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虚構の劇団「ホーボーズ・ソング Hobo’s Song~スナフキンの手紙Neo~」

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2015年9月4日、東京芸術劇場シアターウエストのソワレで虚構の劇団第11回公演「ホーボーズ・ソング Hobo’s Song~スナフキンの手紙Neo~」を観た。




作・演出は鴻上尚史、美術は池田ともゆき、音楽はHIROSHI WATANABE、照明は伊賀康、音響は原田耕児、ヘアメイクは西川直子、衣裳は森川雅代、振付は関川慶一、アクションコーディネーターは藤榮史哉、映像は冨田中理、舞台監督は中西輝彦。企画・製作はサードステージ。

サブタイトル「スナフキンの手紙」は、1994年に劇団第三舞台で初演され岸田國士戯曲賞を受賞した作品で、「理想の60年代、内戦の70年代、流血の80年代、そして希望の90年代」と鴻上は書いている。




続編「ファントム・ペイン」(2001)では、「孤立の0年代」と表現し、今回は「憎悪の10年代」を描くとしている。


こんな物語である。

内戦状態に突入した日本では、正規の日本軍と新日本軍とが互いを「テロリスト」「ファシスト」と糾弾しつつ、激しい攻防を繰り返している。
そんな中、日本軍の女性兵士・水沢(森田ひかり)は記者会見で自爆攻撃によりテロリストたちに打撃を与えると宣言。マスコミの関心を一手に引きつける。彼女は、テロリストによって殺された二人の姉の無念を晴らすと悲痛に訴えたが、そんな話はすべて出鱈目で上官(三上陽永)の気を引きたいだけだった。
そんな不純な理由のため、いざ日本国中が彼女に関心を注ぎ始めると、水沢は「死にたくない…」と心情を吐露して基地から姿を消してしまう。

ところが、ニュースを聞きつけた鈴子内親王(小野川晶)が、水沢の自爆を思いとどまらせたいとお付きの女官(小沢道成)を伴って前線基地に押し掛けてくる。上官は、鈴子やマスコミへの対応で右往左往する。
一方、この基地では新日本軍の女(佃井皆美)が捕らえられていた。何とか、女から敵のアジトを聞き出そうと躍起になる日本軍。彼女の尋問を命じられた男(オレノグラフィティ:劇団鹿殺し)は、捕虜の顔を見て絶句する。女は、男の元から姿を消していた恋人だったからだ。

女はブラジルからの帰国子女で、小学校時代は日本的な人間関係に馴染むことができず、周囲のいじめに遭っていた。彼女は、個としての自分と漠然とした世間という閉鎖的単位の中で、ずっと葛藤しながら生きて来た。
男は、夢想家だった。厳しい現実が彼の目の前に立ちはだかると、いつでも自分の中の幻想あるいは妄想というユートピアの中に閉じこもることで、自分自身を守って生きて来た。
そんな二人が出逢い、恋に落ちた。しかし、内戦地域が女の故郷にまで拡大。女は、連絡の取れなくなった家族を心配して、実家に戻った。男は、平和だった頃の日本を取り戻したいという純粋な思いと、内向的な自分の殻を打ち破りたいという気持ちから、日本軍に志願した。

二人が別れてからいたずらに月日が流れ、いつしか女からの連絡も途絶えた。そして、たった今、二人は互いの敵として尋問室で再会したのだった。
女から新日本軍のアジトを白状させることは、男にとって至上命令だった。必要であれば、拷問も加えなければならない。いくら男が口で問うても、女は頑なに黙秘した。時間だけが経過し、上官の苛立ちも限界に近付いていた。
そして、男と女のやり取りを尋問室のカメラが、冷たい光を放ちながら一部始終記録していた…。

内戦の行方は?そして、二人に待ち受ける運命とは…。


非常にトピカルな作品である。言うまでもなく、現在の安倍政権下で審議されている「安全保障関連法案」の不安と混沌が物語のベースになっているのは疑いのないことだろう。そして、「スナフキンの手紙」を発表した1994年から21年が経ち、今世の中はSNSという虚実と善悪が入り乱れた巨大な言葉と感情のうねりによって、物事が動く時代を迎えている。
ヴァーチャルの世界とリアルの世界が互いを侵食し合うような時代を生きる我々の眼前にそそり立つキナ臭い現実、それをパラレルワールドの日本に置き換えて内戦の形で提示した作品と言っていいだろう。
本作を観て、ただのフィクションだからと気楽な気持ちで鑑賞できる人が果たしてどのくらいいるのだろう?

鴻上尚史が虚構の劇団を旗揚げした目的のひとつは、彼がリアルタイムで考えている時事的な題材をタイムラグなく演劇として提示出来る場所が欲しかったからだが、その意味でも今回の題材はまさに虚構の劇団の新作に相応しいものである。3年というのは、流石に間隔が開き過ぎだと思うが。

もちろん、シリアスなだけではなく、コミカルな笑いもあればダンスもふんだんに出てくる。そこは、変わらぬ鴻上演劇である。ここ数年の虚構の劇団は団員の出入りが激しくなっているように思うが、小沢道成、小野川晶、杉浦一輝、三上陽永、渡辺芳博の旗揚げ準備公演メンバーも着実に力をつけて来ている。
特に、今回の作品では三上陽永と杉浦一輝が重要な役を演じている。そして、ここ数年存在感を増している小沢道成のややエキセントリックな演技には、野田秀樹を思わせる瞬間もあった。

ただ、力作であるとは思うのだが、僕にはかなり物足りなさも残る舞台であった。
それは、オレノグラフィティと佃井皆美の物語に圧倒的な力がある半面、森田ひかり演じる水沢を取り巻く物語が軽妙なシニシズムというよりもあまりにチープなドタバタ劇にしか感じられないからだ。
そして、鈴子内親王が抱える心の闇にしても、ある種の定型的憎悪であってカリカチュア的な強度にまで達していないように思う。
つまり、かつての恋人たちの物語に他のエピソードが拮抗出来ていないのである。それ故に、舞台トータルとしての印象が散漫になってしまっているのだ。
ラストのツイストも、僕には弱いように感じた。名作『トランス』で鴻上が仕掛けたような、観客の視覚がひしゃげてしまうような設定への揺さぶりに足りないからだ。

役者について言及すると、何といっても佃井皆美の熱演が素晴らしい。彼女の強い意志を湛えた眼、ソリッドなまでにシャープな肢体、キレのいいアクションと、実に魅力的な女優だと思う。




相手役のオレノグラフィティも悪くないが、やや演技が単調に感じた。
虚構の劇団では、今回の三上陽永杉浦一輝の演技には、一皮剥けたような印象を持った。特に、三上が佃井に暴力をふるうシーンには、なかなかの見せ場である。

で、ここ数年ずっと感じているのが虚構の劇団には看板役者が不在であるという事実だ。今回も、主演二人は客演である。
やはり、劇団であるからには中心となって主役を張る役者の存在が不可欠だろう。

また、これは余談だが、冒頭に登場するビーチのシーンは、どうなのだろう?もちろん、女優陣が若々しくて魅力的なビキニ姿を披露するのは見ていて悪くないのだが、果たして彼女たちを水着にする意味がどれほどあったのか…と思わなくもない。
まあ、幻覚キノコでトリップした三上が、艶やかな姿の女優三人と絡む挑発的シーンは意味があるのだが。

本作は、今世に問うべき力作には違いない。
だが、色んな意味で足りないものが目につく作品でもあった。

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