルな音で聴きたい。個人的にはかなり思い入れのある曲だけに、残念である。

4.愛 希望、海に空
前回のライブでもハイライト的に響いた曲で、その時も「ひとつの到達点的プレイ」だとレビューに書いたのだが、驚くべきことにこの日の演奏は更なる進化がもたらされていた。
基本的にはポップスを標榜するNAADAにあって、「愛 希望、海に空」という楽曲はある意味異色のレパートリーと言えるかもしれない。最小限に削ぎ落された詞と抽象的なまでに拡がりを持ったイマジネイティヴなメロディは、色々な音楽的表現の可能性を秘めている。
この日の演奏は、先ず情緒的なCOARIのピアノ・フレーズのイントロでスタート。そこに、MATSUBOがアタッチメントを使ったギター・エフェクトで、ブルース・ハープとインダストリアルなシンセのような音をギターで被せる。そこにハッとするようなボーカリゼイションが加わって、現出するのは極めて音響的な現代音楽の如き音像である。
もはや、西欧のシンフォニックなプログレッシヴ・ロック同様の難易度と高い音楽的志しに圧倒される。後半の展開では宗教音楽のような荘厳ささえ纏って、敬虔さを伴った静寂なエンディングを迎えた。その揺るぎない音楽的確信に満ちた演奏に、正直鳥肌が立った。
何と言っても素晴らしいのは、これだけ音を構築しながらも、旋律自体はシンプルにメロディアスで、トータルとしてのポピュラリティからは逸脱していないところである。ギリギリのところで、NAADAの音楽的アイデンティティにとどまっているのだ。
本当に、ひとつの到達点と断言できる圧倒的な完成度であった。

5.RAINBOW
水彩画のような佇まいのピアノとギターのアンサンブルに、爽快感を伴う2声のコーラス。そこにRECOのメイン・ボーカルが加わって、メンバー3人によるナチュラルでポジティヴな演奏が展開する。
やはり、深過ぎるエコーが音像を拡散させてしまい、曲の輪郭がややぼやけてしまう。安定感抜群のRECOの歌がハッピーな解放感に満ちているだけに、この音は何とも残念である。


前回のライブもかなりのクオリティに舌を巻いたが、この日の演奏はさらに上を行く素晴らしい内容だった。
ただ、演奏の素晴らしさ故に、この会場のPA的な問題点もより露わになってしまい、聴く側にとっては結構なストレスだったのもまた事実である。本当に、深刻でシビアな問題点だと思う。
前回と今回での大きな違いは、言うまでもなくこれまでサポート・メンバーだったCOARIがNAADAの正式メンバーとなったことで、彼女がメンバーであればこそのバンド的な一体感とより深い音楽的な試行錯誤が可能になったのではないか、と推察する。
それはこの日の演奏の随所に聴き取れたし、今後のNAADAの音楽的進化を予感させる。長年聴き続けている一ファンとしては、彼女の加入をシンプルに歓迎したいと思う。

この日のライブは、ある種の達成感に満ちた素晴らしい演奏内容だったし、次なる飛躍へのインロトダクションのように僕の耳には響いた。
今年のライブはこれがラストのようだが、これからのNAADAの音楽的前進に期待したい。


土方鉄人『戦争の犬たち』

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1980年10月11日公開、土方鉄人監督『戦争の犬たち』




製作は小泉作一、プロデューサーは飯島洋一、脚本は土方鉄人、撮影は伊東英男、美術は鈴木文男、音楽は泉谷しげる、録音は斉藤恒夫、照明は磯貝誠、編集は高城哲、助監督は成田裕介、ロケーション・マネージャーは長田孫作、スチールは滝本淳助。製作はアサルトプロダクション。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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インドシナにあるラオタイ国でウラン鉱脈に関する調査を行っていた日本人科学者二人が、地元ゲリラ愛国戦線によって拉致された。ことを表沙汰にしたくない政府の要人(草薙幸二郎:特別出演)は、極秘裏に警備会社社長(佐藤慶:特別出演)の元を訪ねる。傭兵ビジネスでひと儲け企む社長は、政府要人を懐柔。元陸上自衛隊レンジャー部隊教官でアンゴラ・中東を転戦した経験を持つ吉成(青木義朗)を隊長に指名、傭兵を組織して科学者を奪還する任務に就かせる。

「海外に興味深い仕事あり!」と書かれた警備会社の新聞広告。世の中に不満を募らせ、フラストレーションを溜め込んだろくでなしたちが、高額収入を謳うこの見るからに怪しげな広告に、“誘蛾灯に集まる昆虫”の如く引き寄せられて来た。
募集で集まった戦争マニアの無職青年・山本(飯島洋一)、街宣車に乗ってアジ演説行っていた右翼・雷電為吉(安岡力也)、スキンヘッドの胡散臭い中国人・李(清水宏)、頭が弱く呂律もおかしい小暮虎雄(たこ八郎)、如何にもお調子者そうな藤田(堀礼文)、口だけが達者な外国人ベルマ(立川談とん=現・快楽亭ブラック)らは即採用され、吉成の部下で副官の本多(椎谷建治)の指示のもと教練プログラムを開始する。



最初こそ、国内では手にできないはずの銃器訓練に目を輝かせる男たちだったが、その実践的でシリアスなプログラムに不審を抱き始める。
あまりのハードさに根を上げた小暮が訓練所からの脱走を図るが、彼はあっさり射殺されてしまう。ここに至って、ようやく吉成は本当の招集目的を告げた。男たちは、自分たちが本当の戦地に赴くと知り動揺を隠せない。吉成は、「行く気のない者は、今すぐに訓練をやめてここを去れ」と言い、この言葉を聞いて半分以上の者たちが脱落した。
もちろん、秘密を知った者たちを吉成が大人しく帰すはずもなく、脱落者たちも小暮と同じ運命を辿った。

訓練を終えた山本たち14名は、吉成に率いられてラオタイ国に飛んだ。現地では、かつて南ベトナム特殊部隊で戦った生え抜きのベテラン傭兵ラモ・ソン大佐(港雄一)と合流。早速、科学者奪還のためのミッションを開始した。
ジャングルにおけるゲリラ戦では、雷電が敵の餌食となるが吉成は躊躇なく彼のことを見捨てた。その非情さを目の当たりにした隊員たちは、否応なく自分たちが生死ギリギリのラインに立って戦争していることを実感する。
その中にあって、山本は水を得た魚のようにアドレナリンをほとばしらせて戦争に没入して行く。




部落長(梅津栄)からゲリラのアジトを聞き出した吉成たちは、アジトを急襲して科学者二人の救出に成功するが、人数でも土地勘でも圧倒的に有利なゲリラたちの前に、隊員たちは次々と殺されてしまう。逃走した藤田は竹槍を仕込んだ落とし穴で串刺しとなり、ラモ・ソンは底なし沼に飲み込まれた。
激しい戦いの中、自分とはウマの合った李を吉成が見殺しにするところを目撃した山本は、遂にキレて吉成や科学者めがけて銃を撃ちまくり、そのままジャングルの中に消えた。



ようやく敵陣を出た山本は、滝壷で一息ついていたが、事切れたはずの吉成が亡霊のように現れて山本に襲いかかって来た。驚愕の表情を浮かべた山本は、李の遺品だったナイフで吉成を滅多刺しにすると、再び迷宮のようなジャングルの奥地を夢遊病患者のように歩いて行くのだった…。

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和光大学が母体となり、卒業記念に映画を撮りたいと土方鉄人や飯島洋一が銀座並木座の支配人・小泉作一の元を訪ねたのがきっかけで、破格の製作費3,000万円を投じて作られた自主製作映画である。
なお、戦地のロケは御殿場、クライマックスで登場する滝のシーンは大井川の源流らしい。
この時期は、名画座と若き映画製作者が組んで自主製作する機運が高まっていたようで、石井聰互(岳龍)と上板東映(1983年公開の滝田洋二郎監督『連続暴姦』 は、この劇場が使われている)の支配人・小林紘が組んで、『狂い咲きサンダーロード』を撮っている。



今の目で見ればややサブカル的に映る部分もあるかもしれないが、何とも不思議な熱気に包まれた映画である。本作が提示するドラマ以上に、この作品の佇まいそのものがゲリラ的なキャラクターを纏っているように感じる。
こういう表現はいささか何だが、僕はこの作品を観ていて同じ時期に高橋伴明が撮ったピンク映画の強靭な傑作群と同質のテンションのほとばしりや熱量の放射を感じた。あるいは、如何にも独立プロダクション的なガッツと言い換えてもいい。

「今の目で見てサブカル的」と評したのは、安岡力也泉谷しげる(傭兵メンバーの一人、グエン役で出演)、あるいは所ジョージ(ゲリラ役)やたこ八郎立川談とんが出ていたりするからというのもある。
ちなみに、飯島洋一は『狂い咲きサンダーロード』にも出演しており、泉谷しげるはその美術を担当している。

自主映画としては超大作と言っていいくらいの予算がかけられているが、全体としての印象は良くも悪くもインディーズ的な荒っぽい勢いで93分を疾走する作品である。まさしく、好きな人にはたまらない作品だろう。
個人的には、当時キャリアのピークに達していた泉谷しげるの音楽が最高である。エンディング・テーマとして流れるのは、名作『都会のランナー』(1979)に収録されている「褐色のセールスマン」だ。



僕はこの作品を観ていて、自分が興味を抱いていた一見バラバラのようなピースが、実は地続きだったのだな…ということに気づいて、今更ながら感慨に浸ってしまった。
1980年といえば、僕が音楽オタクになるきっかけイエロー・マジック・オーケストラの『パブリック・プレッシャー』を聴きまくっていた時期で、その流れから大島渚監督『戦場のメリークリスマス』(1983)も観ているのだが、飯島が日本兵役で出演している。
ちなみに、『戦争の犬たち』で撮影を担当している伊東英男は、大島渚監督のハードコア・ポルノとして物議をかもした『愛のコリーダ』(1976)のカメラマンでもある。



本作の印象としてピンク映画を引き合いに出した訳だが、飯島はピンク映画にも役者や助監督で参加していた人である。そして、共演の港雄一といえば久保新二や野上正義と並んでピンク映画を代表する三大男優の一人であった。また、たこ八郎や快楽亭ブラックもピンク映画に出演している。
泉谷しげるも、高橋伴明プロデュースで『ハーレム・バレンタインデイ』(1982)というピンク映画を撮っており、土方鉄人が役者として出演している。



まさしく、地続きなのだ。

本作は、1980年という時代が生み出したカオスな映画熱を真空パックしたような規格外の怪作。
飯島洋一のマッドな存在感共々、当時の意気軒昂な自主製作の勢いを感じるには絶好の作品である。

黒沢清『ドレミファ娘の血は騒ぐ』

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1985年11月3日公開の黒沢清監督『ドレミファ娘の血は騒ぐ』




企画は丸山茂雄・宮坂進、プロデューサーは荒井勝則・山本文夫、脚本は黒沢清・万田邦敏、撮影は瓜生敏彦、美術は星埜恵子、音楽は東京タワーズ・沢口清美、照明は片山竹雄、編集は菊池純一、録音は銀座サウンド、助監督は万田邦敏、監督助手は岡田周一・佐々木浩久・鎮西尚一、撮影助手は岡本順孝・佐竹力也、美術助手は暉峻創三・塩田明彦、照明助手は及川一郎・矢木宏、特殊美術は昼間行雄、特殊機材は河村豊、記録は高山秀子、メイクは浜田芳恵・志川あずさ、タイトルはハセガワプロ、現像は東京現像所、スチールは野上哲夫、制作進行は庄司真由美・植野亮・寺野伊佐雄、製作デスクは山川とも子、宣伝は勝野宏。
協力は多摩美術学園、ぴあ株式会社、立教大学、S・P・P、位相機械ユニット、キー・グリップ、光映新社、東洋照明、日本照明、ペーパーメイル、三穂電気。
製作はEPIC・ソニー、ディレクターズ・カンパニー、配給はディレクターズ・カンパニー。


こんな物語である。

「とうとう来ました、吉岡さん」。



同じ高校でバンドをやっていた愛する吉岡実(加藤賢崇)を追いかけ、吉岡が通っている東京の大学へと田舎からはるばるやって来た秋子(洞口依子)。
学生たちでごった返すキャンパスの華やかさに戸惑いながら、秋子は彼が所属しているはずの音楽サークル「ベラクルス」の部室を見つけ出した。いざ、中に入ると部室の中から激しい息遣いが聞こえて来る。覗いてみると、男女が求め合っていた。驚いて、部室から飛び出す秋子。



部室に吉岡がいないと分かり、秋子は吉岡が専攻している心理学科の平山ゼミを訪ねることにする。すると、先ほど部室でセックスしていたエミ(麻生うさぎ)が何もなかったような顔で秋子に話しかけて来た。二人は、連れ立って教室へと歩いて行った。



教室では、すでに学生たちが集まり平山教授(伊丹十三)の講義が始まっていた。エミは、何の躊躇もなく教室に入って行き、秋子も彼女に続いた。ところが、ここにも吉岡はいなかった。学生(岸野萌圓)の話では、最初の一、二回しかゼミに出て来ていないらしい。
諦めて、秋子は教室から出て行った。



ようやく秋子は吉岡との再会を果たすが、吉岡は高校時代とは似ても似つかぬ軽薄でいい加減な男に成り下がっていた。彼女の恋心は、一瞬にして冷めてしまった。大いなる喪失感を胸に秋子は帰京しようとするが、その彼女を平山が引きとめる。



ゼミ生たちと日々禅問答のような噛み合わない議論を続ける平山の研究テーマは「恥じらい」であったが、ゼミ生たちが平山に何の断りもなく彼が考案した「恥ずかし実験」を実践してしまう。感情コントロールを失った学生たちは破廉恥な肉欲を爆発させ、教室内はたちまち性的カオスとなった。



彼らに大いなる失望を感じた平山は、実験素材としても女性としても気にかけていた秋子を誘い、特別実験室で自ら考案した「恥ずかし実験」を二人きりで実践にするが…。




ミリオン・フィルム配給のピンク映画『神田川淫乱戦争』 (1983)でデビューした黒沢清が、にっかつ配給のロマンポルノ並映作として撮った二本目の商業映画『女子大生 恥ずかしゼミナール』は、諸事情から公開が白紙になってしまう。
そこで、絡みのシーンを大幅にカットした上で20分の追撮を行い、一般映画として再構成したのが洞口依子の映画デビュー作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』である。
『神田川淫乱戦争』も相当に人を食ったユニークというよりサブカル的な感じで斜に構えたピンク映画だったが、本作もまさしくその延長線上の作品になっている。

『神田川淫乱戦争』に関わったキャスト・スタッフの多くが、本作にも参加している。ピンク映画の人気女優で、じゃがたらのバック・コーラスや一部の曲では詞も提供していた麻生うさぎは、本作が現時点では最後の映画出演作となっている。平山ゼミの学生を演じている岸野萌圓は、音楽を担当している東京タワーズの岸野雄一である。
スタッフでは、撮影の瓜生敏彦や万田邦敏、塩田明彦、菊池純一、勝野宏が共通しており、製作助手だった笠原幸一は本作で内部エキストラ的に登場する。

とにかく、前作以上にゴダール的にシュールで唐突なカット(ラストの戦争シーンなど、その典型)が随所に見られるし、遊びにしても青臭ささえ感じてしまう自主製作ノリ全開の演出には、自己完結的な退屈さと紙一重の危うさも確かにある。
こういう作品が商業映画として公開されたことに、ある意味当時の豊かさを感じてしまったりする訳だ。それはそれで、何とも羨ましく思う。



まあ、今となっては“あの”黒沢清監督の初期作品という格好の分析アイテムという捉え方もできるし、「洞口依子は、最初から洞口依子だった!」という感慨を抱いたりもする
いずれにしても、幻作品としてお蔵入りすることなく本作が公開されたことを歓迎したい。
僕は、麻生うさぎが大好きで彼女目当てに本作を観たのだが、演技的な拙さは否定できないものの絡みのよさとキュートな存在感に惚れ惚れしてしまった。本当に、本作以降彼女の出演作がなかったことが残念でならない。



…にしても、本当に奇妙奇天烈で珍妙な作品であり、何処にも属さない不思議な映画である。個人的には、妙にスカしたナイス・ミドルな伊丹十三の魅力も捨てがたい。
洞口依子ファンにはこの形で公開されたことを歓迎する向きが多いと思うが、ピンク映画に思い入れのある僕のような者にとっては、当初の『女子大生 恥ずかしゼミナール』版の方こそ是非とも観てみたいと思ってしまう。カットされたシーンには、麻生うさぎが絡む素材も多かっただろうし…。

本作は、洞口依子のデビュー作として、また一部のマニアックな映画好きにとっては麻生うさぎのラスト作として記憶されるある意味ささやかに伝説的な作品。
傑作でも問題作でもないけれど、記憶の片隅にひっそりとしまっておきたい不思議に特別な一本である。

大貫妙子と小松亮太コンサート・ツアー「Tint」@Bunkamuraオーチャードホール

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2015年10月16日、渋谷Bunkamuraオーチャードホールにて、大貫妙子と小松亮太のNEWアルバム『Tint』発売記念コンサート・ツアー「Tint」~ふたりが紡ぎ出す極上の美意識~を観た。



2000年に大貫が発表したアルバム『ensemble』収録の「エトランゼ~etranger」をレコーディングする際、当時デビュー間もなかった小松を指名したことから二人の交流は始まり、15年を経て発表されたデュオ・アルバム『Tint』。その発売を記念しておこなわれたコンサート・ツアーである。



大貫妙子(vo)、小松亮太(bandoneon)、近藤久美子(vln)、天野清継(g)、鈴木厚志(pf)、田中伸司(b)、ゲスト:国府弘子(pf)


先ずは、小松亮太がバンド・メンバーと共に「風の詩~THE 世界遺産」を演奏してこの日のコンサートは幕を開けた。2曲目でター坊が登場すると、人気曲「横顔」をシックに聴かせる。
出逢いから15年を経て、満を持してのコラボレーション。ヨーロッパ・テイストの楽曲も多いター坊の歌と躍動的な小松亮太のバンドネオン演奏は相性も抜群で、とても息の合ったカラフルで楽しいライブである。
ター坊のレパートリー「Hiver」「突然の贈り物」や二人の出逢い曲「エトランゼ~etranger」も、いつもとはやや趣を異にしており、どこか新鮮に響く。

ちなみに、タンゴと言った場合、日本ではアルゼンチン・タンゴコンチネンタル・タンゴに区別されることが多い。アルゼンチン・タンゴが一度ヨーロッパを経由して、ムード・ミュージック的に変化したのがいわゆるコンチネンタル・タンゴである。
日本におけるかつてのタンゴ・ブームは、コンチネンタル・タンゴを指すものであるが、アストル・ピアソラの名前が浸透した現在においては、日本でもアルゼンチン・タンゴが広く聴かれるようになっている。

ター坊が抜けて、インストゥルメンタルで演奏された「1980年代」「我々はあまりに若かった」「リベルタンゴ」「五重奏のためのコンチェルト」も決してタンゴの大メジャー曲ではないが、隠れた名曲を聴かせる渋いチョイスである。
ちなみに、「リベルタンゴ」と「五重奏のためのコンチェルト」は、前述したアルゼンチン・タンゴの革命児アストル・ピアソラの楽曲である。「1980年代」は、ピアニストのオマール・ヴァレンテの曲。「我々はあまりに若かった」は、バンドネオン奏者であるレオポルド・フォデリコの曲。
アンコールの1曲目「ラ・クンパルシータ」は、ヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスのペンになるアルゼンチン・タンゴで最も知られた楽曲である。

ゲストとして数曲でピアノを聴かせ、ソロでも「You Tune My Heart」を演奏した国府弘子は、アルバム『Tint』に収録された「エトランゼ~etranger」の編曲も担当している。

この日演奏された16曲のうち10曲が『Tint』からで、本コンサートでアルバム収録曲のすべてが披露された。
なお、「ハカランダの花の下で」は、オマール・ヴァレンテの名曲「最後のコーヒー」にター坊が新たな日本語詞をつけたものである。「愛しきあなたへ」はNHKラジオ深夜便「深夜便のうた」としてオンエアされた曲、「山のトムさん」はWOWOWで放送されるテレビドラマの主題歌である。



大貫妙子のソロと違い、ある種のリラックスした雰囲気が印象的なコンサートだった。ゲストの国府弘子の快活な明るさも悪くないし、何と言ってもやんちゃな弟としっかり者のお姉さんみたいな小松亮太と大貫妙子のやり取りが楽しかった。
個人的には、この編成でもう少しター坊のオリジナルも聴きたかったように思うが、贅沢は言えない。

この日のハイライトは、間違いなく「Tango」だろう。元々はアルバム『LUCY』に収録された坂本龍一作曲のオリジナルだが、使用されているコードはタンゴ的でないため、小松亮太が大々的にコード進行を変えたのだそうだ。
『Tint』収録の小松版「Tango」を聴いた教授は、「素晴らしい!だけど、随分コードを変えられちゃったなぁ」と言ったそうである(笑)
ややシュールな歌詞と情熱的な温度を伴った不思議な楽曲だが、小松のバンドネオンによって、ポップスとしての佇まいも備えたまさしく現代的なタンゴの前衛曲に進化した感じである。ター坊の歌唱共々、聴き応え十分の素晴らしい演奏だったと思う。

大貫妙子と小松亮太のコンサートは、良質な音が凝縮したシックかつエレガントなまさしく「大人のコンサート」で、深まる秋の夜を過ごすにぴったりの贅沢な心楽しい時間であった。




【Set List】

1 風の詩~THE 世界遺産
2 横顔
3 Hiver
4 ハカランダの花の下で
5 1980年代
6 我々はあまりに若かった
7 突然の贈り物
8 エトランゼ~etranger
9 You Tune My Heart
10 リベルタンゴ
11 五重奏のためのコンチェルト
12 ホテル
13 Tango
14 愛しきあなたへ

-encore-

15 ラ・クンパルシータ
16 山のトムさん

第2回山下洋輔ベネフィットコンサート@早稲田奉仕園スコットホール

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2015年11月28日、早稲田奉仕園スコットホールで「福島の子どもたちを放射能から救い出せ!」第2回山下洋輔ベネフィットコンサートを観た。共演は、ベーシストの不破大輔



山下洋輔BC実行委員長の宮崎專輔氏は、山下洋輔の同級生だそうである。そして、このイベントに協力するのはNPO法人快医学ネットワークだが、発見の会創設者の瓜生良介は世界快医学ネットワーク(現・特定非営利活動法人世界快ネット)の創設者でもあり、発見の会で音楽を担当していたのが不破大輔である。
山下洋輔トリオの演奏に衝撃を受けて不破大輔はフリー・ジャズのベース弾きになったそうだから、このイベントはある種の必然に満ちているとも言える訳だ。ところが、これまでフェダインや渋さ知らズで山下洋輔と演奏したことはあったものの、意外にもこの二人がDUOで演奏するのはこれが初めてだそうである。
なお、このコンサートは救済活動支援を目的としたものであり、一般向けには宣伝が行われなかった。




山下洋輔(pf)、不破大輔(b)




第一部

1.山下洋輔solo
繊細な美しいメロディの中にふっと力強いタッチが挿入される出だしから、徐々に山下らしいパーカッシヴな演奏に。そこから、また静寂を伴った美しさへと回帰する。
大胆かつスケールの大きさを感じさせる、素晴らしいオープニングである。

2.不破大輔solo
一音一音、自らが奏でるベースの調べと語り合うような出だし。野武士のような不破の容貌を間近で見ていると、まるで大地と会話する農民の如き佇まいである。
大地に太い根を張ったような、腰の据わった低音がホールに響いた。

3.575
タイトルが示す通り、俳句のリズムをジャズに置き換えた曲。疾走する山下のピアノを不破のベースが追いかけるような展開は、まるで草原を駆ける二匹の小動物を見ているようである。自由なフレーズの中に、時折ハッとするような美しさが顔を出すのも刺激的だ。
そこから演奏はアグレッシヴな激しさを増して行き、まるで能狂言を思わせるような純邦楽的な世界へと駆け抜けて行った。

4.Elegy
二人のユニゾンが、微かに不穏の影を纏った甘美なメロディを紡ぐ。何処か劇番を思わせる音像に、ヨーロッパ的なロマンティシズムを感じる。不破の奏でるメインテーマのリフレインが印象的だ。後半に入ると、不思議なデカダンスさえ漂う。
構成自体は至ってシンプルだが、様々な音の表情が見え隠れする誠にスリリングなプレイである。

5.SPIDER
演奏前のMCで、山下は「この曲にはジンクスがあるんです。演奏した翌日、その町には毒蜘蛛が出るっていう」と笑った。果して、今日早稲田には毒蜘蛛が出現しているのだろうか?
転がるようなピアノと低音でグルーヴするベースが、ご機嫌にスウィングする冒頭。そこから演奏は一気にフリー化するが、饒舌な中にも解放感があって実に刺激的だ。パーカッシヴに畳みかける暴力的なまでのピアノ・プレイに、山下の真骨頂を見る思いがする。旋律が和風にシフト・チェンジすると、一気に視界が開けたようで目眩すら感じる。
不破のベース・ソロに急き立てられるような気分になると、再びグルーヴするテーマに戻ってフィニッシュ。本当に、もう最高の一言!



第二部

1.山下洋輔solo Memory Is A Funny Thing
山下の奏でるノスタルジックな旋律が、何とも甘美だ。そのシンプルにイノセントな音が、聴く者の心を打つ。後半の、やや饒舌な表情もいい。

2.不破大輔solo
凛とした孤高の音の中にほの見える、センチメンタルなフレーズ。こういう一見さりげないプレイにこそ、不破大輔というプレイヤーの非凡さを感じる。素敵な演奏である。

3.Blues
不破の顔を見た山下が「型のあるジャズのようなものでもやるか(笑)」と言って、この曲がスタート。その言葉通り、明るくスウィングするピアノとまるでスキップするように軽快なベース。聴いていて、自然と体がリズムを取ってしまう。そこに、不意打ちのようにフリーなフレーズが入ってくるのが、このデュオならではの楽しさだ。
自由闊達な山下のピアノとグルーヴィな不破のベースは、「ジャズのようなもの」などではなく、ジャズそのものである。これこそ、優れたデュオを聴くことの醍醐味だろう。
まさにジャズ的な対話であり、サニー・サイド・オブ・ジャズと喝采したくなる楽しい演奏だった。

4.My One And Only Love
「では、ジャズのようなものをもう一曲やろうか」
と山下が言うと、奏でられるのは正統的なスタンダードの香り高き調べ。エモーショナルな中にもストイシズムを忘れないプレイにしびれる。本当に、この二人の音だけあればもう何も要らないと思える、圧倒的な説得力に聴き惚れる。研ぎ澄まされた大人の音楽である。
後半では、二人の持ち味ともいえるややアグレッシヴな展開を聴かせる。カタルシスを伴う美しさの極み的エンディングがあまりにも素晴らしく、溜息が出た。
先ほどの曲と対をなす、ナイト・サイド・オブ・ジャズの世界に酔いしれた。

5.Kurdish Dance
演奏を始める前に、この曲にまつわるエピソードを山下が披露。山下のペンになるこの曲が“本当にクルド人のダンス音楽なのか”というテーマで企画されたテレビ番組、「山下洋輔のクルド音楽紀行・流浪の魂を求めて『自作の曲のルーツは?クルド人の故郷・トルコ横断1600キロの旅』」(1998.3.25NHK総合)撮影時の裏話だが、これがもう本当に面白くも感動的だった。
ユニーク極まりない複雑なリズムを刻むベースに乗って、まるで自由を謳歌するかようにカラフルにしてフリーダムなピアノが炸裂する。奏でられるは、クルド人のダンス・ミュージックか、それとも誰も知らない森の奥で妖精が耽美的に踊るマジカルな舞踏曲か。
満を持して不破が聴かせる鮮烈なベース・ソロを経て、再び二人の演奏へ。時折入って来るドラマティックなフレーズに、耳を刺激される。情熱的なエンディングで、コンサート本編は幕を下ろした。




-encore-

ひこうき
澄み切った青い空が目の前に広がるような、印象的なイントロ。甘いノスタルジーを心に運び込む、イノセントなメロディ。どんな人の胸の奥にも秘められている大切な思い出のように、音楽が心に響く。そう、まるで初恋のように。
泣きたくなるほどの美しさに、胸が詰まった。
本当に素晴らしい曲であり、魅力溢れる最高の演奏である。


僕が今年聴いたライブの中で、間違いなく最高の演奏だった。それ以外に、一体何と表現すればいいのだろう…。
山下洋輔は、僕に日本のフリー・ジャズの扉を開いてくれたピアニストである。
そして、不破大輔は、僕に音楽的トランス状態を体験させてくれた唯一無二のベーシストである。
この、自分にとって特別なミュージシャン二人の磨き抜かれたデュオ演奏を手が届くくらい間近で体験できる至福。
本当に、素晴らしい時間であった。


山下さん、不破さん、そして実行委員の皆さん、本当にお疲れ様でした。


山崎樹一郎『新しき民』

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2015年12月5日公開、山崎樹一郎監督『新しき民』



プロデューサーは桑原広考・黒川愛・中西佳代子、脚本は山崎樹一郎、撮影は俵謙太、照明は大和久健、俗音は近藤崇生、美術は西村立志、組付大道具宇山隆之、助監督は福嶋賢治、メイク・結髪は中野進明、衣裳は石倉元一、アニメーションは中村智道、音楽は佐々木彩子、スチールは内堀義之、宣伝美術は山本アマネ。
製作・配給は一揆の映画プロジェクト、製作協力はシネマニワ、宣伝はcontrail。
DCP/117分/モノクロ・パートカラー/1:1.5 Half Vision/5.1ch/2014年/日本
本作は、280年前に津山藩内の山中(現・岡山県真庭市)で起こった一揆を題材に、三年の歳月をかけて製作された映画である。
なお、山崎樹一郎は真庭市で農業を営みながら映画製作をしている異色の監督である。


こんな物語である。

1733年、中国山脈旭川上流の山間に位置する山中(現・岡山県真庭市北部)。治兵衛(中垣直久)は、風呂敷を背負って一人峠を歩いている。



遡ること、七年前。津山藩領内、山中で小作をしている治兵衛。妻のたみ(梶原香乃)は身重で、随分とその腹は大きくなっている。
たみの兄・新六(本多章一)は元・木地師で、現在は地主・権右衛門の婿養子。彼はは文武に長けており一時は侍を志していたほどだが、現在は慣れぬ百姓仕事に苦労している。そんな新六にとって義弟の治兵衛は頼りになる存在だったが、権右衛門は治兵衛のことを毛嫌いしていた。



治兵衛には、幼馴染で同じ小作仲間の万蔵(佐藤亮)という友人がいるが、万蔵は米を盗んだかどでしょっ引かれ、それ以来山奥で母のたづ(ほたる)と世捨て人のように暮らしている。
時折、治兵衛は万蔵の住みかに食べ物を差し入れてやったが、いよいよ年貢が厳しさを増しており食べ物の調達もままならなくなっていた。そして、治兵衛の目には日毎に万蔵が弱っているように映った。

津山藩では、藩主の死により色々と良からぬ噂が囁かれていた。そんな折、勘定奉行の神尾伊織(川瀬陽太)は、幕府に召し上げられる前に山中里蔵の年貢米を集めるよう命じた。



日に日に藩からの年貢取り立ては厳しさを増し、生活苦にあえぐ者たちの不満も雪だるま式に膨れ上がっていた。山中では、徳右衛門(瓜生真之助)を中心に一揆の頭衆が組織され、日夜密談が繰り広げられていた。新六も、その一人である。



いよいよ、徳右衛門は蜂起を決意する。藩への要求は、年貢の軽減や免除等六箇条。新六の提案で、木地師やたたらにも賛同を得るため山年貢や運上銀免除も加えられた。
一揆の頭衆は、山中惣百姓が蜂起することになったと村に触れ回った。新六は、木地師の頭(藤久善友)の元を訪れ蜂起に加わるよう働きかけた。山年貢や運上銀の免除も要求に加えたと聞くと、頭は蜂起への協力を約束した。

百姓や山の衆の群衆が取り囲む中、大庄屋屋敷で交渉が持たれ、藩側は山年貢と運上銀以外の要求を受け入れた。徳右衛門はその回答を受け入れたが、同じ席にいた新六の顔は曇った。
屋敷から出た徳右衛門は交渉結果を群衆に伝え、勝利宣言すると解散を命じた。その言葉に百姓たちは歓喜の声を上げ、その声に山の衆たちの不平の言葉はかき消された。
藩の狙いが百姓と山の衆を二分することだという新六の想像通り、山の衆たちを中心に、庄屋の米蔵を襲う暴徒が現れた。その流れは、新六にも徳右衛門にも止めることは不可能だった。
治兵衛は、たみに「今度は本気で殺されっぞ」と怯えた表情で告げると、家を飛び出して行った。



これがきっかけとなり、徳右衛門たちはとうとう藩と戦を構えざるを得なくなる。ところが、百姓たちの動きを察知した藩は、早くも部隊を送り込んた。内部に、藩と密通している者がいる。その裏切り者は、新六ではないのかと一揆首謀者たちは思い込んだ。
一方、津山藩では今回の騒動の責任で伊織に所払いを命じた。「それならいっそ、切腹を…」と伊織は唇を噛み締めた。

藩への内通者は、松吉だった。彼が事前に情報を漏らしていたせいで、徳右衛門たちの蜂起はいともたやすく鎮圧され、百姓たちは次々に首をはねられた。



その様子を影から見ていた新六と治兵衛は山道を逃走していたが、新六は引き返すと言い出す。「お前はどうするのか」と問われ治兵衛が言葉に窮していると、そこに万蔵の幻影が現れて逃げることを忠告した。
治兵衛は、おもむろに路傍の石を拾い上げると自らの顔に打ち付け、変わり果てた顔で「わしは、行く」と言った。その背中に向けて、新六は「生きて帰れ」と言葉をかけた。

それから、七年の歳月が流れ…。


本作は、自主製作映画という制約や枠を軽々と越える熱い志に満ちた力作である。冒頭、雪の中に歩を進める治兵衛を映し出すシーン、そこに被さるスピリチュアルなピアノの旋律。それだけで、観ている者は居住まいを正してこれから語られる物語に対峙する気分になることだろう。
本作を撮る上で監督の山崎がこだわったのは、一揆首謀者たちを物語の中心に据えるのではなく、その周辺で普通の生を営む市井の人を主人公に現在へと繋がる普遍的な物語を紡ぎ出すということであった。
山中一揆の取材を進める中で一揆参加者の子孫から話を聞いた人物の人生が、治兵衛のモデルになっている。

ほぼモノクロームの映像で語られる山中一揆の物語は、山崎の意図通り一揆周辺の市井の人々の生活に寄り添いながら淡々と進んで行く。映画的ドラマチックさをあえて回避するストーリーテリングは、舞台となった真庭市で生きる山崎樹一郎の作家的真摯さを強く印象付ける。
ただ、彼が貫く誠実な語り方が、この映画に込められた熱量をともすれば映画の内側に蓄積させて、“共鳴する人は強く共鳴するが、一般的な意味では観る人の間口をやや狭くしている”というもどかしさを感じてしまう。
これだけのロケーションで、現代へと通ずる市井の人の営みを描いた力作だからこそ、映画マニアだけでなく沢山の人に届いて欲しいと僕は思うのだが、それにはやや物語的なカタルシスというかドラマ的仕掛けを抑制し過ぎているように思うのだ。

一揆をあくまで題材と捉える方向性はもちろん悪くないのだが、一揆首謀者たちによる隠れ家での密談シーンにしても、藩側との交渉シーンにしても、裏切り者の密告によって徳右衛門たちが次々捕らえられて斬首されるシーンにしても、神尾伊織が刺客に倒れるシーンにしても、いささか淡白に過ぎるように思う。
登場人物の造形にしても、主人公・治兵衛よりむしろ周辺にいる新六や治兵衛にとっての黙示録的存在として登場する万蔵の亡霊、あるいは神尾伊織の方に人物的な厚みや魅力を感じてしまう。
結局のところ、治兵衛が愛する妻やこれから生まれる我が子を捨てて七年間も逃亡した後、とある事件をきっかけに郷里に戻るまでの葛藤や苦悩がほとんど削ぎ落されてしまっているが故に、観る側にとっていささか治兵衛は共感しづらいのである。
それから、逃亡先の京都の長屋で治兵衛と伊織が隣人となっており、酒を酌み交わすある意味シニカルなシーンも、あえてこういう映画的邂逅をさせるのであれば、もっと描き方があったのでは…と思う。

僕が強く感じたのは、この映画は山中一揆を題材にあえて逃亡を選ぶ治兵衛という平凡な男の人生を描いてはいるが、実のところ彼の逃亡と帰還劇もまたこの物語にとってはひとつの題材に過ぎぬのではないか…ということである。
では、結果的に本作の中心として描かれているものは何なのか?

それは、一揆や藩の政策に翻弄されながらも自分たちの意志を貫き、したたかに強く生きようとする女たちである。治兵衛の妻・たみであり、万蔵の母・たづであり、伊織の妻・しん(古内啓子)であり、木地師の頭の妻・さち(西山真来)のことだ。
それを最も強く印象付けるのが、七年間の不在後に戻った治兵衛が目にするたみたち四人の女が麦畑で種を撒いているシーンだろう。

ラストで物語は現在へと時を駆けるのだが、そこで治兵衛とたみの子孫が自分たちの“娘”に語って聞かせる「かつて、この地であった一揆を巡る昔話」のシーンを観ていても、治兵衛の子孫よりたみの子孫と娘の方に人生の輪舞曲を見てしまうのは、いささか感傷的に過ぎるだろうか?

いずれにしても、本作は真摯に語られた市井の人たちの“現在の物語”である。
佐々木彩子のつけた素晴らしい音楽共々、多くに人の胸に響いて欲しいと思う。

城山羊の会『水仙の花 narcissus』

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2015年12月12日マチネ、三鷹市芸術文化センター星のホールにて城山羊の会『水仙の花 narcissus』を観た。



作・演出は山内ケンジ、舞台監督は神永結花・森下紀彦、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵・平野里子、演出助手は岡部たかし、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、写真は伊藤之一、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は平野里子・渡邉美保、制作助手は山村麻由美、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。製作は城山羊の会。
主催は公益財団法人三鷹市芸術文化振興財団、協賛はギーク ピクチュアズ。
協力はジュデコン、エー・チームオフィススリーアイズ、レトル、ダックスープ、バードレーベル、青年団、山北舞台音響、ランプ、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。


こんな物語である。

突然、舟木(金子岳憲)は部屋の中に入って来ると、映子(松本まりか)に向けて二発発砲。その後、舟木は自分のこめかみを撃ち抜き自殺。動かなくなった二人を、奥から姿を現した高崎馬(岡部たかし)が覗き込んでいる…。

イズミタカシ(吹越満)は、近くの道に倒れていた女・映子を自分の家に連れて帰りソファに寝かせて様子を見ている。ようやく意識を取り戻した映子は、自分は撃たれて…と胸を押さえるが、イズミは怪訝そうな表情を浮かべる。それもそのはず、映子には流血はおろか傷一つなかった。
イズミは映子から花の香りがしていると感じたが、映子は「自分は、香水などつけていない」と言って首を傾げた。
そこへ、イズミの一人娘で大学生の百子(安藤輪子)が水を運んでくる。映子はグラスに入った氷入りの水を飲み干し人心地つくが、混乱した状態のままだ。何故か彼女は自分が撃たれたと思い込んでおり、そもそも何で道端に倒れていたのかさえ分からないありさまだった。

イズミも戸惑っているところに、奥から義理の妹キヨミ(島田桃依)と医者の夫・丸山(岩谷健司)が暇するために顔を出す。今日は、急逝したイズミの妻・仙子の四十九日だったのだ。
丸山夫妻も事情を飲み込めぬまま、映子に興味を抱いてあれこれと好き勝手なことを言い出す。二人は映子が仙子によく似ていると言って、無遠慮に彼女の顔をべたべたと触り始めた。触れられる度に映子は悩ましげに悶えたが、そのうち感極まって泣き出してしまう。部屋には何とも気まずい空気が流れ、それを潮時に丸山夫妻は帰って行った。
百子が二杯目の水を注ぎに行き、部屋のソファには映子とイズミの二人だけになった。映子は、何やら科を作るように「さっきは、御免なさい。泣き出したりして。あなたに触られたら、泣かなかったのに…」と甘い声を出すと、イズミの手を取って自分の顔に触れさせた。妖しげな溜息とつくと、彼女は突然イズミに口づけした。イズミは、はじかれたように映子の体に覆い被さった。
台所から水を持って戻って来た百子は、ソファの上でもつれ合う二人の姿を見て手に持っていたグラスを落とした。

イズミ家のソファに座り、百子のボーイフレンド・中村ヒロ(重岡漠)が浮気相手とスマホで話している。そこに百子が帰って来て、慌てて中村は電話を切った。
百子はそれが女との電話だと嗅ぎ取ってカマをかけてみると、あっさり中村は認めてしまう。持ち前のサディスティックさで、ねちねちと陰湿に中村を責め始める百子。
何故か台から落ちて水が床を濡らしている水仙の花瓶に気づいた百子は、「花瓶を元に戻せ」「こぼれた水は口で吸い取って、それも元に戻せ」と滅茶苦茶なことを言い出す。
部屋が騒がしいことに気つき、女中が片付けに来る。黒のメイド服を着ているのは、何と映子だった。
あの日の騒動の結果、何故か彼女は腰痛で辞めた前任の代わりにイズミ家の女中として働くようになっていた。映子は水仙の花瓶を元通りに片づけると、二人を残して買い物に出かけた。

しばらくすると、イズミが見知らぬ男・舟木を伴って帰宅する。舟木は映子の兄で、家の前の道でバッタリ会ったのだと言う。偶然にしては出来過ぎていないかと百子は訝しく思うが、そこに映子が買い物から戻って来る。
ひと目舟木の顔を見るや、映子は固まった。彼女は、「自分に兄などいない。この人は、私の夫です」と不快感も露わに吐き捨てた。イズミと百子は、舟木の方を見た。舟木は、動揺して歯切れ悪くいい訳を始めるが、要するに彼は逃げ出した妻を連れ返しに来たのだった。
しかし、彼女は頑なに舟木を拒んだ。映子とイズミは出逢った日から数え切れないくらい何度も男と女の関係を持っており、二人の営みをこっそり百子がのぞいていると映子は挑発的に言った。
その甘い声と仕草に、イズミは催眠術にでもかかったかのように映子の体に吸い寄せられて行く。百子が絶叫して止める声も届かず、二人は体を求め始めた。

突然、イズミ家を丸山夫妻が訪れた。二人の来訪は、四十九日の法要以来だ。二人のためにお手伝いがコーヒーを運んで来るが、それは何とボーイ姿をした舟木だった。
丸山は、仙子名義の不動産のことで話があると切り出すが、その言葉を遮ってイズミは「実は、仙子が生きていた」と言い出す。これには、丸山夫妻も顔を見合わせるしかなかった。
仙子は、三鷹市芸術文化センターの階段で何者かに背後から突き落とされ、死んだのだ。彼女の死に顔は、丸山もキヨミもちゃんと確認している。
だが、イズミの話によれば、階段から落ちた衝撃で女の顔は判別不能なくらいに滅茶苦茶になり、それを手術で復元したのだと言う。だから、事故の時点で誰かの死体を仙子と取り違えてしまったのだ、と。狐につままれたような話だ。
そこに仙子が姿を現すが、彼女はどう見ても映子だった。さらには、今回の件でコンサルタントとして雇われたという怪しげな男も登場する。男は、高崎馬と名乗った。

この後、帰宅した百子も交えてさらに話は二転三転。事態は、思ってもみない方向へと暴走を始める…。


会場が三鷹市芸術文化センター星のホールで、前説が森元さん…とくれば、熱心な城山羊の会ファンならすぐピンと来るはずだ。
森元さんが開演前の注意事項を話すところから、すでに舞台は始まっているのだ。しかも、今回は2013年12月に星のホールで上演した『身の引き締まる思い』 で森元さんが果した役割を説明するくだりがそのまま物語のイントロダクションになっていた。
その他にも、前回公演『仲直りするために果物を』 (2015)が小ネタに使われたり、謎のコンサルタントの名前が『あの山の稜線が崩れていく』 (2012)の登場人物と同じ高崎馬であったりといった遊びが本公演にはさりげなく配置されている。
このあたりにも、山内ケンジに劇作家としてある種の余裕ができて来たように感じる。

だが、そういった遊び心とは裏腹に、物語全体を覆うのは「淫靡で不穏な悪意」「狂気に満ちた容赦のない暴力性」である。
上質なタペストリーの如く緻密に織り上げられた理不尽に残酷な舞台は、次第に観客の思考力をも奪い始め、やがては物語自体の世界観や時間軸までも歪ませて、何もかもを不条理な地獄に飲み込んでしまう。そう、まるで水仙の花から漂う甘美にして妖しい香りのように。

観るものを煙に巻くような冒頭から、あえて演出的にほとんど聞き取れるかどうかギリギリのトーンで発声する吹越満と松本まりかの会話からして、舞台には張り詰めた尋常ならざる緊張感が漂う。
ところどころで山内ならではのくすぐりも散りばめられてはいるが、次の瞬間にはエキセントリックなツイストが用意されている。波状攻撃のように畳みかけるスピード感と、暗転する度に物語自体のフレームが歪む展開に、我々は幻惑され続ける。
その目まぐるしいまでのドライヴ感と、徹底的に突き放すドライネスこそが山内演劇を観ることの麻薬的快感に他ならない。

タイトル「水仙の花」が指すのは、正確には水仙の花が放つ芳香のことなのだが、さらに具体的に言うとその香りは映子あるいは仙子、そして百子の股間から放たれるフェロモンの匂いの比喩である。
彼女たちのフェロモンとそれに幻惑されて堕ちて行く男たちというストーリーテリングは、まさしく捕食する者とされる者との過酷な食物連鎖の構造そのものだ。
それが本能であるからこそ、映子も百子も相手に対して一切の躊躇もなければ同情心も抱かない。そこには、良心の呵責といった面倒臭い倫理観など無縁である。

冒頭で登場する暗喩に満ちた発砲シーン。映子と舟木の死体を覗き込む高崎馬の姿は、ある意味本作を象徴する不穏の影を具現化した「不条理的記号」のようである。

また、劇中で百子が何度も繰り返し見る夢について愉快そうに中村に語るシーン。自分が映子を階段から突き落とし、ぐちゃぐちゃになった顔に犬が糞をするという夢なのだが、言うまでもなくそれは彼女の母・仙子の死に様とオーバーラップするものである。
その場所が三鷹市芸術文化センターの階段という設定が、冒頭で森元さんが前説する場面と見事にリンケージする訳だ。

芝居のラスト10分。恐らく多くの観客の頭を占めていたのは、冒頭に仕組まれた記号的な伏線を山内が一体どのように回収してみせるのか…ということだったのではないか。
そして、彼は演劇的マジックの到達点としか言いようのない秀逸さで、ものの見事に伏線を回収してみせた。
非道なまでに残酷でありながら、同時に性的絶頂そのもののように甘美な終幕は、あまりにも美しくそして苛烈だ。こんな物語を、山内ケンジ以外の一体誰が書けるというのだろう。
徐々に暗転して行く舞台、その最後で照明に照らされ浮かび上がる水仙の花。その、非の打ちどころのない完璧なエンディングに、図らずも落涙してしまった。
本当に、独創的で素晴らしい劇作家である。

出演した俳優についても触れておく。
もちろん吹越満も悪くないが、やはり本作は松本まりかの悪魔的な存在と安藤輪子のパラノイアティックな狂気、この女優二人の演技力あっての完成度であることは間違いない。 本当に、魅力的な女優たちである。
ちなみに、吹越は『微笑の壁』(2010)、松本は『効率の優先』 (2013)以来の城山羊の会出演である。

本作は、城山羊の会の新たなる到達点と断言できる劇薬的な傑作。
水仙の花が放つ魔性の香り同様、山内演劇の甘美な毒に酔いしれてほしい。

余談ではあるが、吹越満と安藤輪子と金子岳憲は12月19日からユーロスペースで公開される山内ケンジの監督第二作目『友だちのパパが好き』にも出演しており、この映画も彼のエキセントリックな作家
性が遺憾なく発揮された良作コメディである。


山内ケンジ『友だちのパパが好き』

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2015年12月19日公開、山内ケンジ監督『友だちのパパが好き JE SUIS FOLLE DE PAPA DE MA COPINE




エグゼクティブプロデューサーは小佐野保、プロデューサーは木村大助、脚本は山内ケンジ、撮影は橋本清明、照明は清水健一、録音・整音は木野武、スタイリストは増井芳江、ヘアメイクはたなかあきら、編集は河野斉彦、キャスティングは山内雅子、助監督は井川浩哉、ラインプロデューサーは田口稔大、特殊効果は村石義徳、造型は山下昇平、効果はエリカ、音楽はロベルト・シューマン「予言の鳥」(演奏:中川俊郎)、音楽制作はフリーアズアバード。
企画・製作はギーク・ピクチュアズ、配給・宣伝はSPOTTED PRODUCTIONS。
宣伝コピーは「純愛は、ヘンタイ だ。」
2015年/日本/105分/カラー/16:9/ステレオ/R15+


こんな物語である。かなりネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

大学生の霜崎妙子(岸井ゆきの)は、自宅に遊びに来ている親友の吉川マヤ(安藤輪子)から「妙子のお父さんって、かっこいいよねぇ」と言われて顔を歪める。マヤは高校時代からの親友だが、母子家庭のせいかファザコンの傾向が強く、「変わっているとは思っていたが、ここまでだったとは…」と妙子は呆れた。
しかし、マヤは至って真剣なようで、果ては「恭介さん」と言い出す始末。お願いだから、自分の父親(吹越満)を下の名前で呼ぶことだけは勘弁して欲しい。
そこに、母親のミドリ(石橋けい)がやって来たのでマヤのことを話すと、「ふ~ん」とクールなリアクションが返って来た。

恭介が仕事帰りに最寄駅から降りて来ると、駆け寄って来る女の子がいた。恭介は誰なのか分からなかったが、マヤは妙子の友達だと言って目をキラキラさせた。恭介は驚いたものの、若い女の子に声をかけられて悪い気がする訳がない。二人は途中まで一緒に帰ったが、その道すがらFacebookに載せたいからと言ってマヤはツーショット写真を撮った。




恭介が帰宅すると、家にはミドリしかいない。大学に入ってからというもの、妙子は彼氏の康司(前原瑞樹)と遊び回っていてほとんど家にいないのだ。いつものように、夫婦の会話は冷え切っている。
ミドリは、「アパート決まったの?」と聞いて来た。恭介には生島ミドリ(平岩紙)という長年の浮気相手がおり、そのことが妻にばれて離婚することになっていた。しかし、まだそのことを妙子は知らない。



妙子は家を出ようと考えており、アパートを探していた。できれば、彼氏と同棲できることが望ましい。マヤとも相変わらず友達付き合いしていたが、驚いたことにいつの間にかマヤは恭介とLINEのやり取りをしていた。ガチで彼女は恭介に入れ上げているようだった。これでは、ファザコン通り越してリアルに変態ではないか。

そのマヤは、高校時代の担任・田所睦夫(金子岳憲)を呼び出した。田所がやって来ると「好きな人ができたから、別れたい」とマヤは一方的に告げた。激しく動揺した田所は、「ここじゃなんだから、他の場所で話そう」と強引にマヤを連れて行こうとして揉み合いになる。
木の陰で携帯をいじっていた妙子は、二人の間に立つと田所をとめた。田所は、なす術もなくよろよろとその場から退散した。「好きな人ができた」というのはてっきり田所を振るための口実だと思っていた妙子だが、マヤは「本当のことだ」と真顔で言った。
妙子は完全にドン引きしたが、あまりにマヤの押しが強いため、辟易して「あんなヤツ、くれてやる」と言った。すると、マヤは完全に舞い上がってしまい、妙子はさらに引くのだった。


妙子のアパートが決まり、一人暮らしを始めることを両親に宣言した。すると、恭介もこの家を出てアパートに移るという。この時、初めて妙子は両親が離婚することを知った。あまりに突然で妙子は驚いたが、その原因が父の浮気だと知ってさらに彼女は驚いた。
で、驚くには驚いたが、そのことをマヤに知らせてやるとマヤは狂喜乱舞した。



恭介は、しばらくぶりに喫茶店でハヅキに会うと離婚したことを告げた。ハヅキはホッとして実は今妊娠していることを告げた。あまりの急展開に、恭介は言葉を失う。何となく、二人の間に微妙な空気が漂った。ハヅキがトイレに立つと、カウンターにいたお客が恭介のテーブルにやって来た。マヤだった。当然、マヤは一部始終を聞いていた。
ハヅキが戻って来ると、マヤは「自分は娘の妙子だ」と言って挨拶した。これには、恭介も驚いたが、マヤはこともなげに去って行った。



いよいよマヤの恭介に対するアタックは猛烈になって行き、そのペースに恭介も巻き込まれて行く。当然のことながら、ハヅキとの仲には暗雲が立ち込め始めた。




夫の浮気発覚以来、ミドリは再び仕事を始めていたが同僚でバツイチの川端惣一(宮崎吐夢)から言い寄られていた。
一方、マヤに振られて情緒不安定になった田所は、自殺しようとしたが未遂に終わってしまい、いよいよ思い詰めた彼は台所にあった包丁を持ち出して街に出た。



ひたすら自分の恋愛感情だけで猪突猛進するマヤの行動は、いよいよ周囲の人たちの運命をも翻弄して行く。



果して、マヤの変態純愛がたどり着く先は…。


今年、第59回岸田國士戯曲賞を最年長で受賞した山内ケンジが、『ミツコ感覚』(2011)に続いて発表した待望の長編映画第二弾である。
元来、山内ケンジはCMディレクターとして高く評価されている人で、ソフトバンクモバイルのCM「白戸家」シリーズを知らない人など、もはやいないだろう。今では、城山羊の会での演劇活動も注目度が増しているが、元々彼の活動フィールドは映像と言っていいだろう。

その山内が初めて撮った『ミツコ感覚』は、正直に言うと僕の期待をやや外れるものであった。
演劇という形態は、限定された舞台空間において役者がライブで演じる非常に制約の多い表現である。劇作を映画で表現するということは、言ってみればそういった演劇表現の制約から解放されることなのだが、『ミツコ感覚』では制約から解放されたことで、かえって山内演劇の真骨頂ともいえるテンポや間、あるいは畳みかけるような疾走感が失われてしまったように思えて、それが大いに不満だった。
こういう言い方はシビアに過ぎるかもしれないけれど、「『ミツコ感覚』の物語は、演劇というフォーマットで観たかったよな…」という身も蓋もない感想を抱いてしまった訳だ。

あれから、四年。城山羊の会での劇作もいよいよ尖鋭化を増している山内ケンジだが、今回の長編映画第二弾『友だちのパパが好き』は、彼の作家的成熟を十分に実感できる快作にして怪作となった。
少なくとも、僕が『ミツコ感覚』で抱いた不満はすべて払拭されていたし、本作は「演劇」でなく「映画」で表現すべきだという必然性に満ちている。

山内ケンジの劇作を構成する要素、突拍子もないエキセントリックな設定、おかしな人々、欲望と悪意が剥き出しになる展開、性的なメタファーに満ちた仕掛け、容赦なく突き放すドライな劇薬的ストーリーテリング、独特のリズムと絶妙な間、というのは城山羊の会のファンなら誰もが知るところだが、その特徴はこの映画でも遺憾なく発揮されている。
そして、役者陣は言葉通りの「体当たりの演技」でスクリーンに弾ける。それはもう、観ていて清々しいくらいである。
もちろん、物語自体はまったく清々しくない展開を見せる訳だけど(笑)

吹越満、城山羊の会のミューズともいえる石橋けい、平岩紙、宮崎吐夢といった達者な役者陣の演技はテッパンだし、チラッと登場する、島田桃依、岡部たかし、永井若葉、ふじきみつ彦にニヤッとする城山羊ファンもいることだろう。
だが、狂的に暴走するドラマのエンジンとなっているのは、言うまでもなく安藤輪子岸井ゆきのである。この若手女優二人の大胆にして堂々たる演技、そしていくら過激になっても可愛さを失わない佇まいこそが本作における最大の収穫と言っていいだろう。
この二人が魅力的だからこそ、この作品はクレイジーでありながらもファニーでキュートなのだ。



本作におけるもう一つの魅力は、映像だろう。ザラついた質感、隠し撮りを見ているような生々しさ、不穏に張り詰めた緊張感が見事に映像化されていて、物語の展開同様とても刺激的だ。
また、カメラ・アングルやカット割りによる効果ももちろんあるだろうが、本作においては独特の照明が効果を上げている。

で、山内作品の特徴といえば、最後の最後までとことん突き放す展開に終始するところなのだが、本作ではこれまでの山内作品とちょっと違ったエンディングを迎えるのも印象的である。
もちろん、普通のハッピーエンドなど考えらないが、それでも本作のラストにはシニカルな混沌の中にも不思議な余韻が残る。

本作は、「満を持して」という表現が相応しい山内ケンジ渾身の監督作品である。
城山羊の会ファンはもちろんのこと、ちょっとでも気になった人は是非とも劇場に足を運んで頂きたい。絶対の自信を持って、お勧めする。

矢野顕子さとがえるコンサート2015@府中の森芸術劇場 どりーむホール

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2015年12月4日、府中の森芸術劇場 どりーむホールにて矢野顕子さとがえるコンサート2015 矢野顕子+TIN PAN PartⅡを観た。

矢野顕子のさとがえるコンサートも今年で20周年を迎えた。去年行ったTIN PANとのツアーは大きな話題となったが、まだまだステージにかけたい曲がたくさんあるということで、今回のPartⅡが実現の運びとなった。それはそうだろう。1976年にリリースされた彼女のデビュー・アルバムにして名盤『JAPANESE GIRL』B面のバッキングから、TIN PAN ALLEY(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆)との付き合いは始まったのだから。




なお、松任谷正隆抜きのTin Panとしてこの三人が活動を再開したのは2000年のことで、僕は2000年12月20日にNHKホールで行われた「Tin Pan CONCERT 1975-2001」も観ている。




ちなみに、この府中の森芸術劇場 どりーむホールは、1996年にスタートした「さとがえるコンサート」が初めて行われた会場でもあり、コンサート自体が20年ぶりにこのホールに里帰りしたことになる訳だ。


矢野顕子(vo,pf)+TIN PAN:細野晴臣(vo,b),鈴木茂(vo,g),林立夫(ds)



このメンバーが同じステージに立っていると言うだけで、僕としてはすでに興奮してしまうのだが、アッコちゃんはいつものマイペースなふわっとした感じで演奏を始めた。曲は、デビュー・アルバムのA面1曲目「気球にのって」。続いては、最新アルバム『Welcom to Jupiter』から「そりゃムリだ」。
で、ある意味、ここからがこのコンサートならではの展開になる。矢野顕子とバッキング・メンバーとしてのTIN PANではなく、あくまでも矢野顕子とTIN PANという選曲になるからだ。
おかしな話だが、僕が9月19日に観た細野のコンサート「Boogie Woogie Holiday」 よりもこのコンサートの方が聴きたかった曲が演奏されたくらいである。
はっぴいえんどの曲や細野のソロ、あるいは2000年のTin Panのアルバムからもセレクト。もちろん、アッコちゃんの曲も歌われるし、他にも松本隆が作詞して演奏にティン・パン・アレイが参加したアグネス・チャンの「想い出の散歩道」や細野がプロデュースした西岡恭蔵『街行き村行き』収録の「春一番」も。
ちなみに、「想い出の散歩道」収録のアルバム『アグネスの小さな日記』には、ヒット・シングル「ポケットいっぱいの秘密」の別バージョンが収録されていて、カントリー・テイストに仕上げられたアルバム・バージョンはティン・パン・アレイのバッキング曲の中でも秀逸な出来である。



西岡恭蔵が歌う「春一番」は、文京公会堂で行われたはっぴいえんど解散後の再結集コンサート「CITY-LAST TIME AROUND」の模様を収録したライブ・アルバム『ライブ!!はっぴいえんど』(1974)にも収録されているから、そちらでご存知の方も多いことだろう。



今となっては、かつて読売ジャイアンツに在籍して「巨人史上最強の5番打者」と称された柳田“マムシ”真宏(俊郎)の説明から始めることになる「行け柳田」もやれば、まだアルバム未収録のチャーミングな新曲「Peace of Change」も歌うというバランスがいいし、気心知れたTIN PANメンバーとのリラックスしたユーモラスなやり取りも楽しい。
第二部のスタートで歌われたオジー・ネルソン・オーケストラの「わたしを夢見て」では、林立夫以外のメンバーが横並びで椅子に腰かけて演奏するというクロスビー、スティルス&ナッシュスタイルでのパフォーマンス。なお、オジー・ネルソンはリッキー・ネルソンの父親である。



TIN PANの演奏は、ノスタルジア・サーキット的なものとはまったく違うリアル・タイムの演奏でありながらも音の佇まいが不思議に70年代風で、聴いていて頬が緩んでしまう。恐らくは、鈴木茂のエレキ・ギターの音色がそう思わせるのだろう。
はっぴいえんどの曲に関しては、鈴木の持ち歌ばかりでなく大瀧詠一のボーカル曲も鈴木が歌唱していた。はっぴいえんど当時からやや線の細いボーカルを聴かせていた鈴木だが、歳を重ねたことで繊細さというよりもやや野卑な感じのボーカルが新鮮に響いた。
正反対に、細野は当時も今も淡々と味わいのある歌を披露。まさに、和製ジェイムズ・テイラーである。「恋は桃色」の朴訥さなんて、最高だ。

ただ、アッコちゃんの曲以上にはっぴいえんど関連の曲に重きを置いたようなセット・リストでも、コンサート・トータルで見るとやはりそれは紛れもなく矢野顕子のコンサートであった。
卓抜したピアノ演奏に関しては、デビュー当時からすでに定評があったし、フリーキーなくらいに自由度の高い個性的な歌唱も彼女ならではだが、「実は、矢野顕子の本当の凄さって、ダイナミズムに溢れたリズム感にあるんじゃないか」と強く感じたライブだった。
それを心底思いしらされたのが、彼女のソロピアノで歌われた「春一番」である。本当に、素晴らしい演奏であった。



コンサートの本編は、彼女の代表曲「ひとつだけ」(収録アルバム『ごはんができたよ』のバッキングはYMO)でいったん終了し、アンコールで歌われたのは前述した「恋は桃色」とサビの部分を会場と一緒に歌ったはっぴいえんど時代の細野の代表曲「風をあつめて」であった。

長きにわたってキャリアを積み重ねてきた才能あるミュージシャンたちならではの、音楽的至福に満ちた一夜であった。


【セット・リスト】

第一部

1.気球にのって/矢野顕子『JAPANESE GIRL』(1976)
2.そりゃムリだ/矢野顕子『Welcom to Jupiter』(2015)
3.氷雨月のスケッチ/はっぴいえんど『HAPPY END』(1973)
4.想い出の散歩道/アグネス・チャン『アグネスの小さな日記』(1974)
5.抱きしめたい/はっぴいえんど『風街ろまん』(1971)
6.Peace of Change/新曲(2015)
7.香港ブルース/細野晴臣『泰安洋行』(1976)
8.行け柳田/矢野顕子『いろはにこんぺいとう』(1977)

第二部

9.Dream a little Dream of Me/Ozzie Nelson Orchestra(1931)
10.相合傘/はっぴいえんど『HAPPY END』(1973)
11.春一番/西岡恭蔵『街行き村行き』(1974)
12.Welcom to Jupiter/矢野顕子『Welcom to Jupiter』(2015)
13.Queer Notions/Tin Pan『Tin Pan』(2000)
14.颱風/はっぴいえんど『風街ろまん』(1971)
15.花いちもんめ/はっぴいえんど『風街ろまん』(1971)
16.変わるし/矢野顕子『akiko』(2008)
17.ひとつだけ/矢野顕子『ごはんができたよ』(1980)

-encole-

18.恋は桃色/細野晴臣『HOSONO HOUSE』(1975)
19.風をあつめて/はっぴいえんど『風街ろまん』(1971)

宝積有香プロデュース公演『前向きな人たち』

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2015年12月11日、Atelier fanfare高円寺で芸能活動二十周年記念 宝積有香プロデュース公演『前向きな人たち』を観た。



原案は宝積有香(スターダストプロモーション)、脚本・演出は大池容子(うさぎストライプ)、舞台監督は高橋亮(Outside)、美術は門馬雄太郎、照明は桜かおり、音響は権藤まどか(STAGE SOUND)、演出助手は金澤昭(うさぎストライプ)、チラシデザインは青井達也(Northern Graphics)、チラシ撮影は星野麻美、Webデザインは車聡太郎(デライト・フルアーツ株式会社)、撮影は橘稔・大極啓太(有限会社TAPROOT)、制作は松嶋理史(株式会社エクイステージプロダクション)、制作協力は米山範彦(株式会社c-block)、主催は株式会社ホウシャク、協力は株式会社スターダストプロモーション・うさぎストライプ・株式会社infini・株式会社オフィス北野・有限会社レトル・株式会社ポイントラグ・茶柱日和・シャク&リハビリーズ
宣伝コピーは「ひとつも上手くいかないけれど、私たちは生きていく。」
本作は、宝積有香が兄の身に起こった出来事を原案に起こした話だそうである。


こんな物語である。

高校時代から仲間たちとバンドを組んで歌っていた岸谷真奈美(宝積有香)は、自動車事故に遭って足に大怪我を負う。ところが、運び込まれた病院の対応はまったく誠実さを欠いたもので、医師の渋沢(中丸新将)はまともな治療一つしない。
業を煮やした弟の雄貴(高木心平)は渋沢や看護師に噛みつくが、暖簾に腕押し。バンド・メンバーで真奈美の恋人でもある石井太一(お宮の松)は、なだめるのに一苦労だ。

そんな状況は、意外な人物が打開してくれた。危険人物として太一や雄貴は毛嫌いしているのだが、かなりストーカーの入った真奈美の熱烈な追っかけファンで有名大学病院長を父親に持つ横山(亀山浩史)が、その大学病院に転院する便宜を図ってくれたのだ。
元来が屈託のない真奈美は横山のこともウェルカムで、太一や雄貴が嫌な顔しても何ら気にすることはない。
すると、現金なもので渋沢は掌返しでいきなり態度が豹変。その節操無さが、雄貴の怒りを増幅させた。

すったもんだの末に、真奈美は転院した。相変わらず片足はギブスと包帯で痛々しく感覚がまったく戻らないが、彼女は普段とまるで変わらず前向きで底抜けに明るかった。その姿が、太一や雄貴には逆に痛々しくもある。
今度の主治医は、やや優柔不断そうだが若くて誠実な秋元(柴博文)という医師だった。同じ病棟には、腰を痛めて入院している保険外交員の加藤(山素由湖)という気のいい中年女性がおり、真奈美のいい話し相手になった。
相変わらず横山も頻繁に見舞いに来ており、いつしか太一や雄貴も彼のことを受け入れざるを得なくなった。

真奈美の足は思いの外深刻で、リハビリで若干の回復はあるものの元には戻らないと秋元から告げられる。それでも、彼女は何ら動じることなくベッドで熱心に曲作りを続けている。姉に強さに、雄貴は驚きと戸惑いがない交ぜになる。
しかも、今でも付き合っていて結婚するのも時間の問題だと思っていた太一が、実はすでに真奈美と別れており、同じバンドでキーボードを担当している女性と結婚することになっていたことを知らされ、雄貴はますます混乱する。
常に状況を受け入れて明るく振る舞い、時には病院内でバカ騒ぎまでして見せる真奈美の強さに、周囲は巻き込まれて行く。彼女たちの病人らしからぬ態度をたしなめる立場の看護師・相馬夏子(難波なう)まで。

そんな病院に、ちょっとした事件が持ち上がる。渋沢が、前の病院から異動して来たのだ。彼は、加藤の担当医となり、しばしば真奈美たちの病室にも何食わぬ顔で姿を見せる。もちろん、雄貴はいきり立つが、当の真奈美はさほど気にしていない風だった。

しかし、一貫して前向きな姿勢を崩さなかった真奈美も、その内面は激しく揺れ動いていた。
淡々とマイペースに明るく振る舞っていた真奈美は、ある時渋沢に向かってきっぱりとこう言い放った。金輪際、医師として仕事するな!と。
彼女は、これまで必死に心の中に溜め込んでいた怒りと悲しみを、せきを切ったように渋沢にぶちまけるが…。


まず、この物語そのものが実話に基づいている訳だから、それだけでもある種の説得力を持っている…と思う。
それを、企画した宝積有香が自らを主人公に、「兄と私」の話を「私と弟」の話にトレースして演劇的な距離を取ったことが、言ってしまえばひとつの技ありという気もするし、内面を吐露する部分を、あえてスタンド・マイクを設置して語りかける演出手法に、うさぎストライプの大池容子的な技巧を感じる。
この作品の一番の難しさは、実話に基づくエピソードをその当事者が演じてみせるというある種「再現ドラマ的構造を、どう演劇的に昇華させるか…」ということに他ならない。
要するに、リアルと娯楽的フィクションの距離の取り方とでも言えばいいだろうか。
宝積と大池の志は買うものの、上手くいっている部分もあるが気になる個所も随分と目についたように思う。



先ず気になったのは、物語のエンジン的なキャラクターとして機能する雄貴役を演じた高木心平の前のめり過ぎに突っ込んだ演技である。そして、雄貴と真奈美を繋ぐ緩衝剤的な存在の石井太一を演じたお宮の松の演技的軽さも感心しなかった。
ラスト前まで、ひたすら前向きに悠然と構える真奈美という存在を軸にした舞台だから、彼女を取り巻く周囲の登場人物たちの行動で物語は展開して行くのだが、最も重要な人物二人の演技に粗さや拙さを感じてしまい、今ひとつ観ていて集中できなかった。
頻繁に雄貴がかける、あまりに下らない渋沢医師への嫌がらせの電話のくすぐりも含めて。

そして、あまりにもステロタイプ的に設定された渋沢というヒール役の造形もどうかと思う。演じた中丸新将が、サザンオールスターズ「シュラバ★ラ★バンバ」をバックに独白するシーンの中途半端な突き抜けなさも歯痒い。

ヒロインの宝積有香の若々しいキュートな演技はなかなかに見せるが、それでも要所要所での単調さは気になった。山素由湖の演技はやや型にはまった部分があるものの、作品的なアクセントになっていたと思う。
ナイーブな医師・秋元役の柴博文は健闘していたし、うさぎストライプでの芝居では演技に硬さを感じる亀山浩史が意外にも適役でちょっと見直してしまった。

ただ、僕が個人的に一番印象に残ったのは看護師・相馬夏子を演じた難波なうである。割と地味な佇まいで齢二十歳の若手女優だが、夏子というキャラクターの造形の良さも相俟って、とても舞台上で生き生きして見えた。ある意味、本作の中で一番“舞台上で生きていた”のは、彼女だったように思う。
また、この人が出演する舞台を観てみたいな…と思ったくらいである。



前述したとおり、物語は大ラスで一気に真奈美が感情を爆発させた後、全員参加でライブ演奏を展開して終幕する。まあ、ドラマ構造としてはこういう定番のラストにするしかないのだろうが、もう少し「大池容子ならでは!」と思えるような演出がなかったかな…と思ったのも事実である。



本作は、ちょっとだけ不思議で前向きな気持ちにもなれる作品ではある。
それだけに、もう少し演劇的なマジックを感じられるサムシングが欲しかったように思う。

鵺的特別公演『鵺的第一短編集』

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2015年12月23日千穐楽、新宿眼科画廊にて鵺的初の短編公演である『鵺的第一短編集』を観た。




作・演出は高木登、照明は吉村愛子(Fantasista?ish)、音響は平井隆史・太田智子、舞台美術は袴田長武+鵺的、演出助手は田神果林(エムキチビート)、ドラマターグは中田顕史郎、アクション指導は宗形拓樹、劇中雑誌デザインは小林タクシー、宣伝美術は詩森ろば(風琴工房)、舞台写真撮影は石澤知絵子、ビデオ撮影は安藤和明(C&Cファクトリー)、制作は鵺的制作部・J-Stage Navi(島田敦子・早川あゆ)、制作協力は井上恵子(T1project)・contrail(加瀬修一)、協力はキムキチビート・チタキヨ・IVYアイヴィーカンパニー・アスタリスク・レトル・ECHOES・Krei.inc・YUYU・にしすがも創造舎、企画・製作は鵺的。


「ふいにいなくなってしまった白い猫のために」

野田宏(杉木隆幸:ECHOES)には、もうすぐ結婚式を控えた妹がいる。そして、今、彼の目の前には妹の高校時代の友人で現在は宏の恋人である日向響子(堤千穂)が座っている。響子とも知り合って長いが、宏は彼女の内面をつかみかねている。
響子は、宏のことを今でも“お兄さん”と呼び、そのことも宏を混乱させていた。響子はひとしきり昔話をした後、宏と妹がただならぬ関係だと知っていたことを告げる。
激しく動揺し、自分と妹の関係は純粋な感情だとむきになって抗弁する宏に、彼女は「お兄さんも、私のことを妹だと思って抱けばいいじゃないですか」とこともなげに言ってのけた。
宏は、ますます響子という女のことが分からなくなり…。

「くろい空、あかい夜、みどりいろの街」

三人の女が、ひとつの部屋でちょっとした修羅場を演じている。亜以(奥野亮子)という自由奔放で猫のような女に振り回される比呂子(高橋恭子:チタキヨ)と志津(中村貴子:チタクヨ)。
亜以の気持ちは比呂子へと移っており、志津との関係を清算するために、今ここにいる。ところが、志津はこの子のことを本当に理解して守ってやれるのは自分だけだと主張して譲らない。亜以は亜以で、持ち前の気紛れからか不貞腐れたまま二人を突き放すような言動を繰り返す。
比呂子は、志津に対して必死に自分の気持ちの強さを訴えるが、次第に亜以の気持ちが分からなくなってしまい、志津にある種の共感めいたものを抱き始める。ある意味、私たちは同じようにこの子に翻弄されているのではないか?
何故、ここまで志津は強気なのか。それは彼女が亜以の実の姉だからと知って、比呂子は…。

「ステディ」

ライターをしている小林圭吾(平山寛人:鵺的)には、現在同棲中の木崎逸郎(稲垣干城)というステディがいる。小林は木崎のことを深く愛しており、木崎も小林のことを思ってはいるものの、根っからの自由人の木崎は、頻繁に女とも寝ていた。
小林は、「自分は大人だから…」と自らに言い聞かせて耐えているものの、またしても木崎が軽い気持ちで手を出した女・新井みずき(とみやまあゆみ)が家まで押しかけてくる。
みずきは思い込みの激しい独善的でエキセントリックな女で、一方的に小林を悪者にして食ってかかった。彼女は、木崎のことが好き過ぎて、自分こそが木崎を救いだせると真剣に考えているのだが、当の木崎にはハタ迷惑で鬱陶しいだけだ。
自分で原因を作っておきながら今回もいい加減な態度に終始する木崎を見ていると、人のいい小林はみずきに同情心を抱く。
結局、みずきは追い出され、木崎は気紛れに外出した。さっきまでの騒ぎが嘘のように、小林は一人部屋に残される。
そこに、レズビアンの雑誌編集者・白石由希乃(木下祐子)がやって来る。しばらく、二人は次の記事について打ち合わせしていたが、そこに再びみずきがやって来て…。


三編のうち「ステディ」は10年以上前に書いた作品の蔵出しで、他の二編は今回のために書き下ろしたそうである。
配布されたチラシに高木登さんが書いた文章を引用すると、「世間的には『異端』とされる愛のかたちをならべたのは、コンセプトとして考えたわけではなく、自然にそうなったものです。愛に異端も正統もなく、ただ『人』がいるだけ」とのことだが、それでも今回ほど明確に打ち出したのは初めてかもしれないそうである。

そもそも、僕がこの芝居に足を運んだのは、「ステディ」に出ているとみやまあゆみさんの演技を生で観たかったから…というシンプルな理由からである。
榊英雄監督がオーピー映画で初めて撮ったピンク映画『オナニーシスター たぎる肉壺』(2015)にとみやまさんが刑事役で出演していて、僕は彼女のことが印象に残った。それで、SNS上でちょっとしたやり取りがあり、この舞台のことをとみやまさんから聞いたのだ。
とみやまさんがどう思っているかはもちろん分からないけど、多分『鵺的第一短編集』をピンク映画がきっかけで観に来たお客はあまりいないのではないかと思う。
偶然というか世の中狭いというか、僕は制作協力の加瀬さんと一度酒席で一緒になったことがあり、彼とも久々の再会となった。

ただ、この短編三本を観て、いささか僕は首を傾げてしまった。
異端的(という表現自体、僕にはちょっと引っかかってしまうのだが)な恋愛譚ではあるが、特に異端を意識した訳ではないと高木さんは度々語っているし、それに嘘偽りはないのだろうが、同時にフライヤーの中で「あたりまえの男女の恋愛に興味がない。書く気にならない。それを書いて上手な人間は他にもいるだろうし、すでに無数にあるものをあらためて書く意義を感じない」と書てもいる。
文意としては、その後で生きる人間の多様性に言及して、マイノリティ(少数)の側に立つことこそが作家の使命だろうという方向に行く。
まあ、文章の一部を取り上げてどうのこうのいうのはいささかフェアではないが、配布物に書かれた文章を読むと、やはり考え込んでしまう。

舞台を観ている間、僕はずっとある種の居心地悪さや息苦しさを感じていた。それは、恐らく、この三つの物語が芝居的大仰さに彩られているように思えたからだ。
舞台を観た後、改めて手元にあったチラシ類に目を通してみて、高木さんの作劇や演出にある種未整理な混沌があったんじゃないか…という印象を持った。

どういう形のものであれ、大半の人々は他者を求めるだろうし、その希求が不可避だからこそ、そこに幾通りもの関係性やドラマが生まれる。それは、僕たちの生の営みそのものと言ってもいいだろう。
異端か否か、日常か非日常か、マジョリティかマイノリティか…それはあくまで物語を紡ぐ上でのひとつのモチーフに過ぎず、ことさら強調するべきものとは思えないし、作り手の思いは作り手の思いとして、その舞台に足を運んだ観客一人一人の受け止め方に委ねるべきだろうと思う。
もし、届くものがあれば、ちゃんと届くだろう…というのが、僕の基本的な考えである。

然るに、当の作り手である高木さんが、あくまで結果として「異端」的な仕掛けに囚われ過ぎてしまったのではないかと僕は考えてしまう。それが、僕の感じた「芝居的大仰さ」である。
要するに、各登場人物の言動がことごとく直情的であり、過剰に自らの想いの丈を行間なく吐露する場面が多いことで、彼らの言葉にできない心の揺れみたいなものに想像力を及ばせる余白がなく、僕は観ていて疲れてしまったのだろう。
それは、芝居にとっていささか残念なことのように思う。

あと、登場人物たちは、それぞれがままならぬ想いや相手への不満を抱いているのだが、「ふいにいなくなってしまった白い猫のために」の宏にしても、「くろい空、あかい夜、みどりいろの街」の亜以にしても、「ステディ」の木崎にしても、相手の心を掻き乱すだけの魔性というか人間的な魅力が上手く伝わらず、どうしても物語に感情移入できないもどかしさがあった。
多分に、人物造形がカリカチュア的に過ぎるのではないか。

役者たちが、それぞれ自分の与えられた役を思いを込めて演じているのは伝わるのだが、ある意味その思いさえもが過剰のように感じられた。
結局のところ、人そのものを自然に描けなければ、ドラマ的なあざとさや異端的な個所ばかりが前に出て来てしまう。

恋愛を描くことは、シンプルだからこそ難しい。たとえ、それがストレートであれ、ノット・ストレートであれ。
誰もが経験することだからこそ、恋愛を巡る人々の想いとその物語の質が、シビアに問われてしまうのだ。

そんなことをずっと考えてしまう舞台だった。

肯定座第5回公演『MAN IN WOMAN』

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2015年12月26日ソワレ、高円寺明石スタジオで肯定座第5回公演『MAN IN WOMAN』を観た。



脚本は信本敬子、演出はナカマリコ、舞台監督は田中翼・馬渕早希、舞台美術は袴田長武、照明は松田直樹、音響は樋口亜弓・松丸恵美、音楽は電気スルメ、演出助手は伊岡森愛・細川翔太、写真は宮本雅通、撮影・編集は伊藤華織、劇中映像編集は加藤和博、チラシデザインはナカマリ、HP制作は斉藤智喜、制作は岩間麻衣子、企画・製作は肯定座。
協力は(株)エコーズ、Kreiinc.、(株)グッドラックカンパニー、(株)仕事、(株)スターダスト・プロモーション、タテヨコ企画、デザインと映像制作の加藤、ドリームダン、ニュアンサー、年年有魚、日高舞台照明、(有)モスト・ミュージック、Quartet Online、箱空。


こんな物語である。

年齢も仕事も性格もバラバラな女8人が暮らす、東京某所のシェアハウス。富士山に噴火の恐れありということで避難勧告が出され、すでに近隣住民たちは次々と東京を離れている。このシェアハウスの住人たちもこれから避難することになっているのだが、何故か彼女たちには危機感が薄い。

元AV女優の風間“さやか”清香38歳(奈賀毬子:肯定座)は、風呂から出てバスローブ姿でうろうろしているし、売れないモデルの小沢“まの”麻乃27歳(福原舞弓:肯定座)は、車中で食べるはずのおにぎりに手を出している。
この家の料理担当でイラストレーターの横井“ウンモ”ルカ38歳(菊池美里)は、冷蔵庫の中を空にすると言って出発時間が近づいているのに鍋を作り出す始末。

他の住人は、プライドが高く酒好きで協調性に欠けるCAの森“ジュリー”樹里亜40歳(江間直子:無名塾)、二面性のあるゴスロリ系アパレルショップ店員の朝倉“ナオミン”奈緒美34歳(平田暁子:年年有魚)、かなり年下の彼氏とゴールイン間近らしい蓮田“みどり”翠39歳(市橋朝子:タテヨコ企画)、ご主人を亡くしてから自宅をシェアハウスにしたオーナーの中田中“れいこ”麗子52歳(辻川幸代:ニュアンサー)。
そこに、職場の介護施設から帰って来た須山“スーさん”有紀43歳(塩塚和代)が、あまりに緊迫感を欠いた面々をどやしつけた。
ところが、空腹だから苛々するんだと言ってウンモができた鍋を持ってくる。皆が鍋をつつきだしたその時、テレビが富士山の噴火を伝えた…。

それぞれの避難先に向かって旅立った8人は、クリスマスの時期に再びシェアハウスに戻って来た。避難する前とは、それぞれが少しだけ違った状況に直面しながら。皆の不安のひとつは、れいこさんの物忘れが酷くなっていることだった。もし、彼女が本当に痴呆症だとしたら、このシェアハウスは一体どうなってしまうのか?

クリスマスが終わり、年も押し詰まったある日、ふとしたきっかけからシェアハウスの住人たちは、期せずして互いに秘めた胸の内をカミングアウトし出す。それぞれが思いを吐き出し感情をぶつけ合ううちに、不思議と何かが浄化されて行くようだった。
ところが、最後にれいこさんがにわかに信じられない話を始めて…。


肯定座主宰の奈賀毬子は、9年間7人でルームシェアしていたことがあり、その経験が本作のきっかけとなっているようである。
演出も脚本も役者もすべて女性のみで構成されたこの作品の印象を一言で表現すれば、“ウェルメイド”ということになるだろう。

富士山の噴火というトピック以外の説明をほとんど省いて、バタバタとコミカルに展開する前半は、いささか女性8人のかしましさが力み過ぎで疲れる。それは恐らく、舞台上の温度に比べて、観ている僕の鑑賞体温が追いつけないからだろう。
自分だけかもしれないが、肯定座の舞台を観ていると前半にこういう温度的な落差を感じることがしばしばである。

ただ、8人がクリスマス・シーズンに共同生活を再開する後半は、ストーリーテリングのギアの入れ方がスムーズで、引き込まれる。富士山噴火までの前半に、シェアハウスたちのキャラクター描写や物語的な伏線をしっかり仕込んでいればこそ、だろう。

8人それぞれが自分たちの日常を取り戻そうとしても、すでに事態は次の時点に進んでしまっている。今置かれている状況を自分の胸だけにしまい込んでいるのは、いささか限界だ。
そんな状況の中、まのが、自分の抱えている“問題”をカミングアウトしたことがきっかけとなり、これまでの共同生活では打ち明けなかった秘密を各人が怒涛のように吐き出す展開は、スピード感と畳みかけるようなテンポが良い。
ただ、彼女たちの抱えているエピソードに定型的なものを揃え過ぎているような印象を受ける。このあたりに、もう少し変化球が欲しいような気がする。

このカミングアウトの場面では、何と言ってもジュリー役の江間直子の演技が見どころである。それから、メンバーの中では曲球的なキャラクターのナオミン役平田暁子の存在感もいい。
8人の女優はそれぞれに個性的だが、物語の“かすがい”的な役目を果たしているウンモ役菊池美里が印象的。バタバタした物語を、れいこのエピソードでツイストさせるキレ味もなかなかだ。
コミカルに終末的なエンディングは、好みが分かれるかもしれない。

とまあ、なかなか良く練られた作品だし後味も悪くないのだが、第3回公演『顎を引け-素晴らしきこのマット-』以降の3本は、いささか「いい話」を揃え過ぎのきらいがある。
個人的には、『濡れた花弁と道徳の時間』のようにブラックな作品をそろそろ観てみたいものである。
それから、僕が唯一未見で肯定座作品では傑作と言われている『暗礁に乗り上げろ!』の再演を是非ともお願いしたいところだ。



本作は、肯定座にとってある意味一区切りとなるような良作である。
次回作では、一体どんなテイストの作品を持ってくるのか。肯定座あるいは奈賀毬子の新たなるステージを期待したい。

石川二郎『DRAGON BLACK』

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2015年12月19日公開、石川二郎監督『DRAGON BLACK』




製作は及川次雄、プロデューサーは藤原健一・太田太朗、脚本は杉本順平・石川二郎、撮影・照明は小山田勝治、音楽は與語一平、編集は石川二郎、録音は沼田和男。配給はオールインワンエンタテインメント。
宣伝コピーは「その龍は、黒煙と共に悪を喰らい尽くす!!」


こんな物語である。

元警察官で、現在はスタントマンをしている赤根龍斗(虎牙光揮)。龍斗の夢は、ヒーローものの主人公を演じることだが、今はまだ夢に向かってキャリアを築いている最中だ。龍斗には、かつてはスタントをしていた古内桃子(武田梨奈)という婚約者がおり、彼女は妊娠している。



龍斗は、ガンエフェクト技師の今野徳治(六平直政)から撮影に使う警察官の制服が欲しいと頼まれ、疎遠になっている刑事の父・正蔵(斎藤洋介)に会いに行く。龍斗は、正蔵に会ったついでのように、自分には妊娠している婚約者がいることを告げた。
すると、正蔵は「孫の顔が見れるな。これで、定年後の楽しみができた」と嬉しそうに笑って手を振った。

すべてが順調に見えた龍斗の生活が、一変する。正蔵が未成年を強姦して、自殺を図ったとの報が警察からもたらされたのだ。
訳も分からず、正蔵の遺体確認に行った龍斗。ところが、父の亡骸は、明らかに酷い暴行の痕があり、どう見ても自殺体には見えなかった。そもそも、絵に描いたような堅物刑事の父が、こんなことをするはずがない。
龍斗は、警察学校時代の同期で、今は警視庁の刑事として順調に階級を上がっている西条祐介(永岡佑)に食ってかかる。

自殺した犯罪者の家族だからとの理由で理不尽にキャストを降ろされ、桃子の家族に会う約束も延期された龍斗は、独自に調査を開始する。
すると、闇社会で蠢くヤクザ組織と、それを影で利用する警察組織の恐るべき実態が浮かび上がって来る。
龍斗の行動に注視していた警察組織は、龍斗にも牙をむき始め…。




石川二郎、藤原健一、小山田勝治、與語一平、亜紗美、稲葉凌一、森羅万象といったスタッフ&キャスト陣を見れば、一部のピンク映画やVシネマ好きの方なら反応してしまうことだろう。
で、作品の内容も、言ってみればそういったテイスト満載の出来と言っていいと思う。良くも悪くも。
だが、本作を虎牙光揮と武田梨奈が出演した本格アクション映画と捉えて観た向きには、いささか首を捻る出来だろう。

もちろん、虎牙光揮、武田梨奈、木原勝利、亜紗美が見せるダイナミックなアクション・シーンの数々は、十分に見応えありだ。
だが、いささか時代錯誤したような粗雑なストーリー展開は、ある意味ジョークのようですらある。あえて監督が狙ってのことかもしれないが、それにしてもな…と思ってしまう。
それから、千葉誠治監督『忍者狩り』の演技でも感じたことだが、虎牙光揮のトゥー・マッチなくらいに力んだ芝居も観ていて気になる。

龍斗、祐介、宮島春樹(木原勝利)の三人が地獄を味わった警察学校での常軌を逸した壮絶ないじめのエピソードにしても、公安の潜入捜査にしても、腐敗した警察組織の暗躍にしても、何かのカリカチュアにしか見えないし、今野徳治の無頼ぶりもいささか浪花節的にオールド・テイストの感がある。




大体において、龍斗が窮地に陥った時、すべからくジャケットの下にスタント用の血糊と火薬が仕込んであるというご都合主義にはさすがに苦笑してしまった。

あまりに分かりやすいヒールと、悪ノリに近い犯罪行為、そして雌雄を決するラストの決闘シーンに至るまで、何処までがシリアスで何処までがジョークなのか…と何度も首を捻ってしまった。

個人的に本作最大の見所といえば、武田梨奈と亜紗美のバトル・シーンだった。武田に関しては、日常シーンにおける愛らしい演技にも惹かれた。



それから、流石の存在感を見せる斎藤洋介と六平直政、チープな小悪党的森羅万象も悪くない。

本作は、もう少しストーリーがどうにかならなかったのか…と考え込む一本。
アクション・シーンと役者陣にはそれぞれ魅力的なだけに、何とも残念な出来であった。

My Favorite Reissured CD Award 2015

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ちょっと遅れましたが、新年といえばこの企画ということで再発CDアワード。そんな訳で、去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

基本的にはCD売り上げは相変わらず低調で、再発の企画にも目新しいものはない。もはや研究者向けとしか思えないような重箱の隅突きまくった拡張版BOXとか、新素材を使った高音質盤とか、廉価盤再発とか、オリジナル・アルバムをすべて紙ジャケ化した廉価BOXとか。
それから、近年目立っているのが放送音源のCD化で、このあたりの版権がどうなっているのか気になるところだ。ローリング・ストーンズが、自身でDVDとCDをセットにしてファンには有名な名ライヴをアーカイヴ化しているのが目を引くところだろう。

2015年の再発シリーズについて言及すると…。

個人的に嬉しかったのは、泉谷しげるポリドール時代、一度は再発が中止となっていた坂本龍一のMIDI時代、ホルガー・シューカイの1980年代作品群。
英米以外のマニアックなプログレッシヴ・ロックを積極的にリマスター再発しているMARQUEE INC.からは、ベルギーのチェンバー・アヴァン・ロック・バンドX-レッグド・サリーや、R.I.O.の急先鋒バンドだったヘンリー・カウとカウのギタリストだったフレッド・フリスの名作群の紙ジャケット再発が嬉しかった。
プログレといえば、来日もしたキング・クリムゾンのアーカイヴ・ライブ三種も、内容はもちろん素晴らしいが、このシリーズとしては特質すべき音質だった。
メジャーに目を向けると、ようやくレッド・ツェペリンのリマスター・シリーズが完結した。
タワーレコード限定再発は、2015年も独自の視点で魅力的なラインナップが揃っていた。和物というと、このところ昭和歌謡の旧作群や邦画のサウンドトラックが、「和物グルーヴ」というクラブ視点で再評価されているのも興味深い。
恐らくは、ある程度昭和の日本ジャズがディグされて来たので、次のネタ探しといった狙いもあるように思う。

では、2015年の再発で個人的に印象に残ったものを順不同で挙げておく。

○ 大滝詠一 / NIAGARA CD BOXⅡ


2011年にリリースされたBOXⅠの続編で12枚組の本作は、大滝が『ロング・バケーション』でようやくブレイクした後の作品が収録されている。アナログ時代に色々なフォーマットでリリースを行って来たナイアガラならではの作品も多く、当時を知らないファンにはやや不思議な音源も収録されていると思うが、リアル・タイムであの時代を過ごした者にとっては、まさしく宝物だろう。去年の再発CDアワード にも書いた通り、本ボックスの『EACH TIME』にはドラマチックなエンディングの「レイクサイドストーリー」オリジナル・バージョンが収録されている。
そして、大滝が急逝してから2年が経った今年の3月21日、何と新作「BEDUT AGAIN」のリリースがアナウンスされている。

○ 吉田美奈子 / in motion

タワーレコード限定の好企画「TAMOTSU YOSHIDA REMASTERING」シリーズの一枚で、当時ALFAレーベルからリリースされたライヴ盤。もちろん、他のスタジオ作もすべて再発された。
数年前にもALFA時代の作品は紙ジャケで再発されていたのだが、その時はろくにリマスタリングされず音圧もしょぼい代物だったが、今回は理想的な形での再発となった。この時代の美奈子はいわゆるファンク・エラで、最高にグルーヴィーな音が詰まっている。
なかでも、六本木ピット・インで収録された本作は、その最高峰だろう。一曲目「愛は思うまま」のカッコよさといったら…。
言うまでもなく、エンジニアの吉田保は美奈子の実兄である。

○ WHITE PLAINS / THE DERAM RECORDS SINGLE COLLECTION

フラワー・ポット・メンが発展してこのグループになったことは、VANDA系ソフト・ロック好きにはつとに有名な話である。ソングライター兼プロデューサーで参加したロジャー・グリーナウェイは、もちろんクック=グリーナウェイで数々のヒット曲をものにしたソングライター・チームの彼である。
良質なブリティッシュ・ハーモニー・ポップスの宝庫であるホワイト・プレインズは、これまでにもCD化されているが、如何せん音質もパッケージも購買意欲をそそらない代物であった。
ようやく、このコンピレーションで長年の不満が解消された。ソフトロック・ファンなら迷わず買うべき一枚である。

○ HOLGER CZUKAY / ON THE WAY TO PEAK OF NORMAL

CAN時代の諸作や初期の2枚は順調に再発が進んでいたが、名盤『ムーヴィーズ』以降の80年代作品はなかなか再発されず、2014年に一度アナウンスされたもののなぜか発売中止になってしまった。それが、ようやく再発の運びとなった。
内容としては、ホルガー・シューカイらしい浮遊感のある独特の音世界で『ムーヴィーズ』が好きな方には必ず気に入ってもらえるはずだ。他にも、『DER OSTEN IST ROT+ROME REMAINS ROME』とコンピレーション盤『11YEARS INNNERSPACE』がリリースされた。
次は、『FULL CIRCLE』の再発に期待したいところである。

○ 藤原秀子 / 私のブルース

五つの赤い風船の紅一点、藤原秀子が1970年にURCから発表した唯一のソロ・アルバムである。本作の特徴は、五つの赤い風船のリーダーである西岡たかしが関わっておらず、元ジャックスの木田高介と五つの赤い風船からは東祥高が参加していることだろう。
ジャジー、ブルース、歌謡フォーク調といった多彩なサウンドに乗って、ベタつかず適度に洗練されたクールな歌唱を聴かせる本作は、非常に魅力的。
今の耳で聴けば、プロテスト・フォークとニュー・ミュージックをつなぐような作品といってもいいだろう。
7曲のボーナス・トラックもそれぞれに聴き応えがあり、決定版的な再発となっている。

○ GEORGIE FAME / COOL CAT BLUES

このところジョージィ・フェイムの再発も盛んになり、ほとんどの作品がリマスター再発されているが、本作はベン・シドランのGO JAZZから1991年リリースされた移籍一作目。
豪華ゲスト・ミュージシャンを迎えて製作された本作は、ジャズとブルースをミックスしたGO JAZZならではの洗練されたサウンドが耳に心地よい。
すべてのトラックが聴きどころという充実した内容だが、「どれか一曲」と言われれば僕なら迷わずヴァン・モリソンとの渋いデュエットを聴かせる「ムーンダンス」で決まりだ。
まさに、いぶし銀的大人の一枚である。

○ エミー・ジャクソン / 涙の太陽

CM曲にも使われ、安西マリアのカバーでもお馴染みのヒット・シングル「涙の太陽」を収録したアルバム。1993年に一度CD化されたものの廃盤となり、その後は「オンデマンドCD」(CD-R)で流通していた。
今回は、待望のデラックス・エディション盤で、もちろんリマスタリングが施された決定版。ブルー・コメッツが全面的に参加した本作は、和製ガレージ・サウンドとガールズ・ポップスが混在したこの時代ならではのサウンドがユニークで魅力的である。

○ LED ZEPPELIN / PRESENCE


言うまでもなく、1970年代で最も成功を収めたハード・ロック・バンドだが、ここ数年ジミー・ペイジが自ら取り組んできたリマスター再発がついに完結した。ほとんどのアルバムが傑作の彼らだが、個人的には代表曲「天国の階段」を収録した4枚目と並んで好きなのが、後期の代表作『プレゼンス』である。
ロバート・プラントがロードス島で自動車事故を起こし、まさに絶頂期を迎えていたバンドは、ツアー中止を余儀なくされてしまう。
プラントは車椅子生活のままだったが、メンバーは思うように活動できなかったストレスを本作にぶつけ、その熱に浮かされたような性急さが本作の勢いになっている。
A面1曲目「アキレス最後の戦い」はまるでプログレのような10分半の大曲だが、一切ダレることなく圧倒的なテンションで走りきってしまう壮絶さ。他のトラックも聴きどころ満載だが、セールス的にはなぜか最も低調であった。
いずれにしても、本作は彼らの最後のピークを記録したハード・ロックの金字塔的作品である。

○ DAVID BOWIE / FIVE YEARS 1969-1973

ニュー・アルバムをリリース直後にもたらされたボウイの突然の訃報には、世界中のロック・ファンが言葉を失った。もちろん、僕もその一人である。
デビューから一貫して変化し続けたロック界最大の偉才の一人デヴィッド・ボウイは、特定のサウンド・スタイルを持たないことが個性という希有な存在でもあった。
最も有名なのは、ジギー・スターダストを名乗り奇抜で個性的な衣装と宇宙人的に美しいルックスでシアトリカルなステージを展開したグラム・ロック時代だろう。その後の彼は、ソウルに傾倒したサウンドでアメリカでもブレイクを果たしたかと思えば、ベルリンに渡ってブライアン・イーノと先鋭的なアルバムを製作し、MTV全盛時代にはナイル・ロジャースのプロデュースで「レッツ・ダンス」を大ヒットさせた。
この12枚組は、出世作となった2ndアルバム『スペース・オディティ』から異色のカバー集『ピンナップス』までの初期グラム時代を総括したボックス・セット。内袋やレーベルも再現した丁寧な作りで、今一度彼の偉業を振り返るにはうってつけのボックスである。
なお、タイトル「ファイヴ・イヤーズ」が5年間の活動と名作『ジギー・スターダスト』のA面1曲目をかけているのは言うまでもないことだろう。

○ 松任谷正隆 / 夜の旅人

あまり話題になることもない地味な再発だと思うが、個人的にはずっと待っていたアルバムである。1995年にQ盤シリーズの1枚としてCD化され、それ以降は2001年に『ティン・パン・アレー&メンバーズ』というボックスの一枚として発売されていた。ようやくの単体リマスター再発である。
1977年にリリースされた本作は、マンタ唯一のソロ・アルバムだが、彼の幅広い音楽性と洒脱で懐深いソングライティングが印象的な一枚。すべての曲に詞を提供しているのは、愛妻ユーミンである。
「Hong Kong Night Sight」は、まさしく松任谷正隆の真骨頂といえる洗練された良質なサウンドが光る。


それなりに話題作もあるにはあったが、やはり2015年も再発マーケットも地味な印象であった。
いよいよCDというフォーマットの売り上げも頭打ちの状態故、2016年はパッケージや企画性に新たなる基軸を期待したいところである。

MAZURU@国立NO TRUNKS

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2016年1月16日、国立NO TRUNKSで林栄一率いるMAZURUのライブを聴いた。MAZURUは、1990年に当時新星堂に勤めていたこの店のマスター村上寛がプロデューサーとなって、新星堂のオーマガトキ・レーベルからデビュー作を発表している。
オリジナル・メンバーは、林栄一(as)、石渡明廣(g)、川端民生(el-b,perc)、是安則克(b)、藤井信雄(ds)、楠本卓司(ds)。




ベースの二人はすでに鬼籍に入っており、この日は不破大輔がエレキベースで加わった。マスターの話では、これからもこの店ではMAZURUにガンガン演奏してもらうとのことである。

MAZURU : 林栄一(as)、石渡明廣(g)、不破大輔(el-b)、藤井信雄(ds)

第一部

1 SMOKY GOD
ロフト・ジャズとアヴァン・ロックをミクスチュアしたようなアグレッシヴな音。フリーにブロウするサックスと、レコメン系の如きパンキッシュなエレキギター、性急にグルーヴするエレキベース、時に急き立てるようなリズムを叩き出すドラムス。
4人の奏でるヒリヒリするようなスリリングでタイトなサウンドを聴いていると、まるで70年代ニューヨークの先鋭的なジャズクラブにいるようである。
どうもリードが不調のようで、林は何度か演奏を中断してリードを確認していた。アルトサックスが抜けてギター中心のトリオ演奏になると、さらに音がソリッドで鋭角的になり、NO WAVEのようになるのも刺激的だ。

2 SKY MIRROR
やや感傷的でメロディアスなフレーズを吹くサックスと、寄り添うようなギター。音の隙間を作ったエモーショナルな音像が印象的だ。まさしく、メンバー4人による音楽的な対話を聴かせる。
一端ギターが抜けてトリオになると、フリーライクな演奏を展開しつつもぎりぎりのところで破綻しないアンサンブルが刺激的だ。
再びギターが加わっての演奏では、繊細でストイックな佇まいから徐々にギターが加速していき、美しさはそのままに畳みかけるような音を聴かせる。
ラストは、林がソウルフルにブロウしてフィニッシュ。

3 ドラムスの叩き出すスクエアなビート、ワウワウをかましたギター、ハネるビートを奏でるベース。この3人をバックに林が奔放に吹きまくる。各人のプレイは熱いのだが、奏でられるサウンドはクールかつ知的な尖ったジャズ・ファンクである。

4 ナイト・ビート的にムーディなフレーズをブロウするサックスと、美しいサウンドを聴かせるギター。ストレートなバラードが、胸に響く。各プレイヤーの年季を感じさせるいぶし銀的な演奏である。

第二部

1 最高にグルーヴするリズム隊、ギターのファンキーなカッティング、ブルージーでスウィンギーなサックス。2016年の国立から70’sのニューヨークにタイムスリップ。めちゃくちゃ気持ちいいサウンドで、聴いていて自然に体が揺れる。
とにかく、4人の音が溌剌としていて若々しいのだ。

2 夜気を運んでくるようなギターのサウンドと、アッパーなフレーズを刻むベース、繊細なブラッシュ・ワークを聴かせるドラムス、朗々と吹くサックス。ゆらゆらと妖しく響くミステリアスなサウンドは、さながら深海で奏でられるジャズのようだ。
後半の展開では、ブルージーなテイストが加味され、硬質なギター、ソリッドにリズム・キープするドラムス、シャープにランニングするベースを従えて息遣いまで感じる肉体的なプレイを聴かせる林のプレイに酔いしれた。

3 NAADAM
この日のラストは、渋さ知らズのレパートリーにもなっている「ナーダム」。
まずは藤井のドラム・ソロから入って、林がフリーダムにブロウ。アフロ・オーセンティックなサウンドは、石渡のワウワウ・ギターでさらにスピリチュアル度が増す。そこに不破のベースが加わると、劇的に視界が開け祝祭的なムードが会場を包む。そのスケール大きな解放感溢れる演奏に、心洗われる思いだ。
一端林が抜けてトリオ演奏になると、今度はジェームズ・ブラッド・ウルマーやジャン・ポール・ブレリーを思わせるようなブラック・ロック的サウンドに。ぐんぐん加速していく演奏が刺激的だ。
再び林が加わると、さらに音圧が上がり、灼熱の演奏に。不破の疾走するベース・プレイに息を飲む。
藤井のタメを効かせたドラム・ソロから4人でのプレイに戻ると、どこか日本の祭りを思わせるようなテイストが現れる。メイン・テーマをリフレインするラストは、アフロ・スピリチュアルと演歌的な泣きのフレーズが混在する日本ドメスティックなジャズを聴かせてフィニッシュ。



MAZURU名義では久しぶりの演奏だったようだが、ベテラン・ジャズメン4人による演奏は、驚くほどにエネルギッシュで若々しいサウンドが鮮烈だった。不破に聞いた話では、この日はほとんどフリー状態での演奏だったようだ。
何より素晴らしいのは、1970年代の熱気と現代的なサウンドが絶妙なバランスで混在し、そこに日本人ジャズメンならではの土着性も感じさせてくれたところである。

マスターの言葉通り、これからもコンスタントにMAZURUとしても活動してほしいものである。


瀬川昌治『喜劇 女の泣きどころ』

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1975年2月15日公開、瀬川昌治監督『喜劇 女の泣きどころ』


製作は名島徹、脚本は下飯坂菊馬・瀬川昌治、撮影は丸山恵司、美術は重田重盛、音楽は青山八郎、録音は小林英男、照明は三浦礼、編集は太田和夫、助監督は増田彬、現像は東洋現像所、スチールは小尾健彦。製作・配給は松竹。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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山陰。とある劇場から自殺未遂の報を受け、消防士の藤井(湯原昌幸)は救急車で現場に駆けつける。女剣劇の旅芸人一座の座長・春風駒太夫(太地喜和子)が、一座の浪曲師・天光軒満月(坂上二郎)に振られた腹いせにハイミナール自殺を図ったのだという。
座員の松風弥生(潤ますみ)の適切な処置により、駒太夫は一命を取り留めた。妙に手慣れた弥生の処置に藤井は感心するが、聞けば駒太夫の自殺未遂はこれが4度目だという。男に惚れやすく、騙されて振られるたびにこの騒ぎなのだ。
だが、それだけでは終わらない。同じ座員の桜竜子(中川梨絵)も首つり自殺を図っていた。幸い竜子も一命を取り留めたが、彼女もまた満月に騙されたのだという。竜子は、駒太夫とは違い惚れれば一途な女だった。
二人は、そのまま病院へと搬送された。

一年後。駒太夫と竜子は、竜子の発案でストリッパーに転身。メキシコカルメンとミスモンローと名乗って、レズビアンショーで人気を博していた。ところが、駒太夫の男癖の悪さは相変わらずで、劇場に乗っては同業者の夫やヒモに手を出す始末。その度、一悶着を起こして劇場を転々とする・・・その繰り返しだった。
一方、藤井は消防士を辞めて退職金で屋台のそば屋でもやろうと考えていた。大阪行きの列車を持っていた藤井は、なぜか警察に連れて行かれてしまう。彼を呼び出したのは、坂田(財津一郎)という刑事だった。
坂田刑事の話では、駒太夫と竜子の二人がキャバレーで特出しを演じて猥褻物陳列罪と公然猥褻罪でしょっ引かれた。二人は、こともあろうに身元引受人として藤井を指名したのだという。
訳も分からぬまま、渋々藤井は調書に押印させられるが、保釈金のみならずキャバレーの損害賠償までさせられてしまう。しめて25万円の散在。これで、藤井の開店資金は底をついた。



やりたい放題の二人に怒りの収まらぬ藤井は、二人を働かせて立て替えた金を返させることにした。春風駒太夫&エリザベス・モンロー名義での劇場ストリップ、ヌードモデルから、花束を贈呈する女性役までとありとあらゆる仕事を取ってきては、二人を現場に送った。




駒太夫はいいようにこき使われて不満たらたらだが、堅実な竜子は藤井の手腕を買っていた。自分たちがちゃんと金を稼ぐには、藤井のようなやり手のマネージャーが必要なんだと竜子は駒太夫を説得した。
仕事終わりに二人が飲み屋でビールをあおっていると、この日の金勘定を終えた藤井がすでにこの二人が借金を上回る額の金を稼ぎ出していることを明かした。
竜子は、取り分の相場は2割だが3割出すからマネージャーになってくれと藤井を口説いた。藤井もまんざらではない表情だった。
すると、駒太夫は他のテーブルで飲んでいる男に気づいて彼の元へと行ってしまう。男は、
駒太夫の昔の男・村上(橋本功)だった。



その日の宿に着くと、布団を敷きながら竜子は再び藤井を口説きにかかった。竜子の口調は熱を帯び、そればかりか彼女は体まで藤井に寄せてきた。竜子の色っぽさに、藤井はどぎまぎしながら何とか自分を抑えていた。
そこに駒太夫が戻ってきたが、自分は村上と結婚するからと荷物をまとめて出て行ってしまう。
またいつもの悪い癖が出たと呆れていた竜子だったが、駒太夫が消えてしまうと藤井と組んで一儲けする話もパーになったとしょげ返る。
そんな竜子の姿を見た藤井は、もっと若い相方見つけて一稼ぎすればいいじゃないかと言った。思ってもみなかった藤井の言葉にキュンとなった竜子は、藤井に身を任せようとするが、藤井は慌てて襖を閉めてしまう。
一人残された竜子は、むくれた顔で不貞寝した。

大阪で藤井は竜子の相方を探したが、なかなか駒太夫の代わりは見つからなかった。当然のこと竜子の稼ぎも減ったが、それでも藤井の手腕で二人は何とかやっていた。
あるとき、竜子は藤井に連れられてぼろアパートへとやってきた。「おかしな仕事はいやだよ・・・」と不安そうな竜子。すると、気立てのいいおばはんが二人の前に現れた。このアパートの管理人・たみ(みやこ蝶々)だった。藤井は、竜子のために部屋を借りてやったのだ。
幼い頃から旅芸人の親に連れられて全国を転々としていた竜子にとって、家に住むことは長年の夢だった。彼女は、藤井に抱きついた。帰ろうとする藤井の腕をつかむと、竜子は「一人にしないで・・・」と懇願。そのまま、二人は一つの布団で重なった。

情の深い竜子は、藤井にぞっこんだった。そんなある日、竜子は差し込むような腹の痛みで病院に運ばれてしまう。虫垂炎だった。彼女は、しばらく入院する羽目になる。
駒太夫は、大阪で村上と暮らしていたが、いつものように捨てられてしまう。繁華街のおでんやで一人悲しい酒をあおっていると、外でやくざ者同士がけんかしていた。男たちを叩き出したのはズベ公たちだったが、その頭を張っていたのは、何と弥生だった。驚きの再会だった。
弥生は、懐かしがって駒太夫を自分たちの暮らすマンションに連れて行った。ずいぶんと羽振りのいい暮らしのようだった。しばらく、駒太夫はここにやっかいになることになった。
弥生に竜子のことを問われ、駒太夫は自分が捨てられたと真逆のことを言った。だったら、あたしと組んでレズビアンショーをやろうと弥生は提案した。いつまでもズベ公でいる訳にもいかないし、また芸能の世界に打って出たいからと彼女は言った。

駒太夫は弥生と組んで再びレズビアンショーを始めたが、若くてプロポーションもいい弥生に人気が集中した。駒太夫は、やる気を失っていった。
今日も竜子を見舞った後、藤井が繁華街を歩いているととあるストリップ劇場の看板に目がとまった。レズビアンショーを上演しているようだったが、ダンサーの名前にモンロウとあった。藤井は、血相を変えて劇場の中へと入っていった。
モンロウを騙っていたチームの一人は駒太夫で、もう一人は弥生だった。驚く藤井を弥生はマンションに招いた。弥生は、仲間たち全員での集団レズビアンショーのマネジメントをやらないかと藤井に打診した。竜子がステージに立てない状態だから、藤井にとっても渡りに船の提案だった。
入院中の竜子は、徐々に回復に向かっていた。彼女は、ある程度金が貯まったら、ストリッパーを辞めて藤井と二人でそば屋をやる夢を描いていた。

藤井は、元ストリッパーで今は興行師の女社長(京唄子)と秘書(鳳啓助)にレズビアンのチームショーを売り込み、契約に成功。一気に忙しくなった。おかげで、家に帰ることが少なくなり、竜子は寂しい思いをすることが増えていった。
まだステージには立てない竜子は、たみが紹介してくれた外人ポルノ雑誌の局部をマジックで塗りつぶす内職に精を出していた。
弥生たちは遠征興行に出発したが、一人仕事のない駒太夫は事務所の留守番を申しつけられていた。事務仕事を片付けて、みんなから遅れて事務所を出発しようとした藤井に、駒太夫は絡んだ。藤井が竜子とできていることを知っていた彼女は、藤井が竜子への関心が薄れていることまで引き合いに出し、彼のことをなじった。
腹を立てた藤井は駒太夫を押し倒したが、揉み合っているうちに二人は交わってしまう。事が済むと、駒太夫は「あんたのこと、好きになっちゃったよ。捨てないでおくれ・・・」と科を作った。

地方遠征は弥生たちに任せ、藤井は大阪に残って駒太夫との逢瀬を重ねていた。竜子には出張と言っていた。駒太夫は、藤井には内緒でアパートを借りた。泥酔した藤井をタクシーに乗せると、駒太夫は自分が借りたアパートに連れて行った。見覚えのあるアパートだと、酔った頭で藤井は思った。
駒太夫の部屋に行った藤井は、尿意を覚えてトイレへ。なぜか場所を知っていた。用を済ませて部屋に戻ろうした藤井は、間違えて向かいの部屋の扉を開けてしまう。すると、竜子が抱きついてきた。駒太夫が借りたのは、偶然にもたみのアパートだったのだ。
竜子の部屋に駒太夫も入ってくると、あとは女二人の修羅場が待っていた。
さんざん揉み合った二人の頭に、藤井はバケツの水をかけた。藤井は、東京に出て弥生たちと稼ぎまくると宣言すると二人を捨ててぼろアパートから出て行った。

後に残された竜子は、駒太夫を部屋から追い出すと思い詰めた表情で縄と取り出し、首を吊れそうな木を求めてアパートを出た。
川沿いに枝振りのいい木を見つけた竜子が、憔悴しきった顔で縄をかけようとすると、川面を真剣にのぞき込む駒太夫の姿があった。死んでみろと声をかける竜子。また二人揉み合っている内に、駒太夫は川に落ちてしまう。「あたし、泳げないから助けて!」と叫ぶ駒太夫に「やっぱり、死ぬ気なんかないじゃないのさ・・・」と竜子は呆れて手を差し伸べた。
駒太夫を岸に引っ張り上げると、不思議に竜子は藤井への想いも自殺する気も失せていた。

駒太夫が自殺したとの手紙が、かつての男たちに届いた。差出人の竜子の元には、男たちから香典が届いた。最も成功している浪曲師の満月の香典が一番しょぼかった。
その金でライトバンを買った竜子と駒太夫は、今日も「春風駒太夫とエリザベス・モンローのレズビアンショー」と書かれたチラシをまきながら町から町へと旅するのだった・・・。

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松竹映画としては、何とも自由奔放で生命力に溢れた良質の人情喜劇である。こういう作品にこそ、「喜劇」という看板はよく似合う。
瀬川昌治が太地喜和子と組んだストリッパーもので、『喜劇 男の泣きどころ』(1973)、『喜劇 男の腕だめし』(1974)に続く最終作。もちろん太地喜和子もいいが、本作は日活ロマンポルノの人気女優中川梨絵が抜群に魅力的だ。

とにかく、スピーディーな展開、軽快なテンポ、ストリッパーを演じる奔放で逞しい魅力的な女たち・・・と、本作は心の体も裸一貫で勝負する女たちの人生賛歌といっていいのではないか。
僕にとって、中川梨絵は日活ロマンポルノ随一の美人女優でありアイドル的存在である。ただ、個性的な声と舌っ足らずなしゃべり方もあり、彼女は決して演技派とは言いがたいと思う。
そんな彼女のロマンポルノ代表作と僕が個人的に思うのは、神代辰巳監督『恋人たちは濡れた』(1973)、『女地獄 森は濡れた』 (1973)、田中登監督『㊙女郎責め地獄』 (1973)といった作品である。
中でも、『㊙女郎責め地獄』で演じた女郎「死神おせん」こそが、彼女の資質にジャストな役柄だと思っている。気っぷの良さとエキセントリックなキャラクターを演じたときの彼女には、本当に抗しがたい魅力と女優としての輝きがある。

そして、本作における桜“モンロー”竜子の気っぷの良さと心根は純な可愛らしさには、もう心鷲づかみであった。本当に、中川梨絵のために書かれたような役である。
ATGで撮った黒木和雄監督『龍馬暗殺』(1974)の幡役もよかったが、この作品こそ中川梨絵にとって真の代表作だと思う。

また、本作では女たちの存在を引き立てる湯原昌幸の魅力も捨てがたい。湯原の緩急自在の達者な演技あればこそ、中川も太地も光り輝くのである。
また、要所要所に登場する演芸評論家・大沢昭太郎役(そのまんまの名前)の小沢昭一も味わい深い。

個人的には、藤井が駒太夫に再会して以降の展開に不満がないでもないのだが、それでもこの作品が素晴らしいことには何の異論もない。

本作は、裸家業に生きる女たちの逞しさと可愛さがスクリーンに弾ける良質の女性映画。
中川梨絵ファンの方なら絶対に見るべき一本であり、「本作を観ずして、中川梨絵を語ることなかれ」と断言してしまいたくなるくらい最高の彼女に会える作品である。

加藤一平+纐纈雅代+坂口光央+藤巻鉄郎@Bar Isshee

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2016年2月4日、千駄木のBar Issheeで加藤一平+纐纈雅代+坂口光央+藤巻鉄郎のライヴを観た。
僕は渋谷にあった頃のBar Issheeには2度行ったことがあるけど、千駄木に移転してからは初めてである。





加藤一平(g)+纐纈雅代(sax,voice)+坂口光央(keyb)+藤巻鉄郎(ds)

第一部

まるで怪獣の体内に飲み込まれて鼓動を聞いているような不穏にしてカオスな音出し。纐纈が馬のいななきを思わせるブロウをかまし、各パートが破壊的な音量にヒートアップしていく。ノイズの砂嵐吹きすさぶステージだが、そこには不思議な清々しさを感じる。個人的には、ドラムスの音にもう少しトランス・グルーヴな音抜けの良さがあれば、と思う。
そこからエレクトロ・ダブ的な展開を聴かせるのは悪くないが、さらに異形的な音楽文法が持ち込めればより個性的な音になるはずだ。
再度、音圧を上げて混沌とした世界を出現させると、何度も緩急を付けながらノイジーでフリーキーな中にもしっかりとグルーヴするサウンドが刺激的。
この4人ならではの化学反応にまでは至らないものの、若々しい勢いを感じる演奏が好ましかった。



第二部

虚無僧が吹く尺八のような旋律のサックスに誘われて、能狂言を思わせる純邦楽的な音像を聴かせるのが面白い。あえて音に隙間を作り、そこに纐纈が念仏を唱えるようなヴォイシングを聞かせると、続いてエリック・ドルフィーのようなサックスの咆吼に加藤の幾何学的なギターが被さる。PAのせいか、やはりドラムスの音抜けの悪さがいささか気になる。
随所で纐纈がアンプリファイドなカリンバを奏でるのだが、キーボードの音と被り気味で、ほとんど聴き取れないのが惜しい。
色々と練られたアンサンブルだが、メンバーの若さ故かノイズとしてはその演奏ギミックが想定の範囲から逸脱しないのがもどかしい部分もある。
その後、纐纈のフィジカルなサックスを中心に据えたアンサンブルに推移。ノイズからフリーへとシフト・チェンジするような演奏がいい。フリー・ジャズあるいはフリー・インプロヴィゼイションをメインにして、そのバック・グラウンドにノイズを放出するアンサンブルの方が、この4人のミュージシャンシップがしっかりと機能してオリジナリティを発揮するように思う。ノイズに囚われすぎないフリー・ミュージック的な演奏とでも言えばいいか。
ギター、キーボード、ドラムスが奏でる不協和音的な音像は、まるでサウンドスケイプのような佇まいが面白い。そこから演奏はスピードを上げていき、超高速のハードロック的ギターが炸裂すると、メンバー全員でカオス・トルネードとでも言うべき音の塊を叩きつけるラストは、強烈なカタルシスをもたらしてくれた。







会場がBar Issheeということもあり、ノイズとフリー・インプロヴィゼイションに終始する演奏だったが、僕は十分に楽しめた。
これからさらなる音楽的進化を見せるであろう若いミュージシャン4人のプレイには、リアルな今の音が宿っていて僕の耳にもいい刺激だった。
そんな一夜であった。

NAADA「夜の太陽たち」2016.2.7@東新宿 真昼の月・夜の太陽

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2016年2月7日、東新宿の真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「夜の太陽たち」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが43回目。前回観たのは2015年11月7日 、場所は同じ真昼の月・夜の太陽だった。




NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf)


では、この日の感想を。

1.REBORN
ノベルゲームアプリ「時凪る部屋~凪編~」のエンディング・テーマに提供された曲。
複雑なコーラス・ワーク、シンプルなようでとても技巧的なアンサンブルにアレンジされた演奏は、ブリティッシュ・トラッドとヨーロピアン・プログレッシヴ・ロックを折衷したような超難度さである。
その畳みかけるように重層的なコーラス・ワークや饒舌なピアノ・プレイに感心しつつも、過剰とも思える情報量の多さにやや耳が疲れてしまった。
ただ、こういったトライアルは彼らの音楽性を進化させる上でもどんどんやるべきだと僕は思う。

2.fly
一曲目の流れを引き継いだイントロから、この曲へ。この日のライブでは唯一いつも通りの演奏をしたようだが、僕にはかなり違った佇まいに聴こえた。静かなギターのつま弾きとも、アタックの強いピアノの出だしとも異なるイントロから入ると、アッパーに上昇していくピアノの旋律が耳を引くが、ボーカルとギターのアンサンブルがやや平板に感じた。
だが、後半でグッと音数を減らしたときの視界の開け方は劇的で、そこからグルーヴしていく演奏は良かった。

3.I love you
繊細なギターのつま弾きとストイックで澄んだピアノのイントロ。静謐な歌い出しから、寄り添うように重ねられるコーラス。一聴すると至ってシンプルに感じる構成の中に、時折ハッとするような美しさが現れる佳曲。
そのピュアな響きは、ある意味極上のヒーリング・ミュージックのようである。


4. RAINBOW
ピアノのイントロに重ねられるまるでガラス細工のように繊細なギターの音色。二人の奏でる音の空間を自由自在に泳ぐRECOのボーカルが、素晴らしい。ストレートに訴えかけてくるような三人のアンサンブルに魅了される。
後半、徐々に音圧を上げていき、音に広がりを持たせる構成もいい。

5.Twill
簡素で美しいギターのメロディ、伸びやかなボーカル、重ねられるコーラス。透明感に溢れるやや感傷的なメロディが心に響く。ギリギリまでそぎ落として選び抜かれた音から一転、音の厚みを増して劇的に盛り上がる展開から、再び静寂を取り戻す。
そして、ラストではゴスペル・ライクに歌い上げる。その緻密に練り上げられた構成が、誠に秀逸である。

-encore-

6.愛 希望、海に空
一度は終演したものの、オーディエンスの求めに応えてNAADAにしては珍しくアンコールにもう一曲。
ドラマティックなピアノ、やや荒さを感じるもののエモーショナルに鳴り響くギター・ストローク。一端、音が抑えられると、RECOが澄んだボーカルを聴かせる。敬虔ささえ感じる深みある歌声、美しいコーラス、スケールの大きさを感じさせる音像。
そこから力強く歌い上げていく演奏には、聴く者の心に強く訴えかけるサムシングが宿っている。実に、ソウルフルな演奏であった。


去年の9月にCOARIが正式メンバーに加わり、10月からはYou Tube上で毎週カバー動画をアップする新企画「NAADAchannel」をスタートした新生NAADA。
新たな試みや冒険的なアレンジでのライブ演奏は、ひとえに彼らが守りに入ることなく新たなる音楽的地平を目指している証左だし、同時により多くの人に自分たちの音楽を届けようとする強い意志の表れでもある。
そして、2年前に発表したフルアルバム『muule』が、ついにAmazonやHMV、タワーレコード等で全国的に流通するようになった。現在は、各サイトでの予約を受け付けている。




そういった状況下で迎えた2016年最初のライブが、この夜だった訳である。当然のこと、これまでのライブとは若干異なる客席のリアクションもあったし、アンコール演奏もあった。
上述したように、この日の演奏には数々のトライアルがなされていたし、そこに込められた彼らの音楽的意志がしっかり聴き取れる充実した内容であった。NAADAの演奏を聴き始めて7年以上になるが、今年は彼らにとって一大転機が訪れることになるような気もする。

この日の会場がこれまでとやや雰囲気を異にしたのもその静かなる序奏のような気がしないでもないし、今後はさらにそういった流れが加速していくのかもしれない。
個人的に思うのは、彼らのスタンスは(少なくとも僕が聴き始めて以来)ずっと一貫しているし、そこには熟慮を重ねた上でのしっかりした筋が通っているということである。
その活動歴の中でも、今の彼らがより多くのリスナーを獲得するために確たる一歩を踏み出していることを頼もしく感じるし、今後の展開がとても楽しみでもある。
何と言っても、NAADAの作り出す音楽にはより多くの人に聴かれるべき高いクオリティと魅力が詰まっているのだから。

この日のライブは、NAADAの新たなる門出を予感させるに十分な素晴らしいパフォーマンスであった。
今後の彼らの躍進を祈念してやまない。

小林政広『実録・極東マフィア戦争 暗黒牙狼街-BOSS-』

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2002年にオリジナル・ビデオとしてDVDリリースされた小林政広監督『BOSS』(DVDタイトルは『実録・極東マフィア戦争 暗黒牙狼街-BOSS-』)。




製作は波多野保弘、規格は川崎隆、プロデューサーは佐々木志郎、アソシエイトプロデューサーは伊藤秀裕・松島富士雄、キャスティングプロデューサーは綿引近人、脚本は小林政広、音楽は遠藤浩二、撮影は伊藤潔、照明は木村匡博、録音は沼田和夫、美術は野尻均、編集は金子尚樹、VEは三浦健二、音響効果は柴崎憲治、監督補佐は上野俊哉、助監督は関良平、制作担当は菅原日出男、監督助手は大西裕・松本唯史、タイトルは道川昭、スチールは竹内健二。
制作協力は獅子プロダクション、制作はエクセレントフィルム、製作はオフィスハタノ。

なお、本作は当初映画化を目指したものの俳優との対立で実現できず、その三年後に当初の5分の1の予算でビデオ制作されたものである。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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山師的な映画プロデューサー(ベンガル:特別出演)の父を借金したヤクザ達に殺され、野口祐司(加勢大周)はゴールデン街で飲み屋を経営する母(角替和枝:特別出演)の手で育てられた。
中学時代に下級生の女がレイプされるのを目撃した祐司は、加害者の不良達を金属バットで殴打。傷害致死事件を起こして、調布少年院に入れられた。女(浅田好未)は、祐司の初恋の人だった。

三年後に少年院を出た祐司は、ロック・シンガーを目指すも挫折。横浜に移り住んで港で働いていた祐司は、過酷な肉体労働と安酒場での酒という空虚な日々に苛立っていた。荒くれ者達との喧嘩で危機一髪に陥った祐司は、中華街でレストランを経営する井沢達治(白竜)に助けられ、中国人達と一緒に彼の店で働くことになった。その日から、井沢は祐司のボスになった。
店のオーナは香港に住む華僑・徐(乃木涼介)というチャーニーズ・マフィアで、彼はことあるごとに井沢に麻薬密輸を手伝うよう要請。しかし、井沢は頑として断り続けた。
中国人同僚達との軋轢もあったが、次第に祐司は井沢から信用されるようになった。






祐司は、ボロアパートでサチコ(占部房子)と二人暮らししていた。サチコは祐司の少年院時代の友人の妹で、友人が出所当日父親に刺殺され、その父親も自殺したことから祐司が引き取り妹のように育てていた。




井沢は田代ヨーコ(長曽我部蓉子)という愛人とともに高級マンションで生活していたが、ある晩拳銃を持った中国人五人に襲われた。気配を察した井沢は逆に暴漢を射殺したが、その主犯はかつて井沢に雇われていた男だった。
井沢は、祐司に電話を入れ「今日から、おまえがボスだ。ヤクには決して手を出すなよ」と言い残して、警察に自首した。

井沢に代わってレストランを経営することになった祐司は、かつてのバンド仲間達を雇い入れた。そして、祐司は井沢の忠告に反して徐の麻薬ビジネスを引受けた。それを断ったことで、井沢が狙われたのを知っていたからだ。
香港から取り寄せる食材に隠して麻薬を密輸する一方、レストラン自体の経営も順調に業績を伸ばしていった。また、店の顔として祐司はコーコを表向き店の支配人としてプッシュすることで、常連客を増やしていった。
ただ、井沢を失った寂しさで、ヨーコは浪費癖が加速していった。それも、祐司は黙認していた。




しかし、ヨーコが田舎の役所で経理をやっていた兄のシンジ(有薗芳記)を祐司に内緒で呼び寄せたことで、すべては狂い始める。おまけに、シンジは口を滑らせ祐司が麻薬ビジネスに荷担していることをサチコにしゃべってしまう。
サチコの落胆と怒りは、相当なものだった。
調子に乗ったシンジは、店のスタッフの一人と組んでヤクの横流しを始め、私腹を肥やすようになった。当然のごとく彼らの悪事はすぐ徐に露見し、徐の送り込んだ刺客に二人はあっけなく射殺された。
当然、次に狙われるのは祐司だ。そんな彼の元に麻薬捜査官を名乗る金村(松方弘樹:特別出演)がボディーガードを買って出るが、彼もまたあっさりチャイニーズ・マフィアの餌食となった。
祐司は、金村から聞いて初めてシンジ達の悪事に気づく始末だった。





身の危険を感じた祐司は、店の金庫からあるだけの金を集めるとサチコとヨーコを伴って自動車で逃走。千葉の海岸沿いにある田舎町で、レンタル・ビデオ店を買い取り廃業した釣り宿を借り受けてひっそりと共同生活を始めた。
そんな生活が、二年続いた。井沢が刑務所に入って、五年が経過していた。ヨーコの誕生日、彼女の希望で祐司はヨーコと二人きりで過ごした。祐司は、ヨーコに井沢との関係を訪ねた。これまで何度尋ねても教えてくれなかったヨーコが、この夜は話してくれた。




歌手だったヨーコは、流れ流れて香港のクラブで歌うことになり、そこで井沢と出会った。井沢は香港に死にに来たのだと言った。ヨーコは、その理由を問わなかった。井沢に徐を紹介したのも彼女だった。当時、彼女は徐の愛人だった。徐は、香港の店に井沢を雇い、彼を立ち直らせると横浜の店の経営をまかせた。程なくして、ヨーコも徐を捨てて横浜に行った。井沢に惚れていたからだ。
徐は井沢との友情を優先して、ヨーコのことも許した。徐は、麻薬ビジネスを井沢とやることで確たる兄弟関係を築こうとしたが、それを井沢は拒んだ。
「あの人、仮出所するわ。明日、午前8時きっかりに」とヨーコは祐司に告げた。徐から連絡があったのだという。徐は、刑務所を出た井沢を殺そうとしていた。
ヨーコは、祐司に井沢と見殺しにするよう強く迫り、彼の体にしがみついた。

翌朝、祐司は車で出かけたものの、結局は井沢に会いに行くことを思いとどまった。断腸の思いだった。
ヨーコの言ったとおり、井沢は徐に殺され、その同じ日にヨーコも自ら命を絶った。




二年後、横浜中華街に戻った祐司は、かつての仲間達と再びレストランを始めた。経営は順調だったが、ある夜その店を徐達が訪れる。
仲間達がとめるのも聞かず、拳銃を手にした祐司は撃鉄を引いて徐の円卓に歩いて行った。店内に響き渡る銃声。




「誰も、ボスで、居つづける事は、できない」

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長年、マーティン・スコセッシに心酔していた小林がこの脚本を書いたのは、1999年。彼のフィルモグラフィで考えると、第二作『海賊版=BOOTLEG FILM』 製作の翌年ということになる。
その後、この企画は冒頭で書いたような経過をたどった訳だが、小林本人によるとオリジナル・ビデオは、ほぼ当初に書いた脚本のまま撮影したそうだ。

本作を観ての率直な感想を言うと、あまりに図式的な人物造形とエピソードをここまで畳みかけるように詰め込んでしまっていいものだろうか…ということになる。
Vシネマ的と言えば、まさしくこれでもかのVシネマ的展開と言えなくもないが、それにしても監督・脚本は小林政広なのである。
う~む、とつい唸ってしまう。

駄目な親父に気丈で強い母親、少年院、ロック・シンガーの挫折と来て、肉体労働者からの怒濤の展開である。表題の通りチャイニーズ・マフィアと定番の麻薬取引が出てきて、後は…。
一番気になるのは、もちろん祐司という男の数奇な運命にある種ギリギリの切実さが感じられないことである。何というか、場当たり的かつ短絡的に状況に流されているだけで、基本的にあまり彼の意志のようなものが見出せないように思う。

本作のキー・ワードはもちろん「ボス」であるが、祐司が慕う井沢にしても今ひとつ人物が焦点を結ばない。何やら哲学的に人生を達観している風ではあるのだが、それがあくまで佇まいにのみに終始してしまうもどかしさがあるのだ。

ほとんどカリカチュア的なサチコの生い立ちや、シンジのキャラクターもどうかと思うし、ヨーコと井沢の関係性に至っては、何だか昭和演歌的な世界である。
もちろん、低予算ゆえの限界もあるだろうし、パイレーツの浅田好未や特別出演・松方弘樹の通りすがり的な出演にも中途半端さを感じてしまうが、あまりにも物語が捻りなく直進していく展開にどうしても馴染めなかった。
あるいは、これがVシネマというものなのだろうか?

本作は、あまり小林政広らしさが感じられない作品である。
当初の予算で映画として製作されていたらどうなっていただろう…と思いを巡らせても、詮無いことなのだけれど。

余談ではあるが、少年院の教官役で田中要次、レコード会社のディレクター役で川瀬陽太がカメオ出演している。

ジョン・ランディス『ブルース・ブラザース』

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1980年6月16日(日本は1981年3月28日)公開、ジョン・ランディス監督『ブルース・ブラザース』




製作はロバート・K・ウェイス、製作総指揮はバーリー・ブリスタイン、脚本はダン・エイクロイドとジョン・ランディス、撮影はスティーブン・M・カッツ、美術はジョン・J・ロイド、音楽監修はアイラ・ニューボーン、編集はジョージ・フォルシー・ジュニア、衣装はデボラ・ナドゥールマン、配給はユニバーサル・ピクチャーズ。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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イリノイ州シカゴ郊外に位置する刑務所。強盗による3年の刑期を終えて出てきたジェイクことジョリエット・ブルース(ジョン・ベルーシ)を出迎える弟のエルウッド・ブルース(ダン・エイクロイド)。
エルウッドの乗っている車がパトロール・カーでジェイクはムッとするが、「前の車(通称ブルース・モービル)は処分した。この車は、警察のオークションで格安に買った」とエルウッドはどこ吹く風だ。

まず、エルウッドは渋るジェイクを連れて聖ヘレン養護施設のシスター、通称ペンギン(キャスリン・フリーマン)のところへ行く。二人はこの孤児院育ちであり、シスターは言ってみれば母親同然の存在だった。




シスターは、資金難のために固定資産税5,000ドルが払えず、施設が立ち退き寸前であることを二人に告白する。ジェイクは協力を申し出るが、犯罪で得た汚れた金など受け取れないと堅物のシスターは断った。そして、口汚いジェイクとエルウッドを自分の部屋から叩き出すのだった。




何とか施設を救いたい二人は、かつて世話になった孤児院の管理人カーティス(キャブ・キャロウェイ)に相談する。カーティスは、クロオファス・ジェームズ(ジェームズ・ブラウン)神父の礼拝に出席してもみろと言った。




信仰心の欠片もないジェイクを連れて、エルウッドはジェームズ神父の移動礼拝が行われているプロテスタント教会に行った。すると、ジェイムズ神父の説話はまさしく真のゴスペルで、信者達は神父のシャウトとバンド演奏に熱狂していた。
その光景に圧倒されたジェイクは、バンドをやれという神の啓示を聞く。二人は、早速ブルース・ブラザース・バンド再結成に向けて動き出す。バンドで一儲けして、孤児院を救う計画だ。だが、エルウッドの話によると、かつてのバンド・メンバー達はすでに違う人生を歩み始めていた。
おまけに、信号無視したところを巡回中のパトロール・カーに止められたエルウッドは、運転免許が失効中だったことがばれて逃走。壮絶なカー・チェイスの末、ショッピングモールを盛大にぶち壊してひとまず警察を振り切った。



エルウッドは自分が身を寄せているオンボロの宿にジェイクを連れて行くが、怒り心頭の警察は早朝に宿を突き止めて逮捕にやってくる。
そこに、謎の女(キャリー・フィッシャー)がやってきてホテルを破壊。瓦礫の中から出てきた二人は、何もなかったように車を発進させた。
道すがら、街頭演説していたナチス信奉者の政治団体を新ブルース・モービルが蹴散らし、二人は警察のみならず、ネオナチ政党からも追いかけられる羽目になった。

キーボード担当だったマーフことマーフィ・ダン(同)は、ギターのスティーブ・クロッパー(同)、ベースのドナルド・ダック・ダン(同)、ドラムスのウィリー・ホール(同)と一緒にホテルの冴えないお抱えバンドをやっていた。
まずは、この四人を口説き落とした二人は、続いて嫁(アレサ・フランクリン)と一緒に
バーガー・ショップをやっているギターのマット・マーフィ(同)のところへ。マットは、妻の反対を押し切り二つ返事でバンド加入を快諾。店員でサックス奏者のブルー・ルー・マリーニ(同)もマットに同行した。




高級フレンチ・レストランの支配人として成功していたトム・マローン(同)はバンド加入を拒んだが、営業妨害する二人に根を上げて渋々バンドに加わった。トランペットのミスター・ファビュラス(アラン・ルービン)も合流して、かつてのメンバー全員がそろった。




バンド・メンバー全員でレイ(レイ・チャールズ)が経営するレイ楽器店を訪れ、中古の楽器をツケで買った。これで、準備は万端だ。



バンド・メンバーを集めたはいいが、実のところ仕事の当てはさっぱり。おまけに、納税の期日も迫っていた。ジェイクは、道沿いのパブでバンド演奏があることに気づき、出演バンドになりすましてそこで演奏してしまう。
ところが、ギャラよりメンバーの飲み代の方が高くつき、代金を踏み倒して店から逃走。おまけに、出発前に本来演奏するはずだったカントリー&ウエスタン・バンドとも一悶着起こして、そのバンドからも追いかけられる羽目になった。
バンド・メンバー達からも不満が噴出して、ジェイクは最後の手段に出る。かつての馴染みプロモーターだったスライン(スティーブ・ローレンス)に掛け合い、一晩だけのコンサートをパレス・ホールで開催することになる。

ありとあらゆる場所にポスターを貼り、ブルース・モービルでコンサートの宣伝に駆け回り、ジェイクとエルウッドは広報活動に東奔西走。カーティスも孤児院の子供達にコンサートのビラまきを手伝わせた。努力の甲斐あって、パレス・ホールは満員。だが、観客の中にはバートン(ジョン・キャンディ)以下警察ご一行、ネオナチ政党員達、カントリー・パブ

の経営者ボブ(ジェフ・モリス)、カントリー・バンドの面々も顔をそろえていた。
が、肝心の二人が会場に来ない。二人は、ガス欠を起こして近くのガソリン・スタンドに駆け込んだのだが、その店もガソリンを切らしており、給油車を待っていたのだ。そんな緊急事態にもかかわらず、エルウッドはお客の女(ツイッギー)をナンパする始末。

待ちくたびれた観客のブーイングが最高潮に達しメンバーも青ざめるが、その窮地をカーティスが救った。彼は、見事な喉で「はすっぱミニー(ミニー・ザ・ムーチャー)」を歌って拍手喝采を浴びた。
そこに、ジェイクとエルウッドが到着。ようやく、ブルース・ブラザースの演奏が始まった。観客はバンドの演奏に熱狂、コンサートは最高の盛り上がりを見せた。




二人は、バンドに演奏を続けるよう指示すると、こっそりステージから抜け出した。バック・ステージで待っていた有名レコード会社の重役は、バンド演奏にいたく感激した様子で、一万ドルでレコーディング契約を打診。もちろん、二人は申し出を受け入れると、契約金の一部をレイ楽器店の支払いに回してほしいと依頼した。

レコード会社の重役は、若かりし頃にこのホールの用心棒をしており、ホールからの抜け道を二人に教えてくれた。しかし、ホールを出たところで、例の女がジェイクを待ち伏せしていた。彼女はジェイクの元婚約者。結婚式当日にジェイクが姿をくらましたことで、ずっと彼の命を狙っていたのだ。
だが、ジェイクは彼女を巧みにかわすとエルウッドとともに逃走した。

翌日は、固定資産税の納税期日。二人の車は、追っ手との派手なカー・チェイスを繰り広げながら、シカゴ市役所本庁舎に到着。そのまま、納税課のフロアに駆け込むと、警官達の取り囲まれながらも納税担当職員(スティーブン・スピルバーグ)に税金を支払った。




刑務所の広い食堂施設。囚人服を着たブルース・ブラザース・バンドは、「監獄ロック」を演奏して囚人達を熱狂させるのだった。

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とにかく、リズム・アンド・ブルース好きの方、とりわけアトランティック・レコード系のソウル・ミュージックが好きな人には正真正銘マストな一本である。
というか、ソウル・ミュージックのファンでこの映画を観てない人なんているんだろうか?

…と断言したくなる、ミューカル・コメディの大傑作である。

言うまでもなく、NBCの人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」の人気コーナーに端を発したバンドであるブルース・ブラザースをハリウッドに持ち込んだ企画映画で、今なら『ブルース・ブラザース~ザ・ムービー』とでも言うべき作品である。
なお、ブルース・ブラザースの前身が「SNL」に初登場したのは、1976年1月17日「キラー・ビー」のスケッチで、1978年にリリースしたアルバム『ブルースは絆』はビルボード・チャートの第一位に輝いた。





内容的には、如何にも「サタデー・ナイト・ライブ」的というか、物量作戦の大味な力業で走りきるまさしくアメリカンなアバウトさが炸裂する映画だろう。
ある意味、爆笑と言うより「よう、やるわ」的に失笑しながら観てしまう作品である。
冒頭の使用済みコンドームとか、キャリー・フィッシャー演じる謎の女とか、ホモセクシュアルなオチが出てくるネオナチとか…。
閉鎖したショッピングモールを使って破壊の限りを尽くすシーンとか、ラスト前の「一体、何台の車がスクラップになったんだ!?」的カーチェイス・シーンとか、シカゴ市庁舎での群衆シーンとか、ど派手な展開に言葉を失ってしまうほどである。

だが、やはり本作は一流のミュージシャンをそろえた素晴らしい演奏シーンと、最高に熱いダンス・シーンに身を委ねるべき映画だろう。
ジェームズ・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズは言うに及ばず、渋いジョン・リー・フッカーの弾き語りや、かの有名なキャブ・キャロウェイの踊りと歌唱。
もちろん、ダン・エイクロイドのブルース・ハープやジョン・ベルーシの側転・バク転も決まったブルース・ブラザース・バンドの演奏も最高にソウルフルだ。





スティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダンは、言うまでもなくメンフィスはスタックスの最重要インスト・バンド、ブッカー・T&ザ・MG’sのメンバーで、コンサート冒頭で演奏したのは彼らがバックを務めたオーティス・レディング「お前をはさない(アイ・キャント・ターン・ユー・ルース)」のイントロである。
ウィリー・ホールはバーケイズのドラマーで、トム・マローンはフランク・ザッパやブラッド・スウェット・アンド・ティアーズとも共演した腕利きのトロンボーン奏者。
マット・ギター・マーフィーは、ハウリン・ウルフやボビー・ブランド、ジュニア・パーカー、メンフィス・スリムとの共演や、ファンク期のジェームズ・コットン・バンド等で知られる名ギタリスト。



なお、ジェームズ・ブラウンの教会シーンで聖歌隊の一員として出演しているチャカ・カーンや「監獄ロック」で踊り出すジョー・ウォルシュ(ジェイムス・ギャング、イーグルス)に気づく人は、立派な音楽オタクだろう。
ちなみに、プロモーターのスラインを演じたスティーブ・ローレンスは、「恋はボサノバ」で有名なイーディ・ゴーメの夫でスティーブ・アンド・イーディでも活躍した歌手兼俳優である。

とまあ音楽トリビアも満載な本作だが、僕が一番笑ってしまうのは、レイ・チャールズがブルース・ブラザースのコンサート・ポスターを店の壁に逆さまに貼ってしまうシーンである。

本作は、アメリカの笑いと音楽の最も幸せなコラボレーションが堪能できるエンターテインメント大作。
マニアックな音楽的知識などなくても、十分に楽しめるバカバカしくも痛快な一本である。

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