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スティーヴ・ストレンジ、シーナ、1980年代それぞれのロック

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2015年2月12日に心臓発作でヴィサージのスティーヴ・ストレンジが亡くなり、14日には子宮頸癌でシーナ&ザ・ロケッツのシーナが亡くなった。55歳と61歳。あまりにも早すぎる死である。
僕は、基本姿勢としてあまり個人の死については書かないことにしているが、今回はちょっと思うところがあって書くことにする。それに、スティーヴ・ストレンジとシーナの死を合わせて書く人もあまりいないような気がするから。



1970年代後半から1980年代前半に青春のひとときを過ごしたある種の音楽好きにとって、ヴィサージシーナ&ザ・ロケッツの存在は、ひとつの線上に位置するミュージシャンであったはずだ。その線とは、言うまでもなくYellow Magic Orchestraである。



1978年11月25日にアルファレコードからデビュー・アルバムをリリースしたYMOは、翌年5月30日にジャケットとミックスを変えてアメリカでA&M傘下のホライゾンから同アルバムをリリース。そのプロモーションも兼ねて、チューブスの前座として初のアメリカ公演を行い、評判を呼んだ。
満を持して、同年9月25日にセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』をリリースした彼らは、ワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」に出る。その模様を記録したライヴ盤『パブリック・プレッシャー』(契約の関係で、渡辺香津美のギターはカット)が、1980年2月21日にリリースされる。この時のツアーでは、シーナ&ザ・ロケッツの「ラジオ・ジャンク」も演奏されている。
海外での評判が逆輸入される形となり、『パブリック・プレッシャー』は1980年3月20日付オリコン・チャートで初の第1位に輝く。その余波で、セカンド・アルバムも1980年7月14~28日付オリコン・チャートで第1位に浮上する。



セックス・ピストルズの洗礼を受けたスティーヴ・ストレンジは、ロンドンのナイトクラブを開店してホストやDJとして活動を始める。そして、1978年にヴィサージを結成。彼は、いち早く自分の店でYMOのレコードをプレイしている。
80年代初頭にデュラン・デュラン、ジョン・フォックス脱退後のミッジ・ルーロ率いるウルトラヴォックス、ソフト・セル、ヘヴン17との分裂後エレクトリック・アバとも言われたヒューマン・リーグ、スパンダー・バレエ、カルチャー・クラブ等々で隆盛を誇るニュー・ロマンティックの先駆けとなったのが、ヴィサージである。
今の感覚で言うなら、アンニュイ・ユーロピアンなヴィジュアル系シンセ・ポップ・バンドといったところだろう。




ヴィサージは、1981年のデビュー・アルバムを発表。収録曲「モスクワの月」は当時の日本ではYMOにそっくりと言われた。その後、2枚のアルバムをリリースしてヴィサージは解散。続いて結成したバンド、ストレンジ・クルーズでは商業的成功を得られなかった。



ちなみに、彼は1982年にTDKヴィデオ・テープのCMに出演している。



2000年代に入って、スティーヴ・ストレンジは音楽活動を再開したが、前述のとおり2015年2月12日に他界した。

要するに、スティーヴ・ストレンジという人はYMOから影響を受けて、その後日本でも流行したニュー・ロマンティックへの橋渡し役を果たしたキー・パーソン的ミュージシャンだった訳だ。
なお、シンセ・ポップ名盤のファースト・アルバムはいまだリマスターがされておらず、ここはイギリスのCHERRY POPからの再発をお願いしたいところである。

シーナ&ザ・ロケッツをロック史的に位置付けるとすれば、やはりギターの鮎川誠が福岡時代にやっていためんたいロックの礎サンハウスから始めなければならないだろう。石橋凌のA.R.B.も大江慎也のルースターズも陣内孝則のザ・ロッカーズもTHE MODSもめんたいロック第二世代である。



サンハウス解散後、上京した鮎川とシーナの夫婦が結成したのが、シーナ&ザ・ロケッツである。彼らは、1978年10月25日にデビュー・シングル「涙のハイウェイ/恋はノーノーノー」、1979年3月25日にはファースト・アルバム『#1』をエルボンレコードからリリースした。



シーナ&ザ・ロケッツの代表曲といえば「レモンティー」(『#1』収録)を挙げる人も多いと思うが、僕にとって「レモンティー」はどうしてもサンハウスの代表曲というイメージが強い。性的メタファーを多用した歌詞は、やはり菊こと柴山俊之の世界観そのものだからである。
思うに、当時はあまり流通することのなかった『#1』の収録曲「レモンティー」が彼らの代表曲として受け止められた背景には、YMO人気と連動したスネークマン・ショーのファースト・アルバム(通称『急いで口で吸え』)に「レモンティー」が収録されたことが大きいのではないかと推測する。



ところで、この「レモンティー」がジェフ・ベック在籍時のヤードバーズの代表曲「トレイン・ケプト・ア・ローリン」に酷似しているのは有名な話だが、ヤードバーズの曲自体にも様々なルーツ曲が存在する。このあたりは、誠にややこしい。



で、僕にとってリアル・タイムでのシーナ&ザ・ロケッツといえば、どうしたってアルファレコード時代になってしまう。
1979年10月25日発売のセカンド・アルバム『真空パック』は、メンバーがサランラップに包まれたインパクトのあるジャケット、細野晴臣のプロデュース、YMOも参加した音作りが印象的な名盤である。CMタイアップ曲でもある「ユー・メイ・ドリーム」のオリジナリティ溢れる新鮮な曲調は、「ベイビー・ベイビー」「ピンナップ・ベイビー・ブルース」と並んで今でもずっと僕のフェイヴァリットである。



なお、シーナには1982年12月26日にアルファレコードからリリースした細野プロデュースのソロ・アルバム『いつだってビューティフル』もある。



また、YMOの国内ツアー「テクノポリス 2000-20」にはサポート・ギタリストとして鮎川も参加している。

ちなみに、1984年7月22日に西武球場で行われた「オールナイトニッポン・スーパー・フェス」(メイン・アクトはRCサクセション)を僕は観ているのだが、この時はシーナ抜きのザ・ロケッツとして彼らは出演した。

僕は、スティーヴ・ストレンジにもシーナ&ザ・ロケッツにもYMO経由で巡り合ったのだけれど、一番どっぷり音楽に浸かっていた時期に聴き込んだバンドだから、二人が亡くなったという事実を前に、かなりの喪失感を味わっている。そこで、どうしても何か書かずにはいられなかったのだ。
そんないささかセンチメンタルな心情で、この文章は書かれている。

二人のご冥福を祈る。

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