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『蠱毒ミートボールマシン』

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2017年8月19日公開『蠱毒ミートボールマシン』

 


監督、脚本、編集、キャラクターデザイン:西村喜廣/脚本:佐藤佐吉/製作:坂本敏明/プロデューサー:山口幸彦、楠智晴、山口雄大/撮影:鈴木啓造/照明:太田博/美術:佐々木記貴/録音:西條博介/衣裳:中村絢/ヘアメイク:征矢杏子/VFXスーパーバイザー:鹿角剛/特殊造形:下畑和秀、奥山友太/アクション監督:坂口茉琴/音楽:中川孝/キャスティング:安生泰子/助監督:片島章三/制作担当:真山俊作/特殊コスチューム:カリわんズ/アクション監修:匠馬敏郎
製作:キングレコード/制作プロダクション・配給:アークエンタテインメント
宣伝コピー:「TOKYO IS NO FIRE.」
2017年/日本/カラー/ステレオ/100分


こんな物語である。

齢50にしていまだ独身の冴えない中年男・野田勇次(田中要次)は、債権回収会社の社員として債務者宅に借金取り立てのため日参しているが、元来気弱でお人好しの野田はノルマを達成できずに社長の田ノ上(川瀬陽太)から日々叱責を受けている。おまけに、浪費家の母がしょっちゅう遊ぶ金欲しさに野田に連絡してくる。
そんなわびしい人生を送っている野田の唯一の楽しみは、行きつけの古本屋で落語の中古カセットを買って聞くことだった。古本屋に行くもう一つの目的は、そこでバイトしている三田カヲル(百合沙)の顔を見ることだった。

相変わらず借金の回収は思うに任せず、ノルマの足しにとその場しのぎのキャッシングさえ限度額を超え、おまけにこのところ感じていた激しい胃痛の原因ががんと診断される始末。失意にかられた野田は、半ばやけくそになってこれまで焦げ付いていた借金を強引に取り立てて行った。
ところが、ストーカーと間違われて警官隊(島津健太郎、山中アラタ、屋敷弘子、栄島智)に追われた挙句、呼び込みで入ったぼったくりバー(マダム:鳥居みゆき、キャバ嬢:水井真希、松田リマ、倖田李梨)で回収した金を巻き上げられてしまう。
しつこい男・酒井(三元雅芸)に言い寄られて困っていたカヲルをたまたま助けたら、彼女から怪しげなフレンドリー教会の集会に招待され、野田はすべてが嫌になってしまう。

 

野田が取り立てで街を歩き回っていた時、幾度か山高帽子にマント姿でライン引きを押している不思議な女(しいなえいひ)を見かけていた。その女が、何日もかかって野田が住む街を一回りして白いラインを引き終える。すると、空から巨大なフラスコが降りてきて街を遮断してしまう。

 


フラスコの内側に隔離された人々を、謎の小型生命体ユニットが襲う。ユニットは、人に取り憑いて触手で眼球を貫き、寄生された人はネクロボーグと化して殺し合いをするように操られた。

 

 

警官隊に囚われ、留置されていた野田にもユニットの魔の手が伸びるが、彼は間一髪でユニットの完全支配から逃れ、自分の意思を残したまま半ネクロボーグ化した。

 


野田は、ネクロボーグの戦場と化したカオスの街に出て、想いを寄せるカヲルを探し始めるが…。

 



キャスティングの遊び心やほとんど必然性を感じさせないエロティックな描写も含めて、西村喜廣が「とりあえず、やりたいことをすべてぶち込み派手に血を飛び散らせて、カオスな映画を撮ってみた」的な印象を見る者に与える外連味あふれた作品である。異色忍者映画の快作『虎影』(2015)に出演していた役者も多い。
らしいという意味では、実に西村映造らしいテイスト満載の映画だと思うが、個人的には今ひとつノレなかったというのが正直なところである。

僕が一番ダメだったのは、前半の展開が何とも冗長で、しかもストーリーテリングとしてあまりにも定型的なドラマに感じられたことである。
気弱で仕事もままならない取り立て屋とか、粗暴な社長とか、憧れの女の子はカルトっぽい教会の信者であるとか。ぼったくりの暴力キャバクラにしても、奇をてらったようなライン引きの女にしても、何となく既視感を伴う設定である。
恐らくは意識的なのだろうが、前半部分であえてこういう型にはまったストーリーに尺が割かれるため、フラスコで街が隔離された後のネクロボーグ・バトルに映画的なエンジンがなかなかかからないように思った。
なまじ、前半にまっとうな物語が据えてあるがゆえに、後半における奇想天外なバイオレンスから、「蠱毒」と冠された意図が明白になる斉藤工扮する「ラララむじんくん」みたいな宇宙人のキッチュなオチに至るまで、映画がやや空回りしている印象なのだ。

 


『虎影』にあった、あえて西村流に屈折させた忍者ものという心意気や、外連とニヒリスティックな毒をばらまきつつも、不思議な風通しよさとドラマ的カタルシスをしっかり備えたドライヴ感に乏しいとでも言えばいいか…。
その中にあって、本作における個人的カタルシスのピークと言えば、島津健太郎が演じた警官隊長殉職の場面だった。
その意味では、もっとあざとい映画的な収束を見せてほしかったなぁ…と思ってしまった。

 


余談ではあるが、屋外プレイに興じているうちに降りてきたフラスコで切断されてしまうカップルを高橋ヨシキと若林美保が、テレビ・コマーシャルに登場する原住民を石川雄也が演じている。
また、ピンク映画好きなら、田中要次と川瀬陽太のツーショット・シーンを見て女池充監督『ぐしょ濡れ美容師 すけべな下半身』(1998)を思い出した人もいるだろうし、「田中要次の初主演映画っていうけど、本当は新里猛作監督のピンク映画『痴漢タクシー エクスタシードライバー』(1999)に主演してるんだよなぁ」と思った人もいるだろう。


本作は、やりたい放題の突き抜けてカオスな作品。
ただ、異才・西村喜廣監督には、さらなる高みを目指してほしいと願わずにはいられない一本でもある。

イイネ!0

 


水素74%『ロマンティック♡ラブ』

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2017年10月7日、伊勢佐木町のTHE CAVEで水素74% vol.8『ロマンティック♡ラブ』千穐楽を観た。

 


作・演出:田川啓介/照明:山口久隆/衣装:正金彩(青年団)/宣伝美術:根子敬生(CIVIL TOKYO)/宣伝写真:伊藤祐一郎(CIVIL TOKYO)/技術協力:工藤洋崇/当日運営/横井佑輔、足立悠子(ブルドッキングヘッドロック)
制作:水素74%/協力:ウォーターブルー、青年団、ブルドッキングヘッドロック、レトル
なお、当初出演していた板倉花奈(青年団)は怪我のため降板し、新田佑梨(青年団)が代演となった。

 
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

デリヘル嬢のマユ(しじみ)に入れあげる田中(圓谷健太)は、頻繁に彼女を指名しているがマユのことが好きすぎて性的行為に及ぶことができず、ただ会話して無駄にデリヘル代を消費している。マユにとっては、言ってみれば都合のいい上客だ。
だが、それだけでは飽き足りなくなった田中は、意を決してマユを口説きにかかる。最初こそやんわりかわそうとしていたマユだったが、次第に田中は金のことをぐちぐち言い始め、仕舞いには土下座までして付き合ってくださいと懇願し出す始末。
逃げ切れなくなったマユは、渋々田中とデートする約束をしてしまうのだった。

デート当日。マイカーを運転してきた田中は、バーでもノンアルコールで通したがマユは結構酔っていた。その帰り道。運転したいと言い出したマユの言葉に押されて、田中は彼女に車を運転させてしまう。
ところが、マユが運転する自動車はお婆さんをひっかけてしまう。慌てて田中は車を降り、マユに携帯で救急車を呼ぶよう迫るが、マユは携帯を出そうとせずあろうことか田中に「お婆さんなんて轢いてない、あれは犬よ。ね、そうでしょ」ととんでもないことを言い出す。

結局はマユに押し切られ、今二人は田中のアパートにいた。「あんなことになって、一人でなんていたくない」と言うマユは、田中のベッドに腰かけて「ねえ、今夜泊まって行ってもいい?」と甘い声を出した。
非常事態だというのに、マユの甘言に翻弄されっ放しの田中は、「ベッドはマユちゃんに使ってもらうとして、俺はどこに寝ようかな…」を期待半分にわざとらしくおどおどした。
マユは、こともなげに「ベッドで一緒に寝ればいいじゃない。それでなきゃ、意味ない」と答えた。そして、マユは科を作って田中に抱き着くと、あの車は田中さんが運転していたことにしてほしいと色仕掛けで迫ってきた。
そんなことを引き受けたらとんでもないことになると頭では分かっているのだが、惚れた弱みというか下半身の疼きというか、田中はまたしても彼女に押し切られてしまう。
おまけに、その晩二人は五回戦までこなした。それが、田中のロスト童貞でもあった。

田中は、マユの身代わりになって懲役二年の刑を言い渡される。口止めしなければならないマユは書きたくもない手紙を書き、会いたくもないのに面会に足を運んだ。会うたび田中は疲労の度を深め、愚痴と不満がだんだん増えて行った。
デリヘル嬢はやめてほしい、手紙の便箋がおざなりなものを選んでいる、本当に自分のことを好きなのか、今マユは外で何をやっているのか、俺のことをどう思っているのか、二年も待ち続けてくれるのか、不安だ、酷い環境で我慢ももはや限界だ…等々。
さすがに、マユはこの冴えない男のことがただ鬱陶しいだけのウザイ奴にしか感じられなくなってきた。しかも、何でメールやLINEのご時世に、自分はしち面倒臭い手紙なんか書かなければいけないのか…。

すっかり嫌気がさしたマユは、自分の身代わりで懲役を背負ってくれた田中のことを、いとも容易く捨ててしまう。手紙なんて、もう書きたくもないというその一心で。彼女が最後に書いた手紙は、別れ話だった。

一方的に田中を切ったマユは、ちゃっかりと新しい生活を始めていた。自分とはかなり年の離れた中年男で、食堂を経営する山田(近藤強:青年団)と結婚したのだ。山田はバツイチで、前妻との間に和子(新田佑梨:青年団)という高校三年生の一人娘がいた。
山田は和子と頻繁に会っていたが、それがマユには疎ましかった。マユは、山田に和子とは会わないでほしいと迫った。

自分の経営する食堂で和子と会っている山田は、娘にもう自分のことを気にかけてくれなくてもいい、会う回数を減らさないか、来年は就職だしお前も色々と忙しいだろう、と暗に会うことをやめようと匂わせてみるが、和子の反応は真逆だった。
彼女は、母親の元を出て山田の家で暮らすことを考えていた。どうやら、山田の元妻も和子の思いを尊重するつもりらしい。和子にとって気がかりは、母というよりは年の離れた姉と言った方がしっくりくるくらいのマユの存在だった。和子は、正直に言ってマユのことをよく思っていない。
ところが、外出から戻ってきたマユはあっさり和子と同居することを「私が決めることじゃないけど…」と断りながらも反対しなかった。これには和子も拍子抜けしたし、山田も全くの予想外だった。

ところが、和子が「前に私が使っていた部屋を見てくるね」と言って席を外した途端、マユは「もう会わないでほしいと言っていたのに、どうして同居しなかならないの?」と山田を責め始めた。
山田には、訳が分からない。要するに、マユは自分の手を汚さず、あくまで山田の意思で和子とは同居もしないし会うこともやめにしたいと言わせたいのだった。
そう言われても、さすがに山田も和子にやっぱり同居は出来ないし今後は会うこともやめたいとはとてもいい出せない。マユは、表向きニコニコ笑っているが、それがかえって山田には恐ろしかった。
山田は、あとでLINEするからとその場を取り繕い、和子は帰って行った。和子が帰宅すると、何でその場で言わないのかとマユになじられるが、結局山田は言い出せぬまま、なし崩しに三人の生活が始まってしまう。

刑期を終えた田中が、出所する。彼は、マユのことが許せず彼女のことを探していたが、偶然にも週刊現代に掲載された山田の食堂の写真を発見。そこの写る山田とマユを見て、田中は山田の食堂を訪ねた。
山田とマユは留守をしており、食堂には和子だけだった。和子は、この闖入者をどうすればいいのか扱いに困ってしまう。そこに、山田が戻ってくる。田中は、要領を得ぬままマユと山田の関係を聞き出そうとする。そこで知ったのは、自分がほんの一瞬付き合う以前からマユと山田は関係していたという冷酷な事実だった。
愕然とした田中は、我々はともにあの女の被害者だと言い出すが、「あんたにとってはそうかもしれないが、そんなこと自分にとってはどうでもいいことだ」と山田に言われて追い返されてしまう。

納得のいかない田中は、マユとの間にあったことをすべて和子にばらしてしまう。すると、和子はやっぱりあの女はそういう人間だと思ったと彼の話を信じてくれた。「あの女と会って、どうするんですか」をワクワクするような顔で聞いてくる和子に、「さすがの俺も、マユのことを殴るかもしれない。しかも拳骨で」と言った。
ところが、いざマユと再会すると、田中は自分とやり直してほしい、触りたいし触ってほしいとどうしようのないことを言い出す始末。コンビニのバイトで暮らしている経済力のない田中とは無理だとバッサリ切ってくるマユ。すべてを失ってこんなことになったのは誰のせいだと田中が詰め寄っても、マユは残酷に切って捨てた。
マユが出ていくと、田中は「好きだ!」と言って和子に抱き着いてきた。和子が突き飛ばすと、田中は「好きなんだ!誰でも。触りたいんだ」とめそめそ泣き始めた。

和子は、マユの本性をすべて父親に話した。食堂のテーブルで向かい合う山田、和子、マユ。「言うことがあるだろう」と詰め寄る山田に、マユは薄笑いを浮かべながら「二か月だって…」と言って母子手帳を出した。
呆気にとられる山田と和子。マユは、畳みかけるように「ねえ、私とこの子のことだけを考えて」と甘えた声を出した。
「私が全部話したでしょ?轢き逃げして、罪を人に被らせるような女だよ」と和子が言っても、山田は「これからのことを考えないと」と歯切れ悪く言ってマユを見るばかりだ。
山田にも、そしてもちろんマユにも、和子の声が届くことはなかった…。


初日の二日前にようやく上がった台本をその翌日に半分違った内容に書き直すというバタバタの状況の中、何とか幕を開けた舞台。
だが、出演者の一人板倉花奈が自宅で骨折を伴うけがを負い降板したため、4日目マチネとソワレ、5日目が休演。急遽、新田佑梨を代演に立てて続行されるというアクシデント続きで、まさに綱渡りのような展開を見せた公演
本当に、何とか千穐楽までたどり着いた感じである。

ストーリー紹介をお読みいただければ分かるように、「ロマンティックな愛」というタイトルとは裏腹に、自己愛だけに生きる一人の女と彼女に翻弄されて人生を狂わされていく男二人のシニカルで滑稽なブラック・コメディである。
主役の性悪女マユを演じるのは、元人気AV女優にしてピンク映画やVシネマでも個性的なキャラクターと演技力で評価されているしじみ
僕は、しじみ(持田茜時代を含む)出演のピンク映画やVシネマを何本も見ていて彼女のファンなのだが、彼女出演の舞台を見るのはこれが初めてだった。
前述したような諸事情もあり僕は観るのが不安だったのだが、彼女の演技は僕の予想を上回る出来だったと思う。正直、ホッとした。

 


マユという無意識の悪意に満ちた魔性のキャラクター、ふわふわしたたたずまいと甘い声で男の気を惹いたかと思うと巧みに身をかわして保身して生きている残酷な女。そんな実態がつかめないカメレオンのようなマユをしじみは彼女なりのリアリティを付与して好演していた。
あくまで僕の抱いている個人的なイメージだが、目の前でマユを演じているしじみを見ていると、「何だか、しじみちゃん自身を演じてるみたいに見えなくもないよな…」といった既視感を覚えたりして、ちょっと不思議な気持ちになった。
科を作って男を懐柔していくシーンに結構な尺が取られているため、その陰に隠された残酷さが顔を出すまでのバランスが単調さに陥るギリギリの配分だったように思う。もう少しテンポよく切り替えがあった方が、舞台にメリハリが出せたんじゃないかなと思う。
本作は場面転換の都度しじみのナレーションが挿入されるのだが、しじみの声が科を作る時の甘えた声に近く雰囲気が同様なので、このナレーションがもっとニュートラルであればマユの冷酷さが顔をのぞかせた時と3パターンの切り替えができたのではないか。

彼女に引っ掻き回される田中と山田を演じた圓谷健太近藤強は、ともに愚かな男の情けなさと哀愁が漂っていて思わずニヤッとしてしまった。
そして、新田佑梨演じる和子という高校生は、ある意味マユ同様のしたたかさを持っており、それが時折顔をのぞかせるというのも、この舞台のシニカルさを際立たせている。
マユが妊娠しているというラストのツイストには膝を打ったし、子供を身ごもってもなおマユが夫のことを「山田さん」と呼ぶのも確信犯的である。

ただ、60分で幕を下ろすこの舞台は、いささか舌っ足らずで物足りなさを残すのもまた事実である。これでは、マユという人間が意味不明に男を渡り歩くだけの実像がつかめないトラブル・メイカーにしか映らない。
僕としては、彼女の真に悪魔的な暗黒性をこそ最後に炙り出してほしかったし、そのためにはあと20分くらいの尺が必要だろう。

あと、THE CAVEという独特な構造のハコがあまり効果的に使われていなかったのではないか。舞台三面を使って移動しながらの場面転換が、何とも見にくいし間が空いてしまうのだ。
それと、田中の部屋に置かれたベッドが小さすぎるように感じた。マユが田中を誘惑するシーンの時に手段を選ばない色仕掛け的力技でしじみに園谷を押し倒してほしかったが、ベッドが小さすぎるためにそっと手を回して体を押し付けるという演出だった。もう少し、マユが性的に煽るシーンがあってもいいように思った。


とまあ色々不満もあるのだが、様々なアクシデントの中ここまで舞台を作り上げてそれ相応のクオリティで無事千穐楽まで走り切ったことは評価していいだろう。
最後の書いておくと、僕は舞台で演じるしじみをもっと見てみたいなと思った。

纐纈雅代×若林美保+辰巳小五郎「解禁4」@吉祥寺MANDA-LA2

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2017年10月11日、吉祥寺MANDA-LA2にて纐纈雅代若林美保のコラボ企画「解禁」シリーズの第4弾を見た。今回のゲストは辰巳小五郎である。スガダイローをゲストに迎えて2015年8月17日に行われた第3弾以来、2年2か月ぶりの「解禁」である。

 


纐纈雅代(アルト・サックス、法螺貝、神楽笛)、若林美保(ダンス)、辰巳小五郎(トランペット、ガジェットギター、テルミン)

第一部

纐纈雅代SOLO

一人ひっそりステージの向かって右脇に立った纐纈雅代が、朗々とアルト・サックスを吹き始める。まるで、アンプリファイドした海童道宗祖の法竹を聴いているような深遠で土着的な音像が心に染みる。次第に激しさを増していく音は、まるで吉祥寺の夜を切り裂くかのようだ。

 


若林美保×纐纈雅代DUO

赤いフード付きのベッド着を身にまとった若林美保が、静かにステージに登場。纐纈のサックスの波間を漂うように踊ると、黒のコルセット・ランジェリー姿になって彼女の真骨頂とも言える赤い縄を使っての自吊りによる空中パフォーマンス。そして、黒いシースルーのキャミソール姿にチェンジしての舞い。
派手なギミックを一切排し、抑制された音数と踊りでのパフォーマンスは、まさしく日本的様式美そのもの。吉祥寺の雑居ビル地下にあるライブ空間が、まるで夜の海に変貌したような幽玄の世界である。
積み重ねてきた「解禁」、そして今年5月にストリップ劇場ニュー道後ミュージックで4日にわたって行われた二人のパフォーマンスの成果と断言できる誠に素晴らしいコラボレーションである。

 


辰巳小五郎SOLO

ビブラートのかかった伸びやかなトランペットは、幾ばくかの哀愁を帯びた美しさ。PCで重ねられた音の波が、重層的なモアレ状の音塊を作り出し、それが音宇宙となって会場に解き放たれていく。その、得も言われぬ刺激に震える。

 


若林美保×辰巳小五郎DUO

辰巳の作り出す音の中で宇宙遊泳するように、きらびやかなステージ衣装で踊る若林。その所作は儚く、そして美しい。
ただ、スペース・ダブの如き圧倒的な音像の中で、彼女は後半いささか踊りあぐねているようにも見えた。
纐纈雅代とのDUOでは、纐纈がブロウに“若林が踊るべき、音の隙間”を持たせるよう細心の注意を払い、あうんの呼吸で演奏していたからだろう。それに比して、辰巳の演奏はある意味彼のトランペットだけで世界が完結してしまっていたようにも思う。
それが、少し残念だった。

 


第二部

辰巳小五郎×纐纈雅代DUO

纐纈が法螺貝の音に、辰巳がトランペットのマウスピースを吹いて応じる。そんな遊び心でスタートすると、楽器をアルトサックスとガジェットギターに持ち替えて次第に音はインダストリアルでアヴァンな音響派的雰囲気を帯びていく。それは、まるでニューヨークはニッティング・ファクトリーにおけるジョン・ゾーンの演奏のようで実に刺激的。聴いていて、思わずニヤリとしてしまう。

 


若林美保×纐纈雅代+辰巳小五郎

ステージの両端で演奏する二人の間に、若林が登場。音が止んだ静寂の中、一人踊る若林の足音だけが聞こえる。それなりに尺が取られているため、個人的には途中で某かの音楽的なギミックが欲しいところである。
若林が自吊りすると、それを合図に辰巳がテルミン、纐纈が神楽笛を奏で始める。ややアンサンブルに粗さはあるものの、アブストラクトな雰囲気は悪くない。
第一部での若林×纐纈DUOに続き、今夜二度目のハイライトはまさにここからだ。「解禁3」でも演奏された「ハーレム・ノクターン」が、スペイシーに、そしてキャバレー的猥雑さでプレイされた。その、何とも言えない妖しい色気にゾクゾクする。そこから、曲は「愛の讃歌」へ。その切ない美しさに息を飲む。
そして、辰巳がリードするエピローグ的な演奏をもってこの夜の「解禁」は幕を下ろした。

 



回を重ねるごとに、新たなる刺激を与えてくれる「解禁」シリーズ。その第4弾で、纐纈雅代と若林美保は一つの節目と言ってもいいような充実したプレイを見せてくれた。
いささか陳腐な表現で何なのだけど、やはり「継続は力なり」という言葉が頭に浮かんだ。

 


終演後、僕は演者三人と「解禁」シリーズのプロデューサー桜井さんと少し話してから、会場を後にした。心楽しい吉祥寺の夜。
少し気が早いが、次回を楽しみに待ちたい。

NAADA「NAADA HOUSEへようこそ vol.2」

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2017年10月21日、西新宿GARBA HALLでNAADA二度目のワンマンとなる「NAADA HOUSEへようこそ vol.2」を観た。
今年唯一のNAADAライブで、ほぼ一年ぶりのワンマンである。僕が彼らのライブを観たのは去年11月17日の川口CAVALLINO以来、この日が通算48回目。

 


NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(pf)

会場のガルバホールは、2015年11月に閉館された白龍館をリニューアルして2016年12月にオープンした音楽ホールである。
モーツァルトの「魔笛」をイメージしたという劇場は、モザイクタイルやステンドグラスが散りばめられたアールデコ調の意匠が施されており、こぢんまりとしたクラシカルでシックな佇まいとどっしりした92鍵盤を有するヴィンテージのグランドピアノ「ベーゼンドルファーmodel275」がひときわ目を引く。
50席くらい配された席はほぼ満員で、遠方から来た人もいたようだ。

現在のNAADAは、ファンの目に見える活動としてはYouTube上でカバー動画を毎週欠かさず更新しているNAADAchannelをメインにしており、そのチャンネル登録数は7,200人を超えている。動画再生回数も、100万回を超えたものが数曲。彼らの音楽は、確実にリスナー数を増やしていると言っていいだろう。その反面、ライブは目立ってその本数が減っており、去年は5本、今年は今回のワンマン1本だけである。
ただ、長年NAADAの音楽を聴いてきた人ならお分かりのことと思うが、彼らは決してライブ・パフォーマンスがメインのユニットではなく、基本的にはスタジオ・ワークにこそその音楽的真価が発揮される。もちろんライブ演奏もいいが、彼らの音楽キャラクターを存分に表現できる場は、スタジオ録音になるということだ。卑近な例を挙げるならば、後期のビートルズやスティーリー・ダンがそうであったように。

 


そんなこともあり、近年はライブ活動よりも作品制作の方にシフトしているのだろう。そこに、自身の音楽活動をフォーカスしている訳だ。その成果が、上述したようなYouTubeの数値として明確に表れている。

今回のワンマンは、彼らにとって一つのファン・サービスというかリスナーとの音楽的コミュニメーションの場であり、いささか風変わりな(けれども、それ以外の表現が見つからない)比喩を使うなら、自身の音楽を「放牧」するという意味合いがあるのだろう。
自分たちが紡ぎあげてきた曲たちを外気に当てることで、ブラッシュアップとリフレッシュするということだ。僕は、ずっと彼らのライブ演奏を聴いてきたファンなので、その音楽的な放牧体験を共有するために、会場に足を運んだ。
コンサートは途中20分の休憩を挟んだ二部構成で、実質的な演奏時間は3時間半を超える長丁場だった。
ユニークだと思ったのは、第一部「太陽のステージ」がわりとMC多めの和やかな演奏だったのに対して、第二部「月のステージ」がMCも拍手も一切なしの極めてストイックな演奏だったことである。
演奏されたのは、アンコールも含めて全34曲だった。

事前にちょっとした用事があったのと、元来極度の方向音痴ゆえに僕が会場に到着したのは開演時間ぎりぎりだった。で、場内に入ると空いていた最前列右端の席に滑り込んだ。その席は、ボーカルのマイク・スタンドが立っている真ん前に位置しており、当然のことながら演奏が始まると「RECOが、僕の目の前で歌っている…」みたいな状況だった。
それはそれでいいのだけど、これが結構落ち着かない。演奏内容とはまったく関係ないことだけど、僕は一人暗く後部座席に座ってひっそり聴いている方が性に合ってるからだ。「あれ、来てたの?気付かなかったよ」みたいな感じで。
歌っているRECOと目が合うと、ついつい下を向きがちである。

和やかなリラックス・ムードで進んだ「太陽のステージ」では、最初の3曲でボーカルが後ろに下がっている印象だった。ギターのバランスはいいのだが、何故かピアノの音が前にせり出すように聴こえて、歌がその陰に隠れてしまうように感じた。4曲目以降は、バランスが整い特に気にならなくなった。
個々の感想は書かないが、第一部の個人的ハイライトは「HANABI」だった。しっかりした演奏と力強いボーカルがストレートに突き刺さるこの曲を聴いていて、とても気持ちが昂った。
そして、ラスト3曲「winter waltz」「約束の場所」「RAINBOW」の流れに、
まだ二人組ユニットだったNAADAが新宿のSACT!で演奏していた頃のことを思い出して、何だか懐かしくなった。あぁ、確実に時間は流れているのだな…と。

一転してストイックな雰囲気に貫かれた第二部は、とにかく音楽的純度の高い演奏が繰り広げられた。個人的には、みんなで手拍子的な感じより、音楽鑑賞に特化されたステージの方が落ち着く。
後半で聴かせた「echo」~「fly」は、NAADAのライブでは一つのハイライトを構成する楽曲で、この日も素晴らしいテンションで研ぎ澄まされた鋭利なプレイが心に響いた。「Twill」のエモーションあふれる歌唱、エピローグに相応しい静謐な演奏が余韻を残す「sunrise」も染みる。
前回のワンマンではなかったアンコールが2曲あり、最後に演奏されたのはポジティヴな「僕らの色」。

RECOも自身のブログで書いているから僕も書くのだが、彼女には喘息があってこの日もコンディション的には結構厳しい状態だったらしい。
確かに、第一部から曲間でちょっと咳をする場面があり僕はひやひやしていたのだけれど、第二部では気管を絞って喉をコントロールしながら歌唱する感じだった。それでも抑えきれず、少し咳をする場面があった。僕は50回近く彼らの演奏を聴いてきたけれど、こんなことは初めてである。
元来がストイックで求道的、完全主義で自分に厳しいRECOだから、さぞや悔しかっただろうと推察する。それでも、ライブは素晴らしいものだった。
アンコールは「僕らの色」だろうと思っていた僕は、どんどんフォルテッシモに歌い上げる展開を見せるこの曲を求めていいんだろうか…とアンコールの拍手をためらったくらいである。


長丁場のライブは、彼ららしい生真面目な誠実さあふれるとても気持ちのいい時間だった。
4時間が長いと言うけれど、日常的に5、6時間某劇場に入り浸っている僕には全く苦にならなかった。
終演後、僕は久しぶりにRECOにこの日の感想を伝えて、ライブ会場を出たのだった。

これからの、NAADAの益々の活躍を期待したい。

小林政広『気仙沼伝説』

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2006年の小林政広監督『気仙沼伝説』『ええじゃないか・ニッポン宮城篇~気仙沼伝説』)。
製作総指揮・原案:畠中基博、/企画:畠中節代、益田康久、熱田俊治/プロデューサー:熱田俊、治新津岳人/オリジナルストーリー:藤村磨実也/脚本:藤村磨実也、小林政広:音楽:周防義和/撮影:伊藤潔/照明:木村匡博/美術:山崎輝/録音:北村峰春/編集:金子尚樹/音楽プロデューサー:亀井亨/監督補:川原圭敬、丹野雅仁/助監督:石田和彦/制作担当:植野亮/制作統括:畠中節代/後援:宮城県、仙台市、気仙沼市/タイトルバック曲:水越けいこ「海潮音」(作詞:水越けいこ/作曲:工藤霊龍/編曲:和田春比古)(徳間ジャパン)
制作プロダクション:葵プロモーション/製作:パグポイント、葵プロモーション
2006年/35mm/117分/カラー/アメリカンビスタ
本作は、2005年9月にクランクインして1ヵ月半で撮影された。

 



こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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宮城県気仙沼市在住で、趣味の考古学研究に熱中する川島輝子(鈴木京香)。彼女は、高校時代に警察官の父を病気で亡くして以来、母の房子(倍賞美津子)と二人暮らし。三十を過ぎても結婚することなく好き勝手に生きる娘の行く末を心配して房子は盛んに見合いを勧めるが、輝子はまったく興味を示さない。時間さえあれば気仙沼湾に潜って、ガラクタにしか見えない物を拾ってくるのが彼女のライフワークだった。

輝子は、事務の仕事を終えると時間さえあれば宮城文化大学文化部文化人類学考古学研究室に顔を出した。助教授の村井拓海(杉本哲太)は彼女の幼馴染で、「拓兄」「輝坊」と呼びあう仲だ。拓海はバツイチで知り合いのご婦人(あき竹城)から盛んに見合い話を持ち込まれるが、輝子同様ひたすら断っていた。研究室には、彼の一人娘の宮里千鶴(阿井莉沙)も所属している。
輝子が拓海の研究室を訪れると、彼の部下である笹尾レイコ(渡辺真起子)を紹介されるが、笹尾は敵意を剥き出しにした。

幼き日のある夏、輝子(鈴木奈々)は海から上がった拓海(小野寺良介)に外国の文字が書かれた何かの欠片をもらった。それがきっかけで、彼女は遺跡に興味を持つようになる。高校時代は考古学部に所属し、輝子は貝塚を発見して地元の大きな話題にもなった。
今でも、彼女は拓海からプレゼントされた欠片を大切に持っている。

拓海は、多忙な研究の日々の合間を縫って依頼されたコラムや原稿を執筆している。しかし、彼のいささかロマンチックに過ぎる発想は、彼の上司である殿村徳治教授(岸部一徳)の不興を買っていた。
そんな拓海の姿勢が、輝子にとっては好ましかった。彼女にとって、考古学はロマンそのものだ。

ある日、輝子は海に潜って硯の破片を見つける。彼女も属している海を守る会の知人に見せると、伊達政宗に献上されたことでも有名な雄勝硯ではないかと言われた。しかも、かつてこの辺りの海で沈没船を見た漁師がおり、その人曰く船には財宝が積まれていたらしい。
その話にロマンを掻き立てられた輝子は、当時のことをよく知る鳥飼夫人(加藤治子)を紹介されて会いに行く。鳥飼夫人の話では、その漁師は周りから嘘つき呼ばわりされ続けながらも、一人沈没船を探し続けた末に発見できぬままこの世を去ったのという。驚いたことに、その漁師は拓海の祖父だった。
初耳だった輝子は、拓海に会いに行くとどうして話してくれなかったのかとムクれた。

海を守る会が植林した場所にまた測量業者が勝手に入り込んでいるとの連絡を受けた輝子は、現場に駆けつける。業者たちは、宮城文化大学・殿村教授の依頼で行っているだけだと弁明するが、輝子は責任者に話をつけようとする。
輝子が明光コンサルタント仙台支局に連絡を入れると、何故か料亭で会うことになった。鼻息荒く乗り込んだ輝子に、相手の男はフレンドリー話しかけて来た。何と、測量の責任者は高校時代の同級生・瓜生達也(鈴木一真)だった。
徹底抗戦のつもりが思いがけず同窓会となったが、偶然にも同じ料亭に房子がやって来る。一緒にいるのは、亡き父の後輩警察官・武野武(國村隼)。二人はどう見ても相思相愛で、房子が執拗に輝子に見合いを勧めるのも半分は自分が再婚したいからだった。
食事を終えると、瓜生は輝子を車で送った。車内で、冗談めかして瓜生は輝子に想いを告げるが、輝子はその言葉をかわすと車を降りた。

 


輝子から話を聞いた拓海は、殿村に何を根拠に試掘するのかと詰め寄った。しかし、殿村はさも不快そうに拓海を自分の部屋から追い出した。実は、殿村は秘かに拓海のことを探っていた。拓海の部下である笹尾は殿村と関係を持っており、スパイとして拓海の研究室に送り込まれたのだった。
また、殿村は懇意にしている滑川リサーチに拓海の周辺を調べるよう依頼してもいた。

輝子は、雄勝硯を発見したポイントで新たな物を見つけた。今度は、キリスト教のメダイの欠片のようだった。早速拓海の研究室を訪れた輝子だったが、あいにく拓海は不在。出て来たのは、笹尾と殿村だった。行きがかり上輝子はメダイを殿村に見せるが、殿村はさも感心なさそうに念のため鑑定に回すからと言ってメダイを預かった。
一度はその場を辞去した輝子だったが、思い直す。笹尾を伴い自分の研究室へと戻る殿村より先に、輝子は殿村の部屋に忍び込んで机の下に影に隠れた。

 


部屋に戻ると、殿村は輝子が見つけたメダイを隠れキリシタンの財宝の在処を示したヨハネの座標の可能性があると笹尾に言った。
その話を聞いた輝子は、一瞬の隙をついて机の上に置かれたメダイの欠片を奪うと、二人に気づかれないように研究室を抜け出した。
メダイがなくなっていることに気づくと、殿村は滑川リサーチに連絡。拓海ではなく輝子を探し出してバッグを奪うよう命じた。

殿村教授の部屋を抜け出した輝子は、その足で明光コンサルタントにやって来た。彼女は、瓜生に頼んで車を出してもらう。二人がビルから出て来ると、ちょうどそこでは滑川リサーチの二人が途方に暮れていた。今仙台に来ているからと言われても、何の手がかりもない輝子をどうやって探せるものか、と。運命のいたずらか、明光コンサルタントと滑川リサーチは同じビルに入居していたのだ。
輝子の車は、とある教会の前で停まった。出て来た牧師(香川照之)はメダイを見ると、ヨハネの座標かもしれないと言った。牧師の話では、この地には支倉常長がヨーロッパから持ち帰った400年前の財宝が隠されているとの言い伝えがあるとのことだった。
話を聞き終わると、輝子と瓜生は礼を言って車に乗った。その車を滑川リサーチが追いかける。

瓜生は港に車を停めると改めて輝子に告白したが、輝子はその申し出を断って車を降りた。ようやく女が一人になったとほくそ笑む滑川リサーチの二人だったが、彼らは窃盗未遂で見回りの警察官に逮捕されてしまう。
おまけに、彼らはあっさり口を割ってしまい、殿村の研究室にも刑事たちがなだれ込んで来た。

遺跡発掘に係る偽装が発覚し、殿村は失脚した。告発したのは拓海で、大学は記者会見を開いた。殿村の指示に従い、結果としてその片棒を担がされた瓜生も会社から責任を押し付けられて辞職を余儀なくされた。
仙台を去る前にそのことを告げた瓜生に、輝子は「でも、それが自然を壊す言い訳にはならない」と言った。一方の彼女は、自分は夢を追っているのではなく、考古学を追及する者として伝説の財宝が“存在しない”ということも含めてハッキリさせたいのだと言いきった。そして、二人は握手をして別れた。
拓海の研究室は、一連の事件もあってざわついていた。拓海は、輝子にこの辺りでもういいんじゃないだろうか…と告げた。この言葉を聞いた輝子は、失望と怒りを露わにする。自分は、夢を追う男をずっと求めて見合いもせずにここまで来たが、所詮そんな男などいやしないと言い捨てて研究室から出て行った。

拓海が、輝子の家にやって来た。何を今更という表情を浮かべる輝子に、拓海は例のメダイの欠片を見せてほしいと言った。拓海は、輝子から聞いたポイントに潜ってさらにいくつかの品を発掘していた。メダイの他の破片も混じっていた。
二人は、メダイの欠片を繋ぎ合わせた。ラテン語で書かれた文字を翻訳すると、やはり伝説のように何かの場所を示唆しているように読めたが、一部ピースが欠けていた。
その形を輝子はどこかで見た記憶があった。果たして、いつ、どこでだったのか…。しばし思いを巡らせた輝子の表情に、パッと光がさした。
彼女は2階に上がって行き自分の部屋に並んだ幾つかの小壜の中からお目当ての物を探し出すと、再び拓也のところに戻った。少女時代の自分に、拓海がプレゼントしてくれたあの宝物だった。

メダイの言葉と気仙沼湾の海図を突き合わせ、メダイが示唆する三角形の部分を探す二人だったが、その場所が特定できない。すると、やはりポイントで見つけた鏡を拓海が取り出す。輝子が表面を磨いてみると、そこには十字架と三角形が浮かび上がった。
これで、場所は特定できた。無人島の唐島だ。ただ、メダイに記された数字の意味は依然として解明できぬままだ。探すとなれば、小さな無人島とはいえあまりに広範囲だ。
拓海は、メダイを千鶴に見せてみた。すると、彼女は聖書の章立てのことかもしれないと呟いた。隠れキリシタンの財宝の在処を示すとなれば、あり得る話だった。これで、手掛かりはすべて揃った。

輝子、拓海、千鶴の三人は唐島に渡った。すると、無人島のはずが古い神社があった。教会ではなく、神社が。ひょっとすると、この島に隠れキリシタンたちが身を寄せていたのかもしれない。だとすれば、神社はそのカモフラージュだろう。
近くに樹齢数百年と思しき大木があった。その幹には一か所くり抜かれたような穴がある。十字架が記された例の鏡をはめ込むと、何かのスイッチが作動したようにその鏡は大木の中へと吸い込まれて行った。幹はくり抜かれており、地下に何かが隠されているようだった。三人は、意を決して中へと入って行った。

そこは、広い地下聖堂だった。礼拝堂に位置する場所には十字架が鎮座しており、その下には古びた箱が置いてあった。
人の気配があった。驚いた三人が人影に視線を向けると、そこには殿村が座していた。「この世の見納めにと思ってね。こう見えても、私はクリスチャンなんだよ。これを持って、とっとと立ち去りなさい」と言うと、殿村は鍵を投げた。
訳も分からぬまま、三人は小さな箱と鍵を持って外に出た。すると、地下で爆破音が響き、地面が揺れた。
箱の中から出て来た物、それは日本語に訳された古い聖書だった。隠れキリシタンたちが何年もかけて翻訳したものだろう。彼らが後世に伝えるべき宝、それは信仰だった。
400年の時を隔てた隠れキリシタンたちの魂に想いを馳せ、輝子は落涙した。

身内だけのささやかな結婚式が執り行われ、房子と武は再婚した。牧師を務めたのは、メダイのヒントをくれたあの牧師だった。

 


房子が出て行き一人暮らしになった輝子の家を拓海が訪れた。「浜で待ってる」とだけ言うと、拓海は車を発進させた。
輝子は、拓海の写真を挟んだお見合い写真をカバンに押し込むと、珍しく口紅を引いて出かけた。
一人浜辺に立つ拓海のところに、輝子は期待を胸に近づいた。拓海は、「これからは、夢に生きるよ。君と出逢った頃のようにね。それだけ、伝えたかったんだ」と言った。
その場を立ち去ろうとする拓海に向かって、輝子は言った。「私、お見合いしようと思うの。この人なんか、どうかな?」。そう言って彼女が見せた見合い写真には、拓海が写っていた。
拓海は、目を見開くと「…いいんじゃないかな…」と言うのがやっとだった。しばしの沈黙。こぼれそうな輝子の笑顔。
「輝坊…」と言いかけた拓海に、すかさず輝子は「お見合いの相手に、輝坊なんて失礼でしょ!」と突っ込んだ。「輝…」と言いかけてなかなか「子」と続けられない拓海。
すると、足元で何かが光った。拓海がそれを拾い上げると、「これは、義経の隠し財宝かもしれない!」と言った。
二人は、幸せそうな笑顔を浮かべながら、じゃれ合うようにその破片を奪い合うのだった。

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小林政広のフィルムグラフィにおいて、本作ほど数奇な運命を辿っている作品もないだろう。
この作品は、元々パグポイントの畠中基博が『ええじゃないかニッポン』という東北各県を舞台にしたシリーズの一本として企画したものだ。当初、小林が依頼されたのは福島県を舞台にした作品で、彼は田中裕子主演でシナリオを準備していた。
ところが、第一弾の宮城篇が暗礁に乗り上げ、急遽小林に企画が持ち込まれた。脚本が共作になっているのも、その辺りのごたごたが影を落としている。
何とかクランクインに漕ぎ付けたが、今度は製作費の面でより深刻な問題が発生する。作品は完成したものの、事は裁判沙汰に発展してしまう。完成と同時に、映画はお蔵入りの憂き目にあう。
ゆえに、本作は単発の上映以外に劇場でかかる機会もなく、ソフト化もされていない。

当初から小林が関わったものでないため、他の小林作品とはかなりテイストの異なる作品になっている。何と言っても、伝説の財宝を巡るラブ・ロマンス!なのだから。
本作を一言で評するならば、たとえば「火曜サスペンス劇場」に代表される2時間枠のテレビドラマのような映画ということになるだろう。皮肉でも何でもなく、小林政広はこういうベタな作品もしっかり撮れるんだな…と僕はシンプルに思った。

前述したように、クランクインするまでに迷走した作品ということもあり、脚本的な瑕疵が散見される。またフィルム・コミッションが絡んだ作品でもあり、あまり必要を感じないシーンがある一方で、物語としてはいささか言葉足らずで上手く機能していないエピソードもある。
その最たるものが、殿村教授の描き方だろう。何度か挿入される殿村の意味ありげな礼拝シーン、拓海にスパイを送り込む行為、教授失脚の原因となった遺跡発掘に係る一連の偽装…。
映画の中ではちゃんとした説明がなされないが、僕が本作を見て考えたのはこんなアウトラインである。

殿村は隠れキリシタンの末裔の一人であり、拓海の祖父が沈没船を目撃したことからそれ以降村井家の動向を末裔たちは注視していた。自分の研究室に拓海がやって来て学究に縛られない自由な発想で様々な調査をすることに危機感を覚えた殿村は、部下で愛人関係にある笹尾を拓海の研究室に送り込んだ。
明光コンサルティングを使っての一連の発掘作業も、400年の長きにわたって隠し続けた翻訳聖書と地下聖堂を守るためだったが、それが仇となり失脚。殿村自身は地下聖堂と共に自らの命を断ち、聖書については輝子と拓海に託した…。

あと、房子の結婚式でチラッと登場する尾野真千子が自分の懐妊を告げるシーンも、何やら唐突である。
鳥飼夫人と拓海の祖父との結ばれることのない恋愛も、海を守る会の活動も舌足らずな印象を受ける。
そして、物語後半の謎解きに拓海の娘・千鶴が関わるから彼女の存在は外せないのだが、輝子と拓海のラブ・アドベンチャーが主軸の本作において、拓海がバツイチという設定も据わりが悪い。やぱり、拓海は偏屈な独身でないと…僕は思う。


本作を見た感想を率直に言わせて頂けば、「鈴木京香がこれだけ表情豊かで魅力的に映っていれば、もうそれだけで充分じゃないか!」ということになる。
本当に、この映画は彼女がその役名通り輝いてさえいれば、それでOKなのだから。

いささかオーバー・アクション気味だし、ところどころお約束的にベタなくすぐりも用意されている。また、何で香川照之が片言の日本語をしゃべるのかも分からないが、まあそれもご愛嬌だろう。
あまりに分かりやすいラブ・ロマンスのシーンも、他の作品では観ることができないレアな小林演出である。

でも、それでいいのだ。鈴木京香と杉本哲太の明快で迷いなき演技は本作の雰囲気に合っているし、岸部一徳と渡辺真起子のヒール役、鈴木一真の演技も余計なギミックのないストレートさである。
エンディング直前のテレ隠しには、むしろ見ているこちらの方が照れてしまいそうだが、それはそれで悪くない。

本作は、鈴木京香のクルクル変わる表情と健康的な魅力をこそ堪能すべき“シンプル・イズ・ベスト”な娯楽映画。
詮無いことではあるが、本作がちゃんと公開されていたら小林政広の作家的方向性も少し違った展開を見せたかもしれないと思えてくる一本である。

 


余談ではあるが、ラストシーンに使われた御伊勢浜海水浴場の砂浜や他の数々の風景も、東日本大震災によって今は失われてしまっている。

 

My Favorite Reissured CD Award 2017

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新年といえばこの企画、再発CDアワードということで去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

ここ数年のCD再発事情は流石に出尽くした感があり、2017年もほぼ目新しいものはなかったように思う。というより、もはやパッケージ商品としてのCD自体がすでにガラパゴス化している印象である。
ダウンロードで音楽を聴かない身としてはかなり切ないものがあるが、それもまた時代の趨勢というやつなのだろう。

そんな2017年の再発シーンにおいて、僕が個人的にうれしかったものを順不動で挙げておく。

○ 佐藤奈々子 / FUNNY WALKIN’

佐藤奈々子が、まだデビュー前の佐野元春と作り上げたファースト・アルバム。「CD選書」の1枚から始まり、これが4回目のCD化にしてようやくちゃんとしたリマスターが施された。アレンジャーは大野雄二で、ジャジーでシックな音作りが印象的。
軽快なギターのカッティングとエレピの音色、ウィスパリング・ヴォイスの1曲目「サブタレニアン二人ぼっち」は、ジャパニーズ・シティ・ポップスの金字塔的な名曲である。

○ 竹内まりや / REQUEST

彼女の7枚目のアルバムで、MOONレコード移籍後の2枚目。プロデュースは、もちろん山下達郎。今となっては定番企画のセルフ・カバーだが、本作こそがその先駆けと言っていいだろう。中森明菜に書いた「駅」は、竹内まりやのバージョンの方が有名である。
分かりやすくキャッチーなメロディ、女性の心情をすくい取ったような歌詞、緻密なアレンジとポップ・ミュージックのお手本的1枚
このアルバムが30周年を迎えたということに、驚きを禁じ得ないエヴァーグリーンな作品である。

○ resort / live 1976

山口冨士夫(ダイナマイツ、村八分、裸のラリーズ、ティアドロップス)と加部正義(ゴールデン・カップス、スピード・グルー&シンキ、ジョニー・ルイス&チャー)のツインギターで、7か月だけライブ活動を行った幻のグループ。そのライブ音源を蔵出ししたもの。
10年以上前、ユニバーサルの再発レーベルだったハガクレからリリースがアナウンスされたものの、もっといい状態の音源があるはずとのことで発売中止になった。その山口冨士夫の予言通り、良質の音源が発見されて今回のリリースとなった。
カバー曲とオリジナルで構成された演奏は、気心の知れたメンバーでのリラックスしたセッションといった面持ちで幻のグループといった仰々しさや緊張感はない
ただ、日本ロック史におけるひとつの記録として意義のあるリリースだった。

○ YARDBIRDS / ’68

ジミー・ペイジが自ら興したJIMMY PAGE RECORDSからリリースされた、彼が在籍した1968年ヤードバーズのライブとデモ音源、アウトテイクをまとめた2枚組。1971年にリリースされるも、ジミー・ペイジの反対により10日で回収された『LIVE YARDBIRDS』に対する彼なりの落とし前的な1枚と言っていいだろう。
レッド・ツェッペリン飛翔前夜の貴重な記録として、歓迎したい蔵出しである。

○ KING CRIMSON / EARTHBOUND

長きにわたるキング・クリムゾンの歴史において、最大の問題作と言えばこのライブ盤だろう。メンバー間の対立により解体の途上にあった時期のライブで、強烈なテンションによる破綻すれすれのスリリングなプレイが聴ける。
当時、粗悪なブートレグのように会場でカセット録音された音源をリリースしたため、アイランド・レコードの前衛音楽を扱うHELPシリーズの1枚としてリリースされた。10年前に出された30周年盤でも音質の向上が図られたが、この40周年盤は決定版と言っていいだろう。悪いはずがないではないか。
ロバート・フリップのクールな理性が剥ぎ取られたような暴力的な荒々しさが、最高に刺激的である。

○ INMATES / THE ALBUM 1979-82

レッド・ツェッペリンのロバート・プラントをして「ベスト・ブリティッシュ・シンガー」と称えられたビル・ハーリーを擁するパブ・ロックバンドの初期作3枚をまとめたボックス。1998年に日本で1、2枚目がCD化されたこともあったが、リマスターで久々に再発された。発売元のLEMONは、積極的にパブ・ロック系のリリースを行っているレーベルである。
歯切れ良いサウンドが魅力の通好みバンドだが、ドクター・フィールグッドやグラハム・パーカー&ザ・ルーモアに比較するとやや存在が地味なのが残念である。もう少し、デビュー・アルバムの発売が早ければ…と思わなくもないが、良質なパワー・ポップとして再評価が望まれるバンドである。

○ THE JAZZ BUTCHER / THE WASTED YEARS

これも待望の再発。日本では、ネオ・アコースティックの人気バンドというイメージで語られることの多い彼らだが、様々な音楽をミクスチュアしたオリジナリティに富んだサウンドこそ彼らの魅力だろう。
この4枚組はグラス・レコーズからリリースされた初期4枚をまとめたもの。日本では、2008年に一度ヴィニール・ジャパンから2ndと4thが再発されたことがある。
ただ、彼らは何枚もEP盤を出しており、その音源もまとめてほしかったというのが本音である。
さらなる再発を期待したい。

○ PRINCE AND THE REVOLUTION / PURPLE RAIN

今さら何の説明も必要ない、2016年に急死した天才マルチ・ミュージシャンを世界的なスーパースターへと押し上げた代表作にして、本人が主演した同名映画のサウンドトラック盤。ようやくのリマスター盤である。
ヒットした2枚組の前作『1999』をさらに先鋭化したような斬新かつアヴァンギャルド、それでいてしっかりポップ・ミュージックとしての大衆性も備えた傑作で、今の耳で聴いてもその新しさに興奮する。
その後、プリンスは自身のレーベルであるペイズリー・パークを起こしてフラワー・サイケな音像とブラック・ミュージックをミクスチュアしたような『アラウンド・ザ・ワールト・イン・ア・デイ』、自分のルーツに回帰しつつ最新モードのファンク・ミュージックを聴かせる『パレード』、より洗練されたニューソウル的な『サイン・オブ・ザ・タイムス』等々といった傑作を連発する。
初のリマスター盤が彼の死後にリリースされたことは心境的に複雑だが、他の作品や12インチ・シングル等のリマスター再発も期待したいところである。

○ JOHN LEE HOOKER / KING OF THE BOOGIE

生誕100年を記念して編まれた、タイトルに偽りなしのキング・オブ・ブギーことミシシッピー・ブルースの巨人ジョン・リー・フッカーの全100曲収録5枚組ボックス。
ロックのファンには、アニマルズがカバーした「ディンプルズ」「ブーム・ブーム」やジョン・ランディス監督『ブルース・ブラザース』でカメオ出演的にギターを弾き語る老ストリート・ミュージシャンがお馴染みかもしれないが、彼はロックンロールにも多大な影響を与えた偉大なブルース・マンの一人である。
時代によって様々な音作りをしているし、ロック・ミュージシャンとも積極的なコラボレーションを行った人だが、やはりエレキギター弾き語りで朴訥な渋い歌を聴かせる初期のスタイルが聴く者に強烈なインパクトを与える。
初心者にはいささかディープなボックスだが、彼の長いキャリアを俯瞰するには良心的な力作に違いない。

○ V.A. / NEW JAZZ FESTIVAL BALVER HOHLE 1976 & 1977

マニアックな音源を積極的に発掘して世に出すドイツのBE!JAZZが、またしてもとんでもないライブ音源をリリースしてくれた。ドイツのバラブ洞窟で開催されたフリー・ジャズ・フェスティバルの8枚組で、収録時間8時間を超える大箱である。
当時の先鋭的ジャズ・ミュージシャンだけでなくベテランもバランスよく配された実に聴き応えのある圧巻の音源は、捨て曲なしの充実ぶり。ペーター・ボロッツマン、ハン・ベニックから、アーチー・シェップ、ジョン・サーマン、マル・ウォルドロン等々。個人的には、何といっても山下洋輔トリオの収録がうれしく、彼ら目当てで購入した。
とにかく、当時のジャズ・シーンを真空パックしたようなヒリヒリした刺激に満ちた音源の連続である。
唯一の不満は、曲のクレジットがすべてインプロビゼイションと表記されていること。そんな訳ないだろう。アルバート・アイラーの「ゴースツ」とかやってるんだから(苦笑)

○ JOYCE / ANOS 80

ブラジルで良質な再発を続けるDISCOBERTASから、人知れずひっそり出ていた感じのボックスがこれ。ブラジルの優れたシンガーソングライターであるジョイスが1980年代にリリースした傑作群を4枚組にまとめたものである。単体では日本でも何度か再発されているが、ようやくボーナス・トラック付きリマスター音源でリリースされた。「サバービア・スイート」のガイド本で、彼女のことを知った人も少なくないだろう。
邦題『フェミーナ』『水と光』『カリオカの午後』『未来への郷愁』と、どれも良質なブラジルのサウダージときらめきに満ちた素晴らしい作品たちである。

2018年再発で僕が密かに期待しているのは、昨年同様プリンスのワーナー傑作群リマスター再発、P音なしのじゃがたら『君と踊りあかそう日の出を見るまで』、生活向上委員会大管弦楽団『This is Music is This!?』『ダンス・ダンス・ダンス』。
加えて、バーブラ・ストライサンドのリマスター、ジェームズ・ブラウンのシングルでパート1&2のように分割されたものを編集なしの通しで収録したシングル集、バーバラ・ムーアや伊集加代子の仕事をまとめた企画盤もお願いしたいところである。

まるでいつもの夜みたいに~高田渡と林ヒロシと小林政広と

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2018年1月21日、吉祥寺ココマルシアターというカフェ併設の小さな映画館に代島治彦監督『まるでいつもの夜みたいに』を観に行った。
この映画は、フォーク・シンガーの高田渡が生前最後に東京で演奏したライブを記録したドキュメンタリーである。吉祥寺といえば高田渡と縁の深い街であり、シアター3階では高田渡写真展も開催されていた。

 

 

『まるでいつもの夜みたいに』(2017年4月29日公開)
監督・撮影・編集:代島治彦/語り:田川律/題字・絵:南椌椌/ピアニカ演奏:ロケット・マツ/整音:田辺信道、瀧澤修/宣伝美術:カワカミオサム/配給協力:アップリンク、TONE/製作・配給:スコブル工房
2017年/日本/デジタル/カラー/74分

 

 

2005年3月27日、長年住み慣れたアパートからギターを担ぎ煙草を吹かしながら最寄りの三鷹駅へと歩く高田渡。この日の夜は、高円寺にある沖縄居酒屋「タイフーン」でライブがあるのだ。30名ほどの聴衆を前に、彼は一人ギターを弾き歌う。そのライブのほぼ全貌を、ご近所でもあった代島監督がカメラに収めたのがこの作品だ。

 

 

会場は狭く店内は満員のため三脚を立てることもままならず、ライブの間中立ったままで手持ちカメラを回したそうである。であるから、当然の如く映像は人力によるフィックスみたいなことになっている。
当時の高田渡は56歳だが、風貌はもとより曲間に挟む飄々とした語りも何やら山から降りてきた仙人のようでもあり、ユーモアを解する哲学者のようでもある。
淡々と持ち歌を弾き語り、焼酎をちびりちびりと生であおり、ぼそぼそとつぶやくように話す。

 

 

ライブ映像に挟み込まれるのは、高田渡が亡くなった直後の中川イサトへのインタビュー、2005年4月28日に行われた高田渡お別れの会で追悼文章を読む中川五郎の姿。
このライブの後、高田渡は同年4月3日渋谷毅・片山広明と出演した北海道での公演後に体調を崩し、そのまま4月16日に帰らぬ人となった。

 


そして、撮った映像を公開するまでに10年の歳月を要した。言うまでもなく、残された遺族や関係者の気持ちの整理にはそれくらいの時間が必要だったのだろう。
ただ、ミュージシャン高田渡にとっての“いつもの夜”の一コマを切り取ったような映像が残されたことを、我々はひっそりと静かに喜ぶべきなのだろう。
まさしく、熟成した味わい深いヴィンテージ・ワインのような歌と語りに酔うしかないのだ。

この日は、映画上映後に代島治彦とやはり映画監督の小林政広によるトークショーが行われた。小林監督は高田渡さんの5歳年下で、高校生だった小林青年は受験勉強の傍ら深夜放送から流れてきた高田渡の歌に感銘を受け、渡さんの所属事務所に電話を入れる。
個人情報の保護といった意識もストーカーに関する社会認識もほぼ皆無だった当時は、今では考えられないくらいすべてが牧歌的にのんびりしていて、小林青年は電話に出た事務所の人から渡さんの家の電話番号を教えてもらう。1970年代初頭、渡さんは活動の拠点を京都から東京に移していて、小林青年からの電話に「うちに遊びに来なさい」と言って自宅の住所を教えてくれたそうだ。
ギターを持って渡さんの家を訪れたはいいが、特に何を話すでもなく二人はぼんやりテレビを見たりして過ごしたらしい。渡さんの奥様は出産のため京都に帰っていて、不在だったようである。

そんな風にして、渡さんと小林青年の初対面は終わったのだが、帰りしな渡さんは「今度コンサートをやるから、ギターを持って楽屋を訪ねて来なさい」と言った。
コンサート会場は当時お茶の水にあった日仏会館で、小林青年が楽屋を訪ねてみると彼の歌を聴いたこともないのに渡さんは前座で何曲か歌えと言った。訳も分からぬまま、小林青年は数百名のお客を前に自作曲を歌ったそうだ。最初こそガチガチに緊張していたが、そのうち調子が出てきて何曲も歌っているうちに、「お前、いつまで歌ってるんだ」と渡さんにステージから降ろされたらしい(笑)
それが、小林青年にとっては表現者としてのキャリアの出発となった。演奏のことで渡さんは頻繁に電話をかけてきたようだが、その電話と取った小林さんのお父さんは、「うちの息子を引っ張り込むんじゃない」と怒ったそうである。小林監督にとっての怖い人といえば、父親渡さん、そして緒形拳さんだそうである。皆、すでに鬼籍に入っている。

そんなこんなで、高校卒業後も彼は林ヒロシという名で渡さんのフォーク仲間とともに演奏ツアーを回ることになる。その当時、渡さんの周辺にいたのは、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤博、佐久間順平と大江田信の林亭などである。
その後、渡さんからはまだ早いから我慢しろと言われたにもかからず、林ヒロシは1975年に自主製作盤『とりわけ10月の風が』を発表。そして、映画監督への思いが断ち切れずに彼は林ヒロシから小林政広へと戻り、やがてはテレビドラマのシナリオライターから映画監督の道に進むことになった。

 


ちなみに、『とりわけ10月の風が』はジャケットを変更して現在MIDI INC.からCDで再発されている。オリジナル盤のジャケット写真は、渡さんが撮影したもので、録音メンバーには当時東京芸術大学の学生だった坂本龍一が編曲とピアノで参加している。
余談ではあるが、小林青年は高校時代に水道橋のスイングというジャズ喫茶でバイトをしており、その時のバイト仲間に早稲田大学在籍中の村上春樹とジャズ・シンガーの金丸正城がいた。村上春樹と漫画家のいしかわじゅんは『とりわけ10月の風が』のオリジナル盤を所有しているそうである。
そして、林亭の佐久間順平は、小林政広監督作品の音楽を何本も担当している。渡さんは、『海賊版=BOOTLEG FILM』で音楽を『フリック』では出演をしており、亡くなったのは『フリック』公開から三か月後のことである。

 


…と、まぁこういう経歴もあり、小林監督はトークショーでもこの辺りのことを話されていた。
映画を観た後に聞く小林監督の話も、映画同様に温かみのあるノスタルジアにあふれていて、実に魅力的な楽しいものだった。

 


場内には、俳優の木村知貴さん(僕は、木村さんと小林さん絡みの映画でよく遭遇する)、小林組の撮影を何本か担当した伊藤潔さんもいらしていた。上映とトークショー終了後に懇親会があり、僕もその席にお呼び頂いたのだけど会場となった居酒屋には林ヒロシ当時の小林青年のことを知る渡さん所縁の方も顔を出され、小林監督は懐かしそうに話されていた。
小林監督の柔和な表情を見ていると、まるでかつての吉祥寺の夜が浮かび上がるようで、何だか僕まで温かい気持ちになったのだった。

そんな、楽しいひと時であった。

2018.7.12「切実」@早稲田小劇場どらま館

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2018年7月12日、早稲田小劇場どらま館にて「切実」の舞台を観た。

 


「切実」は、岡部たかし岩谷健司を中心にした演劇ユニットで、今回は武谷公雄を客演に迎えた三人芝居である。
作:ふじきみつ彦/演出:岡部たかし/舞台監督:神永結花/音響:藤平美保子/照明:井坂浩/版画制作:岩谷健司/宣伝美術:木下いづみ/演出助手:四柳智雄(ピーチ)/制作:長谷川まや/製作:切実
協力:クリオネ、バードレーベル、プリッシマ、E-Pin企画、山北舞台照明、森下紀彦、櫻井忍、栗田ばね、ふじいるか、長澤琴美、市川舞、シバイエンジン
SPECIAL THANKS:石塚秀哉、市橋浩治、岡田重信、吹越満、宮崎吐夢、山内ケンジ(50音順)
なお、SPECIAL THANKSとしてクレジットされているのは、「切実」のTwitter公式アカウントに応援コメントを寄せた人々である。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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夏休みも近い夏の盛り。近所の小学生たちの登下校を見守るボランティア・チーム「見守り隊」メンバーの日野は、汗をふきふき公園で他の仲間たちが来るのを待っている。なかなかやってこないメンバーに手持ち無沙汰の日野は、夏ミカンを食べたり、水筒にいれたスポーツドリンクを飲んだり、横断旗で寄ってくる鳩を蹴散らしたり、ピアニカの練習をしたりして暇をつぶしている。
そこに、見守り隊の会長(岡部たかし)がようやく到着。今日は下校見送りした時点で解散という段取りだったのだが、そのLINE連絡を日野が見落としていたのだ。未読であったため、気になった会長がいつもの集合場所である公園にやって来たのだ。

日野は、今年から新たに見守り隊のメンバーに入った独身の冴えない中年男だが、責任感と子供たちに注ぐ愛情は本物だった。その感覚がやや世間とズレているところもあり、会長は当初訝しんでいるところもあったが、今では見守り隊の一員として彼のことを信頼している。
日野は、おもむろに彼オリジナルの金貨のようなものを取り出し、一枚会長に渡した。頑張っている子供たちを励ますために彼が考え出した「きっとコイン」だという。確かに、金貨の真ん中には「き」という文字が書かれていた。
「会長の見守り隊での熱意だって、きっと伝わってますよ。お子さんに差し上げてください」と熱意を込めた目で日野は言った。手渡されたきっとコインをしげしげと見つめた後、会長は感じ入った表情でそのコインを握りしめて礼を言った。センスはまったく感じられないが、日野の気持ちは十分に伝わると会長。日野は、自分が褒められてるのか貶されているのか微妙の言葉に、やや腑に落ちないといった表情を浮かべた。
言わずもがなの、「きっとコイン」はビットコインにかけたネーミングだとあえて説明してしまうところも、如何にも日野のセンスだ。

にわか雨の予報も出てるし、そろそろ帰ろうか…というタイミングで、もう一人の人物が缶ジュースの差し入れを携えてやってくる。新田(武谷公雄)という男だった。彼の自慢の娘がこの界隈の小学校に通っており、もちろん彼女のことは見守り隊も知っている。
新田の家は裕福で、娘の誕生日には大人数を招待して盛大なパーティーを開催していた。
今年も、誕生パーティーの日が近づいていた。見守り隊メンバーも毎年そのパーティーにお呼ばれしていた。
日野は、さっき練習していたピアニカを再び取り出すと、新田家の誕生日会で披露するつもりの「おどるポンポコリン」を二人の前で演奏して見せた。なかなか器用にピアニカを演奏する日野に会長は感心するが、新田の方は複雑な表情になった。

 


そして、彼は会長に「あの話は、日野さんにしていないんですか?」と尋ねた。会長はまったくピンと来ていない。歯切れの悪い会話の応酬が続き、諦めて新田はパーティーに招待したのは日野以外の見守り隊メンバーだと言った。
貰った招待状を会長が確認すると、確かにそう書いてある。これには、日野も納得ができない。「何で、自分だけが!?」と、日野は怒気を含んだ声で新田に問い質した。ここでも何度かの押し問答があった後、新田は観念してその理由を話し始めた。
彼は言った。「昨今の社会事情に鑑みてのこと」だと。益々、日野には分からない。会長も、さすがに日野のことを擁護し始めた。

新田は回りくどい説明を繰り返したが、要するにいい年をして独身の日野が、熱心すぎる姿勢と眼差しで小学生の登下校を見守る姿に、かえって不安を覚えるのだということのようだった。
昨今、幼児や小学生が巻き込まれる不穏な事件も後を絶たない。そんな社会状況の中、万が一娘の誕生日パーティーに不測の事態が起こらぬよう、親としては何としてでも事前に不安材料を取り除いておかなければならないのだ…と。
そればかりか、新田達PTAは、完全なるボランティア行為の見守り隊自体を不安視しており、「見守り隊を見守り隊」を組織して、彼らの行動をさりげなく監視しているのだという。驚きべきことには、見守り隊のメンバーの中にも、見守り隊を見守り隊メンバーがいるらしい。
これには、会長も少なからぬ衝撃を受けて肩を震わせた。

言うべきことを言い終えた新田は、公園から去って行った。あとには、怒りと失望に打ちのめされた日野と会長が残された。
会長は、ひとしきり新田を非難し日野を慰めた後、「日野さんの分まで、誕生日パーティーで料理を食べてきてやりますよ。もう、ワインなんか全部飲み干してやります!」と言った。
「えっ!?あんなことまで言われて、会長はパーティーに出席するんですか?」
「ええ、招待されてますからね。それに、あそこの料理は本当に美味しいんです」
そう言い残すと、会長も公園から去って行った。

一人残された日野は、公園のベンチに呆然と座っている。そこに、突然激しい雨が降り始た。日野は、横断旗を頭上に掲げて空しくその雨を避けようとするのだった…。

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番外公演として参加した去年8月ユーロライブ2日間の『テアトルコント vol.21』における短編『川端』(作・ふじきみつ彦)はあるが、「切実」単独では実に三年ぶりとなる公演である。
そして、これまでにも岡部・岩谷が関わった舞台にレギュラーで短編を提供してきたふじきみつ彦が、今回は初となる60分尺の脚本を提供している。

おもむろに登場した岩谷が一人黙々と無言で演じ続ける冒頭は、まるで映画のワンカット撮影を思わせるシチュエーションで、その奇をてらったような展開に思わずクスッと笑ってしまう。
岡部たかしが登場してからは、いかにも「切実」の世界である。間を生かした絶妙なテンポと微妙な空気感、そしていつものブラックなシニシズム的ドラマツルギー。

確かに、いくつも用意されたくすぐりにはニヤッとさせられるものも多いのだが、作品トータルで観ると僕にはいささか首を捻る出来だった。
一番の原因は、岡部たかし演じる見守り隊会長の物語内でのポジションである。カメレオン的に日野側と新田側を行ったり来たりした挙句、結局は自分が得をする側につくという行動を見せる訳だが、彼のスタンスのブレがそのままこの舞台の物語的なブレに繋がっているように感じてならない。

そして、起承転結の“転”部分に登場する第三の男・新田が単に陰湿ないじめキャラのような人物造形で、岩谷健司演じる日野が一人はぶんちょうにされていく展開がどうにも後味の悪さを残すのだ。
冴えない独身で子供もおらず、何処か小児性愛を匂わせる雰囲気の中年男という日野の被虐的な設定まではいかにもふじき文体のキャラクター造型なのだが、一人公園に残されて自分のアイデンティティを否定され、仲間だと思っていた会長からも切り捨てられて雨に打たれる終幕に、今ひとつサディスティックな突き抜け方が足りない。
鑑賞後に残るのは、うつうつとしたやるせなさと孤独感みたいな苦味で、正直笑い飛ばすには切なすぎるのだ。
前述の遊園地を舞台にした岡部と岩谷の傑作二人芝居『川端』のペーソスとは、真逆のものである。

僕は、ニヒリスティックな物語やブラック・ユーモアが嫌いではないし、城山羊の会なんて最高だと思っているのだが、今回の切実にはその黒く突き放すドライネスが弱かったように思う。
ふじきの脚本が、物語を煮詰めきれなかったが故の迷走のように思えて仕方がなかった。ストーリーの密度からしたら、40分くらいが適切な尺に感じるのだ。


本作は、役者陣の演技的健闘に比して、物語そのものに求心力を欠いたいささか残念な出来の舞台であった。
もっと練り込んだ90分くらいの長編で、もう一度リベンジしてもらいたいものである。


森田涼介『ふたりのおとこ』

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『ふたりのおとこ』(公開:2018年8月3日)
監督・脚本・編集:森田涼介/製作:森田涼介、品田誠/撮影:上野達也/音楽:Iman Afsher/録音:木村聡志/整音:伊藤健介/エンジニア:赤城夏代/グレーディング:エズミ/撮影助手:佐藤直樹
2017年/カラー/64分

 

こんな物語である。
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《登場人物》
青年K(25)
旧友S(26)
彼女I(26)
バーテンダーの男R(29) 
Sの妹E(20) 
Sの元恋人A(27)
催眠療法士Y(36) 


K(品田誠)は、図書館司書を退職して不動産会社への転職を控えた現在はフリーターの青年。彼には、図書館司書をしていた時に声をかけられたことがきっかけで付き合っている恋人I(しじみ)がいる。彼女の仕事は、所属店で高い人気を誇るキャバクラ嬢だ。

 


Kは、自分の部屋でコーヒーを飲みながらIに言った。「何かを忘れている気がするんだ。しかも、大切な何かを」。しかし、彼女は特段シリアスに受け止めることもなく、彼の言葉を流した。

 


数日後、Kは馴染みの喫茶店で人待ちしている。彼が待っているのは、十年来の友人で大学卒業後こつ然と姿を消してしまったS(高橋良浩)の妹E(鈴木つく詩)だった。Sは海外を放浪しているという噂だったが、Kにはこの数年一切連絡がなかった。
「自分は、大切な何かを忘れているのではないか…」その思いに囚われて以来、不思議なことにKは行方不明の友人のことを思い出し、彼のことが片時も頭から離れなくなっていた。今では、自分が頭の中に作り出したSの幻影と会話できるまでになっている。

 


ひょっとすると、失われた自分の記憶とSの存在が密接に関わっているのではないか。そう考えたKは、行動を起こした。手始めに、彼はSの母親に連絡してみたが彼女にも息子の正確な所在は分かっていなかった。そこで、今度は妹を呼び出したのだ。

Eが喫茶店に入って来る。Kが彼女と会うのもかなり久しぶりだ。突然呼び出されたことに、彼女はやや戸惑っているように見えた。兄からは時々母親の元にメールが来るがそれもフリーメールで、彼女の母親もSは海外にいるとしか言わないらしい。Eと直接のやり取りはなく、むしろ兄のことはKの方が知っているのではないかと言われる始末だ。

 


しばらくして、彼女はフッとあることを思い出す。父親が亡くなった後、大学を卒業する直前にSは電話で「タイがどうとか」と話していたという。恐らく、兄は父親の保険金を使って外遊したのだろう、と。
KがEと話している最中も、隣でSの幻影が茶々を入れてくる。正直疎ましいが、妹の目には映らないSの存在自体Kが作り出した幻影である以上、彼の言葉は取りも直さずKの考えを言語化したものなのだろう。ややこしいこと、この上ない。

 

 

これといった収穫もなく、次にKはかつてSの恋人だったA(市場紗蓮)と会った。別れて以来、Sとはまったく連絡を取っていないと彼女は素っ気なく言った。恋人だった自分よりも、あなたの方が彼についてはよく知ってるんじゃないのかとAもEと同じようなことを言った。
交際期間は短く、自分と会っている時のSはどこか上の空という印象だったという。むしろ、Kといる時の方が楽しそうに見えた、と彼女。その言葉に、Sの幻影は顔をしかめる。「よしてくれよ!女といる方が楽しいに決まっているだろう」と。
彼女からもたらされた新しい情報は、大学卒業前に6か月ほどSが俳優のワークショップに通っていたことと、彼には行きつけのショットバーがありその店のバーテンと仲が良かったということだった。
Sが俳優志望だったというのは初耳だったので、Kには随分と意外に思えた。

Aから教えられたショットバーを訪れたKとSの幻影。まだ開店前だと無愛想に応じる宝塚歌劇団のようなルックスをしたバーテンダーの男R(梅本隼悟)に、自分は客じゃないからと断ってKは店に入った。共通の友人のことで聞きたいことがあると。
Rは、「本人が海外にいると言っているのなら、そうなのではないか」「結婚して、永住権でも取ったのではないか」とだけ言うと、悪いが自分は友達と言えるほどの関係ではなかったと話を切り上げた。
すげなくされて早々に店を出たK。珍しく無口で考えごとをしてる風のSは、「あのバーテンは態度が不自然だった。まるで、俺たちを早く帰らせたいみたいだった」とつぶやいた。
二人がそんな会話をしていると、後ろからくだんのバーテンが歩いて来た。慌てて物陰に隠れ、KとSは彼を尾行した。
しばらく後をつけると、Rは人と落ち合った。何と、その相手はIだった。二人はタクシーに乗り込むとどこかに消えた。
Kは呆然と立ち尽くし、Sはバツが悪そうに視線をそらした。
Sの失踪には、バーデンだけでなく自分の恋人Iも関わっているのか。もはや、Kには訳が分からない。「所詮は売女のキャバ嬢だから、油断ならない。お前に近づいたのだって、何か訳ありだろう」とSは皮肉交じりに言った。

 


Kは、ネットショップでペン型の盗聴録音器を購入すると、プレゼントだと偽ってIに渡した。しばらくは何の成果もなかったが、ある日Iはあのショットバーを訪れていた。その時に交わしたRとの会話が録音されていたのだ。しかし、肝心のところで二人の声は聞き取れなかった。

Sは今どこにいるのか。そもそも、彼は生きているのか。あのバーテンとIはどういう関係で、Sの失踪と繋がっているのか。そして、自分が忘れてしまった大切な記憶とはいったい何なのか…。
すべての疑問を解くため、Kは今まで以上にIの行動を注視せざるを得なくなった。KはIが自分の部屋に来た時、彼女の目を盗んでスマホの履歴をチェックしてみた。バーテンとの発信・着信履歴は、すべて消去されていたようだった。
しかし、一つだけ気になる記録が残されていた。催眠療法クリニックへの発信履歴だった。しかも、その日付はKが「自分は何かを忘れているような気がする」と思い始めた時期とほぼ一致していた。

 


どんな真相を知ることになるのか。Kは、不安を抱きつつそのクリニックを訪れた。催眠療法士のY(沖正人)は、確かに依頼されて自分があなたの記憶をこの中に移したと言って鍵付きの青い小匣を机の上に置いた。電話をかけてきたのは確かに女性だったが、クリニックにやって来て催眠療法を希望したのはK自身だったと彼は話した。
実際に記憶を移した匣はKが持ち帰ったが、あくまでもその匣は象徴に過ぎないからここにある匣を開ければあなたは忘れたことを思い出すはずだと彼は説明した。

青い小匣を前に、彼は自分の部屋で逡巡していた。その隣では、仕事から帰って来たIが、戸惑いと諦め、そして若干の怯えを伴った表情を浮かべて彼のことを見ている。もちろん、その部屋にはSの幻影もいる。Sの幻影は、いつも以上に饒舌だった。
Iは、お腹が空いたからとにかく何か食べようよと言って、つまみのビニール袋を破き、ワインのボトルを開けてグラスに注いだ。その時、彼女が見せたちょっとした仕草に気付いたKは、驚きを禁じ得なかった。
KはIに自分が思ったことをぶつけると、青い小匣に鍵を差し込んで開けようとした。

それを制止すると、すべてを観念したようにIは静かに話し始めた…。

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本作は、森田涼介の企画した自主製作映画として2016年3月にスタッフとキャストが募集され、同年に撮影。それから二年を経てこの度池袋シネマ・ロサのthe face「品田誠」特集上映の一本として一日のみ初上映された。


 

何の前知識もなく、しじみが出演しており一日だけ初お披露目される映画だからという理由で観に行った。二年前ということは、彼女が女優復帰直後に撮影された作品ということである。正直に言えば、僕はさほど期待していた訳でもなかった。
ところが、これが思いがけない拾い物というかなかなかの力作で、観終わるとかなりの手応えと満足感でホクホクしてしまった。

映画冒頭、青い小匣と電柱に巻かれた青い布だけがカラー処理されたモノトーンの映像、やたらと不自然なバランスの音響、会話がかぶさるような登場人物同士の“間”の乏しさに観ていて過剰なものを感じてしまう。さらには、主人公の青年と行方不明の友人の幻影のやり取りで展開するやや奇をてらったストーリーテリング。
ところが、物語が進むにしたがって二人の会話(あるいは、青年と彼自身の視覚化された内なる対話)が独特のリズムを刻み始め、ミステリアスな仕掛けもあってすっかり引き込まれてしまった。
ある意味、実に映画的な演出手法が心地よくなってくるのである。

Kという青年のインナートリップであり、それと同時に失踪した友人、ある日突然目の前に現れた魅力的で妖しい若い女、謎めいたバーテンダー、催眠療法士…と、まさに「役者はそろった」とでもいうべきどこか現代風のハードボイルド・フレイバーを伴った心理劇。
それを、ワンカットの長回しにこだわった(演じる役者の心理状態をそのまま記録したような)緊迫感漂う映像で畳みかけて行く。そのスリリングさ。
途中、集音マイクがフレームインするシーン(監督としてはこだわりの演出らしい)が挿入されるのだが、これはやっぱり要らない遊びだと思うのだが(笑)

その20分ワンカットのシーンはワンテイクでOKだったらしいが、主役Kを演じる品田誠のナイーブな演技がとても印象的である。Sを演じる高橋良浩の外連味も悪くない。
そして、物語の鍵を握る謎のキャバ嬢Iを演じたしじみの抑制された芝居が実にいい。僕は彼女の出演作をそれなりの本数観ており、彼女は嗜好的にカルトで奇天烈な役やマッドに弾けた役を嬉々として演じるところがあるのだが、個人的には本作のようにやや抑制した芝居でこそ魅力を発揮する役者だと思う。
ここでの演技は、2011年公開のピンク映画で竹洞哲也が監督した『いんらん千一夜 恍惚のよがり(シナリオタイトル『いずれ』)』と並んで、彼女のベスト・アクトの一本だろう。

 


いずれにしても、ちゃんとした形でこの作品が上映されることを祈念してやまない。
お蔵入りさせてしまうには、誠に惜しい刺激的な一本である。

NAADAワンマン・イベント2018.12.8@西新宿GARBA HALL

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2018年12月8日、西新宿GARBA HALLでNAADAのワンマン・イベントを観た。
本来は、彼ら三度目のワンマン・ライブ「NAADA HOUSEへようこそ vol.3」として準備が進められていたのだが、メンバーのCOARIが深刻な体調不良によりピアノを演奏することが極めて困難な状況に陥ってしまったため、当初の企画をいったん白紙に戻したうえで、イベントという位置づけで再構築して開催された。言うまでもなくCOARIがピアノを弾くことはなく、彼女はコーラス等での参加となった。
よって、入場料は無料のフリー・ライブ、投げ銭制というスタイルに変更された。会場にライブが行われていることを告知するようなポスターの掲示は一切なく、入口に人が近づくたびにスタッフがドアを開けて迎い入れるという徹底ぶりだった。この辺りの姿勢にも、メンバーの生真面目で真摯な姿勢が表れていると思う。

ちなみに、僕が彼らのライブを観たのは前年10月21日の西新宿GARBA HALL「NAADA HOUSEへようこそ vol.2」以来、この日が通算49回目。

NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(chorus,MC)+MITSURU(b)

クソ野郎★ALL STARS「新しい詩」のカバーでスタートした第一部は、いつものようなシリアスさとはちょっとテイストを異にしたリラックスした演奏が展開された。久しぶりにサポート・メンバーとして加わったMITSURUのグルーヴするウッド・ベースが絶妙なスウィング感を醸し出し、華やかさと楽しさがあって、あえて「イベント」と冠したメンバーの思いが、一曲目から強い意志となってオーディエンスである僕らに伝わってきた。
演奏されるどの曲もしっかりしたクオリティが保証されているのだが、「皆さん、肩の力を抜いてできるだけ気楽に楽しんでくださいね♪」というムードを前面に出したプレイということである。
そして、グランドピアノの前に座りコーラスや鳴り物で参加しているCOARIに対するくすぐりやツッコミも忘れない。この辺りのメンバー間のやり取りも、信頼関係に裏打ちされたユーモアを感じさせて微笑ましい。
そんな第一部で一番のお遊びは、井上陽水と安全地帯「夏の終わりのハーモニー」のカバーである。MATSUBOにはギターを弾かせずスタンドマイクでCOARIとハモらせ、おまけにギター演奏はリハーサルなしでMITSURUに担当させるという無茶振りである。当然のことながら、かなりよれよれな感じの演奏が展開した訳だが、最後はRECOにボーカルを取らせることできっちりフィニッシュした。この曲だけは、終始会場から笑いが漏れていた。

MTSUBOとMITSURUによるデュオ(本来は、COARIもピアノを弾くはずだった)で演奏されたインストゥルメンタル「SPAIN」が、個人的には出色だった。基本的に、MATSUBOはコード・ストロークとアルペジオをメインに演奏するギタリストで、ソロを演奏することもほぼない人である。その彼が、「SPAIN」で聴かせてくれたシングル・トーンが実に刺激的だった。MITSURUと二人だけで奏でられた引き締まった音像は、ドイツの名門レーベルECMの音を想起させるもので、僕は聴いていてパット・メセニーのトーンに近いものを感じて興奮してしまった。

第二部は、COARIが全面的に構成とMC、効果音を担当したパートだった。演出的にはNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」のパロディーで、彼女と二人組だったころのNAADAの出会いと当時の彼らの演奏を再現するというもの。ナレーションのなりきり方からテーマ曲の再現性までなかなかの健闘ぶりで、思わず笑ってしまう個所もあった。敢闘賞ものの出来である。
個人的なことを言うと、僕はNAADAのライブを10年にわたって聴き続けているから、COARIがナレーションで語るライブをほぼすべて観ている。だから、当時彼らが出演していた代官山NOMADO、新宿LIVEたかのや、新宿SACT!、浅草KURAWOODといったライブハウスの光景や会場内の空気感までが思い出されて、RECOとMATSUBOの二人だけで演奏される音楽的純度の高い「Humming」「Good morning」「echo」「RAINBOW」を聴いていたらついつい感傷的な気持ちになってしまった。
あと、静かなギターのイントロから入ってぐんぐん上昇気流に乗って行くようなアレンジの「fly」が久しぶりに聴けたのも大きな収穫だった。僕は、このアレンジが大好きなのだ。
そして、このパートのラストは「スタートライン」を斬新なアレンジで演奏。こういう曲で締めくくるところに、ノスタルジーだけでは終わらせないというメンバーの気概を感じる。

そして、第三部では彼ららしい自然体の演奏を聴かせてくれたのだが、アンコールにこの日一番のサプライズが用意されていた。彼らのレパートリーの中でも一際印象深い名曲「sunrise」が、COARIのピアノも加わってプレイされたのだ。
これ以上のエンディングがあるだろうか。悪い訳がないではないか!心に染みわたる素晴らしさだった。

イベントという位置づけではあったが、2時間半を超える演奏はライブと名乗っても何の遜色もないとても充実したものだった。
ある種の懐かしさも込み上げてしまい、僕にしては珍しく終演後に長い時間メンバーの三人とサポートのMITSURU、そしてスタッフのうっちーと話し込んでしまい、気が付けば会場に残っているお客は自分だけになっていた(苦笑)
とにもかくにも、僕にとっては本当にスペシャルな時間だった。それと同時に、「あぁ、僕は10年間NAADAの演奏を聴き続けてきたんだなぁ…」という確かな手応えのようなものが胸を満たした。


メンバーの皆さん、本当にお疲れ様でした!
そして、COARIちゃんにまた思う存分ピアノをプレイできる日々が一日も早く訪れますように…。

My Favorite Reissured CD Award 2018

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書かないうちにずるずると時間が過ぎてお盆になっちゃったけど、再発CDアワードということで去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

CDが売れなくなって久しいが、まだ何とかメディアとしては生き残っている…そんな印象を持ってしまう昨今で、近年の再発事情は名盤の何十周年を記念したスーパー・デラックス・エディションや過去の作品すべてをBOX化した廉価盤が目立つようになってきた。言ってみれば遺産のアーカイヴ作業が進んでいるという感じだが、さすがに新鮮味はない。

そんな2018年の再発シーンにおいて、僕が個人的にうれしかったものを順不動で挙げておく。

○ THE JAMES COTTON BAND / BUDDAH BLUES
ずっと再発が待たれていたブッダ・レコード時代の『LIVE & ON THE MOVE』(1976)、『HIGH ENERGY』(1975)、『100% COTTON』(1974)を3枚組にまとめた再発。
ジェームズ・コットンのブルース・ハープが煽りまくるノリノリのファンキー・ブルースを心行くまで堪能できる逸品だ。

○ シリア・ポール / 夢で逢えたらVOX
20周年盤が入手困難となり、早20年。今回の40周年盤はまさしく決定版というに相応しい大ボリュームだ。2LP+2EP+4CDという完全限定盤もリリースされたが、ここでは2枚組の通常盤を紹介したい。それでも、オリジナルのリマスターにシングル・バージョンをボーナス・トラックにつけて、2枚目には初期ミックスと1977年のナイアガラ・ツアーのライブを収録してある。
大滝詠一が、文字通り孤軍奮闘したナイアガラ版ウォール・オブ・サウンドは、いつまでもその輝きを失わない。これこそ、普遍的なポップ・ミュージックである。

○ FRANK ZAPPA / THE ROXY PERFORMANCE
次から次へと蔵出しリリースを続けるザッパ・ファミリー・トラストのザッパ・レコーズ。今回は、名盤ライブ『ROXY & ELSEWHERE』(1974)や、『ROXY THE MOVIE』(2015)、『ROXY BY PROXY』(2017)の元ソースである1973年12月9、10日にLAロキシー・シアターで行われた全公演を7枚組BOXとしてリリースした。
ナポレオン・マーフィー・ブロック、ジョージ・デューク、チェスター・トンプソン、ラルフ・ハンフリー、トム・ファウラー、ブルース・ファウラー、ルース・アンダーウッドという強力メンバーをそろえた最高のパフォーマンスを、浴びるように聴いてほしい。

○ COLORED MUSIC / INDIVIDUAL BEAUTY
藤本敦夫と橋本一子のユニットであるカラード・ミュージックは、1981年に唯一のアルバム『COLORED MUSIC』を出しただけだが、何と未発表の音源が登場した。内容は、カセットブックとして発売予定だった5曲に6曲追加した全11曲。1ST収録「HEARTBEAT」の別バージョンや、橋本一子のソロ・アルバム『BEAUTY』(1985)収録曲のオリジナル・バージョン3曲を含む。
『COLORED MUSIC』がフューチャー・ジャズあるいはコズミック・フュージョンだったとすれば、このアルバムはニュー・ウェーヴのフィルターを通したエスニック・ミュージックのような印象を受ける。とにもかくにも、歓迎したい発掘音源である。

○ G.T. MOORE / THE HARRY J SESSIONS
木漏れ日フォーク・バンドと称されたHERON、いち早くレゲエを取り上げたG.T. MOORE & THE REGGAE GUITARSのG.T. MOOREが、1980年に録音していた驚きの音源。キングストンの名門レーベルであるHARRY Jに残したZAPPOWをバックに演奏した作品は、彼のソングライティング・センスが光るクール&メロウなレゲエとダブの宝庫。
まさに、ソフィスティケーションの極みといった美しいサウンドに聴き惚れてしまう。

○ LAKESIDE / SHOT OF LOVE・ROUGH RIDERS・FANTASTIC VOYAGE
オハイオ州デイトンの大型ファンク・グループとして一世を風靡したレイクサイドのソーラー・レコード作品をまとめて聴けるお得盤。1977年に出したメジャー第一作が不発に終わった彼らは、ソーラーに移籍すると『SHOT OF LOVE』(1978)、『ROUGH RIDERS』(1979)、『FANTASTIC VOYAGE』(1980)を立て続けにヒットさせた。
とにかく、歯切れのいいファンク・チューンとメロウなバラードが彼らの真骨頂だ。

○ INOYAMALAND / DAVZINDAN-POJIDON
1983年に細野晴臣と高橋幸宏の¥ENレーベルからリリースされた作品で、ずっと入手困難だったため待望の再発である。しかも、オリジナルマルチトラックからのリマスタリングという理想的な形態。
本格的な環境音楽であり、今でいうところのヒーリング・ミュージックの草分け的な一枚。ExT Recordingsからその他の作品も続々とリリースされているので、要チェックだ。

○ HOLGER CZUKAY , JAH WOBBLE , JAKI LIEBEZEIT / FULL CIRCLE
ホルガー・シューカイ関連の作品で、ずっと再発されていなかった1982年の本作(当時の邦題は『舟海』)が、ようやくリマスターでリリースされた。
CANとP.I.L.の先鋭的な音響感覚をベースに、あえて音数を削ぎ落として構築されたサウンドは、ひんやりとしたソリッドさと不思議な浮遊感が同居している。感触としては、ホルガー・シューカイのソロ・アルバムの延長線上の音だが、それは3人のコラボレーションをシューカイがアルバムにまとめ上げたからだろう。いずれにしても、ホルガー・シューカイの作品としては絶対に外せない傑作である。

○ KATE BUSH / REMASTERED PART Ⅰ
長らくリマスター再発が待たれていたイギリスを代表するワン・アンド・オンリーなヴォーカリストであるケイト・ブッシュ初のリマスターBOXで、PART Ⅱも同時リリースされた。もちろん、アルバム単体でのリリースもある。彼女自身が監修していることも、理想的である。このBOXでは、デビュー作『THE KICK INSIDE』(1977)から『THE RED SHOES』(1993)までの7枚が収められている。
とにかく、高音から低音まで自由自在に自分の声を操り、彼女ならではの世界観を表現した作品群は、強靭なオリジナリティーに満ち溢れた素晴らしい内容である。

○ THE BOBBY FULLER FOUR / MAGIC TOUCH
ザ・クラッシュがカバーしたことでも有名な「I FOUGHT THE LAW」のオリジネーターであるボビー・フラー・フォーが、マスタングに録音した6枚のシングルと彼らの前身グループの楽曲、それに加えて謎の急逝を遂げたボビー・フラーに代わり弟のランディー・フラーが率いたランディー・フラー・フォーのシングル等も加えた決定盤。すべてオリジナルのモノ・ミックスなのもうれしい。
彼らの痛快極まりないガレージ・サウンドは、まさに60年代ロックンロールの輝きに満ちている。

2019年再発で僕が期待しているのは、¥ENレーベルのインテリア『インテリア』やテストパターン『アプレ・ミディ』、去年も書いた生活向上委員会大管弦楽団『This is Music is This!?』『ダンス・ダンス・ダンス』、プリンス、バーブラ・ストライサンドのリマスター、バーバラ・ムーアといったところである。

水素74%『ロマンティック♡ラブ』

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2019年10月6日のソワレ、新宿眼科画廊 地下スペースで水素74%『ロマンティック♡ラブ』を観た。二年ぶりの再演だが、脚本は大幅に書き換えられキャストもしじみ以外は変更になっている。

ちなみに、この日はしじみの誕生日であった。

 

 

作・演出:田川啓介/照明:山口久隆/音響:池田野歩/宣伝美術:根子敬生(CIVIL TOKYO)/宣伝写真:伊藤祐一郎(CIVIL TOKYO)/技術協力:工藤洋崇/ドラマトゥクル:所崎春輔/当日運営:安部はるか

制作:水素74%/協力:パップコーン、ピーチ、ワタナベエンターテインメント

 

 

こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

 

田中(須田拓也)は、狼狽した顔で田辺繭子(しじみ)に携帯で救急車を呼べと叫んだ。田中の車が自転車に乗っていたお婆さんとぶつかってしまい、お婆さんは倒れたままピクリとも動かなかった。そして、自動車を運転していたのは、繭子だった。

だが、繭子は頑なに電話することを拒否。しかも、轢いたのは犬だったと言い出す始末。田中は車が自分の物であることもあって必死に電話するよう繭子を説得するが、彼女の訴えるような目と甘い声に押し切られてしまう。

 

デートの帰り、繭子は一人になりたくないからと言って田中のアパートにやって来る。どぎまぎする田中に対して、繭子は不安だから今夜は泊りたいと言い出す。布団がないと慌てる田中は、いつも自分が寝ているソファーで寝るよう繭子に言う。自分は、床で寝るからと。

すると、繭子はソファーで一緒に寝ようよと誘う。緊張で固まっている田中に、こっちに来てよと繭子は自分が座っているソファーの横を指す。

おずおずと繭子の隣に座る田中。繭子は、今日ラウンドワンで一緒に遊んで田中さんって優しくていい人だなと思ったと甘えるように言った。そして、彼女はもし田中が車を運転していたことにしてくれたら、本当に好きになってしまうかも…と言った。

そんなことは無理だからと一度は田中も断るが、結局は繭子の色仕掛けに負けてしまう。その夜、田中は初めて女性を抱いた。

 

田中は、バイト先のパチンコ店を辞めることにしたが、先輩従業員の山田(渡邊まな実)から猛反対される。ここを中途半端に辞めてしまったら、田中は本当に駄目になると彼女は考えていた。自分はまだ19歳だが、人生ではいろいろと見てきた。この店の仕事だって正直まともにできていないのに、ここで投げ出してしまったらどうなるのか…と彼女は本気で心配した。しかも、辞めてどうするのかと聞くと田中は旅に出ると歯切れ悪い口調で言う。38歳にもなって自分探しをしている場合か!と山田はさらに迫った。

山田に気圧されて、とりあえず辞めることを保留にする田中。すると、そこに繭子がやって来る。繭子も、このパチンコ店の同僚だった。田中が店を辞めるのを止めたと山田から聞いた繭子は、驚いた表情で「田中さん、繭に辞めるってあんなに言ってたじゃない!」と責めるように言った。山田は辞めない方向で田中は考え直したようだと言い、当の田中は二人の女性に挟まれて煮え切らない態度を取った。

 

山田が仕事に戻ると、部屋に残った二人は言い合いを始めた。田中は、結婚を餌に繭子の身代わりで警察に自首することを約束させられていたのだ。それが、バイトを辞める本当の理由だった。

繭子は、田中を外した店の飲み会で皆が田中のことを馬鹿にしていたと言った。こんな店、辞めた方が田中さんのためだよと彼女は迫った。またしても、田中は繭子に押し切られてしまう。

 

警察に自首する前に、弟にだけは会って事情を話したいと田中は繭子に言った。両親はすでに亡くなっており、弟の健児(四栁智惟)だけが自分の家族だからと。

田中は、待ち合わせた喫茶店で健児と会った。どう話したらいいものか…と田中が言いあぐねていると、健児は兄の近況を聞いてきた。パチンコ屋のバイトはちゃんと続けているのかと。田中は健児に借金を重ねていて、その額は50万円になっていると健児から聞かされる。

にもかかわらず、パチンコ屋を辞めようと思っていると聞かされて健児はあきれ返る。その前のコンビニのバイトだって、長続きしなかったのだ。パチンコ屋のバイトを辞める理由が、自動車で人を轢いてしまい自首するからだと聞かされて、健児は絶句する。

事故を起こしたのは昨日のことだと聞いた健児は、それは事故ではなくひき逃げという犯罪だと色めき立つ。しかも、被害者がどういう状態なのかと尋ねても田中は分からないと口を濁す始末だ。

こんな田舎で事故を起こして警察に自首したら、町中に知れ渡ることは確実だ。兄が犯罪者だとなったら、教師をしている自分の立場はどうなるのかと健児は田中に言った。そして、騒ぎにもなっていないのだから、このまま黙っていて大丈夫だろうと田中が思いもしなかったことを健児は口にした。そんな訳にはいかないという田中に、健児は警察に行かないなら50万円の借金を帳消しにして、さらに50万円あげるからと言った。

この言葉に、田中の決意はグラグラと揺れた。

 

混乱した田中は、警察に付き添ってくれる彼女が店の前で待っているからとにかく呼んでくると言って席を立った。そして、繭子を伴って田中は席に戻ってきた。兄の彼女にしては、思いの外繭子は魅力的で健児は内心驚いた。

健児が本当の事情を知らぬまま、三人は自首すべきだの止めた方がいいのと噛み合わない会話を続けた。トイレに行くと言って田中が席を立つと、健児はあんな兄のために申し訳ないと繭子に言った。色々相談に乗るからと言って二人がLINEを教え合っているところに、田中が戻ってきて自分がいない隙に何をやっているんだと食ってかかった。話の方向はずれていき、この日の話はうやむやになってしまった。

 

夜、田中には内緒で健児と繭子は二人で会っていた。食事を終えた後、別れがたい健児は繭子をもう一軒誘うがお酒はもういいと言われた。かといって、まだ帰りたくないと彼女。冗談めかして、じゃあホテルでもと健児が言うと、行きたいけど田中さんのことは裏切れないと繭子はつらそうな顔をした。

健児は、兄とは別れは方がいいと繭子に言った。すると、繭子も別れたいと言っているのだが別れてくれないと答えた。結局、この夜は何することなく二人は別れるのだった。

 

田中は、ずるずるとパチンコ屋を続けていた。フロアをほうきで掃いていると、山田がやってきてほうきの使い方がなってないと言った。ただ、近頃の田中さんは以前と違ってやる気が出てきたように見えると彼女は続けた。それを聞いた田中は、ただ甘いことを言う人より厳しく言ってくれる人の方が本当に相手のことをちゃんと思っていてくれているんですね、と言った。

そして、唐突に「山田さんには付き合っている人がいるんですか?」と聞いた。山田は、戸惑いながら付き合っている人はいないと言った。が、それに続けて夫と二人の子供がいると言った。愕然とする田中。「山田さんって、19ですよね」「初めの子は、13で産んだから」「ご主人との仲は」「普通だけど」。

田中は、じゃあ何で思わせぶりなことを言うんだと逆ギレした。すべてがどうでもよくなったと言わんばかりに制服を脱ぎ捨てると、やっぱり辞めますと言って田中は出て行ってしまった。

 

田中、健児、繭子が座っている。三人の間には険悪なムードが漂っている。田中は、自分に隠れて健児と繭子が会っていることをなじった。色々不安だから相談に乗ってもらってるだけだと繭子。

健児は、「やっぱり兄貴は自首した方がいい」とこれまでとは真逆のことを言った。「ネットで調べたら、ひき逃げの検挙率は100%だって」「この間は、自首しないで大丈夫だって言ったじゃないか」「あの時は、ちゃんと調べてなかったから」と不毛な会話が繰り返された。そして、「兄貴は繭子さんと別れるべきだ」と健児は言った。山田の件もあって捨て鉢になっている田中は、自首するなら繭子だと言ってことの真実をすべて健児にぶちまけた。これには、健児も言葉を失った。

窮地に立たされた繭子は、「田中さんのことも健児さんのことも両方好きになってしまったの」と言ってのけた。まったくタイプが違うじゃないかと言う兄弟に対して、「でも、繭の代わりに自首してくれた人の方が好きかも…」とか細い声で甘えるようにつぶやいた。そして、彼女はまた結婚をちらつかせた。

この言葉に、田中も健児も最初のうちは自分が代わりに自首すると繭子への愛をアピールするが、いざとなると互いに譲り始め、一向に話は進まなかった。まさしく三すくみの状態だ。

 

男(工藤洋崇)が、誕生日おめでとうと言って繭子にプレゼントを渡した。中からぬいぐるみを取り出して「ありがとう。こういうのって、高いんでしょう」と繭子は喜んだ。

そして、二人は歩き出した。しばらくして、繭子は甘えるように言った。

「ねぇ、お願いがあるんだけど…」

 

 

二年前の初演は脚本が直前まで上がらなかったこともあり、悪い出来ではなかったもののストーリーテリングに未整理な部分が散見された。

しかし、今回の再演では物語がグッとブラッシュアップされ見応えのあるウェルメイドな舞台へと進化を遂げていた。

 

初演では繭子の悪女ぶりが突出していて、他の三人の登場人物がひたすら彼女に翻弄される話だった。今回は、繭子、田中、健児が三人三様の保身とエゴ、そして愛欲を剥き出しにしつつ、田中と健児の優柔不断さに繭子もまた翻弄される展開である。三人のバランスが絶妙だし、ほぼ脇道にそれることなく無駄を削ぎ落した物語はテンポよく進み、舞台にリズム感があった。

また、パチンコ店における山田の登場場面では辛辣な科白で笑わせ、メリハリのある演出が目を引いた。

初演は60分、再演は80分の尺だったが、体感時間としては再演の方が短く感じた。それだけ、作品としてソリッドだったのだ。

 

前述のとおり、今回の再演で同じキャストだったのはしじみだけだが、やはり繭子役は彼女以外に考えられないだろう。甘えたような声と科の作り方から漂う食虫植物のような毒気は、女優しじみの真骨頂である。

他の三人もそれぞれにしっかり物語を支え、舞台に立体感を出していた。

また、今回は舞台セットもシンプルになっていて観やすかった。

 

不穏な余韻を残す最後の繭子の科白も、この作品のエンディングに相応しい。

 

本作は、キレのある演出で人間のエゴイズムを炙り出して見せる良作。まさにリベンジと言うべき、意義のある再演だった。

この舞台を鑑賞して、またしじみの主演作を観てみたいと強く思った。これからの彼女の活躍にも期待したい。

不汁無知ル&宮川有紀子@国分寺giee

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2019年10月9日、国分寺のgieeで、不汁無知ル宮川有紀子のライブを観た。

 

 

宮川有紀子は、かつて墨之江ユキと名乗って東京で音楽活動をしていたが、活動を辞めて数年前に尾道に引っ越してしまった。僕は、割と熱心な彼女のファンでまめにライブにも足を運んでいたし、彼女が2010年にリリースした『墨之江ユキ』というアルバムではライナーノーツを書かせてもらった。そのユキちゃんが、一年ほど前からアコーディオンを手に再び歌い始めた。

 

 

そして、ツアーで東京にも来るというので本当に久しぶりに聴きに行った。僕が最後に彼女の歌を聴いたのは2012年8月30日。「幻影のうた」と題されたライブで、場所は同じ高円寺gieeだった。もう、7年も前のことである。

不汁無知ルの渦さんとユキちゃんは盟友のような関係で、僕は不汁無知ルの演奏も何度か聴きに行ったが、最後に不汁無知ルの演奏を聴いたのは2012年2月12日に高円寺REEFで行われた「おでんLIVE」だった。

 

来ていたお客さんも当時見かけた方がいたし、その中には池島ゆたか監督の姿もあった。まるで同窓会のような空気に会場は包まれていた。

 

不汁無知ル

  渦ヨーコ(as,vo)+高田盛輔(cello,violin)

 

 

 

「舟唄心中」からスタートした演奏は、途中弘瀬金蔵(絵金)を題材にした二曲を挟んで展開した。冒頭でシーケンサーのセッティングをミスったのはご愛敬だが、アングラ演劇と丸尾末広を思わせる異形のエロティシズム的な世界観は健在。

高田さんがヴァイオリンも演奏し、曲によってはコーラスもつけていたのには驚いた。ただ、テンポの速い曲では、ややヴァイオリンのピチカートが遅れ気味なのが気になった。

渦さんのサックスは独特の情炎が漂い、芝居がかった歌も実にらしかった。欲を言えば、ボーカルにもう少し表情が加わるとさらにこのユニットのオリジナリティに磨きがかかるのだが。

いずれにしても、赤い着物をまとって歌う渦さんの姿は粋だった。

 

宮川有紀子(vo,accordion)

 

 

 

意表をついて、ビートルズの「イエスタデー」から演奏はスタート。ブランクを感じさせない歌声が、会場に響く。墨之江ユキとして活動していたときは、ジャズをベースにしつつ様々な音楽性をミクスチュアして彼女ならではの音楽を聴かせていた。

この日の演奏では、シンプルなアコーディオンとともにギミックを排した純度の高い歌を聴かせてくれた。いささか乱暴な表現を使えば横森良造からアストル・ピアソラまでといった自由さで、「ザ・ニアネス・オブ・ユー」はジャズ・ボーカルと言うよりもシャンソン的なたたずまいだった。

墨之江セットにおける多彩な演奏も好きだったが、今の彼女を飾らずにありのまま表現したようなソロ演奏こそが宮川有紀子の音楽なのだろう。

 

終演後は、池島監督と久しぶりのピンク映画談義に花が咲いてしまった。

 

懐かしさと楽しさに、心満たされた夜であった。

園村健介『HYDRA』

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『HYDRA』

 

監督:園村健介/エグゼクティブプロデューサー:中島一徳、小河禎承/企画・プロデューサー:山田昌孝/脚本:金子二郎/音楽:MOKUキャスティングプロデューサー:太田創/撮影:鈴木靖之/照明:東憲和/録音:土屋和之/助監督:猪腰弘之/VFX:辻本貴則/スタイリスト:MICHIKO TANIZAWA/ヘアメイク:石坂智子/アクションコレオグラファー:園村健介、三元雅芸、川本直弘

制作プロダクション:ポリフォニックフィルム/製作「HYDRA」製作委員会

公開:2019年11月23日

宣伝コピー:「殺す」しか知らなかった男の哀歌〈エレジー〉

 

 

こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

 

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トイレで用を足す警察官。あとから入ってきたヨウスケ(木部哲)が、背後から警察官を襲って殺害した。ヨウスケと入れ替わりに、ゴルフバッグを担ぎシルバーのスーツケースを引いて杉本マサ(仁科貴)がやって来る。杉本は死体をスーツケースに押し込むと、車で運び去った。自分のマンションに戻った杉本は、バスルームで遺体を解体処分した。

仕事を終えた杉本は、水槽に肉片を落として魚たちが食べるのを満足げに見てから、練乳をたっぷりかけたフレンチトーストを貪り食うのだった。

 

 

中目黒のバー「HYDRA」。三年前に開店したこの店は、若い女性オーナー兼バーテンダーの岸田梨奈(MIU)が経営している。店員は、一見軽そうなイケメンの桐田ケンタ(永瀬匡)と厨房担当の佐藤高志(三元雅芸)。

高志は、きわめて口数の少ない暗い影のある男だった。ケンタは、そんな高志のことを無口なだけのおっさん呼ばわりしている。だが、高志の料理の腕は確かで彼の頭の中には数々のレシピが完璧に記憶されている。

三年前、梨奈の父で元警視庁公安部公安総務課警部補の岸田純一郎(田中要次)が失踪した時、その知らせを彼女に伝えてきたのが高志だった。純一郎は、彼の財産とこのバーを梨奈に生前贈与していた。

彼女にとって、高志は兄のようでもあり父親のような存在でもあった。

 

 

 

「HYDRA」の常連客に長谷川(野村宏伸)という男がいた。いつもシックなスーツ姿の紳士で、奇麗な女性を連れていることが多かった。その日も女性と飲みに来ていた長谷川。すると、連れの女性が突然倒れそうになったが、厨房から飛び出した高志が彼女の体を支えて事なきを得た。この日に限らず、高志は何時も絶妙なタイミングで素早く行動した。お陰で、梨奈がこの店のオーナーになって以来、トラブルは一度もない。

高志が絶妙のタイミングで厨房から飛び出したのには、訳があった。彼は、見ていたのだ。女のグラスに、長谷川がこっそり薬を入れたところを。以前にも、長谷川が連れていた女性が気分を悪くしたことがあった。

 

 

 

その夜はお客が少なく、梨奈は早めに店を閉めようと言った。かねてから梨奈に気のあるケンタは、近くにいいビストロができたからと彼女を誘った。梨奈から「いいわね」とOKをもらえて喜んだのも束の間、高志も一緒に行くことになりケンタは面白くない。店の片づけをしてから追いかけると梨奈に言われて、ケンタと高志は先に店を出た。すると、店に携帯を忘れたと言って、ケンタは「HYDRA」に戻った。

梨奈がその日の勘定を終えた時、店に長谷川が入ってきた。一杯だけ飲ませてほしいと言われて、梨奈は快く応じた。長谷川は、梨奈にも一杯勧めるが彼女の目を盗んでグラスに例の薬を仕込んだ。そうとは知らず、一気にグラスを干した梨奈は急に体がぐらつきフロアに倒れてしまう。その様子を確認した長谷川は、注射器を取り出し梨奈の腕に刺そうとする。

その時、店のドアが開いてケンタが入ってきた。店の中の様子を見たケンタは長谷川につかみかかるが、逆にのされてしまう。

再び長谷川が梨奈の腕に注射針を打とうとしたところで、今度は高志が飛び込んできた。高志は目にも止まらぬ速さで長谷川を叩きのめすと、長谷川を店外に連れ出した。「助けてくれ…」と命乞いする長谷川に、「お前は浄化されるべき人間だ。だが、それをするのは俺じゃない」と言って高志は長谷川にもう一発お見舞いした。

 

 

そんなこともあり、高志は万が一の時のために梨奈に護身術を教えた。「やっぱり、高さんはお父さんに似てる」と言って、梨奈は微笑んだ。

 

 

「HYDRA」に見慣れないお客がやって来た。オーダーは、練乳をたっぷりかけたフレンチトースト。そんなものを好む人間を、高志は一人だけ知っていた。高志は、かすかに顔をしかめた。

昼間のコインランドリーで、高志は宮崎真一(青柳尊哉)に会っていた。杉本も宮崎も東京生活機構株式会社のメンバーで、三年前まで高志もそこで殺人職人をやっていた。高志と宮崎は、同じ養護施設の出で、高志は岸田純一郎に拾われて鍛え上げられ東京生活機構のメンバーになったのだ。

 

 

東京生活機構は、警視庁を辞めた岸田が立ち上げた組織でやくざであろうと一般人であろうと、依頼された人間を消す闇組織だった。ところが、組織の人間の計略にはめられ高志は岸田の浄化を命じられる。それが罠だと気づいたのは、岸田と刺し違えた後だった。岸田は、今わの際に梨奈の写真と「HYDRA」の鍵を高志に渡し、娘のことを彼に託して息を引き取った。

そして、高志は東京生活機構を抜け、以来「HYDRA」の調理担当をしているが今でも彼は恩人の岸田を手にかけたことで苦しみ続けている。

 

 

宮崎が高志のもとに現れたのは、また力を貸してほしいからだった。殺しても殺しても、浄化すべき人間は減らない。おまけに予算は削られている。先日警察官を殺したヨウスケは、高志の後輩の殺人職人だった。

宮崎の話では、長谷川が殺されたという。長谷川は、警視庁組織犯罪対策部の警視正でありながら、もう一つ別の顔を持っていた。デートクラブを経営し、目に付いた女を薬漬けにして自分の店で働かせたり風俗に沈めたりしていた。東京生活機構が殺めた警察官も、長谷川の部下だった。

「俺は、殺っていない」と高志は否定し、組織に戻る気もないと言ってその場を去った。

それでは、長谷川は誰の手で浄化されたのか…。

 

間引き屋を名乗り殺しを引き受ける闇組織のボス中谷輝(田口トモロヲ)は、車中で苛立たし気に電話している。長谷川一派の件で、東京生活機構と仕事が被ってしまったからだ。中谷にとって、東京生活機構は商売敵という以上に邪魔な存在だった。

中谷は、助手席に乗っている上田シュウ(川本直弘)に仕事を命じた。

 

 

シュウの一人目のターゲットは、ヨウスケだった。シュウは、ヨウスケを人気のない廃倉庫におびき寄せそこで死闘を演じた。高志の後釜だけあってヨウスケも相当な腕の持ち主だったが、シュウはさらにその上を行った。東京生活機構は、重要なスタッフを失った。

 

 

同じコインランドリー。高志の前に、またしても宮崎が現れた。宮崎は、また高志を勧誘してきた。うんざりしながら、高志はもう戻る気はないと伝えると宮崎はヨウスケが殺されたと言った。嫌な予感が、高志の心をかすめた。

 

「HYDRA」に出勤しようとしていた梨奈をシュウは拉致して、またあの倉庫に連れて行った。梨奈の手足をガムテープで拘束すると、シュウは彼女のスマートフォンを抜き取った。

店では、ケンタと高志が開店の準備をしている。「珍しいですね。梨奈さん、いつもは遅くても開店の10分前には来るのに」と言った高志のスマホが震えた。

梨奈のスマホから動画が送られてきた。その画像には、拘束された梨奈の姿と5時間以内に来いというシュウのメッセージ、そして指定場所が記録されていた。梨奈のもとへ駆けつけようとした高志に、自分も一緒に行くとケンタが言った。自分は、昔ヤンチャをしていたから腕に覚えがあり、そして梨奈のことを本気で好きなのだと彼は訴えた。

高志は、「足手まといになる。本気で好きなら、ついてくるな」と言い残し、店を飛び出していった。

 

 

指定された倉庫に到着した高志は、倒れていた梨奈を抱き起し彼女を拘束しているガムテープを切った。そこに、シュウが現れた。彼の二人目のターゲット、それは高志だった。

 

 

壮絶な戦いが繰り広げられ、二人は一進一退の攻防を見せた。だが、次第に高志の方が攻め込み始める。劣勢に立ったシュウは、ナイフを梨奈の首元に突きつけた。さすがの高志も、これでは手を出せない。

「保険は、必要なんだな」と不敵に笑うシュウ。その一瞬の気の緩みを突き、梨奈が高志から学んだ護身術を生かしてシュウの腕から逃げた。ここぞとばかりに、高志はシュウにとどめを刺した。

 

 

宮崎の目の前に、意外な男が現れた。中谷だった。「生きていたのか!?」と驚きの表情で問う宮崎に、「いや、俺はお前たちに浄化されただろ」と淡々と答える中谷。三年前、高志と岸田を罠にはめたのはこの男だった。

宮崎が撃った銃弾を一瞬早くかわした中谷は、「言ったろう、俺はもう生きてはいないって」と言うや懐から取り出した拳銃で宮崎の腕を撃ち、その場から車で立ち去った。

 

 

「HYDRA」を訪れた常連客の由香里(後藤郁)は、ケンタを見るなり「あれ?雰囲気変わったね」と言った。確かに、今までのチャラついた感じがなくなりケンタは落ち着いた雰囲気になっていた。彼は照れ臭そうに、高志を見習ってああいうカッコいい男を目指そうと思っているのだと言った。「無口なだけのおっさんとか言ってたくせに」と梨奈が茶化した。

厨房から出てきた高志に、由香里と梨奈がケンタが高志に憧れているとばらしてしまい、「本人に直接言いますか!」とケンタは慌てた。

 

 

そのやり取りを見て、高志はかすかな笑みを浮かべると再び厨房に戻った。「あれ?今高志さん笑いませんでした?あんな顔、できるんですね」と驚いたようにケンタが言った。

一人厨房で煙草に火を点けると、高志は今のやり取りを思い起こしてもう一度笑みを浮かべた。

 

そして、また中目黒の夜は更けていく…。

 

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アクション監督として高い評価を得ている園村健介の初監督作品である。そして、主演は三元雅芸。この二人が組んだ作品であるから、当然見どころとなるのは長い尺を取ったアクション・シーンなのは言うまでもないだろう。

本作が画期的なのは、いわゆる定番の殺陣をあえて否定するようなアクションで格闘シーンを撮っているところである。打ち合わせて決めた型はあくまで動作のアウトラインでしかなく、実際の格闘シーンでは互いの隙を突くように限りなくガチな攻撃を繰り出していったのだそうだ。

確かに、二つある格闘シーン木部哲と川本直弘のバトルも、本作のハイライト三元雅芸と川本直弘のバトルも尋常ならざる緊張感と早過ぎて目で追いきれないほどのスピード感に圧倒される。

新しいアクションを提示しようという園村と三元の強い思いは、大きな成果を上げたと言っていいだろう。

 

ただ、である。

物語として見た時、この作品が提示するストーリーテリングは、いかに現代を舞台にしたアクション映画を作ることが難しいかをも露わにしている。映画全体を覆う70~80年代アクションものへのオマージュを感じさせる画作りと音楽。好きな人にはたまらないだろうが、それがある種の古い型にはまって見えてしまうのもまた事実である。個人的には、メリハリがなく押し出しの強い過剰な音楽のつけ方が映画の空気感を平板にしているように感じられて残念だった。

そして、拳銃ではなく肉体を使って仕事をする殺し屋が登場するドラマにリアリティを持たせることの厳しさ。時代設定がもっと過去であるか未来であれば、あるいは多国籍の登場人物をそろえていればそれなりにやりようもあるだろうが、日本人のみが登場する現代の日本を舞台にした必殺仕事人的裏社会の殺し屋となれば、アクション映画にも某かのドラマ的な仕掛けやアップデートが求められると思うのだ。

 

また、「HYDRA」における日常的なシーンでの各役者陣の演技がいささか類型的ではないか。外連味と言うよりオーバー・アクトであったり、演技がぎこちなかったりするのである。

演出的に考えた時、もう少し主人公の高志に演じようがあったのではないか。あまりにも“人には言えない重い過去に囚われている”オーラを出し過ぎていると思う。

 

それから、警視正が裏でデートクラブを経営しているのはまだいいとして、彼が自らの手で女に一服盛り薬漬けにしてしまう設定はいくらフィクションでもありえないだろう。暴力団組長が、自ら街頭で薬の売人を兼務しているようなものである。

誰に立ち聞きされるかの分からないコインランドリーで、宮崎が高志を東京生活機構に復帰させようとするのもどうかと思う。

 

そして、ストーリー紹介をお読みいただければ分かるように、「さあ、これからどうなるのか?」と思った矢先に何一つ伏線が回収されぬままエンドロールが始まってしまう。まるで、物語のプロローグのようである。公式サイトのキャスト紹介には書かれている設定が実際の映画では触れられていなかったり、そもそも説明不足の部分も多く見られる。

この辺り、単なる尺不足なのかそれとも製作陣に思惑があるのか判断がつかないところである。いずれにしても、肩透かしを食らわされた感が拭えない。

 

本作は、アクション・シーンに画期的な新しさを提示した作品。と同時に、現代劇としてのアクション映画が如何に困難かを感じさせる作品でもある。

はたして、続編はあるのだろうか?

 

なお、劇中で宮崎がもっともらしく「HYDRA」の意味を説明しているが、この作品のタイトルが「HYDRA」となったのはロケで使ったバーの店名が「HYDRA」だったからのようである。

松本大樹『みぽりん』

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『みぽりん』

 

監督・制作・脚本・編集:松本大樹/撮影:松本大樹、ヨシナガコウイチ/録音:前田智広/照明:前田智広、ヨシナガコウイチ/ヘアメイク:篁怜/衣装:冨本康成、mame/整音・MA:勝田友也(モノオトスタジオ)/配役:露木一矢(澪クリエーション)/メインビジュアル:小池一馬/題字:小池菜津子/本編題字:のの/HP製作:ヨシナガコウイチ/楽曲提供:梅村紀之(アイドル教室)

製作・配給:合同会社CROCO/宣伝:みぽらー、松村厚、細谷隆広

公開:2019年9月7日

宣伝コピー:「衝撃のラスト分10分 映画の全てがぶっ壊れる…」

 

 

声優地下アイドルユニット「oh!それミーオ!」の神田優花(津田晴香)は、中心メンバー脱退後からユニットのセンターを任され、6か月連続人気投票1位を獲得してソロ・デビューも決まった。ライブハウスでライブを終えた後、優花は残ってソロ曲をメンバーの木下里奈(mayu)に聴いてもらっている。楽屋に戻って優花が感想を聞くと、里奈はよかったと言ってくれた。

 

 

しかし、同じころライブハウスの外ではマネージャーの相川梢(合田温子)が、優花の歌唱力に不安を漏らしている。プロデューサーの秋山快(井上裕基)もそのことは懸念しているものの、如何せん優花のソロ・ライブまで時間がない。

そこに、里奈が出てくる。慌てて口をつぐむ秋山と相川。すると、里奈は、知り合いの子の歌唱力を見違えるほど改善させたボイストレーナーを知っていると言った。その話に食いつく秋山と相川。

 

 

そんな訳で、優花はボイストレーナーの合宿レッスンに参加することとなった。六甲ケーブルの駅付近でボイストレーナーのみほ(柿尾麻美)と待ち合わせ、彼女の車で合宿所へ向かった。ずいぶんと山道を登り、さらに車を乗り入れない道を歩いてその日の夜に合宿所に到着した二人。そこは二階建ての大きな山荘で、かつて会社が保養所として使っていた建物を格安の値段でみほが借りているのだ。彼女の住居は、芦屋にあるという。

 

 

山荘から見下ろす神戸の夜景の美しさに、優花は写メを撮ろうとするがスマホの充電はあとわずか。しかも、どうやら充電器を忘れてきたらしい。みほは、明日自分の充電コードを持ってきてあげるからと言った。

みほはレッスン・ギャラのことを聞いてきたが、優花は事務所から何も聞かされていない。「多分、秋山さんが…」と言うと、みほは「振込かなぁ」と言った。そして、契約書を差し出した。以前、生徒が逃げ出して困ったことがあったから、形式的なことしか書いてないけどサインしてほしいのだとみほは言った。優花は、内容をちゃんと確認することなく契約書にサインした。

みほは、その契約書を受け取るとその夜は帰っていった。

 

秋山は、グッズを大量発注して優花のソロ・ライブの準備を進めていた。MV制作も考えているが、外部発注すると10万円もかかってしまう。経費を節約したい秋山に、相川はファンのカメラマンに撮らせてはどうかと提案した。優花推しのファンで、ライブでいつも最前列に陣取りカメラを構えているカトパンこと加藤淳(近藤知史)だ。

秋山は、加藤にオファーして試しに里奈のフォト・セッションをさせてみた。加藤はノリノリでシャッターを切るが、秋山が小道具に用意した風車が赤いことに激怒。里奈のカラーは黄色だろうと言って秋山ともめだす。その場を何とか収めるため、相川はとりあえず食事に行こうと提案。四人は、飲み屋に行った。

 

お酒が進み、秋山と加藤はすっかり和解。しかし、秋山も相川も泥酔状態で店の外で寝てしまう。二人になった里奈は加藤を誘惑してホテルへ。酔いも手伝い、加藤はそのまま里奈と一夜を過ごしてしまう。

翌朝、二日酔いで目を覚ました加藤。すでに里奈はチェックアウトしたらしく、部屋にいなかった。加藤が顔を洗うため洗面所に行くと、鏡に口紅で「今日からは里奈押しね」と書いてあった。「漢字、間違ってるし…」と加藤はつぶやいた。

ホテルを出た加藤は、腕を組んで歩いている秋山と相川に遭遇。秋山と相川は激しく動揺して、「これから事務所に戻るから、またあとで」と言うなり、そそくさと去っていった。

 

二日目。優花とみほはコーンフレークの朝食を食べている。すると、みほは「私のことはみぽりんって呼んでくれる?」と言ってきた。「みぽりん…ですか?」ときょとんとする優花。そこで、優花は「みぽりんは、いつも朝はコーンフレークなんですか?」と聞いてみた。すると、突然みほの表情が変わり「はぁ~、みぽりん?ふつうなら、みぽりんさんとかみぽりん先生だろ!」とキレ始めた。あまりの豹変ぶりに、優花は言葉を失う。

そして、ピアノを前に発声練習を行う優花。しかし、みほが示した手本では「ニャニャニャニャニャニャニャニャニャ~♪」。猫になりきってやれという。腹式呼吸も出来てない、音程も全く外れてる、おまけに猫になりきってないと優花を叱責するみほ。そして、なぜか二人は猫になりっきって互いを威嚇する。

おまけに、みほは優花に頼まれたスマホの充電器を忘れてきた。

 

 

三日目。みほが作ってくれた朝食はポトフだった。美味しいが、何の肉が入っているのか優花には分からない。みほが仕留めた猪だという。しかも、さっき捌いたばかりだから新鮮だとみほはさらっと言う。思わず、吐き出す優花。

相変わらず、優花の音痴は改善されない。「アイドル、なめてるのか!」と怒りを露わにするみほ。「歌、上手くなくても人気投票1位だし、そもそも本業は声のお仕事だし」と優花が言い出すに至って、みほの怒りはさらに加速した。

その日も、優花はスマホの充電器を持ってきてくれなかった。

 

 

四日目。優花が目を覚ますと、外で銃声がしている。何ごとかと思い彼女が玄関を開けると、みほが猟銃を向けてきた。腰を抜かしそうになる優花。ボイトレだけでは食べて行けず、みほは動物を撃ち剥製にして通販で売っているという。「そうしないと、市民税払えないから」とみほ。そして、彼女は雉の剥製を取り出すと「里奈、可愛い~」と頬ずりした。剥製には、「oh!それミーオ!」の里奈の名前が付けられていたのだ。

どうやら、みほと里奈は個人的な知り合いらしい。

 

 

みほがアイドルに対して特別な思い入れを持つのには、理由があった。若いころ、彼女自身がアイドルを目指していたからだ。というより、歌が上手かったみほを彼女の母親(木野智香)がアイドルにしようと必死になっていたのだ。

「アイドルになれば、イケメンと結婚して幸せな人生を送れる。それができなければ、ママみたいにつまらない男と結婚する羽目になる。だから、あなたはアイドルにならなきゃダメなの!」と言われ続けた日々。それが、みほに病的なまでのアイドル神格化をもたらしたのだ。

 

みほが持ってきたレッスン道具を車に取りに行った優花は、シートの上にスマホの充電コードが落ちているのを発見。こっそり持ち帰ってスマホを充電した。しかし、ここは圏外だった。

みほが用意したバランスボールを背にして反り返っての歌の練習。相変わらず、優花の歌はひどい。おまけに、山荘の中で優花は時々おかっぱ頭に全身黒い衣装を着た正体不明の女を(篁怜)を目にして悲鳴を上げた。

みほの言動もいよいよ狂気じみてきて、もはや限界だ。だが、優花がちゃんと読まずにサインした契約書には途中でレッスンを放棄した場合1000万円の違約金という一文が入っていた。おまけに、秋山も相川もみほの連絡先を知らないとみほは言った。

優花が、みほの充電コードを使ってスマホに充電しているのをみほが発見。彼女は、優花のスマホを取り上げた。

 

五日目。みほが、血相変えてやってきた。みほは、優花のスマホの待ち受け画面に男が写っているのを示して「お前は、アイドルとして一番やっちゃいけないことをしたな。男なんか作りやがって!」と詰め寄るみほ。「アイドルにだって、人権くらいあるでしょ!」「アイドルは人間じゃない。アイドルはアイドルなのよ!」。待ち受け画面に写っていた男の正体を聞いて、いよいよみほの怒りは頂点に達する。

「お前も剥製にして、ファンに高値で売ってやろうか」と真顔で言うみほ。「私は、市民税を払わなきゃいけないんだよ!」と叫ぶみほの目は、もはや尋常ではなかった。

 

 

彼女は、優花を二階の一番奥にある物置に閉じ込め帰っていった。

 

 

六日目。物置の中で目覚めた優花は、山荘からの脱出を試みる。しかし、山荘を出て歩いていると公道を走って来るみほの車の音が。慌てて物置に戻る優花。

みほが入ってきて物置の扉を開けると、優花は汗びっしょりだった。怖い夢を見たからと優花は何とか言い逃れをした。みほが山荘を出て行き時間を持て余した優花は、バランスボールに反り返って下手くそな歌を大きな声で歌い始める。

 

そのころ、事務所では秋山と相川、そして加藤が、優花が帰ってこないことを心配していた。彼女のスマホに何度連絡してもつながらない。ソロ・ライブは明日に迫っており、グッズも大量にそろえた。秋山と相川は、いまさら二人ともボイストレーナーの連絡先を知らないことに気付いた。加藤がチェックした優花のSNSもすべて更新が止まっている。

優花が投稿した最後の画像に六甲ケーブルが写っていたことから、六甲ケーブルの駅にとりあえず向かう三人。そこで、加藤は優花の手袋が置き忘れてあるのを見つけた。公道沿いにしばらく歩いていると、秋山が足を止めた。道を外れた方から優花の下手くそな歌声が聞こえる。その方角に進んでいくと、眼下に大きな山荘が現れた。

三人は、その山荘を訪ねるが…。

 

 

ここからの驚くべき展開はあえて伏せるが、実に個性的でユニークな作品である。令和初のカルト映画かどうかはさておき、かのカナザワ映画祭2019「期待の新人監督」観客賞は伊達じゃない怪作である。

本作が初の自主制作長編映画となる松本大樹は、低予算を逆手に取ったアイデア勝負のストーリーテリングとアクセル全開のスピード感で観る者に考える隙すら与えず、怒涛のラストまで一気に走り切る。スタッフとキャストが一体となった熱量のようなものが、スクリーンからあふれ出す。それが、実に爽快である。

まず予告編が秀逸で、これを観ただけで映画本編を観たくなること請け合いである。

 

荒っぽく例えるなら、本作はロブ・ライナー監督『ミザリー』とアルフレッド・ヒッチコック監督『サイコ』を好きな人が、サディスティックなブラック・コメディーを撮ってみましたみたいな作品である。猟奇と諧謔が絶妙のバランスで進むストーリーは、宣伝コピーでも謳っている通りラスト10分をどう受け止めるかが観る側の作品評価を左右する。

確かに奇想天外な展開であることに偽りはないが、「全てがぶっ壊れる」という割には松本監督の作家的良心ゆえか収束させるところはユーモアを交えつつまっとうに収束させ、壊すところはそれ相応に壊した感じである。

それをどちらか一方に振り切ってくれれば、また随分と映画の印象も変わったように思う。カルト映画というには、若干の行儀良さのようなものが個人的には物足りない訳だ。

ただ、それでも本作に一見の価値があることは間違いない

 

キャストに関していえば、津田晴香も悪くないがやはり謎のボイストレーナーを怪演した柿尾麻美の圧倒的な存在感に尽きる。千変万化する彼女の表情と科白、そして目つきの危なさこそが、この作品の肝である。

 

 

本作は、新しいスタイルを持った映画作家の誕生を予感させる刺激的な一本。

SNS等を通じて自然発生的に宣伝員みぽらーが応援・拡散する広報展開も含めて、注目すべき映画である。


My Favorite Reissured CD Award 2019

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毎年、細々と続けている再発CDアワードということで、去年一年間のCD再発市場を振り返ってみたい。

 

すっかり配信がメインとなってしまった音楽メディアにおいて、いまだパッケージ商品のCDを買い求めているのはもはや酔狂という気さえする。マニアやファッションという意味では、アナログ盤の方がこだわりを感じるし。

例によって再発事情は名盤の何十周年を記念したスーパー・デラックス・エディションや過去の作品すべてをBOX化した廉価盤が多かったが、驚きの発掘録音や音質が数段アップしたリマスター再発もあったのが嬉しい。

 

そんな2019年の再発シーンにおいて、僕が個人的にうれしかったものを順不動で挙げておく。

 

○ 大滝詠一NIAGARA CONCERT'83

毎年、3月21日に某かの再発があるNIAGARAだが、去年は1983年に大滝詠一が出演した「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES.」の蔵出しライブ盤だった。当時、ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」絡みの音楽フェスが毎年西武球場で行われており、1983年のトリはサザンオールスターズが務めた。

大滝詠一名義では、このイベントが最後のライブ出演。当時、ストリングスに関心が強かった大滝が、亀渕昭信からの熱烈なオファーにこたえる形で実現したもの。井上鑑アレンジのオーケストレーションをバックにクルーナー・ボイスで歌い上げるライブは、ロックやポップスと言うよりもはやジャッキー・グリースンのようにドリーミーなイージー・リスニングの音像である。

初回限定盤は2CD+1DVDで、過去のコンサート・アーカイヴCDと1977年6月20日渋谷公会堂でのファースト・ナイアガラ・ツアー映像が楽しめる。

なお、これは余談だけど僕はRCサクセションがトリだった1984年の「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES.」を見ている。

 

○ FRANK ZAPPAZAPPA IN NEW YORK 40TH ANNIVERSARY

次から次へと蔵出しリリースを続けるザッパ・ファミリー・トラストのザッパ・レコーズ。去年は、この作品以外にも『ORCHESTRAL FAVORITES 40TH ANNIVERSARY』『THE HOT RATS SESSIONS』『HALLOWEEN 73』がリリースされた。

この『ザッパ“雷舞”イン・ニューヨーク』40周年盤は、N.Y.パラディウムでの4公演を全て収録した完全版で、当時のチケットを再現したレプリカにN.Y.のマンホールを模したTIN BOX仕様。エディ・ジョブソンやブレッカー・ブラザーズも参加したこの公演は、非常にクオリティの高い演奏が存分に堪能できる。

 

○ 近田春夫&ビブラストーンVIBRA IS BACK

個人的には、日本語のラップ&ヒップホップの原点にして最高峰がこの作品。1989年の渋谷クワトロとインクスティック六本木でのライブをDATで一発録りして同年にソリッド・レコードからCDのみでリリースしたライブ盤。

オリジナル盤は録音レベルと音圧に問題があったが、30年ぶりに待望のリマスター再発がされた。ファンキーでカッコいいインストの「VIBRA IS BACK」や、語尾に「さー!」を付けることで韻を踏む改正風営法を皮肉った「HOO!EI!HO!」等、名曲ぞろいだ。

 

○ AREA / ARBEIT MACHT FREI

イタリアン・プログレを代表するバンドであるアレア。デメトリオ・ストラトスの強烈なボーカルとエキゾティックでアグレッシヴな演奏を聴かせる唯一無二のバンドのファースト・アルバム『自由への叫び』。Crampsの他の盤も併せて、ソニーミュージックが紙ジャケ&Blu-spec CD2により2019年リマスターで再発した。これまで、何度となく再発されている盤だが、CDとしては今回が断トツに音がいい

迷わず、買い替えをおすすめしたい逸品である。

 

○ ARTI E MESTIERI / TILT(IMMAGINI PER UN ORECCHIO)

アレアの再発と同シリーズで出されたアルティ・エ・メスティエリのファースト・アルバム。彼らも、イタリアCrampsレーベルを代表するテクニカル・プログレバンドで、ザ・トリップのメンバーだったフリオ・キリコによる手数の多い超絶技巧ドラミングとトリッキーな楽曲が特徴。

このバンドも何度となくCDが再発されているが、今回のリマスターはアレアの再発同様格段に音質がアップしているので、買い直し必至である。もちろん、Crampsの他の盤も再発されている。

 

 NUCLEUS & IAN CARR / TORRID ZONE THE VERTIGO RECORDINGS 1970-1975

ドン・リンデル=イアン・カー・クインテットで硬派なブリティッシュ・ジャズを演奏していたイアン・カーが、ジャズ・ロックにシフトしたのがニュークリアス。ヴァーティゴ・レーベルから発表された彼らの作品は、プログレッシヴな音像か、徐々にクロスオーヴァーな方向に変化していくが、どの作品も知的で良質な音の宝庫だ。

このボックスは、9枚のアルバムを6枚のCDにまとめて、リマスターを施したもの。紙ジャケットはいささかしょぼい作りだが、値段もリーズナブルだしブリティッシュ・ロック好きにはマストだろう。

 

 ANA MAZZOTTI

ブラジルの歌手、アナ・マゾッチが1977年に発表したアルバムの世界初CD化。彼女と言えば、アジムスのメンバー3人がバックを務めた『NINGUEM VAI ME SEGRAR』(1974)がレア・グルーヴのファンには人気で、そちらは以前日本でCD化されていた。

本作は、新録が1曲で、それ以外は1974年の音源にオーバーダブを施したもの。バッキングには、アジムスから2人が参加している。今回のリイシューでは『NINGUEM VAI ME SEGRAR』もリリースされているので、2枚ともゲットすることをお勧めしておく。

 

 AZYMUTH / DEMOS(1973-75) VOLUMES 1&2

そのアジムスが、1975年のデビュー・アルバム以前に録音していたデモ・テープ音源を発掘したのが本作。当時は、実験的でサイケデリックな音が理解されずにお蔵入りされたらしい。

確かに、デビュー以降に聴かれる爽やかでメロウなエレピのブラジリアン・グルーヴではないものの、オリジナリティあふれる先鋭的で新しいブラジリアン・クロスオーヴァーな作風は、今こそ再評価されるべきである。

 

○ CHRIS REA / ON THE BEACH

言わずと知れた1986年の大ヒット・アルバム。タイトル曲の「オン・ザ・ビーチ」は、日本でCMにも使われた。

発売以来アルバム単位ではリマスターされてこなかったが、ここに来て他のアルバム共々2枚組デラックス・エディションとしてリマスター再発された。2枚目にはシングルB面やアウトテイク、ライブなどが収録されている。

アルバムのタイトルやジャケットの印象とは異なり、全くリゾート感のないいぶし銀の渋い内容だが、良質な大人のロックがこのアルバムには詰まっている。

 

○ JAMES BROWN / LIVE AT HOME WITH BAD SELF

JBも発掘音源の多い人だが、このライブ盤を待っていた人はたくさんいるのではないか。彼の代名詞的な大ヒット曲「セックス・マシーン」を収録した2枚組アルバム『SEX MACHINE』はスタジオ音源に歓声をダビングした疑似ライブも収録されているが、オーガスタでのエキサイティングなライブ演奏も一部聴くことができる。

そして、本作はそのオーガスタでのライブの完全版を収録したものである。1969年という最も勢いのある時期のJBライブを体験できる願ってもない発掘音源である。

 

 LINVAL THOMPSON & THE REVORUTIONARIES / REGREA LOVE DUB・OUTLAW DUB

これも、個人的には待望久しかった再発。LINVAL THOMPSON『LOVE MARIJUANA』(1978)をダブにした『REGREA LOVE DUB』は、彼の初ダブ・アルバムにしてCHANNEL ONEでレボリューショナリーズをバックに録音したもの。

THE REVORUTIONARIES『OUTLAW DUB』は、リンヴァル・トンプソンがプロデュースした彼らを代表するダブ・アルバムの傑作

それが、2in1CDで聴けてしまうのだからありがたい。

 

 RUPHUS / LET YOUR LIGHT SHINE

ノルウェーを代表するプログレッシブ・ロック・バンドであるルーファスの傑作サード・アルバム。同時に、ファーストとセカンドもリマスター再発された。

ノイやクラウス・シュルツェ、クラスター等でお馴染みの旧西ドイツBRAINレーベルから発売された本作は、スペイシーでハイブリッドなジャズ・ロックが聴ける名盤。ノルウェーを代表するジャズ・ギタリストのテリエ・リピタルがプロデュースしているのもポイントが高い。

 

2020年再発で僕が期待しているのは、去年同様¥ENレーベルのインテリア『インテリア』やテストパターン『アプレ・ミディ』、生活向上委員会大管弦楽団『This is Music is This!?』『ダンス・ダンス・ダンス』、プリンスの諸作といったところである。

大塚信一『横須賀綺譚』

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『横須賀綺譚』

監督・脚本:大塚信一/撮影・照明:飯岡聖英/録音・整音:小林徹哉/監督補:上田慎一郎/助監督:小関裕次郎、植田浩行/制作:吉田幸之助/撮影助手:岡村浩代、榮穣/メイク:大貫茉央/美術応援:広瀬寛己/DCP制作:安楽涼(すねかじりSTUDIO)/宣伝美術:西垂水敦(krran)
製作:大塚信一/配給・宣伝:MAP+Cinemago
公開:2020年7月11日
なお、本作は2019年7月14日にカナザワ映画祭にて初上映され、「期待の新人監督賞」を受賞している。


2009年3月。同棲生活をしていた戸田春樹(小林竜樹)と藪内知華子(しじみ)は、知華子の父親が福島の実家で要介護状態になったため別れることになった。証券会社に勤める春樹は、東京を離れることと自分の仕事を天秤にかけて仕事を選んだのだ。
元々作家志望で、自分の書いた原稿が採用されることに決まっていた知華子は相当な読書家で、家にある山のような本を友人の田中絵里(湯舟すぴか)に手伝ってもらい、外に運び出している。春樹は、今日が彼女の引っ越しの日であることを知りながら9時まで帰って来ないという。
知華子は、春樹は優しい人だったというがそれはつまり自分がどうでもいいような存在でもあったからだと冷めた思いも抱いている。ようやく帰宅した春樹を絵里はなじった。荷造りも終わり、知華子と絵里は部屋を出て行った。去り際、「たまには、会いに来てね」と知華子は言った。
春樹は、空っぽになった本棚のある和室で大の字になって眠った。

9年後。春樹は、淡々と証券マンの仕事を続けている。後輩の梅田(長屋和彰)に同行して、老人の家に契約を結びに行く春樹。その老人は一目見て認知症であることが明らかだったが、ノルマ達成のために梅田は契約を進めようとしていた。春樹は、その梅田をサポートして老人にサインさせた。今日の契約のことを、ちゃんと家族にもフォロー入れておけよとだけ彼は忠告した。

ある日のこと、街中で春樹は絵里とばったり出くわす。絵里は、「いい加減、知華子のお墓建ててあげたくて。あの子、ご家族もみんな亡くなっちゃったじゃない。だから、無縁仏になってるんだって」と言った。知華子の死を知らされ春樹は言葉を失うが、絵里はあんな大きな震災が起こったというのに連絡一つしなかった春樹の冷たさを責めた。帰宅した春樹は、今更のようにネットで震災のことを検索した。


 

梅田に頼まれて春樹は老人の家に契約完了書を届けに行くが、案の定老人は何のことだか全く分からない。春樹は、書類を渡すことなく自分のカバンに戻すと辞去した。梅田に電話を入れて、老人が認知症を患っているからあの契約は無効だと言った。書類は渡さなかったと言うと、梅田は会社での手続きはすでに進んでいるしあの場には春樹もいたではないかと食って掛かるが、春樹は1週間休暇を取ったからと言って電話を切ってしまった。

春樹は、何の当てもなく知華子の実家に向かった。いまだ震災の爪痕が残り、彼女の実家もなくなっていた。春樹が座り込んでいると、着信があった。ディスプレイには「知華子」と表示されていた。電話に出ると「たまには、会いに来てね。全然来ないじゃん」という知華子の声がして切れた。
春樹は、GPS機能を使って発信場所に行ってみたが人気のない埠頭が広がっているだけだった。呆然と海を見つめていると、また春樹のスマホが着信した。今度は、絵里からだった。福島の役所に確認すると、知華子の死亡届が提出されたすぐ後に、彼女の転居届が出されていたとのことだった。役場の人間に聞いても、震災のごたごたでそれ以上のことは何も分からないと言われたらしい。
春樹は、転出届の出された横須賀の住所に向かった。

行ってみると、その家には「グループホーム桃源郷」というプレートが出ていた。半信半疑のまま春樹が中に入ると、三人の老人と中年の男が麻雀を打っていた。春樹が「藪内知華子さんがこちらにいると聞いて来たのですが」と言うと、このホームの経営者である川島拓(川瀬陽太)はそれには答えず自分の代わりに打っていてくれと春樹に麻雀に加わるよう言った。老人たちは、麻雀さえ続けられれば誰であろうがどうでもいいようだった。

春樹が事務室の方を覗いてみると、そこに知華子がいた。彼女は、今このホームで働いているらしい。川島は、彼女の幼い頃からの知り合いだという。「お前、無事だったのか!」と春樹は言うが、驚くべきことに彼女は大震災のことなど全く知らないという。逆に、「何言ってるの?」と春樹は言われてしまう。傍にいた川島にも震災のことを否定されて、春樹の頭は混乱する。
もう一人いたケアマネージャーが突然辞めてしまい、春樹は休暇の一週間このホームを手伝う羽目になるが…。



 

この作品は、大塚監督が短編映画を撮ろうと考えてフィリップ・K・ディックの名作短編「地図にない町」をモチーフにしたSFの脚本を書き始めたことに端を発する。ラーメン屋で働きながら書き続けた脚本は完成するまでに5年を費やすことになり、映画も短編ではなく86分の長編作品になった。
この作品が、彼にとっては長編デビュー作となる。


 

本作には、様々なツイストが用意されている。
グループホーム桃源郷をどうして川島が始めたのか、知華子と川島の関係性、なぜ知華子と川島は震災が起こらなかったというのか、物語の一つの鍵となるグループホームに入居する認知症の静(長内美那子)のエピソード、グループホームの実情、契約書類を持ち出した春樹の立場といったトピックが描かれた後、映画はもう一度ぐるりと反転してエンディングを迎える。

物語の舞台が横須賀に移った後、僕はスクリーンを観ながらところどころで不思議な違和感を抱いていた。
何というか、映画の中での現実性が揺らぐような感覚に陥るのだ。それが監督の意図的な演出なのか、それとも単に演出の詰めが甘く細部に緻密さを欠いているのかが判然としないまま映画は進んでいった。
その曖昧模糊としたサムシングが、この不思議な物語にある種のSF臭を漂わせていることもまぎれもない事実だろう。

人を食ったような男女の別れ話で始まる映画は、弱者を騙してもノルマを達成する証券マンのあざとさというエピソードを挿入した後、いきなり大震災の傷痕に切り込んだかと思えば、死んだはずの女性が生きており「地震なんかなかった」と言い張る。グループホームのスケッチも言ってみれば現代社会の深刻な一面だし、失われていく記憶をとどめるために分厚い日記を肌身離さず持っている静という戦争体験のある女性の描写にも深遠さとある種の寓意が漂う。

そして、映画が驚きの展開を見せて終幕すると、映画館の席に座ったまま僕はひたすら混乱することになった。

「現実とは、一体何なのか?」

生きている、あるいは生きているつもりでいる時間、疑うことなく我々は「その現実」の中で悪戦苦闘するしかない。だが、その悪戦苦闘は本当に現実生活の中での悪戦苦闘なのか?
そんな思いに苛まれる実に不思議で背筋が凍るようなエンディングを大塚監督は突き付けてくるのである。何の大仰さもなく、さらっと穏やかに。
それが、とても恐ろしい。

主人公である春樹と知華子に人間的な体温が希薄に感じられて感情移入しづらいのは、監督の意図なのかそれとも脚本に厚みがないからなのかが、物語の性格上判断しかねるところではある。個人的にはもう少し彼らにリアリティを求めたくなるのだが、小林竜樹しじみも実に淡々と演じている。
特に、しじみに関してはもう少し違った演技の引き出しを見たかったように思う。


 

逆に、暑苦しいくらいのリアリティを持って描かれているのが川島である。横須賀での物語を引っ張る川島の存在感が大きすぎて、川瀬陽太の熱演はさすがだが映画のバランス的にどうかと思わなくもない。
静(ネーミングも技ありだと思う)を演じた長内美那子の静かで透明感のあるある演技は、この映画に独特の空気をもたらしており、それが物語の展開と見事にシンクロしている。



本作は、とても独創的で色々なことを考えさせる深い作品である。
これが長編デビュー作の大塚信一が、次にどんな作品を撮るのかとても楽しみだ。

余談ではあるが、スタッフの多くがピンク映画ではお馴染みの面々なのもピンク映画ファンの自分には嬉しかった。
 

『短篇集 さりゆくもの』

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『短篇集 さりゆくもの』

 

企画・プロデュース:ほたる/タイトルデザイン:funnimal manufacture/DCP作成:西山秀明/予告編編集:中野貴雄/ WEB:稲田志野/チラシ・ポスターデザイン:田中ちえこ/協力:神戸映画資料館、にいやなおゆき、大橋さと子、麿、鈴木章浩、尾崎文太/宣伝:熊谷睦子

製作:「短篇集 さりゆくもの」製作委員会/配給:ぴんくりんくフィルム/配給協力:ミタカ・エンタテイメント

公開:2021年2月20日

 

 

「いつか忘れさられる」(16分)

監督・脚本:ほたる/撮影:芦澤明子照明:御木茂則/助監督:北川帯寛/撮影助手:浜田憲司/撮影助手:松堂法明/ヘアメイク:細谷知代/スチール:友長勇介/メイキング撮影:榎本敏郎/タイトルデザイン:ヨシダアツコ/編集:フィルム・クラフト、酒井正次/現像:株式会社IMAGICA/タイミング:益森利博、小椋俊一/ラボ営業:岡田浩二/制作応援:堀禎一、中村明子、槌谷育子、大橋聡子、林田義行、安井喜雄協力:神戸映画資料館、長野電鉄株式会社、ながのフィルムコミッション、跡部晴康、蔦谷本店、安川善雄、松代ゲストハウス布袋屋、山本薫、アシスト、日本照明、永田英則、深津智男、コダック合同会社、劇団「すずしろ」、倉田操、田中誠一(シマフィルム株式会社)、京都本町館、阿佐ヶ谷映画会、平山あゆみ、西山洋一、今井浩一、今泉浩一、江尻健司、島田雄史、坂井田夕起子、山田亜矢子、三谷悠華、塩田時敏、碧井むく、喜多山省三、加部作次郎、加部栄一、奥村信一、今井繁男、渡辺護

企画・製作:太田耕一

 

 

長野で暮らす渡辺家は、毅(銀座吟八)とその妻・恵子(ほたる)、毅の母・寿江(山下洋子)、長男の孝(サトウリュースケ)、長女の真理(祷キララ)の五人家族。だが、真理の兄・孝は、ミュージシャンになる夢を抱いて東京に出て行き、二度と故郷に戻って来ることはなかった。

寿江は、いつ孝が戻って来るのかといまだに孫のことを待ち続けている。四人の家族は日々を淡々と静かに暮らしているが、心の中にはずっと孝の存在が居座ったままだ。

 

ある日、恵子が車で出かけて行く。小さなスーパー前の駐車場で真理が高校の友達・里々(戸奈あゆみ)と雪遊びしていると、母の運転する車が入って来て店で何かを買うと再び車で出て行った。その姿を真理はじっと見つめていた。

恵子がやって来たのは、地元から少し離れたターミナル駅。彼女は、駅のホームで電車を待っている。やがて、電車が入線してくる。電車が停まると、石井美佐枝(沢田夏子)と娘の佐代子(石原果林)がドアまで出てくる。しかし、二人は駅に降りない。電車の中から、美佐枝は遺骨を恵子に渡した。遺骨を受け取ると、恵子は去って行く電車を見送りホームから去った。

 

孝は夢を叶えることができぬまま、婚約者だった佐代子の妹と二人で暮らしていた部屋で亡くなった。しばらく遺骨を返せぬまま月日が経ち、やがて彼女は新たな縁に恵まれて結婚した。その彼女に代って、母と姉が恵子に遺骨を返しに行ったのだ。

恵子は帰宅すると、受け取った孝の遺骨を仏壇の前に置いた。勘当も同然の状態だった孝と無言の再会をした毅は、骨壷を抱いたまま号泣した。

 

更に月日が流れた。告別式を終えた真理は、恵子の遺骨を抱えて家に戻って来た。彼女は、表情を変えずに母の遺骨を改めた。

家の仏間には、真理の祖父、祖母、兄、父、そして新たに母の遺影が飾られた。

 

 

ほたるも出演した井川耕一郎監督『色道四十八手 たからぶね』(2014)を撮影した際に残った35㎜フィルムを使って製作された短編で、本作が「短篇集 さりゆくもの」が企画されるきっかけとなった。

2017年1月に雪深い長野で撮影された本作は、いまや日本で最も多忙なカメラマンの一人芦澤明子の奥行きのある陰影の美しい映像が俄然目を引く。ケイズシネマでは、この作品をちゃんとフィルム映写機で上映してくれたので、その魅力を存分に堪能することができた。

サイレントで演出されているが、映像の何とも言えぬ味わいと去りゆく者の軌跡とでもいうべき物語の静謐さにはサイレントがよく合っている。

 

本作は、ほたるの初監督作品『キスして。』(2013)同様、彼女の実体験がベースになっている。16分の尺で人の生き死にをどう切り取るかが最大のポイントになる訳だが、正直に言ってしまうと構成に難があると思う。

描くべき肝心の部分が省略されて、あえて描く必要がないと思われる日常の些事に尺を取ってしまったからだ。劇場で無料配布されたパンフレットの記載を読まなければ、恵子が孝の遺骨を受け取るシーンで遺骨を渡す側の二人がどういう関係者なのか全く分からない。やはり、このシーンには字幕が必要だったと思う。

 

また、個人的に違和感があったのは孝の遺骨を改めることなく毅が骨壷を抱いて号泣し、告別式を終えて帰宅した真理が恵子の遺骨を改めることである。息子の告別式に立ち会うことのなかった毅こそ孝の遺骨を改めるはずだし、骨上げをしてきた真理に恵子の骨を改めて見るシーンは必要なかったのではないか。

最小限のストーリーテリングで語り切らなければならないのだから、もう少し脚本を練る必要があったように思う。これだけ画は魅力的なのだから。

個人的な一番の驚きは、沢田夏子がキャスティングされていたこと。彼女は、ビックリするくらい印象が変わっていなかった。

 

なお、本作に関わっているフィルム・クラフトの金子尚樹堀禎一もすでに鬼籍に入っている。

 

 

「八十八ヶ所巡礼」(18分58秒)

監督・撮影・編集:小野さやか/音楽:八十八ヶ所巡礼「極楽いづこ」/EED、MIX:織山臨太郎

製作:Bleu Berry Bird

 

 

2011年のお遍路で小野さやかが道行になった山田芳美さんという還暦を過ぎた男性の姿を追ったドキュメンタリー。無事に八十八ヶ所を回り終えた二人。2020年に小野が編集を始めた時、映画化の件で山田さんに連絡しようとするが彼はすでに亡くなっていた。彼女は北海道に住んでいる息子さんに連絡を取り、ドキュメンタリーのラストで山田さん一家が墓参するシーンを追撮している。

 

ささやかな奇跡と言ってもいいような、邂逅のドキュメンタリーである。ある意味「短篇集 さりゆくもの」を最も象徴している作品だろう。

素材だけで十分に成立してしまう作品だから、余計なものや感傷的なものは極力削ぎ落として少し距離を取ったスタンスで見る側にすべてを委ねてくれれば…と僕は思ってしまうのだが、小野の語り口には、いささか演出としての抒情性と長い“間”を避けることとが常に頭の中にあるように感じてしまう。だから、彼女のナレーションがいささかウェットに過ぎる。

例えば、白内障を患い視界が悪い山田さんについて、「見えなくなる目で、彼はどんな光景を見ているのだろうか…」みたいなナレーションを入れるのだが、白内障は手術すれば治る病気だし、いささか語り口が過多ではないかと思ってしまう。

あと、フレンドリーさを出したいという意図なんだろうと想像するが、やはりタメ口で話しているのがどうにも引っかかってしまった。

 

実を言うと、「あぁ、この映像が残っていたことは幸せな偶然だったんだなぁ」と僕がつくづく思ったのは上映後であった。舞台挨拶に登壇した山田さんの息子さんの話を聞いた時、家族にとって如何にこのドキュメンタリーが宝物のような意味を持っているのかがとてもリアルに実感できたからだ。

人は去り行くけれど、その足跡と思い出は残る。ただ、そこに映像があれば思い出は色褪せることなく鮮明なままなのだ、と。

 

 

「BRUISE OF NOBUE ノブ江の痣」(18分8秒)

監督・脚本・編集:山内大輔/特殊メイク・造形:土肥良成/撮影監督:藍河兼一/録音:小関裕次郎/ラインプロデューサー・助監督:江尻大/撮影助手:赤羽一真/音楽・効果:project T&K、AKASAKA音効/協力47style、RIM

製作:VOID FILMS

 

 

49歳のノブ江(ほたる)には生まれた時から顔の左側に醜い痣があり、そのことで若い頃から彼女は人生に絶望していた。彼女が結婚した三沢(森羅万象)は本能赴くままに生きているような粗暴な男で、頻繁に暴力を振るった。ノブ江と結婚したのも「簡単にやらせてくれそうだからだ」だと、三沢は言ってのけた。

夫の暴力に耐えきれなくなったノブ江は、着の身着のままで家を飛び出す。彼女が路上にうずくまっていると、右足にギブスをはめた青年(可児正光)が松葉杖をつきながら通りかかった。彼はノブ江を自分のアパートに連れて行き、三沢に殴られた怪我の手当てと空腹だった彼女にリンゴを与えてくれた。

何故こんな自分位優しくしてくれるのかと彼女が尋ねても、彼は無言で微笑むだけだった。

 

行方不明になった妻を探すため、三沢は街のあちこちにノブ江の人相書きを描いた張り紙をして回っている。

 

青年の足は偽装で、家ではギブスを外していた。ある日、彼はまたギブスをはめると松葉杖をついて外出した。一人家に残されたノブ江は、がらんとした何もない部屋で一人ぽつねんとしている。ふと気配を感じて押し入れの襖を開けた彼女は、「ヒッ!」と声にならない悲鳴を上げる。

 

青年は、街に張られていたノブ江の尋ね書きを目すると、剥がしてくしゃくしゃに丸めて捨てた。その様子を、近くに張り紙していた三沢が目撃する。その後、青年は盛大に転びうつ伏せに倒れてしまう。そこに通りかかった若い女性(杉浦檸檬)が声をかけると、彼は助けを求めた。彼女は、青年に肩を貸し彼のアパートに連れて行ってやった。

コーヒーでもと言われて彼女がアパートに上がると、部屋は何とも陰気で異臭が漂っていた。彼女が顔をしかめていると、突然青年が襲い掛かってきた。彼は、彼女をサランラップでぐるぐる巻きにした。青年をつけてきた三沢は、部屋の中を覗いていてその光景に息を飲んだ。

 

日を改めて、三沢は青年のアパートに忍び込んだ。ぽつんと置いてある卓袱台の上にはリンゴを載せた皿が出ているが、リンゴは腐っていた。押し入れに目をやると、三沢は襖を開ける。そして、彼は腐敗が始まり染み出した体液でヌルっとしていてウジ虫が這い回るノブ江の生首を見つけた。

彼は、変わり果てたノブ江の顔をまるで宝物のように舐め回す。「やめて」という彼女の心の叫びなど、三沢に届くはずもない。三沢は、ノブ江の生首をビニール袋に入れると満足そうに帰って行った。

誰もいなくなった青年の部屋。押し入れの襖が細く開くと、中から目を光らせた異形の物(小林麻祐子)が叫び声を上げた。

 

 

「これがクラウドファウンディングだったら自分はやらなかった」と山内大輔が言うだけあり、本作はまさに彼のやりたいことをやりたいように撮ったバッドテイスト炸裂のホラー短編である。

 

山内大輔はピンク映画でもホラー作品を何本も発表しており、それらも一見明確なストーリー性は感じられず、モヤモヤしたまま嫌な後味だけを残して終わってしまうものが少なくない。概ね監督本人にはしっかりとした物語があり、曖昧さなど皆無らしいのだが映像になった時に尺の関係や演出上の大胆な省略があって観る側は煙に巻かれたような気持ちになってしまう訳だ。

本作もその系列に位置するが、暴力性や猟奇的な残虐さはより容赦がない。誰にも忖度や遠慮することなく、低予算なりに思う存分やるという彼の意志がひしひしと伝わる禍々しい力作である。

例によって、青年は何者だったのか、彼の部屋の歪んだ時の流れは何なのか、押し入れに潜むのは何者なのか…と謎が山積している。

 

キャストは、山内組ではお馴染みの面々でそれぞれが自分の役目をきっちりと果している。

 

「さりゆくもの」がテーマになった本オムニバスの中で、唯一“去り行くことさえ許されない”特異な作品である。

 

 

「泥酔して死ぬる」(15分)

監督・脚本・編集:小口容子/撮影:宮川真一/録音:中川究矢/現場スタッフ:戸屋幸子、早見紗也佳/ロケ地協力:木乃久兵衛、尾崎文太/アニメーション制作:三ツ星レストランの残飯/音楽:Suzukiski/参考文献:「しらふで生きる」町田康 著、「上を向いてアルコール」小野嶋隆 著、「アル中ワンダーランド」まんしゅうきつこ 著、「オトナになった女子たちへ」伊藤理佐(朝日新聞連載中)

 

 

自主映画界のワインスタインを自称する小口容子は、自分の作品の出演俳優でセフレ(佐藤健人)が同じ役者の加藤麻矢と出来てることを疑い、詰問する。小口は麻矢のことを悪しざまこき下ろすが、佐藤は彼女のことをいちいちフォローした。

小口は、少し前に脳出血で倒れ、二か月間の入院を余儀なくされた。自分にもしものことがあれば、葬式の受付はあんたたち二人がやれと彼女は無茶振りする。

佐藤はそのことを麻矢に話し、彼女は呆れて物も言えない。それはそれとして、二人の関係は小口の睨んだ通りだった。

 

病気の原因は自分の飲酒癖にあると考えた小口は、断酒するという苦渋の選択をする。だが、その決意を知り合いの大酒飲み伊牟田耕児に話すと、逆に酒を勧められてしまい「明日からでいいか」といきなり彼女は挫折する。自分には甘いタイプなのだ。

その後も、彼女は知人(鈴木隆弘、佐々木健)と会ってはついつい酒に手が伸びてしまう。

 

こんなことではいかん。このままでは、本当に大変なことになる…と思いはするものの、こと酒に関して彼女の意思は限りなく弱い。

そのことをお怒りになった神は、小口の元に虎を遣わせ彼女は餌食となり、遂には排泄物にされてしまうのだった。

 

 

5本の中で、最もアマチュアリズムが突出したチープでナンセンスな作品。本作は2020年2月に撮影が開始されたが、劇中にもあるように小口容子は2019年6月に脳出血で倒れ、二か月間の入院を余儀なくされた。

冒頭のほぼ必然性が感じられない小口のヌード・シーンにある種の悪意さえ感じてしまうが、全編を通じて出演者の演技がほぼ素人芝居で科白も棒読みに近い。これも、小口ならではの演出なのかどうかは分からないが。

とにかく、ニヒリスティックで自虐的な私映画の如きSFセミドキュメンタリーの様相を呈する本作だが、ラストで唐突に登場する虎とアニメーションは当初からの構想ではなかったらしい。本当は小口が川に流されて終わる予定だったが、そのために撮影した8㎜フィルムがちゃんと映っておらず苦肉の策でこのラストに変更されたという。

 

三ツ星レストランの残飯が製作した強烈なインパクトの下品なアニメーションは、何となく「モンティ・パイソン」のテリー・ギリアムが作ったアニメのように見えなくもない。

 

いずれにせよ、やや頭を抱えたくなるようなある種暴力的でドラッギーな短編である。

 

 

「もっとも小さい光」(18分53秒)

監督:サトウトシキ/脚本:竹浪春花/プロデューサー:ほたる/撮影監督:小川真司/音楽:入江陽/録音:山城研二/編集:十条義弘/整音:西山秀明/助監督:大城義弘/制作:高野悟志/音楽協力:小金丸慧/協力:熊谷睦子、ふくだももこ、内山浩正、スナック奈美、スノビッシュ・プロダクツ、日本映画大学

 

 

母子家庭で育った大山光太郎(櫻井拓也)は、幼少期から男癖の悪い母の沙希(ほたる)を嫌っていた。沙希は男をとっかえひっかえ家に連れ込んでは、そのたびに光太郎を邪魔者扱いしてきたからだ。

その光太郎もすでに30歳。彼は、東京で警備員として日銭を稼ぎながら近所のスナックでバイトする同じ年の杏子(影山祐子)と同棲している。彼は、自分の出自もあってか杏子との結婚を考えてはいない。

 

そんなある日、理由も言わずに突然沙希が北海道から上京する。母ももう53歳になっていた。光太郎は沙希のことをあからさまに邪魔者扱いするが、沙希は今更のように母親として彼に接しようとする。そのことが、さらに光太郎を苛立たせた。

だが、沙希と杏子は意気投合して仲良くやっている。沙希は、帰ることなく幾日も光太郎のアパートに居座った。

 

沙希に無理やり渡された弁当を昼休みに公園で開く光太郎。先輩(古川一博)が、「握り飯か。恋人が作ったのか」と聞いてきた。「母ちゃんですよ。食います?」と言って、光太郎は弁当を先輩に渡した。

握り飯を食べる先輩に、「硬いでしょ?いつも硬すぎなんですよ」と彼は言った。「お前の母ちゃんって、一人者なのか?」と先輩に質問された光太郎は、「そうですけど、まさか…」と戸惑った。

 

光太郎が仕事終わりに杏子がバイトしているスナックに顔を出すと、沙希も来ていた。そこでも光太郎は沙希に冷たい態度をとり、「謝りに来たの?今さら、母親になりたくなった?」と彼女を責めた。「ごめんなさい」とうつむく沙希。杏子は光太郎の態度をたしなめ、ママ(並木愛枝)も喧嘩なら外でやってくれと言った。

沙希は、昔光太郎が持ち歌にしていた演歌をカラオケに入れると、嫌がる息子に無理やり歌わせた。光太郎は、半ばやけくそで声を張り上げる。

 

帰り道、三人が歩いていると光太郎のバイト先の先輩が自転車で通りかかる。彼は沙希に誘いをかけるが、再婚が決まっていて実家も引き払うことになっているからと沙希はやんわり断った。その話を聞いた光太郎は、母が突然訪ねてきた訳を初めて知った。

 

次の朝も、沙希は光太郎にお弁当を渡すと「今日、出て行くから」と告げた。光太郎は、いつものように仕事に出かける。公園での昼休み。光太郎は沙希の作った握り飯を食べながら、「硬えんだよ、くそばばぁ」と毒づくがそこにいつものような嫌悪の情はなかった。

 

杏子は、バス停まで沙希を送った。沙希は、「杏子ちゃん、もしかして…」と言った。「やっぱり、ばれてました」と杏子は言った。彼女は妊娠していた。

「光太郎には言ったの?」と沙希が尋ねると、杏子は首を横に振った。彼女は、これまでにも二度妊娠して、そのたびに男に捨てられたていた。彼女は、光太郎に捨てられることを恐れて言い出せずにいた。そのことが、沙希には痛いほどよく分かる。

沙希は、紙袋を杏子に渡すと「迷惑だろうけど、杏子ちゃん持っててくれないかな」と言った。そして、沙希はやって来たバスに乗って去って行った。

杏子が渡された紙袋の中身を見ると、数冊の大学ノートが入っていた。そのノートには、光太郎の育児日記がびっしり書かれていた。杏子は、その時の沙希の気持ちを思い浮かべつつ、ノートの頁を繰った。

 

沙希を乗せた飛行機が、フライトしているはずの時間。光太郎は交通整理の現場から黙って外れると、見晴らしのいいところに移動して空を見上げる。すると、沙希が乗っているであろうジャンボジェット機が飛んでいった。

光太郎は、手にした誘導灯を飛行機に向かって掲げると、無線で「どこ行ってるんだ!」という同僚の怒り声に謝りながら慌てて持ち場に戻って行くのだった。

 

 

不器用な市井の人々の人生を切り取った、如何にも竹浪春花らしい脚本の作品だと思う。ただ、物語同様に彼女の人物造形にも不器用さと物語的な定形を感じてしまう。

サトウトシキは、実直すぎるくらいに適度な距離感で丁寧に演出している。短編ということもあって、人物描写がやや極端で分かりやす過ぎるきらいがあるのが難点ではある。

飛行機に向かって誘導灯を振る光太郎の姿は感動的だが、その伏線がないためいささか強引で唐突な印象を持ってしまう。

 

やはり、櫻井拓也は本当にいい俳優だったとしみじみ思う。彼が演じると、それが普通の人物だろうと極端にデフォルメされた人物であろうと圧倒的なリアリティをまとうのだ。それは、本作の光太郎にしても同様である。

サトウトシキ作品の常連、ほたるも抑制を利かせた芝居を見せている。そして、影山祐子がとても印象に残った。ある意味、本作を引き締めているのは彼女の存在だろう。

その中にあって、古川一博の演技がやや浮いているのが気になった。

 

本作は、「さりゆくもの」というよりむしろ人生の新たなる出発というイメージである。ところが、結果的にこの映画は関わった全ての人が誰も予期しなかったであろう去りゆく者を描くことになった。

映画は2018年11月に撮影されたが、2019年9月24日に櫻井拓也が急逝してしまったのだ。享年31歳。あまりにも突然の訃報が、まるで昨日のことのように思い出される。

その意味でも、本作を撮ってくれたトシキ監督には本当に感謝しかない。

 

『短篇集 さりゆくもの』は、まったく個性の異なる作品を5本まとめたオムニバス映画だが、なかなか発表の場がない短編作品を上映するひとつのフォーマットの提示としても意義ある試みだったと思う。

NAADA LIVE 2021.3.28@Public Bar Stu.Sutcliffe

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2021年3月28日、蕨市に前週の金曜日に開店したばかりのお店Public Bar Stu.SutcliffeでNAADAにとって2年4か月弱ぶりのライブが行われた。

一度ライブイベントに出演する予定があったのだが、このコロナ禍でイベントが中止になってしまい、そうでなくても一年に一回くらいしかライブをやらなくなっている彼らはここまでブランクが開いてしまった訳だ。

 

Public Bar Stu.Sutcliffe自体がこじんまりとした店であり、ソーシャル・ディスタンスを取る必要もあるため、10名ほどの聴衆になった。

しかも、第一部30分と第二部30分の間に換気のため30分の休憩が取られた。マイクには飛沫防止のガードがつけられ、コーラスもつけない徹底ぶりだった。ワンマンでトータル60分という演奏時間も、できる限りの安全性に配慮した結果だろう。

ちなみに、僕が彼らのライブを見たのは2018年12月8日、西新宿GARBA HALL以来で、今回が記念すべき50回目だった。

 

NAADA : RECO(vo)、MATSUBO(ag)、COARI(keyb)

 

1st setは、静謐なアコギのアルペジオがイントロの「sunrise」で始まった。本来この曲は心のありようを簡潔に歌った作品だが、こういう状況で聴くとまた違う印象を受ける。フレンチ・ポップ的なキュートさの「Little Fish」にも、さりげなく込められたメッセージ(のような言葉)にいつもとは違った重さがある。

「スクラッチには五線譜を」「まほうのキーライト」という新曲は、比較的簡潔なタイトルが多いNAADAにしてはちょっと珍しいタイトルがつけられている。歌詞について言うと、今この時にこそ歌われるべき歌だと確信した。

演奏時間の長い「空」が朗々と歌われて、第一部は終わった。

 

2st setは、NAADAchannelで取り上げられたカバーが2曲演奏された後、穏やかな歌唱で聴かせる「Good morning」、セピア色の心象風景をまとった「echo」が続いた。

そして、本日3曲目の新曲「アンフォルメル」。本来、アンフォルメルとは第二次世界大戦後のフランスを中心にヨーロッパで勃興した非定形を志向する前衛芸術運動を指す言葉で、戦争によって人間が定形を失うまでに破壊された状態を表現モチーフにした作品を評したことがその起源。

この曲にも、アンフォルメル作品に込められた想いと共振するような言葉で紡がれている。ただ、この曲で歌われているのは、疲弊し傷ついた心がそれでも希求するアートへの信頼である。ある意味、時事的トピックのような捉え方も可能だが、この曲に託されているのはもっと普遍的な希望である。だからこそ、この曲にはネガティヴさがないのだ。

そして、最後はこの曲しか考えられないという説得力と包容力で歌われた「RAINBOW」。

 

セットリストからも分かるように、今回のライブは基本的に静かな曲で構成されていた。ここでも、可能な限り飛沫を防ぐことが念頭に置かれているのだ。だから、定番曲の「Humming」「fly」「僕らの色」は外されていた。

 

これまでに聴けて良かったなぁと感じた彼らのライブはたくさんあったが、演ってくれて良かったなぁと思ったのは今回が初めてだった。

日常からの解放を求めて足を運んでいたライブの場が、今では失われた日常を再確認するための場になってしまったということである。そのことも含めて、この日の彼らの音楽にはいつも以上に特別な力のようなものが感じられた。

 

終演後、メンバー三人と本当に久しぶりに言葉を交わした後、僕は会場を後にした。

「人は裏切ることがあるけれど、いい音楽は決して裏切ることがない」と思いながら。

内田英治『ミッドナイトスワン』

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『ミッドナイトスワン』


 

監督・脚本:内田英治/音楽:渋谷慶一郎/エグゼクティブプロデューサー:飯島三智/プロデューサー:森谷雄、森本友里恵/ラインプロデューサー:尾関玄/撮影:伊藤麻樹/照明:井上真吾/録音:伊藤裕規/美術:我妻弘之/装飾:湯澤幸夫/編集:岩切裕一/衣裳:川本誠子/コスチュームデザイン:細見佳代/ヘアメイク:板垣美和、永嶋麻子/バレエ監修:千歳美香子/助監督:松倉大夏/製作担当:三浦義信、中村元
製作:CULEN/製作プロダクション:アットムービー/配給:キノフィルムズ
公開:2020年9月25日


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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広島で生まれ育った武田健二(草彅剛)は、幼い頃から自分が男であることに違和感を持って育った。現在、東京で一人暮らしをしている彼は,、凪沙と名乗ってニューハーフ・ショークラブ「スイートピー」でショーダンサーとして働いている。凪沙は定期的に通院してホルモン注射を打っており、担当医からそろそろ性転換手術を受けたらと勧められている。その時のために凪沙はコツコツと貯金してた。
時々、故郷の母・和子(根岸季衣)から電話がかかって来るが、凪沙はあくまでも健二として低い声で話していた。故郷は保守的な土地柄でもあり、凪沙は自分がトランスジェンダーであることを隠していた。


 

そんなある日、また和子が電話をしてきた。健二の従妹でシングルマザーの桜田早織(水川あさみ)がネグレクトで問題を起こしたので、彼女の一人娘で中学2年生の一果(服部樹咲)をしばらく預かって欲しいと言うのだ。早織は暴走族上がりでキャバクラ嬢をしており、19歳で出産した。だが、元々気性が激しく人間的にも問題のある彼女は、一果に対して育児放棄も同然の育て方をしていた。
通報されて役所の人間も来たと聞き及んで、和子の強い要望により渋々凪沙は一果を預かることを承諾した。

新宿駅で一果と待ち合わせした凪沙は、普段通りのロングヘアにトレンチコート、濃いサングラス姿で彼女を迎えに行った。凪沙は、あからさまに自分が歓迎していないことを態度に表し、一果が持っていた健二の写真を奪って破り捨てると「田舎に余計なこと言ったら、あんた殺すから」と言った。
一果は暗い表情をして、ほとんどしゃべることもなく俯いたまま凪沙の後をついてきた。凪沙は、彼女を自分のアパートに迎えるとグッピーに餌をやること、部屋を整頓すること、床に布団を敷いて寝ることを彼女に命じた。


 

凪沙は、転校手続きのために一果と一緒に中学校を訪ねるが、対応した教師二人は凪沙を見て戸惑いの表情を浮かべた。
こうして、二人の奇妙な同居生活は始まった。凪沙は一果がいないも同然の態度で過ごし、一果も内にこもったまま日々を過ごした。一果には広島にいた頃から強いストレスを感じると自分の腕を噛む自傷癖があった。

一果は、育った環境から自分の感情を上手く外に出すことができない。凪沙のことを見かけた同じクラスの男子から凪沙のことをからかわれた一果は、突然立ち上がるとその男子に椅子を投げつけた。
一果は、凪沙の部屋に掛けてあったシュシュを見つけると穿いてバレエの仕草をしてみた。そんなある日、下校途中で一果は同じ中学の生徒たちが実花バレエスタジオに入っていくところを見た。彼女は、幼い頃に一時だけバレエ教室に通ったことがあった。
入口でレッスンを見ている一果に気付いた講師の片平実花(真飛聖)は彼女に声をかけるが、一果は慌てて去って行った。


 

後日、再び一果を見かけた実花は彼女に体験レッスンを受けることを勧めた。体験レッスンを受ける一果を見た実花は、彼女に非凡なものを感じた。実花は、一果にスクールに入ることを強く勧めた。
生徒の中に、一果と同じクラスの桑田りん(上野鈴華)がいた。りんは、自分は新しいのを買ってもらったからと言って古いバレエ・シューズを一果に譲った。それが縁で、二人は学校でも話すようになる。

バレエをやりたいが凪沙に言えるはずもなく悶々とする一果に、りんは撮影会モデルのバイトを紹介する。りんは、裕福な家庭の育ちで何不自由なく暮らしている。父親(平山祐介)の収入は4桁で愛人がおり、母(佐藤江梨子)は若い頃にバレエで入賞したこともあり娘に自分が果たせなかった夢を託している。
バレエは好きだが、そんな両親に反発を感じているりんは隠れて煙草を吸い禁止されているバイト、しかも撮影会モデルのバイトをこっそりやっていた。
りんは、撮影会場に一果を連れて行き事務所に紹介してモデルをさせた。カメラを持って集まった男たちを前に、りんは女王然と振舞う。彼女は、絶対に個人撮影のモデルを引き受けては駄目だと一果に言い聞かせた。その理由までは、言わなかった。

そして、一果は実花バレエスタジオの生徒になった。彼女の上達は目を見張るものがあり、ほどなくして実花はあからさまに一果ばかりに目を向けるようになった。そのことにプライドを傷つけられたりんは、「コンクールに出るようになるともっとお金がかかるから、そろそろ個撮やった方がいいんじゃないの」と一果をけしかけた。スタッフからも個撮を勧められていた一果は、何の疑問のなく個撮モデルを引き受けてしまう。
ところが、カメラマンの男に執拗に水着になることを頼まれて一果は椅子を投げつけて問題を起こしてしまう。
ことは警察沙汰になり、凪沙もりんの母・真祐美も警察に呼び出された。真祐美は十分な小遣いも与えているし娘が一果にそそのかされてこんなバイトをしたに違いないと警察に訴えた。一果は何も言わない。りんは、目配せして一果に謝った。この時、凪沙は初めてバイトのこととバレエスクールのことを知ることになった。
警察からの帰り道、凪沙は「うちらみたいなんは、ずっと一人で生きて行かなきゃいけんけえ。強うならんといかんで」と言って、一果の肩を抱き寄せた。


 

その夜、階段にうずくまっている一果に凪沙は自分がショーで着けているヘッドセットを譲った。そして、一人にするのが心配だからと「スイートピー」に一果を連れて行った。
泥酔した客が暴れ出し、店内は騒然とする。すると、一果は無言でステージに出ると私服のままバレエを踊った。その美しさに店内の誰もが見入ってしまい、騒ぎは収まった。
そんな一果の姿を目の当たりにした凪沙は、あることを決意する。


 

凪沙は、男に貢ぐため「スイートピー」を辞めた元同僚の瑞貴(田中俊介)が勤めている風俗店を紹介してもらう。そこは性的嗜好が倒錯したお客が利用する店で、凪沙が付いたお客は彼女が性転換手術を受けていないことを確認するとぎらついた眼で迫って来た。
堪え切れずに部屋から飛び出す凪沙。騒ぎを聞きつけた瑞貴は、お客に暴行を振るってしまった。

凪沙は、実花のところへ赴き月謝を待って欲しいと頼む。一果の才能を育てることに情熱を注いでいる実花は月謝は免除しても構わないと言うが、ちゃんと払うと凪沙は言った。実花は、遠慮がちにコンクールに参加すると参加費や衣装代もかかってしまうと言った。困った表情を浮かべる凪沙に、彼女は「お母さん、継続です。大変でしょうけど、頑張って乗り切りましょう」と言った。
突然吹き出す凪沙に「どうしました?」と実花。「だって、今お母さんって」と言う凪沙に目を見開き、何度も謝る実花を見ながら凪沙が嬉しそうに笑った。

凪沙はいくつもの会社で面接を受けるが、その風貌もあってなかなか採用されない。覚悟を決めた凪沙は、髪を切り武田健二として倉庫会社に採用される。帰宅した一果は、凪沙の姿を見て憮然とする。「そんなこと、頼んでない」と戸惑いと憤りを露わにする一果を凪沙は抱きしめた。

コンクールの日、客席では凪沙や「スイートピー」の同僚たちが一果の出番を待っている。ステージに登場した一果は、固まってしまい踊り出すことができない。静まり返る場内。その静寂を破り、早織がステージに駆け上がると一果を抱きしめてまた一緒に暮らそうと言った。
そして、早織は一果や凪沙の想いも考えずに娘を広島に連れ帰ってしまうが…。


 

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観ていて胸が締め付けられるような素晴らしい作品だった。
扱っている題材がとてもセンシティヴなこともあり、観る人の考えや経験、あるいは生活環境によって受ける印象も様々だと思うが、個人的にはスタッフとキャストが一丸となってとても誠実に作られた映画だと思う。

ストーリー紹介で書いたように、主人公の凪沙はカミングアウトできぬまま都会で孤独に生きているトランスジェンダーの女性である。
ある日、ネグレクトとDVに近い家庭環境で育ち心を閉ざした中学2年の女一果と凪沙は生活を共にせざるを得なくなる。
状況も世代も異なるものの、凪沙も一果も押しつぶされるような苦しみの中を何とか耐えながら孤独に生きており、二人とも警戒心が非常に強く感情を素直に出すこともできない。

「何で私だけ」と言いながら一人涙ぐむ凪沙のシーンが映画前半で何度も挿入されるが、まさしくその気持ちと葛藤しながら自分の本心を誰にも打ち明けられぬまま新宿の片隅で生きている彼女の痛みは、観ているだけで息が苦しくなってくる。
決して余裕がある生活ではないにもかかわらず、凪沙は「スイートピー」の同僚で悪い男に入れあげては貢いでしまう瑞貴に金を貸してしまったり、親身になって相談に乗ったりと人としては決して捻くれてはおらずむしろ繊細で人の気持ちに寄り添える優しさを持ち合わせてもいる。
「スイートピー」のママでこの道のベテラン洋子(田口トモロヲ)は、色々問題を抱える店のショーガールたちを自分の娘同然の温かいまなざしで見守っている。

始めはどういう距離感で接すればいいのか分からない凪沙と一果は、お互いの存在を無視するようにして日々をやり過ごしているが、一果が偶然実花のバレエスタジオを覗いたことから二人のいや周囲の人たちまで巻き込んで、それぞれの人生が動き出す。

一番目を奪われるのは、バレエを始めてから寡黙さは変わらないが一果の動きが見る見るうちに躍動感を持ち出し精気が漲って来るところである。そして、彼女の変化に引っ張られるように凪沙の心もまた動き始める。
決定的なターニングポイントは、一果が内緒でバレエスタジオに通っていたことを凪沙が知り、しかも実花から彼女の才能を聞かされて一果の才能を伸ばしてやりたいと強く思うところである。それと同時に、凪沙は一果に対して母性を抱くことになる。
それは、ある意味人生に絶望しかなかった凪沙と一果にもたらされた未来への一筋の光であったのだろう。

その日を境に、凪沙と一果は互いに距離を近づけ心を開いて行く。一果を見る凪沙の目には慈愛の情が浮かび、頑なだった一果も凪沙に心を許し本当の親子のようになっていく。その不器用な温かさに、心揺さぶられる。

この作品は、とにかく細部にわたって緻密な描写を積み重ね、それと同時に醜い人間の欲望やエゴイズムを容赦なくえぐり出す。
ネグレクトによって幼少期に親の愛情を受けることができなかった一果は、自分の感情を殺して生きてきたため顔に表情がなく自傷癖がある。感情をコントロールできないため、時として怒りを過激な暴力性として噴出させてしまう。
また、これまでに愛情を受けることがほとんどなかった彼女は、凪沙が彼女のために男として就職した時にも素直にその愛を受け取ることが出来ない。
そのことまで含めて分かっているからこそ、荒れる一果のことを凪沙は優しく抱きしめてスキンシップによって彼女を包み込んでやるのである。

凪沙がホモセクシュアルなアブノーマル風俗店に勤めた時のエピソードも暗澹たる気分になる描写がなされるし、一果がレッスン料のために始めた撮影会モデルのシーンでもお客たちの歪んだ欲望に目を背けたくなる。
この辺りの事情を少なからず知っているので、僕は観ていてドロッとした苦いものが胸の奥からせり上がってくるような感覚を覚えた。

あえて挑発的な科白やシーンを意識的に取り込むことで、現実の闇の一端を垣間見せようとする監督の意図を強く感じる。

繊細な描写で言うと、倉庫会社に就職した凪沙が自分のヘルメットに実名を書く時躊躇するシーンが胸に突き刺さった。
もう十数年も前のことになるが、僕は長年付き合いのある友人から突然電話で戸籍の名前を変えるにはどうすればいいか相談された経験がある。自分の名前に「○○子」と「子」が付くことがどうしても許せないからだと彼女は切実に訴えた。
最初はピンとこなかったのだが、その時初めて彼女が性同一性障害であることを告げられた。

ラスト直前、浜辺にやって来た凪沙が海を見ながら自分が子供の時にどうして自分が海水パンツを穿かなければいけないのか悩んだ経験を一果に話すシーンがある。死期の近付いた人間が過去を回想する事例はよく知られているが、去年亡くなった母を介護していた時、彼女は突然何十年も前に経験した辛い出来事を淡々と話し出すことがあった。
海辺での美しいシーンを見ながら、凪沙の姿が死期の迫った母にダブってしまい、自然と目頭が熱くなった。

一果の友達りんは、一見一果とは真逆の人生を歩んでいる裕福な家庭で育った女の子に映るが、その彼女もまた心に深い闇とぽっかり空いた穴を抱えて生きていることが分かって来る。
そして、彼女はあまりにもドラマチック過ぎる行動で、希求する未来が閉ざされてしまった自分の人生の虚無を埋めてしまう。

凪沙の他にもう一人一果に生きる希望を与えたのは、言うまでもなく実花である。彼女もまた、一果の才能に無償の愛を注いだ女性である。一果の踊りを見ている時の実花の表情の変化は、如実に彼女の心を表している。
また、実花が凪沙を「お母さん」と言ってしまうシーンは、本作でも出色の名シーンの一つだろう。

凪沙は、一果の本当の母親になろうとして自らのことを一切顧みることなく一か八かの賭けに出た結果、悲劇的な最期を迎えることになる。
その凪沙の魂と実花の情熱、そして何よりも自分の人生を切り開くために、一果は凪沙から譲り受けたヘッドセットを着けてステージで踊り始めるところでこの映画は終わる。

LGBTを扱った映画であり、しかも凪沙をシスジェンダーの草彅剛が演じたこと、また凪沙が悲劇的に描写されることを批判する向きが多くあることも容易に想像がつくし、アフターケアを怠ったことで死ぬ展開を疑問視する専門家の意見もある。
あるいは、りんを同性愛者と捉えて彼女の選択に対しても性的マイノリティを悲劇のツールとして描写しているのではないかという意見もある。
りんが学校の屋上で一果とキスする場面が確かにあるのだ、個人的には思春期特有の憧れの同姓に対する疑似的なあるいは代用としての愛情表現なのではないかと思う。

凪沙の末路が悲劇的かつ感傷的に描かれているのは確かだが、それは性的マイノリティを悲劇的な存在として映画的に搾取したと言うよりもマイノリティの人々が抱える苦しみをミニシアター系のロー・バジェット映画ではなくシネコンで公開される中規模のロードショー・ムービーとして発表することによって広く作品を世に問いたいと言う内田監督の志によるものだと思うし、監督自身もそのような趣旨のことを発言している。
それは、凪沙と一果の心の結びつきを強く印象付けるラストシーンに結実していると思う。それに、凪沙に別の結末を用意していたとしても、今度はきれいごとだという批判が出てくるのも想像に難くない。

こういういい方はいささか語弊があるかも知れないが、本作が提示するような物語はドキュメンタリーや実話の映画化という手法を取ってミニシアターで公開した方が作り手にとってはるかにリスクが少ない。
それをあえて自身でオリジナルの脚本を書き、監督する方法を選択したところに内田の映画作家としての矜持を感じる。
そして、広く観てもらうためには凪沙という人物の心情に寄り添える繊細で深い演技力を持った名のある役者をキャスティングすることが不可欠である。だからこそ、草彅剛なのだ。

その草彅剛の底知れぬ演技力に瞠目してしまった。目線の送り方、表情、仕草に至るまで緻密に計算された彼の演技なくしてこの映画は成り立たなかっただろうし、ここまで胸に迫るものにはならなかっただろう。
これが初の演技となる服部樹咲は、その朴訥さが内に閉じこもる一果の心情と絶妙にシンクロしており、美しい身体表現によって彼女はスワンへと変身していく。
自制心のない狂暴さとそれでも娘に執着する残酷なエゴイストの早織を、水川あさみは噛み付くような演技で体現している。上野鈴華は、りんというアンビバレントな女の子を熱演していると思う。
そして、一果と凪沙を繋ぐ架け橋のような存在の実花を真飛聖は豊かな表情と身体性で見事に演じていた。

僕は、この映画を観終わった後でジョン・レノンの名曲「GOD」の歌詞“God is a concept by which we measure our pain ”を思い出してしまった。

 

本作は、観る側の想像力や心の持ちようまで問うてくる苛烈な痛みを伴う祈りと再生の映画。

一人でも多くの人に届いて欲しい傑作である。

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