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勾玉族(スガダイロー、纐纈雅代、服部マサツグ)2015.8.7@国立NO TRUNKS

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2015年8月7日、国立NO TRUNKSにて勾玉族(まがたまぞく)のライブを観た。以前にもこの編成で演奏しているが、今回このトリオに名前がついた。命名したのは、纐纈雅代さん。
お店のオーナー村上寛さん曰く、「怒れる洋輔トリオ編成!」ということだけど、確かにスガダイローさんは山下洋輔でジャズに目覚めた人で、山下さんに師事しているしその早弾きも有名である。
僕が彼らの演奏を聴くのは、今年の3月20日 以来で、場所は同じ国立NO TRUNKS。



勾玉族:スガダイロー(pf)、纐纈雅代(as)、服部マサツグ(ds)






では、この日の感想を。

第一部

Free improvisation
45分一本勝負の即興演奏。修行僧のようなスガダイロー、ネイティヴ・アメリカンのような纐纈雅代、サラリーマン然とした服部マサツグと、衣装はバラバラである。阿蘇帰りの纐纈は、タンクトップから露出する肩がかなり日焼けしている。
ある意味、極めて正統的にスイングするピアノと、手数が多くトライバルな音を響かせるドラムス。次第に加速して行く演奏は、ヒートアップしつつもグルーヴィーな佇まいを維持する。
どちらかといえばコンストラクティヴに聴こえた二人のプレイに纐纈雅代のアルト・サックスが加わると、音が構築からフリーへと解き放たれる。纐纈のサックスは、野性味あふれる男前なブロウである。そこから、音像はややエキセントリックな表情を纏っていく。

息苦しいまでに濃密なトリオ演奏からサックスが抜けて再び二人になると、マジックのように会場の空気が変化する。まるで、別の視界が開けるような劇的さである。
爽快なピアノとドラムスのバトル的な応酬から、服部の長尺なドラムソロへ。何度も右手に握られたスティックを飛ばしてしまうような、激しいプレイである。続いて、スガダイローの幾何学的に響くピアノソロ。
それから再びトリオ演奏に戻り、今度は三者三様の自由な演奏を聴かせた後、ピアノが美しい旋律を紡ぎ出してやや感傷的にメロディアスなエンディングを迎えた。

第二部

1 Anthropology(Charlie Parker)
第二部は、バードの曲でスタート。軽快にグルーヴする演奏が、キュートで耳に心地よい。このトリオの表現力の豊かさが伝わる、とても魅力的なプレイである。

2 Billie's Bounce(Charlie Parker)
お次もチャーリー・パーカーで、今年3月20日のライブでも演奏していた曲。クールにストイックな演奏を聴かせるスガダイローのピアノが、美しい。もちろん彼の早弾きも好きだが、個人的にはバラード・プレイに強く心惹かれる。
しばしピアノとドラムスで演奏した後、アルト・サックスが加わる。そこから、サックスとドラムスでの演奏。再び、トリオへとチェンジして行く。バリエーションに富んだ、誠に刺激的な演奏である。
考えてみると、ビ・バップの礎を築いたチャーリー・パーカーを演奏しつつ、一曲の中でスイングやフリーにまで行き来するプレイは、ある意味コンパクトに駆け抜けるジャズの歴史そのもののようだ。

3 夏の思い出(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)
今回のセット・リストの中では、ひときわ異彩を放つ選曲。「夏が来れば 思い出す はるかな尾瀬 とおい空♪」というあの曲である。スダガイローさん曰く「夏ですからね、夏らしい曲を」とのことである。
この曲における繊細なピアノ・プレイは、まさに尾瀬沼の上に広がる青い空の映像が浮かぶ珠玉の美しさ。あぁ、イッツ・ア・センチメンタル・ムード!
曲に合わせて、時折纐纈がポエトリー・リーディング的に歌を口ずさむのだが、サックス演奏時の男前な彼女とは違う“はにかんだ表情”がとても可愛い。こんなこと言われて、本人がどう思うかは置いておいて(含笑)
後半では、サックスとドラムスが演奏に加わる。曲の美しい佇まいを損なわうことなくフリーにブロウする纐纈のサックスを聴いていたら、何となく川下直広のプレイを思い出した。

4 カラスの結婚式(纐纈雅代)
纐纈雅代のオリジナル曲で、3月のライブでも演奏されていた。個人的にも大好きな曲である。
先ほどの演奏とは打って変わって、今度はダークで不穏なイントロからスタート。そこから、目まぐるしく演奏が展開する。エキゾティックなワルツ的旋律を奏でたかと思うと、まるでチンドンのような音が顔をのぞかせる。そこからフリーへと移行して、むせび泣くような鳴きのフレーズを聴かせる。
スガダイローのピアノと素手まで使ってドラムスを叩く服部のパーカッシヴなデュオ演奏の後で聴かせたドラムソロは、まさしく彼の独壇場。爽快なくらいにフィジカルな演奏が、熱い。
三人に戻ってのエンディングも、とても素敵だった。

-encore-

Cherokee(Ray Noble)
観客の拍手に導かれてメンバーは楽器の元へと戻ると、猛スピードでこの曲を。チャーリー・パーカーもレパートリーにしていたが、個人的にはやはりクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ五重奏団『スタディ・イン・ブラウン』で親しんだ楽曲である。
勾玉族のパンキッシュなフリー・ジャズが、国立の夜をヒリヒリと駆け抜けた。


いやはや、勾玉族の三人はこの夜も最高に刺激的な演奏を聴かせてくれた。この三人ならではのオリジナリティと一筋縄ではいかない表現力、そして音楽的な豊饒さ。
まさしく、今の現在進行形としてのジャズがここにある。

終演後、僕はスガダイローさんとちょっと話をさせてもらったんだけど、話題のひとつは今月下旬に新宿K's cinemaで上映される「MOOSIC LAB 2015」について。スガダイローさん主演の『劇場版 しろぜめっ!』と僕の友人・当方ボーカルこと小松公典が脚本を書いた『101回目のベッド・イン』がプログラムに入っているからだ。



そして、纐纈雅代さんから初リーダー作『Band of Eden』のCDを買って、彼女とスガダイローさんにサインを入れてもらう。ポストカードが三枚ついて来た。






とにかく、仕事で疲れ切った心と体をリフレッシュさせてくれる激しくて優しい音楽だった。
人生におけるささやかな幸福のひとつは、こういう時間を過ごした時の満たされた気持ちに他ならない。

8月17日には、吉祥寺MANDA-LA2で纐纈雅代、若林美保、スガダイローの三人による「解禁3」というライブ・イベントがあって、これも凄く楽しみだ。
興味を持たれた方は、足を運ぶことをお勧めする。


藤田敏八『修羅雪姫 怨み恋歌』

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1974年6月15日公開、藤田敏八監督『修羅雪姫 怨み恋歌』




製作は奥田喜久丸、原作は小池一雄・上村一夫、脚本は長田紀生・大原清秀、撮影は鈴木達夫、美術は樋口幸男、音楽は広瀬健次郎、照明は石井長四郎、編集は井上治、録音は神蔵昇、助監督は松沢一男、スチールは橋山直己。製作は東京映画、配給は東宝。
並映は須川栄三監督『野獣死すべし 復讐のメカニック』。


こんな物語である。

明治三十八年。母に託された復讐こそ遂げたものの、鹿島雪(梶芽衣子)は兇悪殺人の罪で丸山警部(山本麟一)に逮捕され、死刑判決を受ける。死刑執行当日、雪を乗せた馬車が襲撃を受けた。九死に一生を得た雪は、瀟洒な邸宅へと連れて行かれた。
彼女を待っていたのは、影の軍隊として恐れられている特警の長官・菊井精四郎(岸田森)。菊井は、命を助ける代償として雪に取引を持ちかける。それは、無政府主義者・徳永乱水(伊丹十三)から一通の手紙を奪い、彼を殺すことだった。乱水が同志から託されたその手紙には、現政府を脅かす内容がしたためられていた。




雪は、自分の身分を偽って乱水の家に女中として住み込んだ。乱水と彼の妻・あや(吉行和子)は、雪のことを気に入ったようだった。雪は、夫婦の目を盗んでは家捜ししたが、手紙は見つからなかった。
ある時、雪は乱水のお供を命じられた。二人を尾行する警官たちをまくと、乱水はとある無縁墓地に行った。懐から手紙を取り出すと、「雪さん、あんたが探しているのはこれだろう」と乱水は言った。彼は、雪の正体も彼女の狙いもすべてお見通しだった。
そして、この無縁墓地に眠るのは自分の同志たちであると言って、乱水は事の真相を雪に語り始めた。



乱水らは、革命を標榜して反政府活動を展開していたが、彼らを目の敵にしていた大審院検事総長の寺内謙道(安部徹)と菊井は、交番爆破事件をでっちあげて革命家たちを一網打尽にした。菊井は、苛烈な拷問を加えた上で彼らを次々に処刑して行った。その時、たまたま東京にいなかった乱水は一命を取り留め、仲間から一通の手紙を託されたのだった。
反政府主義者たちに壊滅的打撃を与えた功績として、寺内は司法大臣、菊井は特警長官の地位を手にした。彼らにとって、乱水が持っている手紙は身の破滅をもたらす爆弾そのものだった。
仲間たちの無念を背負い、自らの死をも顧みず革命運動に心血を注ぐ乱水の姿に、雪は強く打たれる。雪は、乱水の側につくことを決めた。

雪が寝返ったことを知るや、菊井は次の手に出る。例の手紙を携えて反政府集会へと向かった乱水と雪。二人を乗せた馬車の行き手を、警察が阻んだ。脱獄死刑囚の雪を匿った罪で、乱水は逮捕された。
捕まる直前、乱水は手紙を雪に託した。乱水は、この手紙を自分の弟に届けてほしいと雪に言った。
四谷鮫河橋にある貧民屈で医業を営む徳永周介(原田芳雄)に、拳銃で撃たれながらも雪は手紙を届けた。運命の悪戯か、これは二人にとって思ってもみなかった再会であった。かつて丸山に追ってから逃げていた時、雪は周介と偶然出逢って互いに心惹かれたことがあったのだ。
周介は、傷を負った雪の手当てをしてくれた。

兄が過酷な拷問を受けているというのに、周介の態度は冷淡だった。というのも、周介が日露戦争に出兵していた最中、当時彼の妻であったあやは乱水と結ばれてしまった。日本で待つ妻との再会だけを希望に生き抜き、帰国した周介にとってそれはあまりの仕打ちであった。
以来、彼は乱水ともあやとも関係を断ってこの貧民屈に身を潜めたのだった。



いつまで経っても戻らない夫を心配してあやが訪ねて来ても、周介は彼女を追い返した。ようやく解放されたものの、乱水は菊井たちの手によりペスト菌を注射されていた。それに気づいた周介は乱水を小屋に隔離したが、程なくして乱水は絶命。周介までもがペスト菌に犯されてしまう。
周介は、兄の手紙で菊井たちに強請りを掛けるが、菊井は貧民屈を焼き払う暴挙に出た。一方、あやは夫を失ったショックで気がふれてしまう。
焼跡を前に呆然と立ち尽くす雪だったが、瓦礫の中で動くものがあった。周介だった。



雪と余命幾ばくもない周介は、復讐のためにいよいよ立ち上がる…。




前作『修羅雪姫』から半年後に公開された第二弾である。シンプルに映画として見れば、僕は前作よりも本作の方が面白かった。
梶芽衣子の魅力を堪能できるのはもちろん前作だが、いささか盛り込み過ぎなところと定型的な展開に物足りなさを感じた。その辺りも含めてのプログラム・ピクチャではあるのだが。
それに比べると、この続編は物語の懐が深く、登場人物たちもそれぞれにキャラクターが立っているところがいい。基本的に誰もが脛に傷持つ者たちだが、それぞれが実に魅力的に映るのだ。

徹底してヒールの岸田森、山本麟一、南原宏治の悪ぶりもいいし、男の色気を感じさせる原田芳雄や情熱と理性を併せ持つ革命家を演じた伊丹十三も魅力的である。
また、潔く濡れ場を披露してみせる吉行和子もポイントが高い。
彼らの好演もあって、本作は物語的なスケールの大きさをしっかり描けていると思うのだ。

本作唯一にして最大の問題点が何かと言えば、それは修羅雪姫こと梶芽衣子が主役に見えないことである。それに尽きる。
一言でいうと、この映画は男たちの物語であり、雪は彼らの側に立つ狂言回しのような役割を担っているに過ぎない。
「雪の獄舎で生まれた女 いつまで続く修羅の旅」という予告編の惹句からすると、それはいささか看板に偽りありだろう。

本作は、娯楽映画としてはなかなかに魅力的な良作である。
ただ、前作同様梶芽衣子の活躍を期待する向きには、いささか肩透かし気味な続編だろう。

渡邊祐介『二匹の牝犬』

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1964年3月12日公開、渡邊祐介監督『二匹の牝犬』



企画は岡田茂、脚本は下飯橋菊馬・渡邊祐介、撮影は西川庄衛、美術は森幹男、音楽和渡辺宙明、照明は森沢淑明、編集は長沢嘉樹、録音は小松忠之、現像は東映化学工業、スチールは藤井善男。製作は東映東京撮影所、配給は東映。
並映は長谷川安人監督『紫右京之介 逆一文字斬り』。
本作は、成人映画指定で公開された。ヒロインの小川真由美にとってこれは二本目の映画出演作であり、緑魔子にとってはデビュー作である。


昭和三十三年、売春防止法の施行により赤線地帯から売春宿が撤廃された。川辺テツ(沢村貞子)が経営していた店も廃業となり、所属の売春婦たちは去って行った。千葉の田舎から出て来た並木朝子(小川真由美)は、結局お客を取ることがないままこの日を迎えた。
ところが、「お前は運がいい」と皮肉を吐くテツに朝子は仕事の世話をしてほしいと懇願する。テツは、掌を返して朝子にお客を紹介してやった。

あれから数年。朝子は、トルコ風呂で売れっ子のミストルコとなっていた。稼いだ金を株の投資に注ぎ込み大金を貯め込む朝子は、やがて美容院の権利を買い取って風俗家業から足を洗おうと考えていた。姉が経営している美容院だったが、姉は朝子のことを毛嫌いしている。
証券会社の担当・関根啓三(杉浦直樹)はしきりに朝子のことを知りたがったが、いつかその時がくれば話すからと言って、朝子は頑なに関根を拒んだ。実は、朝子も関根との平凡な結婚を望んでいたが、そのためにも真実を明かす訳にはいかなかったのだ。

関根は着実に朝子の資金を運用してくれているようで、彼女の目標額まで手の届くところまで来ていた。いよいよ、関根のアタックは激しさを増していた。
そんなある日、腹違いで18歳の妹・夏子が上石神井にある朝子のアパートに転がり込んで来る。父親が新しい女を呼び込んで、母親は出て行ってしまったのだという。仕方なく、朝子は家事一切をやることを条件に夏子を住まわせてやることにした。
ところが、夏子は大人しく姉の言うことを聞くような女ではなかった。

テツは、今でも時々朝子のアパートに顔を出しては、羽振りのいい彼女から小遣い銭をたかった。この日も、そのつもりでテツが朝子のアパートを訪ねると、そこには見たこともない若い女が着替えていた。
テツは夏子にも目とつけてひと儲け企むが、なかなかどうして夏子もしたたかな女だった。夏子はとっくの昔に処女を捨てており、金のためなら男に抱かれることなどへっちゃらだった。テツは、とある中年の男に夏子を紹介してやった。



夏子は、テツが紹介したお客と寝た後、お客がテツに払ったのが二万円だったことを知った。自分が受け取ったのは、一万円。半分ピンはねされていたのだ。
お客が眠ったのを確認すると、夏子はお客の財布から名刺と札数枚を失敬して朝子のアパートにタクシーで戻った。そして、朝子が仕事から戻る前に何食わぬ顔で布団に潜り込むのだった。

普通の幸せへの思いが抑えきれなくなった朝子は、株式の売却を強く関根に依頼するが、まだまだ相場は高騰すると関根は気乗りしない様子だった。朝子にとっては、目標額を達成できれば、後はトルコを辞めて関根と結ばれるだけだ。
夏子は、テツにピンはねされないように名刺に書かれた電話番号に電話した。彼女を買った男は関根の上司・三木(三津田健)で、その三木は関根の粗っぽい運用で顧客からまた苦情が来たと関根をたしなめている最中だった。
電話口ではのらりくらりと三木にかわされた夏子は、夕方証券会社に押し掛けた。三木は、関根に金を渡すとこれで適当にあしらってくれと頼んだ。
その夜、夏子は関根とも関係を持った。夏子は金が目当てだったが、関根は夏子の体に惹かれてしまう。

朝子は、トルコの慰安旅行で箱根に行った。夜、新聞を広げた朝子は自分が持っていた会社の株が暴落したとの記事を目にして愕然とする。自分は一刻も早く売りに出してくれと命じたものの、関根はそれを渋っていた。
居ても立ってもいられなくなった朝子は、東京のアパートに一人戻った。しかし、自分の留守をいいことにアパートの部屋では夏子と関根が逢瀬を楽しんでした。
株は暴落して金も男も失った朝子は、夏子を強制的に田舎に帰すことしかできなかった。

すべてが水泡に帰したかに見えたが、彼らの人生にはさらに波乱含みの顛末が待ち受けていた…。


成人指定された本作は、東映性愛路線の原点的な一本と評していい作品だろう。
小林悟監督が大蔵映画で撮ったピンク映画第一号『肉体の市場』の公開が1962年で、当時は成人映画といえども露出はほんの申し訳程度といった時代である。
本作オープニング・シークエンスで映し出される女性の裸体からして、かなり挑発的なシーンである。
風俗嬢をヒロインに据えたスキャンダラスな内容と、文学座所属の小川真由美の裸を売りにした(実際には、小川は下着シーンしか登場しない)宣伝が功を奏して、映画は大ヒットした。
ただ、本作で小川扮するトルコ嬢は、我々が想起する現在のソープランド嬢のような奉仕をする訳ではない。
赤線廃止直後の初期トルコ風呂で「ミストルコ」と称された女性が客に施していたサービスは、箱型をした一人用の蒸し風呂に入ったお客の体を洗うこととマッサージであった。

後に発表される外連味に満ちた東映諸作ほどではないにせよ、本作もなかなかにあざとい風俗映画である。
ただ、この物語で中心に据えられているのは小賢しい悪党の関根ではなく、あくまでも朝子と夏子であり、またこの姉妹を取り巻く女たちである。ドラマ構造としては、市川崑監督『黒い十人の女』(1961)の世界をより俗にした感じと言えなくもない。

トルコ風呂で働く女たちの刹那的な逞しさともの哀しさもいいし、夏子が最初に買われたのが関根の上司というシニカルな展開も秀逸だろう。
ただ、関根という薄っぺらな悪党の描き方に、如何にもプログラム・ピクチャー然とした安易さがあるのが不満と言えば不満である。
その一方で、小憎らしいやり手婆を演じる沢村貞子の演技は、本当に見事である。ある意味、この作品に描かれている人間たちを象徴する人物がテツだろう。

小川真由美のアンニュイなデカダンスを纏った表情ももちろん魅力的だが、個人的には何と言っても緑魔子である。



気まぐれで奔放、大胆で享楽的な夏子という女性を演じる緑魔子のキュートでコケティッシュな魅力が、スクリーンいっぱいに弾ける。
この作品を見て、彼女にノックアウトされない男なんて、果たしているのだろうか?

本作は、夜に生きる魅力的な女たちを描いた女性映画の良作。
今の時代と地続きの普遍性を有した、ある意味リアルな風俗映画だろう。

増村保造『動脈列島』

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1975年9月6日公開、増村保造監督『動脈列島』





製作は藤井浩明・山田順彦、原作は清水一行、脚本は白坂依志夫・増村保造、撮影は原一民、美術は阿久根巖、音楽は林光、照明は小島真二、編集は中静達治、録音は原島俊男、整音は西尾昇、衣裳は藤崎敏江、助監督は奥村正彦、記録は宮崎田鶴子、スチールは石月美徳。製作は東京映画、配給は東宝。


こんな物語である。

愛知県名古屋市熱田区。東海道新幹線が周辺住宅街に途轍もない騒音をまき散らしながら、間断なく時速200キロの猛スピードで通過して行く。
一時は入院して容体が回復した老婆は、騒音をB-29の音と混同しながら激しく体を痙攣させて、主治医の名古屋中央病院臨床研究医・秋山宏(近藤正臣)と看護婦で秋山の恋人・君島知子(関根恵子)の治療も空しく事切れた。秋山は、自分の無力さと無策の国鉄に対して怒りを露わにした。
秋山は、理由も話さず知子にニトログリセリンを病院から少し持ち出すよう頼んだ。知子は、困惑しつつも秋山にニトログリセリンを渡した。すると、秋山はしばらくヨーロッパ旅行をすることにしたと告げた。



秋山が姿を消した翌日。新幹線のトイレから出てきた女性(芹明香)は、便器に物が詰まっていて流れないと毒づいた。調べてみると、便器の奥からニトログリセリンと脅迫状が発見された。新幹線による騒音と振動を止めなければ、10日後に新幹線を脱線させると脅迫状に書かれていた。
国鉄関係者と警察はその脅迫状の信憑性を議論していたが、その翌日に今度は豊橋駅で新幹線ひかり号が脱線した。一歩間違えば後続のひかり号が追突して大惨事となるタイミングだった。

事態を重く見た国松警察庁長官(小沢栄太郎)は、生え抜きのエリートで警察庁犯罪科学捜査研究所長の滝川保(田宮二郎)に事件の捜査指揮を一任する。滝川は、山崎警察庁捜査一課長(小池朝雄)、明石警視庁特別捜査班班長(井川比佐志)、中野愛知県警公安一課長〈勝部演之〉、村田愛知県警捜査一課長(渥美国泰)と共に捜査本部を立ち上げ、短期決戦的な極秘調査を開始した。
滝川は、脅迫状の内容が名古屋新幹線騒音公害訴訟団の要求と一致している点に着目。訴訟団が主張の科学的根拠とする論文を中心的に執筆した秋山の存在に行きつく。秋山は現在出国中とのことだったが、秋山には外見のよく似た従弟がいることと脅迫状に付着した指紋が秋山のものとほぼ一致したことから、ヨーロッパを外遊中なのは秋山になりすました従弟であり、秋山は現在も日本にとどまり一連の事件に関わっているものと滝田は断定した。



その頃、秋山は東京にある従弟のアパートに潜伏して、秋葉原電気街で電気機器を物色していた。秋山は、もう一度新幹線を止めるとマスコミに犯行予告をした。マスコミは事件を隠していた警察庁を糾弾するが、国松と滝田は次の犯行を阻止できなければ事件を公開捜査に切り替えることでマスコミ各社と折り合いをつけた。
ところが、またしても秋山は新幹線を止めてみせた。いよいよ、滝田は公開捜査に踏み切った。

潜伏中の秋山は、立ち寄った飲み屋で偶然知り合ったホステスの落合芙美子(梶芽衣子)と深い関係になる。芙美子は、かつて看護婦をしていたが医師への不信感からスナックのホステスになった女だった。彼女は、秋山のことを指名手配犯だと気づいていたが、彼の自己犠牲的な正義感に深く共感した。




秋山は、芙美子の協力を得ながらいよいよ大胆な行動を取り始める。深夜に長田国鉄総裁(山村聡)宅を訪れ、自らの主張と要求を直接伝えると会話を隠し録りしたテープをテレビ局に送った。

そして、いよいよ犯行予告当日を迎えるが…。



121分間、手に汗握る社会派クライム・サスペンス・ムービーの良作である。
新幹線騒音問題といえば、当時を代表する公害問題の一大トピックであった。また、頻発するストライキや累積する赤字で、国鉄に向けられる国民の目も厳しさを増していた時期である。
まさしく、当時の社会的関心が集約されたような映画だった訳だ。
ちなみに、清水一行の小説『動脈列島 新幹線転覆計画』は1974年に光文社のカッパ・ノベルスから刊行され、第28回日本推理作家協会賞を受賞している。



とにかく、豪華な俳優陣、畳みかけるようなテンポの良さ、スケールの大きな仕掛けで娯楽映画としても緻密に練り上げられた力作である。
色々とご都合主義的な展開もあるが、それも確信犯的だろうしアクセルを思いっきり踏み込むような増村保造監督の演出には有無を言わせぬ迫力がある。観ていて、実に爽快である。
1970年代以降、増村は大映テレビを中心にテレビドラマの演出にも力を入れるが、本作もある意味2時間サスペンスのお手本的なキレ味ある演出が光っている。
なお、製作の藤井浩明と共同脚本の白坂依志夫は、大映倒産後に増村が独立プロ行動社を設立した時の同人である。

物語の主軸に据えられた正義感に溢れる青年医師・秋山や捜査に関わるエリート捜査官・滝田のクールでクレヴァーな造形も魅力的だし、彼らを取り巻く人々も生き生きと描かれている。
しかも、ただシリアスなだけでなく前半で見せる近藤正臣関根恵子のしっかりした濡れ場や、梶芽衣子との道行きの恋愛的な関係性の外連味もいい。また、日活ロマンポルノを代表する名女優芹明香がチラッと姿を見せるのも、ファンには嬉しいところだ。




最後の最後まで引っ張る展開も、随分と後のドラマに影響を与えたのではないか。



本作は、豪華キャストと硬質なサスペンスと艶やかさまでを詰め込んだ、娯楽大作。
増村保造の職人的な演出の確かさを堪能して頂きたい一本である。

纐纈雅代×若林美保+スガダイロー「解禁3」@吉祥寺MANDA-LA2

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2015年8月17日、吉祥寺MANDA-LA2にて、纐纈雅代(as)×若林美保(dance)+スガダイロー(pf)によるライブ「解禁3」を観た。
前回の「解禁2」が2014年7月14日だったから、1年ぶり待望の「解禁」である。ちなみに、前回は纐纈と若林に不破大輔という布陣だった。

それでは、当日の感想を。

第一部

○若林美保
壮大なゴシック・ミュージックが流れ、黒のコルセットを装着して白いシースルーの襦袢を纏った姿で若林美保が登場。手にしているのは、赤い縄。ショーの出だしとしては、なかなかのインパクトである。そこから、トップレスになりコルセットを外しての吊りは、緩やかに宙を舞う感じがなかなかに見せる。
個人的には前半の選曲がやや単調だったような気がする。それと、欲を言えばもう少し踊りに間があればなぁ…と思う。
ただ、感傷的でドラマチックに盛り上がって行くラストのスケール感は、流石わかみほと唸った。



○スガダイロー
シンプルな白いシャツ姿でピアノに向かうと、スガダイローは不安を煽るようなフレーズを単音で奏で始める。破綻すれすれに聴こえる旋律が、実にスリリングだ。
そこから一転、今度は暴力的なまでの強いタッチで演奏。そのスタイルには、彼が師事した山下洋輔の姿を重ねる人もいることだろう。まるで破壊神のようなサウンドは、傍若無人に前進を続ける軍隊の足音を聞くようである。ダークにグルーヴするプレイが、圧巻だ。
演奏は次々に表情を変え、小刻みに鍵盤を叩きカラフルで幻想的な音を紡いでいたかと思うと、一音一音に神経を張り詰めた透明なサウンドが会場を包んだ。



○纐纈雅代
ビザールでパンクな黒のタンクトップ姿で登場した纐纈雅代は、一音目から力強くブロー。フリー・ジャズというより、僕には何処か海童道宗祖の法竹を想起させるような響きに聴こえた。
そこからのむせび泣くような旋律は、血を吐くようにバラードを奏でる阿部薫の音像と重なった。時折、遠い海から聞こえてくる鯨の鳴き声の如きフレーズが挿入される。
フリー・ジャズと土着的な呪詛を思わせる純邦楽が時空を超えて融合するような剛腕のプレイは、彼女の真骨頂だろう。闇を切り裂く悲しみのブルースである。



第二部

○スガダイロー×若林美保
スガの奏でる音の海の中をたゆたうように踊る美保。妖艶と幻想が一体となった素晴らしいコラボレーションである。
あえてエロティシズムを抑制することで、逆に彼女の官能性が露わになる。まるで猛禽類のように美保の動きを窺いながら、スガは自分の奏でるべき音を鍵盤に探す。美保曰く「スガさんに視姦されているよう」なセッションは、観ている側にも十分に刺激的だ。
恍惚の表情で優雅に舞う美保と、緊張感溢れる研ぎ澄まされた音を響かせるスガ。一瞬一瞬を切り取るようなピアノの旋律に乗せて、美保は徐々に肌を露出させてデカダンスの深海へと沈み込んで行く。
まるで、踊りとピアノのクリスタル・サイエンスとでも形容したくなるパフォーマンスは、この夜のひとつの成果と断言したくなるような素晴らしさだった。






○スガダイロー×纐纈雅代
若林美保が袖にはけると、代わって纐纈雅代がステージへ。奏でる曲は、「ハーレム・ノクターン」。パンキッシュで暴力的な演奏が、最高に刺激的だ。
フリーキーな中にもしっかりと音楽的対話が聞き取れる演奏は、この二人ならではのオリジナリティに溢れている。ヒリヒリした皮膚感覚の如き音像で繰り返される構築と解体は、強靭なジャズとなって会場の空気を揺らす。






○スガダイロー×纐纈雅代×若林美保
再び若林美保がステージに戻り、三人でのパフォーマンスへ。強靭なピアノソロを聴かせるスガに、纐纈の高速なアルト・サックスが被さる。そして、美保は自らの体を吊るす。
エキセントリックとヒステリックが交錯するパラノイア的な音空間が現出したかと思えば、次には力強くメロディアスなプレイへと変貌を遂げる。纐纈が正統的なメロディをブローした後、今度は純度の高い水晶のような珠玉のバラードをスガが聴かせる。
最後は、三人によるまさに夜のジャズとでも形容したくなるプレイでフィニッシュ。






刺激的な音と踊りが堪能できる誠に意義深いコラボレーションであった。この夜、MANDA-LA2で「解禁3」を体験した人は、誰もが至福の時間を享受したものと確信する。
この三人が披露したパフォーマンスは、尖鋭的でありながら決して観るものを拒絶しない、正真正銘の自由なジャズに他ならない。しかも、「今」「日本」のシーンでしか表現することができないオリジナリティに貫かれていた。
本当に、素敵なことじゃないか!




吉祥寺のライブハウスで繰り広げられた、ささやかな奇跡とでも言いたくなるような特別な夜だった。
関係者の皆様、お疲れ様でした。

渡邊祐介『悪女』

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1964年7月11日公開、渡邊祐介監督『悪女』



企画は吉野誠一・片桐譲、脚本は下飯坂菊馬・渡邊祐介、撮影は西川庄衛、美術は進藤誠吾、音楽は伊部晴美、照明は森沢淑明、編集は長沢嘉樹、録音は大谷政信、スチールは藤井善男。製作は東映東京撮影所、配給は東映。
本作は、『二匹の牝犬』のヒットを受けて、渡邊祐介監督が再び小川真由美と緑魔子を起用して製作したものである。『二匹の牝犬』同様、成人映画として公開された。


こんな物語である。


三村はつ(杉村春子)が営む弥生家政婦会に所属する田中姫子(小川真由美)。福島の貧しい農家育ちの姫子は、人が喜ぶことが自分の喜びという奇特な性格の働き者で、現在はトラック運転手の鈴木亀吉(北村和夫)という恋人がいる。
姫子には、生活のために奥州街道沿いでトラックの運転手相手に売春をしていた過去がある。そんな中で出逢ったのが亀吉だった。亀吉は純情な男で、始めはパンパンを毛嫌いしていたが、ふとした偶然で姫子と再会。二人は付き合うようになった。生真面目な亀吉は、結婚してから…と姫子とは肉体関係を持っていない。

弥生家政婦会の上得意でブルジョアの園城家は、とにかく人使いの荒さから家政婦が長続きしない。今回も一カ月ともたずに辞めてしまい、姫子が派遣されることになった。
園城家の家長・礼次郎(三津田健)は優しい好人物だったが、妻と死に別れてから柳町に通うようになり、そこで知り合った娘ほどに歳の離れた芸者・由紀(高千穂ひづる)と再婚した。
ところが、礼次郎は狭心症を患って倒れてしまい、前妻との間の子供二人は相当に問題ある人間であった。
長男の英介(梅宮辰夫)は、テレビのシナリオ・ライターだが最近はあまり仕事もなく、ひたすら酒と女で派手に荒れた生活を送っている。彼は、こともあろうに由紀とも関係している。
長女で女子大生の冬子(緑魔子)は、由紀の結婚を財産目当てと踏んで義母に攻撃的な態度を貫いている。また、彼女は享楽的な性格で、レズのパートナーを屋敷に連れ込む始末だ。
そんな状況を、婆やのしの(浦辺粂子)は苦々しく思っていた。



意外にも、園城家での仕事に姫子は根を上げず、長続きしていた。冬子の人使いはサディスティックなまでに荒く、英介の傍若無人さも目に余ったが、姫子には堪えていないようだった。




そんな中、事件は起きた。冬子は、友人たちを大勢呼んで自分の誕生日パーティーを園城家の屋敷で盛大に催した。乱痴気騒ぎが続く中、勝負に負けた方が裸になるというゲームを受けて立った冬子は、そのゲームに負けてしまう。すると、冬子は自分の代わりに裸になるよう姫子に命じた。
姫子は、冬子の友人たちに取り囲まれて服を脱がされそうになったが、そこに帰宅した英介のお陰で救われる。一難去ったと思われたが、その夜姫子は英介に襲われてしまった。

流石の姫子も円城家を飛び出し、はつに暇を申し出た。そして、亀吉に結婚したいと懇願。もちろん亀吉には何の異存もなく、彼は姫子を連れて実家の両親・大造(宮口精二)とてい(五月藤江)に結婚の報告に行った。
その夜、初めて二人は結ばれようとしていたが、姫子は激しい吐き気に襲われる。つわりだった。姫子の妊娠を知った亀吉は激怒、泣きながら彼女を家から追い出し、結婚も破談になった。

英介の子供を身籠った姫子は、再び家政婦として円城の邸宅に戻るが…。


小川真由美緑魔子で撮った前作『二匹の牝犬』もなかなかに挑発的な風俗娯楽映画であったが、本作は東映エロ路線の原点的なハチャメチャさが満載のあざとい怪作である。
感覚としては、過剰な昭和の昼帯ドラマを現在のとんでもVシネ的な破壊力で味付けしたような風情とでもいえばいいか。後半の展開はほとんどホラーだが、ラストは女囚もの的な語り口で終幕するというアクロバティックさである。
訳あり家政婦根性もの的な前半から、これでもかと言わんばかりに姫子に数々の悲劇がもたらされる後半のジェットコースター的展開も凄いが、一番クラクラするのは彼女の精神構造と思考パターン…みたいなところが本作のモンドさを加速する。

とにかく、メイン・キャストの小川真由美、緑魔子、梅宮辰夫、高千穂ひづるが振り切れたようにアッパーな演技を披露するのも見どころだが、脇を固める北村和夫、杉村春子、浦辺粂子、あるいは宮口精二と五月藤江が生真面目な芝居をするコントラストにも何やら凄味がある。
サービス精神旺盛といえばそれまでだが、緑魔子のレズシーンというのも、分かったような分からないような演出である。

個人的には緑魔子の外連味たっぷりな存在が買いだが、流石にドラマ自体のやり過ぎ感はどうかな…と思わなくもない。

本作は、フルスロットルな暗黒系成人映画の一本。
昭和風俗に咲いた徒花的作品ゆえ、好事家にはたまらない作品だろう。

サーモン鮭山『101回目のベッド・イン』

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2015年8月23日公開、サーモン鮭山監督『101回目のベッド・イン』



脚本は当方ボーカル、脚本協力はベッド・インと破れタイツ、音楽はベッド・イン、撮影は宮永昭典。
本作は、新進気鋭の映画監督とアーティストの掛け合わせによる映画制作企画の具現化する音楽×映画プロジェクト「MOOSIC LAB 2015」エントリー作品の一本である。



こんな物語である。

若手女子監督コンビの西本マキと吐山ゆんの二人は、歌手デビューする俳優・波川完治(松浦祐也)のPVを撮影中。その様子を、事務所社長の浜田浩文(世志男)が見守っている。
すると、どこから現れたのかどう見ても時代錯誤のボディコンを身に纏った二人組が一緒に出演させろと波川の両脇にぴたっと貼りついた。マキもゆんもキレ気味になるが、こともあろうに浜田社長はこの二人をバック・ダンサーに使うと言い出す始末。早くも、撮影は波乱の予感が立ち込める。
予想通り、謎の二人組ベッド・インの中尊寺まいと益子寺かおりのやり放題のために現場はカオスとなってしまう。とりあえず、休憩を宣言したマキとゆんだったが、撮影を再開しようとするも波川の姿が見えない。彼は、「旅に出ます。探さないで下さい」という置き手紙を残し、失踪してしまった。

すると、ベッド・インは自分たちを主役にして撮影を続けろとさらなる無理難題をふっかけて来た。もちろん、マキとゆんは却下するが、ベッド・インは浜田社長に色仕掛け。たらし込まれた浜田社長は、景気よく予算を上積みして、助監督の近藤力(津田篤)、照明の三上寛樹(三元雅芸)、録音の野村義枝(太田美乃里)まで呼び寄せる。
そんな訳で、PVだったはずの撮影はいつの間にかベッド・イン主演のトレンディ・ドラマ『ベッド・イン THE MOVIE(仮)』に企画が変更されてしまうが、そもそも20代半ばのマキとゆんにはベッド・インが話す90年代バブルのネタは、若いマキとゆんには皆目分からない。
ベッド・インの相手役として呼ばれたかつてのトレンディ俳優・江口良介(深澤和明)と石田駿作(竹本泰志)の二人を見ても、マキとゆんには「ああ、あの育毛剤と白髪染めのCMに出てる人…」程度の感慨しかわかない。
そんなこんなで、どんどんベッド・インのペースに巻き込まれて行くマキとゆん。



次に、ベッド・インの二人は、マキとゆんを強引にライブハウスへ連れて行く。会場ではロック・バンドが演奏中だったが、観客をかき分けてベッド・インがステージに乱入。彼らをバックバンドに押しやって、ライブをジャックしてしまう。
最初はブーイングを送っていた観客たちだったが、いつしかベッド・インのライブに熱狂。その姿を見て、マキとゆんもこの二人組のことを少し見直してしまう。

ところが、江口と石田が車の事故で負傷。急遽、この二人の代役が必要になってしまう。一人は、照明部の三上がいい男でまいとゆんが彼のことを狙っているため安易に決定。
もう一人を探すべく、マキとゆんは街頭でナンパまがいのスカウト活動を始める。偶然声をかけた陣内隆伸(渡辺祐太朗)が駆け出しの役者と知って、二人は彼にもうプッシュ。おまけに、陣内はマキの好みのタイプだった。
そんな訳で、陣内の事務所に出演交渉に出向いたマキとゆん、それにベッド・インだが、女社長の沼津千明(倖田李梨)からそんなお下劣な映画に陣内を出す訳にはいかないとにべもなく断られてしまう。なおも食い下がって交渉してると、じゃあ所属の女子プロレスラー、ファビュラスギャルズとタッグマッチをやって勝てたら出してやるとの条件を出される。
ベッド・インの二人はその条件を快諾すると、そのまま秘密の特訓をするために姿を消した。

予想に反して、ベッド・インは、ミネアポリスあけみ(ミス・モンゴル)とテキサスまどか(和田みさ)のタッグに快勝してしまう。ようやく、トレンディ・ドラマは撮影再開へと漕ぎつけた。
無事に映画はクランク・アップ。打ち上げの席で三上と陣内の気を引こうと、ゆんもマキも滅茶苦茶力を入れた衣装で会場に。ところが、当のベッド・インも男優二人もやって来ない。またしても、あの二人にしてやられたのだった。
それどころか、完成した映画を見ることもなくベッド・インはマキとゆんの前から忽然と姿を消してしまう。

いつしかベッド・インの二人に戦友意識のようなものを抱き始めたマキとゆんは、自分たちのユニットに「破れタイツ」という名前をつけて、ベッド・インを探し始めるが…。


この作品くらい、ストーリー紹介が意味をなさない作品も珍しい。観てみないことには、その魅力や可笑しみがまったく伝わらない映画である。
というのも、本作の面白さは、ベッド・インのインパクトと科白の妙であり、破れタイツのテンポと間だからである。それと、共演陣がベッド・インのペースに巻き込まれて行く雰囲気である。バンに乗り込み、ベッド・インの間に挟まれる三元雅芸など、素で笑ってるようにしか見えない。
まあ、一人暴走気味に滅茶苦茶なのは和田みさだけど(笑)

ある意味、ベッド・インにしても破れタイツにしてもフェイク・ドキュメンタリー並みに「そのまんま…」と言えなくもない。
劇中の会話ではふんだんにバブル期のテクニカル・タームが盛り込まれている訳だが、ベッド・インの二人にとってバブル期というのはもはや近現代史的な位置だから、彼女たちは徹底的な時代考証に基づいて緻密にコンセプトを練り上げているユニットと言っていいだろう。ベッド・インの芸風(と言っていいのか?)は、その裏に生真面目なくらいの勤勉さが伴わなければ、なかなか出来ることじゃないと思う。プロフェッショナルな人たちなのだ。




破れタイツの二人は、いとうせいこうが総合プロデュースを務める第4回したまちコメディ映画祭in台東(2011)で三冠を受賞した期待の若手女性監督ユニットである。劇中で流れる「じ ぞ う」 はその時の受賞作だし、ご丁寧にトロフィと賞状まで登場している。
ちなみに、ラストに二人が着ている衣装も自作だそうである。



さて、本作についての感想を書こう。

かなりカオスでハチャメチャなコメディではあるが、僕の個人的な印象を書けば「実に、生真面目に作られた作品だなぁ…」ということになる。

何というか、作品の端々にサーモン鮭山こと中村公彦監督と脚本担当の当方ボーカルこと小松公典の作家的律儀さとサービス精神が感じ取れる。
で、キャラクターのリアリティとコラボレーションの充実を図るべく、ベッド・インと破れタイツ双方の意向を作品に反映しているため、この二組は生き生きと描かれている。その反面、映画はやや盛り込み過ぎてオーバーフロー一歩手前的な佇まいを見せている。
その辺りのトゥー・マッチさも含めて、カタいこといわないで笑いながら楽しむのが本作への正しい接し方だと思うが、野暮を承知でさらに書き進めたいと思う。

この作品に貫かれているのは、言ってみればベッド・インのアイデンティティでもある「記号としてのバブル」である。
だからこそ、過剰なくらいにバブル期のキーワードが散りばめられているし、正直に言ってその部分は分かる人だけ笑えばいいのである。個人的に一番笑ったのは、「ジーザス栗と栗鼠」「人間発電所」だったけど、まあいいや…。
キーワードをすべて理解できるのは40代後半から50代前半の人だろうし、そもそもそういった言葉など分からなくても、本作のノリは楽しめるはずである。そういったバブル期が分からない人の代表として、破れタイツの二人が機能している部分もある訳だから。
つまり、この作品の物語構造は、ベッド・インが掻き回して破れタイツが収束させるというその繰り返しで進んで行く。そして、キメる個所では、もう一度ベッド・インに戻って持って行くという流れである。その反復運動と小ネタの数々が、作品としてのエンジンになっている訳だ。

ただ、僕が気になったのは、70分という尺の中で幾度となく映画が冗長に感じられたことである。
ベッド・インにとってはこれが映画デビュー作だし、キャラクター一発勝負的な部分が大きいにせよ、周囲の共演陣も含めていささか演技的に単調なのだ。破れタイツの二人は、そもそも独自のテンポを持っているから映画のリズム感になっているのだが、作品トータルとしての映画的グルーヴにはやや乏しいように思う。
とりわけ、深澤和明と竹本泰志が絡むトレンディ映画の撮影シーンの部分や、世志男とやり取りする部分では、もう少し男優陣に振り切れた勢いが欲しいように思った。和田みさ程の勢いは要らないにしても。
その意味では、松浦祐也の可笑しさは流石だと思う。
女社長役の倖田李梨は妙に可愛くてツボだったが、登場シーンで強面に挑発する場面でやや型にはまった怒り演技が散見されて残念だった。

もうひとつ気になったことといえば、音楽シーンの音圧の低さと音の抜けの悪さである。音楽と映画のコラボレーションが主要テーマな訳だから、音楽シーンにもう少しインパクトが欲しいように思う。
あと、これはもう予算の関係で詮無いことだけど、本当ならプロレス・シーンで『カリフォルニア・ドールズ』 的なヒート・アップが欲しいのだが、それは僕なんかよりもよほど監督とプロレス好きの脚本家が切実に思っていることだろう。

本作は、カオスなバカバカしさと遊び心が魅力の怪作。
テンポ的に不満もないではないが、このメンバーでもう一度何かやらかして欲しい気がする。



余談ではあるが、深澤和明は元BOØWYのメンバーで、竹本泰志が主宰する東京パワーゲートのメンバー。BOØWYの1stアルバム『MORAL』収録の名曲「NO. NEW YORK」は、深澤の作詞である。
そして、この二人のマネージャー広畑聡として登場するのは、サーモン鮭山である。

切実「ふじきみつ彦・山内ケンジ傑作短篇集」@下北沢小劇場B1

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2015年8月29日のソワレ、下北沢小劇場B1で切実「ふじきみつ彦・山内ケンジ傑作短篇集」を観た。




演出は岡部たかし、脚本はふじきみつ彦・山内ケンジ(城山羊の会)、舞台監督は鳥飼麻由佳、照明は太田奈緒未、音響は藤平美保子、音響操作は小倉祐子、版画制作は岩谷健司。制作は城島和加乃・平野里子(E-Pin企画)、制作協力は城山羊の会、製作は切実。
協力はバードレーベル、レトル、アミューズ、クリオネ、森下紀彦、神永結花、山北舞台音響、㈱ASH&D、ムロツヨシ、シバイエンジン、E-Pin企画、武藤香織、清水美帆、谷慎、上野詩織、猪瀬青史、石井春花、美馬圭子。
出演は岩谷健司、本村壮平、島田桃依(青年団)、松村翔子、田島ゆみか、岡部たかし。







本公演で上演されたのは以下の短篇6本(順不同)。

山内ケンジ:「婚約者」、「気立てのいいワンさん」、「新・愛の渦」(新作)
ふじきみつ彦:「つばめ」、「ロース」、「再会」(新作)


「婚約者」
中華料理店を経営する親子(岡部、本村)の元にやって来た長女(松村)。彼女は、上野の動物園で働いており、いい歳をしてまだ独身。その娘が、とうとう結婚を決めたと言う。
ところが、喜んだのも束の間。彼女が連れて来た相手(岩谷)は、何と…。

「気立てのいいワンさん」
とある時代の戦時下の日本。やり手の女将(島田)が経営する売春宿で、馴染みの女(松村)とひと時の情事を楽しむ男(本村)。女にせがまれ男は延長しようとするが、女将がやって来て次の客が入っているからと断られる。そのお客は変態嗜好の男(岩谷)で女は嫌がるが、何と男の上官だった。
痺れを切らした上官がやって来るが、彼は新人の女(田島)の方を気に入り連れて行こうとする。そこに爆音が響き渡り、敵国の中国人(岡部)が乱入、日本の敗戦を宣言するが…。

「新・愛の渦」
六本木の雑居ビルの一室。秘密の乱交クラブの待合ロビーで、女の到着を待つ男客二人(岡部、本村)。店長(岩谷)は、まるでやる気が感じられない食えない中年の男。
そこに常連の女二人(田島、村松)と初めてと思しき女(島田)が現れるが…。

「つばめ」
義兄(岩谷)から肝臓をもらって肝移植で助かった男(岡部)。男は実の弟(本村)と共に兄夫婦の家に礼を言いに行くが、不用意な発言から義姉(島田)の機嫌を損ね…。

「ロース」
スポーツジムで知り合った二人(島田、田島)は、トレーニング帰りにとんかつ屋に来ている。先にロースかつ定食がやって来るが、それを見ていた別のお客(松村)が、自分はヒレかつを頼んだのだが、一切れ交換しないかと話しかけて来る。
見ず知らずの人間に奇妙な申し出を受けて、二人は混乱するが…。

「再会」
コンビニを経営する夫婦(岩谷、松村)の元を、アルバイト希望の男(本村)とその付添い(岡部、島田、田島)が訪れる。だが、その男は4年前にこの店に強盗に入った罪で服役して、つい先日出所したばかりの元受刑者だった…。


岡部たかし岩谷健司は、山内ケンジの城山羊の会の舞台以外にもあれこれ活動しているが、その中のひとつに自分たちが企画に絡んだ短篇の舞台がある。
ユニット名は、「切実」であったり「昨日の祝賀会」 であったり「射手座の行動」 (これは、ふじきみつ彦の企画だった)とその時々で変化する。

今回上演された6本もふじきみつ彦と山内ケンジの脚本だけあって、どれもなかなかにシニカルでブラックなコメディ色の強い作品が揃っている。そして、脚本の面白さを具現化する役者陣6人の演技も、充実していて見応えがあった。

ショート・スケッチというのは、コンパクトな構成の中で如何に観客を唸らせるかというキレ味がすべてだから、長篇とはまた違った難しさがある。基本的にあまりドラマを語れないから飛び道具的な仕掛けで畳みかけるしかないし、演じる役者の反射神経がより一層求められる。

僕の好みからすると、今回一番面白かったのは「再会」であった。突き放すようなラストには、ちょっと山内演劇的なものを感じたのも興味深かった。
飛び道具的という意味では、一部では伝説的な岩谷健司の“あの演技”を堪能できる「婚約者」は、もはや危険球である(笑)
軽妙な「つばめ」のバカバカしさも悪くない。

その一方で、タイトルからして反則技一歩手前の「新・愛の渦」は時事ネタも加えたポリティカル・シニカルな一本だが、オチの部分が弱いのが難点である。
「ロース」は、役者の演技こそ買うが、流石にネタがくどくて終盤疲れてしまう。

そんな中、最も異色の作風と言えるのが、「気立てのいいワンさん」だろう。僕は、この短篇を昨日の祝賀会「冬の短篇」でも観ているが、その時よりもいい意味でコンパクトに見せていたと思う。ただ、その反面この作品が内包するドロッとしたキナ臭さと後味の悪い残酷さが後退してしまったようにも思う。
本作のキモは、短篇の中で目まぐるしく主従が入れ替わり、搾取する側とされる側の立場が次の瞬間には逆転する残酷さで、それを戦争という舞台装置を使って描いたところにあると思うのだが、今こそ不吉なリアリティを感じてしまったりする訳だ。
その意味でも、やはりこの作品はもう少し煮詰めて山内ケンジ演出の長編として観てみたいと思ってしまう。

いずれにしても、良心的な入場料でなかなかに充実した演劇を観ることができるお得な公演であった。
是非、これからもコンスタントに続けてほしい企画である。

渋さ知らズ劇場2015.9.5@吉祥寺MANDA-LA2

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2015年9月5日、吉祥寺MANDA-LA2渋さ知らズ劇場のライブを観た。




不破大輔が演奏しているライブは時々観ているのだが、僕が渋さ関係のライブを観るのはかなり久しぶりである。確認してみたところ、2011年3月25日に吉祥寺STAR PINE'S CAFEで「桜満開!渋さ吹雪の宴~渋さ者大集合の宴~」を観て以来だった。随分と時間が経ってしまった。



渋さ知らズ劇場
不破大輔(b)、立花秀輝(as)、山口コーイチ(pf)、磯部潤(ds)、鬼頭哲(bs)、纐纈雅代(ts)、山田あずさ(vib)、北陽一郎(tp)、加藤一平(g)、すがこ(dance:お調子組合)


そんな訳で、この日の感想を。


第一部

1 犬姫のテーマ

各人が音合わせのように楽器を鳴らした後、やがてそれらの音の断片が大海原のような開放感に溢れた音へとまとまって行く。とてもイマジネイティヴで映像的なイントロダクションに引き込まれる。曲の佇まいとしては、70’sニュー・ソウルとスピリチュアル・ジャズを想起させる音像である。

前半の展開にはもう少しストイックな洗練が欲しいように感じるし、演奏がヒート・アップして音圧がぐっと上がった後で聴かせたヴィブラフォンとアルト・サックスの掛け合いももう少し簡潔に聴きたかったかな…と思う。
ただ、そこからヴィブラフォンを中心に据えたアンサンブルに展開した時のカタルシスは、かなりのものだった。山田あずさのチャーミングなヴィブラフォン・プレイと山口コーイチのピアノのフレーズがとても印象的だった。

次は、トランペット中心のアンサンブルでファンキーにグルーヴする。疾走感はあるもののややリズムが重たいように感じていたが、徐々に曲が収束して行った時のアンサンブルの美しさに息を飲む。
山口がフリーで幾何学的なフレーズを奏でると、そのバックでは磯部潤が抜けのいいドラムスで応える。そして、もう一度テーマに戻る。

演奏も終盤に差し掛かると、テナー・サックスの纐纈雅代がスッと立ち上がってアフロ・ファンキーなフレーズをブロウする。彼女を煽るように不破大輔のエレキ・ベースが、アッパーでグルーヴィーな低音を響かせる。
アルト・サックスをフリーキーにブロウする纐纈のプレイも痺れるが、ここで聴かれるようなスケールの大きいメロディアスな演奏も彼女のキャラクターがよく出ていると思う。個人的には、このパートで聴けた完璧と思えるアンサンブルがこの曲のハイライトであった。

2 股旅

アルト・サックスが性急なフレーズをブロウし、ドラムスはタイム感のあるリズムを刻む。エキゾチックな音楽的佇まいと神経症的にエキセントリックな演奏。一見バラバラに感じられた演奏が、ある時点を境にまるでマジックのように一つのうねりとなって美しいサウンドを構築する。そのスリリングさといったら。音の緩急も絶妙だ。
そこに加藤一平のギターが切り込むと、演奏はアフロ・ファンキーに表情を変え、すべての楽器が非の打ちどころのないパーフェクトなアンサンブルを聴かせる。

ヴィブラフォンとピアノがやや長めのアドリブを展開した後、鬼頭哲のバリトン・サックスと纐纈のテナー・サックスが加わり、まるで架空の民族音楽のような調べに変化する。
そこに山田のヴィブラフォンと不破のエレキ・ベースが多彩な音楽的アクセントを加え、音像はダーティ・ダズン・ブラス・バンド的な祝祭感溢れる演奏を展開。それにしても、不破の圧倒的なベースに舌を巻く。

纐纈がタフなアドリブを聴かせ、続いては北陽一郎が繊細なフレーズをトランペットで奏でたかと思うと次第に饒舌なプレイへと加速して行く。とても美しく刺激的な演奏である。
山口がスピリチュアルな旋律を聴かせた後、再び全員による祝祭的なアンサンブルで大団円を迎えた。

第二部

1 行方知れズ

立花秀輝のアルト・サックスがメインの出だしでは、音の隙間を作って風通しのいいアンサンブルを聴かせる。不破は、ウッド・ベースに持ち替えている。広大な大地が目の前に広がっているような色彩感を伴った音が心地よい。次第にテンポ・アップして行き、音の密度が凝縮して行く様は実にスリリングだ。
ブリッジ的に挿入される山田のヴィブラフォンがとてもいいアクセントとなり、そこから演奏はフリーキーさと整合的なアンサンブルを行き来する。夜気を運ぶようなフレーズを加藤のギターが奏でると、ステージにはキャバレー的な猥雑さが漂う。
ロックな調べと何処か懐かしさを感じるスウィンギーなプレイの応酬が、実に刺激的だ。鬼頭のバリトン・サックスが、夜の闇をさらに深くする。北のトランペットを中心に据えた展開になると、性急さと猥雑さを幾重にも重ねる。

ピアノ、ウッド・ベース、ヴィブラフォンによる水晶の如き透徹なプレイから、やがて山口の奏でる旋律を核として大きくうねるようなスウィングが会場を満たして行く。
纐纈がテナー・サックスで大地を踏みしめるような豪放なブロウを披露すると、その音に寄り添うように山田が繊細なヴィブラフォンの音を響かせる。そのコントラストに、目眩すら覚える。
やがて静寂を取り戻したステージは、ヴィブラフォンの透明なふるえにエキセントリックなウッド・ベースと歯切れのいいドラムスが被さる。次第にリズムが整って行き、再びスウィンギーな音像が会場を熱くする。ひたむきにヴィブラフォンを奏でる、山田の表情が美しい。

長尺なドラム・ソロを磯部がパンキッシュに聴かせると、徐々に楽器が加わって冴えわたるアンサンブルが会場を揺らす。すべてのアンサンブルの核をなしているのは不破のベースで、彼の奏でるベース・ランニングの刺激的な疾走感が最高にファンキーだ。
各人がホット・アンド・クールにソロを披露した後、ラストはモンスター・スウィングと形容したくなるユニゾンが痛快極まりない。

2 仙頭

めくるめくスピードでパンキッシュな演奏を披露すると、濃密な二時間のステージは終演。会場には、彼らの演奏でヒート・アップした熱の余韻だけがいつまでも残っていた。


いやはや、最高に刺激的な演奏であった。70年代ニュー・ソウル的なソフィスティケーション、オーセンティックなアフロ・スピリチュアル・グルーヴ、パンキッシュでロック的なスピード感、一糸乱れぬ構築されたスウィング、透明感に溢れた美しいバラードといくつもの表情を見せつつ、トータルとしては渋さ知らズ劇場ならではのオリジナリティに貫かれた音。その音の塊に酔いしれた、至福の二時間であった。
各プレイヤーがそれぞれに個性的な演奏を聴かせても音がブレることなくきっちり収束するのは、やはり不破大輔という稀代のリーダーがしっかりと音楽のイニシアティヴを握っているからだろう。

僕にとって、不破さんのベースは本当に特別である。以前、彼がエレキ・ベースを演奏するライブでフリー・インプロヴィゼーションを聴いた時、初めてトランス状態を体験したことがあった。そんな経験は、その時以降一度も訪れない。

各メンバーの演奏もそれぞれに刺激的だったが、中でも山口さんのピアノと山田さんのヴィブラフォンの音色には、何度もハッとした。
そして、ここぞという時に凛々しくブロウする纐纈さんのテナー・サックスにも胸が熱くなった。今年に入って、纐纈さんのサックスに惹かれて三回ライブを観たのだが、聴けば聴くほど彼女のプレイに魅了されて行く。
繰り返しになるが、「犬姫のテーマ」の最後で聴けた圧倒的なアンサンブルは僕にとってはこの夜の白眉であった。

音楽をカテゴライズすることにどんな意味があるのか…と思いつつあれこれとレビューを書いている訳だが、どんなに言葉を尽くしたとしてもやはり聴かなければ始まらない。
もしこの文章を読んで少しでも興味を抱かれたなら、是非ともライブ会場で彼らの音楽を体験して欲しいと思う。

そこには、最高にエキサイティングな時間が待っているのだから。

虚構の劇団「ホーボーズ・ソング Hobo’s Song~スナフキンの手紙Neo~」

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2015年9月4日、東京芸術劇場シアターウエストのソワレで虚構の劇団第11回公演「ホーボーズ・ソング Hobo’s Song~スナフキンの手紙Neo~」を観た。




作・演出は鴻上尚史、美術は池田ともゆき、音楽はHIROSHI WATANABE、照明は伊賀康、音響は原田耕児、ヘアメイクは西川直子、衣裳は森川雅代、振付は関川慶一、アクションコーディネーターは藤榮史哉、映像は冨田中理、舞台監督は中西輝彦。企画・製作はサードステージ。

サブタイトル「スナフキンの手紙」は、1994年に劇団第三舞台で初演され岸田國士戯曲賞を受賞した作品で、「理想の60年代、内戦の70年代、流血の80年代、そして希望の90年代」と鴻上は書いている。




続編「ファントム・ペイン」(2001)では、「孤立の0年代」と表現し、今回は「憎悪の10年代」を描くとしている。


こんな物語である。

内戦状態に突入した日本では、正規の日本軍と新日本軍とが互いを「テロリスト」「ファシスト」と糾弾しつつ、激しい攻防を繰り返している。
そんな中、日本軍の女性兵士・水沢(森田ひかり)は記者会見で自爆攻撃によりテロリストたちに打撃を与えると宣言。マスコミの関心を一手に引きつける。彼女は、テロリストによって殺された二人の姉の無念を晴らすと悲痛に訴えたが、そんな話はすべて出鱈目で上官(三上陽永)の気を引きたいだけだった。
そんな不純な理由のため、いざ日本国中が彼女に関心を注ぎ始めると、水沢は「死にたくない…」と心情を吐露して基地から姿を消してしまう。

ところが、ニュースを聞きつけた鈴子内親王(小野川晶)が、水沢の自爆を思いとどまらせたいとお付きの女官(小沢道成)を伴って前線基地に押し掛けてくる。上官は、鈴子やマスコミへの対応で右往左往する。
一方、この基地では新日本軍の女(佃井皆美)が捕らえられていた。何とか、女から敵のアジトを聞き出そうと躍起になる日本軍。彼女の尋問を命じられた男(オレノグラフィティ:劇団鹿殺し)は、捕虜の顔を見て絶句する。女は、男の元から姿を消していた恋人だったからだ。

女はブラジルからの帰国子女で、小学校時代は日本的な人間関係に馴染むことができず、周囲のいじめに遭っていた。彼女は、個としての自分と漠然とした世間という閉鎖的単位の中で、ずっと葛藤しながら生きて来た。
男は、夢想家だった。厳しい現実が彼の目の前に立ちはだかると、いつでも自分の中の幻想あるいは妄想というユートピアの中に閉じこもることで、自分自身を守って生きて来た。
そんな二人が出逢い、恋に落ちた。しかし、内戦地域が女の故郷にまで拡大。女は、連絡の取れなくなった家族を心配して、実家に戻った。男は、平和だった頃の日本を取り戻したいという純粋な思いと、内向的な自分の殻を打ち破りたいという気持ちから、日本軍に志願した。

二人が別れてからいたずらに月日が流れ、いつしか女からの連絡も途絶えた。そして、たった今、二人は互いの敵として尋問室で再会したのだった。
女から新日本軍のアジトを白状させることは、男にとって至上命令だった。必要であれば、拷問も加えなければならない。いくら男が口で問うても、女は頑なに黙秘した。時間だけが経過し、上官の苛立ちも限界に近付いていた。
そして、男と女のやり取りを尋問室のカメラが、冷たい光を放ちながら一部始終記録していた…。

内戦の行方は?そして、二人に待ち受ける運命とは…。


非常にトピカルな作品である。言うまでもなく、現在の安倍政権下で審議されている「安全保障関連法案」の不安と混沌が物語のベースになっているのは疑いのないことだろう。そして、「スナフキンの手紙」を発表した1994年から21年が経ち、今世の中はSNSという虚実と善悪が入り乱れた巨大な言葉と感情のうねりによって、物事が動く時代を迎えている。
ヴァーチャルの世界とリアルの世界が互いを侵食し合うような時代を生きる我々の眼前にそそり立つキナ臭い現実、それをパラレルワールドの日本に置き換えて内戦の形で提示した作品と言っていいだろう。
本作を観て、ただのフィクションだからと気楽な気持ちで鑑賞できる人が果たしてどのくらいいるのだろう?

鴻上尚史が虚構の劇団を旗揚げした目的のひとつは、彼がリアルタイムで考えている時事的な題材をタイムラグなく演劇として提示出来る場所が欲しかったからだが、その意味でも今回の題材はまさに虚構の劇団の新作に相応しいものである。3年というのは、流石に間隔が開き過ぎだと思うが。

もちろん、シリアスなだけではなく、コミカルな笑いもあればダンスもふんだんに出てくる。そこは、変わらぬ鴻上演劇である。ここ数年の虚構の劇団は団員の出入りが激しくなっているように思うが、小沢道成、小野川晶、杉浦一輝、三上陽永、渡辺芳博の旗揚げ準備公演メンバーも着実に力をつけて来ている。
特に、今回の作品では三上陽永と杉浦一輝が重要な役を演じている。そして、ここ数年存在感を増している小沢道成のややエキセントリックな演技には、野田秀樹を思わせる瞬間もあった。

ただ、力作であるとは思うのだが、僕にはかなり物足りなさも残る舞台であった。
それは、オレノグラフィティと佃井皆美の物語に圧倒的な力がある半面、森田ひかり演じる水沢を取り巻く物語が軽妙なシニシズムというよりもあまりにチープなドタバタ劇にしか感じられないからだ。
そして、鈴子内親王が抱える心の闇にしても、ある種の定型的憎悪であってカリカチュア的な強度にまで達していないように思う。
つまり、かつての恋人たちの物語に他のエピソードが拮抗出来ていないのである。それ故に、舞台トータルとしての印象が散漫になってしまっているのだ。
ラストのツイストも、僕には弱いように感じた。名作『トランス』で鴻上が仕掛けたような、観客の視覚がひしゃげてしまうような設定への揺さぶりに足りないからだ。

役者について言及すると、何といっても佃井皆美の熱演が素晴らしい。彼女の強い意志を湛えた眼、ソリッドなまでにシャープな肢体、キレのいいアクションと、実に魅力的な女優だと思う。




相手役のオレノグラフィティも悪くないが、やや演技が単調に感じた。
虚構の劇団では、今回の三上陽永杉浦一輝の演技には、一皮剥けたような印象を持った。特に、三上が佃井に暴力をふるうシーンには、なかなかの見せ場である。

で、ここ数年ずっと感じているのが虚構の劇団には看板役者が不在であるという事実だ。今回も、主演二人は客演である。
やはり、劇団であるからには中心となって主役を張る役者の存在が不可欠だろう。

また、これは余談だが、冒頭に登場するビーチのシーンは、どうなのだろう?もちろん、女優陣が若々しくて魅力的なビキニ姿を披露するのは見ていて悪くないのだが、果たして彼女たちを水着にする意味がどれほどあったのか…と思わなくもない。
まあ、幻覚キノコでトリップした三上が、艶やかな姿の女優三人と絡む挑発的シーンは意味があるのだが。

本作は、今世に問うべき力作には違いない。
だが、色んな意味で足りないものが目につく作品でもあった。

タナダユキ『ロマンス』

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2015年8月29日公開、タナダユキ監督『ロマンス』



製作は間宮登良松、企画は加藤和夫、プロデューサーは佐藤現・中澤研太・坂井正徳、脚本はタナダユキ、音楽は周防義和・Jirafa、エンディングテーマは三浦透子「Romance ~さよならだけがロマンス~」、音楽プロデューサーは津島玄一、宣伝プロデューサーは丸山杏子、キャスティングディレクターは杉野剛、撮影は大塚亮、美術は仲前智治、録音は小川武、編集は宮島竜治(J.S.E.)、スクリプターは増子さおり、衣裳は宮本茉莉、助監督は松倉大夏、製作担当は鎌田賢一、ポスター撮影は川島小鳥、イラストは伊東瞳、ポスターデザインは大島依提亜。
製作プロダクションは東北新社、製作は東映ビデオ、配給・宣伝は東京テアトル。
宣伝コピーは、「サヨナラだけが人生だ。サヨナラだけがロマンスだ。」
2015年/日本/97分/5.1ch/ビスタ/カラー/デジタル


こんな物語である。

26歳の北條鉢子(大島優子)は、小田急線ロマンスカーのアテンダントをしている。鉢子は成績優秀だが、割とダメンズな彼氏の直樹(窪田正孝)とずるずる恋愛している。「電車はいい。目的地があって、そして帰ってくる場所があるから」が彼女の口癖だ。



鉢子は、今日もロマンスカーでダメダメな後輩・久保美千代(野嵜好美)のやらかしたヘマをフォローしつつ仕事にいそしんでいるが、彼女の心は乱れていた。というのも、出勤前にポストを確認すると、何年も会っていない母・頼子(西牟田恵)から手紙が届いていたからだ。



車内販売をしていた鉢子は、お客がカートからお菓子を万引きしたことに気づく。すぐに男の手をつかむが、その客・桜庭洋一(大倉孝二)は「誤解だ」とか「今、金を払うつもりだった」と見え透いた言い訳をした。
おまけに、桜庭は終点の箱根湯本駅で降りた後、逃走。足に自信のある鉢子は、再び桜庭を捕まえて駅事務室に連行した。
せっかく捕まえたというのに事は穏便に片づけられ、桜庭は無罪放免となった。このごたごたのせいで、鉢子の乗るべきロマンスカーは箱根湯本駅を出発してしまう。当の桜庭は、ずっとへらへらのらくらしている。鉢子にとっては、まったくもって面白くないことばかりだ。おまけに、悪びれもせず桜庭は鉢子に話しかけて来た。



鉢子は、駅のゴミ箱に母からの手紙を破って捨てるが、こともあろうに桜庭がその手紙を拾い出して読んだ。
手紙の内容は、また男と別れたので一番楽しかった思い出の場所を訪ねようと思うという意味深なもの。
鉢子の両親は喧嘩が絶えず、ある日父親はまだ幼い鉢子を置いて家を出て行った。離婚以来、頼子は次々と男を引っ張り込んでは関係を持った。鉢子が通っている学校の生徒の父親と不倫したこともあり、それが原因で鉢子はいじめられた。
鉢子にとって、頼子との生活にいい思い出などなかった。そんな家族だったが、一度箱根を三人で旅行した時は、普段の喧嘩が嘘のように両親は仲が良く、鉢子にとっても幸せな時間だった。
母が手紙で書いていた「思い出の場所」とは、もちろん箱根のことだろう。

手紙を読んだ桜庭は、「お母さんを探しに行こう!」と妙に熱く鉢子に迫った。まったくもって、何なのだこのおっさんは。
ウザがる鉢子のことなどお構いなしに、桜庭はレンタカーを借りると強引に鉢子を乗せた。流石の鉢子も桜庭の勢いに気圧されてしまい、一緒に母親探しをする羽目になってしまう。



鉢子の記憶を辿りつつ、桜庭の運転する車で二人は頼子が現れそうなスポットを回った。しかし、当然のことながらそう簡単に頼子と出逢える訳もない。箱根は広いのだ。
桜庭は映画プロデューサーのようだったが、彼が手がけたという映画のことなど鉢子は一本も知らなかった。どうやら、彼の作った映画はこけてばかりらしい。そのせいなのか、桜庭は女房と子供に逃げられていた。



反目し合っていた二人は、微妙な距離感と感情のまま珍道中を続けるが…。




『百万円と苦虫女』(2008)以来となる、久々のタナダユキのオリジナル脚本による新作である。
ロマンスカーのアテンダントが、怪しげな映画プロデューサーを名乗る中年のバツイチ男と箱根の景勝地を一日で回りながら、当て所なく母親を探す…という、言ってみればただそれだけのアンチドラマチックな小品である。
物語の大半は、大島優子と大蔵孝二の会話劇のような印象を受ける。ドラマ展開もある種の定型だし、驚くようなツイストもないままに淡々と物語は進んで行く。

正直に言えば、鉢子の母である頼子、同僚の久保ちゃん、恋人の直樹、あるいは桜庭と、揃いも揃ってダメ人間ばかりが登場するのだが、そのダメっぷりもいってしまえば類型的である。
そもそも、恋人の直樹など必要のないキャラクターだし、鉢子と桜庭の出逢いももう少し何とかならなかったのか…と思う。
ただ、それでも僕はこの映画を最後まで飽きることなく観てしまった。というよりも、観終わってみれば悪くない作品だと思う。僕は、結構こういう映画が好きである。

先ずはヒロインの大島優子がハマり役だし、彼女のキュートな魅力がよく出ていると思う。そして、相手役の大倉孝二は流石の演技巧者である。大島との丁々発止のやり取りが、本作における映画的リズムを作り出していて心地よい。
何といっても、こういうミニマムな作品は役者の魅力とリズムがすべてである。

で、この作品を見て、僕は「う~む、さすがタナダユキ!」と唸ってしまうシーンが二つあった。

本作の展開として、大方の人が予想(あるいは期待)するように鉢子と桜庭はラブホテルで一泊することになる。
で、これまた大方の人が予想して(あるいは諦めて)いるように、二人は未遂で終わる訳だが、その映画的なかわしかたがなかなかに秀逸だった。
「弱っている女を抱こうとするこの男は最低だ。でも、その男に抱かれている私も最低だ」と思いながら、求めて来る桜庭を拒むことなく自虐的に押し倒されてしまう鉢子という展開は、なかなかできないと思う。どうしたって、一度は拒むというリアクションにしがちだろう。
こういう、ある種のクールネスにこそ今のリアルな女性を感じたりする訳だ。

もう一つは、事が未遂に終わった後、桜庭が自分の身の上話をするのだが、話し終わって振り向いてみれば鉢子は眠りに落ちている。
そこまで観ればそれこそ定型的な展開なのだが、その後桜庭が自分の上着を鉢子に掛けて寝ると、鉢子は薄目を開ける。寝ていなかった訳だ。ここでも、正直「やられた」と嬉しくなってしまった。
この二つのシーンだけでも、僕としては観る価値大であった。

まあ、流石にラストのシーンはいささか蛇足だと思ったけど。

本作は、小さな作品ではあるけれど、お勧めしたい現代の良心的な女性映画である。
タナダ監督には、是非またオリジナル脚本で撮って欲しいと思う。

余談ではあるが、ロマンスカーの乗客として杉作J太郎が、派出所のお巡りさんとして松浦祐也がチラッと登場する。

降旗康男『非行少女ヨーコ』

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1966年3月19日公開、降旗康男監督『非行少女ヨーコ』





企画は栗山富郎・加茂秀男・吉田達、脚本は神波史男・小野竜之助、撮影は仲沢半次郎、美術は中村修一郎、音楽は八木正生、照明は銀屋謙蔵、編集は祖田富美夫、録音は加瀬寿士、スチールは加藤光男。製作・配給は東映。
本作は、降旗康男第一回監督作品であり、谷隼人のデビュー作でもある。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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田舎での生活に辟易したハイ・ティーンのヨーコは、家出。とりあえず、彼女は同郷のタケシ(荒木一郎)を頼って彼が働く新宿の中華料理屋に押し掛けた。タケシは、驚きながらもオーナーに頼んでヨーコを住み込みのウェイトレスとして雇ってもらった。
しかし、やる気もなく尖っているヨーコは、店での態度も生意気そのものでトラブルを起こす。その夜、ヨーコが寮で寝ていると、タケシが忍び込んで来て彼女を犯そうとした。ヨーコは、田舎で複数の男からレイプされたことがあり、そのことをタケシも知っていた。激しく抵抗するヨーコの首をタケシが絞めると、騒ぎに気づいた同僚たちが部屋に飛び込んで来て、タケシを叩き出した。ヨーコは、すべてにうんざりして寮から出て行った。

朝方の新宿をヨーコが歩いていると、一台の車が停まり運転していた裕福そうな男が声を掛けて来た。デザイナーの浅井(岡田英次)で、彼はヨーコを車に乗せると自分の住む高級マンションに連れて行った。
浅井はヨーコにモデルのようなメイクを施させて、如何にも高級そうなナイトクラブに連れて行った。いい気分でヨーコは浅井とマンションに戻ったが、浅井は先ほどまでの紳士然とした雰囲気から一変、ヨーコのことを暴力的に押し倒した。これが、この男の本性だった。
翌朝、浅井のマンションを愛人の一人が訪ねて来る。高慢ちきそうな女の態度にも腹を立てたヨーコは、女を突き飛ばすように部屋から出て行った。



またしても新宿の町を彷徨っていたヨーコは、一人の女に声を掛けられた。トルコ嬢のハミル(城野ゆき)だった。ハミルは、遊び慣れた風のクールな女性で二人は意気投合する。ハミルは、行きつけの喫茶店にヨーコを連れて行った。マスターの矢吹(大坂志郎)は気のいい中年男で、仲間のナロン(石橋蓮司)はナヨナヨした美容師見習。
ハミルは仕事があるからと店から出て行き、ナロンは仲間のたまり場であるジャズ・バーにヨーコを連れて行った。



ジャズのビートが響く店内では、紫煙と音楽に合わせて踊るお客の熱気が充満していた。ナロンは、ヨーコに仲間たちを紹介してくれた。モデルのアコ(大原麗子)、ハーフの自動車修理工トミイ(関本太郎)、予備校生のジロー(谷隼人)。
彼らは、睡眠薬の錠剤を貪りラリッた状態で愉快そうに笑い、踊った。ヨーコもナロンから渡された睡眠薬を飲み込むとよろめきながら踊り狂っていたが、いつしか彼女の意識は激しい睡魔に飲み込まれて行った。







翌朝、ヨーコはアパートの一室で目を覚ました。部屋は絵の具で散らかり、壁には何枚かの油絵が立てかけてあった。隣には、ジローがいた。ここは、彼の部屋だった。
ジローは、大阪の裕福な家の一人息子で、親の意向で東京の予備校に通っているが本当は絵描きになりたいのだという。
ジローはヨーコに惹かれておりヨーコもまんざらではなかったが、如何せんジローはナイーブで奥手に過ぎた。そんな煮え切らない態度に、ヨーコは苛立った。
二人は、町に映画を観に行った。バカンスの恋に身を焦がす洋画で、劇中に登場するサントロペの海岸の光景にヨーコは心が沸き立った。

職のないヨーコに、ハミルは名曲喫茶らんぶるのウェイトレスの仕事を紹介してやるが、相変わらずの態度ゆえ彼女はあっさり不採用になった。
くさくさして歩いていたヨーコに、声を掛けて来る男(東野孝彦=英心)がいた。沖縄生まれの四回戦ボクサーで、彼は出身地からオキと呼ばれていた。ヨーコは、オキをたまり場のジャズ・バーに連れて行き、仲間に紹介した。
オキは気立てのいい男で、皆に気に入られた。ヨーコ達はオキの試合を観に行くが、彼は負けてしまう。オキは、再び練習に打ち込むためヨーコ達のところに顔を出さなくなった。

ハミルは、店の常連客にプロポーズされて結婚することになっていたが、実は男には家庭があった。ハミルは、ショックから睡眠薬自殺してしまう。冷たくなったハミルの亡骸を前にしたヨーコは、自分は世の中に負けないと息巻くのだった。
ヨーコとジローの関係は相変わらず煮え切らぬままだったが、ジローは親から呼び出されて実家に帰ることになってしまう。その前日にようやく二人は結ばれるものの、翌朝にはヨーコに見送られてジローは東京を後にした。
色んなことが上手く回らなくなり、ヨーコはますます苛ついて行った。



ある時、いつもの店に現代画家の絵画が飾られており、その絵で賞を取った画家の中田(戸浦六宏)が仲間の詩人・井村(寺山修司)を相手に得意げに話していた。そのスカした態度に腹を立てたヨーコは、仲間がとめるのも聞かず絵画を切り裂き暴れ回った。



睡眠薬服用での乱痴気騒ぎで、ヨーコ達は全員警察に連れて行かれた。しかし、仲間たちは皆いいとこの坊っちゃん嬢ちゃんであり、家族が身元引受人となって警察から解放された。ナロンの兄(相馬剛三)がヨーコの身元引受人になってくれたおかげで、彼女も無罪放免となったが、これを機に遊び仲間たちは乱痴気騒ぎから卒業して行ってしまった。
またしても、ヨーコは一人ぼっちになってしまう。

ヨーコは、新宿の町でタケシと再会した。タケシは、ヤクザになっていた。ヨーコはタケシに頼んで浅井のことを痛めつけてもらうが、急にビビったヨーコは取り乱してしまう。ヨーコの態度がおかしいことに白けたタケシは「こっちは、スケには困らねぇんだよ」と吐き捨てて、去って行った。
ヨーコは、自分も世の中に負けたんだと塞ぎ込んで、ジローのアパートで手首を切った。



ヨーコは、病院のベッドの上で目を覚ました。傍らには、母親(中北千枝子)が心配そうにヨーコを見つめていた。田舎に帰ろうと母親が言っているところに、ジローがやって来る。彼は、父親の財布から三十万円を失敬して東京に舞い戻って来たのだ。
娘がこうなったのもあんたたちのせいだと母親はジローを責めるが、ヨーコは止めた。

ヨーコの容体も回復に向かっていた。病院の屋上で、ヨーコはジローと話していた。ヨーコは、二人でサントロペに行こうと誘った。

旅立ちの日。港に、かつての仲間たちが集まっていた。その中には、ヨーコの母親とジローの父親の姿もあった。ジローの父親(佐野周二)は、「息子のことをよろしく頼みます」とヨーコに頭を下げると、これはせんべつ代わりだと言って財布から札束を渡してくれた。

貨物船に乗り込んだヨーコとジローは、いつまでも見送る者たちに手を振るのだった。

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後に夫婦となる緑魔子と石橋蓮司が、共演した作品である。どちらかというとアクの強い役が多い石橋だから、ナロン役のキッチュさは何処となく微笑ましい。



とにかく、本作はオープニング・シークエンスのクールさが秀逸。刺激的な演奏を繰り広げるジャズメンのシルエットが映し出されるタイトルバックは、とにかくメンバーが凄い。八木正生、渡辺貞夫、日野皓正、原田政長、冨樫雅彦という日本ジャズ・シーンを牽引した俊英達である。後日、降旗は「シルエットだけじゃなければ…」と残念がっていた。


また、本作がモノクロで撮られたのは予算の関係だが、スタンダードのモノクロで美しく撮ろうという降旗の思いは「シネスコ上映が基本の劇場で、いちいち上映機のレンズを取り替えられない」と東映興行部に却下され、シネスコ・モノクロになってしまった。

監督デビュー作のほろ苦いエピソードが多い本作だが、内容の方もいささか散漫な出来。当時のフーテン的な若者群像を描いたモラトリアム青春映画で、特筆すべきトピックもないプログラム・ピクチャー然とした一本である。
見るべきものといえば、昭和41年当時の新宿の町並み、若き日の緑魔子大原麗子のコケティッシュな魅力といったところだろう。
よりマニアックなことを言えば、中華料理店の店員役として小林稔侍がチラッと顔を見せるが、彼と城野ゆきとはキケロ星人のジョーとアカネ隊員として『キャプテンウルトラ』で共演することになる。

個人的には、緑魔子の自由奔放な佇まいと素晴らしい劇番がすべてと言い切ってしまいたいような作品である。というのも、物語構成があまりに場当たり的で、ドラマとしてのテンポに乏しく、中途半端にエピソードを連ねたオムニバス的な映画という印象を受けるからだ。
これでは、いくら当時のヒップな若者風俗を描いた作品といっても、いささか問題だろう。

本作は、やや焦点の絞れていない凡庸な若者風俗映画である。
ただ、緑魔子ファンと日本のジャズ愛好家にとっては観て損のない一本だろう。

増村保造『曽根崎心中』

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1978年4月29日公開、増村保造監督『曽根崎心中』




製作は藤井浩明・木村元保・西村隆平、原作は近松門左衛門、脚本は白坂依志夫・増村保造、撮影は小林節雄、美術は間野重雄、音楽は宇崎竜童、演奏はダウンタウン・ブギウギ・バンド、照明は佐藤勝彦、録音は太田六敏・宮下光威、編集は中静達治、衣裳は万木利昭、結髪は岡本政夫、助監督は近藤明男、製作担当は本間信行、記録は村山慶子、時代考証は林美一。製作は行動社・木村プロ・ATG、配給はATG。

こんな物語である。

時は元録。大阪内本町の醤油商平野屋久右衛門(井川比佐志)の手代・徳兵衛(宇崎竜童)は、堂島新地天満屋の女郎・お初(梶芽衣子)と深い仲になっていた。お初は天満屋の人気女郎であり、一方の徳兵衛は生真面目ではあっても銭を落せる訳のない町人風情。当然のこと、天満屋の主・吉兵衛(木村元)はいい顔をしない。吉兵衛は、事あるごとに深入りせぬようお初をたしなめるが、もはや徳兵衛との逢瀬だけが生きがいのお初は聞く耳など持たない。



久右衛門は徳兵衛の伯父にあたり、彼は徳兵衛の実直さを見込んでいた。久右衛門はいずれ暖簾分けもと考えて、妻の姪・おはると祝言を挙げるよう徳兵衛に言った。
ところが、将来を誓い合ったお初がいるため、徳兵衛は主人の申し出を頑なに断った。これには、久右衛門も恩を徒で返すのかと激怒。ならば、徳兵衛の継母・お才(左幸子)に渡した支度金の銀二貫目を来月七日までに耳を揃えて返せと迫った。それができぬなら、大阪の地から出て行けと。
寝耳に水のことと驚く徳兵衛だったが、とにもかくにもお才から銀二貫目取り戻すべく郷里へと旅立った。
金にがめついお才は散々徳兵衛を親不孝者とののしったが、これで親子の縁は切ると啖呵を切って受け取った銀二貫目を投げつけた。

万事まるく収まったと胸なでおろし江戸に取って帰した徳兵衛の元に、油屋九平次(橋本功)が弱りきった顔で訪ねて来た。博打に大負けして借金を背負い、返せなければ自分の店を売らなければならなくなったから、何とか用立ててくれないかと懇願する九平次。お人好しの徳兵衛は、来月三日の朝までに必ず返せと今しがた取り戻した銀二貫目をそのまま九平次に貸してやった。
九平次は、徳兵衛の目の前で証文をしたためると、押印して差し出すのだった。
その頃、天満屋ではお初を見染めたお大尽からの見受け話が持ち上がっていた。もちろんお初は断ったが、主はこんないい話は二度とないと話しを進めるようお初に迫った。



ところが、期日を過ぎても九平次は借金を返すそぶりさえ見せない。流石に業を煮やした徳兵衛が、九平次に詰め寄る。ところが、九平次は金など借りていないとうそぶくばかりか、この証文は偽物だとのたまった。ここに押された印は先日落したもので、改印届を出している。自分が落とした印を拾得して証文をでっちあげるとは、商人の風上にも置けぬと、九平次は公衆の面前で徳兵衛のことを罵倒した。
徳兵衛は九平次に掴みかかろうとするが、九平次が連れていた町衆たちに袋叩きにあってしまう。

果たして、お初と徳兵衛の運命は…。



実際の事件に材を取った近松門左衛門の道行きものでも特に有名な「曽根崎心中」
人形浄瑠璃的なドラマツルギーをそのまま実写映画にトレースしたような演出は、まさに「ゲキ×シネ」「シネマ歌舞伎」と称したくなるような佇まいである。矢継ぎ早のテンポでエモーショナルに畳みかけてくる様は、増村保造の真骨頂だろう。
役者陣も、見得でも切るようなオーバー・アクションすれすれの芝居で、近松世話物の世界を再構築してみせる。

艶やかさと凛々しさを併せ持つ梶芽衣子のずば抜けた存在感は本作最大の見所だし、悪役を嬉々として演じる橋本功や銭ゲバ的な左幸子の外連味も捨てがたい。
お初と徳兵衛が曽根崎の森で果てるシーンこそが本作のクライマックスに違いないが、個人的にはその前の場面で独壇場の如き圧倒的な演技を見せる井川比佐志に映画的カタルシスを感じた。



で、個人的に不満だったのが、宇崎竜童の演技ということになってしまう。この役者陣の中で宇崎が健闘しているのは認めるが、映画のリズムを停滞させるような科白回しのキレの悪さがどうにも気になって仕方なかった。
相手役の梶芽衣子が鬼気迫る演技を見せているから、なおさら彼の弱さが露わになるのだ。

本作は、間違いなく梶芽衣子の代表作。
ただ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのサウンドほどには前に出て来ない宇崎竜童に、もどかしさを感じてしまう一本でもある。

細野晴臣「Boogie Woogie Holiday」@日比谷公会堂2015.9.19

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2015年9月19日、日比谷公会堂で細野晴臣ソロ・コンサート「Boogie Woogie Holiday」を観た。
日比谷公会堂はとても味わいある建物で、僕は1989年7月23日にここでELVIS COSTELLO SOLO SHOWを観ている。その時のコステロは、サポート・メンバーなしの正真正銘ソロ演奏を披露した。まあ、小道具としてフラワーロックが踊っていたけど。




細野晴臣(vo,g)、高田漣(g)、伊賀航(b)、伊東大地(ds)、野村卓史(keyb)ゲスト:斎藤圭土(p)

定刻の6時を少し過ぎると、如何にも昭和の劇場然としたノスタルジックなステージに細野さん以下、メンバーが登場。
先ずは、『HoSoNoVa』収録の「バナナ追分」から。続いては、フレディ・フェンダーの「マチルダ」とオリジナルはデイル・ホーキンスでロック好きにはC.C.R.のバージョンが有名な「スージー・Q」をブギウギというよりも郷愁を誘うカントリー・テイストなアレンジで。高田さんは曲によってエレキ・ギターとスチール・ギターを野村さんはキーボードとアコーディオンを使い分ける。伊賀さんはウッド・ベース。細野さんは、アコースティック・ギターを奏でながら味わいある歌を聴かせる。
相変わらずのとぼけたMCは、「“俺”って言うことにします。俺って、ワルだろう」とか言って話し出したんだけど、途中で飽きちゃったらしく“僕”に戻してた(笑)

このコンサートを思い立った時、細野さんの中ではブギウギな気分だったそうだけど、先月の松本隆「風街レジエンド 2015」に参加したら、気分が歌謡曲に変化したそうだ。
そんな訳で、裕木奈江のアルバム『旬』(1993)のために提供した「いたずらがき」と森進一のシングル「紐育物語」(1983)のB面「ルーム・キー」をテックス・メックス風のリラックスしたアレンジで。ちなみに、「紐育物語」も細野さんの曲で、その前にリリースされた森進一のシングルは大滝詠一のペンになる大ヒット曲「冬のリヴィエラ」である。

ここから再びブギウギな方向に戻って、クラレンス・ヘンリーで有名な「エイント・ガット・ノー・ホーム」をザディコ風に演奏した後、NHK Eテレで放送のアニメ番組『おまかせ!みらくるキャット団』オープニング曲として書かれた中川翔子とのユニット「しょこたん♡はるおみ」の「Neko Boogie」
続いて、ある大物歌手に書いたけどいまだレコーディングが実現していない未発表曲「寝ても覚めてもブギウギ」。そのうち発表されるらしい(笑)
そして、日本のロック史に残る名作アルバム『泰安洋行』から「Pom Pom蒸気」を軽妙な演奏でキュートに聴かせた。

その後、2曲の有名曲をポルカとカントリー風に演奏した後、この日のスペシャル・ゲストとしてブギウギ・ピアニストの斎藤圭土がステージに呼ばれる。先ずは、彼のソロ・ピアノで圧倒的なブギウギ・ピアノの演奏を聴かせた後、バンドと一緒に『Heavenly Music』にも収録されている有名曲「カウ・カウ・ブギ」を。
細野さんの人柄と朴訥な歌声で、会場には終始リラックスした気持ちのいい空気が漂う。リトル・リチャードもルイ・ジョーダンもノスタルジックなカントリー風の軽やかな音楽に料理されている。

ここでまた、細野さんオリジナルの「スポーツマン」「ボディ・スナッチャーズ」。前者は高橋幸宏との\ENレーベルから発表された『フィルハーモニー』(1982)、後者はテイチクのNon Standardレーベルから発表された『S-F-X』(1984)に収録された楽曲で、元来は完全なテクノ仕様である。
それを他の演奏同様、カントリー・アレンジで聴かせたのだが、まったくもって違和感なし。細野さん曰く「テクノやってても、如何に僕がカントリー好きだったかって言うね…」とのことである。

この日最後の曲、『Heavenly Music』に収録されたエラ・メエ・モーズの「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」を飄々と聴かせると、メンバーは一度ステージから降りた。

幾分まったりした会場のあちこちからアンコールを求めて拍手が起こり始め、その音がピークに達すると再び細野さん達が登場。
アンコールに選ばれたのは、F.O.E.名義で発表されたジェームズ・ブラウンのカバー「セックス・マシーン」と再び『泰安洋行』から「スターダスト」でお馴染みホーギー・カーマイケルの「香港ブルース」



平成27年の日比谷で行われているとは思えないほど昭和レトロスペクティヴな佇まいのコンサートは、これにて終演となった。
細野さんといえば、いつも音楽シーンの最先端を切り開いて来たミュージシャンというイメージがあるけど、2005年の東京シャイネス以降、いい意味でリラックスした自由で風通しのいい音楽活動をしていると思う。

個人的には、もう少し細野さんのかつての名曲を聴きたかったなぁ…という思いはあるにせよ、今の時代にブギウギを演る人なんてそうそういないし、心の凝りをほぐしてくれるという意味では、真のヒーリング・ミュージックに酔いしれた一夜だった。
それにしても、この日の細野さんって何だか日本のライ・クーダーみたいだったなぁ…。




【Set List】

1 バナナ追分
2 Mathilda(Freddy Fender)
3 Susie Q(Dale Hawkins)
4 いたずらがき
5 ルーム・キー
6 Ain’t Got No Home(Clarence Henry)
7 Neko Boogie
8 寝ても覚めてもブギウギ(未発表曲)
9 Pom Pom蒸気
10 Beat Me Daddy , Eight to the Bar
11 Down The Road A Piece(Amos Milburn)
12 斎藤圭土 Piano solo
13 Cow Cow Boogie with斎藤圭土
14 Tutti Frutti
15 Ain’t Nobody Here But Us Chickens(Louis Jordan)
16 Sports Men
17 Body Snatchers
18 The House Of Blue Lights(Ella Mae Morse)

-encole-
1 Sex Machine
2 Hong Kong Blues

森崎東『ロケーション』

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1984年9月22日公開、森崎東監督『ロケーション』




製作は中川滋弘・赤司学文、原作は津田一郎「ザ・ロケーション」(晩声社・1980年刊)、脚本は近藤昭二・森崎東、撮影は水野征樹、音楽は佐藤允彦、美術は福留八郎、録音は武進、調音はTESS、照明は長田達也、編集は近藤光雄、助監督は須藤公三、協力はいわき市観光協会・常磐ハワイアンセンター、スチールは金子哲也。製作・配給は松竹。


こんな物語である。

ピンク映画のカメラマンをしているべーやんこと小田辺子之助(西田敏行)は、夜中に間借りしている金蔵(愛川欽也)の豆腐屋2階の部屋に帰宅する。ベーやんは、いつもの「エイトマン」を口ずさみながら、部屋にしつらえた浴槽に疲れ切った体を沈めた。布団では、妻でピンク映画女優の奈津子(大楠道代)が眠っている。
そこに、ピンク映画脚本家のコンこと紺野(柄本明)から電話がかかって来る。べーやん、奈津子、紺野の三人は、学生時代から二十年来の付き合いだ。紺野は、「なっちゃんの様子は、どうだ?」と意味深なことを尋ねた。その言葉に、べーやんが改めて奈津子を見てみると、彼女は異常に大きないびきをかいていた。ハッとするべーやん。情緒不安定な彼女は、三度目となる睡眠薬自殺を図ったのだ。
べーやんは、慌てて奈津子を抱え上げるといつもの病院に駆け込んだ。



奈津子の命に別状はないものの、困ったことに彼女主演のピンク映画が今日クランクインすることになっていた。病院に駆けつけた紺野に奈津子のことを頼むと、べーやんは集合場所の新宿西口に向かった。




すでに、監督の原(加藤武)以下、加藤組スタッフのチーフ助監督ダボ(竹中直人)、セカンド助監督タケ(アパッチけん)、スチール兼ドライバーのケンちゃん(ふとがね金太)、照明の米さん(大木正司)、撮影助手の石やん(草見潤平)、照明助手のET(パルコ)と男優の五大(河原さぶ)、高田(角野卓造)、立札(花王おさむ)は、勢揃いしていた。
べーやんは妻の事情を話して頭を下げ、とりあえず現場で何とかしようと一同はロケ地の海岸に向かう。

映画の筋書きは、自分をレイプした三人の男たちにヒロインの女が復讐するというものだったが、奈津子の代役・笛子(麻生隆子)は今更脱ぐのが嫌だとゴネ始める。そこに、何と紺野が奈津子を連れて現れる。
結局、当初の予定通り奈津子主演で撮り始めたものの、ほとんど何も口にしていない奈津子は、体調が悪くなり撮影は再びストップしてしまう。



実は、奈津子は引退を考えており、金にならないピンク映画を辞めて夫婦で「ホカホカ弁当屋」をやろうとベーやんに話していた。しかし、ベーやんにはその踏ん切りがつかない。
そこで、奈津子はことあるごとに紺野にも相談しており、ずっと彼女に想いを寄せる紺野は複雑な気持ちでこの夫婦と接していたのだった。

一度現場をばらした加藤組の面々は、次のロケ地である連れ込み宿を訪ねる。口うるさい業突張りの女主人・かつ江(乙羽信子)が目を光らせる中、当初の脚本を両親を溺死させられた娘の復讐劇に書き変えて、さらなる代役女優・ジーナ(イヴ)で撮影を続けるが、またしても女優が降板してしまう。
途方に暮れる加藤組だが、この宿に住み込みで働く無口で無愛想な若い娘・及川笑子(美保純)に目をつけ、彼女に出演を頼み込んだ。すると、笑子はそれを了承。首の皮一枚繋がった加藤組は、撮影を続行する。
ところが、今度は持病の喘息が悪化して監督の原が倒れてしまう。原は、ベーやんに撮影予算を渡すと、残り三日間で笑子を主演に映画を完成させることを託して病院に運ばれて行った。



ベーやんは、撮影中のピンク映画を完成させるべく、スタッフ・キャストと意思統一を図るが、今度は笑子がお盆の墓参りに実家・福島の常磐湯本に帰ると言い始める。
苦肉の策で、べーやんたちは湯本をロケ地に変更して映画の撮影を続行するが…。



ピンク映画のスチール・カメラマンとして40年以上のキャリアを持ち、今なお現役で活躍している津田一郎の原作を映画化した作品である。内容は、低予算で過酷なピンク映画の撮影現場をモチーフにしたコメディーチックな映画内映画的作品と言っていいだろう。



全編に漂う映画作りの猥雑なパワーと泥臭い人間模様がたまらなく魅力的な作品ではあるが、内容は単なる映画のインサイド・ストーリーとは様相を異にする。前半こそ哀愁漂うピンク映画のドタバタな現場が描かれているが、福島を舞台にロード・ムービー的な展開を見せる後半ではその佇まいが一変してしまう。
べーやんたちが撮っているピンク映画の主題が、謎に満ちた笑子の人生を映画として再構築するという試みに切り替えられ、映画はクライム・サスペンスと若干のホラー・テイストまで纏った地獄巡りの如きパラレル・ワールド的重層構造にツイストして行くのだ。

本作の撮影に当たって、森崎はピンク映画の現場に足を運んだという。その現場とは、今をときめく滝田洋二郎監督の大傑作『真昼の切り裂き魔』 (原題『街は4000分の1』)である。

ある種の屈折さえ纏ったこの映画の魅力と言えば、森崎のささやかなる人間賛歌的な力強さに加えて、役者陣の熱演に負うところも大だろう。
西田敏行、大楠道代、柄本明の三人がまずいいし、脇を固める加藤武、大木正司、乙羽信子、愛川欽也、佐藤B作、殿山泰司、初井言榮、角野卓造、アパッチけんこと中本賢、元・世良公則&ツイストのふとがね金太、等々。

これが一般映画デビュー作となる竹中直人は、同年1月に公開された滝田洋二郎監督のピンク映画『痴漢電車 下着検札』にも出演している。
また、イヴはノーパン喫茶で働いていたことを風俗情報誌に取り上げられたことで一躍有名になり、当時のエロ・アイコンとなった人である。彼女の映画デビュー作は、1984年7月27日に公開された中原俊監督の『イヴちゃんの花びら』(にっかつ)である。『ロケーション』公開の2か月前だ。

で、僕にとってこの作品の見所と言えば、何と言っても美保純の熱演ということになる。元々、まったくの素人だった彼女は、スカウトされて1981年に渡辺護監督のピンク映画『制服処女のいたみ』でデビュー。1982年の上垣保朗監督『ピンクのカーテン』(にっかつ)で人気が爆発する訳だが、本作での大楠道代との緊迫感溢れるシーンを見ていると、女優としての大化けぶりに息を飲んでしまう訳だ。
何せデビュー作の撮影では、カメラが回っているにもかかわらず、演技をやめて「監督、いいのか、これで?」と聞いちゃったような人である。ちなみに、彼女の芸名を考えたのは、デビュー作を監督した渡辺護だ。



美保純演じる笑子の捉えどころのないミステリアスな存在感は、そのまま現実と幻想の狭間をたゆたう本作の不思議な浮遊感に繋がっている。そして、「現実と幻想の狭間」とはそのままべーやんたちがこだわる映画そのものなのである。
映画は、加藤組の面々が海から上がって来る逆回転映像で終わる。そのエンディングに、「それでも、映画の現場は続いて行く」的なことまで深読みしてしまって、僕はいささかセンチメンタルな気分になってしまった。



本作は、アンチ・スタイリッシュな映画讃歌であり、それと同時に不器用な人間讃歌の如き一本。
その泥臭い力強さが、心に響く傑作である。

中川信夫『地獄』

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1960年7月30日公開、中川信夫監督『地獄』



総指揮は大蔵貢、企画は笠根壮介、脚本は中川信夫・宮川一郎、撮影は森田守、照明は石森浩、録音は中井喜八郎、美術は黒沢治安、音楽は渡邊宙明、編集は後藤敏男、助監督は土屋啓之助、製作主任は高橋松雄、監督助手は根田忠廣、撮影助手は中満勇雄、照明助手は原信明、録音助手は三宝明、撮影整備は佐藤幸助、音響効果は栗泉嘉男、美術助手は大塚実、記録は奈良井玲子、スチールは式田俊一。演技事務は今井雄幸、製作係は平木稔、製作・配給は新東宝。


こんな物語である。

仏教系大学に通う学生・清水四郎(天知茂)は、恩師である矢島教授(中村虎彦)の一人娘・幸子(三ツ矢歌子)と婚約している。四郎の人生は順風満帆のように見えたが、彼には田村(沼田曜一)という歓迎すべからざる悪友がいた。
田村は、いつでも暗く皮肉な笑いを口元に浮かべた悪魔的な男で、何処にでも姿を現す神出鬼没さで四郎につきまとった。田村は地獄耳でも持っているのか人の弱みに熟知しており、おまけに狡猾に人を堕落させる術にも長けていた。

四郎が矢島教授の家に呼ばれて、矢島夫妻(妻・芙美:宮田文子)、幸子と楽しいひと時を過ごしていると、突然田村が押しかけて家族団らんに冷や水を浴びせた。白けた雰囲気が立ち込め、四郎は矢島家を辞去した。
田村の車で四郎は下宿まで送ってもらうことになったが、その途中で酔っ払ったヤクザ・志賀恭一(泉田洋司)が道に飛び出し轢いてしまう。田村はそのまま逃走するが、四郎は自分も共犯だと自責の念にかられる。しかも、ことの一部始終を志賀の母・やす(津路清子)が目撃していた。
志賀は死んだが、やすは警察に届けず息子の情婦だった洋子(小野彰子)と共に、犯人を探し出して復讐することを心に誓う。

四郎は、幸子を伴って警察に自首する決心をした。ところが、警察へと向かうために乗ったタクシーが事故を起こし、幸子は亡くなってしまう。失意の四郎は酒で現実逃避しようといかがわしい店に出入りするようになり、そこで知り合ったホステスと深い仲になった。その女性が洋子であることを、四郎は知らない。
そんなある日、四郎の元に電報が届く。母・イト(徳大寺君枝)危篤の知らせであった。四郎は、父・剛造(林寛)が経営している養老施設「天上園」に汽車で里帰りする。剛造は業突張りの上に好色な男で、天上園に住む貧しい訳ありの老人たちは劣悪な環境で不満にまみれて生活していた。おまけに、妻が病身だというのに、剛造は妾・絹子(山下明子)まで囲っている始末だ。

そこに住み込んでいる偏屈な画家・谷口円斎(大友純)の娘・サチ子(三ツ矢歌子:二役)を見て、四郎は我が目を疑った。彼女は、幸子そっくりだったからだ。イトの容体は一進一退を繰り返していたが、四郎がこの場所にとどまっていたのは、サチ子に心惹かれたからだ。しかも、サチ子も四郎に好意を持っているようだった。
ところが、こんな田舎にまで田村が現れた。おまけに、四郎の居場所を突き止めて復讐のためにやすと洋子もこの地を訪れる。矢島夫妻まで、講演旅行の帰途にこの地に立ち寄った。

四郎の元に、手紙がもたらされた。洋子からだった。四郎は、指定された吊り橋に赴いた。河原の方では、やすが何やら液体を川に流している。すると、何匹もの魚が川面に浮き始めた。
吊り橋の上で四郎と再会した洋子は、拳銃を取り出した。二人揉み合っているうちに、洋子は橋から転落してしまう。四郎が呆然としていると、そこに薄笑いを浮かべて田村がやって来た。すべてお前のせいだと田村をなじる四郎。今度は、四郎と田村が揉み合いになり、四郎は田村まで殺めてしまう。

天上園は、創立十周年を迎えて、盛大なるパーティが開かれた。ただ、盛大なのは表向きだけで、住人たちに振る舞われたのは、あの川で獲れた川面に浮いていた小魚ばかり。こんなところでまで、剛造はケチっていたが、老人たちはこれでも尾頭付きだと言って出てきた魚を喜んで貪り食った。
招かれた主賓たちは昼間から飲んだくれていたが、恭一と洋子の復讐を果たすために天上園に忍び込んだやすは、酔客たちの毒入りの酒を振る舞った。

魚を食べた者たちは中毒症状を起こして次々に倒れ、酒を飲んだ者たちもまた仕込まれた毒で悶死してしまう。愕然とする四郎は、いつの間にか死んだはずの田村が真っ白な顔で立っていることに気づく。田村の手には拳銃が握られていた。
そこに、サチ子が飛び込んで来た。矢島夫妻が鉄道自殺を図ったというのだ。すると、田村が発砲して、その凶弾にサチ子が崩れ落ちる。四郎は田村に掴みかかるが、その背後からやすが四郎の首を絞めた。
まさに修羅場と化した部屋の中で、すべての人々が事切れて行った。



ふと気が付くと、四郎は大きな川の前に佇んでいた。それは、三途の川だった。四郎は、幸子の霊に遭遇して彼女が四郎の子を身ごもっていたこと、この子は水子として地獄に落ちていることを知らされた。
四郎は、我が子を見つけ出すべく、閻魔大王(嵐寛寿郎)が支配する八大地獄を彷徨うが、そこでは生前に見知った人々が鬼の責め苦にあえいでいた…。







新東宝夏興行の定番、怪談ものの大作で、新東宝スコープと名付けられたシネマスコープでの撮影である。オープニング・シークエンスに女性の裸体を持ってくるところに、エログロ路線で奇作を連発した大蔵貢新東宝の特徴がよく出ている。本編とは何の関係もないお色気な映像が、何とも味わい深い。
大蔵貢は新東宝社長を解任され後にピンク映画の老舗となる大蔵映画を設立するが、ある意味この作品にもその萌芽は見られる。何と言っても、大蔵映画の夏定番興行も小川欽也らが監督した怪談ものである。

中川信夫が手がけた本作は、怪談ものというより今の目で見れば新倉イワオもビックリのスペクタクル映画版「あなたの知らない世界」みたいである。
前半の不吉に暗示的で謎めいた展開にはワクワクするが、途中から物語は完全なるカオスへと落ちて行く。そして、本作の興行的呼び物と言える地獄の描写シーンでは、仏教の八大地獄だけでなく西洋思想の佇まいまで帯びたフュージョン的演出になっている。
要するに、ドラマ構造が如何にも大雑把なのだ。メフィストフェレスをイメージしたような悪魔的キャラクター・田村の存在も分かったような分からないような設定だし、幸子そっくりのサチ子も如何にも新東宝的ご都合主義である。
そんな中、生真面目に演じる天知茂と愛らしい三ツ矢歌子が印象に残る。

本作は、倒産寸前だった新東宝が残した徒花的怪作。
個人的にはピンク映画と地続きのようなエロ全開のオープニングが買いの一本だが、観る人によって色々な楽しみ方が可能なカルト作品である。

黒沢清『岸辺の旅』

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2015年10月1日公開、黒沢清監督『岸辺の旅』



製作は畠中達郎・和崎信哉・百武弘二・水口昌彦・山本浩・佐々木史朗、共同製作はCOMME DES CINEMAS、ゼネラルプロデューサーは原田知明・小西真人、エグゼクティブプロデューサーは遠藤日登思・青木竹彦、プロデューサーは松田広子・押田興将、コープロデューサーは松本整・MASA SAWADA(フランス)、原作は湯本香樹実『岸辺の旅』(文春文庫刊)、脚本は宇治田隆史・黒沢清、企画協力は文藝春秋、音楽は大友良英・江藤直子、撮影は芦澤明子(J.S.C.)、照明は永田英則・飯村浩史、V.Eは鏡原圭吾(J.S.C.)、録音は松本昇和、美術は安宅紀史、編集は今井剛、衣裳デザインは小川久美子、ヘアメイクは細川昌子、スクリプターは柳沼由加里、助監督は菊地健雄、制作担当は芳野峻大、助成は文化庁文化芸術振興費補助金。配給はショウゲート。
2015年/日仏合作/シネスコ/カラー/5.1ch/128分
本作は、第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞している。


こんな物語である。

大学病院で歯科医をしていた薮内優介(浅野忠信)が、突然失踪して三年。瑞希(深津絵里)は手を尽くして夫の行方を探したが、とうとう見つからなかった。喪失感の中で、瑞希はピアノ講師をしながら日々を過ごしていた。
そんなある日、何の前触れもなく突然優介が帰って来る。しかし、優介は開口一番「俺、死んだよ」と告げた。自分の死体は蟹が食ってしまったから、すでに跡形もないと。
半信半疑の瑞希に、優介はこの三年間で自分がお世話になった人々の元を一緒に訪ねようと提案した。



最初に訪ねたのは、新聞販売店を営む島影(小松政夫)という老人。ここで、優介はパソコンの修理をしたり、新聞配達の手伝いをしていたのだという。次に訪ねたのは、中華料理店を営む夫婦(千葉哲也、村岡希美)のところ。その店で優介は、東京で飾り職人をしていると偽って餃子作りの手伝いをしていた。
次の目的地に向かうバスの中、ひょんなことから生前の優介が同僚の松崎朋子(蒼井優)と浮気していたことで口論となる。腹を立てた瑞希は、突然バスを降りると一人東京に帰ってしまう。瑞希は、かつて優介が勤めていた大学病院を訪ねて、朋子に会ってみた。




一人自宅に戻った瑞希の目の前に再び優介が現れ、二人は旅を再開する。訪れたのは、星谷(柄本明)という農家だった。彼は息子のタカシ(赤堀雅秋)と諍いを起こし、出て行ったタカシはそのまま病死した。以来、星谷は嫁の薫(奥貫薫)と孫と暮らしているが、夫を失ってからの薫はまるで抜け殻のようだった。
ここで優介は、近くの住民を相手に塾のようなものを開き、住民たちから愛されていた。

優介との旅を続けるうち、瑞希は夫の知らなかった一面を知ることになる。そして、旅先で出逢った人々との交流の中で、彼女の中では生きている者と死んでしまった者との境界が曖昧になって行く。彼女がこの旅で出逢った人の中には、亡き父(首藤康之)もいた。
瑞希は、夫との日々にかつてない幸せを感じていたが、二人にとって永遠の別れが近づいていた…。



なかなかに充実した力作だと思う。物語もよく練られているし、ロケーション、映像、音楽も充実。そして、特筆すべきは役者陣の素晴らしい演技だろう。

個人的には、深津絵里の素晴らしさこそが本作のポイントだと思う。もちろん、映画とは様々な要素が有機的に絡んだ複合的表現であるが、ことこの作品に関しては瑞希という女性にドラマ的リアリティと説得力がなければ、単なる深みのないファンタジーに堕しかねないからだ。
深津の演技、仕草、表情のひとつひとつに、瑞希という女性が抱える途方もない喪失感、諦念、不安、幸福感、嫉妬心が見事に表現されていて、作品に深みをもたらしているのだ。
もちろん、彼女だけでなく、浅野忠信ら他の役者も見応えある演技を披露している。

この作品が興味深いのは、亡き夫との絆を妻が再発見する物語にとどまることなく、様々なる市井の人々が抱える心の闇や悔恨を描く中で、映画の観客にまで自分たちが日々抱える痛みや苦しみの感情までも想起させるところである。
そして、自分の中にそんな心の揺れを感じつつ、我々はいつしか瑞希の心情にシンクロして行くのだ。
物語としては、瑞希の目の前に死者が現れることで一見こちらの世界とあちらの世界の境界が曖昧になるようで、結果的にはかえって生と死の間に厳然たる壁が立ちはだかることに瑞希が打ちひしがれるというドラマ構造も秀逸。

ただ、本作は素晴らしい作品だと思うがやや映画的あざとさを感じてしまうのも事実である。中華料理屋の妻フジエが幼い妹と再会するエピソードにそれは顕著だが、瑞希が朋子と交わす会話にしてもいささか定型的過ぎるだろう。
それから、荘厳なクラシックを大音量で流す演出にもある種の過剰さを感じてしまう。
いささか些細なことかもしれないが、手先が思うように使えなくなって行く優介が、終盤で瑞希の服を脱がせるシーンも気になる。パンのビニールも上手く破れない人間が、服のボタンをよどみなく外すというのは不自然だろう。
また、映画にとってのひとつの見せ場である瑞希と優介のベッド・シーンにもう少し濃厚な描写があってもいいように思った。洗練されたカメラ・ワークだと思うものの、これでは少し綺麗すぎる。

いずれにしても、本作は黒沢清渾身の一本に違いない。
深津絵里の素晴らしい演技共々、観るべき作品である。

杉田成道『果し合い』

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2015年製作の杉田成道監督『果し合い』




原作は藤沢周平、脚本は小林政広、音楽は加古隆。製作はスカパー!、時代劇専門チャンネル、BSフジ。
本作は、CS放送用の「藤沢周平 新ドラマシリーズ」の一本として製作されたものである。


こんな物語である。

庄司佐之助(仲代達矢)は、兄の総兵衛が家督を継いだ禄高百石の庄司家の部屋住み。今では兄もすでに他界し、兄の家督は長男の弥兵衛(益岡徹)が継いでいる。佐之助にとっては甥である。




佐之助は、かつて兄が敷地の外れに建ててくれた離れで今も一人寝起きしており、弥兵衛の妻・多津(原田美枝子)はことの他佐之助を疎んじている。多津は、二人の息子にも離れに近づくことを禁じていた。つまるところ、佐之助は庄司家にとって厄介者同然の存在である。
そんな中、唯一佐之助の面倒をみてくれるのは長女の美也(桜庭ななみ)だ。彼女は、幼い頃から大叔父と呼んで佐之助に懐いていた。



佐之助は、若かりし頃(青年時代:進藤健太郎)に願ってもない婿の話があった。御盾町・橋川の娘で牧江(徳永えり)という名の女子だった。二人は互いに強く惹かれ合い、牧江の父も佐之助のことを気に入っていた。
ところが、祝言を直前に控えたある日、果し合いを申し込まれた佐之助は止める兄を振り切ってまで果し合いを受けてしまう。
結果、相手を討つには討ったが、佐之助も片足に折れた刀が突き刺さり障害が残ってしまう。このことで縁組は破談となり、佐之助は部屋住みの身となったのである。

弟を不憫に思った兄は、佐之助が三十になると百姓の娘・みち(松浦唯)を嫁に迎えてやった。嫁とはいえそれは床上げ、つまりは隠し妻である。二人は仲睦まじい夫婦となったが、みちが二度身籠った子供はことごとく処分された。部屋住みが子供を持つことなど許されるはずもなく、ましてや庄司家は貧しさ故これ以上の者を養うことなどできぬ相談だった。
みちは結婚十二年で早世し、以来佐之助は独り身だった。

ある日、離れを掃除していた美也は、佐之助に話があると切り出す。だが、彼女が話を始めるより先に、佐之助は縁談の話かと問うた。
大目付の黒川(矢島健一)が庄司家を訪れ、禄高四百二十石の縄手十左衛門の子息・達之助(高橋龍輝)との縁談話を持って来たことを佐之助は知っていたのだ。
美也はこの縁談を受ける気など皆無だったが、彼女の両親は玉の輿だと大乗り気だった。美也の苦しそうな表情を見て、佐之助は「嫌なものは仕方あるまい」と言った。

達之助は遊び人だというもっぱらの評判だったが、美也がこの縁談を断ろうとしていた理由は他にあった。彼女には、松崎信次郎(柳下大)という恋人がいたのだ。信次郎は学のある青年だったが、武術の方は不得手。家柄も裕福とは言い難く、おまけに次男坊であった。
とても、両親が結婚相手として信次郎を認めてくれるとは思えなかった。

今年もみちの命日が訪れた。佐之助は、美也と一緒にみちの墓参りに出かけた。みちの墓は、石が置かれただけの粗末なものだった。「大叔父のお墓は、私がちゃんとしたものを建てます」と美也は言ったが、死んでしまえば同じことだと佐之助は笑った。
みちの墓参りを済ませると、佐之助は別の墓へと向かった。美也の知らない墓だった。それは、牧江の墓だった。手を合わせた佐之助は、「同じような目には遭わすまい…」と心の中で呟いた。

家族が寝静まった夜更け、美也は家の前で信次郎と秘かに逢っていた。信次郎は、美也の縁談話を耳にしていた。相手が、縄手家であることも。二人は硬く抱き合い、唇を吸った。いざとなったら、駆け落ちするしかないという信次郎だったが、いまだ美也にはそこまでの覚悟はできていなかった。
そんな若い二人の逢瀬を、佐之助は見ていた。

美也は、佐之助に背中を押されたこともあり両親に縁談を断って欲しいと手をついた。両親の落胆は酷く、多津の怒りの矛先は佐之助へと向いた。
苦渋の思いで黒川に許しを請うた弥兵衛だったが、すでに縁談話を触れまわっていた達之助は「そうですか」と収まる訳もなく…。




小林政広が久しぶりにテレビ用に執筆した脚本(時代劇を書くのは、本作が初めてだという)であり、監督するのは「北の国から」シリーズで名高い杉田成道。そして、主演が仲代達矢とくれば、悪いはずがないだろう。




「この作品はスクリーンで見てみたい」との仲代の一言で、丸の内ピカデリー1における完成披露試写会が行われ、さらには11月7日から東銀座の東劇で一週間限定のモーニングショー上映が決定している。




仲代の言葉も納得の、誠に力強く見応えある95分の重厚な時代劇に仕上がっている。
今、時代劇を撮ることはとても容易とは言い難い状況である。それでも、良質の脚本、的確な演出、役者陣の魅力、そしてそれらを受け止める映像があれば、まだまだちゃんとした時代劇が作れることを立証した作品と言っていいだろう。
いささか卑近な例かもしれないが、いよいよ西部劇映画の衰退が叫ばれていた1985年にローレンス・カスダン監督『シルバラード』とクリント・イーストウッド監督『ペイルライダー』が作られたことで、西部劇がまだ十分に有効な娯楽コンテンツであることに誰もが気づいたように。

藤沢周平の原作は、40頁にも満たない掌編である。基本的には原作に忠実でありつつも、人物描写には定評のある小林政広がさらなるドラマ的厚みを加えた脚本に仕上げている。
小林自身がメガホンを取る場合、彼は直球勝負的な展開から少し外したホンを書く傾向があるように思うのだが、本作はあくまで人情娯楽劇としてのメインストリームな物語となっている。小林ならではのユーモアも健在だ。
今、僕が小林政広に求めているのは、まさしくこういったストーリーテリングである。こんなことを書くと、小林には苦笑されそうだが。

そのギミックを排した物語を、杉田成道は見事な手腕で、時にはストイックに、時にドラマチックにと巧みに緩急使い分けた演出で一級品の時代劇に料理してみせた。
そして、杉田×小林による物語を繊細で美しい映像と加古隆によるセンシティヴな音楽が、盛り上げる。

役者陣に目を向ければ、近年は小林政広とのタッグも目立つ御歳82歳の仲代達矢渾身の演技が圧巻だ。惚けた老武士のユーモアとペーソス、ここぞという時の眼光と動きは、まさしく日本を代表する名優の名に恥じない。
そして、仲代と共に本作の重要な役・美也を演じた桜庭ななみの健闘も光る。和服の似合う整った日本的な顔立ち、派手さこそないものの意志の強さを感じさせる美しい目で、彼女は美也という女性を見事に体現してみせる。
脇を固めるのは、小林政広演出のドラマ・リーディング『死の舞踏』 でも共演した無名塾の益岡徹、黒澤明監督『乱』以来30年ぶりの共演となった原田美枝子。また、今回は共演シーンこそないものの仲代と共に小林政広監督の『春との旅』 に出演していた徳永えり
とても魅力的なキャスティングとなっている。

ただ、本作はかなりの力作だと思うものの幾つか気になった個所もあるのでそれを挙げておく。

仲代が日常シーンを演じる時、とりわけコミカルな芝居をする場面において独特の節回しとアクセントで話すのだが、それがやや作為的に感じなくもなかった。もちろん、シリアスな場面との緩急を計算してのことなのだが。彼のこういう技巧的な節回しが効果的だったのは、前述した『死の舞踏』だろう。

加古隆は、1970年代にフリー・ジャズをやっていた頃から好きなピアニストで今回メインテーマに使われた「グリーンスリーヴス」の感傷的な旋律も趣深いのだが、音の大きさがいささかテレビ的に過ぎるのではないか。映画館のサウンド・システムで掛ける場合には、もう少し音量を絞った方がバランス的に好ましいように思う。

物語最大のピークと言える果し合いのシーンでは、映像の美しさに若干の違和感があった。特に、川面のきらめきが気になる。
ただ、このあたかもデジタル的に鮮明な映像は、驚くべきことにフィルムによるものだと言う。恐らく、物凄い光量の照明を駆使しての撮影だったのだろう。

美也の旅立ちのシーンも本作の見所の一つだが、これまでの人生をある種の達観と諦念で生き長らえて来た佐之助という男が、あの場面で落涙するものだろうか…と思わなくもない。
あと、ラストの展開は情緒的な回想シーンも多く、やや尺が長く感じてしまったのも事実である。そのあたりは、やはりテレビを念頭に置いた演出だからだろう。

幾つか不満点も述べたが、正直に告白すると僕は本作を観ていて何度も涙腺が緩んでしまった。舞台挨拶の壇上で仲代達矢が言った「年のせいか、作品が素晴らしいのか、思わず涙を流してしまいました」では、ないけれど…。

本作は、一級のキャスト・スタッフによって作られた重厚にして見応えのある時代劇の良作。
もちろん、テレビでも十分に楽しめるが、できれば劇場の大きなスクリーンで堪能して頂きたい逸品である。


なお、これは完全なる余談だが、原作付きとはいえこれだけストレートな脚本も書くのだから、小林政広には是非ともオリジナル脚本で大人の恋愛映画を撮って欲しいものである。

山田洋次『吹けば飛ぶよな男だが』

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1968年6月15日公開、山田洋次監督『吹けば飛ぶよな男だが』




製作は脇田茂、脚本は森崎東・山田洋次、撮影は高羽哲夫、美術は重田重盛、音楽は山本直純、照明は戸井田康国、編集は石井巌、録音は小尾幸魚、スチールは久保哲男。製作・配給は松竹。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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チンピラのサブこと三郎(なべ・おさみ)は、ちゃんとしたしのぎもなく子分のガス(佐藤蛾次郎)とグダグダ行動しているハンパな男。今は、兄貴分の鉄(芦屋小雁)と三人で大阪駅を張っている。家出娘をたぶらかしてブルー・フィルムに出演させ、ひと儲けする心算だ。
あれこれ三人が品定めしていると、うってつけの女が現れる。九州から家出して来た花子(緑魔子)である。彼らは、早速花子に声をかけお好み焼屋に連れて行く。適当に話を盛り上げた後、映画に出演しないかと持ちかけると、花子は何の疑念も持たずに了承する。
もちろん、ブルー・フィルムであることは伏せられたままだ。



人気ない昼間の林に、カメラを担いだ喜やん(上方柳次)の撮影隊一行は、やって来る。花子は、訳も分からぬままセーラー服を着せられ、詰襟姿の相手役・馬やん(上方柳太)に押し倒された。
泣き叫んで、激しく抵抗する花子。鉄が檄を飛ばして撮影を強行するが、見張り役のサブは花子のことが哀れになってしまい、仲間を裏切って彼女と現場から逃げ出した。



とりあえず、サブとガスは花子を連れて大阪の町をあちこちフラフラする。彼女の金で飲み食いした後、サブは九州に帰れと諭して別れた。
ところが、花子は相変わらず夜の町をふらついて帰る様子がない。そうこうしているうちに、酔ったサラリーマン(石橋エータロー)が花子に声をかけて来た。見かねたサブは、二人の間に割って入り、男を追い払った。
そのまま、サブと花子は連れ込み宿で一夜を明かした。最初こそ花子のことをからかっていたサブだったが、彼女の身の上話を聞くうちいつしか情が湧いて来てしまうのだった。



翌朝も、サブと花子はガスも交えて行動を共にする。からっけつになったサブは、遊ぶ金欲しさにまたこすっからいことを考える。美人局だ。




夜の帳が下りた裏通り。ピンク映画のポスターを眺めている気の弱そうな中年男(有島一郎)に声をかけると、サブとガスは男を花子の待つ連れ込み宿に連れて行った。男は、大学で教鞭をとる先生だった。




タイミングをはかって部屋に踏み込みサブが凄むと、最初こそ言い訳していた先生はそのうち生真面目に自己反省を始める。そればかりか、サブたちにビールまで奢るお人好しぶりに、サブは先生のことを気に入ってしまう。こっちはこっちで、とんだお人好しだ。
サブは、酔っ払った先生をお清(ミヤコ蝶々)が経営するトルコ風呂に連れて行った。お清はこの界隈では有名なやり手で、サブとは腐れ縁の仲だった。



兄貴を裏切ったサブは稼ぎぶちもままならず、結局は花子をお清の店に預けてしまう。サブを想う花子は、惚れた男を養うために慣れないトルコ風呂で健気に働き始めた。ところが、花子の行方を探していた鉄達に等々見つけ出されたサブは、それでも花子の居場所を吐かず、落し前にエンコを詰める羽目になる。
ガスのオンボロ・アパートの隣人でヤクザの不動(犬塚弘)は、痛みに大騒ぎするサブにたまりかねて自分と付き合いのあるアル中の医者(長門勇)を紹介してやった。男儀はあるが不器用な不動は、ヤクザで一旗あげるならきっちり自分のしのぎを持てとサブに説教する。
不動を兄貴と慕うようになったサブは、新たにケチな商売を思いつく。ビラをばら撒き、引っかかって来た客に女を紹介すると振れ回ったが、のこのこやって来た客(石井均)を待っていたのは何と女装したガスだった。



そんな日々の中、事件が起こる。サブは、先生の研究室で花子から妊娠したことを告げられる。自分と出逢うまで花子は男を知らなかったと思い込んでいるサブは、当然自分の子供だと喜ぶが、実はそうではなかった。花子が九州にいた時分に、関係を持った男の子だったのだ。


ならば堕ろせとサブは迫るが、それもできないという。花子は天草の出身で、土地の人間の多くがそうであるように彼女も敬虔なカトリック教徒であり、堕胎は許されぬ行為だったのだ。
サブは荒れに荒れて、先生の研究室を飛び出して行った。失意で憔悴する花子に、先生は「君を必ず守るから」と声をかけることしかできなかった。



サブの怒りは収まらず、やけくそになった彼は地回りのヤクザたちを大ゲンカした上に、そのうちの一人の尻をナイフで刺してしまう。



拘置所送りになったサブはそこで冷静さを取り戻し、面会に訪れた花子の顔を見てもう一度やり直すことを心に誓う。
ところが、花子はお腹に子供を宿したまま自責の念にかられて雨の町を彷徨い歩いた挙句、流産。通りかかった車に乗せられて病院に運ばれたが、花子はあっけなくこの世を去ってしまう。



釈放されたサブを出迎えたのは、ガス一人。花子はどうしたと聞いたサブを待っていたのは、あまりにも悲しい答えだった。
サブは、先生やお清、ガスが見守る中、棺に納められて物言わなくなった花子と対面する。便所に駆け込んだサブは、辺りかまわず大きな声を出して号泣するのだった。

サブは、花子の遺骨と彼女が肌身離さず持っていたマリア像を手に天草を訪れて、彼女の祖母に渡した。

サブは、すべてを捨てて心機一転するため海を渡ることにする。見送りにやって来たお清に、サブはひとつだけ聞いておきたいことがあった。お清は若い頃に幼いわが子を捨てている。サブは、幼い時に母親に捨てられた。その当時住んでいた場所と年齢を考えると、「もしや、自分の生みの母はお清なのでは…」という思いが、いつでもサブの心に引っかかっていたのだ。
ところが、生んだややこはすぐに死んでしまったと笑って、お清は餞別にスキンを渡した。拍子抜けしたサブは、船に乗り込むとお清とガスに手を振って別れを告げた。サブの船が小さくなり、やがて見えなくなるとお清は目頭を押さえるのだった…。



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山田洋次が、『男はつらいよ』の前年に発表した人情喜劇の良作である。
如何にも昭和然とした佇まい、弁士に扮した小沢昭一の名調子、劇中に流れる美樹克彦のヒット曲「花はおそかった」(1967)、ネオン街のきらめきと雑然とつつも生気のある町並み、カメオ出演する石橋エイタローや安田伸に至るまで、何とも良き時代の日本映画を感じさせる語り口にしみじみする。



主役のなべ・おさみのお調子者全開の軽妙な芝居や、佐藤蛾次郎、芦屋小雁も如何にものコンビネーションだし、犬塚弘も流石の存在感である。
ブルー・フィルムの撮影シーンを見ていると、渡辺護監督の名作『㊙湯の町 夜のひとで』 (1970)を思い出したりもするが、『吹けば飛ぶよな男だが』の文章でこの作品に言及する人はあまりいないのではないか。
ただ、僕は緑魔子が大好きなのだが、いささかカマトトつぽさのある花子という役は彼女には合っていないように思う。演技的にはなかなかの雰囲気なのだが、どうしても緑魔子といえば小悪魔的に奔放でキツいしたたかな女像というイメージが強いし、そういう役を演じた時の輝きが格別だからだ。

むしろ、本作で僕が惚れ惚れするのは、武骨な独身教師を演じる有島一郎の生真面目な演技と、立て板に水としか言いようのない絶妙のテンポ感で科白を畳みかけるミヤコ蝶々の名人芸的演技である。

キリシタンというエピソードや、この時期の定番ともいえるラストで海外に出て行く展開が、何とも気分である。
本当に、今となっては作り得ないようなドラマ構成だし、ある種のファンタジーにすら見えてしまうから不思議だ。

本作は、映画がリズムであることを痛感させられる一本。
昭和の日本映画に浸りたい向きには、うってつけの良品である。

千葉誠治『忍者狩り』

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2015年10月24日公開、千葉誠治監督『忍者狩り(NINJA HUNTER)




製作・脚本・編集は千葉誠治、プロデューサーは佐藤究・下角哲也、配給は松竹メディア事業部。
本作は、第48回シッチェス国際映画祭ミッドナイトエクストリーム部門正式出品作品である。


こんな物語である。

時は、天正6年。悪夢にうなされ、薄暗い洞窟の中で飛び起きる下忍の男(三元雅芸)。突然襲い掛かって来た同じ下忍(虎牙光輝)としばし死闘を繰り広げるが、途中で相手は戦いを止め「俺は、おめえの仲間だ。伊賀の下忍で幼馴染じゃねえか」と言った。



男の名はで邪鬼、自分の名前は突悪だと教えられても、男には一切の記憶がなかった。邪鬼が指し示した洞窟の入り繰り付近には、同じ伊賀の下忍40人の死体が累々と横たわっていた。彼らを殺めたのも突悪だと言うが、彼は何一つ思い出せない。
さらに、洞窟の奥には切り殺された女下忍・楓衣(黒川芽以)の亡骸があった。



突悪は、邪鬼との腹を探り合うような会話の中で、混乱した記憶が脳内でフラッシュ・バックを繰り返し、その度に新たなる記憶が断片的に呼び覚まされて行った。どうやら、突悪は、下忍たちとの戦いの中で後頭部を石で殴られ、その衝撃で一時的に記憶を失ったようだった。
すると、洞窟に不気味な出で立ちをした新たなる忍者たちが現れる。今度は、甲賀の下忍だと言う。二人は、刺客たちをことごとく殺めて行った。



邪鬼の話は、こうだった。伊賀の下忍の中に、どうやら甲賀と通じている裏切り者がいるらしい。そこで、楓衣を甲賀に送り込み、色仕掛けで伊賀に紛れ込んでいる裏切り者を探らせ、それを密書にしたためて伊賀に持ち帰るよう命令が下された。
ところが、楓衣は洞窟内で事切れ、肝心の密書もない。どうして彼女がここにいるのかも、誰の手にかかって死んだのかも判然としないし、密書は誰かが持ち去ったのか、それともそもそもなかったのかさえ闇の中だ。
その真相を知っているであろう突悪の記憶は、いまだ核心部分が蘇っていない。



その頃、この洞窟から少し離れた廃寺で仲間の下忍二人、狐野(島津健太郎)と密通(辻本一樹)が、密書の到着を待ち詫びていた。狐野は楓衣に甲賀潜入を命じた張本人で、密通は楓衣の密書を上忍に届ける命を受けていた。
腹に一物ありそうな表情を浮かべつつ泰然として構える狐野とは対照的に、業を煮やした密通は楓衣を迎えに行くと言って林の中に消える。

ここにいても埒が明かぬと、邪鬼は仲間の待つ廃寺に移動することを提案した。せめてこの女を埋葬してからという突悪の言葉を、今は戦乱の世だと言って邪鬼は一笑に付した。
二人は廃寺目指して歩き出すが、その途中で楓衣を探しに来た密通と遭遇。そこに、密通の後を追って来た狐野も合流した。
狐野は懐に手を入れると、楓衣から渡された密書を取り出した。そして、密書に記された意外な名前を口にする…。


102分間のうちの6割以上を占める古武道まで取り入れたアクション・シーンは、息することも忘れるくらいにハイ・テンションでフィジカルな映像の連続である。主演の三元雅芸は、近年活躍目覚ましいアクション俳優で、今年に入って三池崇史監督『極道大戦争』 や西村喜廣監督『虎影』 でもキレのある動きを見せている。
三元と相対する虎牙光輝や島津健太郎も、がっちりと彼のアクションを受け止めている。

ただ、本作はアクション・シーンを除くと、あまりにも問題点が山積した作品ともいえる。役者の動き以外には見るべきものが少なく、映画とりわけ忍者映画としての魅力に乏しいのだ。
物語の語り口、あるいは演出面で緻密さを欠いた個所があまりにも目につくからである。あるいは、それも千葉監督には何らかの意図あってのことかもしれないが、だとすればその意図を僕はほとんど理解できなかった。

世界三大ファンタスティック映画祭のひとつシッチェス国際映画祭に出品された本作は、ある意味逆輸入的な忍者アクション映画である。だからこそ、“NINJA HUNTER”というタイトル・クレジットも出るのだろうが、この映画を観た印象は、何だか浅草仲見世通りで売られている外国人観光客向けの「ベタな日本土産」を手にした時の感覚に近い気がするのだ。良くも、悪くも。
もちろん、そこはあくまで意識的にそう作っているのだと思うが、今忍者映画を提示する上でこういう方向性にはいささかの戸惑いがある。下忍たちのメイクにしても、バトル・シーンでの殺陣にしても、登場人物のキャラクターにしても、あまりに戦闘ゲーム的な方向に引っ張られてはいないか?
卑近な例を挙げるなら、北野武監督が『座頭市』(2003)で市を金髪にしたりタップ・ダンスを取り入れて演出的なアップデイトを施しても、なおかつ映画としては時代劇の佇まいを残していたのとは趣を異にしているように思う。

物語について考察すると、突悪が記憶を失った状態で展開するミステリアスな前半はなかなかに興味深いのだが、話が進んで行くと「待てよ…」という感じになって来る。
こういうストーリーの場合、先ずは「本当の筋書き」があって観客を幻惑するために時間を遡って色んなギミックを施すことになると思うのだが、本作にはストーリーテリングに根本的な無理があるのではないか。
一番引っかかるのは、突悪が記憶を失っていることが物語の鍵であるにもかかわらず、彼が記憶喪失になったのは伊賀の下忍との戦いで偶発的に頭を殴られたからという設定だ。ここに、狐野の作為が介在していないことが、そもそもの物語的破綻のように感じてしまう訳だ。
また、狐野が密書を用意しているところも、物語的なご都合主義に思えて仕方がないし、そもそも彼が楓衣を甲賀に潜入させるのもいささか無理があるのではないか。
突悪の記憶が錯綜することで観るものを幻惑する仕掛けに、そもそも作り手の方が混乱してしまっているような印象さえ受けた。

人物造形についても、あまりにも類型的な下忍たちの描写が気になった。それは役者陣の演技にも言えることで、あまりにも前のめりの芝居が単調である。
もったいぶったような歯切れの悪いエンディングも、僕は感心しない。カタルシスに至らないからだ。

演出について考察すると、突悪の記憶がフラッシュ・バックする度に書き換えられた戦闘シーンがリフレインされるのだが、その度に“書き換えられた記憶以外のシーン”でもライティングやアクションが微妙に変化してしまうのがどうにも気になる。その最たるものが、突悪のほふく前進シーンである。
また、突悪がフラッシュ・バックする時の映像ギミックが、長く執拗に過ぎてかえって興醒めする。
下忍たちのメイクが忍びとは思えないド派手さで、それも如何なものか。これなら、むしろ『マッドマックス』のような近未来設定にした方が据わりいいように思う。

本作は、アクションの凄まじさのみが突出したいささか問題ありの作品。
忍者映画にも関わらず、陰影に乏しいことが何より不満な一本である。
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