2014年12月8日、下北沢ザ・スズナリで城山羊の会『トロワグロ Trois Grotesques』を観た。
作・演出は山内ケンジ、舞台監督は神永結花・森下紀彦、照明は佐藤啓・溝口由利子、音響は藤平美保子、舞台美術は杉山至、衣裳は加藤和恵・平野里子、演出助手は岡部たかし、宣伝美術は螢光TOKYO+DESIGN BOY、イラストはコーロキキョーコ、撮影は手代木梓・ムーチョ村松(トーキョースタイル)、制作は平野里子・渡邉美保・山村麻由美(E-Pin企画)、制作プロデューサーは城島和加乃(E-Pin企画)。製作は城山羊の会。
協賛はギークピクチュアズ、N.NOBUKO。
協力は吉住モータース、大人計画、豪勢堂 Glove、クリオネ、ダックスープ、株式会社アミューズ、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン。
ちなみに、サブタイトルの「Trois Grotesques」とは三つの奇怪なものという意味である。
本公演で、城山羊の会は10周年を迎えた。城山羊の会の「城」は、制作プロデューサーの城島和加乃から取ったものだそうだ。
添島宗之専務(岩谷健司)の瀟洒な邸宅では、賑やかなパーティが催されている。その会の喧騒から少し離れた庭に立っている斉藤はる子(平岩紙:大人計画)の姿に見とれる田ノ浦(師岡広明)。トヨタ勤務の田ノ浦は、遅れて来たためパーティに今ひとつ溶け込めていない。
はる子と入れ替わりにやって来た専務夫人の和美(石橋けい)は、品定めするように田ノ浦を見ると、はる子のことをどう思うかと根掘り葉掘り聞いて来た。和美のツッコミに、分かりやすく動揺する田ノ浦。
今度は、斉藤雅人(岡部たかし)と斉藤太郎(古屋隆太)がやって来る。二人は、赤の他人で、雅人と田ノ浦は一度パーティで会っているのだが、当時の雅人は90キロを超す巨体であったためすぐには分からなかった。現在の雅人は胃を全摘したため、見違えるように痩せている。当然本調子ではなく、雅人は酒を控えていた。
一方の太郎は、デザイナーではる子の夫。彼は、専務への営業目的でこのパーティに参加していた。
噛み合ってるのか噛み合ってないのか、微妙に相手を探りながら会話を続ける三人の男。そこに、はる子と添島夫妻が加わって会話はますますおかしな方向へと向かって行く。
どうやら添島専務もはる子のことをよく思っているらしく、彼は川端康成の短篇小説『片腕』を引用しながら饒舌に話した。それとは対照的に、和美ははる子に対抗心があるのか盛んに自分と比較して嫌味なくらいにはる子を持ち上げた。自分とはる子の二の腕を比較して、「わたしの二の腕はお肉がプルプルしてるから」と言いつつ、男性陣に意見を求めたり、果ては田ノ浦がはる子を気に入ってると吹聴し出す始末。
居心地悪さを感じたはる子は、「いやいや、自分はそんな…」と否定するのだが、いちいち田ノ浦がはる子への賛辞にその通りだと大きく頷くため話はまとまらない。そのうち、場には不穏な空気が漂い出す。
と、そこに添島夫妻の息子・照男(橋本淳)が帰って来ると、「あれ?はるさん。何でここに…」とはる子に話しかけた。これには、周りの方がびっくり。聞けば、はる子は照男が通院していた歯科で衛生士をしているのだそうだ。しかも、二人は合コンまでしており、そのことをはる子は太郎に言っていなかった。
話しはますますややこしい展開を見せ、おまけに雅人の体調が悪くなって来て…。
前作『身の引きしまる思い』は、僕が観た城山羊の会公演の中でベストと断言できる傑作であった。それから一年、待ちに待った新作である。
前作のレビューで、僕は「山内ケンジは、新たなる演劇的地平へと旅立つチケットを手にした」と書いたのだが、本作は次なる展開への助走的な意欲作と言っていい舞台であった。
前作のような有無を言わせぬ隙のなさこそないものの、山内の劇作的挑戦は明白だ。それは、彼が得意とする不条理的なツイストを排して、一幕物の会話劇として90分押し切るストーリーテリングに徹したところである。
舞台の幕が開いて、科白がないまましばらく物語は進行する。平岩紙を見つめる師岡広明の様子を、三人目に登場する石橋けいが無言でジロジロ見る。その三人の構図だけでも、すでに可笑し味がこみ上げて来る。その時点で、すでに我々は城山羊の会の世界に捕らえられてしまっている訳だ。
ストーリー紹介でも書いたように、登場人物たちは本心を中途半端に隠そうとしながら、それぞれが頓珍漢な自己主張を繰り返す。そのズレと、会話の行間に漂うエゴと欲望の匂いが我々を黒い笑いへと誘う。そう、本作は城山羊流にソフィスティケートされた会話劇なのである。
その中にあって、唐突に挿入されるウィルソン・ピケット1966年のヒット曲「ムスタング・サリー」(日本では、ブルース・ブラザーズのカバーでもお馴染み「恋人天国」のB面)でのダンス・シーンは、城山羊の会では珍しい演出である。しかも、平岩紙が披露するバブル期ディスコ風のキレキレなダンスが凄い。
それを指して、「今時、こんなに踊りまくる人見たことがないわ」と言う石橋けいのツッコミも秀逸である。
照男が登場して物語構造をぐにゃりと歪ませる展開は山内ケンジの面目躍如だが、僕にとって唯一の不満は、微妙に張られた伏線を回収するラスト前のホモネタである。この手のブラックさも山内芝居ではお馴染みの毒だが、今回に関してはストレートな欲望構造を貫き通したまま終幕まで走り切って欲しかったという思いを拭いきれない。
その意味でも、やはり本作は山内の試行錯誤が見て取れる過渡期的な作品なのだろう。
役者陣について触れておく。
とにかく、山内の劇作は間とテンポが生命線の極めて難度が高いものである。特に、今回は会話劇で押し通すから役者の緊張感も相当なものだろうと推察する。そして、七人の役者たちは見事に山内的演劇空間を構築していたと思う。実に見応えのある素晴らしさだった。
その中でも、石橋けいと平岩紙のアクロバティックなまでのバトルに目が釘付けとなった。
今では、まさしく“城山羊の会”の顔と言える石橋けいの不機嫌さとフェロモンを撒き散らすような佇まい、それだけですでに独特な演劇的空気感を纏うのである。
本作は、次なる城山羊の会の飛翔を予感させる舞台であった。
この助走からどんな地平へと飛んで行くのか、次回の公演が今から待ち遠しい。
協賛はギークピクチュアズ、N.NOBUKO。
協力は吉住モータース、大人計画、豪勢堂 Glove、クリオネ、ダックスープ、株式会社アミューズ、山北舞台音響、田中陽、TTA、黒田秀樹事務所、シバイエンジン。
ちなみに、サブタイトルの「Trois Grotesques」とは三つの奇怪なものという意味である。
本公演で、城山羊の会は10周年を迎えた。城山羊の会の「城」は、制作プロデューサーの城島和加乃から取ったものだそうだ。
添島宗之専務(岩谷健司)の瀟洒な邸宅では、賑やかなパーティが催されている。その会の喧騒から少し離れた庭に立っている斉藤はる子(平岩紙:大人計画)の姿に見とれる田ノ浦(師岡広明)。トヨタ勤務の田ノ浦は、遅れて来たためパーティに今ひとつ溶け込めていない。
はる子と入れ替わりにやって来た専務夫人の和美(石橋けい)は、品定めするように田ノ浦を見ると、はる子のことをどう思うかと根掘り葉掘り聞いて来た。和美のツッコミに、分かりやすく動揺する田ノ浦。
今度は、斉藤雅人(岡部たかし)と斉藤太郎(古屋隆太)がやって来る。二人は、赤の他人で、雅人と田ノ浦は一度パーティで会っているのだが、当時の雅人は90キロを超す巨体であったためすぐには分からなかった。現在の雅人は胃を全摘したため、見違えるように痩せている。当然本調子ではなく、雅人は酒を控えていた。
一方の太郎は、デザイナーではる子の夫。彼は、専務への営業目的でこのパーティに参加していた。
噛み合ってるのか噛み合ってないのか、微妙に相手を探りながら会話を続ける三人の男。そこに、はる子と添島夫妻が加わって会話はますますおかしな方向へと向かって行く。
どうやら添島専務もはる子のことをよく思っているらしく、彼は川端康成の短篇小説『片腕』を引用しながら饒舌に話した。それとは対照的に、和美ははる子に対抗心があるのか盛んに自分と比較して嫌味なくらいにはる子を持ち上げた。自分とはる子の二の腕を比較して、「わたしの二の腕はお肉がプルプルしてるから」と言いつつ、男性陣に意見を求めたり、果ては田ノ浦がはる子を気に入ってると吹聴し出す始末。
居心地悪さを感じたはる子は、「いやいや、自分はそんな…」と否定するのだが、いちいち田ノ浦がはる子への賛辞にその通りだと大きく頷くため話はまとまらない。そのうち、場には不穏な空気が漂い出す。
と、そこに添島夫妻の息子・照男(橋本淳)が帰って来ると、「あれ?はるさん。何でここに…」とはる子に話しかけた。これには、周りの方がびっくり。聞けば、はる子は照男が通院していた歯科で衛生士をしているのだそうだ。しかも、二人は合コンまでしており、そのことをはる子は太郎に言っていなかった。
話しはますますややこしい展開を見せ、おまけに雅人の体調が悪くなって来て…。
前作『身の引きしまる思い』は、僕が観た城山羊の会公演の中でベストと断言できる傑作であった。それから一年、待ちに待った新作である。
前作のレビューで、僕は「山内ケンジは、新たなる演劇的地平へと旅立つチケットを手にした」と書いたのだが、本作は次なる展開への助走的な意欲作と言っていい舞台であった。
前作のような有無を言わせぬ隙のなさこそないものの、山内の劇作的挑戦は明白だ。それは、彼が得意とする不条理的なツイストを排して、一幕物の会話劇として90分押し切るストーリーテリングに徹したところである。
舞台の幕が開いて、科白がないまましばらく物語は進行する。平岩紙を見つめる師岡広明の様子を、三人目に登場する石橋けいが無言でジロジロ見る。その三人の構図だけでも、すでに可笑し味がこみ上げて来る。その時点で、すでに我々は城山羊の会の世界に捕らえられてしまっている訳だ。
ストーリー紹介でも書いたように、登場人物たちは本心を中途半端に隠そうとしながら、それぞれが頓珍漢な自己主張を繰り返す。そのズレと、会話の行間に漂うエゴと欲望の匂いが我々を黒い笑いへと誘う。そう、本作は城山羊流にソフィスティケートされた会話劇なのである。
その中にあって、唐突に挿入されるウィルソン・ピケット1966年のヒット曲「ムスタング・サリー」(日本では、ブルース・ブラザーズのカバーでもお馴染み「恋人天国」のB面)でのダンス・シーンは、城山羊の会では珍しい演出である。しかも、平岩紙が披露するバブル期ディスコ風のキレキレなダンスが凄い。
それを指して、「今時、こんなに踊りまくる人見たことがないわ」と言う石橋けいのツッコミも秀逸である。
照男が登場して物語構造をぐにゃりと歪ませる展開は山内ケンジの面目躍如だが、僕にとって唯一の不満は、微妙に張られた伏線を回収するラスト前のホモネタである。この手のブラックさも山内芝居ではお馴染みの毒だが、今回に関してはストレートな欲望構造を貫き通したまま終幕まで走り切って欲しかったという思いを拭いきれない。
その意味でも、やはり本作は山内の試行錯誤が見て取れる過渡期的な作品なのだろう。
役者陣について触れておく。
とにかく、山内の劇作は間とテンポが生命線の極めて難度が高いものである。特に、今回は会話劇で押し通すから役者の緊張感も相当なものだろうと推察する。そして、七人の役者たちは見事に山内的演劇空間を構築していたと思う。実に見応えのある素晴らしさだった。
その中でも、石橋けいと平岩紙のアクロバティックなまでのバトルに目が釘付けとなった。
今では、まさしく“城山羊の会”の顔と言える石橋けいの不機嫌さとフェロモンを撒き散らすような佇まい、それだけですでに独特な演劇的空気感を纏うのである。
本作は、次なる城山羊の会の飛翔を予感させる舞台であった。
この助走からどんな地平へと飛んで行くのか、次回の公演が今から待ち遠しい。