二階堂卓也というライターは、1947年生まれでいわゆるB級、C級映画を得意ジャンルとして書いて来た人である。この本は、表題のとおりピンク映画前史からピンク映画の隆盛期をメインに、東映ナウポルノや東映ニューポルノまでをフォローした雑文集である。一応は、ここ数年のピンク映画状況にも触れている。
真に全盛期だった1960年代から70年代初頭にかけてのピンク映画を巡る状況に言及した書物がそもそも少ないし、とりわけ泡沫的なルーティン作品に至っては、フィルムのみならず観た人の記憶からもジャンクされてしまっている作品が大半だろう。
また、ピンク映画というのはとかく変名や別名義、あるいは連名名義が数多あるジャンルだから、スタッフにしても役者にしても活動の全貌がつかみにくい。映画年鑑のような記録からもこぼれ落ちていたり、正確な表記がされていないものも少なくない。制作プロダクションだって、現れては消え、離合集散を繰り返し…といった感じである。
この本には「ピンク映画史」と冠されてはいるが、ハッキリ言って歴史的な視点でピンク映画を学術的に検証したものではない。
60年代にピンク映画を成人映画館の椅子に沈みこんでひたすら地味に偏愛したファンの個人的思い出とマニアックな知識を、特に整理するでもなく客観的に分析するでもなく、ひたすらダラダラと書きなぐったような代物である。
実際に、自分の手帳を読み返しつつ記憶を辿りつつ、特にシビアに裏付けを取るでもなく無責任に書き散らかしているという印象なのだ。
僕もかなりピンク映画を愛しているけれど、60年代から70年代前半のピンク映画は一部の有名な監督の作品でもない限り、なかなか検証することが難しい。その意味では、筆者の雑食的にため込んだ記憶で語られる当時のピンク映画事情はなかなかに興味深かった。
ただ、率直に言ってこの人の物書きとしての筆力はあまりにもレベルが低過ぎて、何度も読み進めるのを挫折しそうになってしまった。主語がはっきりしなかったり、話題があっちこっちに飛んでしまうから、誰について書いているのかが分からなくなることもしばしばだし、そもそも文意がつかめないようなお粗末な文章だって散見される。
段落ごとに付けられた注釈も、必要とは思えない知識を闇雲に披露しているだけ的なトリビアが散りばめられている。
そもそも用いる言葉にセンスの欠片もないし、勘違いしたおっさんの笑えないおやじギャグを聞かされているような痛さがある。
また、性格的にいい加減なのか、「間違いや勘違いがあったら、ごめんなさい」的いい加減さが常につきまとうのもどうかと思う。
とにかく、私情オンリーで書きなぐっているから、この人が好意を抱いていない人物や作品に対しては無駄に辛辣なのもいい気持ちはしない。
若松プロ作品のことをピンク映画ではないと断じるのもいささか傲慢なように思うが、一番ひどいのは鈴木いずみに関する記述である。この人についての悪意ある記述には、正直うんざりを通り越して呆れるしかなかった。
比較的最近のピンク映画事情への言及もあるのだが、すでにこの人自身が今のピンク映画をちゃんと観ていないから、まったく頓珍漢で浅薄に過ぎるお粗末な記述になっている。
池島ゆたかのことを「元役者」と書いたり、佐藤吏監督『奴隷』(2007)について主人公の平沢里菜子が「これが私のつまらないドラマです」という科白があるがその通りで苦笑したと揶揄しているのだが、劇中で彼女が言った科白は「これが、つまらないあたしのどうでもいい物語です」である。こういう部分を適当に書いてしまう姿勢には、そもそものライター的資質を疑いたくなる訳だ。
ピンク映画史というには、あまりにもバランスが悪過ぎるのだ。
ピンク映画史などと大上段に振りかざすことなく、一ファンの偏ったピンク映画讃歌的にまとめた方が、よほど潔いというものである。
当時のピンク映画というのは、言ってみればマスターベーションのお供みたいな役割を担っていた訳だけれど、だからと書き手のマスターベーションに付き合わされるのは個人的にはご免こうむりたいところである。
余談ではあるが、僕はこの人の著作で大蔵貢について書いた『新東宝・大蔵 怪奇とエロスの映画史』にもまったく同様の感想を持った。
興味深い記述も多々あるだけに、残念至極である。