Quantcast
Channel: What's Entertainment ?
Viewing all 230 articles
Browse latest View live

サトウトシキ『モーニングセット、牛乳、春』

$
0
0

2013年8月17日公開、サトウトシキ監督『モーニングセット、牛乳、春』



製作は海津敏行、企画は海津、プロデューサーは西山秀明、脚本は竹浪春花、撮影は山内大堂、照明は淡路俊之、録音は光地拓郎、音楽は入江陽、キャスティングは小林良二、編集は中野貴雄、助監督は大城義弘、監督助手は森田博之・武井沙也佳、撮影助手は矢澤直子・前田大和、ヘア・メイクは渡辺涼心、メイン・ビジュアル撮影は山本一維、スチールは板倉大樹、制作進行は中根彩、制作協力はスノビッシュ・プロダクツ、宣伝協力は磯田勉・中野美智子、配給協力は渋谷プロダクション。製作・配給はスターボード。
宣伝コピーは「手を伸ばした先には冷たい君 隠された過去は、むせかえるほどに切なかった」
2013/日本/カラー86分


こんな物語である。

妻(入江麻友子)と二人暮らしの佐々木一郎(平田満)は、部長職にある平凡な中年男だ。これといった趣味も野心も持ち合わせない一郎は、自宅を出て、喫茶店でモーニングセットを食べ、コンビニに寄って牛乳を買い、会社に出勤するだけの淡々とした毎日を送っている。
そんなある日、一郎は幼馴染だった岡部(伊藤猛)が心臓発作で急逝したことを知る。死ぬ前日に岡部は一郎の電話に留守電を残していたが、妻がそのことに気づいて一郎に教えたのは岡部が亡くなった後だった。吹き込まれた内容を聞いた一郎は、激しく動揺する。



岡部の家を訪ねると、出迎えた彼の妻(石井明日香)は予想外に若く一郎は戸惑った。冷たくなった岡部の無精髭を剃っていると、一郎は47年前の記憶が鮮明に蘇って来た。妻が席を外すと、一郎は岡部の頬を何度も叩いた。「いつも、お前は欲しいものを独り占めにして、逝ってしまった」と思いながら。
岡部は、歳の離れた妻と小さな居酒屋をやっていたようだった。色々と生活に問題があったこの女を、岡部は自分の初恋の相手に似ていると言って口説き、二人は結ばれたのだった。



少年時代、一郎と岡部は近所に住む女子高生のサチ(桐嶋あおい)に恋していた。しかし、当時の彼らは、憎まれ口を叩いて彼女のスカートをめくることくらいしかできない。そもそも、自分たちが抱く感情の意味すら、二人には咀嚼できていないのだから。三人で河原に行って水切りをやっていた時、服の袖口から覗いたサチの腋毛を見て一郎は妙な気持ちになる。彼の視線に気づいたサチは、慌てて袖口を押さえた。



そのサチは、突然亡くなってしまった。当時の一郎は彼女の死因を知らなかったが、岡部が吹き込んだ留守電で事の真相を知った。彼女は、薄汚い浮浪者風の男(川瀬陽太)にレイプされて、自ら命を絶ったのだった。
封印していた過去の記憶が突然蘇ってきたことで、平凡だった一郎の日常が軋み始める。



一郎は、今は岡部の妻が一人で切り盛りしている居酒屋に足を運んでみた。その日、店は営業していないようだったが、鍵は閉まっていなかった。一郎が中に入ってみると、岡部の妻が酔い潰れて倒れていた。
仕方なく、一郎は彼女を背負って家まで送って行ったが、そこで二人は関係を持ってしまう。一郎は彼女の腋毛を見ると、突き動かされるように痛がる彼女を無視してその毛を剃った。

一郎は、酷い風邪をひいた。しかし、どうしても外せない会議があり、無理を押して出社した。無事に会議はこなしたものの、帰り道で一郎は倒れてしまう。いつもこの辺りでティッシュ配りをしている春(水本佳奈子)は、驚いて一郎の元に駆け寄る。以前、彼女がティッシュをばら撒いてしまった時、通りかかった一郎がそれを拾ってやったことがあった。




一郎が意識を取り戻すと、目の前には心配そうに見つめる春の顔があった。彼女の話では、小一時間くらい倒れていたらしい。びっくりした春は、救急車を呼んだと言った。ところが、いざサイレンの音が近づいて来ると、二人はその場から逃げ出してしまう。

ファミリー・レストランにやって来た二人。風俗のティッシュ配りをしていたことから、一郎はてっきり春もその手のバイトをしていると思い込むが、春には「若い子は、みんな援助交際してるとでも思ってます?」と切り返される。
引っ込みがつかなくなった一郎は、話の流れから「それとも、君には出来るのかな?私みたいな老いぼれとキスやセックスが」と詰め寄ってしまう。
一郎がそんな言葉を発したのは、過去の記憶が心にわだかまっていたからか、それとも岡部の若い妻との一件があったからか?微妙に噛み合わない会話が続いた後、二人は別れた。春は、一郎に父親を重ねているようだった。

一郎の生活はいつもの日常に戻ったが、テュッシュ配りをする春の姿を見かけることはなくなった。代わりにティッシュを配っている若い娘に一郎は尋ねてみるが、彼女は知らないとすげなく言った。

そんなある日、一郎は春と偶然再会して…。




近年のサトウトシキは、映画監督として一体どんな作品を撮りたいのだろうか?

本作は若手脚本家の竹浪春花と組んでの4作目に当たるが、このコンビでの作品はどれも物語的な世界観が希薄で、僕は観ていてフラストレーションばかりが溜まってしまう。
唯一の例外は一作目の『イチジクコバチ』 で、それは水井真希伊藤猛の二人が圧倒的な演技で物語の薄さを凌駕していたからである。
こういう言い方はいささか何なのだが、ピンク映画を撮っていた頃のサトウトシキはもっとボディ・ブロウのように衝撃ある作品を発表していたように思う。それは、彼自身の演出力もさることながら、小林政広瀬々敬久福間健二いまおかしんじといった人々が骨のある脚本を提供していたからである。彼らと比較するのは酷だが、それにしても竹浪の脚本はあまりにも弱い。
低予算なのは致し方ないが、描かれる物語自体がミニマムで空虚だし、作り方も粗雑に感じてしまう。観る者の心をつかむ力に乏しいのだ。

本作は、親友の死によって目をそむけていた47年前の思いと対峙せざるを得なくなった中年男が、若い娘との出逢いを通して混乱と再生に向かう物語…ではある。
然るに、そもそも一郎と春という二人の造形があまりにも粗雑でスカスカだと思う。先ず、少年期の一郎がサチに抱く思慕と思春期のリビドー的記号としての腋毛という部分がとってつけたようだし、一郎と岡部の妻との関係もご都合主義を優先した粗っぽいエピソードにしか見えない。
で、物語のメインである一郎と春のやり取り。極々表面的な出逢いの中で、いきなり援助交際だの自分のような中年とセックスできるかだのという短絡的な会話の数々は、強引に物語を進めるための「道具としての会話」としか映らない。
その浅薄さは、一つの佳境であるラブホテルでの一夜でピークに達する。いくらなんでも、ちょっとないよな…と思う。

また、細かい指摘になるが、部長職にある一郎の勤務する会社は明らかにアパートの一室である。一郎が所長をしている小さな事務所くらいの設定にしておかないと、どうにも無理がある。
また、くしゃみをしている一郎は花粉症にしか見えないのだが、彼が一時間も昏倒していたのなら、いくらなんでも救急車が到着するのが遅過ぎだろう。

個人的には、本作で見るべきは伊藤猛のストイックな演技とやせ衰えた肉体、そして物言わずに横たわる姿である。どうしても、その後に彼がたどった人生を重ねて胸が痛くなる。
ちなみに、ほたるは亡くなったサチの母親としてチラッと姿を見せる。また、平田満の部下役で吉岡睦雄が出演している。



本作は、エクスキューズとして物語的佇まいが添えられただけの空虚な作品である。
サトウトシキには、もう一度撮るべき物語としっかり向き合って欲しいと切に願うのだが。


荻上チキ『セックスメディアの30年史』

$
0
0

2011年5月10日にちくま新書から発行された荻上チキ著『セックスメディアの30年史―欲望の革命児たち



本書の表紙には、「エロ本、官能小説、ポルノ映画、大人のオモチャ、水商売、風俗、アダルトビデオ、風俗情報誌、風俗無料案内所、美少女ゲーム、アダルトサイト、出会い系サイトや出会い系スポット、ライブチャットなどなどなど。…セックスメディアの変化についての『証言』を残すことが、本書の第一の目的である。」と記されている。
ちなみに、著者は1981年生まれの男性評論家、編集者である。
僕は、本書で取り上げられている様々なアダルトメディアや社会事象について、年齢的にもリアルタイムで見聞きしている感じなのだが、現在34歳の著者にとってはそのほとんどが歴史的文化的考察に位置するトピックである。この人の他の著書から推察するに、社会学や情報、コミュニケーション的な題材を扱ったものが多いようである。
章ごとに取り上げられているトピックは、電話風俗・出会い系サイト・エロ雑誌・アダルト動画・大人のオモチャ性風俗である。「アダルト」というキーワードから世間一般がイメージするであろうアンダーグラウンドで胡散臭げなサムシングは皆無であり、本書の語り口はある意味社会学的かつビジネス書的なアプローチに近い。「ちくま新書」(筑摩書房)からの発行であるというのも納得である。

個人的には、掲載されているインタビューが一番興味を引いた。インタビューを受けているのは、出会い系サイトのワクワクコミュニケーション代表取締役、『オレンジ通信』元編集長、芳賀書店社長、アダルト動画紹介サイトの動画ファイルナビゲーター、アダルト総合サイトDMM担当者、株式会社典雅社長、ラブドールのオリエント工業社員である。
彼らのインタビューが面白いのは、当事者としてビジネスの成り立ちやコンセプト、あるいは経営戦略・業界動向を極めて冷静かつシリアスに語っているからである。
中でも一番読み応えがあるのは、株式会社典雅の社長・松本光一氏へのインタビューである。オナニーグッズ(オナホール)としてはつとに有名な商品TENGAを開発した松本氏は1967年生まれで、元々自動車の整備士をしていた人である。この人が物作りに賭ける情熱というのが本当に素晴らしく、冗談でも何でもなく『プロジェクトX』や『情熱大陸』等で取り上げてもらいたいような内容なのだ。それほどの志が「TENGA」という商品には込められており、感動的ですらある。

だか、インタビューの充実に比べて、各章の内容自体はいささか散漫というか焦点が絞り切れていない印象である。様々な統計データやビジネス用語等を用いての検証や言及、あるいは社会情勢への目配せに中途半端なアカデミズムが漂っているようにも思う。
もっと社会風俗や日本特有の文化論的視座があってもいいのかな…という物足りなさで、それはこれらの事象が筆者にとってあくまで研究の素材であるというところに起因しているように思う。
もちろん、題名が物語るようにこの本はあくまでもメディア論である。ただ、こと「アダルト」というジャンルを取り上げる以上は、社会事象としての側面についてもっと掘り下げてよかったのではないか?
その意味では、本としての性格こそ違うものの同じちくま新書から刊行された川本耕次著『ポルノ雑誌の昭和史』は編集当事者からの視点で書かれていて面白かった。

いずれにしても、ひとつのビジネス・モデルやスキームを知る上ではなかなか興味深い本である。

ベター・ハーフ

$
0
0

2015年4月18日のマチネに、本多劇場で『ベター・ハーフ』を観劇した。




作・演出:鴻上尚史、美術:松井るみ、音楽:河野丈洋、照明:中川隆一、音響:原田耕児、振付:川崎悦子、衣裳:森川雅代、ヘアメイク:西川直子、映像:冨田中理、演出助手:小林七緒、舞台監督:澁谷壽久、宣伝美術:kazepro、HP制作:overPlus Ltd.、運営協力:サンライズプロモーション東京(東京公演)、サンケイホールブリーゼ(大阪公演)、制作:倉田知加子・高田政士、プロデューサー:後藤隆志・関歩美、エグゼクティブプロデューサー:松浦大介、企画・製作・主催:ニッポン放送・サードステージ

「ベター・ハーフ」とは、自分が必要とする、もう一人の自分のこと。――天国でひとつだった魂は、この世に生まれる時に男性と女性に分けられて別々に生まれてくる。だから、現世で天国時代のもう片方の自分と出会うと、身も心もぴたりと相性が合うと言われる。その相方をベター・ハーフと呼ぶ。


PR会社で多忙な日々を送る諏訪祐太(風間俊介)は、仕事もルックスも冴えない独身中年の上司・沖村嘉治(片桐仁)から「これからデートして来い」とムチャ振りされる。残業があるからと祐太は断ったが、沖村は執拗に食い下がる。沖村は、この二か月間祐太になりすまして出会い系で小早川汀(中村中)とやり取りしており、ようやくデートまで漕ぎつけた。しかし、自分だと送った写真も当然祐太のもの。一方の汀は、写真を送ってくれない。
あまりにしつこく頼まれて、一回だけの約束で祐太は待ち合わせ場所へ赴く。やって来た汀は、祐太とは同世代の可愛らしい女性だったが、彼女は唐突にトランス・ジェンダーの女性をどう思うか?と聞いて来た。祐太には、訳が分からない。
結局、要領もつかめぬまま、二人の会話はチグハグに終わった。

ところが、汀として祐太に会ったのは別人だった。平澤遥香(真野恵里菜)は、芸能界を目指して事務所に所属していたが、レッスン料その他で金がかかるため、割のいいバイトであるデリヘル嬢をしている。お客との待ち合わせによく使うホテルのラウンジでピアノ演奏をしている汀と仲良くなり、遥香は汀の代役を頼まれたのだ。




汀はトランス・ジェンダーで、田舎では随分と酷いいじめを経験していた。しかも母親から性転換手術だけはやめろと懇願され、その言葉が呪縛となって今でも身体的には男性のままだった。
孤独だった汀は、心の隙間を埋めるために出会い系を使いそこで知り合ったのが沖村だったが、彼女には直接会う勇気がなかったのだ。

汀の代役として現れた遥香の写メを見ていよいよ彼女のことが好きになった沖村は、「自分の会社の先輩を紹介したいから」とあまりにも強引なメールを祐太に送らせる。これで最後だからと頼み込まれた祐太は、渋々もう一度沖村に付き合って汀と会う羽目に。すると、汀は汀で遥香を伴い待ち合わせ場所にやって来た。実は、前回会った時に祐太は汀を名乗る遥香のことが好きになっていた。
今回の風変りなダブル・デートの後で四人それぞれの正体はばれ、しかも結果的に祐太と遥香、沖村と汀が付き合うことになった。



祐太と遥香の交際は順調だったが、沖村は汀がキスまでしかさせてくれないことをもどかしく思っていた。彼女がトランス・ジェンダーだという事実を遥香から聞いている祐太は、沖村から相談されて言葉に窮する。
汀は、自分の秘密がばれないように遥香に“素股”のテクニックを教えてもらおうとするが、性転換手術をしていない汀には無理だと諭して遥香はフェラの技術を伝授する。
汀は自分のことを愛してくれる沖村に応えようと努力するのだが、かえってその行動は沖村を引かせてしまう。
その一方、なかなかデビューできない遥香は祐太に内緒でデリヘルの仕事を続けていたが、偶然にも沖村に指名されてしまう。気まずい空気の中、遥香は祐太には内緒にしてほしいと懇願した。

危ういバランスの元で続いていた二組の関係は、結局破綻してしまう。沖村は汀がトランス・ジェンダーであることを知ってしまい、祐太は遥香がデリヘル嬢をしていることを沖村から告げられたのだ。
汀はピアノを演奏していたホテルを辞め、姿を消した。祐太との同棲を解消した遥香は、事務所の方針でアイドル・グループの一員として台湾で売り出されることになった。祐太は大手のPR会社に転職し、沖村は相変わらずだった。

それから、しばらくが経った。祐太は、とあるホテルのラウンジで汀と再会した。汀は、渡航して性転換手術を受けており、心と体が一致していた。あの時終わりを告げた恋愛が、彼女の背中を押したのだった。今では、脳内に響く母親の声も随分小さくなったと汀は言った。
汀は、女になった自分の体を最初に祐太に抱いて欲しい…と言った。驚き目を丸くする祐太だったが、汀の強い意志に押されて彼女を抱いた。

祐太と汀が一緒に暮らし始めて、二年が経った。ところが、順調だった二人の仲に大きく揺らぐ事件が起こる。久しぶりに会った沖村が、祐太に遥香の現状を話したのだ。台湾デビューから一年が経過しても人気が出ず、遥香達の活動は行き詰まった。そもそもろくなプロダクションではなかったのだが、遥香は独り意地になって台湾でソロ活動を続けていた。今の彼女は、異国の地で心身ともにボロボロだった。
その彼女に救いの手を差し伸べられるのは、祐太しかいないと沖村は言った。遥香に会いに行ってくれないかと、沖村は何度も頼んだ。
汀の反対を押し切り、祐太は台湾に渡って遥香と再会した。そして、遥香は帰国した。

祐太、沖村、汀、遥香は、揃ってキャンプに出かける。けれど、すでにそれぞれの気持ちは移ろっていた。新たな場所を求めて、四人の人生はまた動き始めるが…。


とてもいい舞台である。
近年の鴻上作品について、僕はかなり不満を抱き続けていた。第三舞台の後期から彼の芝居を見始めて、KOKAMI@networkと虚構の劇団の公演はすべて観ているのだが、このところの鴻上作品にはかつてのような独創性と笑いのキレが失われつつあるように感じていたのだ。

若手を結集してオンタイムの舞台を作るべく旗揚げされた虚構の劇団は、華のある看板役者の不在、演出者と団員との世代差、そして何よりも第三舞台の影がチラついている気がしていた。初期の中心メンバーだった山﨑雄介や大久保綾乃、高橋奈津季の退団は大きな喪失だったし、それ以降は客演の役者をメインに据えざるを得なくなっていた。
また、networkの方もいささか停滞しているように思えてならなかった。
かつての鴻上作品の残像という意味では、第三舞台の封印解除&解散公演『深呼吸する惑星』を観た時に、それを強く感じた。
特に僕が気になっていたのは、鴻上演劇から笑いとスピード感が後退している印象を受けていたことだ。
若き溌剌さは失われ、かといって洗練された成熟にも至らない中途半端さが感じられて、このところの鴻上作品を観た後は、物足りなさばかりが胸に去来していた。それは、『朝陽のような夕日をつれて2014』を観ても、払拭されることはなかった。

だが、この『ベター・ハーフ』は、劇作家・鴻上尚史の良さがすべて詰まった久しぶりの傑作であった。この作品で、ここ数年のモヤモヤは解消された。
トランス・ジェンダーというギミックはあるものの、風俗嬢のバイトやSNSを使った展開も含めて、これまでに鴻上が何度も取り上げて来た素材を積み上げた、てらいがないくらいにストレートな恋愛物語である。
そもそも、汀役に中村中をキャスティングする時点で鴻上の作品に込めた思いが感じられるし、他の三人もまさしく適材適所の配役である。
今回の舞台で笑いを牽引するのは、言うまでもなく片桐仁である。片桐は、沖山が持っている冴えない中年男の哀愁と開き直ったようなコミカル・キャラとを見事に演じていた。
彼が作品のエンジンとして機能していればこそ、物語のキモである思うに任せないやるせなさや残酷さ、あるいは恋愛することの幸福感が説得力を持って舞台に立ち上がるのだ。



この作品を観た後に訪れる気持ちは、恋愛によってもたらされる切なさに限りなく近いのである。
台湾に飛んだ祐太が再会した遥香と抱き合うシーンは、本作でも出色のシーンのひとつである。そして、ビル屋上での沖村の自殺騒動の一幕こそが、本作における諧謔的な笑いとスピード感のピークである。
また、字幕を用いて「数か月後」「一年後」と時間がどんどん経過して行くのも、芝居にテンポを出していて効果的だ。

劇中、中村が何度もピアノを前にして歌うのもいいアクセントである。ラストでエモーショナルに歌われる「愛の讃歌」に、胸を熱くした人も多いことだろう。



『ベター・ハーフ』は、まさに鴻上恋愛戯曲の真骨頂と断言できる傑作。
公演はまだ続いているので、興味を持った方には是非とも観劇をお勧めしたい。

破れタイツ作品集

$
0
0

2014年4月4日に(株)アースゲートからリリースされたDVD「破れタイツ作品集」




破れタイツは、ともに1989年生まれで京都造形芸術大学映画学科監督コースに入学した西本マキと同俳優コースに入学した吐山ゆんが2010年4月に結成したガールズ監督ユニットである。二人は、脚本・編集も手がけ、女優としても作品に出演する。
なお、破れタイツは女優として2015年夏に公開が予定されている「MOOSIC LAB 2015」出品作のサーモン鮭山監督×ベッド・イン『101回目のベッド・イン』にも、キャスティングされている。




本DVD収録作品は、『じ ぞ う』『破れタイツ』『やぶカン!』『てんぐ』の4本。

『じ ぞ う』(2011) 23分 処女作




第4回したまちコメディ映画祭in台東(2011)にて、グランプリ賞・観客賞・U-25特別賞の三冠を受賞。
町中に置かれたお地蔵さんの目線で、淡々と通りかかる住人たちを観察してモノローグするオフビートな作品。独特のテンポと、やや斜に構えたシニカルな語り口、絶妙の間と軽妙なくすぐりに二人の非凡さを感じさせる小品である。お地蔵さんを日参するおばちゃんにインパクトあり。
三冠受賞も納得の良作である。

『破れタイツ』(2012) 45分 第二作




京都造形芸術大学の卒業制作として撮られた一本。瓜生山賞受賞(京都造形芸術大学は、学校法人瓜生山学園の大学である)。
破れタイツの二人が親友の高校生に扮して、グータラでなかなか男運に恵まれない日常を描いた作品。
ある意味、作品のアクセントになっているのはオカン役・松倉智子のテンポいいおばちゃんしゃべりである。不貞腐れた吐山も悪くないが、西山の演技にはやや粗さが目立つ。
物語に色々な素材を詰め込み過ぎの感があり、45分という尺がいささかだるいと思う。感傷的な仕掛けも、ちょっと描き方が中途半端ですっきりしない。もう少し、二人のダメ恋愛とダラダラした学園生活にフォーカスして描いた方が、映画としての勢いを形成できたのではないか。
あと、個所によっては音楽と科白が同じレベルで被さってしまい、何をしゃべっているのか聞きづらいところがあった。
余談ではあるが、指導として高橋伴明と林海象の名前がクレジットされている。

『やぶカン!』(2012) 19分 第三作




第5回したまちコメディ映画祭in台東(2012)にて、U-25特別賞を受賞。
前作『破れタイツ』の前半部分の内容を練り直して撮った作品。故に、起承転結(というほどの物語構成はないけど)の起承くらいでポンっと終わってしまう。作品上は、「破れタイツ+オカン=やぶカン!」とクレジットされる。
どういう経緯でこのリメイク的作品が撮られたのかは分からないが、作品としての緻密さと演出のキレは前作よりも数段上だろう。できれば、もう少し長めの尺で観たかったよな…と思う。
撮影協力クレジットに寺脇研の名前があるから、2012年に開催された「寺脇さんのゆーとーり♪上映会」との企画的な流れで製作されたのではないかと推察する。

『てんぐ』(2013) 21分 第四作




「おめん」を改題。このユニットにおける、コメディ作風にひとつの洗練がもたらされた佳作である。
天狗様のツイストがなかなかに秀逸。主人公のてんぐマニアの男の子の描き方も、やや類型的な情緒性ではあるが手堅い。しっかりした構成とドラマ的メリハリに、この二人の作家的進化を感じさせる。
浅越ゴエが友情出演している。


破れタイツの二人を知ったのは、実は今年に入ってである。前述した『101回目のベッド・イン』にこのユニットが女優として参加したことで、初めてその名前を知ったのだ。
僕は、脚本を担当した小松公典さんや監督のサーモン鮭山さんとも面識があるので、『101回目のベッド・イン』撮影時にエキストラとして参加したのだが、吐山さんも西山さんもとても魅力的で可愛い女性であった。
まあ、クリエイターの立場からすれば、自分たちのルックスについて云々されることなど大きなお世話かもしれないが、二人とも女優としても活動しているから大丈夫だよね!(笑)
本作には収録されていないが、2014年には第五作目『女子!読み切り!コミックワールド!』を完成させている。そちらも、是非観てみたいものである。

いずれにしても、これからが楽しみな若手ガールズ監督ユニットである。
さらなる躍進を期待したいと思う。

うさぎストライプ『いないかもしれない』@こまばアゴラ劇場

$
0
0
2015年5月3日と4日のソアレに、こまばアゴラ劇場にてうさぎストライプ公演『いないかもしれない』2部作、静ver.動ver.を観た。



本作は、2012年の青年団自主企画にて上演した作品を大幅に手直しした再演である。作・演出の大池容子曰く、静ver.は平田オリザの作風を真似ようとしたもの、動ver.はその名の通り動く演劇ということである。フライヤーには、「現代口語演劇のいないかもしれない静ver.」「うさぎストライプのいないかもしれない動ver.」と記されている。




作・演出は大池容子、照明は角田里枝(Paddy Field)、舞台美術は濱崎賢二(青年団)、舞台美術は宮田公一、制作は石川景子(青年団)、宣伝美術は西泰宏(うさぎストライプ)、制作・ドラマターグは金澤昭(うさぎストライプ・青年団)、美術監督は平田オリザ、技術協力は鈴木健介(アゴラ企画)、制作協力は木元太郎(アゴラ企画)、企画制作はうさぎストライプ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、主催は(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場、協力は黒猿/Paddy Field/青年団/(有)レトル/(株)アルファセレクション/20歳の国/シバイエンジン


第四小学校の同窓会が行われた。卒業生たちも今では皆社会人となり、それぞれの人生を送っている。
どう考えてもチョイス・ミスと思われる渋谷のクラブでの一次会がお開きになり、山崎友子(長野海/植田ゆう希)は一足先に二次会の会場である小さなバーに来ている。そこは、同級生だった小田島孝之(重岡獏/埜本幸良)が経営する店で、やはり卒業生の吉岡秀俊(海老根理/亀山浩史)がバイトのバーテンダーとしてカウンターに立っている。小田島が一次会に出席していたので、吉岡は一次会には参加せず店番をしていた。
ようやく姿を現したのは、小西佳奈(小瀧万梨子)。佳奈は、友子の結婚祝いにと包みを渡した。友子が開けようとすると、恥ずかしいから後で見てと佳奈。

話し始めたところで、うっかり友子がグラスを倒してしまいアルコールが佳奈のスカートを汚した。慌ててふきんを手渡す吉岡、「私、わざとじゃないから」言い訳する友子。佳奈は、トイレに行った。佳奈が席を外すと、残った二人の間には何やら微妙な空気が流れた。
そこに、店の常連客・長谷川敦子(石川彰子/北村恵)が、続いて小野島が入って来た。小野島の話では、二次会に参加すると言っていた女子がいるというのだが、彼はその女性の名前を思い出せない。他のメンバーは、もう一度戻って彼女を連れて来いと小田島に行った。渋々、もう一度店を出て行く小田島。

先ほど、友子がグラスを倒して緊張が走ったのには訳があった。四小時代の佳奈は、クラス全員からいじめられていた。彼女はいつも一人ぼっちで、誰とも話すことなくひたすら絵を描いていた。もちろん、友子も佳奈をいじめる側だった。
今の佳奈は、四小で美術と図工を教える教師になっていた。友子は看護助手をしており、先ごろ結婚したばかりだ。
吉岡に借りたジャージに履き替えて戻って来た佳奈と友子、吉岡の会話は、何処か互いを探るような感じだったが、そこに小田島が先ほど話していた女性(堀夏子/緑川史絵)を連れて戻って来る。しかし、四人は女の顔を見てもそれが誰だか思い出せない。
一方の女は、四人のことをよく覚えており、ますます彼らは彼女に名前を聞きづらくなってしまう。携帯を教え合おうと吉岡が苦し紛れに提案しても、女は持っていないとあっさりかわした。それでは今何をしているのかたずねると、女は「人を暗闇から助け出す仕事かな…」という。

女は、次々と四小時代のことを話題に出した。かつては作家志望だった吉岡が、佳奈をモデルにして書いた物語のこと、佳奈がわざと牛乳をこぼされてよくジャージを着ていたこと、等々。彼女が一言口を開く度に、店内の温度が下がって行くようだった。
しかも、女は気にするどころかどんどん話の傷口を広げていくようにさえ見えた。そればかりか、彼女は佳奈が過去の自分と向き合おうとしていないと言って、友達が開催する勉強会に顔を出してみないかと胡散臭げな話まで持ちかける始末だ。

その頃、渋谷の街では通り魔騒動が起きており、騒然としていた。どうやら死傷者まで出たらしく、おまけに火事まで起きていた。それも、四小のそばでだ。
その事件は、彼らに重苦しい過去の事件を思い出させた。彼らの在学中、学校で火事が起き、その少し前には美術の先生が教え子に手を出したことが原因で、四小の卒業生だったその子の兄が教師を刺殺して刑務所に送られたのだ。
今日の一次会で幹事を務めた一人はこの問題兄妹の真ん中の姉で、事件後に家を出て今は恋人もできてようやく安定した暮らしを送っているらしかった。
ちなみに、小田島は当時その女の子のことが好きだった。

正体も分からぬまま、この女のせいでいよいよ店内には険悪なムードが漂い出した。彼女に挑発されたかのように、友子はかつていじめっ子だった自分の行動を棚に上げる発言をして周囲を凍りつかせた挙句、さっさと帰ってしまう。
あまりにも当時のことを詳細に記憶しているこの女のことが、残された三人には不気味にさえ感じられてくる。
一体、この女は何者なのか?

そして、いじめられていた当時の記憶を蘇らされた佳奈は…。


うさぎストライプの舞台を観たのは今回が3、4回目だが、『いないかもしれない』静ver.は心の奥に封印していた暗く淀んだ記憶を暴き出されるような衝撃に満ちた作品であった。本当に、相当なインパクトである。
うさぎストライプの公演は基本的に尺一時間だが、今回の濃密にしてダークに張り詰めた物語をこの時間で描ききったことが素晴らしいと思う。というよりも、一時間で終幕したことである意味ホッとしたくらいである。それほどまでに、この演劇時間は深かったのだ。

本作について、大池は「いじめられっ子が同窓会にやって来るおはなしです。最近は、もう自分の体験や思い出に興味が無くなってきたのですが、この作品は自分のことを書いてます」「いじめられっ子だった自分も、それを演劇にする3年前の自分も、あんまり好きじゃないのですが、でも忘れられないなあという気持ちで再演してみることにしました」と書いている。
これはもう本当にどうでもいい話なのだが、実は僕も小学校時代にいじめにあったり高校時代には担任も含めてクラスのほとんどが敵…みたいなわりと困った青春時代を送って来た。まあ、今振り返ってみれば自分が異分子だったからだと思うけど、いつの時代も人々は手軽なスケープゴートを見つけ出すことで緩く連帯するみたいである。

で、大池が言っていることとはニュアンスを異にするかもしれないが、「でも忘れられないなあ」という気持ちって、本当にそうなんだよな…と思う。
こういう経験は、人の人格形成というほど大袈裟なことじゃないかもしれないが、やっぱりその後の思考回路や行動規範、あるいは判断基準のようなものに決定的な影響をもたらすからだ。いくら忘れようとしても、それは影の如くずっとついて回るものである。

とにかく、物語構成が緻密である。しかも、何かを押し付けてくることなく、登場人物たちの言動の中からドロッとしたものが湧き出てくるところがリアルかつ秀逸だ。
とりわけ、友子の保身や自己肯定を漂わす言動と人物造形は見事である。もちろん、静ver.で彼女を演じる長野海の演技力あってのことだが。
当然のことながら、本作のキーとなるのは謎の女の存在である。彼女を演じる堀夏子の捉えどころのない不気味さと確信に満ちた言説は、過去から蘇った悪意の亡霊のようである。女の口から語られるエピソードの数々は、まさに蓋をしてきた各人の心の暗部を目の前に引きずり出して白日の元に晒す呪詛のように響くのだ。
そして、かつていじめられっ子だった佳奈の表情や内面の揺れを小瀧万梨子(小瀧のみ、静動両ver.に出演)がしっかり表現しているのも素晴らしい。
結局のところ、この舞台は佳奈と友子の心の動き、謎の女のツルッとした無機質な怖さが何処まで観る者の心に揺さぶりをかけられるかが鍵となると思うのだが、その意味では演者たちは十二分に大池演出に応えていたと思う。

ただ、僕の個人的な感想を言わせて頂くと、ちょっと詰め込み過ぎかな…という思いもある。具体的に言うと、それは敦子の存在や、渋谷の事件、そして四小に災厄をもたらした兄妹のエピソードである。
もちろん、これらの素材も物語には有機的に関わって来るのだが、もう少し違ったドラマ・アプローチができなかったかと思うのだ。こういう表現はいささか何だけど、ちょっとあざとい印象を受けた。

ここまでずっと静ver.について評して来たが、動ver.についても触れたいと思う。基本的には同じ台本の上に作られた芝居だが、動ver.の演出メソッドはいわゆるうさぎストライプ的身体演劇とでも言うべきものである。僕が観た作品では、木皮成との『デジタル』と近似した構成だと思う。
印象としては、正統的なストーリーテリングの静ver.に対して、動ver.はリミックスあるいはレゲエのDUB ver.のようなリコンストラクトを施した舞台とでも言えば近いだろうか。
僕の演劇的な好みからいうと動ver.の身体性はいささか観ていてしんどいのだが、あえてこちらのヴァージョンも提示した大池の意図なり思いなりというのは分かるような気がする。
この動ver.は、静ver.で描いた演劇的世界観の解毒なのではないか…と感じるからだ。



『いないかもしれない』2部作は、大池容子の劇作が次なるステップへと進むメルマーク的な作品である。
必見の重要作だと断言する。

森川圭『メイクルーム』

$
0
0

2015年5月9日公開の森川圭監督『メイクルーム』



プロデューサーは森岡利行・中村裕美、アシスタントプロデューサーは高橋麻衣子、脚本・編集は森川圭、撮影監督は釘宮慎治、音楽はYuka(Les.R)、主題歌は「お・も・て・な・し」Les.R(Sumika & Yuka)、録音は白沢文晴、武術は加藤ちか・弓野亜希、ヘアメイクは木戸出香、助監督は井沢昌也、協力は空野雲之、撮影協力は池袋GEKIBA。企画・製作は有限会社ストレイドッグプロモーション、配給は株式会社チャンス・イン。
2014年/カラー/シネスコ/ステレオ/86分/Blu-ray上映

2010年に森川自身が演出した舞台の映画化。その舞台では、Mariko役で本作にも出演している栗林里莉が綾瀬まさみ役を演じていた。監督曰く、全員にモデルがいる思い入れの強い作品だそうである。
なお、本作はゆうばり国際ファンタスティック映画祭2015のオフシアター・コンペティション部門でグランプリを獲得した。


こんな物語である。

AVの撮影現場。ドラマ物の撮影ということで、出演女優は5人。撮影には使用しない狭い空き部屋をメイクルームにして、メイクの都築恭子(森田亜紀)は慌ただしく準備を始める。助監督・加藤(田嶋高志)の話ではメイク見習いがヘルプで来るというが、当てにならない。
スタジオのセッティングも進んでおり、とりあえず恭子は自分一人で何とかするしかないと溜息をついた。現れた女性をメイク見習いだと思い恭子は指示出しするが、彼女は出演者の一人で企画女優のシュガー(住吉真理子)だった。恭子は、平謝りして彼女のメイクを始めた。




続いて現れたのは、やたら身長が高くルックスは冴えない霧島早紀(大迫可菜実)で、彼女もメイクではなく売れない企画女優だった。セッティングが終わったと言って、監督(酒井健太郎)は恭子にプレッシャーをかけてくるが、この人手不足は如何ともしがたい。
やっと二人のメイクが終わり衣装に着替えさせると、女子高生役のシュガーの背中には一面見事な刺青が。これでは、セーラー服など無理だ。監督を呼んで、急遽二人の役を交換。出だしから、このハプニング。おまけに、主演の単体女優は彼氏バレしてマンションから出られないと連絡が入る。

マネージャー(那波隆史)に連れられてようやく現れた綾瀬まさみ(伊東紅)は、大遅刻したというのに憮然とした表情で態度も大きい。何とかなだめつつ恭子がメイクを始めると、昨夜ほとんど寝てないと言ってまさみは船を漕ぎ出す。仕方なく、彼女を寝かせたままメイクを施す恭子。
すると、今度は企画単体のMasako(栗林里莉)が入って来た。一度は引退した元単体女優で、恭子は彼女と仕事したことがあり、何となく気分が和んだ。




として、最後にやって来たのは今日がAVデビューでガチガチに緊張している女の子(川上奈々美)。同行したマネージャー(柴田明良)は、いまだ芸名が決まっていないという。




撮影はトラブル続きで押しまくり、キャストもスタッフも苛々が募っていく。ひたすら翻弄されつつ、AV女優達からは色々な話を聞かさせる恭子。




果たして、撮影は無事に終わるのか…。


森川圭は、これまでに1000本以上のAVを監督・撮影した人だそうである。その経験を生かしたリアリティ溢れる脚本で、映画はテンポよく物語を畳みかけて来る。基本的には秀逸なホンあっての作品だと思うが、そつのない演出で一切飽きさせない。
また、森川は劇団ストレイドッグと業務提携している。本作の企画・製作が有限会社ストレイドッグプロモーションであり、出演者にストレイドッグの劇団員が多いのもそのためだろう。
ちなみに、ストレイドッグに所属している出演者は、森田亜紀、住吉真理子、酒井健太郎、那波隆史、蒲公仁、佐藤仁、重松隆志、柴田明良、中原和宏である。
女優陣のうちAVからの出演は、伊東紅、栗林里莉、川上奈々美。



もちろん、ドラマ的カリカチュアも多分にあるだろうが、森田亜紀のナチュラルな演技と伊東紅栗林里莉川上奈々美のAV女優陣の説得力ある生々しさが絶妙な空気を作っていて引き込まれる。そこに絡む住吉真理子大迫可菜実もいいアンサンブルである。
これといったドラマはないが、そのドラマのなさこそが本作における映画的息遣いだろう。同じくAVの現場を扱いゆうばり国際ファンタスティック映画祭2014に出品された池島ゆたか監督『おやじ男優Z』 の過剰に情緒的なファンタジーとは対極にある作品であり、撮影現場の描写にしてもさりげないリアリティを感じさせる。まさに、とあるAV現場の裏側を追ったドキュメンタリー風なのだ。

ただ、である。

面白いし、よくできた作品だと思うのだが、正直に言って最初から最後まで映画を観ている気分にはなれなかった。最初のシーンを観た時から、「これは、舞台だよ…」と強く思ったからだ。
この作品を観た時点で、僕にはゆうばりでグランプリを獲ったという前知識しかなかった。つまり、本作が舞台の映画化であるとは知らなかったのだが、演出の仕方、カメラのアングル、空間の使い方、役者の演じ方に至るまで、とにかく舞台的な空間から逸脱しない。
ワンシチュエーション・コメディとはいえ、ワンカット長回しの例を出すまでもなくそこに映画的必然性のある演出法はいくらでもあると思うのだが、この作品には舞台をあえて映画化してまで森川が表現したかったことがどうしても伝わって来なかった。
繰り返しになるが、よくできているし悪くない作品である。だからこそ、映画的に観た時のもどかしさが払拭できなかった。
観ている最中、「あぁ、これを舞台で観てみたいなぁ…」という思いがどんどん募って行った訳だ。
実際に舞台がオリジナルだと知って、その思いはさらに強くなった。困ったものである。

本作は、良作の一本ではある。
しかし、森川監督にはもっと映画的な新作を是非撮ってもらいたいと思う。

坂本礼『乃梨子の場合』

$
0
0

2015年3月28日公開の坂本礼監督『乃梨子の場合』




企画は朝倉大介、プロデューサーは高津戸顕・森田一人・臼井一郎・朝倉庄助、脚本は尾上史高、撮影は鏡早智、録音は弥栄裕樹・清水裕紀子、楽曲提供は宇波拓、編集は蛭田智子、助監督は高杉考宏、MAはシンクワイア。製作はV☆パラダイス、インターフィルム、アイ・エム・ティ、制作は国映株式会社。
2014年/カラー/71分/デジタル/R15+


こんな物語である。

乃梨子(西山真来)の父親はアルコール中毒で、母親は男を作って家族を捨てた。家庭環境に恵まれず、彼女は少女時代に万引きで2度ほど捕まったこともある。
家族の愛情を知らぬままに育った乃梨子だが、彼女の過去を知ってもなおかつ受け入れてくれた警察官の夫・響一(川瀬陽太)と幼い一人娘を得て、今は慎ましいながらもごく平凡で幸せな暮らしを送っていた。




ところが、そんな幸せの日々は呆気なく失われる。乃梨子に一言も相談することなく、響一は一年前に警察を辞めていたのだ。しかも、夫は退職金も使い果たしており、貯金は底をついていた。
別れるつもりはなかったが、乃梨子のパート収入だけでは家族三人とてもやっていけないことも明らかだった。




途方に暮れる乃梨子に、ある時パート先のスーパーに佃煮を卸している戸高(吉岡睦雄)が声をかけてきた。どうやら気のある風の戸高は、これまでにも何度か乃梨子を誘っていた。今回の誘いを乃梨子は受けた。もちろん、戸高は大喜びだ。




初めてのデートで、乃梨子は戸高に援助交際を切りだす。一瞬言葉を失った戸高だったが、それでも乃梨子への想いは捨てがたく、彼はその申し出を受け入れた。決して、安い額とはいえない。


佃煮職人としては実直な戸高だったが、母親(伊藤清美)は一人息子がいつまでも独身でいることを心配していた。母親に紹介された見合い相手・亜紀(和田光沙)と会った戸高は、自分の趣味はセックスだと言い放つが、それなら自分とは趣味が合うと予想だにしない返事が返って来る。
戸高は、乃梨子との援交を続けながら同時に亜紀とも会うようになった。



響一は、現場作業員の仕事を見つけて働くようになったものの、生活は苦しいままだった。戸高はいよいよ乃梨子との関係にのめり込んで行ったが、亜紀は戸高と一緒に佃煮を作りたいと迫った。




一方、戸高の母親は息子の様子がおかしくなったことに不安を覚えていた。仕事も上の空だし、とにかく金遣いが荒くなったからだ。ところが、息子は「大丈夫だから…」としか言わない。

そんなある日、戸高は乃梨子から妊娠したと告げられるが…。


新生国映の新作は、ピンク映画『いくつになってもやりたい不倫』(新東宝映画)以来5年ぶりとなる坂本礼監督作品であった。ちなみに、吉岡睦雄はその前作にも出演している。
ピンク映画に端を発して、そこからポレポレ東中野のレイトショーに公開の場を移して発表される作品の多くがそうであるように、坂本久々の新作も非常にミニマルな限定的世界の中で語られる閉塞感漂う物語である。もちろん、低予算という根源的な制約があるにせよ。

ただ、この作品には諦念にも似た虚無感と何とかそこから脱出しようという生の力強さとの相克があって、何とも不思議な空気を纏っている。
閉塞感を漂わせながらも、そこに風穴を開けようともがく人々の苦悶や日常の営みが描かれているところに、本作の映画的力があるように思う。

この作品を牽引するのは、時には脆い女であり、時には悪魔的な女に変貌する乃梨子というアンビバレントな女性を熱演する西山真来の存在感である。特に、目の表情の雄弁さがとても印象に残る。
そして、物語が殺伐とした陰鬱な世界に沈み込まないのは、響一という男が後半に見せる妻への優しさと包容力のようなものを川瀬陽太が見事に演じているからだろう。



僕が本作に物足りなさを感じるのは、乃梨子に耽溺した結果身を滅ぼしてしまう戸高という男の描き方がやや中途半端に思たからである。
すべて説明的に描写する必要はないし、理屈云々以前に麻薬的に溺れてしまう人生のブラック・ホールはそこかしこに口を開けて待っているのかもしれない。ただ、ハマり込む闇の深さに比して、元来が真面目な市井の人である戸高という男の破滅への過程が淡白に過ぎるのではないか。

幾つかの物や人が失われ、あらゆる問題は棚上げにされたまま、物語は何の解決も見ぬままにあっさりと終幕する。むしろ、この先、乃梨子や響一を待っているのは、新たな闇だけかもしれない。
しかし、隣に響一の姿がなく、穏やかな日差しの中で一人ポツンとラブホテルのダブルベッドに残された乃梨子の姿には、何処か不思議な解放感が漂う。とても印象深い、いいシーンである。
このラストシーンの余韻こそが、本作の成果かもしれないな…と個人的には思う。


坂本礼久々の新作は、なかなか手応えを感じる力作である。
ただ、そろそろ “その先”の物語を観てみたいと思ってしまうのも、また事実である。

スザンネ・ビア『真夜中のゆりかご』

$
0
0

スザンネ・ビア監督『真夜中のゆりかご』(英語タイトルは『A Second Cchance』)。



脚本は、これで6作目のコンビとなるアナス・トーマス・イェンセン。
2014年/デンマーク/102分/カラー/デンマーク語、スウェーデン語/シネマスコープ/5.1ch


アンドレア(ニコライ・コスター=ワルドー)は、先輩刑事のシモン(ウルリッヒ・トムセン)とコンビを組んで犯罪を追いかける敏腕刑事。彼は、湖畔にシンプルでシックな家を構え、愛妻アナ(マリア・ボネヴィー)と生後間もない息子と幸せに暮らしている。



アンドレアとは真逆で、シモンは離婚の痛手から酒浸りになっており、アルコールが原因でしばしば問題を起こしている。



ある日、通報を受けたアンドレアがシモンと共にアパートに駆けつけると、出てきたのはかつて自分が刑務所送りにしたジャンキーのトリスタン(ニコライ・リー・コス)。乱雑に散らかった部屋の奥には、恋人のサネ(リッケ・メイ・アンデルセン)がいた。



抵抗する二人を押しのけてトイレのドアを開けたアンドレアは、糞尿にまみれて寝かされている幼児を見つけて愕然とする。明らかに、ネグレクトが見て取れたからだ。
このままでは、この子がジャンキー・カップルの手で殺されてしまうのも時間の問題のように思われ、アンドレアの胸は痛んだ。
そこでアンドレアが子供を保護しようとすると、サネは半狂乱になって息子を奪い返そうとした。



絵に描いたような幸せを感じて、日々を暮らしているアンドレアとアナ。ただ、時としてアナはエキセントリックに興奮することがあった。子供が欲しいというのは、結婚以来のアナの強い希望だったが、彼女は育児についてかなりナーヴァスになっているようにアンドレアは感じていた。
だから、というのでもないがアンドレアは夜泣きの激しい息子をあやしたり、育児に積極的だった。



悲劇は、突然訪れた。尋常ではない妻の状態に気づいて、アンドレアは起き出した。アナは、横たわった息子を前にして酷い興奮状態だった。アンドレアが息子の様子を見ると、すでに呼吸は止まっていた。彼は何度も何度も人口呼吸を試みるが、我が子は息を吹き返さない。救急車を呼べといっても、アナはフリーズしたままだ。あまりにもあっけない死だった。
ところが、アンドレアが警察に連絡を入れようとすると、アナは狂乱状態に陥って、子供を奪われるくらいなら今ここで自殺すると泣きわめいた。
困り果てたアンドレアは、とりあえず鎮静剤を水に溶かして妻に飲ませる。薬が効いて眠った妻をベッドに残し、アンドレアは息子の遺体を乗せて車のハンドルを握った。

アンドレアはシモンに電話を入れるが、シモンは酔い潰れて電話が鳴っても目を覚まさなかった。諦めて留守電にメッセージを残すと、アンドレアはトリスタンのアパートに向かった。
そして、部屋に忍び込んだアンドレアは、眠り込んでいるトリスタンとサネに気づかれることなく、二人の子供を連れ出す。トイレに、事切れた我が子の亡骸を残して…。


何が正しい行いなのか…といった固定概念に揺さぶりをかけながら、最終的にはモラリティへと帰結して行く物語である。
クライム・サスペンス的なタッチと家族の愛憎、衝撃的なツイストとラストに訪れる平穏と哀切。それを、ビアとイェンセンのコンビは美しいデンマークの水辺の情景を挿入しつつ描く。
ところどころに、登場人物も観客も容赦なく突き放す残酷なストーリーテリングを行いつつも、終始映画には女性的な冷静さとヒューマニティを感じさせるのは、この女性作家コンビの特質なのだろう。



ただなぁ…と思う。

僕は、どうしても物語前半の力技に過ぎる展開や、登場人物のステロタイプ的造型と行動原理、そしてあちこちに張られたある種あからさまな伏線ゆえに、どうにも作品に乗り切れないところがあった。
もちろん、物語の根幹をなすのはアンドレアによる幼児連れ去りといういささか荒唐無稽とも思えるギミックなのだが、その前段として実直で正義感に溢れたアンドレアの描写や、母親が赤ん坊の顔を見にも来ずにプレゼントだけ送って来るといった分かり易い物語的“振り”が散りばめられてたりする訳だ。

後半を見ればビア監督が描こうとしているテーマは明白だし、この物語を収束させるにはこの展開以外には考えられないだろう。
その畳みかける後半には流石に唸るし、感傷的になり過ぎず温かな余韻を残すラストには、誰もが救われた気持ちになることだろう。

僕が個人的に不満なのは、アンドレアやアナの人物像に深みが感じられないところである。特に、物語の鍵を握るアナという女性のエキセントリックさや心の闇、孤独と苦悩といった部分が、どうにも表層的に映るのである。
むしろ、前半では類型的に描かれながら、物語後半で俄然人物としての深みを感じさせるシモンに僕は惹かれる。部屋に散乱していたアルコール類を片づけ、一人再生に向かおうと決意するシーンは、描写が静かな分かえって胸に響く。

それから、物語の要所要所で登場する橋の佇まいがとても印象的だ。

本作は、ある種の挑発さえ感じる意欲作ではある。
だからこそ、前半の展開にもう少し他のやり方がなかったのか…と思ってしまうのだ。


城山羊の会『仲直りするために果物を』

$
0
0

2015年6月3日ソワレと7日の千穐楽、東京芸術劇場シアターウエストにて城山羊の会『仲直りするために果物を』を観た。




作・演出は山内ケンジ、舞台監督は森下紀彦・神永結花、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、照明操作は高円敦美、演出部は田中政秀、演出助手は岡部たかし、衣裳は加藤和恵・平野里子、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は平野里子・渡邉美保、制作助手は山村麻由美・美馬圭子、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。製作は城山羊の会。
提携は東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)、助成は芸術文化振興基金。
協力は吉住モータース、quinada、クリオネ、イー・コンセプト、ワタナベエンターテインメント、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン、E-Pin企画。

なお、前作『トロワグロTrois Grotesques』 第59回岸田國士戯曲賞を最年長受賞した山内ケンジにとって、本作は受賞後第一作目である。


基地がある何処かの町。朽ち果てたあばら家で、添島照男(遠藤雄弥)とユリ子(吉田彩乃)の極貧兄妹が暮らしている。母親は先月他界し、照男は失業中。家賃は、数か月滞納したままだ。
ところが、質に入れたはずの母の湯呑でユリ子は水を飲んでいる。ガスを止められているから、お茶を入れることはできない。照男がどうやって質出ししたのか尋ねると、ユリ子はその辺に生えている花を摘んで売ったのだというが、どうにも話は要領を得ない。
照男は、妹がいかがわしいことをして金を作ったのではないかと勘繰る。

そこに、大家の岡崎(岡部たかし)がやって来る。もちろん、用件は家賃の催促だ。払えないのなら出て行ってもらうと言い放つ岡崎に、何とか待ってもらえないかと懇願する二人。
押し問答がしばらく続くが、話はあらぬ方向へ。昨日、岡崎はユリ子がバス停で男から金を受け取っているところを見かけたといった。照男は、やっぱり妹は体を売っているのかと思うが、当のユリ子は人違いだと否定する。
今度はこの話題で押し問答が続いたが、岡崎の携帯が鳴って中断した。彼は、「すぐに戻って来るから、待ってなさいよ」と言ってそそくさと去って行った。
岡崎を呼び出したのは、不動産会社の社長・丸山真男(岩谷健司)。イカツイ体に見るからに短気そうな丸山は、約束の金を渡せないと知るや岡崎に殴る蹴るの暴行を加えた。
すると、そこに通りかかったのは丸山の愛人で風俗嬢のキヨミ(東加奈子)。相変わらず粗暴な丸山に辟易しつつ、キヨミはトイレに行きたいと言い始める。この辺りにはコンビニや公園といったトイレのある施設もない。丸山の取り立てから逃れたい岡崎は、すぐそこに自分が大家をしている家があるから、そこのトイレを借りればいいと提案する。

岡崎がいなくなると、ユリ子は何処かに逃げようと言い出すが、照男は「大家さんを殺すしかないか…」と極論を口にした。

丸山とキヨミを連れて、岡崎は添島家に戻った。ところが、何度呼んでも家から人が出てくる気配はない。仕方なく三人が上がり込むと、家の奥から包丁を手にした照男が出てくる。照男は、大家以外にも人がいると気づくと、慌てて包丁を後ろに隠した。
今度は、照男が岡崎のことを殺すつもりだったの、いや料理してるところだったのと押し問答が繰り返されるが、奥から出てきたユリ子は、たった今死ぬつもりだったと言って話をますますややこしくした。
だったら自分が仕事紹介しようかとキヨミは言うが、当然のこと彼女が紹介するのは“風俗っぽい”仕事だ。「エッチなことはできない」とユリ子が断ると、キヨミは顔をしかめて「ムカつく」と吐き捨て、岡崎は「そもそも、仕事選べる立場じゃないでしょう」と凄んだ。
次にキヨミは、照男にホストをやってみる気はないかと尋ねた。さっきとは打って変わった猫なで声に、丸山は「随分と親切じゃないか」と嫌味を言った。しかも、照男もまんざらではなさそうで、それを見たユリ子は一緒に死のうと兄の腕を取った。
今度は、死ぬの死なないのでユリ子と照男が押し問答を始める始末だ。

その頃、添島家の裏にある空き地では、大学で教鞭を取っている森元隆樹(松井周)と妻のミドリ(石橋けい)が、散歩がてらにまったりと時間を過ごしている。ミドリはバツイチで、前の夫とはすったもんだの末に離婚した。
前の夫との間に子供はいなかったが、彼女は隆樹とはすぐにでも子供が欲しかった。そんな妻の積極さに気圧されたのか、隆樹はのらくら逃げようとするが、その態度にミドリは不信感を募らせる。「今すぐ、ここでしよう」とミドリが着ている服に手をかけたちょうどその時、叫び声が上がる。
手には包丁を持ち血のついた服を着た照男が、家から出てきた。彼の後から出てきたユリ子は全身血まみれで、地面に崩れ落ちると動かなくなった。二人を追うように、丸山、岡崎、キヨミの三人もわらわらと出て来た。
一瞬にして現場はパニック状態に陥ったが、隆樹が携帯を取り出して救急車を呼ぼうとすると、丸山はその携帯を無理やり奪い取った。この状況で連絡されては何かと面倒だと考えた丸山は、力づくでこの場をやり過ごそうとする。

ところが、事切れたと思ったユリ子が目を開けて「先生、来てくれたんだ。嬉しい」と呟き再び目を閉じたことで、状況はさらにおかしな方向へと迷走し始める。
隆樹は今わの際の際の人違いだと逃げようとするが、岡崎はユリ子と一緒にバス停にいたのは隆樹だと言った。キヨミはキヨミで、隆樹に対して何か言いたそうな表情を浮かべた。
ミドリは怪訝そうな表情を浮かべ、照男は真相が知りたいと訴えた。丸山は丸山で、何とかこの事態をうやむやにしようと躍起だ。

一度は収束するかに見えた場は、とあるきっかけでさらなるカオスへと突き進んで行くが…。


前作『トロワグロ』でも、かなりの観客動員だった城山羊の会。岸田國士戯曲賞を受賞していよいよ注目が集まる中、発表された待望の新作である。
一体、山内ケンジはどのような劇作で来るのか…。



本作においても、山内は一切守勢に回ることなく、彼の持ち味であるブラックでシニカルな作風をさらに突き詰めたような作品をぶつけて来た。その誠実な姿勢には、ある種の感動すら覚える。

この『仲直りするために果物を』は、間違いなく賛否両論が渦巻く問題作だろう。僕は二回観たが、二日ともラスト前の暴力渦巻く苛烈な場面で席を立つ足音を背中に聞いた。
これまでも城山羊の会を観て来た人なら席を立つことなどないと思うが、岸田戯曲賞の看板に惹かれて足を運んだ向きには、目を背けたくなるような劇薬的舞台であったのだろう。
換言すれば、ノーマルで倫理的な観客の平常心を大きく揺さぶる演劇的フィクショナリズムに貫かれた、優れて非日常的な空間を現出させる舞台だということである。
日常性を歪ませるドロッとした悪意と理不尽な暴力、性的なメタファーと容赦のない残酷さ、良識への挑発こそが、山内演劇の核をなす重要なファクターであると言っていいだろう。

あばら家に住む貧乏な兄妹、家賃を催促する大家、その大家からさらに借金を取り立てる胡散臭げな不動産屋と風俗嬢の愛人、一見善良そうな教員夫婦…といった設定や舞台美術は、あたかも昭和の懐古的な佇まいのように映る。物語も、当初はまさしく昭和的に進んで行く。
ところが、ある時点から各人物の言動は高温に晒されたアスファルトのようにぐにゃりと歪み、物語は何処までも人間の不確かで底知れぬ強欲と自己保身の底なし沼に沈み込んで行く。
そして、登場人物たちの欲望赴くままの愚行や地位を守ろうと右往左往する滑稽さは、そのまま観客の心の奥に秘められた後ろ暗さに他ならないのだ。
だからこそ、我々はこの舞台から目を逸らすことができず、最後まで観届けた者はある種の清々しさにさえ到達することができるのだろう。
そう、この作品は毒を以て毒を征すが如くいささか過激な作品なのである。

暴力性がフル・スロットルになる嵐のような場面の後、累々と横たわる屍の中、物語は今一度空間を歪める。「誰が本当のことを言っていて、何が真実なのか…」という語り口で進んで来た舞台は、最後の最後で「果たして、何が現実なのか」というさらに大き揺さぶりをかけて来る。
暴力的に畳みかけるのではなく、大ラスで山内が仕掛けるのは城山羊の会の真骨頂ともいえる不条理に突き抜けるツイストである。
そこに、僕は劇作家・山内ケンジのアイデンティティと意地のようなものを感じて、心震えた。
しかも、本作の脚本は驚くほどに緻密であることも特筆に値するだろう。登場人物たちは噛み合わない会話をひたすら繰り返すのだが、互いを探り合うようなやり取りの一つ一つが、見事な伏線になっているのである。まるで、芸術的に張り巡らされた蜘蛛の巣のように。

役者陣は、誰もが素晴らしい演技を披露していた。出演する七人の誰か一人でもアンサンブルを乱せば、それで終わってしまうタイト・ロープ的な100分間である。そのプレッシャーたるや、相当なものだろう。
城山羊の会出演は『探索』 (2011)以来となる東加奈子の蓮っ葉な女もいいが、城山羊常連の岩谷健司岡部たかし石橋けいレッド・ゾーンに振り切れるような迫真の演技に目を奪われた。

僕は『メガネ夫妻のイスタンブール旅行記』 (2011)から城山羊の会を観ているのだが、ラスト前のヴァイオレンス・シーンを観ているうちに、「あぁ、城山羊の会はとうとうここまで来たんだなぁ…」と胸に込み上げるものがあった。
感傷とは真逆の物語にもかかわらず、何だか目頭が熱くなってしまった訳だ。

とにかく、山内ケンジは今最も注目すべき素晴らしい劇作家である。
一人でも多くの人に、城山羊の会の演劇を体験して欲しいと思う。

ルネ・マグリットの蒼い空

$
0
0

6月20日、「20世紀美術の巨匠、13年ぶりの大回顧展。」と銘打たれたマグリット展を見に、国立新美術館に行った。



僕は、麻布とか六本木とかいったハイ・アヴェレージの街に行くことがほとんどないから、行く度おのぼりさん状態になってしまう。前回この地を訪れたのは去年の10月14日で、同じ国立新美術館に「アメリカン・ポップ・アート展」 を見に行ったのだった。
それにしても、東京と一口に言っても街には色んな装いと価値観があるものだ。まあ、時代によって街並みもその佇まいを変貌させたりする訳で、いまや赤坂なんてパチンコ銀座みたくなっている。
いささか無粋なことを言っちゃうけど、国立新美術館の建物にしても六本木の街にしても一体どれだけのお金が動いているんだろう?…とか想像してくらくらするのは、僕が徹頭徹尾小市民だからだ。
どうでもいいけど、ヤフーの週プレNEWSに「六本木~ギロッポン」で一瞬話題になった鼠先輩の記事が掲載されていた。


ルネ・マグリットといえば、ベルギーの国民的画家でありシュルレアリスムの巨匠として20世紀を代表する芸術家というのがパブリック・イメージだろう。
今回の回顧展では、「第1章:初期作品(1920-1926)」「第2章:シュルレアリスム(1926-1930)」「第3章:最初の達成(1930-1939)」「第4章:戦時と戦後(1939-1950)」「第5章:回帰(1950-1967)」に分けて、彼の作家としての変遷を展示している。



1898年ベルギー西部のシレーヌに生まれたマグリットは、14歳の時に精神を病んでいた母親が橋から身を投げ自死したことで大きな衝撃を受ける。
その4年後、ブリュッセルの美術学校に入学。活動初期の頃、芸術界には未来派・抽象・キュビズムといった新しい潮流があり、マグリットもその影響下で様々な試みを行い、自分の方向性を模索する。
と同時に、生活のために商業デザイナーとして仕事をしたことが、彼の創作活動の血肉になって行く。当時の作品を見ると、その端正にしてグラフィカルなシンプルさがとても僕には魅力的に感じられた。

マグリットは、ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」を見て大きな感銘を受ける。幼馴染だった妻のジョルジェットと共にパリに移り、アンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちと合流して、シュルレアリスムに傾倒して行く。



3年間のパリ滞在後、マグリットはブリュッセルに戻り、以降彼はベルギーで創作活動を続けることとなった。この時期(第3章)辺りからマグリットの画家的評価は世界的にも定まって行くが、それでも画家一本では生活が厳しく彼は商業美術を手掛けていた。
マグリットという人は破天荒さとは無縁の人であったようで、その論理的で聡明な思考が彼独自の抽象性へと昇華しているところがユニークなのではないかと思ったりする。彼曰く、自身の作品は「目に見える思考」であるとのことだ。

戦争(或いはナチズム)がマグリットにもたらしたものは、反戦への直截性こそないもののその劇的ともいえる画風の変化として顕在化する。「ルノアールの時代」と称される印象派的な作品群で、それは言うまでもなく戦時下という恐怖暗黒へのアンチの提示であった。
しかし、この作品群がシュルレアリストたちから批判されたこともあり、マグリットはさらに違った絵画的アプローチを試みる。「野獣派(フォービズム)」をもじって「ヴァーシュ(牝牛)の時代」といわれる作品だったが、この画風は彼の妻も含めて周囲では誰も理解を示さなかった。
確かに、この「ルノアールの時代」「ヴァーシュの時代」の作品は、僕らがイメージするマグリット像から大きくかけ離れている。

そして、50代を迎えたマグリットは混沌とした時代を抜け出し、創作スタイルとしては原点へと回帰する。1930年代の自ら確立した画家的オリジナリティにさらなるスケールとソフィスティケーションをもって進化を遂げるのである。
そう、彼が繰り返し扱って来た球体、鈴、林檎、細い三日月、鳥、山高帽の男、葉のような樹、パイプ等を用いて、僕らがすぐに想起するイメージの魔術師としてのマグリット的な作品群が創作されたのがこの円熟期である。言うまでもないが、僕が最も惹かれるのもこの時期の作品群だ。
そして、マグリットは1967年に68歳でその生涯を閉じる。

僕が見に行ったのが土曜日の17時頃というのもあるだろうが、とにかく会場は若い人たちがその多くを占めていた。それは、多分にマグリットのある種デザイナー的でファンタジックな作風に興味を持つ若い人たちが多いからではないか?
こういう表現はいささか広告代理店的定型フレーズに過ぎるけれど、「マグリット芸術は、2015年の東京でも十分にモダンで現在進行形の刺激に満ちている」のである。

僕がマグリット作品をまとめて見たのはこれが初めてなのだが、個人的な感想を言えば「マグリットという画家は、随分と変遷を繰り返した人だったのだなぁ…」というものである。
僕の眼力が浅薄なせいだろうけど、1950年代になるまで(魅力的な作品はいくつもあるものの)僕にはマグリットの圧倒的な独自性をあまり感じ取れなかった。何というか、彼が自分の中に取り込む外的な影響がダイレクトに作品に反映されていて、その影響が描かれた作品のトーンを支配しているように思えたからだろう。
生活者としてのマグリットは、愛妻家であり、つつましやかなアパルトマンで規則正しい生活を送りながら画業に勤しむ生真面目な常識人だったようである。その生真面目さが、130点に及ぶ展示作品のすべてから伝わって来るようだった。

「人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡る」という表現があるけれど、今回の大回顧展を見ていると、国立新美術館の展示室がまるでルネ・マグリットの画家人生を投影する走馬灯のようであった。
こういう感覚に浸れることも、大回顧展に足を運ぶことの喜びだろう。

では、僕がマグリット作品から真っ先にイメージするのは何かというと、それは彼の作品を用いたりその影響下で制作されたレコード・ジャケットがたくさんあるというものである。
その幾つかを紹介しておく。

Alan Hull/Pipedream 哲学者のランプ


Alan Hull/Phantoms 王様の美術館


Jeff Beck/Beck-Ola リスニング・ルーム



Rascals/See 大家族



Oregon/Out Of The Woods 白紙委任状



Styxs/The Grand Illusion 白紙委任状



Jackson Browne/Late For The Sky 光の帝国



菊地雅章/One Way Traveller ピレネーの城



Dreams ゴルコンダ



ね、今でも十分にイマジネイティヴで刺激的じゃないか?

NAADA「先崎のポップンカーニバル」2015.6.21@浅草KURAWOOD

$
0
0

2015年6月21日、浅草KURAWOODでNAADAが出演するライブ・イベント「先崎のポップンカーニバル」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが40回目。前回観たのは2015年3月28日、場所は東新宿 真昼の月・夜の太陽だった。



NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag) + 笹沢早織(keyb)


では、この日の感想を。

1.RAINBOW
出だしのワン・フレーズをRECOがア・カペラで歌ってから、バックの演奏が加わる構成。アレンジ的にはなかなか繊細だが、PAの出音に関してはラウドなロック的音響でいささか前に出過ぎの印象である。僕の好みを言わせてもらえば、もう少し広がりのある音で聴きたい。
後半の展開は、NAADAとしては結構ロックな感じだった。

2.sunrise
彼らの最も新しい曲のひとつだが、とても素敵な作品。シンプルな歌詞を持った曲で笹沢のハーモニーやアレンジも悪くない。ただ、1曲目同様やや広がりを欠いたラウドな出音が残念である。
もう少し洗練は欲しいと思うが、これから演奏を重ねるうちにどんどん成長して行く曲だろう。この日の演奏を聴いていて、夜明けの穏やかな海原をイメージした。

3.puzzle
シニカルな攻撃性を纏った曲で、NAADAとしては珍しいテイストである。前半の演奏ではややフラットな印象を受けたが、後半の音がブーストするロックな展開が刺激的だ。
NAADAにとっての心情的パンク・ロックと位置付けたい曲である。

4.echo
NAADA二人だけによる演奏で、とても繊細さを要求される楽曲である。RECOもマツボもとても丁寧なパフォーマンスをしているのだが、いささかタイム感がジャストじゃないように感じた。
PA的な音の粗さも気になったが、それよりもっと気になったのは会場の空調の稼働音であった。

5.fly
いつもより、出だしのヴォーカルからして攻めの姿勢を感じさせるパフォーマンス。それに呼応したギターも、ざらついたロック的サウンドを奏でる。ピアノの幾何学的なフレーズも恰好いい。
その代わり、曲の印象はやや重量級の佇まいで「これで後半に、もう少しドラマチックな飛翔感が加われば…」と思わなくもない。
ただ、ラストの突っ込んで行くようなプレイはとてもよかった。

6.愛 希望、海に空
なかなかに斬新さを感じさせるアレンジである。笹沢のクラシカルかつ熱い演奏がインパクト大で、ドキュメンタリー映像のオープニングのような印象である。
そこから一転、RECOは静寂さを伴った美しい歌唱を披露。「希望」というフレーズに強靭な説得力を感じる。
とにかく、スケールの大きさとドラマチックな力強さが聴く者の胸に響く。終盤のゴスペル・ライクな展開から、エンディングに訪れる透明な静寂さが鮮烈である。


この日の対バンはいずれもロックンロールなバンド揃いだったせいか、NAADAのパフォーマンスもそれに対抗するかのような熱さだった。
特に印象に残ったのは、いつもよりずっとアグレッシヴでラウドな笹沢のキーボード・プレイであった。
僕の好みからすると、浅草KURAWOODの音の佇まいはいささか粗っぽくて繊細な演奏をフォローしかねる部分が残念なのだが、この日のPAに関してはそれなりにまとまった出音だったように思う。

いずれにしても、この日のNAADAの演奏には今までとは違った方向性とサウンド・コンセプトが貫かれていたし、意義のあるライブだったと思う。
次回、7月25日真昼の月・夜の太陽の演奏が待ち遠しい。

グザヴィエ・ドラン『Mommy/マミー』

$
0
0

2014年公開のグザヴィエ・ドラン監督『Mommy/マミー』



製作はナンシー・グランとグザヴィエ・ドラン、脚本・衣装・編集はグザヴィエ・ドラン、撮影はアンドレ・ターピン、美術はコロンブ・ラビ、音楽はノイア、配給はピクチャーズ・デプト。
なお、本作は第67回カンヌ国際映画祭においてコンペティション部門で審査員特別賞を受賞した。


こんな物語である。

2015年、何処かの世界のカナダ。連邦選挙で新政権が樹立し、内閣は公共医療政策の改正を目的としたS18法案を可決。中でも、「発達障害児の親が経済的困窮、身体的・精神的な危機に陥った場合、法的手続きなしにその子を施設に入院させる権利」を保障したS-14法案は大きな議論を呼んだ。

40代前半のダイアン・デュプレ(アンヌ・ドルヴァル)は、女手ひとつで15歳になる息子スティーヴ(アントワン=オリヴィエ・ピロン)を育てるシングル・マザー。ADHD(多動性障害)のスティーヴは情緒不安定で、母親への愛情は深いが一度たがが外れると制御不能になってしまう。その傾向が顕在化したのは、発明家だった父の急死だった。




手に負えなくなったダイアンは彼を施設に入所させていたが、スティーヴは放火事件を起こしていよいよ施設からも追い出されてしまう。



息子を引き取り、郊外にフラットを借りたダイアンは母子二人の新たな生活を始めるが、仕事をクビになったりスティーヴの破天荒な行動に振り回されたりと心休まる暇もない。
スティーヴは音楽とスケート・ボードが趣味だが、大の勉強嫌いで学校にも通っていない。



学歴がないことで苦労するダイアンは息子を何とかしたいと考えているが、ひょんなことから二人の人生にささやかな転機が訪れる。
ある日、母親にプレゼントしようと万引きしたスティーヴをダイアンは叱責。そのことが原因で暴れ出したスティーヴを恐れ、自己防御のためにダイアンは思わず彼に怪我をさせてしまう。スティーヴの怪我を手当てしてくれたのは、お向かいに住むカイラ(スザンヌ・クレマン)だった。



カイラは高校教師だったが、精神的なストレスから話すことができなくなり現在は休職中。システム・エンジニアをしている夫は転勤が多く、その度にカナダ中を引っ越していた。カイラは家に引きこもっており、夫や一人娘との会話も乏しかった。
ところが、ダイアンに請われてスティーヴの家庭教師を始めたカイラに大きな変化が起こる。始めは予測不能のスティーヴに手を焼いた彼女だったが、ある事件をきっかけにスティーヴとの間には信頼関係が築かれ、ダイアンともすっかり親しくなった。その結果、彼女は二人と一緒にいる時には、ほとんど普通に喋れるようになったのだ。
カイラとの出逢いによってスティーヴは自分の人生に前向きになり、勉強にも熱心に取り組むようになった。ダイアンも、ようやく気のおけない友人ができた。



それぞれが新しい希望に向かって歩み始めたように思えたが、そんな日々も長くは続かなかった。
スティーヴが起こした放火事件で被害を受けた相手から、ダイアンに訴状が届いたのだ。

新たなる試練を前に、ダイアンとスティーヴ、そしてカイラは…。


17歳の時に書いた脚本を19歳で初監督したグザヴィエ・ドランが、監督5本目となる本作を撮ったのは25歳
彼はそのデビュー作にして世界の映画シーンから大きな注目を集め、早くも現時点で評価が定まりつつある今最もホットな映画人の一人である。



僕がドラン作品を観たのはこれが初めてだが、とにかく鮮烈な映像感覚、躍動的な音楽の使い方、斬新さと古典的話法を自由に行き来するストーリーテリングと、その才能の大きさを十分に印象付ける一本である。
134分という時間は結構な尺だが、その濃密なドラマ構成とドキュメンタリー・タッチを駆使する映画的話法にどんどん引き込まれて、終わってしまえばあっという間であった。

大半の映像はアスペクト比1:1で、極めて閉塞的にスクリーンに映し出される。あたかも、ダイアンとスティーヴの生活を隠し撮りしているような画で、観ている側にも何とも言えない息苦しいリアルが突きつけられるような感じである。
その一方で、夢想としてのシーンが16:9のヴィスタ・サイズに切り替わると、その開放的な映像に目眩すら覚える。そのコントラストは、マジックのようである。

ただ、こういった技巧的画作りも、メインの役者三人に魅力と説得力あればこそ可能な演出法であり、その意味でも実に適材適所なキャスティングだと思う。
とりわけ、僕が強く惹かれたのは、スティーヴを演じたアントワン=オリヴィエ・ピロンの奔放さと繊細さを併せ持った演技である。
スティーヴがショッピング・モールの広大な駐車場でショッピング・カートを振り回すシーンやヘッドホンを装着してスケート・ボードで疾走する映像の開放感に、映画としての鮮烈さを強く感じた。
唐突に幕を下ろす、ラスト・シーンにもそれは言えることだ。

この映画における最大の見所といえば、引っ越すことを告げに来たカイラとダイアンとの一見噛み合わない最後の会話シーンだろう。
用件だけ告げて去って行くカイラの沈みがちな表情と、一方的に言葉をまくしたてた後、一人になった家で本音を吐露するダイアンのコントラストには、監督の非凡な才能がほとばしっている。

ドラマとしてはある種古典的ともいえる筋立てだから、ダイアンに気のある弁護士に代表される幾人かの登場人物はいささか類型的に過ぎるし、カイラの描き方にやや物足りなさを感じるのも事実ではある。
また、衝撃的な後半の展開や、絶望と希望が共存するラスト・シーンにもやや不満を感じないではない。
それでも、本作が魅力と映画的な強靭さを持った傑作であることには何の疑いもない。
とにかく、映画として徹頭徹尾真摯なのである。

本作には、映画の未来を託したくなるようなスペシャルさが宿っていると思う。
ジョン・ランドウが書いた有名なフレーズ「僕は、ロックンロールの未来を見た。その名は…」じゃないけれど、そんなことまで想起させる作品である。

西村喜廣『虎影』

$
0
0

2015年6月20日公開、西村喜廣監督『虎影』



製作総指揮は高橋正、プロデューサーは鈴木宏美・服巻泰三、原作・編集・特殊造型監督は西村喜廣、脚本は西村喜廣・継田淳、音楽は中川孝、撮影はShu G.百瀬、照明は太田博、美術は佐々木記貴、特殊造型は下畑和秀、VFXスーパーバイザイーは鹿角剛、アクション監督は匠馬敏郎、録音は中川究矢、衣裳は中村絢(おかもと技粧)・村島恵子(おかもと技粧)、ヘアメイクは清水ちえこ、肌絵は初代彫政統、助監督は塩崎遵、脚本協力は水井真希。
製作は『虎影』製作委員会、配給宣伝はファントム・フィルム。
宣伝コピーは「愛する者を救う為、男は再び刀を抜く」


こんな物語である。

かつて忍びの世界では最強と恐れられた虎影(斎藤工)は、6年前に愛する月影(芳賀優里亜)が身籠ったことから、それ相当の苦難に耐え二人して火影衆を抜けた。現在では、5歳になった息子の孤月(石川樹)と家族三人、野良仕事に汗しながら穏やかに暮らしている。



火影衆の頭で己の欲望のためには手段を選ばない東雲幻斎(しいなえいひ)は、やげんの隠し財宝の噂を聞きつけ、その在処を記した巻物を盗み出すよう手下に命じる。ところが、手に入ったのは、金銀二つで一つの巻物のうち金の巻物だけだった。銀の巻物は、やはり財宝を狙う他の者に奪われたのだった。
そこで、幻斎は夜馬(鳥居みゆき)に命じて虎影に銀の巻物を奪うよう話を持って行かせた。一度は夜馬を蹴散らした虎影だったが、幻斎は孤月を人質に取り「息子の命を助けたければ、2日の間に銀の巻物を持ってこい」と命じた。



銀の巻物を持っているのは、やげん教の教祖である瑞希(松浦りょう)が治める藩だった。この藩は水害の絶えない土地にあったため、すべての民を借り出して過酷なダム建設を行わせていた。そして、工事のために連日罪もない村人たちを人柱として川に沈めていた。その指揮を執っているのは、リクリ(津田寛治)という男だった。
一度は城に潜入して銀の巻物を手に入れた虎影と月影だったが、同じ忍びのライバルで今はリクリに雇われている鬼卍(三元雅芸)と鬼十字(清野菜名)によって囚われ、二人はリクリの元に連れ戻されてしまう。



窮地に立たされた虎影は、2日のうちに金の巻物を持ってくることを交換条件に、月影を人質に残して再び火影衆の里に向かうが…。




いささか凡庸に過ぎる表現だが、世間的には「今、最も旬なイケメン俳優のひとり」的なポジションにある斎藤工主演の西村組!忍者映画である。
なかなかに、異色のコラボレーションといえる作品だろう。

一言でいえば、徹頭徹尾西村映像的な文脈に貫かれたエンターテインメント・アクション・ムービーになっている。
斎藤工が主演したことでやや佇まいはメジャーな雰囲気を纏っているものの、その作品キャラクターには一切ブレがない。

オランダ人のフランシスコ(村杉蝉之介)が時代背景の解説をしたり、影絵を用いたりとそこかしこに意識的なチープさを持ち込んだり、ベタにコミカルなくすぐりを散りばめたりといった緩さ。
その一方で、アクションにおけるシャープでスピーディな展開と適度にセクシーな味付けを施したりと両輪で物語は突き進んで行く。斎藤工に「うんこ、うんこ」言わせるのも、西村組ならではだろう。

このチープなコミカルさとハイテンションを行き来しながら、娯楽性に関しては94分間一切ダレることがない。それは、まさしく良質なアトラクションに身を任せているような爽快感である。
津田寛治の愛人的なキャラ長杏にストリッパーの若林美保を、妖怪目なし役に水井真希をキャスティングしているところも、“らしい”

もちろん、本作の見所は斎藤工の活躍とアクション・シーンの数々である。
ただ、個人的な好みを言わせて頂くならば、虎影の敵役・三元雅芸のキレのある動きと正しく美味しいところを持って行く憎いくらいに恰好いいキャラクターということになる。



本作を観ていると、Vシネマ全盛時代を経由してデジタル映像がメインストリームとなった現在の映画産業ならではの作品という気がする。
テレビ局や広告代理店主導の「THE MOVIE」的な大作とインディペンデントな作品が並び立つ現在、作り手の側も演じる俳優の側もボーダレス化が進んでいるし、そういう状況を象徴する自由な映画といってもいいのではないか。

オーソドックスで古典的なストーリーテリングを、現代的な視点で換骨奪胎したような作風は、北野武監督の『座頭市』を観た時の印象に近いかもしれない。
それにしても、ついつい『仮面の忍者 赤影』や『ルパン三世 カリオストロの城』から引用してしまうのは、ある種の性と言えなくもない(笑)

本作は、如何にも今の時代ならではの忍者映画。
とにかく、シンプルに楽しめばそれでいい娯楽快作である。

冨永昌敬『ローリング』

$
0
0

2015年6月13日公開の冨永昌敬監督『ローリング』



エグゼクティブプロデューサーは小曽根太・甲斐真樹・宮前泰志・池内洋一郎、企画は宮﨑雅彦、プロデューサーは木滝和幸・冨永昌敬、アソシエイトプロデューサーは磯﨑寛也・宇野航、脚本は冨永昌敬、撮影は三村和弘、照明は中村晋平、美術は仲前智治、録音は高田伸也、整音効果は山本タカアキ、編集・仕上担当は田巻源太、音楽は渡邊琢磨、衣装は加藤將、ヘアメイクは小濵福介、助監督は荒木孝眞、制作担当は佛木雅彦、協力プロデューサーは平島悠三、協賛は一般社団法人水戸構想会議・一般社団法人いばらき社会起業家協議会、特別協賛は㈱ホコタ・㈱サンメイ。
製作はぽてんひっと・スタイルジャム・カラーバード・マグネタイズ、製作プロダクションはぽてんひっと、制作協力はシネマパンチ、配給はマグネタイズ、配給協力はプロダクション花城、宣伝はカプリコンフィルム。
2015年/DCP/93分/カラー
宣伝コピーは「教え子よ、大志を抱け そして、女も抱け」


こんな物語である。

水戸で高校教師をしていた権藤(川瀬陽太)は、女子更衣室を盗撮していることが発覚して10年前に姿をくらました。かつての教え子たちは、今も水戸でそれぞれの人生を送っているが、いまだ彼らはこのダメ教師のことを忘れてはいない。特に、盗撮された女子たちは。



東京に流れていた権藤は、付き合っているキャバクラ嬢のみはり(柳英里紗)を連れて水戸に舞い戻って来る。しかし、歓楽街の大工町では元教え子の容子(森レイ子)が仲間とキャバクラを経営していた。
飲もうと町をほつき歩いていた権藤とみはりは、容子達に見つかり逃げ回る羽目になった。容子は、損害賠償請求も辞さない心づもりで二人を追いかけた。

二人は雑居ビルに逃げ込むが、置いてあったおしぼりのコンテナ・ボックスにつまずき、みはりが怪我をしてしまう。動けなくなって階段に座り込む彼女の足から流れる血を、権藤は慌てて使用済みのおしぼりで拭いた。
すると、そこにおしぼり業者の男が戻って来る。男の顔をひと目見た権藤は、慌てて顔を伏せた。男は、かつての教え子・貫一(三浦貴大)だった。貫一はすぐに権藤に気づくと、懐かしがって近寄って来た。そして、隣にしゃがみこんでいるみはりの足を見ると、すぐに未使用のおしぼりで拭いてやった。貫一とみはりはしばし見つめ合い、そのことを権藤は目ざとく気づいた。



そんなやり取りをしていると、階下から足音が上がって来た。細いヒールの音だ。貫一が階段を下りて行くと、踊り場には容子がいた。息を乱しながら「権藤、見なかった!?」と問い質す容子に、貫一は「見ていないが、戻って来てるのか?」と惚けた。見かけたら知らせるからという貫一の言葉に、容子は去っていく。
権藤のところに戻った貫一は、この辺りをふらつかない方がいいと忠告した。容子は、今この町ではちょっとした顔だった。

数日後、貫一の職場に権藤が現れた。あの夜、貫一が着ていた制服を見て、この会社だと覚えていたのだという。
あの後、権藤は結局容子達に捕まり、人質代わりにみはりが容子の店で働いているのだと言った。今の権藤にはとにかく仕事が必要だったが、事件を起こした元不良教師に、そうそう仕事などあるはずなかった。貫一は、仕方なく上司に権藤のことを話すのだった。

キャバクラに通うような趣味のなかった貫一は、足繁く容子の店に顔を出すようになった。もちろん、目当てはみはりだ。権藤のような男と一緒にいては彼女のためにならないというのが建前で、貫一は権藤と別れるようにみはりを説得したが、要するにあの夜ひと目惚れしただけだった。みはりはみはりで、まんざらでもなかった。





結局、みはりは貫一と付き合い始めてしまう。権藤は、一度は貫一の会社で働き出すもののすぐに来なくなり、中途半端に無頼な悪を気取って近所の人妻(深谷由梨香)と関係を持ったりしていた。




しかも、いつの間にやら権藤はかつての教え子たちとおかしな人間関係を築き直していた。容子や、繁雄(松浦祐也)、田浦(礒部泰宏)、船越(橋野純平)が目を付けたのは、10年前に権藤が盗撮した動画。ひょっとすると、この映像が大金に化けるのでは…と踏んだからだ。
というのも、かつてのクラスメート・朋美(井端珠里)は現在タレントをしており、地元ではソーラーパネルCMのイメージ・キャラクターをしていた。もし、朋美の裸が映っていたとしたら。



彼らの睨んだ通り、盗撮映像には朋美の姿が映っていた。しかも、朋美は他の女生徒と求め合っていた。彼らは、この動画を朋美の所属事務所に持ち込む。最初こそ及び腰だった権藤も、結局は折れて彼らと行動を共にする。
待ち合わせの喫茶店に現れたのは、事務所の広岡(高山裕也)、弁護士の黒木(杉山ひこひこ)、そして元警察官で顧問だという野中(西桐玉樹)。権藤達は、ハードディスクと引き換えに大金を受け取った。もちろん、コピーが存在しないという承諾書を取られた。




金を得た権藤達に、黒木は妙な儲け話を持ちかけて来た。今、水戸の町ではソーラーパネルを使った発電事業が盛んになっていた。そこで、ソーラーパネルを設置するための日当たりのいい雑種地を購入することを彼は勧めて来たのだ。
メンバーのうち、田浦はもう付き合いきれないと降りたが、他のメンバーは全員喰いついた。
ところが、事はそううまく運ぶはずもなかった。盗撮映像をコピーした者がいたのだ。



果たして、権藤達の運命は?そして、貫一とみはりの関係は…。


言ってみれば、地方を舞台にした小さな映画だし、ドラマチックなエピソードもなければ、大メジャーというほどのキャスティングでもない。
三浦貴大柳英里紗は近年活躍が目覚ましい注目の役者だと思うが、他の役者陣も含めて派手さや華やかさとはちょっと違ったスタンスの渋い面々である。
劇中に登場するのは、誰一人として社会的も人間的にもあまり感心できるような人物ではない。
だが、本作は今観るべき映画の一本であると断言したい。脚本、演出、映像、役者と揃っているし、とにかくロー・バジェットながら映画的な志は高い力作だからである。

先ずは、オープニング。夜の大工町を逃げる川瀬陽太と柳英里紗の映像を観ただけでも、引き込まれる。
夜の帳が下りた地方都市歓楽街の、幾ばくの寂しさを纏ったきらびやかな光の粒子まで切り取ったようなライブ感に溢れた映像。このシーンひとつとっても、冨永の映画作家としての非凡さを感じる。

権藤というダメ教師を筆頭に、彼の周りに集まって来るのは皆私利私欲だけの人間である。最初こそまともそうな貫一にしても、一皮剥けば自分本位の部分が露わになる。ただ、彼の場合は、中途半端に生真面目なところもあり、その辺りの人物像もしっかりと描かれている。
映画は権藤のモノローグで淡々と進められるが、このダメ中年を川瀬陽太はある種の滑稽さをもってペーソス溢れる人物として見事に体現している。
一方の貫一についても、三浦貴大がある意味生真面目なくらいにしっかりと演じており、二人のコントラストこそが本作にとっては太いドラマ的骨格をなしている。

そして、本作の“華”は、言うまでもなくキャバクラ嬢のみはりという存在である。二人の男の間でたゆたう女を、柳英里紗は時にキュートに、時に少女のような無垢さで、またある一面ではコケティッシュにと、見事に演じ分ける。
本作を観て、柳に惹かれない男なんているのだろうか?とさえ思う。それくらい、本作における彼女は魅力的だ。
とりわけ、みはりと貫一の体温と息遣いまで伝わって来るような濡れ場には、心鷲掴みにされてしまった。しっかりとエロティシズムも表現された、本当に素晴らしいシーンである。やはり、絡みを演じるのであれば、このくらい潔く演じてくれないと…と思える熱演だ。

また、後半の物語で重要なキーとなる朋美のエピソードも秀逸である。儚さと寂しさを漂わせる朋美役の井端珠里の演技も印象に残る。
その他の役者陣もそれぞれに魅力的で、愛すべきキャラクター達である。個人的には、相変わらずの松浦祐也の濃い演技に笑った。

で、物語は最後の最後までダレることも緩むこともなく、見事なツイストを決めて、この作品に相応しいささやかに感傷的な余韻を伴って終幕する。
まさに、「この終わり方しかない!」と唸ってしまった。

本作は、今の日本映画にとって「ひとつの可能性」を感じさせる良作だろう。
派手さこそないものの、多くの人に劇場で鑑賞して欲しい一本である。是非!

マーリープロジェクト旗上げ公演『golem、胎児、形なきもの』

$
0
0

2015年7月1日ソワレ、サンモールスタジオでマーリープロジェクト旗上げ公演『golem、胎児、形なきもの』を観た。




作・演出は御笠ノ忠次、舞台監督は川畑信介(obbligato)、照明は贄川明洋、美術は松生紘子、音響は前田真宏、制作は岩間麻衣子、アートディレクターは菊田参号、プロデューサーは池田理奈。
制作協力は㈱エコラブ、obbligato、肯定座、㈱仕事、㈱スターダスト・プロモーション、ズボラザ、㈱ディスカバリーネクスト、東京スターライズタワー、合同会社バグスタジオ、バッカスカッパ、ヒラヌマ、㈱よしもとクリエイティブ・エージェンシー。
企画・制作・主催はマーリープロジェクト。



こんな物語である。

母を一人残して地元を離れた男(宮下雄也)は、定職にも就かずキャバクラ嬢をしている彼女(大久保凛)から小遣いをもらってお気楽なニート生活をしている。本能の赴くままに彼女の体を求め、しかも避妊することすらしない。ところが、彼女の方は男に夢中だ。
彼女の友人(福原舞弓)は、男のことを屑とののしっているが、それでも彼女は気にすることもない。

たった今も男は避妊せずに求めて来たが、今回は彼女もそれを嫌がった。そんな時に何度も母親から着信がある。最初は無視していた男も、最後には根負けして携帯に出た。すると、聞き慣れない男の声で母親が死んだことを告げられた。男は動揺して、すぐに田舎へと向かった。
母親がとある宗教団体で活動していたことを、男は初めて知った。母親は人望があったらしく、教団のメンバーから慕われていたそうだ。母親の葬儀一切を取り仕切ってくれた教団の一人(竹尾一真:ズボラザ)から色々な話を聞かされて、男は混乱と動揺を繰り返した。
しかし、教団の男が持って来た母の遺言状らしき封筒の中身は、一層男の心をかき乱した。中に入っていたのは男の戸籍謄本で、そこには「民法817条の2による裁判確定」と表記されていた。それは、特別養子縁組であることを示した条項だと教団の男は言った。
自分は、母の本当の子供ではなかったのだ…。

「特別養子縁組」とはあまり聞き慣れない言葉だが、普通養子縁組と差別化された制度のことである。普通養子縁組の場合、子供は戸籍上「養子・養女」と記載され、実親・養親の表記があるが、特別養子縁組の場合「長男・長女」と記載され、実親の表記もない。代わりに、「民法817条の2による裁判確定」と付記される。
つまり、普通の養子であれば二組の親が存在するが、特別養子の場合は養親のみが法的に親と認定される。戸籍上、養子であることと実親に出産の事実が明示されないよう配慮されているのが特徴で、1987年の民法改正によって導入された比較的新しい制度である。

一人の産婦人科医が行っていた行為が、この法改正へのきっかけになった。宮城県石巻市の産婦人科医・菊田昇医師(里村孝雄)である。
法に則った行為とはいえ人工中絶により乳児の生命を断つことに、菊田は次第に葛藤するようになった。やがて、彼は人工中絶を望む女性を説得して出産させ、生まれた子供を不妊に悩む夫婦に偽の出生証明書を作成した上で斡旋するようになった。実母には戸籍上出産の事実が記載されず、養親の戸籍には養子縁組した事実が残らないようにするためである。その数は、100人以上。
それだけでなく、菊田は地元の新聞に赤ちゃん斡旋の広告まで出した。それは、彼なりの社会に対する問題提起であり、意思表示であったようだ。

1973年、菊田は告発されて国会にも参考人として招致される。最高裁でも敗訴したものの、彼の行った行為は「100人以上の胎児の命を救った」という人道的見地から、賛同の声も数多く寄せられた。
その結果、生まれたのが「特別養子縁組」という制度だったのだ。

男が自分の出生の秘密を知って衝撃を受けているその時、キャバクラ嬢の彼女は自分が妊娠していることを知って…。


ディスカバリー・エンターテインメント所属の大久保凛とスターダスト・プロモーション所属の福原舞弓の二人は、2010年に劇団勇壮淑女第4回公演「ボンゴレロッソ」で共演した時に意気投合。
2014年に大久保が「一緒にやろう!」と声をかけたことで始まったのが、このマーリープロジェクトだそうである。



福原は奈賀毬子が主宰する肯定座にも所属していて、僕は肯定座公演をフォローしている縁で彼女と面識を持った。その福原さんが新しく立ち上げた演劇プロジェクトということで、今回サンモールスタジオに足を運んだ。
ちなみに、奈賀さんは今回の公演で客入れ時の案内を手伝っていた。

そんな訳で今回の公演であるが、二人の志こそ伝わるものの如何にも「旗上げ公演!」といういささか肩に力の入り過ぎた舞台…というのが僕の率直な感想である。
それは、硬質なテーマと直截的なタイトルにも表れているように思う。

中央に置かれた応接セットを取り巻く客席に座った大久保凛と宮下雄也が、いきなり濃厚なキスを交わし始める場面で開巻するというのは結構なインパクトだが、全キャストが舞台周囲の席に座っているというのが、先ずは落ち着かない。
ステージを観ているとその視野にスタンバイしている演者が目に入るというのは、キャスト陣が想像する以上に違和感があるものだ。少なくとも、僕は気になって仕方がなかった。
それは、観劇とは違ったベクトルに気持ちが注がれている場違いな人を目にする異物感とでも言えばいいだろうか。

1973年の赤ちゃんあっせん事件、できちゃった結婚なる言葉が市民権を持ち、他方では不妊治療や少子化が社会の関心事となっている現在、さらにはセクシャル・マイノリティーやLGBTといったトピックまでを題材にした硬質な物語である。それに、新興宗教団体までが登場する。
だが、それぞれのパーツがやや乱暴に並べられている感じで、物語はいささか緻密さを欠いた印象を受ける。何というか、それぞれが深刻な問題であるにもかかわらず、その表層部分だけを感情的に訴えかけてくる押しつけがましさにも似た熱さが、僕には馴染めなかった。

一番の原因は、宮下雄也演じるニートが事あるごとに感情を爆発させるからである。それを周囲の人間も同じテンションで受けて立つから、どうにも単調で情緒的な力技に終始した舞台構成になってしまっているのだ。
引きの部分や会話の行間といったメリハリに乏しいのである。

その意味では、菊田医師が苦悩する回想シーンにもっと当時の時代性と彼の内面を表現する舞台的な計算が欲しかったように思う。
里村孝雄は演技こそ静謐だが、着ている服にしても、胸から下げたネックレス(というか、ペンダント)にしても、薄茶色に染めた髪にしても、とても昭和40年代を生きる実直な産婦人科医には見えなかった。今風に過ぎるのである。
彼女の妻を演じた菅川裕子(バッカスカッパ)が淡々とした口調で過去を回想する場面はよかったが。
藤枝直之演じる弁護士が、風俗のMCみたいなしゃべりをするくすぐりもどうかと思うし、そもそも亡くなった母親が宗教団体に身を寄せていたという設定もあまり生かされているとは思えなかった。

そして、舞台は最後まで情緒的に押し切る形で幕が下ろされる。あらゆる意味で、作り手がこの公演にかける意気込みが、観ている僕にはややしんどくて疲れてしまったのも事実である。
個人的には、大久保凛の潔さを伴った芝居と愛くるしい表情に惹かれるものがあった。

マーリープロジェクト旗上げ公演は、演じる側のヒートアップがやや空回り気味な印象を受ける舞台であった。
このプロジェクトに、より洗練された次回公演があることを先ずは望みたい。

瀬々敬久『ストレイヤーズ・クロニクル』

$
0
0
2015年6月27日公開の瀬々敬久監督『ストレイヤーズ・クロニクル』



原作は本多孝好「ストレイヤーズ・クロニクル」(集英社刊)、脚本は喜安浩平・瀬々敬久、撮影は近藤龍人、音楽は安川午朗、主題歌はゲスの極み乙女。「ロマンスがありあまる」、挿入歌はゲスの極み乙女。「サイデンティティ」、照明は藤井勇、美術は磯見俊裕、装飾は天野竜哉、録音は小松崎永行、VFXスーパーバイザーは前川英章、アクション監督は下村勇二、編集は早野亮、スクリプターは松澤一美、スタイリストは纐纈春樹、ヘアメイクは橋本申二、助監督は李相國。
企画制作は日本テレビ放送網、制作プロダクションはツインズジャパン、製作は映画「ストレイヤーズ・クロニクル」製作委員会(日本テレビ放送網、ワーナー・ブラザース映画、讀賣テレビ放送、バップ、ツインズジャパン、D.N.ドリームパートナーズ、電通、集英社、札幌テレビ放送、宮城テレビ放送、静岡第一テレビ、中京テレビ放送、広島テレビ放送、福岡放送)、配給はワーナー・ブラザース映画。
宣伝コピーは「望まぬ“能力”と限られた“命”。それでも僕らは、生き抜くんだ。」


こんな物語である。

1990年代初頭、二つのプロジェクトによって人の進化に関する実験が極秘裏に行われた。
ひとつのチームは、被験者である親の脳に強いストレスを付加することで異常ホルモンの分泌を促し、生まれてくる次世代の子供の潜在能力を限界まで引き出す実験を行った。もうひとつのチームでは、遺伝子操作によって昆虫や動物の遺伝子と掛け合わせることで新種の人類を生み出す実験を行った。
ところが、バブル崩壊のあおりを受けてプロジェクトはうやむやのうちに立ち消えることとなった。

あれから20年後。前者の実験によって生み出された超視覚の昴(岡田将生)、超記憶の良介(清水尋也)、超腕力の亘(白石隼也)の三人は、当時のプロジェクトにも関わっていた現・外務副大臣の渡瀬浩一郎(伊原剛志)の管理下で公にできない任務を請け負っている。
彼らは超能力の代償として、脳にかかる激しい付加により「破綻」と呼ばれる精神崩壊のリスクを背負っており、20歳前後までしか生きられない運命だった。仲間の一人は、すでに破綻が原因で自殺していた。昴たちが渡瀬に従うのも、渡瀬が破綻を解消させる鍵を握っているからだった。
昴たちは、渡瀬の指示で拉致された大物政治家・大曾根誠(石橋蓮司)の孫娘(岸井ゆきの)を助け出すが、その現場で亘に破綻が起きてしまう。昴は、亘のことを渡瀬に託す他なかった。



亘の破綻を目の当たりにした昴は、今は普通に学生として日々を送っている二人の仲間のことが心配になり会いに行くことにする。一人は、超高速移動の隆二(瀬戸利樹)。隆二は久々の再会を喜びつつも、自分のことは放っておいてほしいと言った。
もう一人は、超聴覚の女子大生・沙耶(成海璃子)で、現在は養父母と一緒に生活していた。昴に再会した沙耶は、親元を出て昴と良介が暮らす家に押しかけて来てしまう。



昴は、いつ訪れるか分からない破綻の恐怖に怯え、いまだ渡瀬の元から飛び出せないでいる。
すると、その渡瀬から新たなるミッションが与えられる。渡瀬と共にパネル・ディスカッションするため来日する科学者リム・シェンヤン(団時朗)が命を狙われているのだという。リムは、もうひとつのプロジェクトを指揮した男だった。そして、彼の暗殺を企てているチーム・アゲハとは、彼の手によって生み出された超能力者集団だった。
渡瀬の命は、このチーム・アゲハを捉えること。



チーム・アゲハのリーダー学(染谷将太)は車椅子に乗った青年で、彼は死ぬと解き放たれるウィルスの感染者だった。彼の体からウィルスが放射された場合、その致死率は80%。
碧(黒島結菜)は、高周波で敵を探索する能力の持ち主。モモ(松岡茉優)は超圧縮呼気の持ち主で、装着した歯列矯正具に仕込んだ鉄鋲を吐き出して攻撃する能力を持っていた。静(高月彩良)は、相手を幻惑麻痺させる能力と猛毒なキスで仕留める殺傷能力を持っていた。壮(鈴木伸之)には超高速移動とけた外れの腕力が、ヒデ(柳俊太郎)には指を鋭利な鉤爪に変化させる硬化能力があった。
だが、遺伝子操作の代償として、彼らは老化が非常に早く生殖能力も失われており、その寿命は昴たち同様20年前後であった。唯一の例外は碧で、彼女にだけは生殖能力があり寿命も長かった。
チーム・アゲハの面々は、リムの元を飛び出し自力で生きていた。そして、自分たちにこのような宿命を科した者たちへの復讐のために、残虐な殺人を繰り返していたのだった。



昴たちは、コインの裏表のようなチーム・アゲハと対峙することになるが…。



かなりの予算がかけられた、プロジェクトの大きさを感じさせる映画である。それは、ファースト・シーンを観ただけでも伝わって来る。
しかし、である。映画としてのハコも物語のスケールも大きいのだが、126分の尺でスクリーンに映し出される作品は、映像の迫力とは裏腹に何とも粗っぽくドラマの薄さを印象付ける出来であった。
人間の傲慢さによって生み出された昴たちの苦悩は繰り返し描かれているのだが、そのバック・グラウンドにしても、彼らの戦いにしても、黒幕の渡瀬や大曾根にしても、あまりにもミニマムで矮小なのだ。
人間が自分たちの進化をコントロールするといった壮大な極秘実験が帰結する先として、ちょっとこれはないんじゃないか…と思ってしまう。
物語の悲壮感を煽るのは、言うまでもなく昴たちに極めて限定的な生しか与えられていないという感傷装置な訳だが、彼らを生み出した黒幕的存在・渡瀬の行動原理が拍子抜けするぐらいにお粗末で鼻白む思いである。

また、大曾根にしても演じる石橋蓮司は貫録十分だが、大物政治家のキャラクターとしては如何にもステロタイプである。
そして、影のように渡瀬に付き添うイラク派兵経験を持った元自衛官にして警備会社「ガソリン」社長の井原卓(豊原功補)も、佇まいこそ曰くありげだが場当たり的かつご都合主義的にしか描かれていない。

本作に登場する若手俳優たちは総じてビジュアルに優れており、その整った顔立ちを鑑賞するだけでも悪くなないのだが、昴を演じる岡田将生の演技はいささか硬いように感じる。
また、演技力には定評のある成海璃子にしても松岡茉優にしても、本来の冴えが見られず物足りない。
だが、僕が最も不満なのは渡瀬を演じた伊原剛志のあまりにもぎこちなく拙い演技である。渡瀬という男の浅薄な造形とそれに拍車をかける伊原の演技力では、物語に厚みが出ようはずもない。やはり、際立ったヒールがいてこそ、こういうジャンル・ムービーは生きてくるのだ。

その中にあって、有無を言わさぬ素晴らしい演技を披露しているのが、近年活躍が目覚ましい染谷将太である。本当に、観ていて惚れ惚れする。
また、黒島結菜の儚げな佇まいと、高月彩良の凛々しさには惹かれるものがあった。

本作は、ピンク映画時代から一貫してギリギリの生死を描いて来た瀬々敬久らしさの幾ばくかは感じられるものの、非常に中途半端な作品であった。
やはり、瀬々監督にはオリジナル脚本の作品を撮って欲しいと思う。

三池崇史『極道大戦争』

$
0
0

2015年6月20公開、三池崇史監督『極道大戦争』



製作総指揮は佐藤直樹、製作は由里敬三・藤岡修・久保忠佳・奥野敏聡、エグゼクティブプロデューサーは田中正、脚本は山口義高、撮影は神田創、照明は渡部嘉、美術は坂本朗、音楽は遠藤浩二、主題歌はKNOCK OUT MONKY「Bite」(ビーイング)、録音は中村淳、装飾は谷田サチヲ、音響効果は柴崎憲治、編集は山下健治、VFXスーパーバイザーは太田垣香織、スタイリストは薮内勢也、メイクは石川奈緒記、スタントコーディネイターは辻井啓伺・出口正義、助監督は原田健太郎。
製作は日活・ハピネット・キャンビット・OLM、制作プロダクションはOLM、制作協力はジャンゴフィルム・日活調布撮影所、企画・配給・宣伝は日活。
宣伝コピーは「熱く、美しく。 噛まれたら、みんなヤクザ。」


こんな物語である。

神浦組組長の神浦玄洋(リリー・フランキー)は、堅気に手を出すことを法度とする今時古風な極道で、町の人々からの信望も厚い。背中には見事な刺青が彫り込まれ、その彫り物と男気に惚れて影山亜喜良(市原隼人)は神浦組に入った。



神浦は、不死身とも思えるタフさと腕っ節で他組との抗争では負け知らずであった。情にも厚い神浦は、不況で息子と心中しようとする男(中村靖日)に救いの手を差し伸べ、他の組になぶりものにされていた杏子(成海璃子)を助け出して入院させたりと相も変わらず住民にとっては頼れる親分であり続けた。



影山は、ますます神浦に心酔するものの、それとは裏腹に極道稼業自体にはいささか退屈気味だ。しかも、何故か神浦は影山のことを可愛がり、そのことで影山は兄貴分から目の敵にされてもいた。
ある時、神浦に連れられて影山は小さな小料理屋に連れて行かれる。店主の法眼(でんでん)がコップに注いだ赤い液体を飲み干した影山は、慌てて店を飛び出すと吐き出してしまう。それは、鉄のような味がした。
その店には隠し牢があり、そこではヤクザ者たち(渡辺哲、森羅万象、他)が更生労働として編み物をさせられていた。



ところが、よそから刺客(テイ龍進、ヤヤン・ルヒアン)が現れ、彼らの手によって神浦のタマが取られてしまう。
影山は、狂犬の手によってねじ切られた神浦の頭は抱きかかえた。すると、神浦の目がくわっと見開かれたかと思うと「我が血を、受け継げ」と言って影山の首筋に噛みついた。
焼けるような熱さと激痛の後、影山は激しい乾きに身悶えする。
そして、目の前にいた人間の首に彼も噛みついてしまう。すると、あろうことか噛まれた男もヤクザ化してしまう。ヤクザ化した者はまた他の人間に噛みつき、町の人々は次から次へとヤクザ化して行ってしまう。



神浦に刺客を指し向けた者、それは組の実権を狙っていた若頭の膳場壮介(高島礼子)たち神浦組の者だった。



ヤクザ・ヴァンパイアと化した影山は、神浦から授かった力を徐々に覚醒させながら人の首筋に齧り付きたい欲望と闘いつつ、かたき討ちをしようと立ち上がる。
その影山の息の根を止めるべく、彼らは最終兵器を町に呼んだ。それは、緑色のカエルの着ぐるみに身を包んだ刺客、KAERUくん(三元雅芸)だった。



果たして、影山と町の運命は…。




今では予算のかかった大作・話題作をコンスタントに発表している三池崇史だが、本作は彼のVシネマ時代をほうふつさせる原点回帰的な破天荒任侠ヴァイオレンス・コメディの怪作である。思いつきとノリと勢いだけで、ひたすら125分突っ走る。
昭和任侠ものの佇まいにヴァンパイアをフュージョンさせて、ひたすらバカバカしいストーリーテリングとハイ・テンションでスピード感溢れる格闘シーンを詰めるだけ詰め込んだ内容は、作風以上に製作姿勢の方が暴力的ともいえる。

下らなさフル・スロットルのネタの数々はもちろん確信犯的な訳だが、僕が気になったのはその料理手段と演出作法である。
神浦を中心に据えた前半の展開は、日活撮影所に組まれた昭和ノスタルジー漂うオープンセット共々とても魅力的である。組同士のいがみ合いや抗争シーンにもねじ伏せるような圧倒的迫力がある。
ところが、神浦が刺客に倒されて物語の中心が影山とヤクザ・ヴァンパイア、そして敵との戦いに移った時点で、一気に映画は失速してしまう。
何というか、コメディ部分のドラマ的な煮詰め方が中途半端で、それまでは有機的に動いていた登場人物たちが空回りし始めるのだ。
バトル・シーンのテンションは変わらないのだが、ただそれだけで物語の方はドラマ的な核が失われてしまっている。だから、観ていていささか退屈なのだ。

こう言っては何だが、予告編を観るとワクワクするのだが、実際に本編を観るとその尺が冗長に感じる。
いくら初心に戻って低予算Vシネの世界を目指したとはいっても、破天荒な勢いがそがれてしまっては演出として問題ありと言わざるを得ないだろう。悪い意味で、投げやりで中途半端な印象を受けるのだ。

本作で圧倒的なのは、何と言ってもリリー・フランキーの演技である。市原隼人成海璃子も悪くはないが、リリー・フランキー程強い印象を残せないのはやはり映画失速の一因のような気がする。
その一方で、高島礼子の演技に冴えが感じられない。そもそも、何で若頭が男の設定なのに、高島をキャスティングしたのだろうか?チープな宝塚とでもいった演技に違和感があり過ぎる。
一方、まったく顔は出て来ないがKAREUくんの中の人、三元雅芸のキレキレの動きには目を見張る。ただ、彼のアクションが物語的カタルシスに繋がらないのがもどかしい。

バカバカしいナンセンスなヴァンパイア極道映画という一発芸的なアイデアは決して嫌いではない。
だが、バカバカしさにはバカバカしさなりに筋は通してほしいと思う。それでこその任侠ものだろう。

藤田敏八『修羅雪姫』

$
0
0

1973年12月1日公開藤田敏八監督『修羅雪姫』



製作は奥田喜久丸、原作は小池一夫・上村一夫、脚本は長田紀生、撮影はたむらまさき、美術は薩谷和夫、音楽は平尾昌晃、照明は石井長四郎、編集は井上治、録音は神蔵昇、助監督は瀬川淑、スチールは橋本直己。製作は東京映画、配給は東宝。並映は小谷承靖監督『ザ・ゴキブリ』。


こんな物語である。

時は、明治。柴山源蔵(小松方正)とその手下たちを仕留めた鹿島雪(梶芽衣子)は、依頼人・松右衛門(高木均)が住む東京外れの乞食集落へと赴いた。集落を脅かしていた源蔵殺しの代償として雪が求めたのは、竹村伴蔵(仲谷昇)・塚本儀四郎(岡田英次)・北浜おこの(中原早苗)の三人を探し出すことだった。松右衛門は全国の乞食を束ねる頭であり、彼はこの三人とは同じ村の出身だった。



遡って、明治六年。日本では初の徴兵令が布告され、世は騒然となった。各地で農民の一揆や焼き打ちが相次ぐ中、この混乱に乗じて竹村伴蔵・塚本儀四郎・北浜おこの・正景徳市(地井武男)の四人は無知な村人の不安を利用して大金を騙し取っていた。彼らは、白い服を着込んで村にやって来る者こそ徴兵を目論む徴兵官だと吹聴した。
そんな折、小学校教師の鹿島剛(大門正明)と妻・小夜(赤座美代子)、それに息子の司郎(内田慎一)がこの村にやって来る。剛の着ている白い制服を目にした村人は、半鐘を何度も叩いた。
集まった村人たちは、凶暴な目で鹿島一家を取り囲むと小夜の目の前で剛と司郎を惨殺。その中心で嘲笑っていた四人組は、半狂乱になった小夜を拉致監禁して、何度もなぶりものにした。



金を稼いだ四人は、ここが潮時と村を抜け出した。小夜の体に夢中の徳市は彼女を連れて東京に出て商いを始めたが、機会をうかがっていた小夜は徳市を殺した。
殺人罪で収監された小夜は、誰かれ構わず刑務所にいる男たちを誘っては交わり、同じ房にいる女囚たちから色情狂と蔑まれた。彼女は身籠ったが酷い難産で、子供の命と引き換えに自分は事切れた。
今わの際、見守る女囚たちに自分の身の上を語ると、雪と名づけた赤ん坊を託して小夜は息を引き取った。小夜は、自分に代わって復讐を遂げてくれる子供欲しさに男を誘っていたのだ。女囚たちは、小夜の亡骸にすがりついて号泣した。
程なくして出所したお富に連れられて、雪は元旗本で今は住職をしている道海(西村晃)の寺へとやって来た。その日から、雪は道海の過酷な特訓を受け、母の無念を晴らすべく修羅の道へと入って行った。



現在、雪が身を寄せるタジレのお菊(根岸明美)の元に、松右衛門から竹村伴蔵発見の報がもたらされた。伴蔵は病を患い、海沿いの村で娘の小笛(中田喜子)と暮らしていた。伴蔵は働くこともせず、酒と博打に明け暮れていた。小笛は籠を編んで生活費を稼ぐ振りをしていたが、その実は地回りのヤクザ浜勝の元で体を売って生活費を作っていた。
雪は、伴蔵が住む地へと赴き、浜勝の元に身を寄せると賭場で壷を振った。その賭場には、伴蔵の姿があった。雪は一人目の復讐を遂げたものの、何の因果か小笛と知り合うこととなった。彼女は伴蔵を殺めに行く直前、何かあったら東京にいるタジレのお菊を訪ねるようにと小笛に言った。



三年前に塚本儀四郎が海難事故ですでにこの世を去っていたことを知って、雪は大きな衝撃を受ける。この男こそ、首謀者だったからだ。心の整理もつかぬまま、雪は儀四郎が眠る墓を訪れる。ぶつけようのない怒りにまかせ、雪は墓前に供えられた花を叩き斬ると墓を後にする。
雪のすぐ後に、儀四郎の墓を訪れた者がいた。平民新聞を発行するごろつきの編集者・足尾竜嶺(黒沢年男)だった。彼は、早速雪の後をつけた。
雪は、この胡散臭い男を相手にしなかったが、竜嶺もなかなかにしたたか者だった。彼は、道海から雪の生い立ちを聞き取ると、「修羅雪姫」と題して自分の新聞で連載を始める。彼の書いた連載は評判を呼んだ。
雪は、道海の元を尋ねて自分のことをしゃべった真意を問う。道海は竜嶺という男を気に入ったようだったが、それよりもこの連載が広く知れ渡ることでいまだ行方のつかめない北浜おこのが動き出すだろうと読んでいた。

海道の読み通り、いやそれを超えて事態が動き出した。東京に出て来た小笛は、小説を読んで父死亡の真相を知り、竜嶺の元に事実を確認に来た。すべては、事実だと竜嶺は言い切った。すると、そこに官憲が踏み込んで来て事実無根の小説で世間を騒がしたかどで竜嶺を引っ張って行ってしまう。何処か様子がおかしいと感じた小笛が後をつけると、彼らは花月という料亭に消えた。
小笛はその足でタジレのお菊のところを訪ね、竜嶺の一件を話すと立ち去った。雪が花月に踏み込むと、竜嶺に拷問を加えるおこの一味の姿があった。



雪は竜嶺を助けると、おこのを追うが、一足遅くおこのは首を括って自死していた。雪は、自分の手で仕留められなかった悔しさから、おこのの体を剣で真っ二つに斬った。
しかし、竜嶺はこの時すでにとある真相に気づいていた。



終わったかに見えた雪の復讐。しかし、「修羅雪姫」の物語には、まだ語るべき最重要のくだりが残されていた…。



言わずと知れた、梶芽衣子の代表作のひとつである。クエンティン・タランティーノが大きな影響を受けて、自身の監督作『キル・ビル』(2003)で本作へのオマージュを捧げているのは広く知られたエピソードだろう。
原作は、1972年から1973年にかけて「週刊プレイボーイ」に連載された劇画である。
本作を観ていると、東宝配給作品というより何だか東映作品のようなテイストを感じる。製作の東京映画は、東宝の関連会社として設立され、「駅前シリーズ」「若大将シリーズ」等を手掛けた。
ダイニチ映配が解消されて、大映が倒産し日活がロマンポルノ路線に移行すると、増村保造や神代辰巳、本作で監督を務めた藤田敏八も東京映画で監督作を撮るようになった。本作の佇まいが何処となく東宝的でないのは、そういった事情もあるのではないか。

四章で構成された怨恨復讐譚は、今の目で観ればベタで直球ストレートな作品である。ところどころでは劇画も挿入され、まさしく昭和に隆盛を誇った外連味たっぷりの劇画活劇の趣だ。
血染めの雪吹雪にしても、いささか顔が白すぎる梶芽衣子と西村晃のメイクにしても、お約束のように進む展開にしても、ある種の清々しさを持って身を委ねていられる。まさしく、これはひとつの正しきエンターテインメントだろう。やり過ぎ感という意味では、道海が雪を鍛える場面は、まるで「巨人の星」のようである。

本作における物語的なキモは、言うまでもなく小笛と雪の関係性や、竜嶺と儀四郎の関係性である。この辺りの捻り具合が、本作をただの復讐譚で終わらせていないのだ。
ただ、終幕に向けて性急に展開するクライマックスの決闘シーンは、演出的にはやや乱暴に過ぎるのではないか。それが、惜しまれる。

で、本作最大の魅力といえば、梶芽衣子の凛々しさに尽きる。その雪を支える竜嶺を演じた黒沢年男の渋さも魅力的だし、初々しい中田喜子もいい。
個人的には、小夜役の赤座美代子や雪役の梶芽衣子の凄味に比して、北浜おこのを演じた中原早苗以外の敵役がやや淡白でヒールとして弱いのが物足りなかった。

本作は、ある意味正統的なダーク・ヒロインものの快作。
梶芽衣子のクールな情念演技を、ひたすら堪能すべき一本である。

野暮を承知で言うと、「修羅雪姫」が「白雪姫」にかけられていることは想像に難くないが、だからと言って劇中に「修羅雪姫」という言葉が出てくるのはどうかと思う。如何せん、雪という女に姫の要素は皆無である。

NAADA「虹の橋を架ける」2015.7.25@東新宿 真昼の月・夜の太陽

$
0
0
2015年7月25日、東新宿の真昼の月・夜の太陽でNAADAが出演するライブ・イベント「虹の橋を架ける」を観た。
僕がNAADAのライブを観るのは、これが41回目。前回観たのは2015年6月21日、場所は浅草KURAWOODだった。
この日はNAADAにとって初めての編成で、コーラスにサルパラダイスのボーカル古沢優子を迎えての演奏であった。

NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag) + 笹沢早織(keyb) + 古沢優子(chor)



では、この日の感想を。

1.Humming
「この編成なら、やはりこう来るだろう」という4声のア・カペラでの歌い出し。リハでかなり詰めて来たことがうかがえる厚みのあるコーラス・ワークが圧巻だ。個人的には、こういうアレンジの演奏をずっと聴いてみたかったので、思いが叶った。
ただ、客席で聴いているとエコーが深過ぎるように感じた。これだけしっかりしたコーラスなのだから、むしろPAからの出音はシンプルで簡素な方が僕には好ましいのだが。それが、残念だった。

2.PICNIC
軽快で、キュートで、ちょっとコミカルなテイストもある楽しい曲。何となく、アニメの主題歌やNHK「みんなのうた」をイメージしてしまう。この曲では、PAもすっきりした音でよかった。
どうでもいい話だが、僕が「みんなのうた」ですぐ思い出す曲は、堺正章「北風小僧の寒太郎」(1974)と大貫妙子「金のまきば」(2003)である。
この曲の後でRECOが簡単にメンバー紹介をしたのだが、彼女のMCが何だか保育園の先生みたいで可笑しかった。

3.puzzle
攻撃的に尖った歌詞を持った曲だから個人的にはシャープな音像で聴きたいのだが、1曲目同様にやや深いエコーで曲の輪郭をぼやけてしまったように思う。
シンプルに、ギターがザクザクと刻まれるようなスタイルで聴けたらなぁ…と思う。

4.fly
ストイックに選び抜かれた音で疾走するイントロにしっかりしたボトムとアグレッシヴさが共存するRECOのボーカルが乗る前半が、何ともスリリングだ。
ただ、間奏で聴かせた2声のコーラス部分は、圧倒的な声量のRECOに比して古沢の声がやや弱く感じた。もう少し、広がりが欲しい。
そこから後半の展開では、この曲ならではのダイナミックな飛翔感にまでは到達しなかったように思う。あと、少しなんだけど。

5.愛 希望、海に空
やや感傷的なフレーズを丁寧に奏でるピアノ、そこに被せられるのは相当にトリッキーなギターの音。正直、ギターであることを事前に知っていても、テープ演奏されたブルース・ハープのようなサウンドに聴こえてしまう。小箱のような装置でアコースティック・ギターの弦を擦ることにより音を出しているらしい。僕が思い出すのはビル・ネルソンのE-Bowプレイだが、ビルの場合はもちろんエレキ・ギターである。



この刺激に満ちたイントロ部分に続いて、RECOが静謐な歌声を響かせる。映像が浮かんで来るような、とてもスケールの大きな演奏が感動的だ。彼女の声に被せられるコーラスも効果的。
で、この曲の美しさを支えるのは音響派と表現したくなるような実験的アプローチである。そして、NAADAのメンバーが持っている本質的な音楽キャラクターというのは、実は極めて器楽的なものである。そのスタイルがもっとも露わになるのが、この曲だと思う。
前回の浅草KURAWOODでもその一端を聴くことができたが、この日の演奏はひとつの到達点と言っていいのではないか。
とにかく、この日のハイライトと断言できる素晴らしい演奏であった。

6.sunrise
一聴するとシンプルな小品のように思えるのだが、この曲で聴けるマツボのギターは結構難解ともいえるプレイである。とにかく、演奏のアクセントが微妙にずれる。
それがRECOの歌が始まると、そのずれて聴こえていた音がジャストになる。この曲の演奏を聴くのはこれで3回目だが、今回初めてその捻じれたユニークさに気づいた。

7.RAINBOW
演奏がスタートしてすぐに、音響トラブルが発生した。ギターが音割れしてちゃんと鳴らないのである。まるで、PAが接触不良を起こしているような感じである。不安定な音響がしばらく続いてしまい、演奏する側もなかなか集中しづらい環境であった。聴いている我々以上に、メンバーは不本意だっただろうと思う。
後半になってようやく音がちゃんと鳴り出したので、正直ホッとした。


この日の演奏は、この編成でNAADAが目指している音がとても明確だった。先ずはそれがとてもよかったし、目指す演奏を形にするため相当にシビアなリハーサルを重ねたであろうことも伝わって来た。その意味でも、実に意義深いライブだったと思う。
今回の編成はそうそう頻繁にできないだろうけれど、個人的にはもっともっと聴いてみたいアンサンブルである。
繰り返しになるが、この日の「愛 希望、海に空」の刺激的な演奏は、現時点でのNAADAの大きな成果だと思う。本当に、素晴らしいクオリティであった。

この日のライブは、次なる進化を予感させるに十分な内容だった。
これからのNAADAにどういう音楽的な飛躍が訪れるのか、とても楽しみである。

江崎実生『女の警察』

$
0
0

1969年2月8日公開の江崎実生監督『女の警察』




企画は増田弥寿郎、原作は梶山季之「新潮社版」、脚本は中西隆三、撮影は横山実、音楽は佐藤允彦、主題歌は「酒場人形」(作詞:山口洋子、作曲:猪俣公章、唄:青江三奈、ビクターレコード)、照明は藤林甲、録音は沼倉範夫、美術は佐谷晃能、編集は鈴木晄、助監督は藤井克彦、製作主任は岡田康房、スクリプターは熊野熙子、色彩計測は山崎敏郎・東洋現像所、スチールは浅石靖。製作・配給は日活。
1968年/カラー/82分/シネマスコープ・サイズ


こんな物語である。

銀座に7軒のキャバレーやバーを展開する暁興業で、人事部長兼保安部長として手腕をふるう篝正秋(小林旭)。彼は、ホステスのスカウトや他店からの引き抜き、トラブルの解決までを手掛ける切れ者でホステスたちからの信望も厚く、夜の街では彼のことを「女の警察」と称している。
篝は、親代わりに自分のことを育ててくれた小平社長(十朱久雄)の右腕として、東奔西走。雇ったばかりのホステス・堀江美智子(太田雅子)がたちの悪いチンピラのヒモ松田(藤竜也)に囲われているのを助け出したり、休む暇もなく働いている。



そんなある日、かつて篝がスカウトして結婚を機に店を辞めた玖島千代子(十朱幸代)の夫が、自動車事故を起こして急死する。篝と玖島は大学の同期で、千代子に玖島を紹介したのも篝だった。
篝は、雑誌編集者の玖島がかなりの特ダネを取材していた最中に事故死したことを知り、彼の突然の死に疑問を持った。そこで、玖島の葬儀で久しぶりに再会したやはり親友で興信所を開業している加藤汀三(小高雄二)と共に、事件究明に乗り出す。




一方、小平の元をライバル会社大宝観光社長の宝部(富田仲次郎)が訪れ、自分のクラブを5億で買って欲しいと持ちかけた。しかも、宝部はこの話を金融王の大川作之助(加藤嘉)にも持って行っていた。
宝部は随分と急いでいる風で、小平はこの話には何か裏があるのではと考えた。早速、小平は篝にこの件を徹底的に調べるよう命じた。
篝は、店のホステス丹羽章子(牧紀子)の上客に大川と国土開発公団の課長・藤代(木浦佑三)がいることを突き止めた。さらに、藤代は佐本覚(内田稔)と元鉄道次官の託摩周六(内田朝雄)を連れて店にやって来ていることも分かった。
並行して玖島の事故を調べている篝と加藤は、玖島の上司で雑誌編集長の田村(神田隆)から玖島が所有していた名刺入れを預かった。その中には、託摩の名刺も含まれていた。これは、何かの符丁のようだと篝は考えた。

鍵を握っていると思われた章子が、突然姿を消した。彼女に多額の支度金を用意した小平は、篝に章子を探し出すよう命じるが、意外なところからも同じ依頼が舞い込む。章子をかこっていた大川も、彼女を探し出してほしいと篝に言って来たのだ。大川は、章子の体にゾッコンだった。
調べを進めるうちに、いよいよ玖島の事故は仕組まれた殺人だったのではないかとの疑いが濃厚になって行く。託摩は憲民党幹事長の工藤(加原武門)とも繋がる大物国鉄族であり、佐本は怪しげな不動産コンサルタント、そして国土開発公団の中間管理職。宝部が一刻も早く数億の金を工面したがっていること。
大がかりな鉄道絡みの政治的な用地買収利権のきな臭い匂いが、そこかしこに漂っていた。

一方、未亡人となった千代子は、再びホステスとして働きたいと篝に懇願。夜の街に復帰する。

事件の裏に隠された真実とは?
篝は身の危険も顧みず、親友の無念を晴らすため、そして千代子のために、事件の核心へと突き進んで行くが…。


如何にもプログラム・ピクチャー然としたスピーディな展開が、誠に痛快な娯楽作品である。
クールさと熱い正義感を持ち合わせ、女にもモテまくる篝というタフガイを小林旭が軽快に演じる。
最終的な黒幕の大物加減もいいし、事件に直接関わる胡散臭い連中の存在もなかなかだ。舞台が銀座ネオン街ゆえ、登場するホステスたちと小林旭の濡れ場でもしっかりと描かれていて潔い。
ただ、篝と互いに想い合う千代子役の十朱幸代が淡白なところがいささか物足りない。ちなみに、小平社長役の十朱久雄とは、親子共演である。

本作は、青江三奈がホステス役で登場して劇中で歌を披露する歌謡映画でもあり、この後すぐにシリーズ化される。確かに、シリーズ化に適した素材である。




内容的には、如何にも日活ロマンポルノ前夜の風俗映画であるが、監督した江崎実生はロマンポルノ転向後の日活では撮っていない。助監督の藤井克彦は、ロマンポルノのローテーション監督の一角を担うことになる。

ストーリー展開としては怒涛のご都合主義が貫かれるものの、登場人物たちの魅力、波状攻撃のように畳みかけてくるエピソードの数々、悪役がしっかりとキャラ立ちしているところ等々、娯楽作品に必要な要素をすべて備えていると言っていいだろう。
おまけに、太田雅子こと梶芽衣子も小林旭を誘惑しようとしっかり脱いでいるし、青江三奈の歌唱シーンまで観ることができるのだから、これ以上何を求めるものがあるというのだろう。

本作は、観客を楽しませることにとても誠実な作品。
ある意味、今こそ学ぶべき点の多い一本である。
Viewing all 230 articles
Browse latest View live