2009年11月14日公開、小林政広監督『ワカラナイ』。
プロデューサーは小林政広、製作は小林直子、ラインプロデューサーは川瀬準也、脚本は小林政広、撮影監督は伊藤潔、照明は藤井勇、録音は福岡博美、編集は金子尚樹、サウンドデザインは横山達夫、助監督は志茂田達史、制作主任は本多菊雄、制作進行は小林克己、監督助手は橋本綾子・鈴木亮介、撮影助手は竹島千晴、編集助手は目見田健、制作応援は八木沢洋美・許樹人、ネガ編は小田島悦子・下園淳美、タイミングは安斉公一・小荷田康利、タイトルは道川昭、フィルムは報映産業(FUJI FILM)、音響スタジオはUP・LINK、リレコはヨコシネD.I.A.、現像は東映ラボ・テック、カメラ機材はnac、照明機材は日本照明、テーマ曲は「Boy」(詞・曲・歌:いとうたかおby courtesy of MIDI INC.。
製作はモンキータウンプロダクション、配給はティ・ジョイ、宣伝はアップリンク。
宣伝コピーは「じゃあ、僕はどっちにすればよかったんですか?」
2009年/日本/104分/ユーロスタンダード/35mm/DolbySR/
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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川井亮(小林優斗)は、地元・唐桑のローソンでバイトする16歳の高校生。サッカー少年の彼は、両親が離婚して母の伸子(渡辺真起子)と二人暮らしをしていたが、その母が重い病に罹り入院。
働けなくなった母に代わり、亮はバイトでギリギリの生活を続けるが、伸子の入院も長引き今では電気も水道もガスも止められていた。背に腹は代えられず、亮はレジ打ちをごまかしてコンビニからカップ麺とサンドイッチをちょろまかしては、公園の水道でペットボトルに入れた水と一緒に食べ物を掻き込んだ。
そんな亮が安らげる秘密の場所は、浜辺に捨て置かれた小舟。舟に横たわり、父親の住む東京のポケットマップと幼き日の自分と父の写真を見ることが、彼に唯一許された現実逃避の術だった。
しかし、そんな生活が続くはずもなく、不正が店長(田中隆三)にバレてしまい亮はバイトをクビになってしまう。バイト仲間の木澤(柄本時生)がチクッたものと思い込み、亮は木澤を突き飛ばした。
伸子の見舞いに病院を訪れる亮。日に日に衰えて行く母は、搾り出すように今日も病床から別れた夫の恨みつらみを吐き出した。居たたまれなくなった亮は、病院の踊り場で膝を抱えて落涙するしかない。
亮の元に電報が届く。母が亡くなった。呆然とする亮は、病院の職員(清田正浩)から二か月分の未払いを請求される。彼は、バイトをクビになった時渡された最後のバイト代を職員に差し出し、金はこれしかないから少し返して欲しいと言った。
生活保護の申請を市役所に出しても、いまだ支給は決定されていない。職員は、顔をしかめて金を返すと、近日中に必ず払ってもらうと言った。
次に顔を出したのは病院が手配した葬儀社の営業社員(小沢征悦)で、彼もまた最低ランクの葬儀の話を一方的にした。
入院代が40万に葬儀費用が20万。とても亮に払える額ではなかった。困り果てた亮は木澤に相談するが、もちろん友人にだって貸せる額ではない。じゃあ、盗みをやるしかないから協力してくれと亮は頼んだ。
計画決行の夜。木澤を連れて亮がやって来たのは、母親が安置されている病室。顔に布をかけられた伸子の姿を見た木澤は、その場から逃げ出してしまう。
仕方なく、亮は一人で伸子を担ぐと何とかあの小舟のところまで運んだ。そして、しばらく母に添い寝した後、亮は舟ごと伸子の遺体を海に流した。
一度家に戻った亮は、東京の地図と思い出の写真をポケットに入れて東京に向かった。長距離バスを降りると、亮は地図を頼りに住宅街へ。ようやく「野口」という表札の家を見つけると、彼は家の前にある駐車場から家の様子をうかがった。
しばらくすると、父の再婚相手(横山めぐみ)と息子が出て来た。何処かに子供を送ったらしく、彼女は一人で戻って来る。その後も女性は何度か家から出て来たが、ずっと家の前にいる亮を不審に思った彼女は夫に電話連絡した。実は、亮の父親(小林政広)はリストラに遭い、今は職探しの日々を送っている。
妻に呼ばれて戻って来た亮の父親は、亮の前に立つと「誰だ、お前?黙ってると、警察に通報するぞ」と言った。亮は、持っていた父との写真を握り潰すと、父親に投げてその場から駆け出した。
地面に落ちた写真を拾い上げると、父親は広げて見た。
夜の東京を当てもなく彷徨う亮を、突然降り出した雨が打った。傘もささずにずぶ濡れで歩く亮。いつしか雨は上がったが、亮は巡回中の警察官二人に捕まってしまう。
拘留された亮は、警察官(ベンガル)の事情聴取を受ける。病院での一件を木澤は地元の警察に報告していた。
死体を持ち出すのは犯罪だと言われ、亮は「病院代とか葬式代とか払わなくても犯罪でしょ?じゃあ、僕はどっちにしたらよかったんですか?どっちにしたって犯罪じゃないか」。
拘留された亮は、警察官(ベンガル)の事情聴取を受ける。病院での一件を木澤は地元の警察に報告していた。
死体を持ち出すのは犯罪だと言われ、亮は「病院代とか葬式代とか払わなくても犯罪でしょ?じゃあ、僕はどっちにしたらよかったんですか?どっちにしたって犯罪じゃないか」。
警察官がちょっと席を外した隙に、亮は脱走。彼は、もう一度野口家の前にやって来る。家から出て来た父親は、道に立っている亮に気づく。しばし、見つめ合う父と子。
亮は、鼻をすすりながら父親の元に駆け寄ると、そのまま抱きついた。
唐桑に戻った亮は、東京のポケットマップと写真を入れた木箱を抱えて、坂道を歩いて行くのだった…。
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映画のエンディングに、「父と、アントワーヌ・ドワネルの思い出に」というテロップが出る。
2008年の1月に小林は父親を喪った。小林には、前妻との間に二人の息子がいる。父親の通夜には二人の息子も参列したのだが、三年ぶりに会った息子を見て、小林はほんの一瞬誰だか分からなかったのだという。
そのことが、本作を製作する大きなきっかけの一つになったそうである。
ちなみに、アントワーヌ・ドワネルは言うまでもなく小林が敬愛するフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』等に登場する人物の名前である。
本作は、『バッシング』『愛の予感』に続くドキュメンタリー手法を用いた作品である。三作に共通して言えるのは、弱者(マイノリティ)の側に立った苛烈なリアリズム映画であるということだろう。
とにかく、登場人物も科白も極端に抑えられた映画は、見ている者にまで104分間一切途切れぬ息苦しさを強いる。
万力で絞め上げるが如き人生の過酷、その中で必死に出口を探り、何とか自分に繋がる細い絆を手繰り寄せようともがく亮の姿は、とりわけ今の時代には共感する方も多いのではないか?
それは、決して幸福なことではないのだけれど。
映画にリアリティを付与するため、小林はあまり演技経験のない新人の小林優斗をキャスティングして、あえて科白も聞き取りづらくしている。
さらには、現場で彼を亮と同様の環境に追い込む形で撮影を勧めたそうである。役者を追い込むという手法は、『春との旅』で徳永えりにも用いられることとなる。
暗い映像、いつでも同じ赤いTシャツにジーンズ、伸びて行く髪、顔色の悪い表情に落ちくぼんだ目。スクリーンに映し出される小林優斗は、まさしく亮という人間とシンクロする。
そして、彼同様あるいはそれ以上の凄味を感じさせるのが、伸子役の渡辺真起子である。亮と伸子のシーンは、朽ち果てた家の中でカップ麺を掻き込みパンにかぶりつく亮のシーンに勝るとも劣らぬ“痛み”を観る者に与える。
また、亮の父親も失業中という設定には、小林の容赦なさを感じて唸ってしまう。
そんなタイトロープの如き映画の中にあって、僕が唯一の傷と考えるのが警察官とのやり取りのである。コンビニの店長、病院の職員、葬儀社の社員もそれぞれに悪意的な大人として(あるいは、社会的な非情として)描かれてはいるが、ベンガル演じる警察官についてだけは、悪意の発露に演出的なあざとさと過剰を感じてしまう。
とりわけ、警察官が自分の娘の誕生日パーティーに遅れるからと電話をかけに行く場面にそれは顕著だろう。
このシーンだけは、もう少し何とかならなかったのか…と思う。残念である。
この作品がいいのは、亮が一度は拒否された父親の元に戻って抱きつくことである。人はどんなに苛烈な状況でも、やはり人との繋がりなくしては生きていけない。
幼少期から思春期にかけての愛情や絆の有無は、その人のその後の人生において決定的な(そして、ある場合には致命的・悲劇的な)影響を及ぼす。
その意味でも、この映画は亮が絆の糸口を繰り寄せたところで終わるべきなのである。