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ラッセ・ハルストレム『ギルバート・グレイプ』

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1993年12月25日公開、ラッセ・ハルストレム監督『ギルバート・グレイプ(What's Eating Gilbert Grape)』




製作はメイア・テペル、バーティル・オールソン、デイヴィッド・マタロン、製作総指揮はアラン・C・ブロンクィスト、脚本はピーター・ヘッジス、撮影はスヴェン・ニクヴィスト、美術はバーント・カプラ、音楽はアラン・パーカー、ビョルン・イスファルト、編集はアンドリュー・モンドシェイン、衣裳(デザイン)はルネ・アーリック・カルファス。製作はJ&Mエンタテインメント、配給はブエナビスタ。118分。


こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。

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人口1,000人の退屈な田舎町アイオワ州エンドーラの街道を、また今年もキャンピング・カーが通り過ぎる季節がやって来た。小さなグローサリー・ストアに勤める24歳のギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、もうすぐ18歳の誕生日を迎える弟のアーニー(レオナルド・ディカプリオ)にせがまれて街道までやって来た。
勤務先の店は、近所に大型スーパーが進出したために閑古鳥が泣いている。それでなくても、さしたる産業もなければ何の刺激もない、ただひたすらに退屈で息苦しい日々が繰り返されるだけのこの町にギルバートは辟易していた。
それでもギルバートには、どうしてもこの町を出て行けぬ理由があった。いや、むしろ縛りつけられている…と言った方がより正確だろうか。



アーニーは重度の知的障害者で、医者からは10歳までもたないかもしれないと言われたが今でも元気に生きている。しかし、彼は行動が読めず目を離すと町の給水塔に登ったりして警察騒ぎを起こしてしまう。




母のボニー(ダーレーン・ケイツ)は、若い頃は町でも有名な美人だったが17年前に夫が自宅地下で首吊り自殺をして以来、自宅に引きこもって過食を続けている。お陰で、今の彼女は動くこともままならぬほどに太り、2階の寝室にすら行けない。




そんな二人を、ギルバートはしっかり者の姉・エイミー(ローラ・ハリントン)、生意気盛りの妹・エレン(メリー・ケイト・シェルバート)と共に面倒見なければならないのだ。
ギルバートにとって、家族や父親が建てたこの家は自分をこの町に繋ぎとめる重い枷だった。



ギルバートは、店の常連で生命保険会社に勤める夫(ケヴィン・タイ)と二人の小さな子供がいるベティ・カーヴァー(メアリー・スティーンバージェン)と不倫関係にある。ギルバートは、彼女に頼まれた品物を家まで配達することにかこつけて情交していたのだが、実はそのことを彼女の夫は薄々気付いている。
そのカーヴァー氏に呼び出されてギルバートはドキマギするが、彼のオフィスを訪れると保険の勧誘をされて拍子抜けする。




キャンピング・カーで祖母と共に気ままな旅をするベッキー(ジュリエット・ルイス)は、車のエンジンが故障してエンドーラの町で立ち往生する。仕方なく、祖母は町で部品を取り寄せようとするが、あいにくの在庫切れでしばらくこの町に足止めされる。
当面の必要物資を揃えるために訪れたグローサリー・ストアで、ベッキーはギルバートと出逢う。
ギルバートは、アーニーと一緒にベッキーのキャンピング・カーまで商品を届ける。それがきっかけとなり、二人の仲は近づいて行く。
そして、そのことはベティを苛立たせた。




ギルバートが目を離した隙に、またしてもアーニーは給水塔に登ってしまう。堪忍袋の緒が切れた警察は彼のことを拘留するが、そのことに腹を立てたボニーは、夫の自殺以来初めて家を出て警察署に怒鳴り込む。




彼女の剣幕に気圧されたのか警察はアーニーを解放するが、ボニーの姿は町行く人の好奇の的になる。まるで化け物でも見るような人々の視線に晒されて、ボニーはいよいよ引きこもってしまう。間近に迫ったアーニーの誕生日パーティにも彼女は出ないと言い張った。
そんなある日、突然ベティの夫が他界。多額の保険金が掛けられていたこともあり、町ではベティに疑惑の目が向けられた。そして、葬儀が終わると彼女は子供たちを連れて町から出て行った。
最後にベティは、「あなたは、ここから出て行かないの?」とギルバートに言った。

どんどん親密さを増して行くギルバートとベッキー。しかし、ギルバートには面倒を見なければならない家族がいる。一方のベッキーは、車の故障が直ればこの町を出て行く。そんな事情から、ギルバートはベッキーとの仲に踏み込むことができない。



色んなことに集中することができず、ギルバートはいくつもの問題を起こしてしまう。ベッキーとのデートを中断して家に戻ったギルバートは、「自分で洗えるな?」と言って裸のアーニーを一人バスタブに残した。
ギルバートが夜遅く帰宅すると、アーニーは冷え切った体のままバスタブで震えていた。この一件で、アーニーは一切風呂に入らなくなってしまう。



アーニーの誕生日パーティを明日に控えた日。アーニーは、エイミーが作ったバースデー・ケーキを壊してしまう。叫び声をあげて頭を抱えるエイミー。頭に来たギルバートは、嫌がるアーニーを風呂場に連れて行くと思わず手を上げてしまう。
弟に手を上げたショックも相俟って、居たたまれなくなったギルバートは家を飛び出した。行き場所のない彼が向かったのは、ベッキーのキャンピング・カー。ベッキーのキャンピング・カーは故障が直り、明日にでも出発することになっていた。
ギルバートがベッキーのところに着くと、何故かそこにはアーニーがいてちょうどエイミーとエレンが彼を連れ帰るところだった。
物陰に隠れているギルバートに気づいたベッキーは、彼を優しく手招きした。そのまま初めて結ばれた二人は、朝まで一緒に過ごす。

帰宅したギルバートを迎えたボニーは、二度と黙って出て行かないで!と言うと、息子を優しく抱き寄せた。
アーニー18歳の誕生日パーティが盛大に行われ、アーニーとギルバートは仲直りした。アーニーから招待されたからとやって来たベッキーを、ギルバートは母親に紹介する。




無事にパーティが終わると、ボニーは2階の寝室に行くと言って立ち上がる。驚く家族を余所に、彼女は危なげな足取りで何とか自分のベッドにたどり着いた。「アーニーを呼んで」と頼まれたギルバートは、階下にアーニーを呼びに行った。アーニーがベッドに行くと、母親は動かなくなっていた。

事切れた母親を前にして、家族は悲嘆に暮れた。このままでは、巨漢のボニーを運び出せない。しかし、クレーン車を手配したのではいい晒し者になってしまう。
「もう笑い者にはさせないぞ…」と呟くと、ギルバートはある決断をした。みんなで家財道具を運び出すと、ギルバートは2階のベッドで眠るボニーを残して、父が建てた家に火を放った。

エイミーは新しい働き口を見つけて、この町を出た。エレンも姉について行った。そして、ボニーが亡くなった一年後。エンドーラの街道をキャンピング・カーが通り過ぎる季節がまたやって来る。
もちろん、今年もギルバートはアーニーと共に街道沿いにいる。そこに、ベッキーのキャンピング・カーが近づいてくる。ベッキーが二人を見つけて車を停めると、ギルバートとアーニーが乗り込んだ。
一年ぶりの再会。もう、ギルバートをこの町に繋ぎとめるものは何もなかった。ベッキーと笑顔を交わすギルバートに、アーニーが尋ねる。「ギルバート、僕らは何処へ?」。
「何処へでも、何処へでも」と答えるギルバートの目は、新しいことが始まるはずの未来を見ていた。

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良くも悪くも、アメリカという広大な国土を持った国でしか作り得ない種類の映画である。作品としては、ラッセ・ハルストレムの資質が良く出ていると思う。
単調で変化に乏しい田舎町、行き場のない閉塞感、家族の呪縛、そして解放…というのは、過去に何度も描かれて来た定番のテーマである。

テーマがテーマだけに物語的な仕掛けや起伏がつけ難いし、上映時間が2時間だから映画的には退屈すれすれの作品である。
しかも、登場人物が押し並べてステロタイプ気味に描かれているから、人間ドラマとしてのダイナミズムにも、正直物足りなさを感じる。
ラスト前に呪縛の象徴だった家を焼き払うところが、本作のハイライトにして映画的カタルシスのピークだろう。

商業的には、1990年のティム・バートン監督『シザーハンズ』が大ヒットしたジョニー・デップありきの企画だったろうし、その意味ではデップは十分にその役目を果たしている。
ギルバートとベッキーのロマンスも、いささか定型的な展開とはいえ手堅くエモーショナルに描かれている。
しかし、本作最大の見所は、何と言っても当時若干19歳のレオナルド・ディカプリオの驚異的な名演である。

言うまでもなく、ディカプリオといえばバズ・ラーマン監督『ロミオ+ジュリエット』(1996)でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞後、ジェイムズ・キャメロン監督の世界的ブロック・バスター作品『タイタニック』(1997)で一躍ワールド・ワイドなセックス・シンボルとなった俳優である。
ここ日本においても、“レオ様”と称されてミーハー人気が爆発したから、いまだに彼のことをアイドル俳優と考える向きも多いのではないか。
そういう人が本作を観れば、如何に自分の認識が間違っていたか、あるいは俳優としてのディカプリオを過小評価していたかを思い知らされることになるだろう。
まぁ、僕もあまり人のことは言えないけれど…。

とかく役者が知的障害者を演じると、どうしても映画的あざとさのようなものがついて回る。ある程度の演技的スキルを持った役者であればある程、どうもそういう傾向に陥るように感じる。
その理由は、あくまでも自分の内なるイメージとしての「障害者」「演じ過ぎる」からではないだろうか?真摯にやろうとすればするほど、方向的に過剰さが付与されてしまうとでも言えばいいか。
ところが、本作におけるアーニー役のディカプリオは、演じているのではなくリアルに知的障害者がスクリーンの中で生きているようにしか見えない。演技的ギミックが皆無なのだ。

ディカプリオは、『ギルバート・グレイプ』のオーディションを受けるにあたって、アーニーの役作りを徹底的に研究して練り上げて行ったのだそうだ。その努力と情熱たるや、ストイックな求道者のようですらある。本当に、腰を抜かすような途轍もない演技である。

『ギルバート・グレイプ』は、映画的クオリティから見ればそれなりの良心作といったレベルだろう。
しかし、レオナルド・ディカプリオ渾身の演技は、アカデミー賞助演男優賞ノミネートも当然の素晴らしさである。とりわけ、役者をやっている方には必見だろう。

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