1995年11月28日公開の福間健二監督『急にたどりついてしまう』。
製作は本多昇・禰屋順一・福間健二、制作はサトウトシキ・瀬々敬久、脚本は福間健二、撮影は小西泰正、音楽はTHE WAR BABYS・d-ga-show、同期同時録音は浅沼幸一、照明は櫻井雅章、編集は金子尚樹、監督補は上野俊哉、助監督は松岡邦彦・女池充、スクリプターは田中小鈴、スチールは秦岳志。製作・配給はタフ・ママ、配給協力はビターズ・エンド。
1969年、東京都立大在学中に16mmの自主製作映画『青春伝説序論』を撮っているものの、福間健二にとっては本作が本格的な第一回長編監督作品である。
こんな物語である。ネタバレするので、お読みになる方は留意されたい。
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1.この町で、夢のかたすみで
立花信次(伊藤猛)が国立市にやって来て、二年が経った。一つの土地に定着することなく、趣味も歩くことだという信次は、現在ソーセージ屋の工場で働いている。同僚は、生真面目な田村(田中要次)と何をやっても不器用な正夫(今泉浩一)。田村とは馬が合わないが、信次は何故か正夫には慕われていた。
信次のアパートには素性の知れぬ衆木(小林節彦)が居候しているが、ある日信次が仕事から帰ると見知らぬ若い女が一人でいた。中山リサ(松井友子)は、衆木と一緒にこの町を出る約束をしているのだと言う。信次は、リサと他愛ない言葉遊びに興じた。
衆木は町から出て行ったが、リサは町に残った。信次は、居酒屋で偶然リサと再会。信次とリサは、微妙な距離間での交流を始める。
リサの母親は新興宗教にのめり込みイギリスに行ってしまったため、現在彼女は自宅で一人暮らししていた。
2.目をさましてからも
リサの幼馴染で、かつてパンク・バンド立川ピストルズをやっていたテルオ(北風太陽)が町に戻って来た。テルオもメンバーのキー坊(仙波豊喜)とカッチン(川瀬陽太)もいまだにパンク時代の気性が抜け切らず、人間的に問題を抱えた大人になっていた。
テルオ達がリサに悪戯しようとしていたところに偶然遭遇した信次は、彼女を助けてやった。リサはテルオへの失望と混乱で冷静さを失った。その夜、信次はリサと会ったが、彼女は信次のアパートと自分の家とを行ったり来たりする。信次は、そんなリサの行動に辛抱強く付き合い、結果的にリサの家で初めて関係を持った。一方のテルオは、リサへの想いから信次の存在に強い苛立ちを感じていた。
一度は親密な関係を築いたものの、リサの情緒不安定から信次とリサはすれ違い、二人の仲もギクシャクし始める。
3.理由はそれだけではないが
またしても正夫がミスをしでかし、田村はきつく叱責した。元来、田村の高圧的な態度が気に喰わなかった信次は、田村と言い合った末に工場を飛び出してしまう。
一人信次が行きつけの居酒屋で飲んでいると、テルオがやって来て彼のことを挑発した。面倒に関わる気などない信次は、席を立つ。「逃げるのかよ」とさらに挑発して来るテルオの言葉を無視して、信次は店を出て行った。その態度に、テルオはさらなる怒りを覚えた。
正夫の心配をよそに、信次は職場に顔を出す気も起こらず数日間を無為に歩き回って過ごした。すると、偶然にも父の健作(岡田潔)と再会。健作は相も変らぬ自由人であったが、信次は自分が間違いなくこの男の血を引いていることを実感した。
孤児として育った正夫には姉がいて、しかも今この町に来ていることが分かった。正夫の姉・洋子(室井野洋子)は舞踏家で、国立で舞踏の公演をしていた。信次は、正夫と洋子の再会に立ち会った。
その頃、リサの家には母・秀子(船場牡丹)が帰国しており、秀子はリサの生活を自分の信仰する宗教の教えを引用しながら諌めた。母親にも彼女の信仰する宗教にも背を向けるリサは、反発する。
4.急にたどりついてしまう
例によって信次が夜の町を歩いていると、リサとバッタリ会った。すれ違っていた二人は、ごく自然の成り行きで唇を合わせた。信次は、招かれるままにリサの家を訪ね、そこで秀子とも対面することとなった。ところが、その夜に秀子は倒れてしまう。そのまま秀子は入院してしまい、リサは働かざるを得なくなった。
テルオの行動について行けなくなり、キー坊とカッチンは彼の元を去った。テルオは、たまたま見かけた男(細谷隆広)を強請ろうとして揉み合いになり、反射的に刺してしまう。
警察から逃げ回っていたテルオは、この町を出て行く前にリサに会いに来る。リサは、信次を連れて来た。彼女は自首を勧めるが、テルオはその言葉を無視して車で逃げ去った。
信次は、また工場での勤務に戻った。そろそろこの町も潮時かと思っていたが、彼の仕事ぶりを田村も秘かに認めていたようだった。
信次もリサも国立の町にとどまり、次なる人生と新しい季節の予感に耳を澄ましていた。
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最初期に脚本を書いた若松孝二監督『現代性犯罪暗黒編 ある通り魔の告白』(1969)から、一貫して福間健二の映画には“言葉”への強いこだわりを感じる。表現者としていくつもの顔を持つ福間であるが、彼の基本的な作家的資質は詩人であるというのが僕の認識で、その資質は本作にも如実に表れている。
ただ、近年の監督作『わたしたちの夏』(2011)や『あるいは佐々木ユキ』(2013)がより“映像で詩を語る”印象を受けるのに対して、『急にたどりついてしまう』は正当的(あくまでも福間作品としては、ということだが)な“詩情を感じさせる青春映画”といった佇まいである。
そして、映画的な若々しい取りとめのなさこそが本作の大きな魅力である。
本作公開と同年の2月10日に公開され、高い評価を受けたサトウトシキ監督のピンク映画『悶絶本番 ぶちこむ』(原題『Like a Rolling Stone』)でも福間は脚本を書いているのだが、この二作は一卵性双生児のような性質の作品である。それは、サトウ組の脚本を立花信次名義にしているところからも明白だろう。
『悶絶本番 ぶちこむ』の脚本はミケランジェロ・アントニオーニ監督『さすらい』にインスパイアされたところがあるというのは福間本人の弁だが、『Like a Rolling Stone』という原題からも明らかなように、主人公の池山修司(本多菊雄)は一つ所にとどまることのできない人物であった。
そして、『急にたどりついてしまう』の立花信次もまた、町から町へと根なし草のように移ろって行く男である。
映画全体のトーンが散文的なのも福間作品の特徴の一つだが、本作には他の監督作品よりもドラマ的な核がしっかりと備わっている。それは、当時の福間の年齢と、彼を取り巻く環境、そして「若い流離」というテーマが有機的に働いたからだと推察する。
また、福間健二の作家的テーマを具現化するのに、伊藤猛という強靭な個性をキャスティングしたことも大きく作用しているだろう。
そう、この作品を画の力という観点で見れば間違いなく伊藤猛のための映画である。国立の町を、長身の伊藤が背中を屈めながら、一人彷徨い歩く。その中で邂逅があり、恋愛があり、別離があり、季節の移ろいがある。ただ、それだけなのだが、スクリーンに映し出される一瞬一瞬が、とても映画的なのだ。
松井友子のボーイッシュなルックス、グラマラスとは程遠いが生活者としてのリアリティが剥き出しの姿態、不思議な存在感もなかなかに魅力的である。
本作は、国映製作・新東宝映画配給のピンク映画と地続きのような印象の作品でもある。キャスト・スタッフを見れば、それは一目瞭然だろう。撮影を担当したのが小西泰正(『悶絶本番 ぶちこむ』の撮影も彼)というのも大きい。
居酒屋の客として福間本人もチラッと姿を見せる。
『悶絶本番 ぶちこむ』と『急にたどりついてしまう』の決定的な違い、それは池山修司が最後まで流離い続けるのに対して、立花信次がとどまることを選択する点である。
流離っていたはずの信次は、タイトルの通り急にたどりついてしまうのである。そこにこそ、福間の作家的な“次”があったのだろう。
本作についての不満点も挙げておく。
時として福間は意識的に古めかしい設定をすることがあるのだが、本作におけるテルオの人物造形に関してはいささか定型的な古めかしさが否定できないだろう。テルオという男の行動に、もう少し現代的なサムシングがあればな…と思うのだ。それだけが、残念である。
本作は、詩的青春映画の良作。
これから福間作品を観る方には、真っ先にお勧めしたい一本である。
なお、『急にたどりついてしまう』は、元々1988年にミッドナイト・プレスから出版された彼の詩集のタイトルである。